新聞文學その他圈外文學への脱線
――高須芳次郎(梅溪)の埋もれた文學史構想に關する覺え書き――
軽蔑された、非正統的なものへの注視が彼の本来の強味をなしている。――ヴァルター・ベンヤミン「エードゥアルト・フックス――蒐集家と歴史家」*1
▲一 圓本の端本への注目から
改造社版『現代日本文學全集』(一九二六年十二月~三一年十二月)など、もはや新味無いだらうか。謂はゆる圓本の元祖であるこの叢書は昔から何かと話題にされてきた上に、近年は内部資料が出てきたため改造社に言及が集中してゐるから*2。いかにも昭和初年の圓本ブームは一大事件であって、出版業に留まらず多方面に渉って劃期となったし、中でも文學全集といふものが出現した影響は文學史にとっても甚大で、半ば傳説化されてきたのだが、昨今ではそれを一插話に留めずヨリ實證的に檢討し、特に近代文學研究の側からは文化研究の一環としてメディア論に接近しつつ出版史と重なったところで論考が簇生してゐるやうに見受ける。斯く云ふ自分もそれらに刺戟を受けた一讀者ではあるのだけれど、主題を圓本全集や改造社といふ事象にばかり收束させるのでなく、そこから擴散する觀念をいささか書き留めておきたい。瑣末事に即した考證だとて、それを關心事となした問題意識、資料を見出し引き寄せた筋が、あらう。史觀史眼と言ってもよい。
さて佚文といふ程ではないが、この出版大衆化事業に寄せられた感想に芥川龍之介のものがあることはあまり知られてなかったやうだ。
■芥川龍之介氏 『現代日本文學全集』中に「新聞文藝[」]を收めてゐるのは結構です。まだ今日のやうに雜誌と云ふものの發達しなかつた明治時代の「新聞文藝」は勿論、今後の「新聞文藝」にも面白いものが多いことと思ひますから。――右折角のお尋ねにより、漫然と思ひついたことを申し上げます。
右は『改造』一九二六年十二月號卷末の「世界一の『現代日本文學全集』出づ」と始まる刊行案内に「怒濤の如き反響」の一篇として載った。文中「新聞文藝」とは、豫定書目中の「第三四篇」に「新聞文學集」と見える卷のこと。豫告された收録内容は、福地櫻痴・矢野龍溪・陸羯南・福本日南・池邊三山・朝比奈知泉・森田思軒・田口鼎軒・西村天囚・黒岩涙香・山路愛山・竹越三叉・澁川玄耳・杉村楚人冠。末尾に小字で「その他」と添へ未定を示す。
芥川の一文は見ての通り短簡で、さして恰好の宣傳文句でもないから、有名作家に貰った回答なので掲げておいただけに思はれよう。果して長く忘れられ、翌一九二七(昭和二)年、自殺のその年から全集を出してきた岩波書店ですら、約七十年後の第五次『芥川龍之介全集』(一九九五~九八年)になってやっと收録したのである。しかも、最終回配本の刊行間際に急遽氣づいたのか、『第二十四巻 補遺・年譜・単行本書誌・索引・総目索引』(一九九八年三月)中「補遺」各篇の解題である「後記」末に「追記」といふ變則的な形で紹介され、同卷「作品索引」には載らなかった*3。のみならず、それは本文を初出ではなく再掲された第二回豫約募集のパンフレットより採ってゐ、そこでは右文中「――右折角の」以下は「(下畧)」とされてゐたため、闕文なのであった。それについて「後記」(海老井英次)は「文末に「(下略)」とあることから、第一回目の予約募集時に掲載されたものの再録の可能性もあるが、未確認である」(p.355)としてゐたが、十年後、同じ全集の第二次刊行時(二〇〇七~八年)には初出も判明し、『第二十四巻』(二〇〇八年十二月第二版)に新設された「補遺二」の部に「『現代日本文学全集』推薦文」と題して組み入れられ、索引にも立項された次第*4。但し、新版の解題では右の再録經緯に關する説明は跡形も無く削られてしまった。宛も初刊時の不手際を隱蔽するかの如く。
所詮は斷簡零墨、詮議立てする程のものでない……のか? ところが、こんな短文でも我が關心からすれば一瞥して記憶に殘るものだった。芥川龍之介のネーム・バリューよりむしろ「新聞文藝」の強調に惹かれて。つまり、研究テーマとする一九三〇年代ジャーナリズム論*5にとって前史とも目されるが故に。あの藝術至上の小説家がなぜ文學全集で主となる卷を措いて新聞文學なんていふ附け足りみたいな部分に興味を示したか……それは、芥川龍之介研究の方の問題である。形式面からすると、先に『近代日本文藝讀本』全五集(興文社、一九二五年十一月)といふヴァラエティーに富んだアンソロジーの撰者として明治大正文學を通觀した經驗から、この種のジャンル別編成に興味を持ってゐたのかもしれない。新聞といふ内容面に關しては、「ジヤアナリスト兼詩人」と自稱し且つ「新聞文藝は明治大正の兩時代に所謂文壇的作品に遜色のない作品を殘した」(「文藝的な、餘りに文藝的な」『改造』一九二七年四月號)と語り、絶筆「西方の人」(『改造』一九二七年八月號)ではキリストまでジャーナリストと呼んだ芥川のことだから、新聞に代表されるジャーナリズムと文學との關係には思ふところ多々あったと覺しい。『支那游記』(改造社、一九二五年十一月)も大阪毎日新聞社員として特派されての成果、「畢竟天の僕に惠んだ(或は僕に災ひした)Journalist的才能の産物である」(「自序」)と言ってゐたでないか*6。……等々、作家個人の事績に沿って掘り下げられよう。が、芥川は一例示なるのみ、論じたいのは新聞文學といふ問題關心である。一代の才人が感心するくらゐには結構な想ひ着きだったやうだが、その當時、新聞文學といふ類概念で以て或る種の言説を括ることは、いかに可能だったのか。具體的には、どうやって編輯企劃が立てられたか。
▲二 文學全集はわたしが作った
さてここからが小發見。『新聞文學集』を自ら編輯したと稱する者が、ゐた。梅溪 高須芳次郎(一八八〇~一九四八年)である。「明治文壇人の印象」と題する小文で、「○谷崎潤一郎氏」「○杉村楚人冠氏」「○田山花袋氏」「○徳
○杉村楚人冠氏
改造社版の『現代日本文學全集』を見た人々は、新聞文學
篇 の一册があることを知つてをられや うと思ふ。その中には、楚人冠氏の小説『時子』なども這入つてゐる。白状すると、あの『現代日本文學全集』の内容・組織は、大部分、私が組み立てたのである。それで春陽堂版の『明治
・ 大正文學全集』よりも、範圍を廣めて、宗教文學及び諸家のエッセイ・隨筆などをも入れ、新聞文學にも及んだ。新聞文學は、明治の特産物である。それ以前には、さういふ文學は無い。そしてこの方面の發達について、少からぬ關係を有する一人は、杉村楚人冠氏である。それから澁川玄耳氏も亦忘れ難い人だ。
