問題群としての歴史思想 
――須藤訓任『ニーチェの歴史思想――物語・発生史・系譜学――再讀


須藤すとう訓任のりひで『ニーチェの歴史思想――物語・発生史・系譜学――大阪大学出版会、二〇一一年十二月。


一、初讀時は讀み過ごす 

須藤訓任ニーチェの歴史思想』に近刊豫定で目を着けたのは、まづは書名からだったらう。既に榎並重行『ニーチェって何? こんなことをいった人だ新書y〉洋泉社、二〇〇〇年五月)を讀んでも、ニーチェ遺稿斷片Nachgelas­sene Frag­mente-1885, 38​[14]*1から「学問としての哲学は、全部歴史だというんだ(p.31)と説く箇所に嬉しくなってしまふ讀者としては――。むしろ、「神の死」「ツァラトゥストラ」「永劫回歸」「力への意志」等の決まり文句と共に語られる所謂「ニーチェ」には讀む氣そそられない。

都立圖書館に入るの待って區立圖書館へ取り寄せ借覽、二〇一二年四月十一日を以て讀み了ると共にソーシャル・ライブラリーウェブ本棚の一種、二〇一八年以降稼働してない)に讀後感を記した。素っ氣無い短文なので、當時はさして感銘を受けなかったやうだ。以下その全文。

読了 2012/04/11

奧附には「2011年12月28日 初版第1刷発行」とあるが、實際に出たのは遲れて翌一月か。

ニーチェの著作中の相互に矛盾すると見える點を、前期中期後期と思想の發展上に割り振ってうまいこと説明してある。しかしどうも哲學の人の考察は、何か物足りない。期待しすぎたか。哲學者であるよりも文獻學者であるニーチェに即してくれると好みなのだが。

著者の「屋根から瓦が​…​…――必然・意志・偶然」(『新・哲学講義 3 知のパラドックス』岩波書店、一九九八年一月)は惡くなかった筈だのに、本書五章で偶然と必然を述べるくだりではその議論を全く參照しないのは、不審。

http://www.sociallibrary.jp/entry/4872593898/m.3820946/

右文中「前期中期後期と思想の發展上に割り振って」云々にはいささか皮肉を含む*2。著者自身は斯く語る。

[…]ニーチェは二〇歳代半ばから四四歳時の発狂にいたるまで、哲学者として活躍しえた二〇年の間、その思想を根本的なところからさまざまに転変させた。通常、その思想的変遷は、二〇歳代後半から三〇代前半の前期(一八六八、九年ごろから一八七六年頃まで)、三〇歳代中盤から四〇歳の手前の中期(一八七七年から一八八一年まで)、四〇歳少し前から発狂までの後期(一八八二年頃から一八八八年末まで)に分類される。本書においても、基本的にこの時期区分に則りながら叙述が進められる。第一、二章は前期、第三章は中期、第四章から第六章までは後期の「歴史」思想を取り扱う。

『ニーチェの歴史思想』「序文 歴史思想家としてのニーチェ」p.17

構成上の分量だけから見ても後期を取り扱った第四章から第六章までが本書の中心を占め、これには「後期のこの歴史方法論にこそ、歴史に関するニーチェの思想全般において、最も注目すべき独自の観点が展開されていると、筆者としては評価したいからでもある(p.18)との但し書きが附く。實質の量は本論六章以外の補論四篇も入れると「補論3」が本書中の最長篇(pp.327-​402.)といふ不均衡っぷりなのだけれど、これも最も關聯するのは第五章にだから、やはり重點は「後期」にある。ただ、三期に劃するのは通説らしいが、何に據ってさう分けたのかは讀者に知らされない(三分説はルー・サロメ以來の踏襲だらうが、四期構成にしたオイゲン・フィンクなんかもゐた)。基準不明なその分け方を當然の前提とされたままそこから天下り式に時期ごとの違ひも語り出されると、何だかひと頃の史學で盛んだった發展段階論を當て嵌めるやり口の臭ひがせぬでもない。最終結果となった「後期」に至る行程の通過點として前期・中期が顧みられやうものなら猶更に。事實、「あとがき」に列記された初出一覽(pp.419-​421.)を見ると、補論3(一九九六年)・補論1(一九九七年)は別として本論は、第四章(二〇〇〇年)、第六章(二〇〇一年)、第五章(二〇〇三年)の順に先行し、後から第一章(二〇〇七年、二〇〇三年)や第三章(二〇〇七年、二〇〇五年。一九九三年初出に基づく「四 持続性の問題とよきヨーロッパ人」は除く)が成稿、更に第二章が書き下ろされたと判る。「後期」から遡及する形で成立し、それを顛倒して年代順に列べ直したのが本書の構成である。歴史認識は往々にして倒敍法の逆轉を密かな前提とする。

文學者の活動を何期かに分けて發達史風に變遷を辿りながら對應する著述を見てゆくのは作家論の常套手段であり、思想家を扱ふ思想史でも同樣、要は著作者の履歴(per­son­al his­to­ry​=個人史)を基準にする時系列順の整序だから、his­to­ryに履歴とも譯される語義がある以上、それも歴史主義ではある。日本語で歴史と云ふ言葉は規模でも時間の長さでも個々人を超えた集團や時代についてでないと用ゐられにくいのに對して一個人の生涯に限定してはゐるが、言ふなれば縮小版の歴史主義があるわけだ。もしくは歴史主義の斷片化。そして歴史學において時代區分論が論議を喚んだやうに、斯かる傳記上に設定される時期區分も問題含みなのであるが​…​…歴史思想を論じる本書にそのことを氣にした形跡は見當らない。

[…]ニーチェが正面から歴史を論じた書物は『反時代的考察』第二篇「生に対する歴史の利と害についてくらいであろう(序文p.6)。しかも「利害について」*3と併稱しながら利點にもまして弊害を述べ立てた歴史主義批判として著名である。この一八七四年初刊の書による反歴史主義者の像を「歴史思想家としてのニーチェ(序文)に反轉させようとすれば、『人間的、あまりに人間的』初卷(一八七八年刊)以降に目立つ歴史に關する肯定的發言を見直すべきであらうから、その「思想的変遷を――変遷の内在的理由ともども――追跡すること(p.9)が本書の課題となる。「[…]それはまた歴史認識の問題性の深化の過程と形容してよいものである(p.9)。深化か表面化かはさておき、ニーチェ自身が考へを改めたとしなければ歴史思想家とは見做せない以上、ニーチェ思想には時期による變化が、つまり「歴史」があると目される次第。ただ「内在的」と限定した理由は不明で、前成説風に内發因子を入れ込んで變化を後年の到達點の萌芽・胚胎・豫兆と見たり變化に一定傾向の増大を假定したりせずとも、外在的偶因による動搖と解する手だってあらうが、恐らく内面化しないと思想論・哲學研究にならぬと思はれてゐるのだらう。

同じくこの第二反時代的考察への引照から始めたのが歴史認識論をめぐる拙文「アナクロニズム」で、二〇一〇年一月に書き上げて自サイト【書庫】に公開してゐたが、本書を讀了後その註疏*3に攝取し、「第二章 問題群としての生に対する歴史の利と害について」p.91を參照するくだりを加筆した。と言っても所引の譯文を參考にしたに留まり、須藤著の論旨には及ばなかった。

二、九年ぶりに再讀して 

二〇二一年六月になって再讀の機があった。木田元『マッハとニーチェ 世紀転換期思想史新書館、二〇〇二年→〈講談社学術文庫〉、二〇一四年)のやうに思想の類似が語られてきた兩者の、影響なのか獨立發生なのか判然としない關係について詳細を知りたくなり、「第五章 歴史精神とは何か――ニーチェとマッハ」と「(補論3) ニーチェの経済思想――アヴェナリウス―マッハによるあとからの影響」(補論と言っても本書で最長)とが役に立ちさうだからだったが、つまり何が書いてあったかは最早記憶に無かったので讀み直さざるを得なかったのだ。頭から一册全部讀み直したら他にも得る所があって、既に朧氣になってゐた初讀時の印象と違った。こちらがその後ニーチェ讀解を進めてゐたからだらうか。同じ書物でも讀む者次第で讀み取ることは變はる、時にその讀者が同一人物であってさへ。或いは、「M・ゾンマーのいうあとからの影響 nach­träg­licher Ein­fluß(「補論3」p.371)​…​…「すなわち自分の思考のうちですでに獲得されていたか獲得間際になっていた洞察を加速し、確証し、表現手段の不備を是正するという触媒的機能(強調―須藤)(p.372)が作用したのかしらん。

二度目に讀んだ成果は、拙文「アナクロニズム」第八節第十節註疏*9に攝り入れた。しかし勿論、そこに盛り込めなかったこともある。ひとは書く以上に讀むのだから。讀んで腹膨るる思ひとなれば一端なりと漏らしたくなって、喋ったり書いたりすることもあらうもの。時にそれを書評と呼ぶ。

本書への書評で、著者の門下であるらしい竹内綱史は「その白眉は何と言っても第4章と第6章であろう「《書評》​須藤訓任​『ニーチェの歴史思想――物語・発生史・系譜学』」『メタフュシカ』第43號p.119)と判定する。博士論文要旨にも「その主眼点は、後期ニーチェを取り扱った第四章から第六章において論究された、伝統同時代の対自化という意味での歴史方法論にあるp.4と見える。實際、本書所收のうち本書以外の所で讀んだことあるのは「第四章 認識者の系譜学――時代という名の自己」だけだったが、初出の『思想』二〇〇〇年十二月號「ニーチェ」特輯(岩波書店)の中では最も我が關心に訴へて面白かったものだ。第四章初出で「機会を改めて論じることにしたい(本書p.166)とお預けにされた『ヴァーグナーの場合』についても、本書「第六章 同時代の根源――『ヴァーグナーの場合』を読む」で讀むを得、「現代」批判として重視する所以は理解できた。尤も「なぜ、ヴァーグナーなのか」(第六章「三 楽士拡大鏡――哲学者やましい良心」p.242)になると、果してそこまで特筆して時代の代表者扱ひせねばならぬのか、ワーグナー樂劇に興味薄く碌に聽いたこともない身では同感しかねるのだが。ワーグナー拔きの十九世紀史なぞ歿後幾らも書かれてゐようが、同時代人にとってはまた違ったとかか? 須藤については「著者の並々ならぬ音楽愛好ぶりがうかがわれ」と前著『ニーチェ 〈永劫回帰〉という迷宮(〈講談社選書メチエ〉一九九九年九月)への書評大河内了義、大谷学会『大谷學報』第七十八卷第四號、二〇〇〇年二月、p.20)にあったから、クラシック音樂趣味からして當然とされたのだったらその趣味無き者には解せぬのもまた理の當然であらう。

眼目となる第四章を初出と校合してみたら、ニーチェ著の書名『道徳の系譜』『悦ばしき知識』『ワーグナーの場合』を『道徳の系譜学』『愉快な学』『ヴァーグナーの場合』に改めたり、傍點(胡麻ルビ)による強調を太字ゴシック體に變へたり、普通は二字分竝べる三點リーダー「……」を奇妙にも一箇「…」に約めたり、その他小さな調整はあっても、「ほぼ発表段階のままのもの(「あとがき」p.419)に該當すると言ってよい。細かく見れば、初出での誤植が訂正された箇所(「流れに掉さし」→​p.176六行目「さおさし」)、まだ見逃されたまま殘ってゐる箇所(p.188後から四行目「有しているだろか」の脱字)、新たに増えた誤植(p.169九行目「場当たり的でしかな」の衍字)、それぞれある。ただ、論旨に變りはないやうでも微妙に書き換へられた措辭を一つ指摘しておく。『道徳の系譜學』第一論文「善と惡よい(優良)とわるい(劣惡)„Gut und Böse“, „Gut und Schlecht“.でニーチェが行ったのは「キリスト教道徳の支配圏から抜け出」て「それとは異なった、それに先立つ価値判断なるものを提示」することであるが、そこに問題が生じると須藤は言ふ。

[…]それも結局は、現在のなんらかの道徳の投影でないという保証はどこにあるのか。もしその保証がないとしたら、[…]

第四章「二 起源現在の癒着」p.177

ここは初出p.83では「[…]投影でしかないという懸念はどのようにしたら払拭できるのか、もし払拭できないとしたら」となってゐた。この改稿はまるで、懸念は拂拭し切れないけれど保證ならできると言ふかのやうだ。保證する方が確度の増す分だけ大變さうなのに? 保證があってもまだ何か懷疑の念が殘るのか? 文意に大差は無い、が、これは後に響いてくる所である。「いったいニーチェは現在の道徳を相対化する視点を手に入れることができるのであろうか(p.177)

校正癖の然らしむる所、瑣末な言句に拘泥し過ぎかも知れない。しかしそれは本書の著者の手法でもある。竹内綱史が評して言ふには、「特徴的なのは、ニーチェの文章や表現から読み取れる(一見些細な)違和感に、徹底的にこだわる読解であろう。普通なら読み飛ばしてしまうような表現から、その著作全体、さらにはニーチェ哲学全体の理解を大きく変えてしまうような読解が導き出されるのだ「《書評》​須藤訓任​『ニーチェの歴史思想――物語・発生史・系譜学』」p.121)。顰みに傚ったわけではないが、また一點突破からの全面展開に成功するとも限らないが、もとより文獻學的(phil­o­log­i­cal)とも呼べる言葉ロゴスへのフィリアは好む所だ。著者も曾て、ニーチェの解釋論を考察する前振りでひと頻り文獻學者としてのニーチェを強調してゐたことがある。

要するに、歴史や世界事象に立ち向かう自身の知的営みが文献学に比せられる精密な「読み」の方法に基づいているばかりでなく、その方法による探求の成果としての彼の著作もまた、辛苦をきわめたドイツ語彫琢の結果、言葉の語間に織り込まれた襞のいちいちをのびひろげられないことには十分な理解の不可能な、その意味でまさに文献学の対象とならざるをえないような言語作品となっている、というのである。

須藤訓任習俗の倫理について――ニーチェの「遠近法主義」の前景と背景――『メタフュシカ』第36號二〇〇五年十二月、p.2

右は本書「第三章 思考の発生史習俗の倫理よきヨーロッパ人」に吸收された初出習俗の倫理について――ニーチェの「遠近法主義」の前景と背景――(「あとがき」中に示された初出書誌は不正確で、題名から「習俗の倫理」を圍む鉤括弧と「について」とが脱落)からの引用であり、最初の節「〈レントーの術としての文献学〉」にある一段だが、本書第三章「二 習俗の倫理」は「あとがき」が「諸論文の初出」について言ふ「一部分だけが利用されているもの(p.419)に當り、本書では大幅に削除されてしまった不採用箇所なので初出に遡らないと讀めぬのが惜しい。文獻學に關する切り捨てられた部分は、第三章とは別に序文にでも組み込んで置けば本書全體の讀解法を豫告するていとなったらうに。

三、再三再四讀み込む 

さて再讀して、なかなか面白かったのに何かもやもやする。通讀後も更に讀み返すうちに、どこがをかしいのか指し示せるやうな氣がしてきた。ここからやうやく批評(=批判)に入れる。

須藤著は第四章第三節で『道徳の系譜學』第一論文末に着眼してゐる。そこで珍しく註を附けたニーチェは「どこかの大学の哲学部が一連の懸賞論文を募集」することを願ひ、「次のような問いを提案したい。その問いは、文献学者や歴史家の注目だけでなく、本来の専門的職業的哲学者の注目も大いに集めてしかるべきものである」と言ふ――即ち、「言語学、なかんずく、語源探求は、道徳的概念の発展史に対し、どのような示唆を与えるか(p.184所引)。須藤の見る所、「こう提案するからには、『系譜学』における自分の語源詮索だけで充分だとも、またそれが最終的結論となるのだとも、ニーチェ自身決して思っていなかったのであろうが、ここに読み取られる口調は、まったく真摯なもの、といってよい(p.184)。ニーチェの語源論そのものは不十分であらうと、と讓歩する代りに「ニーチェのそうした謙虚な学的姿勢(p.184)だけは認めさせようとする論法である(そのためか、大眞面目に學術ぶった樣式(スタイル)が却ってパロディーかと思はせる效果を擧げてゐることは默過される)。

いずれにしても、こうした語源学の実践によってこそ、「系譜学」ないし「発生史」を、「現在」の価値観の「投影」から護り、そのことを通して、「現在」とは異質な歴史的過去を、したがって、歴史の質的な非連続性を、「学的」に捉える可能性が切り開かれる、とニーチェは考えた。語源学はいわば物証であって、そこに「現在」からの「投影」がつけこむ隙はほとんどないはずだからである。

第四章「三 語源学の物証」p.185

……「ほとんど」? 「はず」だって? 最初は看過ごしてゐたが、これはチト變である。「物証」といふ譬喩で主觀を超えた確固たる客觀性(モノ性、Ob­jek­ti­vi­tät)を標榜するにも拘らず、斷定し切れずに留保せざるを得ない何かがある樣子。あたかも解釋の入ってない原典の即物性を思はせる表現を打ち出しておきながら、いざ確言するには言葉を濁して躊躇を見せただけまだ幾らか正直さはあるにしても、しかし何がそこで引っ掛かったのかは、ぼかされたまま追究されない。ここ以降「物証」なる語は重出するも、隱喩であるよりむしろ濫喩カタクレーズ(Cf.佐藤信夫「記号の修辞性」『レトリックの消息』白水社、一九八七年二月)と言ふか死喩デッド・メタファーと云ふか、語感に頼って無反省に多用され、自分がその言葉をどういふ意味で用ゐてゐるのかを分析した説明が試みられないまま無自覺なキイワードになったので、ささやかな留保の氣づきは埋もれて顧みられなくされる。哲學流にお硬く言へば、思考作業上の「操作的概念」は現に用語となってゐても「主題的概念」として捉へ返されないことがしばしばあるわけ(オイゲン・フィンク/新田義弘「フッサールの現象学における操作的概念」新田義弘・小川侃『現象学の根本問題』〈現代哲学の根本問題〉晃洋書房、一九七八年十一月)。それへの解法が徴候的讀解とも呼ばれる。

この微かな綻びを意識しつつ讀み返すと、これに照應する論理上の弱點が見つかる。次の『道徳の系譜學』第二論文を論じた第五章のうち「四 結語」に「物証」の反復があり、そこでは「第四章で述べたことと本章の論旨とを関連づけ」るために前章を要約してゐる。「第四章では、キリスト教道徳という名の伝統を血肉化した認識者であるニーチェが、いかにして伝統から距離をとり相対化して、批判の可能性を確保できるのかが問題であった。それに対する答えは、いかに自分の実感や思考では相対化したつもりであっても、それの成功は保証されず、そのためには、相対化を立証する確かな物証が必要となり、という語の語源学がその物証となるのであった。その物証を通してニーチェは[…]ユダヤ・キリスト教的な道徳的価値観以前の[…]貴族道徳の存在を突き止めることができ、[…]キリスト教を相対化する立脚点を築いたのであった」云々(pp.218-​219.)。問題視すべきツッコミどころはその直後に現れる。

むろんそのためには、ニーチェ自身のキリスト教道徳に対するかねて来の批判的スタンスがその前提となることはいうまでもない。そういうスタンスがあったからこそ、語源学を物証として的確に感知することができたのだ。さもなければ、物証はそのまま見過ごされるだけに終わっただろう。

第五章「四 結語」p.219

「いうまでもない」って……だから前第四章では言ってなかったと? だがここへ來て斷りを入れたのも、自明視した儘では片付かない懸念があるからでは? 注視しよう、今や「物証」と言ふレトリックが頻用の果てに破綻を來してゐるのだ。「かねて来の批判的スタンス​…​…通常これは、豫斷とか先入見とか成心とか見込み搜査とか呼ぶものでないか? 何なら科學哲學風に「觀察の理論負荷性(N・R・ハンソン)とでも言ふ方がお好みか? 所詮は解釋學的循環を脱せないとでも? いや、しかし、語源が物證であるとは、元來さういふ現在に屬した偏見からの投影を免れたことの(いひ)だったはずでは? 「現在のなんらかの道徳の投影でないという保証(p.177)として語源が提出されたと云ふのに、それでもなほ「それも結局は、現在のなんらかの道徳の投影でしかないという懸念」は「払拭できない(第四章初出p.83)のだらうか? 或いはここを言ひ拔けできるとしたら、語源に例證を見出せたのは豫てよりキリスト教に抗する下心を懷いてゐたニーチェならではの批判精神のお蔭であってもひとたび發見された後は誰が審査しようと物的證據みたいな動かぬ確實性を有するのだ――とか何とか?

