選擇


二〇〇二年七月六日 於日本大學文理學部 平成十四年度日本大學國文學會總會・研究發表

ジャーナリズム論の一九三〇年代
――杉山平助をインデックスとして

日本大學大學院文學研究科博士前期課程一年 森 洋介

讀まるべき批評家、しかし、讀みかへさるべきでない批評家、――ジャーナリスト。
花田清輝「赤づきん 杉山平助の肖像畫


  1. メディア論を遡ると
  2. ジャーナリズム――或いは、ジャーナリスティシズム?
  3. ジャーナリズム論
  4. ジャーナリスト・杉山平助
  5. 匿名批評の時代
  6. 超ジャンル批評、或いは雜文
  7. フィユトン・クリティク
  8. メディアの理解
  9. 書承における口承

メディア論を遡ると

メディア論的なアプローチによる研究が目立つやうになったのは一九九〇年代以降だらうか。文學分野で「メディア」の語を題名に入れてゐる論文を通覽すると、その對象は明治大正昭和は勿論、遡って時に上代にさへ至ってゐる。だが今日のやうに新聞・雜誌・テレビ・ラヂオ・映畫その他をひっくるめてマス・メディアと稱するやうな用例はむろん二十世紀に入ってから、やうやく二〇年代のことらしい。しかもそれらメディアは「マス・コミュニケーション研究」といふ範疇で取り上げられて來たのであって、ましてメディア論(Media Studies)とかメディオロジーとか云ふ名はずっと新しく、まだ湯氣が立ってゐる。つまりメディア論で取沙汰するやうな「メディア」といふ概念は、現代に於て獲得されたものなのである。だから、これを未だメディアなる概念を知らざりし時代の對象にまで及ぼして論ずることは、時代錯誤(アナクロニズム)の虚僞に陷る恐れがある。論者の時代の認識を過去に投影してしまってゐるのではないか。

とはいへ所詮、現代の觀點からする裁斷は免れ難いのかもしれないし、またミスマッチ感覺の妙といふか、時代にそぐはない語を敢へて適用することで發見的(ヒユーリスティツク)な效果が見込めもしよう。が、その前に、對象とする當の時代に即しての理解といふものが一往は求められて然るべきだらう。つまり、後代にメディアと呼ばれもしようものがその同時代人にはメディアといふ概念を用ゐずして如何に捉へられてゐたのか。メディア論的思考をメディアといふ言葉の無い場所に見出すとしたらどこを探ればよいか。

例へば吉見俊哉は「メディア論的な知の原型」を「両大戦間期における新聞学の誕生」に見てゐる*1。「三〇年代的な文脈で新聞論とはすなわち今日の情報論、メディア論とほぼ等価なものと見なせるものであった」*2とも言ふ。そんなに等價と見做してよいかは疑問だが、類似であるのは確かだ。しかし吉見の論は、主として小野秀雄や小山榮三といった新聞學者の學説に焦點を合はせてをり、そのため視界が學問的(アカデミツク)な言説に限られてゐる。そもそも新聞學が學として周縁的(マージナル)な位地にあり、官學講壇(アカデミー)からなかなか正規に認知されなかったこと、吉見も述べる所だ。であるなら、むしろアカデミズムの外で展開された言説をもっと探る必要があらう。「新聞學」のアカデミズムから横溢した面も含めたそれを「ジャーナリズム論」と呼べると思ふ。

*1

吉見俊哉「メディアを語る言説――両大戦間期における新聞学の誕生」栗原彬・小森陽一・佐藤学・吉見俊哉著『内破する知 身体・言葉・権力を編みなおす』東京大学出版会、二〇〇〇年四月。

*2

吉見俊哉「一九三〇年代論の系譜と地平」吉見俊哉編著『一九三〇年代のメディアと身体』青弓社、二〇〇二年三月、51頁。

ジャーナリズム――或いは、ジャーナリスティシズム?

ところで、そのアカデミズムにしばしば對置させられるのが「ジャーナリズム」といふ語であった。もっとも戸坂潤に言はせると、世間で行はれてゐるこの用法は「外国語として変であり、それから観念としても変なのである」*3が……。無論ジャーナリズムはもと外來語である。けれども外來種が自生するやうになると、原義そのままではなく日本の風土に合はせた性質を備へるやうだ。ちょっとその語史を辿っておかう。

最も早い用例は、今の所、森林太郎「現代諸家の小説論を讀む」(『(しがらみ)草紙』第二號、一八八九年十一月)に求められる*4。「輓近、話の盛んに行はるゝは新聞事業(ジユールナリスム)に基けり」云々(この「話」なるものをめぐる前後の文脈も興味深いのだがいまは略す)。ここでは「新聞事業」といふ原義の儘の用法であった。

さて飛んで大正期に入ると、各種新語辭典の類にこの單語が登録されてゐるのが確認できる。どうやら使用され始めたのは一九一〇年代以降からと覺しい。服部嘉香・植原路郎著『新らしい言葉の字引』(實業之日本社)から引かう。

【ジャーナル】Journal(英)雜誌。新聞。

【ジャーナリスト】Journalist(英)新聞記者。雜誌記者。

【ジャーナリズム】Journalism(英)新聞調、雜誌式、新聞中心、雜誌向き、などいふ意味。

【ジャーナリズムの文藝】新聞雜誌の雜報記事的の文藝といふ意味。純文藝でないことは明らかで、例を擧げれば「天民式」(其項參照)の描寫はそれである。又、第二義として、文藝上の運動又は傾向が、新聞・雜誌によって動かされることをいふ。まじめな要求に影響された文藝ではなく、雜誌・新聞によつて流行を作られる不眞面目な文藝といふ意味。

右は大正九年十一月訂正増補四十三版から引いた(松崎天民を持ち出した所が面白いが、そこは大正十四年三月『大増補改版 新らしい言葉の字引』で削られた)。同書初版は一九一八年十月で、以後續出する類似商品の種本として、かの有名な『や便』――ポケット顧問 や、此は便利だ』(平凡社、一九一四年四月初版)と竝ぶ雙璧であったといふ*5。ともあれ、同書を眞似て「ジャーナリズムの文藝」で立項した新語辭典は數多いので、一々擧げず、右を以て代表させる。ここで、ジャーナリズムといふ語が通俗性・大衆性といったやうな輕蔑的含意(コノテーション)を有すること、且つそれが特に文藝と結びついて語られやすかったことに留意されたい。

因みに『ポケット顧問 や、此は便利だ 増補改版第八十版(一九二三年十月)の方ではこれを「新聞雜誌主義」と譯す。正にこのやうな「ジャーナリズムヽヽヽ(ママ)だからイズムであり主義であると思う」解釋こそは、後に戸坂潤の批判する所となった。マグネティズム(磁氣)を磁石主義とは譯さぬのと同樣「この際の何々イズムとは勿論客観的に行なわれる夫々の現象(ヽヽ)を指すということを銘記すべきである」「そうしない限り、ジャーナリズムは一つの道徳上のイズムか何かと考えられてしまうのだ」*3と。事實ジャーナリズムが問題とされる場合には、むしろ「道徳上のイズム」たるべきことが高唱されて來たと言ってよい。新聞道、と伊藤正徳は言ふ。

ヂヤーナリズムといへば、日本では此言葉が少し曲解されてゐると思ふ。Journalismは、辭書では新聞業とか、新聞文學とか譯してゐるが、その眞の意味は『新聞道』とでも言ふべきで、その含蓄する意義は『言論の武士道』と稱しても差支へないのだ。新聞の社會的使命、その道徳律、その公共的意識を表明する言葉であると私は解してゐる。[……]

(伊藤正徳『新聞生活二十年』中央公論社、一九三三年十二月、八頁)

求道者氣取りは何も彼一人ではない。原田棟一郎『新聞道』(大阪出版社、一九二七年)等々、先例もあることだ。そしてかうした「道徳上のイズム」は今日に至るまで生き延び、ジャーナリズム論の大半は、「社會の木鐸」「正義と人權」「言論の自由」といった標語と共にジャーナリストの訓辭の如く語られてゐる。大新聞(おほしんぶん)流の政論記者風な意識がなほ殘ってゐるわけである。にもかかはらず、ジャーナリズムの半面――謂はば小新聞流のそれ――は儼然として存するから、否定する形であれ一言せずにはをれない。

しかるに、我が評論家の中には、ヂヤーナリズムを右と正反對の意味に使ふ人が少くない。一種の墮落した文學を形容する場合に用ゐたり、上辷りの、其日暮し的の意味に當て嵌めたり、或は揚げ足取りの手法を説明する場合に用ゐたりする。恰かも米國のヱロー・ヂヤーナリズム(日本の赤新聞)の意味に解し、『それは餘りにヂヤーナリスチツクに過ぎる』と書いて曝露主義ヽヽヽヽを非難する表現に利用したりする。

(伊藤正徳『新聞生活二十年』中央公論社、一九三三年十二月、八〜九頁)

かういふ慷慨談流の「ヂヤアナリズムの惡口」は「今日日(けふび)は誰でも云ふことで尻馬に乘るのが氣はづかしいくらゐである」と杉山平助は言ふだらう。「そこで長谷川如是閑氏みたいに、ヂヤアナリズムとは本來は健康なものなんだが、營利觀念の浸潤とゝもに頽廢するに至つたのだなどとこねあげる人も出てくるが、そも我々のヤキモキしてるのはこの「頽廢したヂヤアナリズム」のことなんだから、こんな話を聞かされたところで何の實にもならん」(杉山平助「ヂヤアナリズムをどうする」『文藝春秋』昭和六年十一月號→『春風を斬る』所收)

つまりジャーナリズムといふ語の内部では對立する觀念が衝突を起こしてゐるわけである*6。強ひてこれを一義的に分けんとすれば、一方を“Journalisticism”とでも名づけるべきか。名詞Journalismではなく、形容詞Journalisticism化だ。これは藤原勘治『新聞紙と社會文化の建設』(下出書店、一九二三年七月)の創案である。同書は、「現代のあらゆる文化内容即ち社會現象」に「所謂新聞紙的なる何物か」が認められると結論し、それを「現代文化の新聞調」と呼んだ。自註して曰く、

新聞調とは、私自身の造語である。[……]これを英譯すればJournalisticismを以て適當とす。[……]新聞道なる言葉を用ひる人が(建部[遯吾]博士もその一人)かなり多くあるが、これはJournalismの譯語とせられてをり、新聞紙或は新聞事業そのものの内部的規範を意味するものであつて、私の新聞調とは全然異なつた立場にあるものである。

(藤原勘治『新聞紙と社會文化の建設』下出書店、一九二三年七月、186頁)

無論こんな新語は一向に採用されず、JournalisticismJournalismからの分離は果たされなかった。大體、「新聞紙的なる何物か」などと言はれてもそれでは全然説明になってゐない。だがこの時點で從來とは異なる意味合ひの「ジャーナリズム」(いや、ジャーナリスティシズムか)が感知されつつあったことは認めてもよいだらう。その把握は次代に持ち越される。

