校正で一家を成したといへば屡々擧がるのは「校正の神樣」の異稱で有名な帚葉神代種亮(一八八三〜一九三五)だが、岡野
誰の発想かは知らないが、神代を校正の神様といふ言葉が通用され初めた。元来彼は文壇人ではなかった。[…中略…]
なぜ、校正の神様なのか? 頼まれないのに、大作家の著書をつぶさに点検し、誤字や誤植を見つけては、その作家に送りつけた。大作家を始め数多くの作家を知己に持ってゐたのはこの為めであった。作家たちは、神代の力量を認めて、次の著作には彼の校正を求め、自然と校正に関する権威といふ風に扱はれ出し、何時か神様の尊称を呈上された。[…後略…]
――廣瀬千香『私の荷風記』(〈こつう豆本〉日本古書通信社、一九八九年十月)59〜61ページ
これをもっと直截に、「神代種亮には逍遥や荷風と格別に昵懇なのだと、装う癖が度を過ぎて強かったのではないか」と勘繰るのは谷沢永一『文豪たちの大喧嘩――鷗外・逍遥・樗牛』(新潮社、二〇〇三年五月、89ページ)で、これは永井荷風『斷腸亭日乘』卷十六の記述を傍證に引いて推察してゐる。さらに同書卷末の「谷沢流「登場人物・事項」コラム」には、項を立てて次の通り述べる。
――谷沢永一「谷沢流「登場人物・事項」コラム」『文豪たちの大喧嘩――鷗外・逍遥・樗牛』
神代種亮 校正家、とでも言うより仕方のない畸人伝中の人。校正の名人と自称して知名の文士や学者などに擦り寄り、ひとかど文人として振舞う、この世界に何時の時代にもよくある型 である。[……]
なるほど、多分それが一半ではあったらう。特に後年、人たる身で神樣呼ばはりされるやうになってはつけ上がらずにゐる方が難しからう(それゆゑ後には荷風からも疎んじられたりする)。けれど、取り卷き連の知友氣取りはよくあることでも名士に近づくに校正を以てすることは誰でも能く爲す所ではないし、はじめ頼まれもせぬうちから正誤を送りつけた初心までを賣名心のみと取るのは酷である。それは作家に取り入る魂膽もあったかしれないが、他面で校正者の性分として、思惑拔きに、間違ひを見つけると默ってをられないといふことがある。それが愛讀する書であれば、なほさら。むしろ普通は著者に誤謬を細かく指摘すれば嫌はれかねぬものを、歡迎されぬと知りながら訂さずにおかない、已むに已まれぬこの氣性。それが、校正癖といふものではないか。
校正癖の昂ずる所、畸人とも言ふべき奇態な人間類型が現はれるのは、愛書狂に同じい。コレクターシップ collectorship*2といふ語でも語られる
さあれ、かの神代種亮とて元來校正業が本職に非ず、この性向は何も
恐らくこの性癖に
叱られるだらうか。道樂なんかでない、さう憤りさうな人に、本文批判の學を極端に推し進めた古典學者アルフレッド・エドワード・ハウスマン(一八五九〜一九三六)がゐる。學識超凡を以て畏敬された彼の、「精確さは義務であって、美徳ではない accuracy is a duty, not a virtue.」といふ冷嚴なる名文句は、E・H・カー『歴史とは何か』(清水幾太郎譯、〈岩波新書〉一九六二年三月、7ページ)にも引かれて多少知られてゐよう。ケンブリッジ大學ラテン語文學教授であったハウスマンは、「文学の研究は科学であって文学ではないと断言し、批評(これは文学)は学者の務めではなく、またできることでもないと言って(言っただけではない、彼は身をもって、生涯ラテン文学作品の文献学的研究、とくに本文修正(emendation)に専念し、それに関するモノグラフばかり二〇〇篇近くも書き、それ以外の著作は一切しなかった)、当時のケンブリッジに大きな波紋を投じた」(柳沼重剛「文学と文学でない文――「文学でもある歴史」について」『西洋古典こぼればなし』〈同時代ライブラリー〉岩波書店、一九九五年十月、36ページ)。
A・E・ハウスマンといへば本分の古典研究よりむしろ一般には詩集『シュロップシャーの若者』A Shropshire Lad(一八九六年初版)によって、特に第一次大戰頃は青年に愛讀された詩家として知名であり、