ところが、そもそもその語源論が當てにならないのだったとしたら​…​…。秋山英夫譯『道徳の系譜解説」には「いろいろ誤りを指摘されながらも、文献学者として語源を駆使した研究方法も、さまざまな実りをもたらしており『ニーチェ全集 第三巻(第期)白水社、一九八三年三月、p.327)と見え、内實は不明にしたまま(「いろいろ」では判らぬ!)失敗を取り繕ふやうにして書いてゐた。そのことは須藤も無視し得なかったらしく、ひと言だけだが觸れてはゐた。

ニーチェの語源学が、百有余年後の二一世紀の学問水準からするなら、とても批判に耐ええないものだとしても、彼の、いかにも「認識者」としての自己規定にふさわしい「学的」論証の完備した形式性については、それとして認められなければならないだろう。少なくとも『系譜学』において、ニーチェは、語源学を通すことによってのみ、自己をも含めて「現在」を全面規定する歴史的「伝統」を相対化する視点を確保しえたのである。

第四章「三 語源学の物証」p.183

ニーチェによる善・惡の語源説は尤もらしく聞こえても謬説で、言語史的事實ではなかった――! 民間語源説ならぬ學者語源解の誤りがある​…​…? ここで須藤も輕く流してしまって、どこがどう誤謬なのかといふ肝腎の批判については「批判に耐ええないものだとしても」と假定法めかした箇所に註(7)を附してW・シュテークマイヤー著『ニーチェの「道徳の系譜學」』第五章第四〜六節S. 103-105.)M・ブルゾッティ論文を擧げるのみ、それらドイツ語文獻に下駄を預けてしまひ自らは省みない。誤りだと承知してゐながら正しくはどうなのかを知らせない、眞實はどうでもいいと言はんばかりの態度は誤魔化しに見えてきてしまふ。それに、正しい知識を求めるのみならず、誤りについてもニーチェがどのやうにして過誤に陷ったのかが知りたくなる。ニーチェを擁護するのでなく、批判的にその誤りに學ぶために。前車覆轍。アリストテレス『ニコマコス倫理學』第七卷第十四章1154a22以下)に曰く「われわれは、しかしながら、事柄の真を語るのみならず、また誤りの原因をも語らなくてはならない。というのは、そうすることが論議の可信性に寄与するからである。つまり、真ならぬ事柄が何ゆえ真と見られているかということが首肯されうるとき、事柄の真はますますその可信性を増大する高田三郎譯。大體、形式が整ってゐると認められれば内容・實質は問はないと言ふのは、論理だけで體系化する思辨哲學流の建築法であって、素材から吟味する歴史(學)的な考證のやり方ではない。歴史的思考を主題とする論がそれでは濟まされまい。

「眞實らしくないものの代りにより眞實らしいものWahr­schein­lichere​=よりありさうな、より見込みのある]を置き、場合によっては或る誤謬の代りに別のを置く」(『道徳の系譜學』「序言」第四節*1前掲ちくま学芸文庫版p.364相當)とニーチェ自身が宣ったとて、眞實らしい誤謬の代りに眞實らしからぬ誤謬を置くことまで良しとしたわけではあるまいに。或いは、「事実というものはない、あるのは解釈だけだ」といふ「遠近法主義」を「実証主義に反対して」唱へた所で(本書補論3第二部「二 枯葉としての理論――マッハ」p.380所引NF-​1886, 7​[60]。原佑譯『権力への意志 下 ニーチェ全集13四八一〈ちくま学芸文庫〉一九九三年十二月、p.27相當)、ならばその語源についてニーチェが「事實」として構成した解釋には解釋者のいかなる欲求や衝動が働いてゐたのかを讀み取って、解釋を解釋してゆく作業が望まれよう。少なくとも、いきなり持ち出した「かねて来の批判的スタンス」に還元した切りでは解釋不全であらう。

どうもこのニーチェ研究者には自身を認識者として律する學者的氣風エートスが薄めなのかも知れない。「あたう限り誤謬を排し、飽くことなく真理を追究する存在――それこそ、認識者すなわち科学者でなければ、何であろう(p.186)。しかるに、その「真理への意志」の系譜そのものが問ひ質され、「『系譜学』第三論文のクライマックスをなす第二三節から第二七節はその問題に取り組む(p.186)――だが、それは先のこと。その前段階であるこの第一論文ではまづ學者らしく證據固めをする建前だったのだから、前提となる立證がぐらつくと第三論文に達する前に崩れてしまふ。本書第四章「四 結語にかえて」は『道徳の系譜學』を構成する「三論文間相互の関係(p.189)をはっきりさせようとする。それによれば、第二論文中に用ゐられる「仮説」といふ語は「第一論文での自分の理論に冠せられることはなかったものである。第一論文の理論は、語源学によって証拠固めがなされているはずだからである。仮説の語のこうした使い分けは、あきらかに理論としての確実性の多寡に応じていよう(p.191)とのこと(ここでも言葉が證據となるのだ)。「第二論文の理論もその[第一論文の]議論を土台とするならば、その限りにおいて、彼ら[ニーチェの批判したレーやイギリス人達]の理論よりは、より蓋然性の高いものとして認められてよいはずだから(p.191)、「第一論文の固めた足場なしには、第二論文は議論が学的に展開しえない結構となっている(p.192)。第一・第二論文と違ひ「近代以降をテーマとする局面の多い第三論文は、先立つ二論文に見られるような、時代認識の方法論的問題を伏在させていないと思われるので、ここでは除外する」とて同時代批判を扱ふ第六章に先送りにされたが(p.190)、もし第一論文での歴史的實證無しに第三論文を展開できるのならば、第一論文は不要で第三論文だけで事足りよう。ならばなぜ先づ第一論文があったのか、再考せずばなるまい。つまり、歴史探究を現代批判に如何に接續できるのか――或いは、できないのか――が問題となる。

繋がり具合を問ふからには、「価値の批判系譜学(ないし発生史)が区別され(第四章「一 『道徳の系譜学』の系譜学」p.172)た上で「相互の混同は厳しく戒められながらも――手を取り合い、協調関係に入り直すことができるようになる(p.182)との言も、過去への遡行が現状への對抗から峻別されたのにさうすんなり縒りを戻せるものか、危ぶまれる。事實、歴史研究それ自體は現代批判へ結びつかない仕事などざらにあり、「実際、なんらかの事象の発生史を解明したところで、それの――とくに現在有する――価値批判には直結するとは考えられないだろう(p.172)。折角見事に「起源現在の癒着」を切斷したこの峻別論(第四章一・二pp.172-​181.、第五章「一 問題の所在」pp.198-​203.、及び「序文」p.13)から、豫定調和のやうに統合されて圓環が閉ぢられると、釋然としない。蟠りを感ずる理由は、『道徳の系譜學』から『ヴァーグナーの場合』への「連続性」を説くため「この場合、歴史ないし時代とは、過去と現在(同時代)の双方を包含するものとして考えられている(第六章p.223)とあっさりひと括りにしてしまふやうな著者の構へにもあって、「時代」ならまだしも「歴史」に同時代の現在を組み込むのは言ふほど容易でなく、幾ら同時代史・現代史が試みられようと近い過去のことを「まだ歴史になってない」と言ふ常套句があるのを知らぬでもあるまいに、「歴史という概念において過去がもっている注目すべき優位(『存在と時間』第七十三節S. 379原佑・渡辺二郎『世界の名著 62 ハイデガー』中央公論社、一九七一年十月→『ハイデガー 世界の名著74』〈中公バックス〉一九八〇年二月、p.586)を顧慮しないのが氣に懸かる。同時代寄りの「時代」に比べて過去である「歴史」は輕視されてないか。この過去/現在の關係を變奏して「いうまでもなく、伝統現代は地続きである(第四章p.165)と言ふ文句も、「もとより、歴史的過去としての伝統近代という同時代とは地続きである(第六章p.225)とか「伝統同時代とは繰り返すまでもなく、地続きである(第六章「四 おわりに」p.252)とか再三斷言されるが、そんな論を俟たず自明かは疑ってよい(「言ふまでもなく」と言ひ出された「常識」は多くが慣習か論理の飛躍に過ぎぬのは言はずと知れたこと)――そもそも本書にあっては、歴史の「非連続性(第四章二p.181。Cf.同p.185、第五章三p.216)が追求され、「連続的歴史観の呪縛からの解放(第五章三p.217、Cf.第五章一p.202)が庶幾されるのだから。一續きと見えても實は不連續線を見落としてゐる懼れがあるのでは? 「地続き」とは言へ「両者に違いが認められないわけでもない(p.165)両者を無差別的に論じるなら、重大な知的混乱を招きかねないだろう(p.225)と取り敢へず須藤も留意はするものの、結論が「その相違の根幹をなすのは、いうまでもなく、時間的距離の有無である」云々(p.253)では拍子拔けで、その前段で「伝統」と「同時代」は「その認識を試みる者に対し、いわばあまりにも近いがゆえに、認識困難となるのであって、その点では互いに共通している。近さとは、自分がそれであるところのものの別名である(p.253)と比喩してゐたため、距離の「近さ」で測れば傳統よりも同時代の困難を重視するかに思はせる。同時代批判として「時代の亀裂・裂け目」「時代のひび割れ(p.253)を見出して「時代の等質な連続性に楔を打ち込み、穿つこと(p.254)も説かれる一方、同時代でない過去の歴史に對しては、傳統以前の異質な起源(前史)との非連續性は重々再説されても、現代と地續きに見えるその「傳統」内に想定された連續性を疑問視することはついでのやうに唐突なベンヤミン(『パサージュ論』N19, 1及びN9a, 5からの引照で示唆するのみ(第六章註(18​p.264)、ましてやその「傳統」としての過去と同時代との間に潛む斷層を發掘することは著者の考へに上らないのが不審である。地續きの地盤とて地割れが走れば埋め難い溝を刻まれる。『ヴァーグナーの場合』が『道徳の系譜學』第三論文(第二〜五節)では不十分だった藝術家論を改めて同時代批判として引き繼いだものだといふ第六章(就中「一 Ernstということ」)の巧みな讀解には頷かされるが、にも拘らず系譜學と同時代批判との繼ぎ目に易々とは繋がらぬ裂傷を抱へてしまったことはもはや蔽ひ得ない――後期のニーチェは、この近代人の傷の治癒不可能性、換言するならば近代における持続の不可能性の方を言挙げする。(第三章「四 持続性の問題とよきヨーロッパ人」p.151)――さらに振り返れば『道徳の系譜學』内部にも龜裂が陰伏するわけで、扱ふ時代を異にする三論文それぞれに分斷した上で連携關係を問ひ直すことにならう。

『道徳の系譜學』第二論文が「仮説(p.191)として推論したのは「先史時代(Vorzeit, Ur­zeit, Vor­ge­schich­te(p.190)であった――[…]第二論文は、先史時代を問題とする以上、語源学という文献学の手法はもはや適用不可能である。その時代は、文字の発明以前の時代であって、言語という形での証拠提出はできないからである(p.190)と言ふなら語源は文證(もんしょう)・書證であって、有史以前にこそ考古學的な「物証」といふ比喩が相應しかったらうが、著者はさまで深く考へずに類比(アナロジー)に訴へた模樣――。一方、「近代」乃至は「同時代」「現代」(この表現の搖れにおいて何か認識も搖らいでゐる?)を解釋するのが第三論文や『ヴァーグナーの場合』。そのいづれでもない中間にある「歴史時代(p.192)を對象とする第一論文の必要性を問ふことは、その歴史的方法の意義を問題にすることにもなる。

問題は、「起源」という名の過去と「現在」との異質性を、つまり、歴史の質的非連続性を、「現在」の価値観を持ち込むことなく、いかにして対自化するのか、に収斂する。

そうだとするなら、逆に疑問が出てこよう。もし『系譜学』なる書物の最終目標が、先に述べたように、道徳の価値の批判にあるのだとしたら、「系譜学」の手法を採用するまでもなく、直接批判に赴いて、それに邁進すればよいのではないか。むしろ、「系譜学」の採用は、「起源」と「現在」の癒着の危険に逆戻りすることになるだけではないのか。それにもかかわらず、『系譜学』は「道徳の系譜学」として執筆されたとするのなら、そこには、ニーチェの理論的退行には尽きない、しかるべき理由が存在するのだろうか。

第四章「二 起源現在の癒着」pp.181-​182.

この疑問を解消するには、現行の道徳が絶對的ではなく以前には別樣であり得たと相對化する觀點を確固たる證據と共に示すべきであり、そこで「語源学に基づいて析出された同じ概念変遷を手がかりにして(p.183、『道徳の系譜學』第一論文第四節)​…​…と、本書第四章第三節は説いたのだった。ところが、そもその語源説とて頼りにならぬのだったら、物證同然の即物的な事實を裝っても實はニーチェの價値觀に歪められた解釋かと猜せられ、解釋者の現在の見方を過去に持ち込んだ投影かと警戒され、今や、解消したはずの疑念は群れを成して復活して來よう。

即ち――どうして「かねて来の批判的スタンス(p.219)の獨斷と偏見で以て直接に現在へ審判を下さないのか、わざわざ歴史に遡って間接的に批判するその迂遠ぶりの意味は何か。――自己の価値觀を相對化するためにしても、それなら空間上の異文化との比較(民族誌・文化人類學その他)でもよからうに、現に須藤も中期ニーチェが「」を獎勵したNF-​1876, 23​[196]その延長で精神の旅をも「歴史の語で呼んだ」として「多様な文化に関する知としての、全体としての歴史『人間的、あまりに人間的第二部「漂泊者とその影」一八八といふニーチェの文言を引合ひに出しつつ「現在ならそれにはむしろ、文化人類学の名が与えられようが(第三章「一 ソクラテス再考――アフォリズムの揺籃」p.124)附言(コメント)したのに、或いはまた「ニーチェが[生に對する歴史の]利と害で描いた動物の姿とは、その時期のニーチェなりの人間の相対化の試みの一環であった(第二章「三 動物の問題」p.112)と結論するならば今日謂ふ動物行動學(エソロジー)の方向でも可であらうに、何で特に歴史に向かって時間上の他者を求めるのか。――もしや「歴史の世紀」とも稱される十九世紀の「歴史的な時代動向(p.81所引、「生に對する歴史の利害について」序文)に影響されたのか、これまた一種の歴史主義か、だとすればそれも結局は當時の「現在」に制約された偏向であったのでは​……? ニーチェとの思想上の親和性が話題になるエルンスト・マッハが通常の物理學者の職分をはみ出てまで『仕事保存の命題の歴史と根源』(本書第五章及び補論3にて言及)や『その發展における力學:歴史的批判的敍述』(邦譯『マッハ力学』他)のやうな科學史に踏み込んだ經緯はどうだったのか、同じ「歴史熱」の流行からの派生では? 「一八三〇年以降の、つまりドイツ観念論とロマン主義の時期以降の自然研究者たちは、自分たちの学科の歴史に対してますます関心を薄くする(ディートリヒ・フォン・エンゲルハルト/岩波哲男ほか譯啓蒙主義から実証主義に至るまでの 自然科学の歴史意識 実証主義的自然科学」6、理想社、二〇〇三年五月、p.192)中で「少数派に属する(仝p.195)とは言へ、それでも自然科學の歴史研究が存したのは履歴效果(ヒステリシス)だらうか。――そしてその點では、長期持續と言ふべきか時代後れの殘存なのか、一世紀以上經った現代にあってニーチェやマッハの歴史思想を取沙汰する我ら思想史の徒もなほ引き續きその歴史主義的な「現在」に屬してしまってゐる……? 『道徳の系譜學』第三論文は學問的な眞への認識欲求が依然としてキリスト教道徳を引きずってゐることを糾明したが(その頻りと敵視したのさへ、歴史と傳統あるキリスト教といふより、十九世紀半ば以降顯著になったヨーロッパ市民社會の再キリスト教化といふ同時代現象への反撥ではなかったかとの嫌疑が濃厚であるが*4)、キリスト教圈外に住む我々極東の不信心な讀者にとっては、その「歴史」思想に執らはれてゐることの方がまだ切實な問題なのではあるまいか。――果してニーチェを讀むことはどれくらゐ「歴史主義とその諸問題」(エルンスト・トレルチ)を考察するのに寄與するか。――ニーチェのテクストの忠実な読解について、著者ほど信頼の置ける研究者はなかなか存在しない(テクストへの完全な忠実さなるものが存在し得ないことを深く自覚していることも含めて)」と竹内綱史の評言前掲p.121にあったが、忠順にニーチェ讀解に努めるばかりでは滿足できなくないか*5。「古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ」(松尾芭蕉)とやら、當のニーチェが註まで附けて言語學に援助を呼び掛けたのに、ニーチェ研究者はどうしてもっと歴史言語學はじめ關聯諸學における歴史學派*6の成果に就いて學ばうとしないのか。――逆に、例へば十九世紀の諸歴史學派を通觀するハンス・ヨアヒム・シュテーリヒ『西洋科学史 歴史と人間◎ドイツ歴史学派の興隆と精神分析学菅井準一・長野敬・佐藤満彦譯、〈現代教養文庫〉社会思想社、一九七六年六月)の中にも「ショーペンハウアーとニーチェ」の項(第一二章a、pp.59-​62.)が設けられたりしたものの、申し訣程度に『反時代的考察』第二篇のみ要説したやうな處遇を見ると、ニーチェ讀者は不滿を覺えないか。ニーチェ專門の視座からは「生に對する歴史の利害」以外の歴史關聯文獻をも含めてもっと詳細に見直した異論あって然るべきではなかったか、その務めは本書によってどこまで果たされたか。――せめて、歴史學者カルロ・ギンズブルグがニーチェを讀み込みながら歴史認識論の切り口にしてみせた上村忠男『歴史・レトリック・立証』「序論 歴史・レトリック・立証」みすず書房、二〇〇一年四月)くらゐの業前(わざまへ)は、哲學研究の側にも望んで良からうか。――ギンズブルグも一例だが、後世の歴史思想へのニーチェの影響史を更には考慮すべきか。即ち、「歴史思想家としてのニーチェ(序文)の所謂「死後の生(ヴァルター・ベンヤミン)は如何に。それに觸れずに濟ませた本書は、受容史關聯では(わづ)かに「ポストモダンの先駆的哲学者として喧伝された(「(補論4)ヘーゲルとニーチェ――歴史をめぐって」二、p.406)などと紋切型をなぞった程度なのだが、何を避けてゐるのか*7。『ニーチェの歴史思想』と題する書物一卷を通じてフーコーが名すら出ないとは異なこと、二十世紀の歴史論におけるニーチェ效果をどう見るのか。「歴史に関するニーチェの考察の変遷」に關し「それぞれの時期の歴史思想は、現代の眼から見ても、それぞれが歴史に関する典型的な考え方の表明ともなっている(p.17)と一言添へるだけでは漠然として空虚であり、現代のどんな歴史觀とどう對應するのかが問題では? 「序文」末で「本書はあくまでフリードリヒ・ニーチェという一個人の思想家に関するモノグラフィーである(p.19)と局限した著者の姿勢は、「読み手としては物足りなさが残る(竹内綱史、前掲p.121どころか學問的に不屆きとさへ言へ、二十一世紀の現代から「ニーチェの歴史思想」を評價する以上、その價値判斷する自己の立場を省みるためにも、歴史の中で自ら位置測定を試みるべきだったのではないか。――さういへば、己れの價値基準を明らめることがマックス・ウェーバーの價値自由論の要諦だったか…​…自ら「歴史學派の子」と稱して内からの批判を敢行したウェーバー、その「ヴェーバーとニーチェ」問題は、歴史思想の面から比較し直したらどうなるか。​…​…等々。

取り分け自己の相對化に關しては、更に問題は續出するのではないか。本書に對しては「主張の裏づけや議論展開の厳密さに関しては、通常の学問的手続きが踏まえられていないように思われる箇所が多く見られる。」「また、鮮やかな読解に隠れて気づきにくいが、論理展開に隙が多いし、文献等によって十分に裏づけられてはいないように見える主張が散見される(竹内綱史、前掲p.121との苦言も呈されたけれど、具體的には二例を示すに留まったので他に問題があるのはどこなのやら、讀者それぞれに點檢が委ねられてゐようか――例へば以下のやうに?