*3

戸坂潤「ジャーナリズム三題」『世界の一環としての日本』白揚社、一九三七年四月 →『戸坂潤全集 第五巻』勁草書房、一九六七年二月、126127頁。

*4

樺島忠夫・飛田良文・米川明彦編『明治大正新語俗語辞典』(東京堂出版、一九八四年五月)一四八頁に據る。但しそこでは「森鴎外今の諸家の小説論を読みて(明治二二)」としてゐ、明治二十九年刊『月草』所收時の改題を掲げる。しかるに『月草』を底本とした『鴎外全集 第二十二卷』(岩波書店)の本文では、肝腎の「ジユールナリスム」といふルビが振られてゐないのだ。卷末「用例引用文献一覧」には該當する典據は『鴎外全集』しかない。初出『柵草紙』の本文に據ったのなら、初出時の題「現代諸家の〜」を掲げるべきで、混亂させる記述は困る。

*5

松井栄一ほか著『新語辞典の研究と解題』〈近代用語の辞典集成・別巻解説書〉大空社、一九九六年二月、參照。

*6

例へば、大衆ジャーナリズムの父(Father of Popular Journalism)と云はれたジョージ・ニューンズが、一八九〇年に新聞界の雄であるウィリアム・トマス・ステッドに宛てた書簡を想起してもよい。木村毅「近代ジャアナリズム發達史」の譯文で引いておく(〈岩波講座世界文學 第三回配本〉一九三三年二月→『現代ジャアナリズム研究』公人書房、一九三三年五月、9〜10頁)。

『ジャアナリズムには二種のタイプがある。一つは、内閣を作ったり、その祕策を暴露したり、場合に依つては政府を轉覆したり、海軍擴張を唱へたり、その他凡て公事を取扱ふものだ。まさに無冠の帝王と稱すべき大事業である。此れが君(ステッド)のジャアナリズムだ。併しそれとは對蹠的に、さうした大野心は卯の毛ほども持たぬジャアナリズムがある。それは只、營々役々として働いてゐる大衆が、さゝやかな娯しみや氣晴らしを求めてゐるから、それに健全な無害な言葉の饗應をするだけを目的とするものだ。それは全くへり下つて、えらがらないのだ。それが僕(ニューンズ)のジャアナリズムだ』

ジャーナリズム論

ここまで述べた所からも察せられるだらうが、ジャーナリズム論は専ら新聞論に附隨する形で語られてゐた。「ジャーナリズム論」といっても、多くはまだ「新聞論」を言葉だけ耳新しいカタカナ語に言ひ換へたに過ぎなかった。しかし、名稱の變化するところ、内實もまた變容してゐるのだ。

ジァアナリズムが「新聞」であり、「雜誌」である内包において、それ自身の定義は、たいして見當違ひでないにしても、現代いふところのJournalismは、到底それ等だけでは、掩ひきれない多量な容積で、空氣を膨張さして來たのである。そこで、それを統制するための定義もまた膨張しないわけに行かない。[……]そこで彼はジァアナリスティックだと批評した場合に、彼が新聞、雜誌的だといふ漠然たる概念を與へるのに比例して、ジァアナリスティックだといふ方が、何か知ら、もつと切實で、「新聞、雜誌的」が與へ得ない内容を、完全に味ひ得ることにもなるであらう。

(千葉龜雄「現代ヂヤーナリズム論」『經濟往來』一九三〇年十一月號〈現代ヂヤーナリズム批判號〉)

ジャーナリズムといふのは、もはや新聞ジャーナリズムのみならず、雜誌ジャーナリズム、出版ジャーナリズム……、といった下位分野を包括する總稱なのであり、或いは、ラヂオ等の放送ジャーナリズム、映畫等の映像ジャーナリズム、等々を含んだ上位範疇である。といふより話は逆で、初めは新聞業界を中心としながらも、次第に類似の他領域との差異と相同が意識されるうちに、ジャーナリズムといふ語が外延を擴げ、綜合的な概念として抽象度を高めていったのだらう。

それをよく示すのが、『綜合ヂャーナリズム講座』全十二巻(内外社、一九三〇年十月〜三一年十一月)である。これはジャーナリズムに關する各論を正に綜合・集大成した、劃期的なシリーズだった*7(尤も、依然新聞が論ぜられる中心ではあったが)。『出版事典』(出版ニュース社、一九七一年十二月)の「ジャーナリズム」の項では「明治・大正期には〈操觚界〉などと呼ばれていたが、昭和期にはいり、《綜合(ママ)ャーナリズム講座》(1930年・全12卷・内外社)などの刊行もあって、この外来語が定着するようになった」とする。先に新語辭典に見た通り、「ジャーナリズム」は外來語としては既に大正期に定着してゐた筈だが、一般に普及通用し、且つそれが論ぜられる對象としても獨立した相貌を呈したのはこの講座を以て目印(メルクマール)とする、と解しておけばよからう。即ち、文中に「ジャーナリズム」といふ語彙が用ゐられてゐるといふに留まらず、ジャーナリズムとしてそれ自體で主題化されるやうになったのは、ほぼ一九三〇年代以降のことだと考へられる。

例證として、いささか安直ながら「ジャーナリズム」(乃至は「ヂャーナリズム」)といふ單語を書名に含んだ圖書を擧げてみよう。件の『綜合ヂャーナリズム講座』及びその發行元たる内外社の書籍を除くと、戰前の刊行物として九點が數へられる*8が、一九三〇年以前には一册も見出せない。うち喜多壯一郎『ジャーナリズムの理論と現象』は、ジャーナリズムではなく新聞と題するつもりだったが出版者の要請で改めたと自序に述べてをり、新聞論がジャーナリズム論へ移る過渡期の事情を語るものだ。

喜多壯一カ 『ジャーナリズムの理論と現象』 千倉書房 一九三二年十一月
木村 毅『近代ジャアナリズム發達史』〈岩波講座 世界文學〉岩波書店一九三三年二月
木村 毅『現代ジャアナリズム研究』公人書房一九三三年五月
新聞之新聞社編『ジャーナリズム講演會集』新聞之新聞社一九三四年
杉山平助『現代ヂャーナリズム論』白揚社一九三五年二月
大宅壯一『ヂャーナリズム講話』白揚社一九三五年三月
四至本八郎『動くジャーナリズム』ダイヤモンド社一九三七年四月
關 豐作『評傳・奧村信太郎』〈ヂャーナリズム十傑叢書〉解放社一九三八年十二月
伊藤 迪『ジャーナリズムの日本的課題』日本評論社一九四一年五月

動向をヨリ精確に掴むには新聞雜誌記事に就くべきだらうが、ざっと一覽した限りでも、ジャーナリズムを題目とする記事が現れるのが二〇年代後半でやはり一九三〇年代に點數急増してゐる事實がある。各誌で特輯が組まれた所爲もあるだらう。その他、ジャーナリズムを論じながらも殊更にその語を題に掲げないものがあることを考慮すれば、その數は増すばかりである。

だからジャーナリズム論とは、昭和前期に興ったもの、三〇年代といふ時代の刻印を帶びたもの、なのだ。それ以前は、主に新聞論であり時に雜誌論であった。それ以後、戰中は戰時宣傳論と化し、敗戰後は再びジャーナリズム論として活況を呈したものの、マスコミことマス・コミュニケーションなる新語の普及もあり*9、大分その方に意味内容が吸ひ取られてしまった。結果、新聞道(とは云はなくなったが)としての覺悟を説くごときジャーナリズム論が主調となって、アカデミズムの對義語でありJournalisticismであるやうな、さういふジャーナリズムが論究されることは尠くなっていった。かつてジャーナリズム論とは、新聞雜誌論と言っては言ひ足りない、單なる呼び名の改變以上の新たな概念の擴張を伴った筈だし、それがマスコミといふ類義語の登場で同義衝突を起こせば、名は等しくとも最早以前とは内實が相異なるのだ。

ともあれ、かうした活字ジャーナリズム上に於るジャーナリズム論は、自己言及的であるだけに恰も合はせ鏡に映したやうに増幅される傾向があり、またジャーナリズムが自意識を獲得する迄に成長したことを示す徴候でもあった。このやうな言説の中にこそ、「メディア」とはまた違った觀點で、當時の同時代人が當時なりにその文化環境を如何に捉へてゐたかが讀み取れるのではないだらうか。

*7

『綜合ヂャーナリズム講座』は、第3卷挾み込みの『内外社月報』第二號(昭和五年十二月一日)では「千葉龜雄/大宅壯一編輯」とするが本體にその記載無し。奥付の編輯兼發行人は1〜10卷まで橘篤郎、木村毅『私の文学回顧録』(青蛙房、一九七九年九月)330頁によれば大宅壯一が『社會問題講座』(新潮社)を編輯してゐた頃の子分格で、立花隆はその甥。1112卷の編輯兼發行人は小澤正元、林達夫が『思想のドラマトゥルギー』(〈平凡社ライブラリー〉一九九三年六月)で語る所では、内外社は彼が「金を出して作った」。また手當ゼロの重役として服部之總、大宅壯一、林が手傳った、といふ。

*8

総合ジャーナリズム研究所編『マスコミ文献集大成』(東京社、一九七四年四月)他參照。

*9

鶴見俊輔によれば、「マスコミ」といふ略語は大久保忠利の發案らしい。鶴見俊輔編集『ジャーナリズムの思想』(〈現代日本思想大系12〉筑摩書房、一九六五年六月)解説、參照。その功あってか、日本では他國と違ってこの社會學用語が知識人以外にも口にされるほど弘まった。

ジャーナリスト・杉山平助

以上が「ジャーナリズム論の一九三〇年代」と題する所以だが、三〇年代と限定してすら見るべきものは多い。無闇に資料の間を彷徨しては埒が明くまいから、何か核となるものを選ぶ必要がある。飽和溶液に投じた核の周りに結晶が析出される如く、時代の雰圍氣といふやうな漠然と滲透してゐたものを具體的に掴めるやうにする手立てだ。

さてジャーナリズム論が狹義の新聞論から脱皮するにつれ、論じる者も新聞關係者や新聞研究の徒ばかりではなくなってゐた。前掲した九點の本でも、著者が三人まで文學者であるのにお氣づきだらうか。即ち、木村毅、杉山平助、大宅壯一、である。ここからも、ジャーナリズムが新聞論に跼蹐するものでないこと、殊に文學とは縁があること、察せられよう。

木村毅(*1894〜1979)は小説家であり明治文學研究の草分けであり、特に圓本の企劃者であったことは出版文化としての近代文學といふ視角から近年再び注目されてゐる。大宅壯一(*1900〜1970)はむしろジャーナリストと呼ぶ方が相應しいと思はれようし、戰後はマスコミ人間として萬能評論家の觀があったが、しかし戰前は「文壇ギルドの解體期 大正十五年における我國ヂャーナリズムの一斷面(一九二六年)で出發した文藝評論家であった。そして杉山平助――これは今や最も忘れられた人物だらう。しかし當時その活動量では却って木村毅・大宅壯一に優るとも劣らず、單著だけ見ても優に二十册以上を數へる。「とにかく、杉山平助は、そのころのジャーナリズムに君臨している大批評家だったのである。ということは、つまり、かれにおびただしい著書があったという意味だ」(花田清輝)*10。この名をインデックスとして同時代を探ってゆくとすれば、どうなるか。

杉山平助(*1895〜1946)の傳記は各種事典などにも見る通り、詳しくは都築久義「杉山平助論」*11に據られたい。ここでは作家論が目的ではないので要點のみ略述する。