其の過ち寡なからんことを欲して未だ能はざる也(『論語』憲問第十四)。それほどに謹嚴これ努めたハウスマンであったが、柳沼重剛の見る所、この世紀の大學者にしてなほ過誤を免れなかった。皮肉なことに、常識を棄てるなと説いてをりながら「常識で考えれば少しもおかしくない文(あるいは句)を含んだ箇所を、うっかりおかしいと感じてしまうことが彼にはあったらしい。そうすると、ラテン詩人とラテン語に通暁していて、本文修正の経験も十分に積んでいる彼の頭が、見事というほかない修正を提案する。それを見ただけで、頭の良さが表面に光沢を放っているような感じの修正がなされている。しかし、元のままでも、つまり修正などしなくても、十分いい文句ではないかと素直に思える、そういうことがよくある。一般に、専門家が専門に徹すれば徹するほど、この危険がつねにつきまとうものだと思う」(柳沼前掲書120ページ)。これ過誤と言はんか、或いは亦、過修正 hypercorrectionならずや。
ここには、禁慾的自制を突き詰めた擧句、却って己が分際を越えた餘計な差し出口をすることになってしまふといふ逆説がある。そこに、校正癖を感ずる。校正とは、本文に寄りつつ本文を疑ひ、テクストに添ひつつテクストに逆らふ作業である。本文批判も亦然り、同定を重ねた果てにこそ改變に至れる。對象と不離不即の關係になければならず、消極的(否定的)且つ積極的(肯定的)なのである。同樣にして、學者にして校正癖の主にとっては、趣味とは別に學問があるわけではなく、これまた兩者は不二不可分の關係だらう。校勘學者の傳に屡々見る寧日無き勤勉は、宛も道樂に耽り寢食忘れる如し。この古書校勘の學は日本では契冲以降に發達したが、遂には平田篤胤『古史成文』の如き狂信的復古主義による僞作本文をも見た事から解るとほり、校訂が行き過ぎると、「正しさ」に執着するあまり獨斷的な理想を託した「原文」に改正してしまふ陷穽があるわけ。述而不作、默して之を識す(『論語』述而第七)とは、文獻學者にとっても容易でない。校正の賢しらによる直し過ぎの盡きぬ次第。
校正癖を、幾つか事例に即いて見てみよう。
この偏癖の主は正誤表を愛す。以前、或る人の書架で見た寺島珠雄『私の大阪地図』(たいまつ社、一九七七年)は著者寄贈本で、開くと葉書が挾まってをり、正誤が數行印刷してあった。ハガキ料金二十圓の時代だったとはいへ、定價千圓の新書判の薄い本に對し一々こんな訂正を送付してゐては、足が出ること必定。著者の負擔によって損得拔きでこれを行なった所がいかにも、岡本潤や小野十三郎らアナキズム詩人に就ての精査で知られた寺島珠雄らしいと感じ入った。聞く所によると、根掘り葉掘り調べられた小野十三郎は最初は氣味惡がってゐた程だが、そのうち自分でも忘れたことは寺島に訊くやうになったとか。その追跡考證における
似た話を、教へられて讀んだ。渡邊勲「手作りの正誤表」『朝日新聞』二〇〇六年二月一日夕刊。筆者は東京大学出版会の元編輯者、文化面「こころの風景」欄に連載したうちの一篇である。それによると、中國史研究の田中正俊は、酒席で多辯だった「一方、仕事には厳しかった。原稿は端正な文字で埋まり、校正も厳密で誤植一本許さず、だった。」「『中国近代経済史研究序説』(73年)を上梓してから、私は呼び出しを受けた。先生は「誤植がありました」と手作りの正誤表を示し、「私の責任です」と言われた。先生が書店の棚に自著を見つけられると、そっとそれを挟まれていた、と後に知って、私は驚愕し感動した。」――それぁ愕きもしよう。何やら「ちょっといい話」みたいに綴られてゐるけれども感動する所ではない、本屋さんで勝手に挾み込みをしてゐてはこれ即ち不審客で、私物と賣り物との辨へがついてない越權行爲、領域侵犯である。しかし氣持ちはわかる。
實際、校正癖の
酒井さんという校正で半生をすごしてきたその道のエキスパートが、近代劇全集のかかりであった。この酒井さんは、新聞をみても、内容より校正のまちがいを見るということに関心を持っていた。デスクの校正のひまには、新聞の校正をしていた。そして我々に示した。
「債
権 [債券]の当選番号の校正がいちばんむつかしかった」とか、
「デパートのショ
ウイ ンドーの広告の文字が間ちがっていたので、事務所へ行って注意してきた」とか、この世の一切は校正のあやまりからおこるように、酒井さんは、あらゆる不義不正より、校正のあやまちを憎悪するかのようであった。それはほとんど病的なくらいだった。酒井さんがついに発狂したのは、それから三年ほど後だった。
――福田清人「昭和文壇私史」*8『近代の日本文学史』(春歩堂、一九五九年、283ページ)
