十八世紀末、フランス革命の前後に、ドイツではロルフ・エンゲルジング謂ふ所の集中型讀書(intensive reading 精讀)から擴散型(extensive 多讀)への「讀書革命」の最中であった。この竝行したもうひとつの革命は、無論、他の地域にもその後の時代にも見られた近代的現象である。
讀書(者)革命 Lese(r)revolution については、生憎とエンゲルジングの邦譯書『文盲と読書の社会史』(中川勇治譯、思索社、一九八五年三月)では讀めない。この本は「序説」末に斷ってある通り、「主として読書の量を論じている」ばかりなので。これと一對を成し「読書の質を問題にした」といふ『近代讀書史の諸時期 Die Perioden der Lesergeschichte in der Neuzeit』(1969)を、または邦譯書原著に續いて翌年出た『讀者としての市民――ドイツの讀者史一五〇〇〜一八〇〇 Der Bürger als Leser : Lesergeschichte in Deutschland 1500-1800』(1974)を、譯出してくれたら面白かったらうに。語學力無きを如何せん。仕方無いので、邦文の書物史にてあちこち言及される所から察してもらひたい。
ロジェ・シャルチエ編『書物から読書へ』(みすず書房、一九九二年五月)を繙くと、讀書革命説はシャルチエの標題論文「書物から読書へ」中「読書の諸相」の節に述べられてゐる(水林章譯、101ページ以下)。手頃な要約は、ロバート・ダーントン「ルソーを読む――十八世紀の「平均的」読者像」(水林章譯、『書物から読書へ』232ページ)にも見える――もっとも、この假説に反例を突きつけるために引合ひにしてゐるのだが。
一五〇〇年から一七五〇年の西欧における読書の形態は、集中型であった。読む本の数は非常に少なく(聖書、数冊の祈禱書、暦書、青表紙本など)、それを繰り返し読むというものである。このような読書は対象となる本の数が極度に少なく、反復的で、密度が濃いという性格をもっており、多くの場合、家庭内で、また時には夜の集いで声に出して行われる。しかし十八世紀の終わり頃になると、特にヨーロッパ北東部の都市で(ただし詳しい研究があるのは、ブレーメンの場合だけだが)、教養のある人々、言い換えれば広い意味でのブルジョワのあいだには、まったく別の読書形態が存在した。彼らは本をたくさん読む。とりわけ、小説や新聞・雑誌などの、十八世紀にドイツで急増する読書室(Lesegesellshaften[gesellschaftのcが脱字か。讀書クラブのこと])に置かれていたものを多く読む。しかも彼らは、それらを、一回だけ、気晴らしのために速いスピードで読む。そして、一度読んでしまえば、あとは捨てたり、他に読む人がいればその人のために取っておく。このような読書は本の選択に関してはすそ野が拡がっているが、内容についてはあまり深く考えようとしない表面的なもので、ひとことで言えば拡散型の読書である。
同論異文として「読者がルソーに応える――ロマンティックな多感性の形成――」(鷲見洋一譯、『猫の大虐殺』岩波書店、一九八六年十月、第六章323ページ→『仝』〈同時代ライブラリー〉一九九〇年三月、220ページ→『仝』〈岩波現代文庫〉二〇〇七年十月、304〜305ページ)が先行し、またダーントンは別に「書物史とはなにか」(海保眞夫譯、『歴史の白昼夢――フランス革命の18世紀』4章、河出書房新社、一九九四年八月、108〜109ページ)や「読むことの歴史」(川島昭夫譯、ピーター・バーク編『ニュー・ヒストリーの現在 歴史叙述の新しい展望』第七章、人文書院、一九九六年六月、176〜177ページ)でもこの説を疑問に附してゐる。ダーントンが擧げた熱烈なルソー讀者の事例も踏まへてだらう、ロジェ・シャルチエは、「「拡張型」の読書の時代にも、[……]フランスでは感覚的な小説への心酔、ドイツではロマン主義の先駆けをなす流行が、文学作品の読み方に、かつて聖書の読み方にみられたような特徴をもたらした。すなわち、書物はつねに読み返され、ついには暗唱できるまでになる。そして独りの読書であると同時に、また他者とのかかわりのなかでおこなわれる読書である。書物は、それと取り組む人間を揺り動かし、変化させる、といった特徴である」(福井憲彦譯「読書行為と書物市場 フランス革命の文化的起源によせて」『読書の文化史 テクスト・書物・読解』新曜社、一九九二年十一月、110〜111ページ)と述べてゐる。小説の