四、もっと歴史學的精神を! 

須藤によれば、『道徳の系譜学』において「ニーチェは認識者の自己認識の試みを三段階に構想」して「第一に、ニーチェ自身の思想的由来の自己認識(第四章p.166)を取り上げた――が、他方で、「われわれはわれわれのことがわかっていない、われわれ認識者が自分自身のことをわかっていない」と始まる『道徳の系譜學』「序言」第一節を全文引用(pp.166-​167.所引)した上で「[…]認識者の立場を堅持しながら、しかも認識者の自己認識の欠如を意識化し問題化してゆかねばならない(p.168)と解釋するのであれば、ニーチェの自己認識にも不備を認識せずにはおかなくなる筈と思ふがどうか。「実際、全八節からなる『系譜学』序文は――とくに、その第二節から第五節までは――道徳思想家としてのニーチェ自身の系譜学を開陳した、という性格が強い(第四章「一 『道徳の系譜学』の系譜学」p.169-170.)と見做され、そこで少年期に懷胎した裏返しの神義論(辯神論)やらパウル・レーからの刺戟やら思想的來歴が自傳風に回顧されたとはいへ、それであの「ニーチェ自身のキリスト教道徳に対するかねて来の批判的スタンス(p.219)の由來が判明したとまでは言へないのではないか。その批判への意志は無前提に成立するものなのか、その同時代への反時代的な反抗心がどこから來たのかを語ってなければニーチェの歴史的=系譜論的な自己批評はなほも不徹底だったことになるのだが? 實際讀んでみたらどうだ、中でも『道徳の系譜學』「序言」第三節にて冒頭から「自分としては公言したくはない私に固有のある疑惑」「それは私の少年期に、ひとりでに、抑えがたく、環境や年齢や戒めや慣習に抗して現われてきたもので、ほとんど私の先天性ア・プリオリと呼んで差し支えないような疑惑である前掲ちくま学芸文庫版p.362)などと言ふ邊り、説明拔きに生まれつきの個性なのだと獨斷する天才神話さながらだったではないか。それ以上は「背後遡行不可能 un­hinter­geh­bar(第三章p.145、第六章p.224・225・251・253、補論1​p.269)といふわけか? しかし、やはり須藤の讀み飛ばした所だが、ニーチェは同じ節の半ばで「若干の歴史学的および文献学的な習練が、心理学的な問題一般にたいする生得の選り好みの烈しい感覚も手伝って、ほどなく私の問題を別なものに変えてしまった(前掲p.363)と述べてをり、依然簡短に過ぎて説明不足ではあるが少なくとも心理學的選好と違って歴史學・文獻學の方は後天的なのが明らかなので、その竝び稱される歴史學や文獻學やの影響史を探ることならばニーチェの個人史(履歴)への穿鑿心を越えた學問的な課題として遂行可能でないか。史學史・文獻學史の流れの中からのニーチェ的思考の發生を觀察すること、「ニーチェの歴史思想」でなく歴史思想におけるニーチェ的モーメント、といふ主題では如何? さすれば先述の「認識者の自己認識の試みを三段階に構想する」ニーチェの、「第一に、ニーチェ自身の思想的由来の自己認識」「次いで、ニーチェの思想的先駆者における自己認識の問題」「第三に、近代的科学者一般としての認識者の本質規定(p.166)といふ問題設定にも、歴史的にアプローチし直すことができようか。

須藤著が引用してゐた『曙光』九五「決定的論駁としての歴史的論駁」を想起しようか、曰く「――かつて人は、神が存在しないことを証明しようと努めた、――今日では、神が存在するという信仰がどのようにして発生し、なにによってその信仰が重みと重要性を得たのかを示す。そのことによって、神は存在しないという反対証明は、余計なものとなった(第三章「二 思考の発生史と認識の意味」pp.130-​131.所引)云々​…​…かうした問題設定の變形は、のち『道徳の系譜學』で述べた所と同型ではなかったか。同じ一段を引きつつ須藤の前著が「『人間的、あまりに人間的』以来の思考の発生史の延長上にある、この歴史的論駁は六年後、『道徳の系譜』(一八八七年)において、全面的に展開されることになるだろうが(前掲『ニーチェ 〈永劫回帰〉という迷宮』第四章「2 隠れたる神の正体」p.206)と豫告してゐたのは、まづどこに當て嵌まるか。『道徳の系譜學』「序言」第三節によれば、曾て「われわれの善と悪とは本来いかなる起源を有するかという問題」を懷いた少年ニーチェは「神を悪のとなした」ことで解答としたのであったが(前掲ちくま学芸文庫版p.362)、「神学的先入見を道徳的先入見から切り離す」ことで「もはや悪の起源を世界の背後に求めるようなことはしなくなった」後では問題はかうなる――即ち「人間はいかなる条件のもとに善悪というあの価値判断を考えだしたか?(仝p.363)​…​…このやうに形而上から經驗的次元へと、また起源論から條件分析へと、「歴史学的および文献学的な習練が、[…]問題を別なものに変えてしまった(p.363)のに倣って、問題は歴史的な設問に變換して問ひ直すべきではないのか。

だが歴史學はひとまづ措いてもニーチェの前歴である文獻學に關しては、本書ではなぜか扱ひが宜しくない――なぜか? 『道徳の系譜學』に遡ること十三年前の一八七四年刊『反時代的考察』第二篇「生に對する歴史の利害」序言の最終段落*8を引用しつつ(第二章「一 題名の問題」p.83)、「しかるに、引用の文面に目立つのは、反時代的な古典文献学に従事している自分が同時代との関係で有するわたしを苛む感覚はそれだけで、自分の反時代性を保証し、同時代に対する自分の批判的スタンスの真正性を立証してくれている、との自負の誇示である(最終第一〇節ではさらに若さ(青年)Jugendということに、反時代性の真正性の保証が求められる)。古典文献学およびそれにもとづくこの感覚だけは、どういうわけか、歴史学の「熱病」の影響をなんら蒙らないかのようである(p.84)と難ずる須藤は、その直前に「だが、古典文献学とは過去についての一歴史学でなくて、なんであろうか。そうだとすれば、歴史病の事実と正体を暴くはずの古典文献学それ自体も、したがって、古典文献学徒としてのニーチェ自身も、根底的に歴史病を病んでいることになろう。同じ病に罹患している者に、病の本体が剔抉できるだろうか(p.84)と問うてゐたが、この修辭疑問は適言だらうか。歴史學や文獻學を輕くあしらふのは、どうも不用意でないか。

他方で同時代への批判については「時代のやましい良心であるとは、時代に罹患しているのみならず、罹患していることを適確に悩み意識しているということにほかならない(第六章第三節p.250)と言ひ切ってもゐて、共に病人扱ひでも「デカダンスという中毒症に罹患した近代人(p.249、序文p.17)に自己解剖ができると認めるのに歴史病患者(の古典文獻學徒)にはできなからうと見縊ったのはどうしたわけか。『ヴァーグナーの場合』での同時代批判が「『系譜学』の手法とパラレルである」と類比され、「伝統同時代[…]では、その認識や批判の方法は、具体相が一方で異なりつつも、深層において通底する」と相同が言はれる以上(第六章「四 おわりに」p.252)、竝行して、歴史中毒者も歴史的過去の認識(「発生史」)と批判とが可能であるはずでは? 歴史病患者における自己批判の困難さについて古典文獻學者たる前期ニーチェは自覺不足だったと言ふのが須藤の評する通りだとしても、それで、文獻學者の儘だったら永遠に誰にもできないであらうことになるわけでもあるまいし、對稱性を損なってまで歴史病の方だけ治療の難度を上げる理由が何かあるのか。却ってそれどころか、「伝統としての歴史的過去と同時代という名の現在」の兩者は「その認識を試みる者に対し、いわばあまりにも近いがゆえに、認識困難となるのであって、その点では互いに共通している」と見ながらも、むしろ同時代の方が「時間的距離が基本的に欠如している」分だけ歴史的過去よりも形象化した像を結びにくい(pp.252-​253.)と論じてゐたではないか。歴史病患者の歴史認識と現代人の同時代認識と、難度が高いのは一體どちらか。自身がそれによって形成されてゐる傳統を對自化するのと自己がそのうちに位置する現代の本質を剔抉するのと、果してどちらかがより難度が高いのか。

のみならず、確かに文獻學には歴史學と重なる所があるけれども、その面だけ見て歴史學の一種とまで決めつけるのは性急に一面化してないか。「過去についての一歴史学でなくて、なんであろうか」とは反語の疑問文であり「否、それ以外の何ものでもない」以外の應答は豫期してないのだらうが、歴史學ではない文獻學の特性が何であるかと假にも問ふのであれば、同じく第二反時代的考察の序言末尾を引きながら「ニーチェの告白を見ている中に真正なフィロローグ[文獻學者]にはヒストーリケル[歴史學者]をせめる責務があるのかもしれないという気がしだした。古典文献学と歴史学との間にはぬくべからざる垣根があって、どうしても折合いのつかないものがあるのではないだろうか」と問題設定した斎藤忍随「フィロローグ・ニーチェ――ニーチェ・コントラ・ブルックハルト――(『幾度もソクラテスの名を  1946–​1965みすず書房、一九八六年十一月、p.59)を想起すべきではなかったか(これを參考にして拙文「アナクロニズム」は註疏*8で少々辨じたが、もっと本格的な論考を誰か讀ませてくれないか)。斎藤忍随の名は本書卷末「人名索引」には立項無いけれど第二章「二 正義の問題」(p.88)に著書『知者たちの言葉―ソクラテス以前―a ニーチェ」〈岩波新書〉一九七六年十一月)を參照してゐるし、第四章でも初出では同じ書を擧げたのを本書では「先にも記したように(p.163)とだけ加筆して斎藤著への參照を省略してしまった次第だが、同じ著者の古代ギリシア哲學紹介書だけ取り上げて肝腎なニーチェ論を默殺するのはニーチェ研究書として不自然でないか。斎藤論文以外でも、「Hi­sto­riePhi­lo­lo­gieの相反」は西尾幹二の評傳『ニーチェ 第二部』第四章第三節中央公論社、一九七七年六月、p.311以下)が小見出し立てて論じた所であり(同書「あとがき」p.391に據れば「斎藤忍随氏からは、[…]古典文献学とニーチェとの関係をめぐっても貴重なヒントを与えていただいた」とか)、古典古代を規範と仰ぐ面が各時代を等價に眺める客觀主義と相容れないので文獻學は歴史學と同一視できないと説く異論が既に存する以上、先行研究を踏まへてそれらへの反論として自論を提出しなくては論文作法に悖らないか。研究史に目を瞑って自論に不都合な文獻は相手にしないのが歴史思想を論じる著者の心術か。それとも忘却したのか知らなかったのか、それでもせめて斎藤論文や西尾著にも引照されたW・イェーガー「文獻學と歴史學」等のニーチェ論を離れた一般論へと行き着いてこの二系統の學知の異同比較論に想ひ到っても良かりさうなものでは? 第一、ニーブールからランケ前後の史學史を少し調べれば知れることだが、文獻學を一種の歴史學と分類するのは系統發生上から言へば逆さまで、諸學を培った文獻學からその新種として近代歴史學も發達し母屋を乘っ取る形となったと觀る方が史實に即してないか。

しかも、文獻學者たることと反時代性との結びつきについて疑ひを容れるのならば、正に『反時代的考察』の續篇にすべく書き掛けた「我ら文獻學者」草稿が遺されてゐること、そこで文獻學教授たる自身を含めた文獻學の自己批判をニーチェが試みてゐたこと、これらのことに言及すらしないのは手落ちではないか。なぜ「我ら文獻學者」渡辺二郎『哲学者の書 ニーチェ全集3』「 われら文献学者をめぐる考察のための諸思想および諸草案」〈ちくま学芸文庫〉一九九四年四月を一顧だにしないのか、批判版全集では「遺された斷片」の中に解體されてしまったからだらうか。夙に三島憲一初期ニーチェの学問批判について――ニーチェと古典文献学氷上英廣編『ニーチェとその周辺朝日出版社、一九七二年五月→三島憲一『ニーチェとその影 芸術と批判のあいだ』未来社、一九九〇年三月→増補『ニーチェとその影』〈講談社学術文庫〉一九九七年九月)は「我ら文獻學者」に論及してゐたがあの讀み方(拙文「アナクロニズム」註疏*10に批判)でもう間に合ってゐるとかだらうか、だったら三島であれそれ以外であれ註で參照するだけでもしておくべきでないか。自體、文獻學とはニーチェにとって何であったかの判斷は、「我ら文獻學者」に限らずとも他に文獻學についてニーチェがどう書いてゐるか、それらを全然檢討しないで片付くことだらうか。いつもながら自家撞着も辭さぬニーチェは贊否兩論述べてゐて文獻學への思ひは愛憎こもごも兩面價値的アンビヴァレント、一筋繩でゆかぬにせよ、だからこそ簡單に解決濟みみたいに扱はれる問題ではないのだが? いやさ、たとひニーチェの企圖に無くとも文獻學論・文獻學史は面白さうではないか、文獻や言葉に腐心する人文學の徒であれば食指動かさずにゐられようか。まさか、文獻學フィロロジー哲學フィロソフィーの領分ではないと遠慮してゐるとか? 思へば『ニーチェ 仮象の文献学』と題する本村井則夫著、知泉書館、二〇一四年四月)でも文獻學よりか假象に力が入ってゐたし、現代哲學研究者には文獻學へ立ち入れなくする障礙でもあるのかしらん? 本場ドイツではナウマン版ニーチェ著作集に續き別扱ひで『フィロロギカ』全三卷(一九一〇〜一三年)が編まれて漸く全集に吸收されたが、日本語版ニーチェ全集は少なく數へても五種以上出たのに古典文獻學論考の邦譯が教授就任講演「ホメロスと古典文獻學」のほか一部に留まるのは、哲學者ニーチェは時を超え言語を越えて讀み繼がれるも文獻學者はさにあらずといふことか?

須藤は『反時代的考察』第二篇序言に對して「そこには、自分のうちに食い込み自分に同化してしまった時代のからいかにして距離をとりながら対処するのかということに関する切実な問題意識は感じられない。だが、それこそ、後期ニーチェが系譜学などをモットーに格闘することになるテーマなのだ(p.84)と評し、「その一証左として」十四年後に刊行された『ヴァーグナーの場合』序言と對照し(pp.84-​85.、第六章註(10​pp.262-​263.に要點再掲)、前者から後者へ至る間には「さらに十数年に及ぶ思想的苦闘が要求されたのである」と時間上の距離を思想上の懸隔に變換し、「いずれにせよ、後期に至ってニーチェが生に対する歴史の利と害についてを回顧した際、自分も歴史病に罹患していたことが強調されはしても、古典文献学者であるがゆえのあのわたしを苛む感覚――同時代への批判の真正性を保証してくれる特権的感覚――への言及がもはや皆無となる(p.85)と結論するのだが、「後期」の結果から目的論的に「前期」を顧みるために『反時代的考察』前後に潛在した可能性を見損なってないか。未定稿「我ら文獻學者」もその潰えた可能性の一つだったのでは? 「歴史は、新たな、ないし未発に終わった可能性の貯蔵庫として、その限り、非連続的なものとして、理解されることができるし、またそうされなければならない」即ち「歴史偶然とりきめ・しきたりだとはこのことである(第五章「三 偶然としての歴史」p.216)と言ひ、「系譜学とりきめ・しきたりとしての偶然性を暴露する。[…]いずれにせよ、現在は、また歴史を規定し担う伝統は、数ある新たな、また未発の可能性にまぎれた、一つの現実化した可能性にすぎなくなり、非連続的存在として剥き出しにされ、そうしたものとして批判に差し向けられる(仝p.217)と云ふ*9のであれば猶のこと、ニーチェのテクスト群をも偶然としての歴史の産物と見做し、「歴史偶然性――[…]この視座からするなら、歴史とは無駄犠牲の巨大な堆積にほかならない(p.215)と言ふその無駄な犧牲にも目を注ぎたいものではないか。だのに、生憎とこの偶然論を述べた第五章に反して、序文で「本書の意図」をニーチェに於る「思想的変遷を――変遷の内在的理由ともども――追跡することにある(p.9)と宣言するやうでは、所詮「歴史のこの本質的偶然性が、不合理が理解できない。[…]歴史には、何らかの形で法則性なり方向性なりが内在すると思念されてしまうのである(第五章三p.214)​…​…つまり著者は「歴史合理化しようとする、この体制化された抜き去りがたい心性(p.214)起源と現在の転移の体制化された心性(p.215)を脱却できない儘であって、それだから外在的偶因の犧牲になった無駄な混亂は認識外に排除されざるを得ないのでは? となると、少なくとも「我ら文獻學者」の試みは論點に値しない徒事だと著者は否認したのか(それなら無視でなくさう明記すべきだが)、それとも遺稿中に埋沒した續『反時代的考察』の試行錯誤なぞ端から目に入らなかっただけか。

いや、本書の帶にも記された内容紹介文は「ニーチェの全著作を膨大な遺稿群も含めて隅々まで踏破し」と謳ってゐるし、本書でニーチェの遺稿斷片からちょこちょこ利用してゐる著者には釋迦に説法、今さら言ふまでもないか? はたまた、言ふは易し、か。名のある成書を知った後から山積みの未成稿群を讀んでも無駄な冗長性(Cf.山内志朗『〈畳長さ〉が大切です』〈双書 哲学塾〉岩波書店、二〇〇七年九月)にしか見えず精々が補足扱ひか、或いはその逆に、覺書き(ノート)の散亂する斷簡に筋道をつけようとすれば公表された既刊著書をアリアドネーの絲にして縋るほかないとか?