福田は後年『第一書房 長谷川巳之吉』(日本エディタースクール出版部、一九八四年)に寄せた回想でも酒井の姓しか出してないが、酒井欣といふのがその名であった(『日本遊戲史』著者とは單なる同名異人か)。これは竹松良明「セルパン・新文化 解説」(『国立国会図書館所蔵 セルパン・新文化 別巻』アイ アール ディー企画、一九九八年十一月、7ページ)が第一書房のPR誌『伴侶』(一九三〇年一月〜三一年三月)を參照しながら同定してゐて、同誌「社中偶語」欄が綴る社内風景には「大衆作家の酒井欣が江戸の風物や文学に寄せる熾烈な憧憬」なども見える由。
同じ頃のこととして
校正癖のエピソードは他にもあらうが、校正氣質と狂氣との親和性如何を知らんとせば、
まづ校正癖は索引において發現しやすい(品川力がさうだった)。呉秀三にも『東京醫學會雜誌第一卷乃至第十卷十年間原著索引』(一八九七年)の編があり、助教授の頃に單獨で成したらしい。これが「詳細を極めて居」るのを見て、石川貞吉は「先生の篤學篤志なるに肅然襟を正すの感を覺へた」とか(「呉先生の追憶斷片」『呉秀三小傳』呉博士傳記編纂會、一九三三年。岡田著130ページ)。その『索引』より「凡例」の一部を引いてある(131ページ)のを見ると、面白い。
一 医語ノ音読ノ誤レルモノハ之ヲ正シタル順次ニ入ル例ヘハ橈骨、縧虫ハ「た」ノ部ニ出タシ蟯虫、軟骨ヲ「せ」ノ部ニ出タシ腓骨ヲ「ひ」ノ部ニ出ダシ齲歯ヲ「く」ノ部ニ出スガ如シ又脚気ノ如キハ俗音ニテ「かっけ」ト読ムハ誤ニアラザルガ故ニ「か」ノ部ニ出タセリ
漢和辭典に據って註解すると、橈は慣用音タウで漢音ダウ・ゼウ呉音ネウとあるがゼウを訛音としたか(大修館『大漢和辭典』はゼウを採らず。他方、『広辞苑 第五版』は「とうきゃく-るい【橈脚類】」の空見出しを立て「(橈じようの誤読)」と註記す)、縧は慣用音デウ漢音タウ、蟯は慣用音ゲウ漢音ゼウ、軟は慣用音ナン漢音ゼン、腓は漢音ヒのみだがハイとでも讀まれてゐたか、齲は慣用音ウ漢音ク。これが、謂はゆる醫者仲間の百姓讀みの例として、口腔(コウカウ)をコウクウ、洗滌(センデキ)をセンデウと發音する類を指摘するのだったら珍しくもないが、慣用音まで訛誤と斷じ訂してしまふとは漢學の素養深かった呉秀三ならでは、なるほど、「學界其人を得ずんば決して出來た仕事ではなかつたのである」(前掲石川貞吉)。たとひ排列が少々檢索の便を損なはうとも正音を優先したわけ、ひたすらに正しい。正しすぎる。
かうした嚴格さは、日常業務にも貫かれた。府立巣鴨病院(のち移轉して松澤病院)の醫員に對して、病床日誌は掻い撫でのドイツ語でなく日本語で具體的に書くやう指導すると共に、「これに関連して、誤字にはずいぶんやかましく、一いちなおされ注意された。人によっては、先生[呉秀三]の注意をお叱言とうけとったが、先生は一つには親切心から注意された、また漢学に通じすぎていたためである。「精」もつくりのしたは「月」でなく「円」でなくてはならぬとやかましかった」と(304ページ以下)。手書きのカルテですら字畫を忽せにせず、正字體(康熙字典體)に改めさせるこの徹底性。江守賢治『解説字体辞典』(三省堂、一九八六年)謂ふ所の書寫體楷書の傳統など、何ぞ我にあらんやと言はんばかりだ。「文字・文章なども、精密に正され、例へば私が原稿中に身体といふ字を書けば、先生は必ず體と直された。又聽は耳で
普段仕事で執筆する書類には、精神鑑定書もあった。「呉先生を偲ぶ夕」(『日本醫事新報』第八六九號、一九三九年五月六日)から氏家
それから先きほどから校正の話が出てをりますが、巣鴨病院に行くと先生の秘書役みたいなものを仰せつかつたのであります。四、五年間先生の鑑定を下書きしました。いろ〳〵書いて先生に上げるとそれをお訂しになることは実に沢山あつたのです。文章が朱で真朱になるのです、それをまた清書するのです。兔に角僕が書いたのか先生が書いたのかちつとも分からないのです。それを最後に須山君が清書するのですが、何時も困つてゐました。
原形を留めぬほど幾度も繰り返し校正するのが呉秀三の嗜癖のやうだ。森田
いやはや、まだまだ、ここ迄は序の口のみ。普段ですらこれだから、特別に念を入れた校正はどうなるか。『呉教授莅職二十五年記念文集』(一九二五・二八年)*9が編まれた時の熱中具合は呆れんばかりだ。門下で編輯に當った杉田直樹の發言が「呉先生を偲ぶ夕」から引かれてゐて(372ページ)、寄せられた論文は呉秀三によってかなりの添削修訂を經たといふ。