初め彼は小説家として登場した。自傳的長篇『一日本人』(一九二五年十二月)を自費出版して世に打って出、生田長江から最大級の激賞を受けた*12が、それでも默殺された*13。彼が文壇に認知されたのは評論家としてである。しかもその筆は文藝批評に留まらず、社會時評や風俗論、政財界の人物論にまで及んだ。

まづ大まかな位置附けを言へば、「リベラリスト評論家として当時のジャーナリズムに重用され、大宅壮一と左右一対をなしたといえば、ややその位置も鮮明であろうか。両人ともに思うところをズバズバいってのける無遠慮な野人性、文学に偏しない視野の広さ、」……云々(石橋万喜夫、『現代日本文学大事典』明治書院、一九六五年十一月)。或いは云ふ、「彼は、文明批評家ともいうべき視野を持ち、文学・社会・政治の各方面に渡って一家の見識をもっていたが、文芸の理解にあまりに即物的なところがあって、結局ジャーナリストと見なされていた」(田中保隆、『近代日本文学辞典』東京堂、一九五四年五月)と。

ジャーナリストと言ふが、杉山が新聞記者だと言ひたいわけでなく、むろん蔑稱である。これが蔑稱になるところが「ジャーナリズム」といふ縁語の語感をも示す。だからこそ三木清が杉山に宛てた言葉も皮肉に響く――「私はジャーナリストとしてのあなたを尊敬します。私自身の趣味や氣質に合ふかどうかは別にして、あなたはジャーナリズムの上で一つの新しい型を作られた人であり、あなたの議論や思想に私がつねに賛成し得るかどうかに拘らず、その點に於て私はあなたを尊敬します」(「杉山平助氏へ」『文學界』昭和十三年六月號→『三木清全集 第十九巻』)

ところで三木清が言ふ「一つの新しい型」とは何か。杉山平助が名を成した所以もそこにある。以下にそれを論じよう。

*10

花田清輝「赤ずきん」『群像』一九六四年五月號「特集 最初に書いた批評・最初に受けた反論」→改題「最初の批評――『赤ずきん』」『花田清輝全集 第11卷』。これは「赤づきん 杉山平助の肖像畫」(初出『文化組織』一九四〇年一月號→『自明の理』『錯亂の論理』所收)について語ったもの。

*11

都築久義「杉山平助論」『愛知淑徳大学論集』第六號、一九八一年三月、136100頁。

*12

生田長江「小説「一日本人」を讀め」『國民新聞』一九二六年一月十一日。そこで長江は杉山を「天才的な文藝家」とまで過襃した。ついでに「曾つて私が島田清次郎君の「地上」第一部に對して加へた好意的批評の當否は暫く措き、私が彼に許すに天才者を以てしたと傳ふる如きは、私を誣ふるも甚だしいものである」と語るに落つるやうな辯明をしてゐ、これが興味深い。そこに、島田清次郎的な文學受容枠組(フレイム)とでも謂ふべきものがうかがはれるからだ。實際、『一日本人』の結末二頁、主人公の文壇への野望と文學的成功が夢想される場面は、あたかも島田清次郎的なるもののパロディーのやうだ。

*13

實にその默殺たるや、古谷榮一「默殺された杉山氏の創作「一日本人」を評す(上)(中)(下)」(『讀賣新聞』一九二六年九月二十六〜二十八日)といふ三回に亙る書評が出た程に「默殺された」。

匿名批評の時代

杉山平助の名を高からしめたのは、逆説的にも、匿名批評であった。

『一日本人』につづく第二著『春風を斬る』(大畑書店、一九三三年五月)は「氷川烈」といふ署名で刊行された(二年後に『愛國心と猫』と改題して本名で千倉書房より再刊)。氷川烈とは、東京朝日新聞學藝欄の匿名コラム「豆戰艦」で杉山が用ゐた筆名である。何も「豆戰艦」だけを收録したわけではなく、初出に遡れば本名で發表した評論も多いのだが、敢へてそれをこの名義で一卷としたところに匿名批評家・氷川烈の盛名がうかがはれる。同時に『新潮』一九三三年五月號に載った「大御所論」もこれのみ氷川烈名義で發表してゐる。「まづ匿名で認められて、つぎに本名をかかげるにいたつたのも、いかにも「非常時」らしい文壇進出法である」とは大宅壯一の評だ。「いづれにしても、彼は匿名評論界の第一人者で、彼がこの風潮をつくり出した、といつて惡ければ、この風潮の波に乘つて現れた男である。」(「ヂャーナリズムと匿名批評」*14

匿名批評などいつの時代にもあるもののやうだが、實は二十一世紀にあっては既に失はれた文藝ジャンルのありやうと言ってよい。(すが)秀実は「今日のジャーナリズム批評のために 小林秀雄と大西巨人」と題する小林秀雄論の中で「今日のジャーナリズム批評の崩壊が、匿名批評の消滅という見やすい事態に反映されていることは、誰の目にも明らかであるにもかかわらず、そのことを文壇批評家の誰一人として指摘しない」と喝破して、その現状を概括してゐる。

周知であるか否かは問わず、雑誌『群像』の「侃々諤々」が本年一月号から廃されたことにより、いわゆる文芸雑誌から匿名批評(匿名コラム)はすべて姿を消した。『文學界』の「コントロールタワー」は九〇年代初頭になくなっている。その他、八〇年代には存在した「三人冗言」(『すばる』)も「魑魅魍魎」(『文藝』)も、とうにない。八〇年代に健闘した「斜断機」(『産経新聞』)は、九〇年代中葉のある事件の余波で署名コラムと化し、役割を半減させてしまった。書評紙の匿名も今はない。現存する目ぼしい匿名批評といえば、伝統ある「大波小波」(『東京新聞』)と「文壇事情」(『噂の真相』)くらいだが、前者の長年の停滞は目をおおうばかりであり、後者がかろうじて(時として)存在意義を保っているものの、掲載誌の性格上、ジャーナリズムでの影響力には限界がある。もう一つ、現在健闘していると評しうるものに、『新潮45』の偽署名コラムがあるが、これも『新潮』本誌に匿名批評欄が存在していないことの前提の上で成立しているわけで、メディアの布置のなかで今一つ力を行使しえない。

秀実「今日のジャーナリズム批評のために」『ユリイカ』二〇〇一年六月號「特集 小林秀雄」225頁)

「ミネルヴァの梟」(ヘーゲル)の譬喩もある如く、畢竟我々の認識は現在進行形のものには及び得ず、終焉を迎へる頃になって初めて今まで看過ごしてきたものをそれと認識し出す。恐らくこの梟の顏は過去の方に向いてゐて(ベンヤミンの「歴史の天使」のやうに?)、せいぜい過去になりつつある現在だけしか眼前にすることができない。そのやうに終焉しつつある匿名批評がやうやく歴史的存在として映じてくる時、杉山平助といふ名が索引(インデツクス)として浮かび上がるわけだ。

さて杉山が覆面で登場した「豆戰艦」は、毎月の雜誌短評欄であった。創設された一九三一年十二月は無署名、翌年一月から氷川烈の名が入り、途中「その匿名を氷川烈、横手丑之助、大伴女鳥といふ風に變へたけれど、その前半期における筆者は、完全に私一人であつた」(杉山平助「匿名批評論」『日本評論』一九三七年五月號→『現代日本觀』所收)。後期、即ち一九三四年二月の大伴女鳥(=タイハンメイチュウ)からは青野季吉との共同の筆名であり*15、以後同欄はX、玉藻刈彦等の變名を交へつつ一九三六年五月まで續いた。「一九三二年、三年が最も絶頂であつた。ジャーナリズム全體から問題を拾つて辛辣に批評した。思ひ切つた惡口ものつたために、それは忽ち世間の注視の的となり、匿名批評がジャーナリズム全體に擴がつてゆき、筆者の杉山は文藝評論をはじめとし、あらゆるジャーナリズムに流行していつた」とは板垣直子の總括するところ*16。この「豆戰艦」の成功が新聞雜誌全般に匿名批評欄の隆盛を生んだ經緯は、杉山自身も述べる。「いづれにせよ「日々」[東京日日新聞]の「匿名欄」、その後の「おけらの唄」、都の「大波小波」、讀賣の「壁評論」、報知の「速射砲」等が陸續としてあらはれたのは、むしろその後のことであつた」「新聞の「匿名欄」の旺盛に刺戟せられて、從來散見してゐた雜誌における匿名的評論も、さらにまた旺盛になつて來て、編輯者の重要な關心をひくやうになつた」(「匿名批評論」)とは、決して自畫自讚ではなく衆目の認める所だった。「杉山平助の登場や「豆戰艦」の好評を無視してすくなくとも今日の匿名流行を論じられず」(矢崎彈『過渡期文藝の斷層』昭森社、一九三七年四月、327頁)

當時の匿名批評界を大宅壯一によって概觀しておかう。

これまで匿名評論といへば、或る事件や問題について、それを正面から論ずることのできない特殊な條件のもとにおかれてゐた人間が、やむをえずとつた特殊な、どつちかといへば變態的な評論形式であつた。ところが、近頃はかへつて匿名評論の方が、ヂヤーナリズムの上で、特にセーヴされた指定席を占めてゐる場合が多い。裏木戸がいつの間にか玄關になつてしまつた形である。

新聞の學藝欄でも、讀賣の「壁評論」、朝日の「豆戰艦」、日日の「蝸牛の視角」、都の「大波小波」等、ほとんどすべて匿名席が常設されてゐる。雜誌の方でも『新潮』の「スポット・ライト」や「ヂャーナリズムの動き」などは、もうかなり長くつゞいて、同誌の骨格の一部にさへなつてゐるやうだし、『中央公論』の「街の人物評論」なども當分ずつとつゞきさうだ。そのほか『文藝春秋』の「文藝春秋」、『文藝』の「五行言」、『改造』の「寸評」を始め、古くからある列傳體や總まくり式の匿名人物評論などを一々あげて行つたらきりがない。特に『文藝春秋』の如きは、政治、經濟、新聞、ラヂオ等にわたつて、常設的匿名評論が、同誌評論欄の脊髓になつてゐるといつても、敢て過言ではない。

(大宅壯一「ヂャーナリズムと匿名批評」前掲『ヂャーナリズム講話』所收、3435頁)

以て、從來からあった匿名批評とのあり方の違ひ、そしてその具體的な擴がりぶりが知られる。

ところで杉山自身は匿名批評の特色を奈邊に見てゐたのだらうか。「それは初期において、惡ヂヤアナリズムへの一つの反撃としてあらはれた」(「匿名批評論」)とは後に顧みての言だ。これを匿名評論全盛の最中の言葉で語らせるとしよう。曰く、「文壇に匿名辻斬り横行す。/これまた不自然なるヂヤアナリズムのかもした「險惡なる一世相」と云ふべきか。/この「險惡なる一世相」を招來したるものは何か。/一に曰く、出版資本の強壓力である。[……](「續文壇從軍記 昭和七年」中「一六 匿名辻斬りと編輯者」『氷河のあくび』354頁)

近頃、目だつた現象としての匿名の批評、攻撃、皮肉、漫罵といつたやうなことは、出版資本の統制力が強きに從つて、文筆業者が感懷を率直に語る自由を奪はれてゆく傾向に激發されて發生したところの變態的現象としても部分的には説明がされるのである。