なほ邦人著作では、このヴィットマンの研究成果をも參照した戸叶勝也『ドイツ出版の社会史――グーテンベルクから現代まで』「第四章 十八世紀半ばから一八二五年まで」中「4 〈読書革命〉と文学市場の成立」(三修社、一九九二年十二月)があるが、專ら新しい讀者層の擴大としてのみ記述して讀書スタイルの變革であったことを論ずるに及んでない。量ではなく質の問題、いや量が質に轉化する所こそが興味深いのに。他の一般書では、香内三郎の生前最後の著書となった『「読者」の誕生 活字文化はどのようにして定着したか』の新稿「「近代的」読み方の誕生――「読むこと」の効力測定様式」中に「第十一章 ヨーロッパの「読書革命」素描――「本」の社会的定着」(晶文社、二〇〇四年十二月、149ページ以下)がある。但し主對象である十七世紀からは外れるため、前著『ベストセラーの読まれ方 イギリス16世紀から20世紀へ』(〈NHKブックス〉日本放送出版協会、一九九一年九月、176〜178ページ)で述べてゐたやうな、讀書革命以降の十九世紀に却って濃密に熟讀玩味する精讀者の事例が見られることには立ち入ってない。香内自身の問題關心は、既に好論文「「印刷革命」と「読書革命」のあいだ――ヨーロッパ、アメリカ出版史研究の現状と問題」(日本出版学会編集『出版研究』No.19(一九八八年度)、講談社、一九八九年四月)でエンゲルジング説に重ねて語られてゐた通り、「外枠から、個人の読む「本」の量から入っていく」(11ページ)アプローチは足掛かりであって「問題は、むしろその先」、「少ない本を繰り返し読むのと、新しい本を追い求めて多くの本を一回だけしか読まない社会慣習の定着で、人間の内部がどうかわってくるのか、意識の内部で「本」がどう変容するのか」(12ページ)こそを究極の問ひとし、「歴史的な「読書」の内実」(13ページ)へ踏み込まうと志すものだった。エンゲルジングの日本への紹介者であった阿部謹也の「読書の社会史――その時代的背景」(『読書の軌跡』筑摩書房、一九九三年九月、515〜553ページ→再録「読書の社会史 その時代的背景」『歴史家の自画像 私の学問と読書』日本エディタースクール出版部、二〇〇六年十一月、115〜155ページ)は、專門柄ドイツ史から展望して讀書革命論を基調とする講演録だが、「一八世紀になって人びとがそれまでの集中的読書(精読)から多読的読書にかわっていったきっかけはなんであったかというと、直接のきっかけは、定期的に刊行される新聞、雑誌がでてきたということにある」(530ページ→130ページ)と指摘し、「同じものをくり返しくり返し読むということではなく、その日その日新しい知識を新しい雑誌、新聞から手に入れる」(534ページ→134ページ)といふあり方は「瞬間と瞬間の持続である」「小刻みなリズム」(533ページ→133〜134ページ)といふ點で十七世紀以來の機械時計の普及が促進した時間意識の變化に對應するもの、と見てゐる。質量だけでなく速度が關はってくるわけで、これを相乘したらば運動量、斯くては靜態は保たれず
實際、新時代における集中型の讀み方は、ダーントン論文の副題にも見る通り「ロマン主義的な」讀書と形容できようし、とすれば舊い批評語でボヴァリズム(佛語bovarysme ボヴァリスム)として論じられてきた人間類型を何より近代讀者の心性として再考すべきことにもならうが(宮下志朗「本の密猟者エンマ――一九世紀フランスの読書する女」『読書の首都パリ』みすず書房、一九九八年十月、等を參考に)、しかし、さうした讀書熱は讀むことの擴散無くしてあり得ず裏腹の兩面關係にあるのであって、だからロマン主義といふ語に熱狂や直情や感傷ばかりを聯想するのでなく移り氣や疎外や冷笑――總じてロマンティッシェ・イロニー――をも認めるのであればそのやうな二重性を持たせる限りにおいて適當な呼稱と言ってもよい。ベーダ・アレマン『イロニーと文学』は、フリードリッヒ・シュレーゲルのイロニー(及びそのニヒリスティックな歸結であるニーチェ)を修業時代の