〔前略〕さうしましてから後に先生は、此の論文は全部自分が祝ひに貰つた論文だから、手を入れようが入れまいが自分の勝手だと御つしやいまして朱筆を一々お入れになる。私はこれは記念として寄稿して貰つたものですから、文句をお直しになるなら一応原著者に話しをなすつては如何ですかと申しますと、自分が貰つたんだから自分の勝手だと仰つしやつてお直しになつた。森鷗外先生のものなどは、之は面白くないから鷗外先生のところへ行つて外のものを書き直して貰つて来いといふ様なことを言はれた。私から鷗外先生へそんなことを申上げるのは幾らお使ひ役だと言つても出来ませんから、呉先生に書面を一本書いて下さい、さうしたら本当のお使ひ小僧になつて私がその御手紙を持つて行きますからといつて、御手紙を書いて戴き、それを持つて行きましたら、鷗外先生は手紙をつけて返して来るのは非道いが、まあ書き直さうと仰つしやいました。その外長與[又郎]先生のもの、これも大分文章をお訂しになりました。ところがその当時私は病理学教室へも出入してをつたのでありますが、長與先生は病理解剖の記述を勝手に訂されては困ると言はれました。ところが呉先生は、自分に呉れたものだから自分が勝手に文章を訂していゝのだといふやうなわけで、呉先生がお手を入れられたものが記念文集に載つてをる訳であります。〔後略〕
つまり呉秀三の場合、校正から一歩進んで校閲に入ってをり、よくある名義だけの校閲監修者と違って眞に字句文章の推敲に踏み込み、時として著者の領分を侵す僭越すら敢へてした。漢學者流の文章道への傾倒と見るにしても、度外れである。他からの寄稿を私物化するに近いが、改稿の繁なるは自分の文章も同樣、恐らくは吐いた語を口中で反芻する如く、書いた端から讀み直してしまふ所爲だと思はれ、やはり書き手としてより讀むことに偏した校正癖なのではないか。しかもそれは、何か我が爲にする所があっての改竄ではない、無償の、否むしろ損をかぶってもの、校正慾の發動であった。岡田靖雄著に曰ふ(373ページ以下)――
記念文集の発行がおくれたのは、先生の責任のようである。第一冊の「凡例」に「校合は一々著者を煩はさず、編輯委員の手にてなしたるもの少なからず。魯魚の誤り若しあらば、幸に寛恕あらんことを請ふ」とあるが、杉田はまえの引用文につづけて、「あの記念文集を一つお作りになるのが非常にお楽しみのやうに見受けられましてその校正に就きましても、御自身で殆んど校正刷を新しい原稿に書きかへる位すつかり字を入れかへ、またその次の校正刷を新しい原稿に書き直して了はれる。完全にお気に入るまでは決して校了になさいません。十遍ぐらゐの校正で済むのは寧ろいゝ方です」とかたっている。また記念文集は、祝賀会[一九二二年十一月]のときの醵金で発行されたが、おおきくなりすぎまた物価騰貴のため醵金では印刷代がまかなえず、第一冊、第二冊とも各二〇円でうられている。ところが、呉建が「夕」[「呉先生を偲ぶ夕」]でのべたことだが、印刷所の杏林舎に訳のわからぬ借金がのこっていた、しらべると、あの文集のときの校正代で、叔父がいつまでも校正をやめぬので杏林舎から、それではあの金ではたりぬ、といったところ、叔父は校正代は自分ではらうからいいだけ校正するといい、校正代に一万何千円かかり、そのうちの何千円かだけが支払いずみであった、ということである。一万何千円かといえば、当時の普通の給料取りの一〇年分の稼ぎよりおおい、それをこの記念文集(あるいは、ほかの著作の分もはいっているのかもしれないが)の校正についやすとは、先生の校正癖もきわまれり、というしかない。[太字強調は原文]
校正魔だったバルザックは、活版に付してからも未定稿のやうに加筆修正を重ねること夥しかったため印刷屋から超過料金を請求され、さなきだに厖大な負債を嵩ませたといふが、呉の場合、純粹にただ校正道樂で借金をして年收(岡田著340ページ參照)も超したのだから、立派なものだ。となると、呉秀三の醫史學方面での主著である『シーボルト先生 其生涯及功業』(吐鳳堂書店、一九二六年→〈東洋文庫〉平凡社、一九六七〜六八年)中「シーボルト先生其生涯及功業の第二版のはしがき」に、「將又いつもながらの反復執拗なる注文と校正とに厭はず從事されたる吐鳳堂の店員・杏林舍の舍員*10にも同樣感謝すべき義務あるを覺ふ」と記されたのは、通り一遍の謝辭ではなかった。いつもながらの……なんぼお得意さまだとて植字工も音を上げたくなったらう。今の電子組版ではない、版面は鑄造活字を一本づつ
されど呉秀三にとっては、常軌を逸した入朱重校も、飽くまで(否、飽くなき?)持ち前の校正癖の欲する所に從った、樂しい作業であったらしい。最後に再た愛弟子・杉田直樹の證言を引く(403ページ)。