このことは、近時の匿名欄の内容をなすところのものが、これまでのやうに單に個人的な作家批評家相互の中傷や漫罵にとゞまらず、むしろ出版資本及びそれを圍繞する番頭手代たる編輯者、或はその編輯技術といつたやうなものに對する惡罵がむしろ中心化せんとするやうな傾向が隱約の間に看取されることを指摘することによつて更に明白であらう。

(「匿名の流行」初出未詳、『春風を斬る』昭和八年所收)

つまりその眼は作品や作家の批評であることを越えて、出版界や編輯陣といった文學の環境へと向かってゐたわけで、その意味での「ジャーナリズム(に就ての)批評」でもあったのだ。匿名批評欄には『新潮』の「ヂヤアナリズムの動き」(一九三三年新年號〜三七年十一月號)のやうな正にそのものといったコラム名もあり、先驅となった「豆戰艦」からして元來「×月の雜誌」と見出しのつく毎月の新聞雜誌時評の欄であった。今日ならメディア時評とでも稱する所だらう。當時名高かった匿名批評の例ではS・V・C(鈴木茂三郎)『新聞批判』もある。これは氷川烈『春風を斬る』と同じ大畑書店から同年の刊行で、『文藝春秋』一九三二年四月號より連載の「新聞紙匿名月評」を纏めたものだ。また一ヶ月毎に雜誌の動向を展望するといふ形式では、こちらは匿名では無いが、「論壇時評」といふものの成立がちゃうど「豆戰艦」創設と前後した頃であった。田中紀行によれば、「「論壇時評」が論壇人の言論をジャーナリズム自体が批評する制度として定着したのも昭和初期である。一九三一(昭和六)年に『中央公論』(三月号から一一月号まで)に連載され、これを継承するようにして同年一一月八日付け『東京朝日新聞』学芸欄に連載が始まったのがその発端である」(「論壇ジャーナリズムの成立」)*17。かくして發表の場である新聞雜誌(ジヤーナリズム)そのものへと視線が向けられる中、杉山平助はこれを主題とする一聯の評論を殘すことになるだらう。しかしそれはまた先で觸れる。

*14

大宅壯一「ヂャーナリズムと匿名批評」前掲『ヂャーナリズム講話』所收、特に「二 匿名批評家の正體」3637頁參照。

*15

青野季吉『文學五十年』「二・二六事件のころ」(筑摩書房、一九五七年十二月、140141頁)參照。なほ青野は「匿名評論はなくてすめばそれに越したことはなかった。しかし満州事変(六年)上海事変(七年)二・二六事件、そして日華事変のぼっ発(十二年)といったゆがんだ風土では、さまざまな仮面の匿名評論が繁茂しないですむわけはなかった」と、消極的評價を下してをり、そこに軍國主義の抑壓しか見ない點、慊らない。それでは敗戰後の匿名批評の復活も占領軍の壓政下にあったためだとでも言ふのだらうか。

*16

板垣直子『現代の文藝評論』第一章一「5 匿名批評の發生と流行」、第一書房、一九四二年十一月、3437頁參照。

*17

田中紀行「論壇ジャーナリズムの成立」筒井清忠ほか編集委員『近代日本文化論4 知識人』岩波書店、一九九九年九月、192頁。

超ジャンル批評、或いは雜文

まづ杉山平助の場合も、大方の批評家と同じく、文藝時評で世に認められたのだったが、それは狹い文壇的通念にとらはれない廣い「社會的常識」(矢崎彈)を特徴としてゐた。これに目を止めた編輯者達から文學以外の評論を註文され、多方面に筆を揮ふやうになったのも當然な成り行きであったらう。しかしそれは杉山自身が出發時から示した姿勢でもあった。『一日本人』發表後の杉山はかつて慶應義塾に學んだ縁から『三田文學』に投稿してゐるが、その第一作「下層一斷面」(一九二七年五月號)を見ると、雜誌目次では「[小説]」と銘打たれてゐるものの、末尾に奇妙な小文を附すのだ。

(附記) 曾つて吉野作造氏と會談中、自分が文壇といふものに強い執着を持ち得ぬことを話し、目下計劃しつつある長篇[『一日本人』のこと]完成後は、實行運動に加はりたき志望をフト漏らしたるに、僕の病弱[肺病で慶應豫科中退]を懸念されたらしい吉野氏は、評論を書いたらいゝでせう、と云はれ「サア、何と云ひますか、一寸口では云へないが、藝術體の評論といふ風な行き方のもので……」と口ごもられた。

僕は黙つてうなづいた。氏の云はれんとする所が分つた氣がした。

本篇はその暗示によつて生れたもの、小説體の評論、或は評論體の小説、どつちとも云はれる所を狙つた。かき終つた後の氣持は、何か歪みなく、感想し得た時の心の滑らかさを感じ得た。今後かういふ形式の社會批評をボツやつて見ようかといふ氣持さへ起つて來た。

詩、小説、評論、この三者の融合が僕の文藝形式上の持論である。

(杉山平助「下層一斷面」『三田文學』一九二七年五月號)

事實、續く『三田文學』誌上の杉山の活動を逐ふと、所謂詩歌小説・文藝評論の他に、翌一九二八年六月號から八月號にかけて「時事雜感(UP―TO―DATE欄)」が載り、一九三〇年九月號からは「社會時評」を六回連載してゐる。杉山は既に修業時代から廣義の評論への志向を發揮してゐたのであり、同樣の形式を問はない新形式の提唱は「わが文學の道」(『文藝』一九三六年八月號→『絶望と享樂』所收)にまで一貫して見られる。「ただ、目前に、自分が發想しなければならないものを、發想するのに最も都合のよい樣式を選べばよいのである」(「わが文學の道」)

これを目して「超ジャンル批評」と呼んだのは山口功二の杉山平助論*18であった。山口の見る所、それは「形式がもつ威光というものにとらわれずに、「私」の表現を可能にするもの、「私」の感想を歪みなく語りこめるような独自の形式をつくりだすこと」である。だから、先の「附記」では表現形式についてのみ超ジャンル性を主張する如くだが、結局それが對象領域のジャンル横斷性にまで歸結する。基準に据ゑられてゐるのが「私」である以上、「私」の興味の赴くところ、批評對象を選ばないわけだ。「朝にレビユーを論じ夕に文學を論ず」と囃された所以であるが、對象は編輯者の註文次第でもそれを論ずる「批判の標準」を保持する限り無節操の誹りは當らない、といふのが杉山の見識であった*19

多樣なジャンルの混成そのものをジャンル的特質とするやうな包括的な(メタ・レベルにある)ジャンル――お望みならこれに、バフチンやノースロップ・フライに倣って「メニッポス的諷刺」の尊稱を呈してもよいかもしれない。いささか過襃に過ぎようが、序言にかの「スヰフト」の向かうを張ったといふ、頗る荒唐無稽な書き下ろし長篇『二十一世紀物語』(一九四〇年)を持つ杉山平助であってみれば、丸っきり僭稱でもあるまい。

超ジャンル志向は何もひとり杉山平助の個性といふわけではない。山口功二は、かうした新しい批評形式への關心を語る言葉を同時代の新居格(にゐいたる)からも引いてゐる*18。この時期發展するジャーナリズムが讀者層の擴大に伴って取扱ひ領域を擴げたのと併行した現象なのだ。しかしながら彼らは「昭和初期から戦中にかけて厖大な批評を書きつづったにもかかわらず、現在ではあたかも泡沫的批評家扱いされる」「批評といえば、純文学上のそれをさすという伝統が、今なお生きており、杉山平助や大宅壮一などの社会学的批評の系譜を傍系へと追いやっているのである」。だから、それをメニッペアン・スタイルとかアナトミーとか呼ぶのが大袈裟だとしても、「文學に於ける小説至上主義」(杉山「わが文學の道」)が見えなくしてゐるものに氣づかせるためには許されていい誇張ではなからうか。

そもそもさうやってフライがわざわざ創案したジャンルも、分類に困るやうな雜多(ミセレーニアス)なものの押し込み先になってゐる。それらはもっと飾らぬ呼ばれ方では、「雜文」といふのがまづ適當なところだらう。だが雜文といふ輕い名稱がツイ看過ごさせてしまふけれども、これまた時代の刻印を帶びてをり、歴史的な存在として今日のやうな形態を得たのである。實際、昭和初期の『文藝年鑑』を繰ってみても作品一覽のうち「隨筆・雜文」といふ分類が最も頁を取ってゐて、量だけから言ってもこれを無視してはならぬ筈だ。勿論それは「他の項に入らぬものは、何れも本項にて取扱つてゐ」たからでもあらうが、「雜文は各新聞雜誌にあつて、必ずしも重要な地位は與へられてゐないがしかし何れもこれを必要とする點ではいよその度を強くしてゐる」(「隨筆・雜文の傾向」『文藝年鑑』昭和四年版、97頁)といふ情勢は否定できない。またその概觀は「一般娯樂雜誌、婦人雜誌が小説戲曲等の作品のほかに、文藝家の文藝的雜文を掲載する――この傾向が漸次顯著になつて來たこと」「一般雜誌、娯樂雜誌、婦人雜誌が文藝家を煩して文藝以外の題目についての雜文を輯録すること、また逆に文藝雜誌がこの種の雜文を載せるやうになつた事」を指摘する。即ち超ジャンル的な越境交叉(クロスオーバー)現象がここにも見られる。しかも「何よりもこの部門には、雜誌新聞の各方面とも、最もよく時のジヤアナリズムの反映を看取出來ること何人も容易に首肯し得る所であらう」(「隨筆・雜文概觀」『文藝年鑑』昭和五年版、82頁)。ジャーナリズム論としてもこの聯関は見逃せないのだ。

しかるに管見では未だ雜文の發達と展開とを講究した專論(モノグラフ)を見ない*20。文學事典の「随筆文學」の項目などでついでのやうに觸れられるのが精々の所である。一例を擧げると――

[……]特に大正一二年発刊の「文藝春秋」が各方面の知名人の随筆を巻頭に掲げ、それが気楽な読物で、しかも社会的・趣味的な知識、批判、常識が得られるため、主として中年以上の小市民層の支持を得てこの新しい企画が成功して以来、各雑誌は浮遊読者を捕える目的で随筆ないしは中間読物・中間記事にも重点を置き、文壇人・学者・ジャーナリストのほかあらゆる社会人を動員した。その結果随筆は飛躍的に発展し、昭和時代は随筆時代とも呼び得る観を呈して現在に及んでいる。そして随筆文学のこのジャーナリズム的形態として雑文というジャンルが派生し、昭和期の随筆文学に大きな位置を占める。ユーモアを主とし、時事的な話題を採り上げる短文であり、社会人としての良識を生命とする。「話の屑籠」の菊池寛以下戦前では直木三十五・杉山平助・大森義太郎・大宅壮一・新居格、[…戰後の人名略…]等が代表的雑文家として活躍している。

(川口朗「随筆文学」『近代日本文学辞典』東京堂、一九五四年五月。傍線引用者)