この機會に、一寸云つて置きたいのは、明治四十三年頃に、島村抱月氏が『東京日日』の編輯顧問をした頃、社會記事の文學化を計り、私と西村眞次氏とを推薦したことなどがあつた一事だ。抱月氏は、この前にも、『讀賣』に關係して、新聞文學の進歩に盡したことがある。が、それは、裏面に於てで、表面に起つたのは、楚人冠氏らである。
丁度、その頃、氏の『大英
遊 記』『半球週 遊』が出た。『大英遊記』(明治四十一年)は有樂社で刊行したのであるが、『東京朝日』に、はじめて一頁の廣告を出した。さういふ花やかさと氏の輕妙・洒脱の文章とにより、新聞文壇に異彩を放つた。私が氏と再三、逢つたのも、その頃のことである。何でも、各新聞のブック・レビュウ記者が下町の料理屋へ招待された時だつたと記憶する。當時、私は『東京毎日』の學藝部長をした關係で出席して私[「氏」の誤か]と對座した。[…中略…]
私も亦一揖して、氏[=楚人冠]に盃を返した。こんな事から、氏と漸く親しくなつたが、その後、會つたとき、明治新聞文學史の必要を語り、氏も「これは賛成だ。材料については、盡力しよう」といつてゐた。
が、私の『明治新聞文學史』は、いつ出來るか、まだわからない。
[…後略…]
右は、高須芳次郎編著『日本名文鑑賞 明治後期』(厚生閣、一九三六年二月)に挾み込みの『日本名文鑑賞月報』第一號(「昭和十一年二月號」とも標記)より抄出した。同書の本體には記載無いものの、外函には「第五卷」「第一回配本」と地に印し、貼り外題には「推奬」の文學者七名と共に「〔責任編著〕高須芳次郎」とある。また、この月報だけでなく『日本名文鑑賞 明治後期』本文(pp.257-258)にも同樣の言が見られる。杉村楚人冠「閑語」に附した「解説」中、餘談に曰く。
惟ふに新聞文學の發達は、明治年間における特異の現象である。それ以前には、新聞文學がなかつた。そしてこの方面の展開は櫻痴・兆民・羯南・知泉・天囚・日南らに負ふところが多い。殊に蘇峰氏が始終一貫した貢獻は、多大である。改造社の「現
代文 學全集」の「新聞文學篇 」は、實は私の考案に基づいたものであつたが、内容については、私の考へと大分、ちがつたものになつてゐる。その中には、高橋自得 庵[健三]氏のものも、尾崎愕堂[行雄]氏のものも拔けてゐるし、島田沼南[三郎]、小山鼎浦[東助]、鳥居素川[赫雄]三氏のものも收めてをらぬ。大住嘯風[舜]氏のものも亦省かれてゐる。要するに、その編纂、當を得てをらぬのは、遺憾だつた。これは序に云つて置くのである。
以上、これまた短文に過ぎない。しかしここからは色々と興味ある問題が抽き出せるのであって、それらを陳べてゆくことが本稿の眼目である。第一に、「『現代日本文學全集』の内容・組織は、大部分、私が組み立てた」と言ふだけでも聞き捨てならぬではないか。自慢話といふものは割り引いて聽くべきでも、關係者が存命中に無根の嘘は吐きにくい筈。これは、確かめてみるべき證言であらう。圓本の起源として『現代日本文學全集』は再三論じられてきてゐながら、管見の限り、この高須本人の發言に徴しての考證は無かった。
圓本の發案者には諸説あるも、事の起りが誰からであれ、代表作家名作選集とも言ふべき初めの着想を企劃立案の過程を通じて今日見る包括的な文學全集といふ形に仕立てた功は木村毅に歸するのが通説である。創案は社内からとする説を取り上げた後でも、「木村毅が、企画の段階で相談にのり、そこに収録する作家と作品の選定にかかわったことは、否めない事実であった」*7と纏められる。そこで當人の回想記が裏づけとされる。木村著『丸善外史』(丸善社史編纂委員会、一九六九年二月)第五章中「十六 円本時代の淵源」及び最晩年の『私の文學回顧録』(青蛙房、一九七九年九月)中「円本旋風の起原」の章が詳しく、古いものでは「改造二十周年‖‖傍觀者の思ひ出‖‖」(『改造』一九三八年四月號)も引かれる。讀めばこの人らしい躍如とした筆致で、その博識が寄與したことは歴然としてゐる。そして木村は親友の柳田泉に助力して貰ったとは言ふが、他に社外から參畫した者があるとは記してない。柳田の追憶*8と照合して齋藤昌三の名を附け加へられるくらゐ。
しかし一九二七年四月に入社して『改造』編輯者となった水島治男は、「この企画の発端は、高須芳次郎、木村毅両氏で、木村さんが改造社に持ちこんだものだと私はきいたことがある」*9と一九七六年に書いてゐた。その翌年出た『雑誌『改造』の四十年』には「編集プランの作成
高須が「「現代文學全集」の「新聞文學篇」は、實は私の考案に基づいた」と言ふ邊りは全集の「大部分」でなくその卷だけ關はったかにも受け取れるが、また「内容については、私の考へと大分、ちがつたものになつてゐる」とも言ふ通り、どうせ發案から刊行實現に至る間には取捨選擇の試行錯誤が全體にも各卷にもあった筈、この種の大型企劃は謂はば集團化した共同制作なのだから、多數の、確固一貫せず時には矛盾さへする思惑が絡むものであって、木村とか誰とか特定少數の創設主體の意圖に還元するのは固より單純化した粗筋に過ぎない。ましてや「木村毅と柳田泉」を名指して「たった二人の書物好きの男たちによる選別と排除」が文學史の「全体像を作ったかのような幻想を生み出した」*11だなんて、陰謀論紛ひの物語である。大枠は木村の入れ智惠にせよ、それだけで編輯作業ができようか。例へば、『改造』の競合誌『中央公論』編輯者だった木佐木勝の日記に、舊友の谷口武が主任として「木村毅氏の推薦で文学全集の編集に当ることになった」「まるで文学全集を独りでしょって立っているように気負っていた」*12とあり、その後も度々登場するが、谷口ら熱心な現場の聲も反映したらう。さうやって多元化する一端として、高須芳次郎といふ名も有力さうだとまで判った。あとは傍證を固めればよい。
高須の「明治文壇人の印象」の引用したすぐ前、「○谷崎潤一郎氏」の項の終りは、「初對面を機會に、間もなく氏から私のところへ手紙が來た。開いて見ると、その時分、私が創刊の際にいろいろ盡力した雜誌『改造』に執筆するから、稿料を前借したいとあつた。で、私は早速、山本實彦氏に話し、稿料を屆けて貰つた。それが潤一郎氏の『改造』に寄稿した最初である」と結んであった。初對面の時期は「はつきり覺えてゐない。」「大正九年頃と思ふ」とする。『改造』創刊は一九一九(大正八)年四月號であり、同年三月三日附『讀賣新聞』消息欄「よみうり抄」に「