それで呉先生の校正をなさる時のお顔が呉先生の一番お楽しみな顔なのぢやないかと私は思つてをりました。大学でも机におつ被さるやうにして、紙にお顔を寄せて朱墨をすつて校正なさる、校正をなさる時のお顔は何とも言へないよい御機嫌で、何か外のことで御機嫌がお悪い時でも校正刷を差し出しますと急に御機嫌が直ります。大抵私の手許には校正刷が何時も活版所から届いてをつて、先生御機嫌が悪いなと思ふと、いち早くその校正刷を出して、先生この字が解からないんですが何と言ふんでせうかと言ふ風にお尋ねすると、おうどれ〳〵と言ふやうなことで、校正の役目をしたお蔭で呉先生からたゞの一度もお小言を伺つたことがありません。〔後略〕
校正さへしてゐれば御滿悦だった……! これほどの陽性校正マニア*11は、他に例を見まい。學究肌にありがちな
呉秀三の功績の一つに、舊來のやたらに「○×狂」と名づける精神疾患の病名體系から狂の字を避けるやう改革したことがある(「精神病ノ名義ニ就キテ」『神經學雜誌』第七卷第一號、一九〇九年一月。岡田著320ページ、『呉 秀三先生――その業績』154〜155ページ、參照)。つまりは用字改正・譯語選定で、校正好きらしい發案だ。なんだかPolitical Correctnessにうるさい差別語狩りの連中に歡ばれさうだが、されば呉に一典型を見る如きcorrectomaniaなる症候があるとして、それはやはり校正狂でなく、校正癖と稱すべきか。支那に『聊齋志異』
人ごとに一つの癖はあるものを我にはゆるせ校正の
坪内祐三「『濹東綺譚』をめぐる二人の校正者」『古くさいぞ私は』(晶文社、二〇〇〇年)、鶴ヶ谷真一「校正の神様―神代帚葉」『古人の風貌』(白水社、二〇〇四年)、等。なほ青木正美「「校正の神様」」(『古本探偵覚え書』東京堂書店、一九九五年九月)によれば、後藤正兵衛「帚葉山人 神代種亮小伝」(『文学散歩』17「永井荷風記念号」文学散歩友の会事務局、一九六三年四月)が最も詳しい傳記らしい。ついでながら、柳田泉の回想文「吉野作造先生と宮武外骨翁(二)」(「新版 明治文化全集 月報」No.6、日本評論社、一九六七年九月)が神代についても述べ、「校正で衣食していたが、正直のところ、巧みなのは文字の講釈で、校正の実技はたいしたことはなかった」等と書いてあるのも人柄を偲ばせる、ちょっとイイ話。
長山靖生『コレクターシップ 「集める」ことの叡智と冒険』(〈Turtle books〉JICC出版局、一九九二年四月)は好著であったが、増補したちくま文庫版(二〇〇五年一月)で『おたくの本懐』と改題したのは、何としても戴けない。青年論や人生論に近寄ると趣味が失せ、説教臭さが鼻につく。「コレクターシップ」が長山による和製英語で、原語collectorshipでは收税權を意味してしまふのだとしても、生かすべき造語ではなかったか。ほか、類語に擧げられるのは――「コレクターとしての営みは、蒐集癖collectomaniaに属するだろう。いっぽうゴミ屋敷に見られるような空疎なモノ集めへのこだわりは、医学用語で蒐集症collectionismと称される。「癖」と「症」との違いは大きい」(春日武彦『奇妙な情熱にかられて――ミニチュア・境界線・贋物・蒐集』〈集英社新書〉二〇〇五年十二月、189ページ)。
英語correctorが校正者を意味するのは英國用法らしく、現代では修正者・矯正者の語意の方が主か。またproofreader以外では、reviserも校正者・校訂者を意味する。因みに河出書房の月刊『文藝』では一九四七年後期から四八年初頭にかけて短命に終った「れ・び・ぞ・お・る」といふ匿名批評欄(最後二回は署名制に移行)があって、題は佛語reviseurから採ったと覺しく、佛和辭典には「再審者、改訂者、校閲者、校正者」といった語義が列ぶ。これを「レビゾウル」と誤表記するのは當時『文藝』編輯者だった杉森久英の回顧『戦後文壇覚え書』(河出書房新社、一九九八年一月)であるが、歿後の遺著である爲か、音の記憶に頼った筆録であって原誌に遡った校合はしてないことが察せられる。……と、そんな瑣事が氣になりだしたらもう、校正癖を患ってゐると言ってよい。
例へば加藤