ご覧の通り、またしても「ジャーナリズム」、またもや「杉山平助」なのである。

この「雜文」の盛行に關しては、『文藝春秋』の興隆がしばしば引き合ひに出されること、既に先に引いた文にも見え、大いに注意したい所である。だが長くなるので、ここでは永嶺重敏「初期『文藝春秋』の読者層」*21だけ擧げて「都市知識人の遊歩型雜誌」としての形式を記述したくだりの參照を乞うておき、杉山平助との關聯を述べる。戰前の『文藝春秋』は、現在あるのと同樣に毎號巻頭隨筆に各界人士を列べるのが定型だったが、それに續いて「文藝春秋」欄を掲げるのを常とした。アフォリズム風の短評を連ねる形式で、見開き二頁の無署名コラムながら、誌名そのままのコラム名ゆゑ雜誌の看板とも目されよう。實にこの欄が杉山平助の擔當であった。「豆戰艦」に先立つ一九二八年九月以來、十年にわたり連載を受け持ったのである。『三田文學』誌上の「社會時評」が菊池寛に認められて杉山が起用されたのだといふ*22。これは「文壇從軍記」と改題して杉山の著書に順次收録せられた。

「文壇從軍記」は、Journalの原義である「日々の出來事の記録」を積み重ねたものといふ意味で、ジャーナリスト流の歴史として評價できると思ふ。菊池寛の「話の屑籠」も亦然り。さういふ折々の隨筆・隨想を統一した題の下に纏めて成功した先例として、水上瀧太郎の「貝殼追放」の影響も考慮すべきだらう。自分を初めて見出してくれた生田長江すら酷評した杉山だが、『三田文學』時代に世話を受けた水上は「心の底から好きだと思ひこんでゐた、少ない先輩の一人であつた」といふ*23。ついでながら『貝殼追放』の第一回は新聞批判、「新聞記者を憎むの記」*24であったことも思ひ合はされる。ともあれ、小説家といふより雜文家やジャーナリストとしての水上瀧太郎と菊池寛に杉山平助の先達を見てゆくことができるのではないか。

因みに杉山には「雜文を輕視するな」といふ一文がある。開口して曰く、「新居格が「朝日」の隨筆欄で、今日、一般の短形文章を雜文なる名稱で包括し、これを輕侮の念をもつて眺めることの傾向を指摘し、これをまことに時代おくれな封建的事大主義に捉はれたものとして、排撃したことはきはめて宜しい」(「續文壇從軍記 昭和七年」二八、『氷河のあくび』364頁)――恐らく、我々はもっと新居格に學ばねばならないのだ。

*18

山口功二「マス・ジャーナリズムとしての批評(一)――杉山平助をめぐって――」『評論・社会科学』第七號、一九七四年一月、同「マス・ジャーナリズムとしての批評(二)――杉山平助と昭和期ジャーナリズム――」『評論・社会科学』第九號、一九七五年三月。特に後者、73頁以下。

*19

杉山平助「氷河のあくび 朝にレビユーを論じ夕に文學を論ず」『氷河のあくび』日本評論社、一九三四年十二月、1725頁。

*20

「隨筆」カテゴリーに就いては、既に近世の考證隨筆から意味内容が改まったことが注目されてをり、鈴木貞美に「一九二〇年代に随筆叢書類の大量刊行により、「随筆」=「エッセイ」という概念の再編成があった」旨の發言がある由。目野由希「太陽医事欄をめぐって――学問からエッセイへの階梯――」(筑波大学近代文学研究会編『明治から大正へ メディアと文学』二〇〇一年十一月)155頁參照。

*21

永嶺重敏「初期『文藝春秋』の読者層」『モダン都市の読書空間』第三章、日本エディタースクール出版部、二〇〇一年三月。

*22

杉山平助が菊池寛によって見出されたと語るものは多いが、丸山信「異色評論家 杉山平助のデビュー」(『三田評論』)だけはやや異なる。「当時『文春』には「文芸春秋」という評論のコラムがあったが、これには改良の余地があったのに杉山は眼を付け、何ヵ月かにわたって投稿しつづけ、遂にある日菊池寛から呼び出しがきて、「君にこの欄をまかせる」といわれるチャンスをつかみ」云々。主客が逆轉して、杉山が菊池に働きかけたことになってゐる。この逸話の出所は不明だが、信用できない氣がする。

*23

杉山平助「阿部さん」(『三田文學』一九四〇年五月水上瀧太郎追悼號→『悲しきいのち』所收)。また「貝殼追放について」(初出未詳→『文學と生活』所收)も參照。早い時期では「匿名の流行」(初出未詳、『春風を斬る』昭和八年所收)の中で「貝殼追放」をジャーナリズム批判の例に擧げてゐた。なほ、杉山が一九三四年後半から折々の雜文を各紙誌で「氷河のあくび」と題して發表したのも、「貝殼追放」の故知に倣ったやり方ではなかったか。後で本に纏める都合を考へて豫め掲載誌を越えた總題を設けたのであらう。但し、だとしても徹底を缺いてゐた。それらは『氷河のあくび』『文學的自敍傳』の二著に收録されてゐるが、それ以外の題で發表されたものの方が多く收録されてゐるので、一貫性を保つことに成功してゐない。もともと『大波小波』(小田切進編、全四卷、東京新聞出版局、一九七九)のやうに同一の發表紙誌で同一の欄に掲載されたといふ括りでもないと中々纏めにくいものだ。或いは長谷川如是閑の『眞實はかく佯る』(〈朝日文庫〉朝日新聞社、一九五〇年七月)のごとく、雜誌の主筆として活動したジャーナリストの卷頭言の類ならばまだまとめやすい。成功した部類の『貝殼追放』と雖も、第一から第五までを生前に刊行したが、全篇通讀するには死後の『水上瀧太郎全集』(岩波書店、一九四〇〜四一年)を待たねばならなかったし、全集版の粗を改めた平松幹夫による嚴密な校訂版(文體社、一九四七〜四八年)は三册で中絶してしまひ、未だ完全版を見ないのである。著書多數を殘した杉山はまだしも好運な例外だった。かくて雜文は埋もれゆくわけだ。

*24

鶴見俊輔編集『ジャーナリズムの思想』(〈現代日本思想大系12〉筑摩書房、一九六五年六月)に收む。

フィユトン・クリティク

遠慮無き直言を以て鳴った杉山平助は、常に話題を喚んだ代りに、恨みを買ひ、批判を受けることもまた多かった。さうした中、つねづね杉山を高く評價してゐた一人に阿部眞之助がゐる。

世間では彼を、文學者もしくは評論家と解してゐるやうだが、私の眼は、彼を稀な才能に惠まれた、ジャーナリストの一人として見る。こゝでジャーナリズムの講釋でもあるまい。だがジャーナリズムの一つの要件は、新鮮なるものの不斷の創造だとだけは云つて置きたい。菊池寛の作家としての偉大さは、私の信ずるところ、ジャーナリストとしての天分の偉大さによるのであつて同樣に杉山平助の評論家としての、特殊性もまた、ジャーナリストとしての個性の上に歸せられなければならない。[……]

(阿部眞之助「杉山平助」初出未詳→『新世と新人』三省堂、一九四〇年十二月、209210頁)

阿部眞之助(*1884〜1964)は人物評論と毒舌で知られ、その點、杉山平助と相通ずる。「『中央公論』の「街の人物評論」は彼[杉山平助]と阿部眞之助氏の筆である」(大宅壯一「ヂャーナリズムと匿名批評」)。元は東京日日新聞社政治部長であったが、大阪毎日新聞=東京日日新聞の社内紛爭の煽りをくらって待命休職、一九三二年に畑違ひの學藝課長に復職し、翌年學藝部長となる。その時の人脈を辿ると、あたかも文學とジャーナリズムの關係を語る上での代表人物が目白押しなのである。

[……]當時毎日新聞の學藝部には、千葉龜雄があり、萬事私の相談相手になってくれた。[……]つまり私はこの上もない便利な、しかも生きて働く百科辭典を、手近に備えつけていたも同然だつた。しかし私は一部の百科辭典のみをもつて、滿足しなかつた。ジャーナリズムの活動は辭典的物識り以外に、分野があることを、知つていたからである。

文藝とジャーナリズムとの關係については、その頃も議論があり、いまもある。ジャーナリズムが文藝を毒するといつたような議論である。當れるもあり、當らざるもある。何れにせよ新聞記者である私が、ジャーナリズムを離れた立場を取りようはなかつた。私は廣く文壇を見廻し、ジャーナリズムの範疇で、私の助言者となるべき人々を求めた。高田保、大宅壯一、木村毅の三君が、同時に毎日に入社するようになつたのは、こうした事情によるのだつた。外に杉山平助に目をつけ、口をかけてみたが、これは朝日と先約ができていたので、あきらめなければならなかつた。そのため四天王に一天王が缺けてしまつたわけである。[……]

(阿部眞之助「毎日時代の保ちやん」『恐妻一代男』文藝春秋新社、一九五五年十二月、138頁)

前出の大宅壯一、木村毅、さらに千葉龜雄(*1878〜1935)、高田保(*1895〜1952)、……いづれも關心すべき文學者ばかりではないか。あいにく千葉龜雄は病歿したが、阿部眞之助が社友とした三傑の活躍もあって、それまで奮はなかった日日學藝欄は全盛時代を迎へたと評される。なほ杉山平助は一九三五年から四五年十二月まで東京朝日新聞學藝部囑託であった。

いま彼らを個別に檢討する暇は無いけれども、その活躍した場である、新聞の學藝欄といふ制度には目配りしたい。明治後期に文藝欄として誕生し今日は文化欄とも云はれるこの紙面の歴史は、植田康夫が大略を記してをり*25、その中で都新聞(現在の東京新聞)の匿名コラム「大波小波」も取り上げてゐる。だがそれだけでは、匿名批評の繁榮が取分け新聞學藝欄に端を發したこと、特にこの三〇年代に新聞學藝欄が躍進したといふ事實が、見逃されてしまふ。そもそも「社會部の一隅に、居候然と席を占めてゐたに過ぎなかつた學藝部と運動部が、獨立の一部として編輯局内にその存在を明かにし、紙面の上に於ても重要な地位を獲得するに至つたのも、大正期の後半期に於てである」(伊藤正徳『新聞五十年史』)*26。さらに關東大震災後の各紙部數の飛躍的増大を經て、昭和期に入って夕刊の増頁などにも支へられて紙幅を得てゆく。先の阿部眞之助のゐた東京日日新聞では學藝課が部に昇格したのは一九三三年。そこには、『文藝春秋』が片々たる文壇ゴシップ誌から堂々たる一般總合雜誌に成長したのを支へたのと同じ氣運が働いてゐたやうに思はれる。つまり、文學の新聞(ジヤーナリズム)――のみならず、新聞(ジヤーナリズム)の文學化。或いは、文學の一般化であり、一般の文學化である。

さうした學藝欄の發展を反映する一例として、『新潮』に連載されたQQQなる匿名によるコラム「新聞學藝欄批判」が擧げられる。一九三六年新年號から翌年十一月號迄のあひだ掲載された。同時期、『新潮』には「ヂヤアナリズムの動き」欄が續いてゐたのだが、ジャーナリズムのうちでも新聞學藝欄のみ獨立した對象として扱ふだけの必要が認められたわけだ。何より決定的なのは、『日本學藝新聞』(新聞文藝社→日本學藝新聞社)の創刊である。一九三五年十一月五日附創刊號の第一面を飾ったのは杉山平助「昨今の新聞學藝」。同紙は謂はば新聞各紙の文藝欄・學藝欄をそれだけで獨立させて一紙としたやうなもので、「新聞調」(藤原勘治)も極まれりの感がある。戸坂潤「讀書法日記」の連載や〈新刊良書クラブ〉の企劃など、書評にも工夫が見える點、出版文化史上も特筆すべきだ。書評紙『日本讀書新聞』(日本讀書新聞社)は同紙に續く一九三七年三月の創刊だった。このやうに當時、昭和前期を通じて、新聞學藝欄及び新聞學藝欄的なるものが讀者層の間にやうやく滲透しつつあり、なればこそ、一新聞紙の眇たるコラムに過ぎぬ「豆戰艦」が大いに世評に上ったりしたわけも領解できるといふものだ。