[…]ニーチェ哲学の全貌は遺稿をまつまでもなく、公刊著作のうちに基本的に現われているという一部の論者の主張にはやはり無理がある、といわざるをえない。こうした理解については、遺稿を知った者の目で後知恵的に著作をみれば、そうも言えるところがある、というのがせいぜいのところであろう。

補論3第一部註(8)、p.388

後知惠バイアスは歴史認識に附き纏ふもの、要注意か。さうとも、著者は言はなかったか、「ヘーゲルとニーチェ――それは犠牲をめぐる歴史の意味構成の分岐点にほかならない。(完成した)歴史の意義によって犠牲を正当化するのか、それとも、犠牲をもって歴史の意味の可能性の礎とするのか――(補論4「三 犠牲の行方pp.416-​417.)と? また言はずや、「ここで、議論はきわどい局面にさしかかることになる。なぜなら、犠牲無駄超人の存在を可能ならしめると考えるのではなく、逆に、超人目的として犠牲は捧げられると、ともすれば発想されてしまうからである(仝p.415)と? 『道徳の系譜學』第二論文第十二節より敷衍して須藤曰く、「どれだけの無駄 Unko­sten[=冗費]犠牲 Opferを要求するのかで、そのものの意味や価値が決定されてくる(第五章「二 経済としての原理」p.209)犠牲ないし無駄こそが歴史の意味を形作る(補論4三p.414)​…​…「しかし、力の過剰において可能となるのは例外や逸脱にほかならない以上、本来そうした例外や逸脱を締め出すものとして構想されていた経済にとっては、それは皮肉な結果といわねばならないだろう(補論3第一部「三 世界の経済」p.363)​…​…文獻學者ニーチェは哲學者ニーチェの形成を目的にした犧牲だったのだらうか、さうではなくその不經濟な無駄が(皮肉(アイロニカル)にも)哲學者たることを可能にしたのだらうか――或いはむしろ、それ以外でもあり得たことの可能性なのだとしたら?

哲學者たることへ收斂させようとするのは哲學科出身だからか? 『反時代的考察』第二篇序言を『ヴァーグナーの場合』序言と比較して「生に対する歴史の利と害についてでは古典文献学者に振り当てられていた役割がここでは哲学者の担当となっている(p.85)と指摘した須藤だが、視野から文獻學者を退場させると歴史學その他關聯諸學に通じる展望も失ってしまったのではなからうか。須藤も前著『ニーチェ 〈永劫回帰〉という迷宮では「やがて、哲学者の方が文献学者を押しのけ、ついには葬り去ってしまうことになる(第一章「2 自伝を書く少年から哲学者へ」前掲p.30)と約述しつつも「ただし、哲学と文献学は二者択一的な排他的関係をなすのではない(仝「3 『悲劇の誕生』をどう見るか」p.37)等と留意する所がまだあったのに、それさへ實質を伴はぬ文飾に過ぎなかった? 一往、本書でも『道徳の系譜學』第一論文で語源學に訴へた所について「ニーチェはむしろここで、古典文献学からの自らの出自を再確認し肯定している。彼は、専門的学者としては、つまり認識者としては、まずなにより古典文献学者であったし、また、それに尽きていた、といってよい(第四章三p.183)と言ひ添へてはゐたが――しかしニーチェの呼び掛けも「言語学Sprach­wis­sen­schaft、なかんずく、語源探求は(p.184所引)であって、語源論は既に文獻學と言ふより十九世紀の新興科學である比較言語學にお株を奪はれつつあったのだが?(Cf.「我ら文獻學者」大八つ折判(グロースオクターフ)版著作集改編128​=クレェーナー・ポケット版29​=NF-​1875, 3​[4]、前掲『哲学者の書』pp.481-​482.)――、そこで「後期」にも古典文獻學者としての一面を認めたのだって、「ニーチェは語源学を自説開陳のための単なるきっかけ、ないしダシに用いているわけでは決してない(第四章三p.183)と辯護する中でその「学的姿勢(p.184)を裏書きしようとした傍證に過ぎず、裏讀みして勘繰るなら、學者=認識者としては文獻學者に盡きると斷じたのはもしや哲學者は認識者を超えた存在だと誇りたいのか、哲學とは認識論に盡きぬそれ以上の何かだ(存在論とか、眞理の發見でなく發明だとか?)と言ふつもりか、されども、逆に見ればその哲學者の認識とは文獻學により基礎づけされたものと言ふことではないか。それなら、文獻學が哲學に取って代られたのではなく後期も哲學者(フィロゾーフ)のうちに文獻學者(フィロローグ)が猶存したと見てはどうか。

ニーチェは『この人を見よ』の扉に「人は如何にして本来のおのれになるか」Wie man wird, was man ist? の一句をサブタイトルとしてえらんだが、これに私は卑俗なUmdeutung[再解釋、改釋]を施して、ニーチェは始めフィロローグであった、そして最後に矢張りそのフィロローグになったという意味にとりたいような気がする。

斎藤忍随「ニーチェとクラッスィッシェ・フィロロギー」前掲『幾度もソクラテスの名を 』p.49

同趣旨でもっと深刻さうに述べた變奏も見られる――恐らく、つい口にしたくなる聯想であり、利いた風でゐて「卑俗な」紋切型なのかも?

運命愛 amor fati の思想とあい表裏する、ツァラトゥストラ・ニーチェの達しえた永遠回帰の思想、それゆえにこそ最晩年のあの自伝的遺著『この人を見よ』の副題としてえらばれた、ピンダロスの〈汝が在るところのものになれ〉に由来すると言われる〈いかにして人は、人が本質的に在るところのものに現実的に成るか〉Wie man wird, was man ist の一句を想起するなら、フィロローグとして出発したその生涯が、またフィロローグとして終わったという、この回帰的な出会いの根底に、ニーチェ的人間の本質がさぐりあてられうるのではなかろうか。

原佑『ニーチェ 時代の告発』「序章 フィロローグ・ニーチェ」以文社一九七一年十月、p.14

似たことは須藤とて前著で書いてゐたのに、よもや忘れたか(ニーチェが後知惠で自己正當化したやうにも讀めようが)。

ピンダロスの詩句を典拠としたものであるが、was man istは「本来のおのれ」とも「現在の自分」の意味にも取れる。[…]

『この人を見よ』「利発」第九節では、自分が文献学者であったという、was man istからするなら、「回り道」「失策」であり自己誤解であったものが、それでもwas man istにとっておおいに役立っているのであって、その限り、わが「我欲」「自己陶冶」の意識されざる「利発さ」の表われであった、とも述べられている。

『ニーチェ 〈永劫回帰〉という迷宮』「第一章 ニーチェの始まり――INCIPIT」中「6 再び自伝へ――『この人を見よ』」前掲pp.73-​74.

實は須藤も習俗の倫理について(第三章第三節の初出)では、「ニーチェが『曙光』(1881年)に1886年になって追加した序文(第5節)」から「私が文献学者であったのは無駄umsonst​=甲斐無し]ではない。私はいまなお文献学者だろう、つまりゆっくりした読み方の教師だろう」以下を引用し、『道徳の系譜學』序文第八節で讀解の爲には反芻を要すると告げた所に重ねてゐたのだけれど前掲pp.1-2.)、本書收録に際し文獻學と解釋論に關するそこら一帶がざっくり刪除されて活かされなかったのはなぜだらう​…​…第二章や第四〜六章との不整合を收拾しかねた?​…​…單に紙幅の都合とでも? ニーチェが文獻學を誇る言辭は『アンチクリスト』四七五二原佑譯『偶像の黄昏 反キリスト者 ニーチェ全集14〈ちくま学芸文庫〉一九九四年三月、pp.241-​242.​・p.251-​252.)にも見え、後者は「習俗の倫理についてp.6も引く所で、最後の著作活動をした一八八八年に脱稿したものだが、それすら一時的な搖り返しだとでも? ニーチェの回想では「あらゆる意味において私の出発点となった私の最初の文献学上の論文(『この人を見よ』「なぜ私はこんなに利口なのか」川原栄峰譯『この人を見よ 自伝集 ニーチェ全集15』〈ちくま学芸文庫〉一九九四年六月、p.71)と言ふやうに文獻學的勞作が文獻學に留まらぬ包括的な意義を擔った始源に定位され、他面、大學教授辭職前後には「どんなに長い時間がすでに浪費されてしまったか――私の文献学者としての今までの全生活が私の使命に照らしてみるとなんと無益にnutzlos、気まぐれにみえることか『この人を見よ』人間的な、あまりに人間的なもの および二つの続編、同前p.115)と自省したとも言ふのだから、何とまあ極端な振幅で動搖したことか。それでも、「私が意地悪く、間違った解釈技術に文句をつけずにおられないというのも、年来の文献学者のやることとして容赦せられたい(『善悪の彼岸』二二、*1前掲ちくま学芸文庫版p.49)と言ふ風に幾分輕口めかしてゐようと、文獻學で批評眼を修錬した事自體は搖るぐまいが? それらを見て、文獻學者ゆゑの特權的感覺を自負する姿勢がなほも斷續してゐたとしないのは何ゆゑか、「生に對する歴史の利害」の頃とは何が違ってゐると言ふのだらう? …​…もしかして、變ったのはニーチェである以上に須藤の考へだったとか?

よしんば『曙光』序文その他書證はそっくり度外に置くとし、たとひニーチェ「後期」には「古典文献学者であるがゆえのあのわたしを苛む感覚[…]への言及がもはや皆無となる(p.85)とした所で、沈默は否定と見做せるか、批判の據り所が文獻學者たることにあるのは否認できるか。いかにも、「なぜ私はこんなに良い本を書くのか」と題して自作自解を書き列ねた『この人を見よ』中「反時代的考察」の章を開くとその全四篇中で第二篇「生に對する歴史の利害について」のみ扱ひが短くさして顧みられてない觀を呈してはゐるものの、他篇との均衡を失して明らかに記述不足な分だけ却って何か闕語法(レティサンス)めいた韜晦が窺はれはしないか。察するに、躁狂じみた『この人を見よ』のやうな高調子では片付かない難題の一つが批判的歴史論であったのでは――一般に歴史学的な作業をやるものには、その職業病といってよいほどうつ病が多い(中井久夫治療文化論――精神医学的再構築の試み六2(4)歴史家の職業病としてのうつ病」、〈同時代ライブラリー〉岩波書店、一九九〇年七月、p.80→〈岩波現代文庫〉二〇〇一年五月)――? 少なくとも「前期」に文獻學者であることによって時代批判者たり得ると思はれたのは何を以てのことであったのか、その疑問が未解決になるが放置しても構はないのか。文獻學者の氣負ひを最初から不首尾に終るものと見切るのは結果論でないか。後から見れば無根據な自信であったにしろ、やはりどのやうにして誤ったのか・何によって誤ったかについて、往時における文獻學者の位置づけを知識社會史的に勘案した解明が要りさうな​…​…? ニーチェも連續講演「われわれの教養施設の将来について(一八七二年。前掲『哲学者の書』所收)や「我ら文獻學者」草稿でいま時の文獻學者どもの現代に即した適應ぶりを頻りと慷慨してゐた通り、古典文獻學者でも大方はニーチェみたいに反時代的にはならぬと承知してゐた筈だから、なればこそ一層問ひたくなるところ――文獻學は如何にして同時代批判となりしか? それともかう問ふべきか――ニーチェとその時代において文獻學的批判が時代批判へ至り得るかのやうに思はれたのは一體、何が彼らをさうさせたのか? その經緯は、筋道は? 眞理であれ誤謬であれ、何であれその評價は一時「括弧入れ」した上で、それを眞なり僞なりと觀ずることがどうやって發生し成立し傳播され繼受されたのか(または、し損ねたのか)を問ふこと、さうやって事の成りゆきを主題化するやうに問題を歴史的に設定してこそニーチェの「歴史的方法論」(『道徳の系譜學』第二論文第十二・十三節、ちくま学芸文庫版p.454・455)に適ふ論じ方にならうものではないか。

いかなる種類の歴史学にとっても、次の命題以上に重要な命題は存在しない。[…]――すなわち、事物の発生の原因と、それの最終的な効用や事実上の利用や目的の体系への組み込みとは天と地ほどかけ離れているということ。なんらかの現存のもの、なんらかの仕方で成立しきたったものは、優位に立つ力によって新たな見解にもとづいて繰り返し解釈されてゆき、新たに占有され、新たな利点のために向き替えられ作り変えられてゆくのだということ。[…]

『道徳の系譜學』第二論文第十二節、『ニーチェの歴史思想』第五章三pp.212-​213.所引

問題となるその事柄の次第を歴史的に把握すると言っても、結果論や起源論に還元されがちだが、いづれにも偏しない過程論とでも言はうか、變化それ自體を見据ゑて異同を見出すのが蓋し史眼であらうか。

それに、後期ニーチェが「歴史的過去および同時代の双方を含めた意味での時代(第四章p.164)を相手取って挌鬪したのは本書主要部と目される第四章から第六章に述べられた通りだらうが、『道徳の系譜學』等で歴史的考察はなされても結局そこでも歴史病の本態を剔抉することはなされなかったみたいなのはどうしたことか。

歴史的教養の根源――そして、「新時代」の精神、「近代意識」の精神に対しこの教養が内的にまったく根本的に矛盾することの根源――この根源それ自身が再度歴史的に認識されなければならない、歴史が歴史自身の問題を解決しなければならない、知はその棘を自分自身に向けなければならない――この三つの「なければならない Muss」が、「新時代」の精神の命法となる、新時代に本当になにか新たなもの・強力なもの・生の約束となる根源的なものが存在するとしたら(S. 302)。

第二章「一 題名の問題」p.82所引

この第二反時代的考察第八節を出典とする箇所は、歴史(學)*10自らに反省を促す際に繰り返し引かれる或る種の名言となってをり(例、シリーズ歴史を問う全六卷、岩波書店、二〇〇一年十一月〜二〇〇四年六月。各卷頭に毎度掲げられた「編集委員を代表して」の上村忠男による「序にかえて」p.vi。のち、上村忠男「〔提題〕歴史の暮れ方に歴史を再考する」『知の棘 歴史が書きかえられる時岩波書店、二〇一〇年十月、p.90、に吸收)、ここの引用句を約めて須藤は「歴史の歴史(p.82、cf. p.80)と呼んだが、その意味でのメタヒストリーを、つまり道徳の系譜學でなく歴史の系譜學をニーチェのテクストから引き出して來ない以上、「しかし、歴史的教養それ自身はどこに由来したのだろうか(p.81)といふ問題は棚上げにされた儘なのでは? ここでの「歴史の歴史」はいまだ「希望的観測に、予感にして要請に、留まっていたといわねばならない(p.82)と評するが、以後(「後期」ニーチェ、乃至はポスト・ニーチェ)もなほ實行が伴はぬ掛け聲倒れなのか。「歴史の歴史とは[…]現在を成立せしめている過去を現在から問いなおすという、ある意味では自縄自縛的な試みである。[…]――こうした洞察と問題意識こそ、後期ニーチェの系譜学の発条であるとともに、現在(同時代)をいかに捉えるかという点で、『ヴァーグナーの場合』とも繋がってゆくものである(p.82)とのことだけれど、しかし、そこで問題設定がずれて歴史(學)そのものを的とする狙ひを逸らしてしまったのでないか。「認識者それ自身の、つまりは科学の、系譜学もまた、道徳の系譜学の不可欠の中核部分をなす(第六章三p.245)と言ふのは尤もながら、更にその諸科學の中でも歴史學とその諸科學における歴史志向とに問題はあったこと、そこに絞り込んで系譜を糺すことを忘れてないか。『道徳の系譜學』第三論文「禁欲主義的理想は何を意味するのか」第二十三節以下が「無制約的な真理への意志を本質とする近代科学それ自体の系譜学」として「キリスト教道徳に内在した誠実性の徳に由来すること」を暴き出した(第四章三p.186)とは言へ、眞理(Wahr­heit)が誠實性(Wahr­haf­tig­keit)といふ徳目よりして求められたと述べるだけでは話が大きすぎで具體性から遠く、では何で歴史がライプニッツ謂ふ所の「永遠の眞理」(理性の眞理、必然的眞理)でないまでも「事實の眞理」(偶然的眞理)として尊重されるやうになったのか、「学問ないし科学一般の本質(序文p.13)といった概論でなく特に歴史學興隆についての由來因縁を明かすといふ懸案は果されず、ましてや諸學問中の歴史學派の沿革には及ばずじまひ、しばしば自然科學と對立させて精神科學の代表格とされるこの學風の發生史を他にどこかでニーチェが手掛けたのだらうか。ニーチェがやってないなら、代りにフリードリッヒ・マイネッケ『歴史主義の成立(上・下、菊盛英夫・麻生建譯、〈筑摩叢書〉一九六八年一月・六月)をニーチェ流に再構成するくらゐはできないか――マイネッケ著原題Die Ent­ste­hung des Hi­sto­ris­musは「歴史主義の發生」とも譯せ、内容はランケ以前ゲーテ迄の先驅者達を扱って歴史主義が主流化した十九世紀以降は對象範圍外であったから、成長後の歴史主義の展開を繼ぎ足して「補志」を行ふもまた宜しからずや。