大屋幸世「助詞一字の誤植――横光利一のために――」(『書物周游』朝日書林、一九九一年四月所收)を想起せよ。横光利一全集未收録の佚文「一言」(『白水』十二號、白水社、一九三一年四月十日)を紹介した一篇だが、横光はその文中で『機械』(白水社、一九三一年)所收「父母の眞似」の誤植について訂正を請ひ、「でなければ全然一作全部の意味が通じない」と述べてゐる。稀有の例であり、滅多に無い發見であるから、こんな僥倖は望むべくもない。しかも、作者自身の言にも拘らず、「誤植が訂正されれば、解釈はおのずから定まってくるものだが、「父母の真似」の場合は逆になってしまった」といふのがこの一篇の結論であった。
林達夫「書籍の周囲」が、文獻學者への嘲笑を三パターンに述べ直してゐる。うち特に第三の非難、徒らに「やさしい困難」に勞を注ぎながら小異を誇る瑣末事研究の愚が、校正癖に
例へば見やすいところで、南條竹則『恐怖の黄金時代 英国怪奇小説の巨匠たち』第4章「ケンブリッジの幽霊黄金時代――M・R・ジェイムズその他」〈集英社新書〉二〇〇〇年七月、を參照のこと。同書で怪奇作家でもないのにハウスマン餘話を出さずにおかぬ南條の心醉ぶりは、早くは「シュロップシャーの若人」(『幻想文学』25號〈研究ノート〉、幻想文学会出版局、一九八九年三月)に述べられ、のち「文学とは何の謂ぞ」(松浦寿輝編『文学のすすめ』〈21世紀学問のすすめ〉筑摩書房、一九九六年十二月)でもハウスマンに見る詩・學二途のけぢめを談じて印象深かった。また柳沼重剛では、書評文「きわめて異色な本のこと」(『語学者の散歩道』研究社出版、一九九一年十月)が「本文二五頁、注が二二一頁」といふ恐ろしく‘fully documented’であるハウスマン小傳を紹介してゐ、斯の人にして斯の傳あるか、一層興味が増す。この他に柳沼「ドロシー・セヤーズの場合」(前掲『西洋古典こぼればなし』)に言及されたエドマンド・ウィルソンのハウスマン論が面白さうなのだが、いかんせん邦譯無し(“The Triple Thinkers”所收とか)――と思ひきや、河野洋太郎・坂本武共譯「A・E・ハウスマン――〈一度発せられたる声は二度と取り戻せぬ〉――」(『ユークロニア』VOL. 4、『ユークロニア』同人、一九七四年十一月)あり、「評論集The Triple Thinkersは、じつは同じ共訳者によっていずれ刊行が予定されているものである」(坂本武「あとがき」36ページ)と前觸れしながら實現せずじまひ――。柳沼に言はせると學者としてのハウスマンに就ては弟子(身分上は同僚)A・S・F・ガウによる略傳のみ唯一推奬に値する由なれど、邦文で讀める傳記書はイアン・スコット=キルヴァート『評伝 A・E・ハウスマン』(丸谷晴康・小幡武・鈴木富生譯、八潮出版社、一九九八年十一月)しかなく、たしかに格別面白味は無かった。どうも日本ハウスマン協會の方々はじめ詩人ハウスマンばかりお好みのやうで、柳沼重剛みたいにその學者ぶり(の極致!)を論じてくれない。詩を詩的に扱ふやり方を峻拒して文獻學に徹することを自ら課したのがハウスマンらしさだらうに。詩作なんかより、逸話にも窺はれる過度の學問的倫理感にこそよっぽど反語的
「昭和文壇私史」の初出は「私の文学修業」の題で『文芸広場』一九五〇〜五七年斷續連載、のち『福田清人著作集 第三巻』(冬樹社、一九七四年二月)收録時に加筆改稿、引用箇所でも「酒井さん」を「酒井」と呼び捨てにしたのをはじめ小異があるが、ここは直す前の方が好いと思ふ。著作集版271ページと校合すると下記の通り、打消線は削除、下線部が加筆部。
酒井
さんという校正で半生をすごしてきたその道のエキスパートが、「近代劇全集」のかかりであった。この酒井さん人は、新聞をみても、内容より校正のまちがいを見るということに関心を持っていた。デスクの校正のひまには、新聞の校正をしていた。そして成果を我々に示した。「債
権 [債券]の当選番号の校正がいちばんむつかしかった。」とか、
「デパートのショウウインドーの広告の文字が間ちがっていたので、事務所へ行って注意してきた。」
とか、この世の不正の一切は校正のあやまりからおこるように、
酒井さんは、あらゆる不義不正より、校正のあやまちを憎悪するかのようであった。それはほとんど病的なくらいだった。そして酒井さんがついに発狂したのは、それから三年ほど後だった。
なほ初收書『近代の日本文学史』には、「昭和三十七年四月十五日 発行」とする刊記を持つものがあり(東京都中野區立中央圖書館藏)、他に「昭和三十八年四月五日 発行」と稱する版もあり、また竹松良明「セルパン・新文化 解説」(本文前掲)では「昭和35年」としてゐ、貼り奧附なのでそれらが初刊年だと誤らせやすいのだらうが、初版は一九五九(昭和三十四)年十一月刊が正しい。管見に入った限り一九五九年版以外では最終丁に剥がした形跡が見え、奧附のみ貼り替へたのは新刊扱ひして貰ひたい版元の僞裝工作か。