擴散における集中とも言ふべき讀書革命のねぢれた理路は、世俗化 secularizationといふ概念で解けるのでないか。先に擧げたロジェ・シャルチエ「読書行為と書物市場」は『フランス革命の文化的起源』第四章「書物は革命をもたらすか?」を自ら縮約した論文で、多讀擴散型の時代にも集中型精讀が見られるといふ但し書きはその際の加筆だが、元の章の最終節では「書物から読書へ――読書の世俗化」と題して讀書革命説を取り上げてゐた(松浦義弘譯、〈NEW HISTORY〉岩波書店、一九九四年三月→〈岩波モダンクラシックス〉一九九九年十一月、136〜139ページ)。結語に曰く、「[……]読書行為の変容は、歴史家が世俗化として特徴づけることを習いとしてきた、より大規模な変化の一部をなしている」と(仝139ページ)。但しこれは次章「非キリスト教化と世俗化」へ繋げるための措辭に過ぎぬやうにも見え、それだから縮約版では世俗化といふ用語は削除されてしまったのかしれないし、現に第五章では宗教の問題に移ってしまって讀書については僅かに顧みられるのみ(仝156〜157ページ)。讀書革命そのものを世俗化といふことから再考することまではしてくれないのである。しかし參考になるのが、シャルチエが世俗化について、それは非神聖化といふより「聖性の移行」であったと考察したところ(仝166〜168・261ページ)。從來宗教と結びついてきた感情的・精神的エネルギーが新しい價値に注ぎ込まれるやうになった、キリスト教からの離脱は新たな超越性・普遍性・聖性への歸依であった、と言ふ。ここで、このシャルチエ著の
さて讀書革命に際してもまづは、世俗化は神聖さの滅却ではなく轉移であったと見ればよい。舊來の少數集約型讀書が對象とした特定の書物とは、それこそ聖書を筆頭とする宗教書であったが(尤も、ルター譯聖書が出たプロテスタント文化圈ならではの讀者層の擴がりが前提にあるにしろ)、さうした宗教的なものへの敬虔な集中が世俗的な書物に向けて擴張されたが故に、文學や哲學があんなにも熱心に讀まれた。殊に小説は、宗教倫理が忌避した道ならぬ色戀沙汰ばかり取り扱ふにも拘らず、その讀者の傾倒するさま篤信家の如し。世俗化とは言ふけれど、聖別されたものが俗臭に塗れてゆく下降ベクトルだけでなく、平信徒たる俗人が聖職者風(clerical=書記・知識人の)に成りたがる上昇志向も含むのに注意――それは近代
次いで、擴張=擴散がもたらす世俗化のもう一つの局面がある。シャルチエはルイ=セバスチァン・メルシエ『タブロー・ド・パリ』(原宏編譯『十八世紀パリ生活誌 タブロー・ド・パリ』上下〈岩波文庫〉岩波書店、一九八九年六月・七月)から興味深い首都風俗を紹介してゐた。即ち、革命前の時代に「王樣風」といふ修飾語が卑俗で多用される決まり文句となってをり、それは王政への敵意からどころかその反對、良いものや素晴らしいことを言ふ比喩として商品はあれもこれも「王樣風」と冠されたのだったが、さういった日常茶飯の頻用が逆に王の超越的價値を貶めた、と(『フランス革命の文化的起源』129〜130ページ、『読書の文化史』105ページ)。謂はば言葉のインフレーション(膨張)であり、價格は高騰したが額面の價値は低落したわけ。シャルチエは明示しなかったが、これは讀書の擴散に重ねられることなのだ。この例から
かうした聖俗革命の一環としての讀書の世俗化が十九世紀に入ってからも持續し、幾度も段階を新たにして波及の範圍を擴げていった。政治史上の革命同樣、大革命あれば小革命あり反革命もあり、革命 revolution=回轉は繰り返し循環するものだ。トロツキーの永續革命論が書物史で著名なエリザベス・アイゼンステイン『印刷革命』(別宮貞徳監譯、みすず書房、一九八七年十二月)にも殘響してゐることは、邦譯書五章の題「永遠のルネサンス」について、「〈permanent Renaissance〉も、印刷機により、そうしたければいつでも再生可能だということで、「永遠の……」とされると意味が