本書では沒却された箇所にも目を通せば『道徳の系譜學』でもメタ歴史論の兆しくらゐは拾へるものの、歴史學者ランケを擧げたり(第三論文一九、前掲ちくま学芸文庫版p.550)近代の全歴史記述(仝二六、前掲p.575)を云々したりは禁欲主義批判の「ついでに」(前掲p.549)觸れたに留まり、史學史よりすればいづれ掻い撫での側面攻撃に過ぎないので、これらを歴史の系譜學的反省に繋げるにはどうしたものか。「歴史の歴史」といふ「この試みに真正面から取り組まないことには、歴史の問題は解決の展望が開けてこない(p.82)のならば、眞っ向から歴史學及び諸學における歴史的研究を歴史的に敍述し考察するのが正攻法であらうが? 言ふなれば、自己認識する歴史か​…​…「ショーペンハウアーにとって、歴史の意義とはなにより、人類の自己意識という点に存する(p.7)のをむしろ主客顛倒させ、「私たちは歴史一般の自己意識にほかならない(原佑譯『権力への意志 上 ニーチェ全集12二一八〈ちくま学芸文庫〉一九九三年十二月、p.222​=NF-​1887, 11​[374]とニーチェが言った意味での歴史的自意識過剩か? 同樣に、「人間に対して、歴史的伝統の方こそが主体であるといわねばならない(第六章pp.224-​225.)とガダマー流に人間の被投性を述べ、「その限り、人間は歴史内存在であって、歴史的伝統は人間にとって背後遡行不可能といってよい(p.224)と認め、それでも猶且つ「歴史は、伝統は、なんらかの形で、対自化され、相対化されなくてはならない(p.225)と歴史外の視點を求めるのなら、歴史といふ主體が歴史自らを對象化(客體化・客觀化)して外に開いてゆく以外どうしやうもないことになるのが論理的歸結であって、何なら、歴史の自己反省・自己批判による自己差異化(分化)とでも呼べようが、この可能性を須藤は考慮しようとすらせず、それを「[…]人間は歴史の主体であるし、そうでなければならない(p.225)などと存在(ザイン)當爲(ゾルレン)ある = べき)を短絡した道徳的命法の對置によって糊塗するのは主體性への妄執もいいところ、まるで構造主義に無理解な實存主義者紛ひの強辯ではないか。「さもなければ、人間は歴史舞台の登場人物であるとは言えても、なにかある不可視の力に翻弄される操り人形にすぎなくな」る(p.225)​って?――心ならずも運命悲劇に配役されたみたいな言ひ分だが、それは事實上嫌でも認めざるを得ないことでは…​…「歴史は偶然に翻弄されている(第五章「二 経済という原理」p.210)とマッハを通じて思ひ知っただけになほさら? 歴史の必然性を決定する黒幕を持ち出さずとも(ヘーゲル流の理性の狡智ぢゃあるまいし)、偶然性のもとで日々流されゆく人間なぞ歴史上幾らも例のあること、そんな端役(エキストラ)に如何程の主體性があらう。どうして(も)人間を歴史の主體に据ゑなければ氣が濟まないのか、餘りに人間的な主體を? ニーチェ論によっては正にその反對なのに?――M・ハイデッガー『ニーチェ』に抗してG・ピヒト『ニーチェ』は言ふ、「しかし、歴史には主体の構造はない。〈歴史的哲学〉は、ヘーゲルの場合のように、歴史において顕わになる精神の自己認識なのではない。むしろ、道徳の系譜学によって、同時に、主体の主体性の系譜が暴かれ、主体は虚構として暴露されるのである(第一部「第四章 〈歴史的哲学〉の歴史的任務と超越論的基本形態*1前掲p.59)――これも含め、本書で先行文獻批判が手薄なのは、歴史(特には研究史・受容史)を等閑視してないか。或いは文獻學(ニーチェ論の)を

歴史(學)は歴史(學)自體の問題を解決せねばならぬヽヽヽヽヽdie Historie muss das Pro­blem der Hi­sto­rie selbst auf­lösen)と要請されたのに、「歴史を歴史によって克服する」をモットーにしたトレルチ(但しキリスト教ヨーロッパの惡臭芬々なので要再審査)がやったみたいな歴史主義の歴史のやり直し、廣義の史學史の再檢討、ヒストリオグラフィー論といった歴史的實踐によって應じようとしないのは何故か。ニーチェ研究者はニーチェの書いた跡を後から追認すれど(「認識されたものの再認識」はアウグスト・ベークによる文獻學の定義だった)ニーチェが求めた所を自ら追求しないのか、歴史學者に任せっ放しで思想史として引き受ける氣にならないのだらうか。ヘルベルト・シュネーデルバッハ『ヘーゲル以後の歴史哲学 歴史主義と歴史的理性批判古東哲明譯、〈叢書・ウニベルシタス〉法政大学出版局、一九九四年七月)を讀んだ時*11にも思ったが、史學史に踏み込めないのは哲學者の限界なのかしらん? 一般に學際研究では越境が困難といふだけでなく、殊に哲學的紀律訓練ディシプリンの特性なのだとすれば? ヘーゲル以降哲學は哲學史になってしまったと云ふやうな慨歎(Cf.カール・レーヴィット「人間と歴史」「真理と歴史性中村啓・永沼更始郎譯『ある反時代的考察 人間・世界・歴史を見つめて』〈叢書・ウニベルシタス〉法政大学出版局、一九九二年十一月、p.282​・442​・453。船木亨『現代思想史入門』「第3章 歴史――構造主義史観へ」〈ちくま新書〉二〇一六年四月、pp.219-​220.​・p.237)は異口同音に繰り返されてきたことながら――何々以來と時系列上の前後關係に順序づけること自體が既に歴史的展望(みとほし)遠近法(パースペクティヴ))だが――、それでゐて歴史研究プロパーからすればおよそ杜撰で歴史音痴もいいところ、史心・史力(柳田國男)の缺乏は哲學の通弊だと思はないか。「歴史的感覺の缺如が全ての哲學者の遺傳的缺陷Erb­feh­ler、カント用語では原罪ならぬ「原謬」とも譯す]である」(『人間的、あまりに人間的とはニーチェも反復再言した所ではないか。

哲学者たちのところでみられるすべての特異体質とは何かとおたずねなのか? …​…たとえば彼らの歴史感覚の欠如、生成という考え方自身に対する彼らの憎悪、彼らのエジプト主義である。彼らは、永遠の相のもとで sub specie aeterni、或る事象を非歴史化すれば、――それをミイラとすれば、その事象に栄誉ヽヽをあたえたことになると信じている。哲学者たちが数千年来扱ってきたすべてのものは、概念のミイラであった。

『偶像の黄昏』「哲学における理性」一、原佑『偶像の黄昏 反キリスト者 ニーチェ全集14』〈ちくま学芸文庫〉p.38

それとも、ひょっとしてもしかしたら、哲學が哲學史に向ふに(あた)っては歴史病の發症を懼れる所爲で及び腰なのだらうか――病の深化・昂進になってはならない」「ミイラ取りがミイラになってしまうことだけは、なんとしても防がねばならない(第六章「三」p.250)と言って「時代のやましい良心」について戒めた須藤の言葉は同時代ではない過去に對する歴史意識にも當て嵌まるのだ、と?(ところで、哲學研究者は歴史以外でも專門外の事柄に對してそんなに愼重居士だったであらうか)​…​…自分さへミイラにならなければ物事を非歴史化し概念のミイラに仕立ててしまふことはまだ許容される、と? それにしたって、提起された課題を歴史の歴史」と呼び換へておいて歴史の自乘になるのを避けたがるのは無理がないか――自己反省におけるxのx、メタxとは、累乘して高次となったx(x², x³, ...)でなくば何であらう?

[…]病が二乗化され、昂進する危険[…]冪数の付された病的状態、極端化された病、病の「極」は、――そして、そのことでいえば、ニーチェの描き出す、病の「像」も、ことによったら、作者の意図をものの見事に裏切って――それだけいっそう強力な「魅惑」を発揮し、人々に批判眼を涵養するどころか、ますます多くの人々を巻き込み、感染させ、相乗的に自己増殖しかねないだろう。

「第六章 同時代の根源――『ヴァーグナーの場合』を読む」中「三 楽士拡大鏡――哲学者やましい良心」p.250

しかし、正にもう『反時代的考察』第二篇「生に對する歴史の利害について」からして、ニーチェに記述された歴史病の病像は、痛罵にも拘らず歴史へ惹きつけ歴史論を喚起する魅力が無かったか(平方すれば負量も正に裏返るとか?)。小著『ヴァーグナーの場合』は須藤が高評價しても改めて讀んでも格別魅了されないし、「従来ニーチェ研究者によって、思想書としてのその意義に十分注意が払われてこなかった(第六章p.224)と言ふのがさもありなむと頷けるのだが、對して、第二反時代的考察は何かと議論の的となり波紋を擴げてきたではないか。ゲルハルト・リッター藤枝征司譯「『権力の人倫的問題について』(8)」流通経済大学経済学部『流通經濟大學論集』Vol.27, No.2・通卷第97號、一九九二年十一月)の如き歴史學者側からの反駁でさへ、その挑發效果のうちだとすれば? いかにも歴史病批判が若きニーチェの主意であったらうが、あれ讀んで歴史嫌惡ばかり募らせる「健康」な讀者なぞあまりに素朴と言ふもの、批判力ある讀み手なら却って歴史熱を高めても不思議無いのでは? 時に作者の意圖を裏切っても作動する作品に就くことの、何が惡いのだらうか。さうしたイロニー(反語)こそ讀書の妙味、批評の醍醐味では? いや、書いた作者よりも書かれた文章(テクスト)に忠實であるのが裏切りかどうか。紙背に突き拔けた眼光で裡面から作意を忖度するよりは文面上に留まって言葉自體を吟味するのが、解釋學とはまた違ふ文獻學的批判(批評)の流儀ではなかったか。我々の眼に讀めるのは行間でなく行文であって、言ひ換へれば、テクストが現實に述べたこととは別にその奧底に何か眞に言ってゐるものが祕められてはゐまいかと勘繰るやうな「アレゴリー的疑心」(M・フーコー*12)に執はれないこと、陰の操り主と覺しき言語の主體を見拔かうとするのでなく言語を主體としてその作用(はたらき)を見屆けること――むしろ作者といふ主體概念も作品(Werk​=仕事)の作用(Wir­kung​=效果・影響)であるのを讀み解くこと――、あの解釋學の定式「作者を作者自身よりもよく理解する」(ハンス=ゲオルク・ガダマー/轡田収・巻田悦郎譯『真理と方法 哲学的解釈学の要綱 』第二部第章第1節β シュライアーマッハーの一般解釈学の構想」、〈叢書・ウニベルシタス〉法政大学出版局、二〇〇八年三月、pp.317​-323.參照。Cf.安酸敏眞『歴史と解釈学――《ベルリン精神》の系譜学――「第五章 ディルタイにおける解釈学と歴史主義知泉書館、二〇一二年七月、p.205・pp.214​-215.、及び第一章p.57・63、第三章pp.131​-132。小西甚一『日本文藝史【別巻】 日本文学原論』「解釈・理論の次元」二(一)(三)・三(二)及び「餘論ふうな結語」一(一)、笠間書院、二〇〇九年七月、pp.442​-446.​・p.458​・459​・465​・471​・567​・pp.605​-606.​・p.614​・643​・652​・658​・821​・827とは微妙に相異して「言葉というものはしばしば、それを使用する人間たちよりももっとよく自分自身のことがわかっているものだということ(フリードリッヒ・シュレーゲル「難解ということについて」山本定祐編譯『ロマン派文学論』〈冨山房百科文庫〉一九九九年七月第二刷p.235)​…​…言ってゐることが、お解りか?*13

何等かの事情のために不透明にされている意味を明確にすることが解釈の使命と考えられている[…]。その限り、解釈によって明らかにされる意味とは、表層の背後ないし深層に埋没しており、その深層を発掘するのが解釈の作業である、と規定される。だが、ニーチェはこうした解釈概念ときっぱり手を切る。

須藤訓任「習俗の倫理について――ニーチェの遠近法主義の前景と背景――前掲p.3

「主観」„Subjekt“​=「主體」]は、なんらあたえられたものではなく、何か仮構し加えられたもの、背後へと挿入されたものである。――解釈の背後になお解釈者を立てることが、結局は必要なのであろうか? すでにこのことが、仮構であり、仮説である。

前掲『権力への意志 下 ニーチェ全集13四八一p.27NF-​1886, 7​[60]

五、問ひは續く…… 

以上、豫想以上に問題點が出て來るので止めどなくなったけれど、瑕釁をあげつらったつもりはなく、テクストに即して擧證に努めたのは讀み取ってもらへるだらうか。門外漢の一讀者からもこれくらゐは不審紙が附けられるのだが、須藤訓任は、またその著書を讀んだ者らは、これらの疑問群にどう答へるであらう。或いはどこかでこの各問を解いた論考が讀めるのか――「問題群」と云ふ語が本書第二章の題名先頭に掲げられてゐるものの、「これは中村雄二郎氏の用語である(註(4)​p.112)と典據『問題群 哲学の贈りもの』〈岩波新書〉一九八八年一月)を附記するだけで特段の含意は示されないから、「群」一字では纏まりの弱い寄せ集めの意味以上には出ないかも? そこで問題(群)とは何かが問題になるとして、歴史の哲學を志向する本書のやうな立場であれば、『歴史の観念小松茂夫・三浦修譯、紀伊國屋書店、一九七〇年五月)の著者でもあるR・G・コリングウッドが思想を「問いと答え」の對關係で捉へた「問答論理学」に倣って間宮陽介「思考と歴史――コリングウッド試論」岩波書店『思想』一九八七年四月號通卷754號「思想史・再考」參照)、書かれた思想である答へから書かれざる思想である問題意識を推察し、文意からそこに設定された文脈(コンテクスト)である問題状況へと遡行しつつ、正に「問題史」を構成する方向で群がる疑問を系統立てられないものか。それとも、それとても「奇妙なやり方で問いと答えとを混同することなのか​…​…即ち「誰に促されたというのでもないのに、人は、潜在的な設問に回答を用意しておくことが現代にふさわしい義務だと確信する。そして、用意された回答を口にしながら、その身振りを問題の提起だと勘違いすることになったのだ(蓮實重彦「Ⅳ 流行から問題へ」、物語批判序説「Ⅰ」、〈中公文庫〉一九九〇年十月、pp.107-​108.)、と?――進歩問題、階級の問題、貧困の問題、人道主義の問題から、終末の問題、権力の問題、差別の問題、環境汚染の問題、等々へと、そのつど問題体系の配置を組みかえながらも、現代的な言説はその構造を維持しつづけてきた。また、それが維持されている限りにおいて、その歴史性は隠蔽されていたわけである(仝「Ⅴ 現代的な言説」前掲書pp.137-​138.)のだが、そこへ「歴史」といふ問題(を裝った解答)も追加されるまでのことであらう、と? 現實に問ひ掛けられる相手がゐない以上、暫くはあれこれ讀みながら自問自答を繰り返すことにならうか​…​…「一つ一つの答えからは新しい問い、探究、推測、推定Wahr­schein­lich­keiten​=眞實らしさ、蓋然性、見込み]が生じた『道徳の系譜』「序言」三、ちくま学芸文庫版p.363)と言ふわけだ?

ともあれ、こうした展望が私にひらけてから、ゆえあって私は、学識に富む大胆で勤勉な仲間を捜し求めるようになった(今でも捜し求めている)。

『道徳の系譜』「序言」、ちくま学芸文庫p.368

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*1

邦譯ニーチェ全集の理想社版→ちくま学芸文庫版には收載してない斷章なので、白水社版から抄出しておく([ ]内はその底本であるグロイター版全集原文NF-​1885, 38​[14]に即して補った)。

すなわち、われわれはいかなる永遠の概念も、[永遠の]価値も、[永遠の]形式も、[永遠の]魂の存在も信ずることはなく、また哲学は、それが学問であって立法でないかぎり、われわれにとって「歴史」という概念の最も拡大されたものを意味するにすぎない。語源学や言語史によって、われわれはすべての概念が生成したもの(ヽヽヽヽヽヽ)であり、多くの概念がさらに生成するものであることを知っている。

麻生建譯『ニーチェ全集 第八巻(第期) 遺された断想(一八八四年秋―八五年秋)』白水社、一九八三年七月、p.430

荻生徂徠の名言「學問は歴史に極まり候事に候」(『徂徠先生答問書』)を想はせよう。なほ、引用文中の「語源学や言語史」(榎並重行『ニーチェって何?』p.32の引用ではなぜか省略された箇所)のことは後出するので留意されたい。

ただ他方、これと前後するニーチェのテクストには、哲學は立法であるべしと望む文も見つかり(原佑譯『権力への意志 下 ニーチェ全集13九七六九七九、〈ちくま学芸文庫〉一九九三年十二月、p.474​・p.475​=NF-​1884, 26​[425]1885, 35​[47])、「だがしかし真の哲学者は命令者であり立法者である」(一八八六年刊『善惡の彼岸』二一一信太正三譯『善悪の彼岸 道徳の系譜 ニーチェ全集11』〈ちくま学芸文庫〉一九九三年八月、p.209)とか言ふ。立法(Ge­setz­ge­bung)とは、價値を創造し定立する(いひ)である。だったら、誇らかに「専制者的な精神」で「立法者的な人間」(原佑・吉沢伝三郎譯『生成の無垢 下 ニーチェ全集 別巻4』八二一、〈ちくま学芸文庫〉一九九四年九月、p.408​=NF-​1885, 34​[88])を氣取るよりもまづ認識に努める學究の立場を取る者に限って、學問の學たる哲學をば廣義の歴史學となす資格があるわけだらう。「哲学者には異なった二種類がある」と想ひ到ったニーチェは、從來のに對置する第二種の方を「未来の立法者」と稱するも(権力への意志九七二、前掲書pp.470-​471.​=NF-​1884, 26​[407]/1885, 38​[13])、反面、その將來への下準備として既成價値に從事する第一種の方には定まった呼び名を與へなかったが(「労働者」等と蔑稱はしたが)、敢へて命名すれば過去に對應するのだから歴史家なのかも。「ニーチェでは歴史が哲学の唯一の内容となったというテーゼ」を掲げながら「立法者としての哲学者」を最終過程とするゲオルク​・ピヒト『ニーチェ』(青木隆嘉譯、〈叢書・ウニベルシタス〉法政大学出版局、一九九一年七月)の解釋も參考にならうものの、同書の説く「歴史」は過去よりも未來向きの意味合ひを強めてゐる點、言葉に無理をさせてゐる感は否めない​…​…。遡ってより以前の著書に照らせば、一八八二年刊『悦ばしき知識』三三五物理学万歳!」末段はかう語ってゐた――だが、われわれときては、われわれが本来それであるところの者となることを欲するのだ――新しい人間、一度きりの人間、比類ない人間、自己立法的なSich-selber-Ge­setz­ge­benden人間、自己自身を創造する人間に、なることを欲するのだ! そのためには、われわれは、世界における一切の法則的なものGe­setz­lichen、必然的なものの、こよなき学び手となり発見者とならねばならない。この意味での創造者でありうるためには、われわれは物理学者でなければならない」云々(信太正三譯『悦ばしき知識 ニーチェ全集8』〈ちくま学芸文庫〉一九九三年七月、p.353​…​…ある(sein​=存在する)やうになる(wer­den​=生成する)、即ち、自分自身になること、己れ自身に己が法を制定する自律した存在への生成であり、その前提として理法(Ge­setz)を知らねばならず、故に學者たることを要する​…​…而して學者代表の物理學者(Phy­si­ker=形而下學者。反形而上學者 An­ti­me­ta­phy­si­kerの意か、cf.一八八七年増補『悦ばしき知識』第五書三四四)は今や歴史學者となる? されば「われわれが本来それであるところの者」(die wir sind​=我々であるもの)は、今や、過去分詞形に變換した「それが本來如何にあつたか」wie es ei­gent­lich ge­we­sen​(山中謙二譯『ランケ選集 ローマ的・ゲルマン的諸民族史(上)』「初版序言」、千代田書房、一九四八年九月、p.15)と云ふ、かの歴史學的提題として問はれることになる​…?! さうだ、「おまえは、おまえの在るところのものと成れ。„Du sollst der wer­den, der du bist.“(『悦ばしき知識』二七〇、前掲書p.284)とは、更に、その成るものは何であるかといふ自己認識を求める命法「汝自身を知れ」(茅野良男『曙光 ニーチェ全集7』四八、〈ちくま学芸文庫〉一九九三年九月、p.64。Cf.塩谷竹男『悲劇の誕生 ニーチェ全集2』「ギリシア人の悲劇時代における哲学」、〈ちくま学芸文庫〉一九九三年十一月、p.395及び須藤著「第四章 認識者の系譜学――時代という名の自己」冒頭p.163)とは、あに圖らむや、歴史研究のススメでもあったのだ! おゝ歴史學萬歳!!――と、歴史主義者は自讚に誘はれる。事實、「汝自らを知れ、それも歴史によって」(ベルンハルト・グレトゥイゼン/野沢協『ブルジョワ精神の起源 教会とブルジョワジー』「まえがき――ジャン・ポーランへの手紙」〈叢書・ウニベルシタス〉法政大学出版局、一九七四年十二月、p.6。野沢協「訳者あとがき」pp.379-​380.をも看よ)といふ公式が、『ニーチェ以後のドイツ哲學思想入門』(一九二六年)の著もある或るディルタイ門下の表明する所となった。但し、「汝自身であれ! 汝が今為し、考え、欲しているもの、それはすべて汝ではないぞ、と呼び掛ける自己の良心に従うべきだ」(小倉志祥『反時代的考察 ニーチェ全集4』「第三篇 教育者としてのショーペンハウアー」一、〈ちくま学芸文庫〉一九九三年十月、p.236)との由なれば、求められるのは自己像を外れた殆んど他者のやうな自己自身であり、自己批判無き自己正當化は許されまい。