書名に見える「莅職」(リショク、職をつかさどる意)を、前掲岡田靖雄著にて「荏職」と記す(370、372ページ)は字句が意味を成さず、正に魯魚焉馬の誤りと見なくてはならない。國立國會圖書館藏書目録の書名標記では、記念文集第一册(第壹輯、一九二五年二月)を「在職」、第二册(第貳輯・第參輯・第四輯、一九二八年十二月)を「莅職」とする。うち祝賀のための詩歌俳諧和漢文を收めた第四輯(第四部)のみは祝賀會に合せて先に印刷され一九二二年十月發行、その書名を、國會圖書館・大阪市立中央圖書館は「在職」、Webcat・東京都立中央圖書館藏書目録では「莅職」とする。また「その内容は一九二八年発行のものとすこしくくいちがうようである」(岡田靖雄著371ページ)。寔にややこしい。
杏林舍は、醫書出版で知られた吐鳳堂がもと自社印刷所として一九〇七年に設立したもの、現存する同名の醫學書專門の印刷會社はその流れを汲む。吐鳳堂は一九一〇年から別に聚精堂といふ商號でも出版活動を營み、ことに柳田國男の初期著作『後狩詞記』『石神問答』『遠野物語』『時代ト農政』(一九〇九〜一九一〇年刊)が杏林舍・聚精堂の印行であったことから田中正明が詳しく調べてをり、「兄 井上通泰と『遠野物語』」及び「田中増蔵〔聚精堂〕と今井甚太郎〔杏林舍〕」(共に『柳田國男の書物―書誌的事項を中心として―』岩田書院、二〇〇三年一月、所收)に纏められてゐる。またこれらを初出『日本民俗学』第177號(日本民俗学会、一九八九年二月)・第204號(一九九五年十一月)の掲載前に簡約に報告したものに、季刊『地域雑誌 谷中・根津・千駄木』其の十八(谷根千工房、一九八八年十二月)及び其の四十二(一九九五年三月)所載の文もある。柳田國男が聚精堂に自費出版を持ち込んだのは、歌人にして眼科醫であった次兄・井上通泰の斡旋と推定されてゐる。それに田中論文には觸れられてないが、獨り柳田のみならず民俗學前史の觀點からすれば、高木敏雄の『日本傳説集』(郷土研究社、一九一三年八月)も奧附に「印刷者 今井甚太郎」「印刷所 聚精堂印刷所」とあって共に所在は杏林舍と同番地であったし、これに先立ち高木が吐鳳堂書店から編著『獨逸語入門』(一九一三年四月)を出してゐるのもこの縁につながることと注目してよい(ドイツ語の醫學書との結びつきは言はずもがな)。ほか、石橋臥波の著書『寶船と七福神』(一九一一年一月)も印刷所は杏林舍で發行所が聚精堂、石橋は自分の出版社である人文社(一九一三年二月十一日創立)の印刷に杏林舍を用ゐた(石橋臥波『國民性の上より觀たる鏡の話』〈民俗叢書第四編〉人文社、一九一四年四月、後附參照)。同社は石橋が主幹となって起した日本民俗學會(現在のそれとは別系統)の機關誌『民俗』(一九一三年九月〜一九一五年二月、全五册)を發行し、柳田・高木共編で出發した『郷土研究』(郷土研究社、一九一三年三月〜一九一七年三月)に對抗したが、印刷所は同じだったわけである。否、視野を民俗學に限るまじ、田中正明が發掘した『故今井甚太郎君を偲ぶ』(今井甚太郎氏追悼録刊行会、一九五六年九月)や『嗚呼田中増藏君』(小泉榮次郎、一九一六年十一月)といふ饅頭本は、醫史學・出版史などの關心からしても一讀してみたいものではないか。管見の限り所藏圖書館無し。なほ、田中正明とは別にこの田中増藏追悼文集を紹介したものに、大屋幸世「蒐書日誌」(初出『鶴見大学紀要 第一部 国語・国文学編』第三十五號、一九九八年三月→『蒐書日誌二』「一九九七年」皓星社、二〇〇一年六月、213・215〜219ページ)がある。書名は本來「嗚呼」とあるべきところ表紙・扉とも「鳴呼」だとかで『鳴呼田中増藏君』と記されてゐ、また岩波書店版『鷗外全集』に聚精堂を「聚積堂」と記述した誤りがあることも指摘されてゐる。大屋幸世『追悼雑誌あれこれ』(日本古書通信社、二〇〇五年七月)にも「田中増蔵」を收む。兩者とも氣づかなかったのか、田中正明・大屋幸世は互ひに參照してない。
陽性とは、病氣の反應が顯著といふ意味での陽性であるが、陽氣な性質の意でもある。そこに注意するのは、お樂しみの最中に氣分が昂揚し輕躁氣味になるだけなら誰しも間々あることながら、むしろこれと反對に、一字一句に執する傾向の性格は陰氣な憂鬱質が多いからである。精神科醫である中井久夫の診る所、「一般に歴史学的な作業をやるものには、その職業病といってよいほどうつ病が多い」(『治療文化論』〈同時代ライブラリー〉岩波書店、一九九〇年七月、80ページ)。以下はほとんど校正癖の特性記述としても通用しさうだ。