これまで看過ごされてきたことだが、遡れば、當初のうち木村毅は圓本のプラン・メーカーたることを後年の如く誇り顏で語らなかった。むしろ迷惑がった。「無專門家の隨筆(上)」(『讀賣新聞』一九二七年六月六日)の途中、ついでのやうな口調を裝ひつつ、「現代日本文學全集のリストを私が作つたと云ふ噂」に對し「辯明」を插んでゐる。
之は宇野浩二氏が報知に於て先づ流布し最近は東京日々にもそんなゴシツプが見えた。が斷じて曰ふ。私は決してあのリストを編成したのではない。宇野氏はあの編成を難じ其上で高須氏と私との名前を特記して『訴へた』がつてゐたのだから間接には私達の選擇眼を難じた事になるのだが、氏自身、現在新聞紙に關係ある職責から言つても、あの噂の眞否をもう少し正して貰ひたかつた。それは氏自身改造社主に聞いて呉れても、又報知社の記者を派しても直ぐ分つた事だ。
私が編成したやうに言はれると事實編成して功を立てた人に氣の毒だし、それを難ぜられると不愉快である。私は只、改造社の人が材料を借りに来た
序 に二三集の意見を徴されたので、思ふ所を述べたのと、從來の透谷全集に甚だしい逸脱があつたので、その補正を提言したに止まる。私は大正時代の作品には一言半句も言及しなかつたのだから、もし自分が除外されたために私をでも怨んでゐるやうな作家があるとしたら、その恨みは解いて貰い たいものだ。
責任遁れの僞證、とは片づけられまい。事實、木村の關心は明治が主で大正文壇には薄かった。最も近い時點におけるこの謙遜が信用ならぬなら、歳月を經た追懷での自讚とて疑はしからう。右に言及の宇野浩二は、一九二六年四月から報知新聞客員であった*17。『報知新聞』一九二六年十一月十二・十四・十五・十六日に四回連載の長廣舌「近代日本文學に就いて――この一文を山本實彦氏に――」で『現代日本文學全集』を檢討し、抱懷する文學觀に照らして「この叢書に選ばれた作家及作品の集輯」への修正意見を提示してゐる。まだ刊行前の段階、新聞廣告と内容見本で收録豫告を見ただけの一番早い反應でこれほどの批評が現れたことは驚異であり、營利出版とも研究者とも違った最も文壇標準に則した價値觀からの近代文學史像を對置した同時代評として、圓本論には絶好資料と思ふ。しかるに發表時の評判を除けば、現在まで全く忘失されてゐる*18。その第三回は、「聞き違ひかも知れないがこの編纂者あるひは編纂の相談に預つた人の中に、高須芳次郎氏と、木村毅氏があるといふことを聞いた。外の人はどんな人か知らない。[……]私はその兩氏に呼びかけたい」と結んでゐた。この通り最初は高須と木村とが竝記されてゐたのだが、その後は、新聞文藝欄のゴシップ記事など漁っても(早い例が、『東京日日新聞』一九二七年五月五日〈ざつろく〉欄)、圓本企劃者としては木村のみ取沙汰され高須の名はなぜか見當らない。同時代にあって既に埋もれかけてゐたのは、恐らく、當時新進の木村毅に比して梅溪先生は最早過去の文士と見られニュース・バリューが無かったのだ。その輕視が後代まで引き繼がれたのでないか。木村も後の回想では自分のことを專らに述べる*19。
石塚純一「円本を編集した人々」は出版史におけるプランナーの出現を見ようとした論だけあって、さすがに高須の名も『雑誌『改造』の四十年』から拾ってゐるが、「しかしすこし妙なことに、高須は、改造社版とはげしく競合した春陽堂版の『明治大正文学全集』の月報に「明治大正小説発達史」を連載執筆しているのである。事情はよくわからない」*20と他の圓本への關與も記して疑問にしてゐる。附け加へると、この『春陽堂月報』の連載二十六回*21以外にも高須は、『明治大正文學全集 第十一卷』(一九二八年十一月)で樗牛篇解題を擔當してもゐる。その一方で、改造社の圓本宣傳のための地方文藝講演會要員に驅り出されてゐて、『改造』一九二七年八月號「日本周游」特輯には他の講演者と共に高須の「南國情景」が載った。當時は改造社營業部員だった牧野武夫の思ひ出によれば、「武者小路実篤、佐藤春夫、高須梅渓の三氏を講師とする講演班」と九州へ隨行した際「高須老はその頃すでに半ばアル中と見られるほどの酒仙ぶりで、飄々浪々としていたがさすがに講演はうまかった」とのこと*22。『改造社文學月報』にも高須の寄稿がある(第二・四十・五十六號)。對抗企劃の仕事を掛持ちするとは義理が惡いやうだが、木村毅とて春陽堂から相談を依頼されて初めは斷ってゐたが懇請もだしがたく「改造社と抵触しない範囲で参加しようという事にした」のであり、「私の口を出す余地があまり無かった」*23とは言ふものの、『春陽堂月報』に二回寄稿してはゐる(第二・八號)。もしかすると、さまで異とするに足りぬことだったのか。それとも、改造社全集には初期段階での基本構想に加はっただけで後は手を離れたからか。他に高須が圓本全集との關はりを述べた文獻は今の所見つからず*24、各社との事情はなほ明らかでない。けれど、知るべきはこれに關はり得た所以よりも全集に現象したその發想法、
▲三 新聞文學といふ雜種ジャンル
圓本文學全集總體との關係から、そろそろ新聞文學の卷に焦點を絞ってゆかう。問題の『新聞文學集』は實際には増卷に伴って第五十一篇となり一九三一年五月第五十四回配本として出た。初め豫告にあった十四名中より矢野龍溪・森田思軒・竹越三叉が無くなり、古澤滋篇・栗本鋤雲篇・犬養毅篇・西園寺公望篇・原敬篇・鳥谷部春汀篇・大庭柯公篇の七名が加はった*25。奧附には「編纂者 山本三生」*26とあるが、これは社長山本實彦の實弟で、名目上の標記に過ぎまい。