*2

書いた時、念頭にあったのは多分、犬飼裕一マックス・ウェーバーにおける歴史科学の展開』(ミネルヴァ書房、二〇〇七年七月)か(拙文「アナクロニズム」註疏*18にも引照したもの)。「第4章 歴史科学と文化諸科学の関係」中「第2節 生に対する歴史の利害」がニーチェとブルクハルトとの對比を軸とし、それを論じたカール・レーヴィット『ヤーコプ・ブルクハルト 歴史のなかの人間』(西尾幹二・瀧内槇雄譯、〈ちくま学芸文庫〉一九九四年八月)を引きつつ批判もしてゐた。

[…]書簡や小品にまで言及しているとはいえ、レーヴィットが用いている手法は、ニーチェとブルクハルトのテキストと、そこに表現される成熟期の典型的な「思想」だけを扱う、伝統的な思想史(あるいは哲学史)のそれである。[…]少なくともレーヴィットが信じる意味での「思想」以外のものは意識に上ってこない。さらにニーチェとブルクハルトが書いたもの以外は、後の解釈者のものを除いては検討に入ってこない。

[…]

[…]レーヴィットにとって問題なのは、無時間的に存在する「ニーチェ的思想」であって、ニーチェ自身の思想の変遷やニーチェを取り巻くブルクハルトのような人々との時間的な相互関係は放置されたままなのである。[…]レーヴィットの場合も特定の思想家の「成熟期」の到達点からそれまでの生涯を目的調和的に再構成しようとする点では変わらない。

『マックス・ウェーバーにおける歴史科学の展開』pp.158-​159.

ニーチェ自身の思想の変遷」といふ點では須藤著は三期に分けて論じてはゐるものの、時に「思想家の成熟期の到達点からそれまでの生涯を目的調和的に再構成しようとする」弊に陷った感はある。ニーチェ外のショーペンハウアーやマッハやアヴェナリウスやヘーゲルとの關係は論及あれど、「相互関係」といふよりほぼ一方的にニーチェから見て專らニーチェと照應する面に光を當てるニーチェ研究書なので、飜って彼らの思考からすればニーチェがどう見えようかといふ論點は問題にされないし、例へばマッハならマッハの歴史思想そのものの軌跡を記述したり物理學者が歴史的研究に向ったいきさつを考察したりするには至らない。

*3

本書書き下ろしの「第二章 問題群としての生に対する歴史の利と害について」のうち「一 題名の問題」を摘要しておく。邦譯では「利害」「功罪」等の對義の二字熟語にされてきた原題Nut­zen und Nach­teil(ニーチェ原文は舊式綴りでNach­theil)について、須藤は「何か釈然としないところ、より語気を強めればいらつかされるところがある」(p.68)と語り出す。ドイツ語での組み合せはNut­zenScha­denVor­teilNach­teilが普通の由。「実際ニーチェも当該の著作やその周辺の草稿でNut­zen-Scha­denおよびVor­teil-Nach­teilをそれぞれ対義語として用いているのである」(p.69)。問題なのは特にNach­teil――(p.69)。

Nut­zenは「利益」と訳して、とりあえず大過ないであろう。それに対し、Nach­teilの方はやや微妙である(Nut­zenの反意語である)Schadenの意味に近いものとして「損害」と解することはむろん可能である。しかし、Nach­teilはそれに尽きないというか、第一義的には「短所」「欠点」「デメリット」といった意味合いも強いであろう(そのことは、Nach­teilの字義が形のうえからするなら「遅れた部分」であることを考えるなら、よりわかりやすいかもしれない)。その限り、Nut­zenNach­teilは、Nut­zenScha­denほど純然たる対義的関係をなすとは言いにくい。

Vor-und Nach­teilと記して利害得失くらいを意味させてもよかっただろう」に、それもニーチェは回避した(p.70)。「Nのそろい踏みにして、視覚上・聴覚上の一致を狙う美感(?)が働いた」とするだけでは「この両語の採用の論拠としてあまりに薄弱であり、むしろ冗談めいて響くだろう」(p.70)。また、「実はNut­zenNach­teilも著作「生に対する歴史の利と害について」本文(序文を含む)のなかにはほとんど登場しない」(p.70)。草稿(p.71所引=NF-​1873, 30​[2])と比較すると、「Nut­zenは最終稿でははぎ取られながら、Scha­denという語の方は出版段階でも保持されている(序文、第一、二節)」(p.72)。「しかるに、ニーチェの趣旨はこの[「記念碑的」「骨董的」「批判的」と命名した]三種類の歴史のを言い募ることにあるのではない。むしろ彼の本意は、[…]第四節以降第九節まで、現在において猖獗を極めている歴史病のもたらす五点の不都合(とりあえず、この日本語を援用するとして)を告発することにあった。[…]五点を、生に奉仕する歴史の種別とは無関係に、歴史の、歴史的発想(歴史主義と言ってもよいだろう)そのものの過剰肥大ゆえの不都合として摘発しようとするのである。」「おそらくは、Scha­denならぬ、いやScha­denも含めて、こうした不都合の温床を指示するべく――単なるScha­denとは区別しながら――意図してニーチェは概括的にNach­teilという語をあえて採用したのだと思われる」(p.72)。そのわけは、「歴史にもたらすScha­denという場合には、[…]互いに別々のものの一方が他方によって害を蒙るというイメージが強いであろう」(p.73)。

他方、(Schadenならぬ)Nachteilといわれる場合には、「生」と「歴史」とは――Scha­denの場合ほど――分離されていない。Nach­teilをひとまず「短所」ないし「デメリット」と訳してみるなら、そのことは判然としてこよう。AがBの「短所」であるとか「デメリット」になると述べられるとき、AはBの所有物であったり、属性や性質であると理解されるのが自然である。したがって、「生」にとって「歴史」が「短所」ないし「デメリット」とされる場合、「歴史」は何らかの形で「生」に内在する「生」の一部であると位置づけられることになろう。

續いて(p.74)、註(6)が插まれる(p.112)。

歴史は生の一部としてNachteilではあるが、そのVorteilではない。このことは「歴史」批判の書としての同書の基本的性格の然らしめるところである。従って他方、歴史の「利」はあくまで、いわば結果的個別的「利益」としてNut­zenに限定されざるを得ないことになる。この事情が、題名にも反映されているのだ。

更に須藤は、「やや突拍子もないが、Nutzen und Nachteilとはニーチェによるある詩句の翻訳ないし翻案なのではないかという仮説を提出」する。ニーチェが古典文獻學徒として研究してきた詩人テオグニスの「エレゲイア」133にある「災難と利得τη και κέρδος[ἄτης καὶ κέρδεος]」の災難に當てた譯語がNachteilでは、と(p.74)。「τηとは、神々やダイモーンに取り憑かれた人間がその結果として抱いたりしでかしたりしてしまう妄想・錯乱や愚行・失策を、さらには行き着く先としての身の破滅を基本的には意味する」(p.75)。神々による降って湧いたやうな災難は「自分の責任ではないものの、しかしあくまで身から出た錆であるもの」(p.75)。同樣に、生に從屬するはずの歴史が生に損害をもたらすのは、「歴史のうちで過剰になることによって、は病気となる」(p.76)からだ。喩へるなら「の寄生体としての歴史」(p.76)。「はいわば自家中毒的症状を呈してしまうのだ。この自家中毒的な、歴史のあやうい共生関係を表示するために、採用されたのがNachteilであった」(p.77)。「Nachteilとは、種類を問わずに学問化した歴史過剰となりとなることによって発症する病状の大元に存する、いわば癌化した病巣を言い当てようとしているのである」(p.78)。けれども、ニーチェは「歴史の学問化や過飽和を、神々から人間に送られてくる青天の霹靂のごとき突発的災難とみなすことによって」その「経緯や原因に対する探求をシャットアウトしてしまう。そのため歴史――歴史学および歴史病――の歴史という問題圏を切り開き展開することができなくなってしまう」(p.80)。その「歴史の歴史の問題圏」に關してこの時點でのニーチェが「まったく気づいていなかったというわけではない」ものの、辛うじて「キリスト教の厭世的精神が歴史的教養と結託したところから歴史の過剰が派生したのではないかとの推測の試みがやや自信なげにではあるが、提示され」るに留まった(p.80)。第二反時代的考察第八節に曰く「歴史とは依然として変装した神学なのだ」(p.81所引)。この結託による歴史の過剩は「τηのような偶発的事件、青天の霹靂である。なぜなら、その結託は歴史的教養からするなら、知らぬ間の出来事だからである」(p.81)​…​…。以上、題名問題について締め括りになるのは、p.85で附された註(7)である(p.112)。

本節における議論からして、意を汲むなら、同書の題名は「歴史が生にもたらす利益と病巣について」とでも訳すべきだろうが、本書では一般に通用している邦題(「利と害」は「利害」と一括される場合が多いようだが)を一貫して採用することにする。

斯くて仔細な檢討の結果、表面上は通例と變らぬ儘となった(大山鳴動して鼠一匹?)。なほ、須藤の檢討外であったその後のニーチェの用例も閲すると、Nut­zen und Scha­denよりは少ないが、Nut­zen und Nach­theilと對にした形は歴史以外にも適用され、やはり「利害」と飜譯されてきた(例、『人間的、あまりに人間的Ⅱ「第一部 さまざまな意見と箴言」一九七、中島義生譯『人間的、あまりに人間的Ⅱ ニーチェ全集6』〈ちくま学芸文庫〉一九九四年二月、p.148)。

ところで、「利害」といふ邦題は害と違って内在する部分(Teil)がNachteilだからをかしいとのことであれば、舊い譯の「利弊」(生田長江、井上政次、山口四郎。秋山英夫は「利弊」から「利害」に改譯)や「功過」ではどうだらう。利弊は()(へい)と通用する。それに「内在的成分」(p.74・77)と呼ぶ一方で「寄生体」「にとりついた歴史という病原体」「微生物」(p.77)と譬へるのであれば、感染症における病原菌と同樣、その「病巣」とは内部に巣喰った外部と言ふか外部に侵された内部と云ふか、もはや純粹な内在性を保った初發からの成分(Be­stand­teil​=存續部分)ではない――その意味でNach­theilの語源は、後からの・追加の(nach-)部分と訓詁すればよいのか。

また、この第二反時代的考察で歴史過剩が熱病と見立てられる以上、後年「病者の光學」(『この人を見よ』「なぜ私はこんなに賢明なのか」)を自任したニーチェの病ひと健康に關する言説と照合してはどうか。

病氣についての考へ(ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ)――病人が少なくとも、今までのやうに、病氣そのものによってよりも、自分の病氣についての自分の考へによって一層多く惱まねばならないといふことがないやう、病人の空想を鎭めること、――私が考へるに、これは何程かのことだ! そしてそれは少なからぬことだ! 諸君は今や我々の課題がお解りか?

ニーチェ『曙光』第一書五四

要は、病状それ自體から分離して病感・病識が問題とされ、症候の生理學に纏綿した心理學的な苦惱を削ぐわけだ(Cf.『道徳の系譜學』第三論文第十六節)。別な言ひ方だと「事物が何であるかということよりも、事物がどう呼ばれるかということの方が遥かに遥かに重要であること」(『悦ばしき知識』五八「創造者としてのみ!」前掲ちくま学芸文庫p.132)への對處であり――その稱謂は「最初には仮象であったものが最後にはほとんどいつも本質と化し、本質として作用するwi­rkt」(仝pp.132-​133.)のだが本質的として通用している世界、いわゆる現実Wirk­lich­keitを破壊するために、この起源を指摘し、妄想というこの霧の覆いを指摘すれば、それで十分だと思う者は、なんという馬鹿者だろう! ただ創造者としてのみわれわれは破壊できるのだ!」(須藤訓任「習俗の倫理について――ニーチェの「遠近法主義」の前景と背景――」大阪大学大学院文学研究科哲学講座『メタフュシカ』第36號、二〇〇五年十二月、p.7所引)と續く。構築主義を想はせるが、兎まれ、疾病と疾病恐怖症とは複合するが別物で、後者は器質性でなく神經症に類する。現に病める者は、その病ひについて氣に病むことで病むことを更に重篤にしかねない。しからば歴史病の場合も、罹患を認める自覺は要るにせよ、病症への憂慮が度を過ぎれば別の病ひとならうか。或いは、もともと健康の低下した生命體が病苦への不安から生じさせた心氣症が歴史病だったのか。土臺「隱喩としての病」なので、はなから生理よりも心理上の問題なのか​…​…。譬喩を解釋するばかりでなく類比がどこまで實態と適合するか檢證すべきところ。

*4

三島憲一ニーチェ以後 思想史の呪縛を越えて「序章 ニヒリズムとナルシシズム――ニヒリズム克服についての京都学派の妄想――」「第五章 破壊的理性の美学――素描の試み――岩波書店、二〇一一年三月)參照。すなはちニーチェの時代背景には「ナポレオン戦争の終結とともに、だがさらには一八四八年革命以降、特に顕著になったヨーロッパの再キリスト教化、そしてそれとタイアップした市民階級の再封建化といわれる現象」(pp.150-​151.)があり、「啓蒙主義とフランス革命、戦乱と政治上の世俗化でいったんは崩壊したキリスト教が、一世代で市民社会の家庭向きにモデル・チェンジして復活したのである」(p.153)。「最近の社会史では、第二の宗派時代(Zweites kon­fes­sio­nelles Zeit­alterとも言われている」(p.2)。「ニーチェが闘ったのは、まさにこの文化なのである。プラトニズムとキリスト教のヨーロッパ二千年の形而上学を相手にしたつもりであったが、実際には自分の時代だったのである。」(p.3)――ニーチェが虚妄と見て闘ったのは、一九世紀のこの再キリスト教化された文化なのである。なまじ教養があるから、ヨーロッパ二千年の歴史と見間違えたのである。というのは、このキリスト教的抑圧をかける市民社会の教養の体系が、一方では文学史を通じてナショナル・カルチャーを作り、他方では哲学史・文化史を通じてヨーロッパ二千年の偽りの連続性を作り上げたからである。[…]市民階級のアイデンティティに逆らうはずが、自らそれを内面化しているために、プラトニズムとキリスト教の二千年の歴史の逆転を考えてしまったのである。家にかかっている系図をひっくり返してみただけである。ほかの系図も描けるとは思えなかったのだろう」(pp.7-​8.)。畢竟ニーチェは、自分が屬する現代の「創られた傳統」(E・ホブズボウム)を歴史的起源に投影してしまってゐたらしい(その傳統が現代と「地続き」に見えたりするのも大方、現代に發明された所爲であらう)。古來潛在したニヒリズムが顯在化するのを「必然的な歴史的趨勢」(p.159)となすニーチェの歴史觀は「リベラリズムの歴史図式をそのまま継承して逆転しただけ」(p.166)で、「はじめから良くなるようになっていたに、はじめから(正確に言えば、はじめの次の瞬間から)駄目だったを置き換えただけである。ただの裏返しにすぎず、本当はそんなことはどうでもよかったはずなのである。なぜなら、ニーチェにとってはこの現在の生が重要だったのだから。そこに食い込むキリスト教と市民社会の新たな独善性が敵だったのだから」(pp.167-​168.)。發生史を經由する迂回戰術で叩かうとして踏み迷ふくらゐなら、直接その自分の同時代を正面攻撃してゐれば良かった​…​…?