同根の名詞intensionは論理學用語だと内包、intensityは強度・濃度。對してextensionは、論理學における外延、哲學用語でいふ延長の意味がある。雙方を、構造主義が基本としたやうな二者擇一で相互排除的な二項對立關係(A/non-A)に則るものとせず、それとは異質なレヴィ=ブリュルの謂はゆる前論理に準じた融即的對立關係(A/A+non-A)と認められないか。言語理論家ルイ・イェルムスレウによると、融即律(loi de participation 分有の法則)に從ふ自然言語の論理では、Aとは非Aとの對立で定義されるのでなく、A及び非Aを一括したものとの對立を通じて、つまりA自身もA以外をも含む不明確さを特徴とする擴がりからAに意味を集中することで明確化されるものである。そこで、Aへと狹義に限定して單純化された項を「内括 intensif」とし、これに對立しAでありつつ非Aでもあるやうな複合項は「外括 extensif」と名づけられた。立川健二「キルケゴール、ブレンダル、イェルムスレウ 《デンマーク構造主義》にかんする覚え書」青土社『現代思想』一九八八年五月號「特集 キルケゴール 反復とアイロニー」169〜173ページ參照。またこの點の要旨を簡約に述べ直したものに、山田広昭との共著『ワードマップ 現代言語論 ソシュール フロイト ウィトゲンシュタイン』(新曜社、一九九〇年六月)中「イェルムスレウ 言語としての主体、あるいは内在論的構造主義の可能性」の項目がある。立川が敵役として對立させるのはロマン・ヤコブソンである――「もっぱらA/non-Aという排除的対立関係にもとづくヤーコブソン流の二項対立論とはちがって、イェルムスレウの融即関係論は、論理学的ロジックではなく自然言語のロジックを明らかにする」(仝95〜96ページ)云々。
しかし構造主義と言ふことではコペンハーゲン學派以上に著名なプラハ言語學サークル、就中ヤコブソンは、別途、「日常言語のレベルに見られる対立が奇妙な偏りを示すこと」に注目し、それが「論理学にいう矛盾対立(A/〜A : 生/死)でも反対対立(A∽B : 暑い/寒い)でもなく別種の関係をなすという事実」を考察してゐた(山中桂一『ヤコブソンの言語科学2 かたちと意味』勁草書房、一九九五年六月、80ページ)。立川が特筆したのと同じイェルムスレウの格
まづプラハ學派でニコライ・トルベツコイが對立關係を分類して、對立項の間の關係によって缺如的・漸次的・等値的對立の三種を見出した(トゥルベツコイ『音韻論の原理』長嶋善郎譯、岩波書店、一九八〇年一月)。重要なのは缺如的對立(privative Oppositionen 山中著58ページ「欠性対立」)である。これは有聲音對無聲音のやうに特性を示す徴表(Merkmal=標識)の有るか無しかで特徴づけられ、その對立項をそれぞれ有標/無標(marked/unmarked 有徴/無徴)と呼ぶ。徴表が無いこと(不在)によって他と對立する項があること(存在)を措定したのが、發想の妙だった。「トルベツコーイの気づいた「標識」とは、要するに、対立する二項の片方について知覚される何か付加的な因子ということであった。つまり、A対B(ないしA対非A)と思われていたもののなかに、厳密に見てゆくとA対A+αという内部構造の多いことを発見したのである」(山中88ページ)。先んじてソシュールが「「言語というものは何かと無との対立をもってこと足れりとする」(1972:124)ことがあり、ある概念を表すのに必ずしも有形の記号を必要としない、という一般論を引き出した」のも踏まへたらしいが、「考えてみれば、「欠性対立」という命名じたい、標識の存在よりもその欠如の方に重点を置いたもので、トルベツコーイの着眼は、音韻という新たな分野のなかで、ゼロ記号における《有対無》の関係をあべこべに眺めてみただけではなかったかと推測したくなる」(89ページ)。そもカントの謂はゆる缺性的無(nihil privativum)は、論理的には單に+に對する0に過ぎないが、現實的には+に對する−(負量)として、他を無化する何か或るもの(存在者)に轉じるわけ(『九鬼周造全集 第十一卷』「講義 文學概論」岩波書店、一九八〇年十二月、28〜29・54ページ。――因みに九鬼は、融即に當る「分預 participation」にも觸れてはゐる。26・83・85ページ)。