改造社版『現代日本文學全集』の特色として屡々擧げられるのは、大半を占める作者別編成の諸卷よりも「テーマ編ともいうべき巻」*27のことで、「ことに開化期文學集、戰爭文學集、社會文學集、新聞文學集、宗教文學集などは、以後の全集類に見られない」*28と評價されたやうに、『新聞文學集』も代表例である。その後『日本現代文學全集』(講談社、一九六〇~六九年)や『明治文學全集』(筑摩書房、一九六五~八九年)では研究寄りのテーマ別編輯にも多少配慮され、特に「従来の小説偏重の狭い文学観を排し」と帶に謳った後者で第九十一卷に『明治新聞人文學集』(西田長壽編、一九七九年七月)が立てられたのは改造社版の發想を汲んだと見える。文學研究の中で圓本論を專攻する髙島健一郎は、圓本が創始した近代文學作品を集成する叢書形式に對して「近代文学全集」といふ總稱を立て、「原則として、明治以降を網羅し、巻の順序を時間的に配列すると同時に、巻割りが文学者の個人名で行なわれているもの」*29と定義したが、『新聞文學集』等の卷の場合、その著者別といふ大原則から逸れて主題別乃至ジャンル別といふ異質な分類原理が上位に立ってゐ、固有名詞が立ち列ぶ中に普通名詞の卷名が入り込んでゐるところが目を惹きつけるわけだらう。新聞文學なら新聞文學といふ概念が起ち上がってくる、實念論めいた魅力である。
同樣に「「全集」本の企画には、厳然とした文法がある。まずそれぞれの巻が作家別に編まれるという原則がある」と斷じ、その「特定の作家と作品を
芥川龍之介ならぬ後世の讀者まで『新聞文學集』の標題に注目させられるのは、まづは
同時代では、『新聞文學集』の二年後、長谷川如是閑が〈岩波講座日本文學〉の一册として『新聞文學』(一九三三年四月)を著してゐた。その主張は、「新聞は一つの文學の形態である。通常『新聞文學』といへば、新聞紙に現はれた文學方面、殊に創作のことをいつてゐるのだが、それは文學が新聞に現はれたのみで、新聞文學それ自體ではない。新聞そのものを文學の一形態と見ることによつて『新聞文學』が存在し得るのである」*33と要言される。常識を顛倒させた發想は面白いが、かうなると「新聞」の意味も「文學」の範圍もどんどん擴張され轉成され、論理が混亂してしまふ。もっと、その既成概念を根本から問ひ直す必要があったのだが、史的素描に沿った示唆に留まった。
そんな先人の苦勞など知らぬ氣に、後代の文學研究者は割り切った定義を下してしまふ。小坂部元秀「新聞文学」*34の冒頭はかうだ――「はじめに「新聞文学とはなにか」が問われなくてはなるまい。「新聞文学」なる用語を広義に解釈すれば、それは当然新聞紙上に掲載された文章のうち文学的評価に堪え得るもの、即ちいわゆる新聞小説から詩歌評論にいたる純粋に文学として独立に評価されるべきものをも含むこととなり、狭義には新聞人が新聞紙上に発表した文章中文学的評価に堪えうるものとなろう」。要は、「新聞紙上」といふ發表媒體で押さへて、「文学」が價値優越を表はす語にされてゐる。無批判に自明視された文學意識だ。その上で、「これまで「新聞文学」なるジャンルが近代日本文学史上に確立されていたとは言えない」としながら改造社版『新聞文學集』の内容を紹介したが、「これをみても新聞文学なるものは必ずしも明らかではないが、一応新聞文学を狭義に解しているとはいえよう」と、實例を出したことで却って齒切れが惡くなってゐる。それだから一層狹義に限定すべく、『明治文學全集』では「新聞人文學」といふ風に「人」を單位とする作家主義に歸屬させられたのだらう。「新聞文藝の作家たちはその作品に署名しなかつた爲に名前さへ傳はらなかつたのも多いであらう」(「文藝的な、餘りに文藝的な」二十)と芥川龍之介が注意してゐたのに。蓋し新聞文學と言ふ意は、掲載が新聞紙上とか執筆が新聞人とかいふ外在事象を超えて、それ自體が帶びる通性を形容するのに「新聞」で象徴させたと解すべきである。新聞的なもの、それを文學として認識すること……。
では抑も『新聞文學集』自身はどう概念規定したか。解説が無い代り無署名の「總序」がある。まづ、明治文學史を辿る上で「どうしても越えて行かねばならない一つの徑路に、新聞文學史がある。ジャアナリズムといふと、とかく純正文學から異端視され、文學の領域から取り放される傾向があるが、それは、新聞及び文學に對する、正當な認識であるとは云ひ得ない」と説き起こし、「明治文學史と新聞文學の交渉になると、その近接する密度はもう絶對的である」と斷ずる。
新聞文學と一口に云つても、その接觸面は限り無く廣汎である。が、明治の新聞文學といふ限りにおいては、その中樞たるべき新聞文章道が、日本文學の樣式に及ぼした偉大な革命を擧ぐべきであらう。歐文、漢文、和文の三つ巴が涯しなく入りまじつた、明治初期の未曾有の文章混亂期において、新日本の文章道を、一つの文章系統の上に、整理し、統一した「時文」こそは、まことに、新聞、雜誌を母胎として生れ、また、新聞、雜誌のみから
のみ 發生さるべき新文章の王國であつた。それは、記述と評論の二つの世界に君臨して、思想の表現と、描寫の自由清新において、未だ嘗て求め得られない新生命を、廣く當時の文學、思想界に吹き込んだ劃期的な業績であつた。
新聞史と文學史との重なりを何より「文章」に於て見ようとの提案であり、以て「明治、大正の時代相と共に、近代文章の生長の跡が、最も著しきものなることを知るに足るであらう」と締め括る。
テーマ別編成への注目から「たとえば新聞文学とは聞きなれぬ言葉」と言って右の「總序」を繙いた石塚純一は、「執筆者は明らかでないが、文学を歴史文化の広い文脈の中に置いて捉えようとする「編集」の意図が明瞭である」*35と、そのエディターシップを高く買ふ。但しそんな意圖が貫徹されたかは別問題、撰定の本文各篇に照らすと怪しいし*36、企劃者を名乘る高須芳次郎すら不滿を漏らし將來の課題としてゐたのだが、「文章道」と古風に稱することで廣く文學現象を受け容れようとしたことは認めてよい。文體論=樣式論(stylistics)がジャンル論やメディア論へと通ずる方向での問題設定ではある。その點、「ジャーナリズムの作品もまた、広い意味でなら文学ととらえ、全集に含めてみてもいいという程度の譲歩ではない。むしろ新聞が生んだ新種の文章と文体こそが、日本文学史の構築に欠かせないという、突き詰めていけば文学概念そのものの変革に関わる積極性である。」「そのとき「新聞文学」とは、文章の世界、すなわち書く文化にもたらされた新しい様式の領域であった」と佐藤健二*37も、この「總序」を評價する。
この新聞文学の規定は、存外に意欲的である。新聞に発表された文学作品でも、新聞記者が書いた小説や創作でもなく、新聞というメディアが生み出した言語表現の様式そのものにおいて、その理念を成り立たせようとしているからである。いいかえれば、新聞という社会的な言語技術の形式そのものを、「文学」に変革を生みだし、新たな形態を基礎づけるものとしてとらえようというのだから、この企図それ自体が文学史である。