日刊である新聞は、月刊の雜誌や出版に時事性の點で優り、その意味でジャーナリズムの尖端にある。にも拘らず新聞の學藝欄には、日々の事件を逐ふ報道ジャーナリズムとして片づけられない剩餘がある。そこに報道や論説を中心に説かれてきたジャーナリズム論とは異なる見識が芽生える餘地もあった。「この欄は、その他の社會、政治、經濟等の各欄に比較して、比較的にフリーであるかの外觀を呈し、また事實として幾分かフリーなのである」と杉山平助は言ふ。

いつたいに新聞の機能は、指導することゝ報道することだと考へられてゐるが、それに新聞が商品化されるとゝもに、賣るための興味的要素が極度に重んじられはじめ、その第一義的存在理由として考へられてゐた指導的任務は、今日では殆ど喪失してる(ママ)觀があるといふのが一般の觀測であるが、この傾向は學藝欄に於ては、いさゝか異なつ(ママ)形であらはれてゐるやうである。

いつたい日本の新聞に文藝欄なるものが設けられたのは、最初は指導のためでなくして興味のためではなかつたか。肩のこるやうな政論ばかりではなく、たまには「消閑の具」として文學談でものせやうではないか、といふ程度のところで、文藝欄が設けられたので、文學の持つ社會的支配力などゝいふものは考慮の外にあつたらうことは、明治初年新聞の文學者の作品傾向をもつてしてもうかゞふに足るのである。

(杉山平助「文藝欄を論ず」『都新聞』一九三三年八月→『現代ヂャーナリズム論』95頁)

杉山平助(ら)の特色は、新聞媒體以外に寄稿する時でもフィユトニスト(文藝欄のライター)としての性格を發揮した所にある(杉山に至っては家庭欄の女性身上相談にまで進出した程だ)

新聞記事と雜誌記事との區別すべき要點は、先日木村毅氏がこの欄で觸れてゐたところのやうであるが、學藝欄は新聞紙中でも最も雜誌的な傾向の濃い部分ではあるが、それでもそこに掲載される小説や評論は、雜誌に發表される小説や評論に比較して、内容形式ともに大いに手心のされねばならないところのあることは明白だ。

雜誌といふものは、その時に讀むのが厭なら机の抽斗にしまつておいて、氣のむいた時にまたとり出して讀めるといふ性質があるが、新聞の方はさうはいかない。[……]

從つて新聞向きの評論といふものは、まづ何よりスラと讀み易いものでなければならず、同時にどこか人の意表を突くと云つたやうな、いつも何か新しい期待を持たせてくれるやうなところがなくちァならないであらう。

この二三年來の大宅壯一の評論などは、その意味で、最も新聞向きのタイプの一つとして推稱されるべきものであらうが、[…以下略…]

(杉山平助「新聞向きの評論」初出未詳→『春風を斬る』337339頁)

新聞小説について論議を喚んだのもこの頃、昭和十年前後のこととして文學史に記されるが、小説至上主義を脱して觀るなら、それ以上に「新聞向きの(ジヤーナリステイツクな)評論」――謂はば「フユトン・クリティク」(矢代梓)*27の展開が顯著だった。矢代梓は、一九二〇年代ワイマール・ドイツ期の雜誌ジャーナリズムの中でベンヤミンやアドルノらが「フユトニスト」として活動してゐたことに注目してゐる。フィユトニストには狹義の文學者だけではなく、學者や思想家も含まれるのだ。同樣に日本でも、二〇年代後半から三〇年代を通じて文學評論に文壇外のアカデミーや哲學畑からの參入が目立った。當時の所謂「局外批評家」――三木清、戸坂潤、岡邦雄、大森義太郎、谷川徹三、林達夫、等々がそれ。杉山平助には彼らのやうな學殖こそ無かったが、どこか「文壇の垣」(川端康成)の内に納まらぬ、局外批評家に通ずる風貌を有してゐた。

*25

植田康夫「新聞と文化」田村紀雄・林利隆編『新版 ジャーナリズムを学ぶ人のために』第10章、世界思想社、一九九九年十二月、161175頁。同書新版から増補された章である。

*26

伊藤正徳『新聞五十年史』第十二章5、〈新日本文化史叢書〉鱒書房、一九四三年四月、313頁。『新版 新聞五十年史』(鱒書房、一九四七年四月)では第十一章5、148頁。

*27

矢代梓『フユトン・クリティク 書物批判への断片(フラグメンテ)「序にかえて――書物批判への断片(フラグメンテ)」北宋社、一九八七年三月、6〜17頁參照。

メディアの理解

杉山平助の匿名批評がジャーナリズム批評へと發展する志向を持つものでもあったことは先述した。『現代ヂャーナリズム論』「序」に自負して曰く――「ジヤアナリズム研究の、つひに今日の如く隆盛たる」過程にあって、「われわれは、個々の人物の評論、或は個々の作家の作品を批判するとゝもにこれに影響を與へ、これを支配する雜誌そのもの、新聞そのものを問題として、批判の対象とせねばならないことは、私が、つとに唱導し來つたところであつた」と。但し、『現代ヂャーナリズム論』一卷は「時々刻々に變化するジヤアナリズムの形相を、私が記者的角度から眺めたものゝ集積にすぎない。故に或る點は雜駁であり、系統立つた原則的見解の確立といふ方面の努力に缺けてゐるのであるが、それは他の私の著書と參照して相(ママ)翼してもらひたい」。

そこで杉山の著した原理論的な考察を見てゆくとしよう。まづ注目されるのは「商品としての文學」(『東京朝日新聞』一九三一年九月十九・二十日)「批評の敗北」初出未詳だ。これは杉山の數多書き散らした評論の中でも特に再録されることが多いもので、自著にも、また死後の文學全集にも採録された*28

文學もまた商品である――「この經濟學者にとつては常識にすぎない見解を文學者自身は容易に認めたがらない本來の傾向を持つ」(「商品としての文學」)。近年山本芳明は、昭和八(一九三三)年以降に始まる所謂「文藝復興」期について、「〈市場〉が徐々に拡大するとともに、円本ブームによって一旦は明らかにされた文学の商品性は「純文学」の名の下に隠蔽されようとしていたのである」(「円本ブームを解読する」*29と結論してゐる。だが正にその文藝復興期に、文學の商品性を再三論じた杉山平助といふ文學者のゐたことを忘れてはなるまい。況んや「商品としての文學」を收める『文藝從軍記』(改造社、昭和九年六月)はその名も〈文藝復興叢書〉の一册であるにおいてをや。――とまれ、さういふ否認されがちな見解を敢へて突きつける所に杉山の批評の特徴があった。「杉山平助のすぐれているところは、自明の事実でありながら、文壇人はなんとなく自分の恥部をさらけだす思いがしていいたがらず、一般人はそれを口にすることでこうごうしい芸術のミューズのまぼろしをくだいてしまうのではないかとおそれていたことをズバリといってのけた点にある」(尾崎秀樹「杉山平助論」)*30

但し文學商品説だけでは全く常識論を出ず、先取權(プライオリテイ)も誇れない。新聞論においては既に一九二二年、木鐸記者の否定と新聞商品主義を大阪毎日新聞社長本山彦一が『日本新聞發達史』(小野秀雄著)に寄せた序文で説いてゐた*31。文學論としても先んじて菊池寛や大宅壯一の論があり、『文藝市場』(一九二五年十一月〜一九二七年五月の實踐もあった。杉山の「商品としての文學」が先行の説に何かを加へてゐるとしたら、小説といふ商品だけでなく、批評に焦點を當ててゐる所であらう。これは「批評の敗北」でさらに展開されてゐる。

「商品としての文學」によれば、「生産物が商品化されるとともに、生産者と消費者との從來の緊密な直接的關係は遮斷され、仲買人の出現が社會的に要請される」。文學で言へば、作者と讀者との「直接的關係は遮斷され」、両者の間を取り持つ出版業者が現れるわけだ――「当世風にいえばマス・メディアということになるのだろう」(尾崎秀樹「杉山平助論」)――。「この藝術の仲買人、即ち書店あるひは雜誌社なるものは、[……]その發生形態においては批評的役割と結びついて出現したものの如くに想像される。/即ち、ある商品の仲買人たることは、その商品についてかなりたしかな鑑定力の所有者たることを前提として初めて成立する」(「商品としての文學」)

一方、批評家の發生はいかに説かれるか。――「生産物が商品化されはじめ、商品そのものの種別に於て、品質に於て眩暈的複雜さを加へて來るやうになると、一般需要者は購買すべき商品を批評選擇すべき任務の過重に堪へないやうになり、ここに初めて專門の職業的批評家の出現が要請され、批評家は生産者と需要者の間に立つて、生産物の質的評價の媒介の役割を演ずるやうになるのである」(「批評の敗北」)。文學に於るもこれに同じい。ここに作者と讀者の兩面に相對する文藝批評家なるものが出現する。

然るに現實の世界では、この文藝上の三角對立の上に更に文藝作品の仲買人、即ち出版者*32といふものが一枚加はつてゐて、現實の文藝なるものは作者、讀者、批評家、出版社なる四元の力學關係の上に、その變化發展を遂げて行くのである。

ところで、この作者、讀者、批評家、出版社なる四元の對立のうち、批評家と出版社とはその發生形態に於ても、社會的役割に於ても極めて酷似した關係にある。[……]

[…中略…]

即ち批評家とは、生産者と需要者の中間に立つて商品の質的優劣を決定する役割を擔當し、仲買人とは、その商品の交換價格の決定竝びに事務的處理を掌るものと考へるべきであらうが、この二つの機能は本來は交錯的なものである。

[……]

だから今日でも、文藝批評家が或る作品を推稱するといふことは、この作品に對しては高い稿料を支拂ふべしといふ決定をも暗默のうちに含めてをるのであるが、それが容易に批評家の御意のまゝに動かうとしないのは、一方に仲買人の判斷、即ち出版社會計係のソロバンがこれに對立するために外ならぬ。

(杉山平助「「批評の敗北」)

もともと「仲買人の批判の客觀性が企業上の利害觀念によつて歪まされ易い」ものだった。從って「批評家はその出現の當初から、仲買人の利害觀念を撥無すべき約束を帶びてゐるので、それは同一の胎から出た仲の惡い兄弟の關係を持續する」。かくて出版業者と批評家は「陽に親睦を裝ひながら苛烈な内面闘争を持續する」。そして「結局批評家が出版業者の手によつて徹底的に叩きつけられることによつてこの闘争は終結する」ことだらう――なぜか? それは、批評もまた商品化されてゐるからだ。そんなことは「分りきつた話のやうであるが、批評家自身竝びに一般世間に於て、これが現實的な認識として容易に把握せられなかつた」のだ。今や「着々と資本を集中しつつあつた出版業者」を前に、「批評そのものが商品化されるとともに、商品時代の共通現象として批評家とその需要者の關係もまた仲買人の取次の手を経てのみ初めて可能となる。從つて極度にその權力を擴大した仲買人は、自家の利潤と相反した批評は完全にこれをロックアウトしてしまふことは易々たるものである」……。「かくして批評は敗北した」(杉山平助「「批評の敗北」)