この對立概念を音韻論以外にも敷衍して一般記號論への展開を導いたのが、トルベツコイの盟友ヤコブソンであった。その形態論研究では、「相関する二つの屈折形に共通する一般的意味(α)を見いだし、それが積極的に表明されているかいないかによって有標項(+α)と無標項(±α)および後者の特殊的意味(−α)を選り分けてゆくというのが、ここでヤコブソンのとる基本的アプローチである」(山中著120ページ)。無徴は有徴でないといふ否定形によってしか定義されず直接に感知し難いだけに、索出すべきは無徴項なのであり、それが±αであることからイェルムスレウの術語だと外括的な複合項に相當すると知れよう。項の一方ばかりが有徴(しるしつき)とされるこの二項對立は非對稱的であり、いづれかを優勢(dominant=支配的)とする價値づけを内包する(イェルムスレウ用語で謂ふ所の
蓋し「中和」と「融即」とは、門を閉ざして車を造るも門を出でて轍を合するが如し。立川健二は、「プラーグ学派のヤーコブソンたちの音韻論などは、プラスかマイナスかという排除的な二項対立から音と音の関係を考えていきます。けれどもイェルムスレウは、言語における二項対立は「融即的対立関係」であると言います」と解説して、左記の如き具體例を出す。
たとえば、形容詞の対立はどうなっているのか。英語のbigとlittleは、プラスとマイナスのように対立していると、私たちはなんとなく思っています。でも本当にそうでしょうか。
たとえば疑問文を考えてみます。How big are you?という聞き方はしますが、How little are you?とは言いませんね。これは、oldとyoungでも同じです。How old are you?とは言っても、How young are you?とは言わない。つまりbigというのは、「小」に対立する「大」だけではなく、「小ささ」をも包み込んだ「大きさ」というようなことも意味しているわけです。
イェルムスレウ流にこの対立関係を書けば、littleはbig+littleと対立することになります。
立川健二「世界は言葉のなかに存在する――言語とその主体」『栗本慎一郎「自由大学」講義録⑤ 脳・心・言葉 なぜ、私たちは人間なのか』〈カッパ・サイエンス〉光文社、一九九五年十一月、199ページ
だがこれなどむしろ有徴無徴に關聯して屡々擧げられる類の例だったことは既に見た通りで、その他高低・多少・輕重といった外延量の形容詞はおしなべて、語形とは無關係ながら意味論上において缺如的對立關係にある。右例の疑問文では「大きさ」が無徴ゆゑに中和位置に立って「小ささ」を表はす役割をも兼帶してゐるのであって、質問が特に「大きいこと」を前提としてない場合その±bigといふ辨別素性の對立が中和化してゐると言へる。ほか、漢語で對義を組にした二字熟語のうち、異同・緩急・動靜・與奪・難易といった一方の字義が主意で他方は添へもの程度に無意義になる用例を指して「帶説」(『大言海』自序が説き、『新明解国語辞典』に立項あり)もしくは偏義詞・偏義複詞などと呼ばれる現象も、中和に相似であらう。中和と融即とを列べて取り上げたものに、オスワルド・デュクロがツヴェタン・トドロフとの共著『言語理論小事典』(朝日出版社、一九七五年五月)中に執筆した「言語範疇」(伊藤晃譯)の項もある。そこでは、無標は「またときとして拡散的 extensifであるといわれ」、「他の要素は集約的 intensif、あるいは有標の marquéものといわれる」(183ページ)と説明されてゐた。
以上、「正統構造主義」のヤコブソン式二項對立論であっても精讀すればイェルムスレウ流の下論理的システムを内包してゐることは明確にされたと思ふ。立川健二も初めの「キルケゴール、ブレンダル、イェルムスレウ」ではそのことに留意してをり、イェルムスレウ自身が「有標(marqué)と無標(non-marqué)のかわりに、