續けて佐藤は、殘念ながらこの理念は達成されず「この一冊は新聞を文筆活動の舞台とした新聞人たちの文章集成に終わってしまった」と、「現実的な限界」にも留意する。しかし、新聞文學について「この概念が占めようとした位置と、そこに潜在していた可能性についてあらためて論じる」と告げ、實現した結果に留まらず託された「理念」を批評してゆくのであれば猶のこと、『新聞文學集』一卷を離れて、さうした觀念が當時實際にどれだけ擴がりを有してゐたのかを展望すべきだ。佐藤は、ここでの新聞文學を「戦後には「記録文学」や「ルポルタージュ」「ノンフィクション」「ドキュメンタリー」ということばの下に埋もれてしまった」先驅と見做してをり、間違ひではないものの、それでは報道に偏して論評*38の方面の把握が弱い。編者についても「誰の発想によるものか」と首を傾げてやり過ごしてゐたが、發想の共有を見渡すなら例へば、新聞文體「時文」の歴史的意義は千葉龜雄「新聞と文章道」*39も説く所であって、そこに擧がった面々は民友社一派を筆頭に殆ど報道記者といふより評論家や
木村毅は『現代日本文學全集』について、「文学という中に、初期の戯作、漢文から通俗小説、家庭小説、少年文学までおさめ、さらに宗教や、史論から、新聞記事や、戦争記(これは山本[實彦]氏がいいだした)まで入っている」と指摘して、自ら言ふ。
東洋では、昔から「文章は経国の大業なり(巍[魏]の文帝)」で、明治中期までの文学史をみると、福沢諭吉、中村敬宇あたりから、知泉、羯南、雪嶺、蘇峰などの学者的文人や新聞雑誌の時論が中心で、小説家など正面座敷の存在ではない。明治末年から関東大震災あたりまで、まだ、池辺三山、山路愛山、内田魯庵、長谷川如是閑などが、文壇人としても最高の大家として仰がれ、そして文学とは時事論、史論、宗教論、社会問題などもふくめた広範囲のものだったのである。それを全面的に反映したのが改造社の最初の円本「現代日本文学全集」で、その後は、これが切断され、文学とは、小説戯曲、詩、文芸評論、随筆の、いわゆる軟派の著作に限られることになった。改造の全集は、その両断の分水嶺をなして、広義の文学をあまねく収録した最後の出版となったが、これは、昔からの東洋の文学観の踏襲であると共に、またじつに、古今の典籍をひろく網羅したハーバード・クラシックスが、手本となったからなのである。*40
文章經國といふ常套の名言で文學觀を語ると、逸民まで士大夫になってしまふ。瀬沼茂樹も、『現代日本文學全集』が春陽堂版『明治大正文學全集』より優れると見、「それは広義の文学の解釈に立って、いわゆる硬文学までをおさめ、文学を再評価する態度に出た高い見識によるもの」*41としてゐた。文學の廣狹兩義を硬軟といふ二分法に對應させるのは不適當で異議あるものの*42、新聞文學を組み入れる文學概念の見直しが要請されるところだ。のち木村毅は「新聞と文学――徳富蘇峰論」でも「新聞の社説は硬派の文学として尊重され」云々と論じ、のみならず「「現代日本文学全集」を刊行した時、私は「徳富蘇峰集」の内容選定を託せられた」と得意の裏話をする*43が、「新聞と文学」といふ主題にも拘らず『新聞文學集』の方には全然觸れてない(木村の性格からすると、自分が關はったことなら吹聽しさうなもの)。他に木村は、『改造社文學月報』第五十二號(一九三一年四月)に「『新聞文學集』の魅力」*44を寄稿してゐたけれども、これは次回配本の前宣傳として、收録される各人の名を擧げながら短い所感を列ねたものであり、結語から渡米直前の怱卒の間に草したと知れ、また文中に「この篇にのるかのらぬかは知らないが」などと言ふ所からして、少なくともこの時點では木村は『新聞文學集』の編輯に立ち入ってなかったことになる。
一方、高須芳次郎における「新聞文學」といふ語の用例は、日本近代文學史研究の一册目である『近代文藝史論』(一九二一年五月)に見えるのが早い。第二期第三章「徳富蘇
▲四 日本近代文學研究史論の忘佚された傍系
高須芳次郎の國文學史研究については、よく取り上げられるのはその方面の最初の著書『近代文藝史論』で、これに「第四期 自然主義時代」を増補した改版『明治文學史論』(日本評論社、一九三四年十月)、また『日本 現代文學十二講』(〈思想・文藝講話叢書〉新潮社、一九二四年一月)及びその増訂『明治大正昭和文學講話』(新潮社、一九三三年九月)も併せて、同系で一括りにされる。いづれも五百ページを超し入門書の域を脱した力作である。高須芳次郎述『明治大正の文學』(〈日本大學藝術科講座〉第參囘・文藝篇、日本大學出版部、一九三五年八月)は稀覯だが、五十ページ弱で講義ノートといったところ。當人は『近代文藝史論』卷頭「本書の内容に就て」で明治大正の文學史執筆に志したのが「今から八年前のこと」とし擱筆時を「大正十年初夏」と記す。『日本 現代文學十二講』「序に代へて」に「いつか大規模の現代文學史を書くつもりで[……]大正八年頃に人知れず思ひ立つた」(p.5)とあるのと年代不一致だが、とりあへず發心は一九一三年から一九一九年の間としておく。よってそれ以前の半生については割愛し、各種文學事典の「高須梅渓」の項や『近代文学研究叢書 第六十三巻』の記述に讓る。ただ、日清日露戰間期の青年世代に屬し『新聲』記者として文名を成したこの評論家の文學的出自が、明治三十年代といふ文學史上特異な時期*47にあった事だけは指摘しておかう。精神分析めかして診斷するなら、後年の高須の活動は自身の出發期への固着からくる反復強迫とも見られ、明治四十年代の自然主義以降に成立した近代文學觀からする歴史像には收まり切らぬと言はれる複雜多樣な明治三十年代の諸要素が高須を通して再浮上したと覺しい。高山樗牛の影響一つとっても然り。