以上の杉山平助の論を、尾崎秀樹は大宅壯一から大熊信行へ至る間を架橋するものとした。

大宅壮一の「藝術および文学の生産原理および生産様式に関する唯物論的超個人主義的解釈」は、遠く白柳秀湖の「芸術運動の生物学的理解」に糸を引き、資本制社会の「商品」文学観を定着させたものだったが、杉山はその大宅説をさらに批評の機能分析にまで拡大し、文学の仲買人的性格をもつ出版社の独占化に注目した点で、マス・コミュニケーション論へ一歩接近した発言をなしたとみるべきであろう。

[…略…]

杉山の「商品」文学説は、さらに大熊信行の「社会的欲望の対象としての文学・消費の対象としての文学」観へ継承され、配分理論にもとづく独自な展開をみるのだが、これは別にまとめることにしよう。

(尾崎秀樹「杉山平助論」『大衆文学論』107108頁)

だがどうも尾崎の大熊信行論は成らなかったやうで、その代りでもあらうか、尾崎の編輯する季刊誌『大衆文學研究』(南北社)に連載中であった日沼倫太郎「純文学と大衆文学の間」が、大熊理論を紹介し、應用した(「純文学と大衆文学の間 八 ―大熊信行と余暇配分―」『大衆文学研究』十七號、一九六六年七月)

そして尾崎・日沼に觸れつつ、大宅壯一と共に大熊信行を特筆、これを本格的に再評價したのが、前田愛の「読者論小史――国民文学論まで――」であった。『近代読者の成立』(〈有精堂選書25〉、一九七三年十一月)の掉尾を飾る概論だ。同書が讀者論のみならず「文学研究におけるメディア論的展開に及ぼした影響は今さらいうまでもない」(金子明雄)*33。しかるにその後、尾崎秀樹が擧げ前田愛が論じた大熊信行の二著『文學のための經濟學』(春秋社、一九三三年十一月)『文藝の日本的形態』(三省堂、一九三七年十二月)を顧みる論者は、跡を絶った――『近代読者の成立』初版の翌年、大熊が兩書を合卷した『芸術経済学』(潮出版社、一九七四年七月)を改めて再刊してゐたにも關はらず、だ。二十年を經て、やうやく坪井秀人「一九三〇年代のメディア/文学論と黙読性の問題――大宅壮一と大熊信行の理論の批判的検討――(一九九四年)*34が發表され、メディア論的視座から大宅・大熊の文學論を對照したのである。しかしながら、その兩者を繋ぐ名前が忘れ去られてゐるとしたら――杉山平助である(わづかに「注」に參照されてはゐるが)。思へば、先の日沼倫太郎『純文学と大衆文学の間』(弘文堂、一九六七年五月)に於ても、初出連載時にはあった杉山平助への言及が、大幅に改稿・再構成された單行本では削られてしまってゐた。一九三〇年代のメディア論的文學論――それはジャーナリズム論として語られたらう――を主題とするならば、杉山平助に論及あって然るべきではないか。まして大熊信行によれば「藝術品や文學作品の價値問題については、杉山平助氏と二三年にわたる氣のながい論爭をつづけてゐる」*35といふのだから。

「商品としての文學」「批評の敗北」をはじめとする一聯の評論は、出版・批評を作者と讀者を繋ぐ媒介(メデイア)として主題化したものと言へよう。それゆゑメディア論的思考の系譜を辿る上で無視できないのだが、メディア論者としての杉山の限界も指摘しておかねばなるまい。「批評の敗北」の結論を引く。

この現状を如何に打破すべきか? 進んで細説すべき紙面もないが、窮極はかうした事態を生ぜしめた發端の發端たる作者と讀者との直接的關係の恢復といふことの外に途はない。即ち歸するところは資本の否定に外ならないのであるが、同時に最高の理想は批評の否定といふ方面にもあることを忘れてはならぬ。即ち批評の勝利とは、批評能力があらゆる民衆に行き亙り、專門的職業批評家の必要がこの地上から一掃せられた時代のことを指して云ふのだ、といふ認識が重要だ。

つまりは、メディアの否定。曰く「そんなものがなくつても、作者と讀者とさへあれば、いつ如何なる場所に於ても文學は生じ得る」――だがその時、メディアならではの魅力は存在しなくなるだらう。

のち、言論統制の嚴しさが廻避し得なくなる戰時體制下、杉山は自説の修正を公にする。

[……]近代における文學は、作者◎◎讀者◎◎出版社◎◎◎批評家◎◎◎との四元の相關關係の上に、社會的に成立するものだ、といふのがこれまで私の説いて來たところであつた。

しかしながら、この考への中には、未だ大きな缺陷があつた。といふのは、文學の社會的在り方に影響を與へ得るものとして、政府といふ、より力強いものが存在したといふことを、私は完全に見落して來たからである。[……]

[…中略…]

すなはち、從來は、出版社と讀者と批評家の意向に關してのみ、注意を拂つてゐた文學者は、現在はそれ等にまして、政府の意向に神經質にならざるを得ない、新しい事態に直面したのである。

[……]

もちろん眞に獨立不羈な文學者は、かうした一切の現象的流轉を蔑視し、超然として自己を持することは出來る。しかし、そのためには彼は、常に社會的沒落を覺悟してゐなければならない。そして彼が沒落してしまへば、その意氣と精神は、何等かの影響を世間に與へ得るであらうが、彼の文學そのものは、社會的には存在しなくなるのである。

(杉山平助「過渡期の文學者」『中央公論』一九四〇年九月號→『悲しきいのち』所收)

杉山の「商品時代における文學の社會的在り方についての分析」は、この論を以て總決算とする如くだ。

*28

自著では『春風を斬る』(=『愛國心と猫』)、『文藝從軍記』、『文學と生活』。死後は、筑摩書房版〈現代日本文學全集〉第94卷『現代文藝評論集(一)』一九五八年三月、講談社版〈日本現代文学全集〉第107卷『現代文芸評論集』一九六九年七月、但し後者は「商品としての文學」一篇のみ。

*29

山本芳明『文学者はつくられる』第十一章「円本ブームを解読する―「旱魃時」の新進作家たち―」〈未発選書9〉ひつじ書房、二〇〇〇年十二月、301頁。

*30

尾崎秀樹「杉山平助論――「商品」としての文学――」『大衆文学論』「 大衆文学の理論」勁草書房、一九六五年六月。初出『近代説話』第七集(近代説話刊行会、一九六一年四月)掲載「商品としての文学」を加筆改題。特に、大熊信行に觸れた箇所は初出に無く、「これは別にまとめることにしよう」とまで書き足したのに、同書では「研究の史的回顧――参考文献目録にかえて――」(初出『國文學』一九六五年一月號)の中で觸れる程度で、取り立てて論じてゐない。

*31

本山彦一「個人としての余の新聞政策」小野秀雄『日本新聞發達史』東京日日新聞社・大阪毎日新聞社、一九二二年八月。

*32

『文藝從軍記』所收本文を底本とした。『春風を斬る』『文學と生活』所收本文では「出版」。

*33

金子明雄「『近代読者の成立』という生成する書物の可能性」『日本近代文学』第64集、日本近代文学会、二〇〇一年五月、153頁。

*34

坪井秀人「一九三〇年代のメディア/文学論と黙読性の問題――大宅壮一と大熊信行の理論の批判的検討――」『日本文学』一九九四年二月號「特集・メディアという視座」日本文学協会。→改題加筆「メディアと文学の間――一九三〇年代の大宅壮一・大熊信行――」『声の祝祭 日本近代詩と戦争』第八章、名古屋大学出版会、一九九七年八月。

*35

大熊信行「文學と經濟學との關係」、初出『科學ペン』一九三七年一月號(未見)→『文藝の日本的形態』・附、三省堂、一九三七年十二月、186頁。→『芸術経済学』「文芸の日本的形態」・6、潮出版社、一九七四年七月、400頁。

書承における口承

對象の雜多な魅力に目を奪はれて、錯綜した記述であったかもしれない。締め括りとして、杉山平助とジャーナリズムをめぐる諸現象を整理するための視座を提出しておく。

大宅壯一は、「或る人が杉山平助を批評して「彼は座談を活字化することに妙をえてゐる」といつたが、たしかにそれは彼の急所をついた言葉である。しかもそれは杉山氏ばかりでなく、多かれ少かれ、匿名批評家全體にあてはまることである」(「ヂャーナリズムと匿名批評」)と言って、匿名批評の常連がみな「座談がうまい。少くとも座談の愛好者である」こと、しかし面白いことに「演説はあまりうまくない」ことを、指摘してゐる。「演説はいふまでもなく活字に近い」とも。

座談といへば、「座談會」といふものが流行したのも昭和初期からのことだった。今日ではどこの雜誌でも見る企劃だが、周知の通り、座談會とは『文藝春秋』(またしても!)が發祥であり、菊池寛の發案といふ。「尤も、これより以前に何々合評會と稱して、演劇や小説に對する批評會はあつたが、座談會といふこの形式は、正しく「文藝春秋」によつてはじめられたのである」(『文藝春秋 涼風夜話』「序」)*36。第一回が『文藝春秋』一九二七年三月號、これがテーマ別の座談となって、以後他誌にも採り入れられていった。

しかし大宅の指摘が興味深いのは、座談會どころか、別に口述筆記でもない匿名批評や雜文も「座談の活字化」と見做される所にある。これらの新たな樣式(ジヤンル)がこの時期に相前後して興ったところに何か共通の性質があるとしたら――。恐らく、かつては談話に於てのみ聞かれた發言、談笑の間に消え去るに任してゐた聲が、活字にも定着されるやうになったのだ。この示唆はもっと理論的な考察の中で生かせることだ。例へば、敢へて古めかしく當時の文學理論を持ち出すならば、モールトンの「文學形態論」*37。これは千葉龜雄「現代ヂヤーナリズム論」も引く所であった。

[……]「文學の現代的研究」の著者、リチヤード・グリイン・モオルトンによれば、ジァアナリズムは、文學の原始的原形への復歸であり、民衆への文學の解放だといふのである。彼に從へば、文學には、漂泊的文學(フロオチングリテラチユア)定着的文學(フヰツクストリテラチユア)の二面がある。われ等の祖先は文字の無い時代に生れ、上代文學は詩人の脣から、直接に公衆の聽覺に傳へられた。文學の原始的樣式は合唱に始まり、合唱が分化して、詩、音樂、舞踊に別れたが、その詩となった部分は耳から耳へと傳へられ、詩人のひきつゞいた反覆によつて、局部的に自由に變化されるから、漂泊的文學であつた。文字が現はれて書籍に作られる樣になると定着的文學が、漂泊的文學に取つて代つた。[……]けれども、この漂泊的文學から定着的文學への推移は、文學開發の最後の段階では幸ひに無かつた。記述が印刷術にその地位を變へて、ここに文學の原型であつた新しい形の漂泊的文學が再復活したのである。それがジヤアナリズムである。