そして、歴史に興味を持つ人すなわち過去に興味を持つ人は、木村敏のいうpost festum的な人、いわば(微分でなく)積分回路的な人、日本の精神医学で(ドイツ精神医学以外では承認を得ていないけれども)「執着性気質」といわれる、几帳面で、飛躍をみずからにゆるさず(結果的には「綿密」になる)、やや高きにすぎる自己への要求水準とそれにもとづく課題選択にしたがって範例枚挙的に無際限の努力をしながら(「仕事の重圧につねに押しつぶされていたい」(若き日のウェーバーのことば、マリアンネ夫人による))、つねに不全感からのがれられず、しかも、緊張と高揚感とを職場を去って自宅へ戻ってからも持続する、という人であることが臨床的には多い。
――『治療文化論』六2(4)「歴史家の職業病としてのうつ病」83ページ
同じく校正は、既に書かれた文書のみを相手にする精神衞生に惡い質の作業である。それでなくとも、校正みたいな辛氣臭い仕事中に上機嫌といふ呉秀三の如きは珍しからう。――「ふしぎですねえ……語学者には不幸な人や、世間から偏屈といわれる人が多いようですねえ……」(足立巻一『やちまた 下』第二十章、河出書房新社、一九七四年→再版、一九七五年→新裝版、一九九一年→〈朝日文芸文庫〉朝日新聞社、一九九五年四月、「本居春庭年譜」「参考文献」を略す)。文獻學から歴史學へと受け繼がれ、十九世紀ドイツを流行源としたこの病症については、フランス實證史學の確立者が診斷を下してゐる。曰く、外的史料批判の仕事に携はる職業上の危險性は三つ。不完全を恐れるリゴリズムのあまりに陷る無氣力、懷疑と批判の過剩によるあらさがし(酷評)とその結果としての自壞、ゲーム同然に批判のための批判に傾注する無益なディレッタンティズム(ラングロア、セイニヨオボー共著、高橋巳壽衞譯『歴史學入門』第二篇「第五章 批判的學識及び學者」人文閣、一九四二年四月、124〜128ページ。セニョボス/ラングロア、八本木浄譯『歴史学研究入門』第二編「第五章 文献考証と学者」校倉書房、一九八九年五月、102〜104ページ)。
呉秀三『精神病者の書態』は一八九一年『中外醫事新報』初出、翌年三月に蒼虬堂松崎留吉刊、のち『明治文化全集 第二十四卷 科學篇』(日本評論社、一九三〇年二月→改版第二十七卷、一九六七年十二月→復刻版第二十六卷、一九九三年一月)に收録。その内容は、前掲岡田靖雄『呉 秀三 その生涯と業績』187ページのほか、荒俣宏『パラノイア創造史』11章「新文字を発明した人びと――鶴岡誠一 and/or 島田文五郎」(〈水星文庫〉筑摩書房、一九八五年→〈ちくま文庫〉一九九一年十二月)にも詳しく紹介せられてゐる。
この本歌は慈圓(慈鎭和尚)作とされるが『拾玉集』には見えない。慈圓の逸話として『正徹物語』(『徹書記物語』)に「皆人に一のくせは有るぞとよこれをばゆるせ敷嶋の道」とあるのをはじめ屡々引かれるものだが、ほか「皆人の一つの癖はあるぞとよ我には許せ敷島の道」「みなひとにひとつは癖のありそとよわれには許せ敷島の道」「人ごとにひとつはくせのありぞとよ我には許せ敷島の道」「人はみなひとつのくせはあるぞとよ我には許せ敷島の道」等と異傳が多く、殊に上の句に變形が生じやすいやうだ。甚だしきは、多賀宗隼編『慈圓全集』(七丈書院、一九四五年)、仝著『慈円』(〈人物叢書〉吉川弘文館、一九五九年)、仝編『校本拾玉集』「解説」(吉川弘文館、一九七一年)と、書を著すたび字句が違ふ研究者さへゐる! 中村薫『典據檢索 名歌辭典』(明治書院、一九四〇年六月再版)では、初句「みな人に〜」と「人ごとに〜」と兩項分立である。いま『康熙字典』「癖」の項を見たからには更なる本歌取りの出典に白樂天があったと目さずばなるまいし、右の引例に「人皆有一癖」とあるによって「みな」が原形であるかに思はれるが、那波本『白氏文集』(『白氏文集歌詩索引 下册』所收影印)に當ってみると卷七の五言古詩「山中獨吟」(花房番號330)起聯に「人各有一癖。我癖在章句。」とあってまたもや異文、この「人各……」を和語にくだいた引喩とすれば「ひとごとに」もあり得よう。ここは、語呂の好みで「人ごとに〜我にはゆるせ」を採った。……「人ごとに、我が身にうとき事をのみぞ好める」(『徒然草』第八十段冒頭)。