他の文學史と比べた『近代文藝史論』の特色は「文芸評論を新たに文芸のジャンルのなかにとりいれて、よりひろい文化現象のなかに文学の発展を見ているところ」*48とか「文化史的な原理に自らの文壇体験を織り混ぜた記述によって構成」*49と評されるが、一般文化史から文學史へと赴いたことは『日本 現代文學十二講』「序に代へて」でも觸れてゐた。その點、『近代文藝史論』が同じ日本評論社出版部から前年出した高須梅溪『明治大正 五十三年史論』(一九二〇年九月)を基礎としたことを顧みないのは手落ちだらう。卷頭「本書著述の方針」に、初め文化史を目指したのだが背景知識が無いと理解され難いため政治史との折衷になったと斷ってゐた。次第に學究的傾向を強めた高須は、大震災後の「文壇囘顧録」の前置きでは「今の私は文學と歴史の調和者といふ立場にゐる。新しい見方の下に思想史、文學史乃至一般文化史を出來るだけ、合理性に徹して藝術的表現の下に書きたい希望を以て進みつゝある。それは純文學者といふ方でないかも知れぬ。けれども文學の上に史的考察、史的研究を用ふる點で、私の小さい仕事も亦文學に縁が淺くない」*50と言ふに至る。この時期の達成に、大隈侯八十五年史編纂會編・刊『大隈侯八十五年史』全三卷(一九二六年十二月)がある。著者名標記こそされねど實質上の執筆者は編輯主任たる高須で、浩瀚な史傳として自信作であったやうだ*51。
文化史に擴げた文學史を、とは関井光男「日本近代文学研究の起源――明治文化研究会と円本――」*52の説く所であった。先の小森陽一も、木村毅・柳田泉に代表される草創期の先人が昭和初期の文學全集の編纂を通じて後代の近代文學研究の範型を形成したと目しつつ、圓本ブーム後に近代文學がアカデミズムに認知され一九三二年に明治文學會や明治文學談話會が發足するにつれ「広い意味の「明治文化研究」から「明治文学」研究を分離し、特権化し、かつ囲い込んでしまった」*53と批判する。研究者自らが斯學の據って立つ制度化された研究史を根元から反省する、大きな構へを見せてゐた。現にカルチュラル・スタディーズと言ひ文化研究と云ふも、多くは現代文化より過去を扱ふ文化史研究となってゐる。ならば、明治文化研究會と別に早くから文化史を素志とした高須芳次郎の文學史にも一言あって然るべきところ。研究史上で公認の銘柄を讀み換へてみせる解釋ゲームも結構だが、もう少し意外性のある發掘が伴はないと却って正典を鞏固にする一方でないか。
といって列聖(canonization)の追加申請に陷ってはなるまい。高須一人の固有名を顯彰したいのでない、むしろ類を示す代名詞か集合名詞と見たく、事實その同伴者がゐた。一九二八年秋頃から高須芳次郎は古巣である早稻田大學文科出身の學士十餘名と現代日本文學研究會を起し、自身が編輯兼發行人である季刊誌『東方之星』(東方文學社、一九二五年六月創刊當初は月刊)に會員の論文を掲げた*54。會員一覽の銘々を調べ上げる紙幅は無いから、特に一人、最も業績のありさうな者のみ擧げておく。名は渡邊竹二郎、曾て青柳優らと同人誌『世紀文學』(世紀文學社、一九二七年十月創刊)に參加して新感覺派擬きの前衞小説を披露した文學青年だが、「のち「国文学研究」にすぐれた有島論や一葉論など発表、疎開して長野に住まい、晩年は名古屋にも出て大学の教員として活躍した」*55。高須著『明治文學史論』「自序」結尾には「尚ほ本書の「自然主義時代」に關して、材料調査に盡力してくれられた文學士渡邊竹二郎君の勞を謝する」とあった。渡邊が戰前に發表した論文中五本を谷沢永一「明治文芸思潮研究の展望」が「28 自然主義」の項で列擧し、「当時として興味ある着眼であり、渡辺に限らず戦後比較的沈黙している研究者の場合、その戦前の業績を軽視せぬように努めよう」*56と注意してゐる。敗戰後も『長野県短期大学紀要』等に論文を發表したけれど、題目は古典の方が増えてゐ、古典文學に轉じたのは
なほ、文學史で評論・隨筆ジャンルの意義を強調する高須は、一九二六年十二月、評論・隨筆家協會(中黒「・」は無いことも)創立に至ってゐる。發起人二十二名中十三名が稻門關係者であり、當初から常任幹事に就いたのが高須である*58。だがこの團體も菊池寛らの文藝家協會の活躍の陰で忘れられてゐる*59。『昭和三年 評論隨筆家名鑑』に始まり「昭和四年」以降「昭和七年」度まで『評論隨筆年鑑』を編刊、全て奧附の「著者兼發行者」は高須芳次郎、毎年度の展望を擔當したのは評論が大槻憲二*60、隨筆が小島徳彌。小島著『明治大正 新文學史觀』(教文社、一九二五年六月)を、形田藤太「明治文學研究史」は高須著『現代文學十二講』の後に列べて「略傾向を一にしてゐるもの」*61と評する。高須著『日本名著解題』(〈大日本百科全集〉誠文堂、一九二八年八月)は大和時代から現代までの名作文學を紹介する通俗參考書だが、「序」末に「小島徳彌君が本書の一部を執筆して種々助力された」とあり、文學史家としても協力關係にあった。早稻田人脈からの擴がりだらう。
文學史の擴張は、高須芳次郎において二通りの方法が見られる。一つは文化史だが、その延長上に文明論・文明批評もある。高山林次郎(樗牛)『提要 世界文明史』(〈帝國百科全書〉博文館、一八九八年一月)によって政治史と對比される意味での文化史に開眼したらしい(高須「明治の史論史傳補遺」『日本文學講座 第八卷』新潮社、一九二七年七月)。樗牛著はKulturgeschichteだがまだ文化といふ譯語が無くて文明としたと、姉崎嘲風の解説にある*62。高須は文壇復歸と共に自ら創刊した月刊誌『新評論』(一九一四年十一月~?)で「一体、私は文明批評に力を尽したいといふ念願を持つて居ります。今の日本では、各種の学術、文芸が、余りに分派し、孤立しすぎて居ます。私は政治、宗教、教育、文学、演芸、美術の諸現象を同じ水平線に置いて、毎月、その現象を記述、且つ評論したいと思つて居ります」*63と述べた。その近代文學通史は自負する通り特に評論史の方で詳細だと認められた*64が、「狹い純文學の批評に局促してゐたくはない。人生評論乃至文明批評を試みてみたい」*65といふ『新評論』の頃からの抱負に照らせば、文藝批評に留まらず、評論を通じて文學を擴大路線に乘せる總合化志向があった。殊に文明批評は大正期評論壇の特色*66で、『新評論』から出た土田杏村など好例だが、但し氣焔ばかりの空疎な抽象論ともなりやすい。『東洋思想十六講』(新潮社、一九二五年四月)を皮切りにオリエンタリズムを提唱し新日本主義へと進んだ高須の言論は正にそれ。『日本精神文化講座』第一~六册(東方文學社、一九三〇年五月~九月)に就くといい、いささかシュペングラーめいた世界文明論でもある。これがのち戰時下に水戸學を奉じた右傾化につながる*67が、いまさら糾彈するにも及ぶまい。竹内洋・佐藤卓己編『日本主義的教養の時代 大学批判の古層』(〈パルマケイア叢書〉柏書房、二〇〇六年二月)が光を當てたやうな日本主義文化論の先導として啓蒙家高須の文教活動を追跡するのも一興だらう。