(千葉龜雄「現代ヂヤーナリズム論」『經濟往來』一九三〇年十一月號〈現代ヂヤーナリズム批判號〉)

モールトンはジャーナリズムを口承文藝とのアナロジーで捉へてゐる參照)。口承文藝は浮動的(漂泊的)文學、書かれた文藝は固定的(定着的)文學と言ひ換へ(パラフレーズ)される。書物は浮動する口誦詩の聲を文字に固定するものだ。

しかし書物は、我々が辿りつつある特殊の展開の最終期ではない。書くことは印刷に位置を讓り、印刷は、その増加と分布の力を無限に擴張する。つひに、浮動文學の新しい種類が起る、即ちヂャーナリズムが。この語は、日刊新聞から雜誌、季刊評論(クオータリ・リヴユー)に至るまでの定期刊行物のすべてを云ひ表はすに用ゐられる。これは、定期刊行物であるといふ意味において、浮動の文學である。即ち、口傳詩の浮動文學においては、各反覆が新版であつたかも知れない如くに、ここでは定期刊行物の各出版はそれに先だつ版を無效にする。即ち、今日の新聞が出てしまつた時には、昨日の新聞はニューズたることをやめるのである。文學を書物に局限したことは非讀書階級を除外してしまつた。ヂャーナリズムの出現と共に讀書が普遍的にされる。新聞の廉價がそれを普遍的に近づき易いものとしたのみではない。この路を通る文學は、全體としての社會に押しつけられる。廣告はその商業の附屬物であり、新聞の本文はその公生活の器官である。著作は冒される。口傳詩の共同的著作は、書物の出現と共に、個人的著作に變つた。ヂヤーナリズムの勃興は變化を後戻りさせ、そして著作は匿名になり、それに應じて責任が失はれる。そして如何なる著作權があるかと云へば、それは定期刊行物の共同著作權である。[…後略…]

(モウルトン『文學の近代的研究』「第一篇 文學形態論」岩波書店、一九三二年十一月、26頁)

殊に、ジャーナリズムにおいて匿名性の傾向が蘇ること(「作者の死」?)の指摘は、杉山平助を索引としてジャーナリズムを見渡してきた本論にとっては、大いに肯ける所だ。戸坂潤も亦その「匿名批評論」(『思想としての文學』所收)で、新聞記事の無記名を例に、匿名はジャーナリズムの必然だと論じてゐたではないか。

或いは、ベンヤミンを援用してもよい。唐突だらうか。けれどもワルター・ベンヤミン(*1892〜1940)は、一流のフィユトニストであり(矢代梓)、またメディア論者であり(ノルベルト・ボルツ)、そして杉山平助らと同時代人であった。以下は文藝欄(フイユトン)にはびこる匿名短評(コラム)や雜文の分析として讀めないか。

ベンヤミンの表現を借りれば、断続的な思考のかけら、ひらめき、夢想、総体性の欠如ということになるが、これらはすべて本来、かつての活字メディアが作り上げてきた、閉鎖的なメディア環境の外側にはじき出されていたものばかりである。その結果、それらが避難所としてみずからを沈潛させていったメディアが、書物以外の表象システム、わけても、うわさ、伝承、口コミ、臆測といった口承メディアたちであった。そしてベンヤミンは、総体性の欠如を恐れない態度、これこそが新しいエクリチュールの原理となりうるかもしれないという。だとすれば、情報大量消費社会においては、かつての口承メディアたちの系譜が、活字メディアとしてのジャーナリズムにおける雑誌や新聞のなかに、ダイジェスト記事や読み物あるいはゴシップ記事などという新しいスタイルをまとって、合流し再生したということになろう。

原克『死体の解釈学 埋葬に脅える都市空間』〈廣済堂ライブラリー〉二〇〇一年九月、163164頁)

實はこれは十九世紀、高速輪轉機の發明によって情報の大量生産・大量消費時代に突入した頃の新聞を論じたものだが、のちのジャーナリズムの原型が既にそこに見出されるといふことだらう。ここでも、口承の再生としてジャーナリズムを捉へる視線がある。

もっと近年のものが望ましいのならば、ウォルター・オングの『声の文化と文字の文化』(藤原書店、一九九一年十月)でもよい。ともあれ、ジャーナリズム論は、口承と書承といふ二つの媒體(メデイア)にまたがる視座によって、メディア論的に再構成し得るのではないだらうか。

だが注意しよう。假にジャーナリズムが口承性の活字上における再生であるとして、しかし蘇ったそれは曾ての口承文藝そのままである筈がない。何が死んで、何が生き返ったのか。その異同を見極めるためには、ひと口に「口承文藝」といってもそれがどういふ口承であるか、今少し仔細に分析するための道具が要る。例へば口承文藝研究では「昔話と傳説と神話」といふ三分類があるが、私の見る所、三〇年代ジャーナリズムに比すべきものはそのいづれでもなく、「世間話」であると思ふ。そして世間話研究の原點として參照される柳田國男「世間話の研究」は、あのジャーナリズム論の劃期となった『綜合ヂャーナリズム講座』が初出なのである*38。そのコンテキストの中でこそ持った意味は、この論文が『定本 柳田國男集』に收められて民俗學的に讀まれるやうになってからは見失はれてしまった。

世間話といっても柳田國男の謂ふそれは日常語とはまた異なる射程を持つ。例へば新聞史研究では、その前史として、日本における新聞記者の原型を「世間師」といふものに見出す*39――その意味の「世間」である。また柳田によれば、「話(ハナシ)」とは古くからある「カタリ」とは違った、新たに生れた言語技術を呼ぶ新語であった。カタリのやうな定まった形式やそれに伴ふ堅苦しさ、嚴めしさを持たない。口偏に新と書いて「噺(ハナシ)」といふ字が造られた位、輕い新奇さを求めるもの――その意味のハナシは、ジャーナリスティックな匿名批評や雜文の性格とよく見合ってゐる。だからジャーナリズムを一律に古への口誦文學の復活と見做すのではなく、口承にも歴史があり、樣式(ジヤンル)の新舊異同があって、口承におけるカタリとハナシとの差異が、書承の領域でも反覆されてゐると見た方が適切ではないか。

しかしながら、これ以上は既に杉山平助ではなくまた別のインデックスによって探られるべき事柄に屬すだらう。別考に委ねたい。

*36

文藝春秋編輯部「序」澁谷清編『文藝春秋 涼風夜話』青年書房、一九三七年七月。本書は『文藝春秋』誌上に發表された座談會の中から選んで一册にまとめたもの。

*37

リチァード・グリーン・モウルトン著・本多顯彰譯『文學の近代的研究―文學の理論及び解釈の序論―』「第一篇 文學形態論 文學の多樣とその根底に横はる原理」、岩波書店、一九三二年十一月。原著一九一五年。なほ先行する縮譯として、モオルトン原著・蘆田正喜譯述『文學形態論』(東京寶文館、一九二三年三月)もある。

*38

柳田國男「世間話の研究」『綜合ヂャーナリズム講座 11』内外社、一九三一年十月。

*39

山本武利『新聞記者の誕生』(新曜社、一九九〇年十二月)10頁〜、等。

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杉山平助著書一覽
分類 書名 シリーズ名 發行所 發行年月日 備考
小説 〈小説〉一日本人 昭文堂 1925年12月 書き下ろし、自費出版
評論・隨筆 〈評論と随筆〉春風を斬る 大畑書店 1933年5月 氷川烈名義
小説 一日本人 新潮社 1933年12月 再刊
評論・隨筆 文藝從軍記 文藝復興叢書 改造社 1934年6月
評論・隨筆 人物論 改造社 1934年12月
評論・隨筆 氷河のあくび 日本評論社 1934年12月
評論・隨筆 愛國心と猫 千倉書房 1935年1月 『春風を斬る』改題再刊
評論・隨筆 現代ヂャーナリズム論 白揚社 1935年2月
評論・隨筆 文學的自敍傳 中央公論社 1936年1月
評論・隨筆 絶望と享樂 三笠書房 1936年9月
評論・隨筆 街の人物評論 亞里書店 1937年2月
評論 新戀愛論 中央公論社 1937年3月
評論・隨筆 現代日本觀 三笠書房 1938年3月
評論・隨筆 支那と支那人と日本 改造社 1938年5月
評論・隨筆 女性面會日 第一出版社 1938年10月
評論・隨筆 新らしい日本人の道 第一出版社 1938年10月
紀行文 揚子江艦隊從軍記 第一出版社 1938年12月
小説・戯曲 〈創作集〉自由花 改造社 1939年7月
小説 〈自傳的長篇小説〉一日本人 中央公論社 1939年10月 改稿
小説 二十一世紀物語 教材社 1940年9月 書き下ろし
評論・隨筆 悲しきいのち 改造社 1940年10月
評論・隨筆 日本文化と社會 教材社 1940年12月
評論・隨筆 つひに來たる日 萬里閣 1941年9月
評論・隨筆 文學と生活 有光名作選集19 有光社 1942年8月
評論 文藝五十年史 新日本文化史叢書 鱒書房 1942年11月 田中西二郎協力
女の幸福 コバルト叢書 コバルト社 1947年4月 未見
評論 〈新版〉文藝五十年史 鱒書房 1948年1月 大幅改稿

共著 現代日本史研究 三笠書房 1938年10月 尾佐竹猛ほか5名と
共著 吾が鬪病 三省堂 1940年7月 賀川豐彦と

編纂 文藝年鑑 1936 第一書房 1936年3月 田中西二郎協力
編纂 文藝年鑑 1937 第一書房 1937年3月 田中西二郎協力

事典類における「杉山平助」立項一覽
執筆者 書名 發行所 發行年月日
田中保隆近代日本文学辞典東京堂1954.5
石橋万喜夫現代日本文学大事典明治書院1965.11
田中西二郎新潮日本文学小辞典新潮社1968.1
田中西二郎日本近代文学大事典 第二巻講談社1977.11
無署名近代日本文学小辞典有斐閣1981.2
赤沢史朗大百科事典 7平凡社1985.3
池内輝雄国史大辞典 8吉川弘文館1986.1
都築久義日本大百科全書 12小学館1986.11
田中西二郎増補改訂 新潮日本文学辞典新潮社1988.1
赤沢史朗世界大百科事典 14平凡社1988.3
無署名コンサイス日本人名事典 改訂新版三省堂1990.4
曾根博義現代日本 朝日人物事典朝日新聞社1990.12
無署名新潮日本人名辞典新潮社1991.3
赤沢史朗日本史大事典 4平凡社1993.8
坪内祐三20世紀ニッポン異能・偉才100人朝日新聞社1993.11
吉田司雄近代日本社会運動史人物大事典3日外アソシエーツ1997.1

:邦譯モウルトン『文學の近代的研究』22頁より


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▲刊記▼ 【書庫】たのしい知識 > ジャーナリズム論の一九三〇年代――杉山平助をインデックスとして

發行日 
2003年6月8日 開板/2005年9月11日 改版
發行所 
http://livresque.g1.xrea.com/GS/journalism01.htm
ジオシティーズ カレッジライフ ライブラリー通り 1959番地
 URL=[http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/1959/GS/journalism01.htm]
編輯發行人 
森 洋介© MORI Yôsuke, 2002,2003. [livresque@yahoo.co.jp]
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