*5

ミシェル・フーコー「監獄についての対談――本とその方法」の結句を想ひ出す。つつましくも「もしも私がうぬぼれ屋だったら、自分でやっていることに道徳の系譜学という総題をつけるところなんですが」と茶化しを入れた上で、フーコーは言ふ​…​…。

ニーチェの存在は次第に重要性を増しています。しかし、彼に注目するにしても、ヘーゲルやマラルメについてやってきたと同じような解釈をやられるんではうんざりです。私なら自分で気に入った人間だったら、それを利用しますね。ニーチェの打ち出したような思想に敬意を表する唯一のやり方は、それを利用し、それをねじ曲げてキーキーいわせることですよ。だから、それに忠実かどうかなどと評論家連中が言うことなんて愚にもつかないことですよ。

中澤信一譯、『ミシェル・フーコー思考集成  1974‑1975 権力/処罰筑摩書房、二〇〇〇年三月、p.372

時にはニーチェに抗ひつつ、軋みを立てながら摩擦と共にニーチェを使用すること。ニーチェに共感同調するばかりでなく、異物感を持った他者としてそのテクストを遇すること。ニーチェを逆撫でにして毛羽立ててやること。――須藤訓任に言はせれば「ニーチェは精神的にも肉体的にも過敏な人で」「そういう著述家であるからには、その読者にも過剰な反応を強いることになり」、「客観的なニーチェ解釈ではあきたらないというか、ニーチェの字面を超えて、思索ないし解釈をせり上げてしまうところが、どうもニーチェには潜んでいるようです」(前掲『ニーチェ 〈永劫回帰〉という迷宮』「エピローグ」pp.246-​247.)との由、さながら累乗的に勢位を高める(ジツヒ・ポテンツイーレン)」(ベンヤミン/浅井健二郎ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念第一部Ⅲ、〈ちくま学芸文庫〉二〇〇一年十月、p.98、cf. p.69​・128​・137)と稱するロマン主義的批評に似通ひ、事實ニーチェを濫用する斷章取義や我田引水の方がむしろありふれてゐようが、困惑させられるのは、さうやって(たかぶ)った擴張解釋がどれもこれもさも眞のニーチェに忠實なる如き素振りであることで(贊同者のみならずニーチェ批判者でさへ大半は歪曲したニーチェ像に基づきながら自分が正しく讀み取ったニーチェに對して異見してゐると思ひ込んでゐよう)、デフォルメに伴ふ軋り音が耳に入らぬ(てい)にされてゐる所に不信が募る。

*6

歴史學それ自體と史學科外の各學科における歴史學派との違ひについては、佐々木博光「第七章 啓蒙主義と人文学――近代ドイツにおける歴史の科学化、科学の歴史化(南川高志編著知と学びのヨーロッパ史―人文学・人文主義の歴史的展開―ミネルヴァ書房、二〇〇七年三月)が論じて、興味深い。それによれば、十八世紀啓蒙主義史學がもたらした「現世的な因果関係の解明」(p.174)に對し、新人文主義の「学問のための学問」の流れに乘った十九世紀ランケ以降の史學プロパーは消極的であり、「因果の解読を通じて社会的に有用な知識を提供する」といふ意味で「むしろ啓蒙主義史学の遺産を継承したのは他分野の歴史学派の歴史研究であった」(p.183)。歴史法學、國民經濟學、マックス・ウェーバーの因果歸屬論、等。「史料批判を重視する史学科の歴史研究と因果の解明を優先する歴史学派の歴史研究が、ほとんど没交渉のまま併存したのがドイツの歴史研究の特徴であった。」「ロマン主義の影響を蒙ったのは、むしろ歴史学派の歴史研究の方であった。」「原因を民族的な個性として済ますような因果理解が幅を利かせる。」「しかし、歴史を超越した因果帰属は、本来の因果関係のありかを隠蔽[…]する危険を秘めていた。ここに歴史主義論争の重要な一面が顔を覗かせる。人間の作り出した科学に客観的な因果関係の確定が期待できるのか、結局、科学は自分に都合のよい因果関係しか作り出さないのではないかという疑問である」(p.183)。「歴史が科学化を遂げた一八、一九世紀は、歴史研究に関する両立しがたいコンセプトが生まれた時期であった。一つは問題の歴史的な由来を解き明かすことを目指すタイプの歴史研究で、いま一つは特定の問題意識に導かれるような研究を主観的、党派的として排し、史料の精査を通じて史実を積み上げてゆくタイプの歴史研究である。前者が歴史研究に社会的な有用性を認めたのに対して、後者はそれに個人の修練に及ぼす教育的な価値を認めた」(p.184)。兩者の架橋が望まれ、「今後の歴史的文化科学の採るべき針路として、経験的に基礎づけられた問題史という線が浮上する」(p.185)。……以下略。より詳細には、佐々木博光「歴史主義の徴候のなかの文化諸科学」京都大学人文科学研究所『人文學報』第81號、一九九八年三月、も看よ(うち「 歴史主義批判の系譜」に1. ニーチェ―生の哲学―の節もあるが、例に漏れず「生に対する歴史の功罪」の歴史學批判のみ檢討してその後のニーチェの歴史勸獎論は眼中に無いし、ウェーバーとの對比を示すに急である)。

一般史/部門史(分野史)とも呼び分けられるこの兩者の關係については、オットー・ブルンナー『ヨーロッパ――その歴史と精神』もまづ「 専門分野としての歴史と歴史諸科学」で題目に掲げた所であって(成瀬治・石川武ほか譯、岩波書店、一九七四年一月)、要するに、史學科で專攻されるやうな「狭義の歴史学、つまり一般史」は「人間、それもつねに社会的結合関係において現われる個々の人間、ならびに、もろもろの人間集団を対象としている」ので「政治的なものが中心的意義をも」つが、史學以外の各種學科における歴史部門が第一に取り上げる對象は「人間ないしもろもろの人間集団ではなく、それらの作品なのであ」り、人間による産物を人間から分離して制度や文化それ自體に焦點を當てるので「意味形象としての作品が問題だ」と言ふ(pp.17-​20.)。「狭義の――本来の意味におけるといってもよいのだが――歴史は、人間および人間集団の、すなわち、家族、部族、民族、国家、都市、教会等といった社会的形象の歴史である」のに對して、「狭義の歴史学からはっきりと区別される歴史的個別諸科学のタイプ」において「もろもろの理念(イデー)や制度、文化的創造物、法秩序、経済構造、言語や文学、芸術や音楽、哲学や宗教などの歴史を書くときは、」「一つの事実関連だけを全体から孤立させ、少なくともまずそれをその担い手である人間と社会集団からいったん切り離し、固有の内的法則性に従って、――よくいわれる表現を借りれば――その発展に則して、この事実関連を叙述することが試みられる」(同書「 西欧の歴史思想」p.32)、と。この二項の對比は、政治史と文化史(延いては精神史)といふ論爭となってきた對立にも重ねられる(前掲​pp.13-​14.及び「 ヨーロッパ社会史の問題」pp.116-​119.)。前者が主・後者は從となすのが中世史と國制史を本領とするブルンナーの立場であるかに見えるにしろ、それでも「しかしながらさしあたって重要なことは、自己完結的でない歴史sto­ria a se non suffi­ciente)、歴史的個別諸科学、文化史、精神史ないし社会史のこのようなタイプが、十八世紀以降になってようやく成立したものであり、したがって歴史主義という全複合体と同時代の現象である点を確認しておくことである」(p.32)と言ふ所より推せば、より近代的な歴史意識は專門の歴史學そのものにもまして諸學科における歴史的研究に良くも惡くも尖端的に突出するものではなからうか。生物學史、經濟學史、文獻學・言語學史を三幅對にして考察したミシェル・フーコー『言葉と物―人文科学の考古学―』第十章「四 歴史」に據ると、十九世紀に「人間のうちに発見された歴史性」一般が諸領域に擴散したと云ふのは顛倒した見方で、先づ各對象に固有で相互に異質な歴史性が受け取られてからその重ね合はせにより「人間が〈歴史〉の主体として成立」した、とか(渡辺一民・佐々木明譯、新潮社、一九七四年六月、pp.389-​392.)。また逆に、史學史とはブルンナーの言ふ意味では一般史でなく文化史・精神史に類するから、史學史においては、專門でありながら一般であらうとする「歴史學」(就中、政治史)――専門分野としての歴史、つまり一般史」(前掲​p.13)と言ふのはよく考へたら形容矛盾だらう――が部門史として限局され一學科として相對化されるのではないか。

歴史主義と言っても史學本流と分れてむしろ史學外で展開した傾向があるとは言はれてみれば成程、歴史學派をも檢討するには狹義の史學史だけでは濟まないわけで、關聯する諸學史に學ばずにはゐられない。だが、「歴史の学学の歴史のあいだにはふるくから埋めがたい対立関係が存在した。そして,そのことが学問史が自律的な一分野として自己形成するのをさまたげてもいた」とヴォルフ・レペニースが論じてゐる由(佐々木博光歴史主義の徴候のなかの文化諸科学」前掲p.121)。一般的に言って、歴史學界内部の割據ならまだしも、外在する「学部・学科別の分野史(経済学部における経済史、法学部における政治史、等々)といった複数の要素によっていくつかの集団に仕切られている」こととなると史學史の視界に入らなくなりがちで、「こうした歴史研究の複数性に無自覚なまま、自己の所属する集団を基準に自己反省としての史学史を語り続けるならば、史学史はこうした複数性への無自覚さを再生産することにつながり、それは容易に自己の帰属集団を史学史の中心に位置づける作業へと転化してしまう」(松沢裕作「『近代日本のヒストリオグラフィー』の意図と達成」立教大学史学会『史苑』77卷第1號「〈特集〉外国史家が読み解く『近代日本のヒストリオグラフィー』」二〇一六年十二月、p.80)。學史を業界人が内部需要に應へた自己正統性のための業界史にせぬやうに、との戒めであれば、生産側に立つより受容史・讀者論で外部へと擴げるのも一法ではある。

*7

十二年先立つ須藤の前著『ニーチェ 〈永劫回帰〉という迷宮』は、どうも永劫回歸論は趣味に合はぬので題だけで敬遠してゐたけれどこの際讀んでみると、受容論へ配慮する素振りは見せてをり、受容史へ關はらうとしない點で本書『ニーチェの歴史思想』は前著での反省を裏切ってむしろ弱點を惡化させたと判る。

本書には、ニーチェ批判の観点ははっきりとした形では出されていません。それは、筆者の姿勢として、あたう(ママ)限り「共感的」な読解を目指したことの結果でもありますが、むろん、それが大きな問題点であることは、言うまでもありません。ただ、わたしとしては、ニーチェ批判の論点は、彼の近代批判と一体化させて試行すべきものと考えています。[…]ニーチェを読むとはおそらく、その批判精神をいかにとらえるかの問題にほかならないのではないでしょうか。そして、それは、わたしたちにとっては、「はじめに」でも触れたように、日本の「近代」の問題と、つまりは、日本の西洋受容の――したがって、たとえばニーチェ受容の――問題と切り離して論じることはできない問題であるはずです。

須藤訓任『ニーチェ 〈永劫回帰〉という迷宮』「エピローグ」、前掲pp.247-​248.

「はじめに」で觸れたとは、その末段(p.7)で、西洋での激しい毀譽襃貶に比して「日本人が、ニーチェに共感し、またもてはやすのは、もしかしたら、超越神との厳しい緊張関係を経ることなく、神の不在に納得しているのであって、それは日本人自身の自己満足・自己肯定に安住する結果になっているのではないか。それは、ニーチェ哲学の生命である批判精神を削ぐことになってはいないか」と問うて「[…]本書で論ずる余裕はありませんでしたが、ニーチェに共感するとしたら、その共感する自分は何者なのかといった、わたしたちにおける、いわば思想の運命のようなものについては、わたしとしても、考えつづけて行かねばならない、と思っています」と結ぶ邊りが照應する。暗示引用された林達夫『思想の運命』(岩波書店、一九三九年七月)の標題作を見れば、思想を寄生蟲に譬へて「思想の力もまたその無力も同時にその思想が己の宿り場としてゐる當の社會的身體の状態から來てゐる」とか、植木に見立てて「原産地におけるよりも遙かに遠い外國の土地に移し植ゑられたものの方がずっとその場所を得て見事に繁茂してゐるやうな植物が中々に多くあるものだが」とか言って、轉移や環境に注目してゐた。畢竟、わがニーチェ愛讀者諸君は讀者論的問題として自身が宿ったり育ったりした時代的・社會的背景を省みるべきであり、特にはニーチェ享受史に即した設問として講究すべしと云ふわけだ。その言や善し!(なれど行ひは未だし)――もしそれ、考へを撤回したのならば、さう書くが良からう。書下ろしを含む單著の公刊は過去の自分への批評を記す好機であったはず。『ニーチェの歴史思想』の「あとがき」に「拙著『ニーチェ 永劫回帰という迷宮』(選書メチエ、講談社、一九九九年)をご参照いただければ、幸いである」(p.421)と型通りの言及はあるも、但しその前著に要修正點ありとはどこにも述べてない。

*8

反時代的であることをニーチェ自ら定式化した陳述として屡々典據にされる箇所で、拙文「アナクロニズム」第五節でも斎藤忍随の譯文で引用した。本書での引用譯文は以下の通り。

本考察もまた反時代的である。なぜならわたしはここで、時代が誇ってしかるべきもの、つまり、その歴史学的教養を時代の損害 Scha­den、虚弱性 Ge­breste[=身體的缺陷、疾患]、欠陥 MangelNach­teilとはこの三者の総称であり、その病巣である〕として理解することを試みているからであり、それどころか、われわれはみな歴史学の消耗性の熱病に苦しんでいる、少なくともそれに苦しんでいることを認識すべきだとわたしは思うからである。(…)また気を軽くするためにだまっているわけにゆかないが、わたしは、わたしを苛むあの感覚 Emp­fin­dung[en]が掻き立てられるもととなった経験をたいていはわたし自身から取り出しているのであって、他人から取り出したとしたら、それはただ比較のためにすぎないし、わたしは、ただ自分が古代の、とりわけ古代ギリシャの徒弟である限りにおいてのみ、今の時代の申し子としての自分に関してこれほど反時代的な経験をするにいたったのだ。しかし、古典文献学者としての職業柄、次のことだけは自認することが許されるのでなければならない。すなわち、古典文献学のわれわれの時代における意義とは、この時代にあって反時代的に――ということは、時代に反して、そしてそのことによって時代に向けて、願わくは来るべき時代のために良かれと――作用するということでなければ、なんであろうか[を私は知らないであらう ich wüss­te nicht1, S. 242f.)。

第二章「一 題名の問題」p.83所引([ ]内は須藤著に無い補足)

これを須藤が讀解すると、かうなる。

古代ギリシャの「徒弟」であるがゆえに、現代を相対化する視点を自分は確保している、だが、そのことによって、現代の同時代人として「歴史学の消耗性の熱病に苦しんでいる」「今の時代の申し子」である自分は、ある種のジレンマに追い込まれ、そこからあの「わたしを苛む感覚」が由来する、というわけである。この「感覚」のおかげで、自分は「歴史病」をそれとして身を以て突き止め、それからの快癒を展望するすべを心得ているというのである。

第二章「一 題名の問題」pp.83-​84.

しかし、「快癒を展望するすべを心得ている」なんて思ひ上がった言揚げはこの第二反時代的考察の「緒言」(小倉志祥譯「生に対する歴史の利害について」『反時代的考察 ニーチェ全集4前掲p.119-121.)を讀み通した限りどこにも出て來ないので、勇み足の誣告である。引用されたこの序言末段の一つ前の段落劈頭にも「私はひっきりなしに私を苦しめてきた一つの感覚を描写しようと努力した」(ちくま学芸文庫版p.120)云々とあって、病状の診斷を先務として治療や處方箋にはまだ言ひ及んでない。自然に順序通り讀めばまづ、「わたしを苛むあの感覚」とはその數行前に述べた「歴史学の消耗性の熱病に苦しんでいる」こと、且つその「苦しんでいるleiden​=病む、惱む]ことを認識」した病苦の自覺、と讀まれる。その苦しみを覺えさせた經驗は「わたし自身から取り出しているのであって、他人から」でないとは、つまりこれからこの前口上に續いて本文で非を鳴らすことになる歴史熱に自分も罹患してゐる、歴史病のことで他人を誹ってゐるやうに見えても基本は自己批判なのだ、我が身を切って著者自身を(も)責めてゐるのだから讀者は自分達(だけ)への非難と受け取って惡く思はないでくれたまへ、と豫防線を張りたいわけだらう。その文脈を押さへると「わたしを苛むあの感覚」は、歴史熱と古典文獻學との相克する所から生じるとは言へど、苦しませる源は同時代の歴史熱、即ち「周知のごとく二世代以来殊にドイツ人の間で注目されている有力な歴史主義的な時代傾向」(ちくま学芸文庫版p.120)の方に感覺の主因があって、文獻學は病因でなく病識をもたらしたに過ぎない。「これほど反時代的un­zeit­ge­mälssen​=非時代適合的、時代に相應しくない、時代後れ]」となった所以が「今の時代dieser jet­zigen Zeit」の子でありながら「古代のälterer Zeiten​=より古き時代。そこそこ年取った時(絶對比較級)]」就中ギリシアの弟子であるからだと言ふのも、古典文獻學者として比較的に現代的でない時代を學んだ限りにおいて純現代風からは外れただけだと謙遜したやうになってゐる。「次のことだけは自認することが許されるのでなければならない」も、下手に出て最低限は確保する言ひ方であらう。「現代を相対化する視点を自分は確保している」などと自信滿々な口吻に讀み換へる須藤の讀みとは異なって讀める。多分、本文の印象を序文に遡及投影したものか。「古典文献学者であるがゆえのあのわたしを苛む感覚――同時代への批判の真正性を保証してくれる特権的感覚――」(p.85)とまで言ふ須藤は、感覺の本源は文獻學に由來するかのやうに言ひ做し、受動的な「わたしを苛むquä­lenden​=苦しめる、惱ませる]」感覺を能動的な批判意識に掏り替へてゐる。本書は更に、この第二章第一節終盤の要點を述べ直した第六章註(10​において「しかし、古典文献学者であるがゆえの反時代性が、それだけで、同時代の子としての自分を相対化すると想定されている。つまり、自分はいかに時代のただなかに位置しているとはいえ、自分の本質ははなから反時代的であると確信されており、だからこそ、時代に対する苦痛の感覚ももっぱら自分のうちから由来する、と断言しえたのである」(p.263)とパラフレーズしてゐたが、前文は不可無くても後文が難ありだ。ニーチェはその感覺を催させた經驗の例に引き出したのは大抵は自分自身からであるとは言ったけれど、病苦の感覺そのものは「もっぱら自分のうちから由来する」のでなく同時代の歴史病から來たもの、時代のうちで時代より得た「經驗 Er­fah­rungen」に由來すると受け取られるのであって、例へば痛覺は自身に内在しようとも痛みは感覺器官に刺戟を與へた外傷や諸疾患等に歸因させるのが道理なのと同樣である(病跡學(パトグラフィー)流のニーチェ論には思想の變轉を進行性痲痺、謂はゆる腦梅毒から説明するもあるが、スピロヘータ菌が體内にあったとて内在因とは言ふまい)。少なくとも「生に對する歴史の利害について」序言の範圍では「時代に対する」苦痛と言ふより時代に因る苦痛として語ってゐた。――なほ右の「感覚 Emp­fin­dung」(p.83引用文)に關して、「ニーチェにとって、歴史と非歴史とはまずもって感覚ないし感受Emp­fin­dungの問題であった(Emp­fin­dungの前期ニーチェにおける重要性については補論1参照。[…])」(第二章「三 動物の問題」p.106)とのことゆゑ、「(補論1)転移としての言語――初期ニーチェの場合」も披見すると、「道徳外の意味における眞理と虚僞について」(一八七三年稿)を評釋して「人間にまずあたえられているのは神経刺戟である。いや、人間は第一次的には感覚 Emp­fin­dungそのものであり、感覚として存在する」(「一 転移という現象」p.276)と斷ずるが、それに對する當然の疑問「神経刺戟もまた外界の事物の人間的場への転移ではないだろうか」については「ある点ではそうもいえるだろうが、しかしニーチェはそう断言することは避けている。なぜなら、人間から完全に切り離された外界、つまり〈物自体〉については、一切の積極的な言明が不可能だからである」(p.276)と不可知論で躱し、「その意味でニーチェはこの時期、感覚一元論とでも呼ぶべき立場に立っている」(p.277)と早くもマッハとの相近(收斂進化)を仄めかしてゐる。感覺が感覺を感覺する​…​…それでは苦しみの感受(Emp­fan­gen)とはまるで自分で自分を苦しめるだけの自傷癖も同然にならう。しかしながら結局「神経刺戟の形象への転化によって、人間には外界が開かれる」(p.278)のならば「この点からニーチェの思想の難点をあげつらうことも可能であろう」(「五 転移のゆくえ」p.298)、即ち「[…]神経刺戟とは形象に転化しうる限りでの感覚であり、そうした点でそれはまた、いかに外界は物自体として不可知であろうとも、ともかくそれによって何らかの形で触発されると考えざるをえない限り、外界の受容としての感覚といえる[…]」(p.298)と。感覺とは内感(in­ne­re Sinn)に留まれないもの、觸發される受動性を拭ひ去れぬものでないか(Cf.カント『純粹理性批判』B153)。況んや病氣の感覺であれば、pathos(希)であれaffectus(羅)であれ心身の受動状態における變調を意味するにおいてをや。現に須藤の引用でも「わたしを苛むあの感覚が掻き立てられるもととなった経験」とくだいて譯された通り(ちくま学芸文庫版p.121「あの私を苦しめる感覚を惹き起こした経験」)、感覺にはそれを喚起した(erregten​=興奮させた・刺戟した)客體が措定されてゐるのだ。​…​…原文にそぐはぬ解釋は何により歪んで何のため歪めたのか、「問題意識」よりは「テクスト読解に重点を置く人」(竹内綱史、前掲p.120)と評される須藤をして斯く不精確なる讀解をなさしめたのは如何なる問題意識だったのか、如何なる意圖せざる意圖が讀み取れるか。