ただ、大仰な文明論は一面で早稻田の學風でもあったことは勘案せられたい。東西文明調和論はかねて開學の祖・大隈重信の唱へるところ*68。そして柳田泉もまた後年まで「日本を中心に立てて、東洋(支那)と西洋の文化の調和を考え、その調和から独創の日本を生み出そうとした」*69といふ明治時代の理想を前提とすることを説いたが、その限りで高須芳次郎と同系であり、和漢洋三學融合の大方針で坪内逍遙門の先輩後輩は一致してゐた。右は柳田評によく引かれる一節とはいへ、そんな主義で以て評價するなら高須とて同列になる筈、共通した背景を踏まへて差異を對比すべきだらう。文明論に發し次第に顯著となる高須の「国家的イデオロギー」については、その「萌芽」を剔抉して頻りと彈劾する吉田栄治「高須梅渓『近代文芸史論』」があったが、「その国家主義的傾向は、むしろ心情的なもの」で「理念的に確立されていたとはいえない」と判定し、「彼の国家主義的文学史観が個別的、具体的な評価に際して価値判断の基準としての機能を充分にはたしえず」「固定的な観念としてあるいは抽象的な図式として彼の脳裏を支配している」と見てゐる。「個々の作家作品・文学動向その他についての把握や評価や史的位置づけやは国家主義的立場から裁断されているとはいいがたい」*70、と。批判は尤もながら、裏を返せばそれは、個別具體に即しての論評は國家主義に毒されてなかったと保證するに等しい。現にイデオロギー的反撥心ぬきに高須著に接する*71なら、大言壯語は讀み飛ばせばよいこと、體系立ってない剩餘に刮目の言句が拾へる。高須の個人雜誌として出發した『東方之星』でも、初號以來の大上段に構へた文明論なぞ詰まらぬが、同人に河野桐谷*72らを迎へて誌面刷新した一九二五年十一月號から卷頭時評「文藝と思潮」を斷章形式で載せると、月々の文壇論壇に拾ったトピックスへの寸評が冴え、俄然生彩を放った(田岡嶺雲ら『青年文』の「時文」欄さながら)。文化史とは、政治史中心の舊史學に對抗して興ったもう一つの部門史である一方、あらゆる分野を文化の名の下に總合する觀念論的傾向もあり、畢竟後者の史論は大所高所に立ち文明論と言ひ換へ可になってしまふから、文明の對概念としての「文化」*73に意義あらしめるには個別へ分化するベクトルの維持如何に懸ってゐるのだらう。
文學史擴張法のもう一つは、文章論であった。文學史中の美文・寫生文の研究でも草分けになる高須芳次郎だが、編著『日本名文鑑賞』全八卷(厚生閣、一九三六年二月~九月)こそは最大の成果である。内容見本には「文學史として」「文章史として」と惹句を掲げ、兼ねて扱き混ぜた狙ひの「堂々たる全集」=圓本式叢書であった。豫定の『古代中世』『江戸前期』『江戸後期』『明治前期』『明治後期』『大正昭和』全六卷から『大正時代』『昭和時代』を分册し新たに『漢詩漢文』を増卷して完結。各卷は、「概説」でその時代の文學史を通觀した後、〈敍事篇〉〈敍情篇〉〈敍景篇〉〈史傳篇〉〈隨筆篇〉〈エッセイ篇〉〈日記篇〉〈書簡篇〉〈飜譯篇〉と類別した個々の文例に對し「註解」「解説」「鑑賞」及び時に「參考」を附す。この分類なら「[……]雜文などの進歩について書くことが出來なかつた。小説本位になつたのは止むを得ない」(『日本 現代文學十二講』「例言」)などとこぼさずに濟み、創作以外も多ジャンルが取り込める。翌一九三七年四月より十一月まで『名文鑑賞讀本』と改題再刊したのは、豫約會員制だったから第二次配本か。
無論これとて高須の獨創を頌したいのでない。名文集や文章作法書に寄生しながら點綴されてきた文章論の中の文學史の系譜が辿れる。文學史とは別に文學を部分として包攝する文章史*74は、大町芳衞(桂月)『日本文章史』(〈帝國百科全書〉博文館、一九〇七年五月)を先蹤に、生田長江講述『明治文章史』(日本文章學院、一九一四年?*75)等が後に續く。博文館『文章世界』(一九〇六年三月~二〇年十一月)や新潮社『文章倶樂部』(一九一六年五月~二九年四月)は文藝雜誌として文學史に扱はれてきたが、誌名から言ってもそれは文章の一部であり一面である。五十嵐力・杉谷代水・服部嘉香等、早稻田派は作文書にも功績大だ*76。小説家ながら宇野浩二は文章批評家として特筆すべきで、『文章往來』(中央公論社、一九四一年十月)に先立って早くから文章論を以て近代文學史に取り組むモチーフがあった*77。何より、谷崎潤一郎『文章讀本』(中央公論社、一九三四年十一月)に代表される文章論の時代とも言ふべき思潮があって、厚生閣*78は『日本現代文章講座』(一九三四年四月~十一月)や『月刊文章』(『月刊文章講座』として一九三五年三月創刊)でその先陣を切ってゐた。續くこの『日本名文鑑賞』は、『新聞文學集』「總序」にも窺はれた文章からの文學史の試みが、一往大成された體である。高須著『文章作法問答』(厚生閣、一九三七年八月→厚生閣書店、一九三八年十一月)は副産物に過ぎまい。また「月刊文章臨時號」として『明治の文章・明治の文學』(厚生閣書店、一九三八年七月)といふ明治文學史特輯もあり*79、總論擔當が文學は鹽田良平で文章は高須芳次郎、各論執筆陣は柳田泉ら、中で上司小劍*80「明治時代の新聞記事」が新聞文學史論にとっては拾ひ物だ。飜って現代でも、清水良典のやうな批評家が文學ではなく「文」だ「純文章」だと言って既成の純文學概念を打開しようとする*81ものの、依然、創作を主體とする有名小説家に囚はれた文學主義があり、むしろ鴨下信一『忘れられた名文たち』*82のやうな雜文類の掘り起しこそ望ましい。『月刊文章』においてもその賣り物は溌溂たる六號記事、雜文にあったのだから。
高須の文學史論を通覽すると、如上の文學史擴張の二方法とは別に
一體、文學といふ以上、原則として、評論、隨筆方面の人々をも公平に網羅するのが至當であつたと思ふが、今、この問題には觸れたくない。唯私が評論隨筆家協會の末席にゐる一人として、「現代エツセイ全集」刊行の企畫を立てある社と交渉したが、成立するまでに至らなかつたことだけをこゝに明言して置く。
續いて宮崎湖處子、原抱一庵、本吉欠伸、渡邊霞亭……と忘れられた文士を紹介してゆき、圓本に収録はされた西村天囚・遲塚麗水等にも他にもっと入れるべき作を推擧する。最後に、「要するに、現代文學は