三人の言語学者は、融即的対立関係の二項を表わすのに三つの異なった用語法をつかっている。ローマン・ヤーコブソンは、
有標 (merkmalhaft)と無標 (merkmallos)(ゼロ)を区別する。イェルムスレウは、内括 と外括 (その意味ないし用法は内括項にまで拡張する)を問題にしている。そしてブレンダルは、正の項と負の項に中立項と複合項を対立させている。
にも拘らず立川はすぐさま、「ヤーコブソンの二項対立論をこのように〈融即的対立関係〉論と同一視することには、問題がないとはいえない(この点にかんしては、クロード・ジルバーベールの画期的論文「イェルムスレウの認識」[Zilberberg 1985]を参照してもらうのがいちばんよい)」と附言してゐたけれども、生憎、そんな讀めない文獻に議論を預けられたってどこが問題なのだか解しやうがない。
なほ蛇足ながら、リュシアン・レヴィ=ブリュルが『未開社會の思惟』(山田吉彦譯、上下、〈岩波文庫〉岩波書店、一九五三年九月・十月)に謂ふ所の融即(participation=分有)はデュルケーム學派が社會學・人類學に導入した「聖」概念の論理學・哲學からする定式化であり、これが田邊元の「種の論理」に攝取されたとは中沢新一『フィロソフィア・ヤポニカ』(集英社、二〇〇一年三月、「第三章 構造主義と種の論理」65ページ以下)によって一般にも知られてゐよう。してみれば、イェルムスレウが内括項・外括項といふ用語で整理した融即的對立關係を、田邊元が從來の外延的對立と區別して持ち出した内包的對立といふ自己分裂の論理に比定するも一興か。田邊元「論理の社會存在論的構造」(『田邊元全集 第六卷』筑摩書房、一九六三年七月、315・320ページ)、及びこれを敷衍した『フィロソフィア・ヤポニカ』「第四章 多様体哲学としての種の論理」101ページ以下、參照。
長尾龍一譯「中立化と脱政治化の時代」『カール・シュミット著作集Ⅰ 1922‐1934』慈学社出版、二〇〇七年五月、208ページ/田中浩・原田武雄譯「中性化と非政治化の時代」『合法性と正当性』所收、未来社、一九八三年十一月、154〜155ページ。以下引用。
このような諸概念の多義性を示す、もうひとつ社会学的な実例をあげるならば、精神性と公的なものの代表、つまり
学者 [Clerc]という典型的な現象は、各世紀特有のその特質を、中心領域から規定されている。十六世紀の神学者、説教師たちに続いては、[神學から形而上學へ中心領域が移った]十七世紀の学識の深い体系家たちが真の学者共和国を形成し、大衆からはるかに隔って生きている。次いでは、いまだ貴族的な十八世紀の啓蒙文筆家たちが続く。十九世紀に関しては、ロマン主義的偉才らの間奏曲によって、また個人宗教の多くの司祭らによって、まどわされてはならない。十九世紀の学者 ――その最大の例はカール・マルクスである――は、経済専門家となるのであって、問題はただ経済的思考が、そもそも、学者 というタイプをなおどこまで許容するか、そしてどこまで、国民経済学者および経済的教養をもつ法律顧問たちが、精神的指導者層たりうるか、なのである。いずれにせよ、技術的思考にとっては、学者 はもはや不可能であるように思われるが、これについては下記で、[二十世紀といふ]この技術主義時代を論ずる際に、なお述べることとする。[下略]
ついでながら、『知識人の裏切り』(宇京頼三譯、〈ポイエーシス叢書〉未來社、一九九〇年十月)と譯されるジュリアン・バンダの著名な書物の原題で「知識人」とはclercsであったことも想ひ出される。聖職者として普遍的なものへの信念と非世俗的であらうとする態度とを堅持すべきであり政治的黨派に關與するのは背任だといふわけだが、カトリック教徒たるシュミットですら古義の儘のClercが十九世紀以降に超然と存續できるか懷疑的であったのは見ての通りで、聖なるものへの尊崇を消散させた世俗市民の讀書人には猶のこと不信が萌す。現代英語でclerkは事務員に過ぎない。