通史である著書以外に新聞雜誌に發表した高須の文學史研究の産物には、かうした小事に就く落穗拾ひの姿勢が目に着く。埋もれたものをほじくる考古學的な眼差しは、「好事家的穴探し的ないわゆるマイナー・ライターへの関心」*84といふ言葉で學術研究からは貶價されるものかしれないが、さういふ志向(いや嗜好か)から睨めばこそ目が利くこともある。具體的には例へば、前掲「成島柳北の新聞文學」のほか高須芳次郎は同趣旨の柳北論を繰り返し述べてゐる。
柳北の文學を説くものは、必ず『柳橋新誌』を代表作の如く見て、それによつて價値を定めようとする傾きが多い。が、『柳橋新誌』は、眞に柳北の眞趣を發揮したものでない。それは彼れの佳作の一つにちがひないが、私はそれよりも、『京猫一斑』を採る。更に『京猫一斑』よりも、彼れの紀行文を採る、今一つ適切に云へば紀行文よりも雜録を採る。眞に柳北を知るものは、必ず雜録の妙を見遁さないであらう、彼れに「雜録先生」の稱があつたのは偶然でない。*85
敢へて主著を外し『柳北先生襍録集』(手塚盛壽編輯、改進出版社、一八九五年四月)を選ぶ――これは、確かに一見識である。そこから遡って初出掲載紙に當る實證作業まではできなかったやうだが、そこまで求めるは酷か(明治新聞雜誌文庫に入り浸れた柳田泉との差だらう)。『朝野新聞』の創めた諧謔味ある雜録欄が幅廣い讀者に人氣だったことは同時代人も傳へる所*86ゆゑ、後世の論者とて當然考察すべきだのに、戰後の柳北研究史上は前田愛から山本芳明・乾照夫に至るまで高須如き雜文好みの評價は抑壓され、初期新聞文學に見るコラムニストの誕生を論ずるに至らない。作家論(及び作品論)の枠組では取り零す表現樣式があるわけだ。纔かに加藤武雄『明治大正文學の輪郭』(〈文藝入門叢書〉新潮社、一九二六年九月)が成島柳北・服部撫松を「第五、雜文の流行」の章で扱ったのは、眼前にしつつある「現在『文藝春秋』『不同調』などが」呈する「爛熟頽廢の末期」の雜文隆盛を「新文化創成の初期」に二重寫しにした觀法だった。高須著『日本 現代文學十二講』『明治大正昭和文學講話』は自然主義時代に入る直前に「特色ある雜文」の節を設け、「雜文の類は、兎角、文學史家に閑却され易い。が、却つて此の方面に文學上の寶玉が往々ある」とて「寫生文、美文、紀行文其の他について略言する」。通史中の點描に過ぎぬものながら、たかがこれだけの記述を文學史書に見出すさへ中々無いことだらう。
▲五 近代圈外文學の説
新聞文學その他文學史から等閑にされた文事諸般を、何と總稱すればよいものか。「これまでの日本文学史の上であまり真正面からとり扱われることのなかつた分野」と「編集後記」に言ふ「特集 文学史にない文学史」(『國文學 解釋と鑑賞』一九六七年十二月號)では「日記」「書簡」「山岳紀行・遭難手記」「自伝」「漢詩」「狂詩」「追悼文・思い出」「記録」「詔勅」「未来記」「生活綴方・児童詩」「民話」「対話録」「新聞文学」等の各論が目次に列び、うち「マニフェスト・序・跋」を擔當した高橋新太郎は「搦め手からの文学史」と題した。いづれも近代文學史上の境界例で……と言へば、限界藝術論(鶴見俊輔)も聯想されようか。近代化につれて大きな文學が狹義の文藝に局限されていったといふ通説を顧慮すると、近代以前からの流れも視野に入れるべきだ。近世文學者の中村幸彦は「圏外文学」といふ概念を立ててゐる*87。近世隨筆類の研究に資する提言だったが、「もし幸田露伴の「圏外文学」の論(『
圈外とは埒外枠外の類義とばかり思ひきや、中村幸彦によれば「中国古典の注釈書類に、一説をのべてその中程に圏(○)をほどこし、又別の説を述べたものが多い。その○以下の説が圏外の説である」(「近世圏外文学談」p.296)。
圈外文學を單に前近代の廣い文學概念の繼承とのみ解されては、明治には殘存しても後は衰亡の一途だらうと蔑ろにされかねない。導入に引いた芥川龍之介の推薦文を想ひ出さう。「まだ今日のやうに雜誌と云ふものの發達しなかつた明治時代の「新聞文藝」は勿論、今後の「新聞文藝」にも面白いものが多いことと思ひます」。即ち、新聞文學の歴史が顧みられた背景には同時代の雜誌ジャーナリズムの盛況があり、これと結びついた震災後からの隨筆・雜文の流行は現在進行形の時事的話題であった。だから廣義の文學とは必ずしも硬文學でなく、雜文・ゴシップ*93といった軟調輕薄な記事をも含む(戲文、雜録……柳北仙史の時代からさうだ)。「今後」を見ることなく早世した自稱ジャーナリストの豫想に違はず、三〇年代には「新聞向きの評論」(『讀賣新聞』一九三二年三月十九日)を標榜する杉山平助*94や、千葉龜雄を顧問格とする東京日日新聞學藝部で阿部眞之助の招請した木村毅・大宅壯一・高田保ら雜文家が活躍してゆく*95。一九三五年當時に局外批評家と呼ばれた戸坂潤・三木清らも圈外に逸したくない(擧げた個々の名はむしろそれを可能にした場へと眼を開くための指標だ)。かうした過去の圈外領域へと溯及する史眼は、それをする自身の視座のいま・ここへ反照せずに置かない。圈外の徒らしく捨て目を利かせるなら、芥川の片言にもそれが感知できよう――謂はば、後ろ向きのアクチュアリティーが。前代からの殘留(survivals 遺物)を對象とする民俗學が、にも拘らず現在學を志す*96といふ理と似るか。殊に古新聞は、正史に録される大事件の報道以上に、一日限りの生新を逐ふエフェメラ(短命資料)ならではの雜多なトピックが化石となり時代色を帶びた所に興趣があるわけで、死後の生、古ぼけた新しきもの(news)といふ
圈外種々あるうちでも新聞文學は、新聞(や雜誌)といふ勝れて現在性を有する近代メディアの性向を體した文章であるから、新聞文學史とはアクチュアルな現存を古びた歴史の相の下に觀ずるもの、その意味で積極的アナクロニズムとも言へよう。ヴァルター・ベンヤミンは「文学史と文芸学」に曰ふ、「肝要なことは、文学作品をその時代と関連させてえがくことではない。そうではなくて、その成立した時代のなかに、それを認識する時代――われわれの時代――がえがかれるようにすることである」*97。これは、過去の史實を現代の觀點で裁斷する現在中心主義とは似て非なるもの、別樣の歴史主義である。「新聞文學の理論は、當然史學の理論に關聯する問題となる」、「新聞文學は歴史の範疇に屬する」とは長谷川如是閑『新聞文學』の言であった。