*9

ここでニーチェの言から可能性を導く須藤だが、逆に、以前「屋根から瓦が​…​…――必然・意志・偶然」(『【岩波】新・哲学講義 知のパラドックス』)でスピノザとニーチェとを檢討した時には「一言でいうなら、可能性という様相の排除・抹消だ」といふ結論を引き出してゐた。

[…]ニーチェにおいては現実は必然=偶然と規定されました。この規定に関して見逃してならないことは――明言されてはいませんが――可能性は偶然性と峻別されるということです。その峻別のうえで、必然=偶然として現実を規定することによって、可能性の様相が抹消されるのです。あるいはむしろ、可能性が抹消されるからこそ、現実は必然=偶然として規定されるのであって、両者はことの表裏をなします。

中岡成文ほか編集委員『【岩波】新・哲学講義 知のパラドックス』岩波書店、一九九八年一月、p.146

讀み返して照合してみたら正反對の主張だったので、戸惑はされる。考へを變へたのか知れないが、それならさうとひと言でも斷ってもらひたいものである。

本書第五章(初出二〇〇三年)中「三 偶然としての歴史」の行論は以下の通りであった。「[…]いまだマッハを知らなかったと思われる中期の段階で、ニーチェはすでにマッハと思想的戦略において、ほぼ軌を一にしていた、といってよい。」「ところが、中期ニーチェ、『人間的』のニーチェにおいては、発生史の洞察はそのまま、事象の因果的必然性の洞察でもあるとされる。」「[…]ほぼと述べた理由はそこにある。マッハは、中期ニーチェのように、因果的必然性を揚言することがないからである。そこが、両者の基本的差異である。そして、この差異にこそ、後期ニーチェに対するマッハの([思惟經濟に續く]いま一つの)影響を云々できる可能性が潜んでいる。」「絶対的な必然的因果関係を中期ニーチェが見ていたところに、マッハはむしろ偶然を、しきたり・とりきめ Convention」を、観取する」(p.211)。そこでマッハの力學史から引例される(p.212)。

歴史探求は単に現存のものの理解を促進するだけではない。それは、現存のものが部分的にはしきたり偶然の産物であることを明かすことによって、新たなものの可能性を示唆しもする。さまざまな道をたどって到達される、より高い立脚点からは、より自由な眼差しによる展望が効き、さらに新たな道をそれとして知ることができるのだ(Me­cha­nik, S. 251)。

このマッハ(伏見譲『マッハ 力学 力学の批判的発展史』講談社、一九六九年十月、第§8-7.p.239相當/岩野秀明『マッハ力学史 上 古典力学の発展と批判』〈ちくま学芸文庫〉二〇〇六年十二月、p.397相當)に繋げられるのが、『道徳の系譜學』第二論文第十二節でニーチェが「ある事物・器官・慣習の歴史全体とはこのようにして、つねに新たな解釈とつじつま合わせの継続した記号連鎖なのである。ただし、それら解釈とつじつま合わせの原因それ自体は互いに連関しあっている必要はない。むしろ、事情によっては単に偶然的に互いに継起し取って代わりあうだけなのである」と述べる箇所(p.213所引)だ。この邊、逐一摘記するとややこしくくどくなるので、本書「序文」で各章を概觀して自ら要述した文(p.15)を借りよう。曰く、「道徳的価値観の変遷は、価値観そのものに内在した価値の優劣によって決定されるのではない」、「解釈の葛藤」する「外在的な力関係」で歸趨が定まる――

しかし、だからこそ、キリスト教道徳の勝利が「偶然」の産物であり、そうであるからには、反対に、キリスト教道徳の批判的超克の可能性も開けてくるのである。その意味で、物証としての語源学と「偶然」としての歴史観は、相互に支え合う関係にある。語源学は現行の価値観以外の価値観の存在を立証し、その限り道徳的価値観の歴史的変遷を証拠だてる。それは「偶然」としての「歴史」のれっきとしたひとつの事例である。他方、語源学という物証が、現行の道徳的価値観以前の価値観を立証できるためには、そもそも歴史がさまざまに変遷する可能性を秘めたものでなければならず、そしてその変遷が真にラディカルな変遷であるためには、歴史の変動は本質的に「偶然」的な変動でなければならない[…]。歴史はその本質が「偶然」であることが確証されてこそ、ニーチェの「系譜学」は「系譜学」としての威力を発揮できるのである(第五章)。

なにやら循環論法臭い行論である。「歴史の偶然な非連続性とは、『系譜学』における探求にとって、その理論的立脚点となるという意味で、出発点をなすばかりか、歴史探求に際して発見論的原理として作動するという意味で、目標地点をも構成するものなのである」(p.216、傍線引用者)とも言ふ邊り、自覺の上なのか知れないが​…​…「発見論的」(heu­ri­stisch​=索出的)と言ふとカントの謂はゆる統整的原理を匂はせるも(『純粹理性批判』B644B699)、統整用の理念を構成的に使用すべからずと云ふのも『純粹理性批判』(B717ff.)の教へだった。そこから「誤れる循環」が發し「本來證明さるべきであったものが前提される」のだ、と(B721)。統整的・發見的原理に据ゑられる理性の形式は合目的性であって(B714ff.、『判斷力批判』第七十八節)、特に右の引用段の後半で「〜ためには、〜でなければならない」を繰り返すのは、まさしく「ためにする議論」で目的論に囚はれて見える。「歴史は目的論的に進歩するとか、あるいは逆に堕落すると、ともすれば考えられてしまう」(p.214)と用心してゐてさへ己が望む目的のためには警戒心が薄れるものか、何のためといふ目的に同調してくれる相手に向けた論理構成なので自分と似ない他者には通用しない。その目的は達成できぬ、そんな結果を求めない、と拒否されたらどう説得するのやら。目的論ではなく必要條件の分析として、もし起きた史實以外の可能性があるならばその歴史は偶然であると論理學流に言ふのだとしても、逆は必ずしも眞ならず、歴史が偶然であることは現實とは別樣な(しかも「真にラディカルな」!)可能性あることの十分條件になるか、後件肯定の虚僞でないか、それに何より、「可能性は偶然性と峻別される」と論じてゐた過去の記憶を消去してしまったかのやうだ。必然の強調は中期までのニーチェであって後期はマッハの影響により變化したのだと言ひ逃れようにも、「屋根から瓦が​…​…――必然・意志・偶然」が引證したのは「中期」末に當る『曙光』一三〇「目的? 意志?」(前掲p.140所引)だけでなく「後期遺稿」(p.139)や「晩年のある遺稿」(p.141)や「後期」に屬する『道徳の系譜學』第一論文第十三節(p.144所引)もであり、それらを踏まへて「運命は、必然・偶然とは両立できても、可能性とは排他的なのです」(p.147)と説いてゐた。ニーチェのキイワードの一つとされる「運命愛」(p.147)は一八八二年以降に用例が確かめられ、須藤著の從ふ時期區分では「後期」になる。まあ、運命愛以前に「とくに等しきものの永劫回帰という法外な思想などは顕著に反歴史的な色彩を帯びている」(本書「序文」p.6)のだから歴史思考とはどうやっても折合ひがつけられさうになく、「本書ではニーチェの主要思想の一つである等しきものの永劫回帰についてはごく部分的にしか取り扱わなかった」(「あとがき」p.421)のは缺如と言ふよりか同じ本の中で矛盾無く扱ふのは無理があったと言ふべきで、ニーチェ思想には相反する分極性があると考へればよいのだらうか​…​…。

この齟齬する須藤の二つの論考は、整合させられるのか、分けて考へるべきなのか、どちらかを棄却するのか​…​…固より斷片(フラグメント)を閃かせるニーチェ文に論理的一貫性を要請するのが出來ない相談だとしても、ニーチェを論ずる著者の理路は筋を通してくれないと讀者はついてゆけなくなる。でないと著者も、學者として自己規定できまいが?

[…]ニーチェの著作の多くはアフォリズムの集成という形態になっている。その形態は、ニーチェの思考に視点の多数性を可能にした。それが、一切はなんらかの観点からの解釈であるという「遠近法主義」の思想にも繋がっていることは明白であるが、しかし、他方、アフォリズム形式ではない著作をものする場合、著者としての自分の立場・観点はいかなるものかという問題に対する、ニーチェの意識を先鋭化したようにも思われる。そうした著作の一つである『系譜学』において、著者ニーチェは、「認識者」として、つまりは「学者」として自己規定している。

第六章「三 楽士拡大鏡――哲学者やましい良心」pp.244-​245.

ついでながら、厭味が得意な三島憲一に言はせると「哲学者や政治学者は比較的まとめやすい『道徳の系譜学』をメイン・ディッシュにして、いくつかのアフォリズムを適当につけあわせるのが常である」(前掲『ニーチェ以後』「第四章 プラトン変貌――ニーチェ、ハイデガー、ガダマー――」p.123)とのこと。下手すると、易きに附いただけに終る。

なほ公平に言って、本書の著者も論理性を發揮しないわけではない。曰く「むろん、対象は認識されない限り、批判されることもありえない。その意味では認識は、批判の必然的先行条件となるのであって、そうである以上、両者を一刀両断に分割することはできない。若きニーチェの時代批判も当然ながら、時代認識を含意する」(第四章p.165)​…​…しかして論理上、必要條件たる認識は必ずしも批判といふ歸結を導くに足る十分條件ではない。ここから、「起源現在とは、すなわち、発生史と(現在の)批判とは、峻別されるしかない」(第四章二p.180)と言ふ目覺ましく重要な論點へと繋がる條理が讀み解けよう(著者本人が明示はしてないけれど)。この分離無くしては、またぞろ「[…]二種類の超時間性――起源の超歴史性と現在の所与性――は癒着し相互的強化の循環過程に入りこむことになる」(第五章一p.199)。「系譜学批判との間に無媒介的な連結を認めることを逡巡するとでもいうような感覚」、そこには「歴史精神[『道徳の系譜学』第一論文第二節]が宿っている。そして、この精神の内実いかんにこそ、中期ニーチェと後期ニーチェとの――特に、その歴史思想に関する――決定的な差異がかかっているのである」(仝p.200)。この切斷の冴えをこそ! 尤も、そこで「ただし、『系譜学』の最終的ターゲットはあくまで、道徳の批判であって、その発生史の方ではない」(第四章一p.172)と云ふ類の目的論に拘泥すると、結論ありきの論點先取、ニーチェ「後期」を必然視してその達成からのみ前歴(先行條件)に遡及する如き循環論になりがちである。また、論理形式だけでは割り切れないのは歴史における時間の流れが一方向で不可逆な所で、無時間的に操作可能な論理命題と違って時間經過は前後非對稱であり、そこも結果から逆算して原因や前提條件を推論する場合には要注意か。「――そして私の視線は、大概は過誤がなされる所の、あの最も困難で最も油斷ならぬ逆推理の形式に向けていよいよ研ぎ澄まされた――作品から著作者への、行爲から行爲者への、理想からそれを必要とする者への、どんな思考や評價の仕方からもその背後で指令してゐる欲求への、逆推理Rück­schlusses 遡及推論]」(増補『悦ばしき知識』三七〇「ロマン主義とは何か」、前掲ちくま学芸文庫版p.434相當/村井則夫譯『喜ばしき知恵』〈河出文庫〉二〇一二年十月、p.425相當)。

*10

生に対する歴史の利と害について」に關説して、須藤著の曰く。

「歴史」の原語はHistorieである。Historieは場合によっては「歴史学」と訳される。ニーチェの三区分「記念碑的歴史」「骨董的歴史」「批判的歴史」]を「歴史」と翻訳するのは、実は少々不正確の謗りを免れない。というのも、たとえば「記念碑的歴史」とは、なんらかの歴史事象を一種の記念碑に見たてて、それを手本に一念奮起して、これからの事業に邁進しようという、歴史事象に対する態度ないし姿勢を指すのであって、それをそのまま――少なくとも現行の日本語においては――過去の歴史事象と同一視されやすい「歴史」という言葉で意味させるには、無理があるからである。しかし他方、Historieを歴史学と訳すのにも、この場合違和感が残るだろう。「記念碑的歴史」などの歴史的態度は、「学」の厳密性・禁欲性と、どこかそぐわないところがあるからである。

「(補論4)ヘーゲルとニーチェ――歴史をめぐって」中「二 歴史の語り部としての哲学者」p.406

歴史「學」と稱するほど學術的でない「態度ないし姿勢」なら、歴史觀、史眼と言ったところか。その意味での「歴史」は、史學科の歴史研究に限らず諸學における歴史學派や非學問的な一般讀者向け歴史物語等にも分有される。

*11

シュネーデルバッハ『ヘーゲル以後の歴史哲学 歴史主義と歴史的理性批判』をソーシャルライブラリーに登録した際の讀後メモは、以下の通り。

読了 2010/10/05

譯者(古東哲明)の〔 〕による補足が必要以上に多い。

卷末「文献表」に邦譯を補ってあるのは哲學書ばかり、マイネッケすら漏れてゐるってどういふこと? 

その分析はなかなか讀解の參考になるものの所詮は哲學者の論、哲學史に限定されてをり、歴史家であるブルクハルトやドロイゼンの章を立ててゐるとはいへ、科學史(學問史)に及ばない。「歴史認識の実践〔暗黙裡の行為〕を哲学的に解釈することと、その歴史認識の実践自体との、事柄としては必然的なつきあわせ〔対比〕を、おこなわないままにとどめざるをえなかった。そうしたつきあわせ〔対比〕は、科学史家との共同作業をつうじてのみ、なされるべきだからである」(p.38)。これだから哲學者って​…​…カッシーラーやフーコーの爪の垢でも煎じて飮め。

cf. 笠原賢介譯ヘルベルト・シュネーデルバッハ「歴史における‘意味’?――歴史主義の限界について――http://hdl.handle.net/10114/3995

http://www.sociallibrary.jp/entry/4588004425/m.3820946/

*12

フーコーへのインタヴュー(聞き手レーモン・べルール)歴史の書き方をめぐって福井憲彦譯「歴史の書き方 『言葉と物』をめぐって」後半、福井憲彦・山本哲士編集『actes(アクト)No.3「特集 思想の地盤がえ」日本エディタースクール出版部、一九八七年五月、p.174「寓意に関する警戒」。レーモン・ベルール/古田幸男・川中子弘譯『構造主義との対話』「第二章 歴史と構造」中「ミッシェル・フーコーとの対話 ――その二――」〈ブリタニカ叢書〉日本ブリタニカ、一九八〇年二月、p.116アレゴリー的不信」。石田英敬譯「歴史の書き方について」『ミシェル・フーコー思考集成  19641967 文学/言語/エピステモロジー筑摩書房、一九九九年三月、p.439「寓意的(アレゴリツク)疑惑」)參看。ここでアレゴリー的(寓意・寓喩に關する)と言ふその趣意(こころ)は、ギリシア語源all­ēgoríāの原義「別樣な語り方」「他のものを話す」を踏まへてをり、解釋學を論じた際に「アレゴリアやヒュポノイアhypo­noia​=下心、嫌疑、推測]」(「ニーチェ、フロイト、マルクス」大西雅一郎譯、『ミシェル・フーコー思考集成 』前掲p.402​・412相當。豊崎光一譯、季刊『第二次エピステーメー』創刊0號(0号)「【緊急特集】ミシェル・フーコー死の閾」朝日出版社、一九八四年十二月、p.66​・77相當。前田耕作譯「ニーチェ・フロイト・マルクス」、情況編集委員会編『情況』一九七六年五月號Vol.95情況出版、p.108​・114相當)とも言ってゐたもの。

以下、フーコーが、自分の本(『言葉と物』)に現前してゐる主體(主語)とて今日では言はれたこと全てにおいて話してゐる「匿名のひと」なのだと述べたのに對し、その主語on(フランス語で主格の不定代名詞。英語one、ドイツ語manに當る)の規定をべルールに問はれての返答である。

おそらく少しずつ、苦労をしながらではありますが、寓意に関する大きな警戒から、いま解放されつつあるところではないでしょうか。私がいっているのは単純なことでしてJ'en­tends par là l'idée sim­ple​=それが意味するのは單純な考へ]、テクストをまえにして、そのテクストが現実に語っていることの下でほんとうに語っていること以外は、なにも問わないという警戒ですね。そこにはおそらく、むかしの注釈のexé­gé­tique​=(聖書)釋義學的な]伝統からひきついだ遺産がありましょう。つまり、いわれたことすべてをまえにして、われわれは、何か別のことがいわれているのではないか、と疑ってしまうんですね。そうした寓意に関する警戒の世俗版がもたらしてきた効果の結果、すべての注解者は、著者のほんとうの思想をいたるところでみつけねばならない、著者がいわずしていっていたこと、著者がうまくいえなかったけれどもいおうとしていたこと、あるいは著者が隠そうとしたけれども隠しきれなかったことをみつけねばならない、とされてきたわけです。

しかし、言語を扱うには、今ではその他の可能性もいっぱいあるのだ、ということに気づかれています。たとえば現代の批評がそうです。少しまえまでまだ行われていたやり方と、現代批評とは、はっきり区別されます。いま現代批評は、みずからが検討するさまざまなテクストについて、つまりみずからの対象(オブジエ)としてのテクストについて、一種の新しい結びつきcom­bina­toi­re​=組合せ、結合法]を形成formu­ler​=定式化]しようとしているのです。つまり、テクストの内在的な秘密を再構成しようとするのではなく、テクストを(言葉、文章、さらには音韻、主題、文学形式、物語の総体en­sem­ble​=集合]いった)諸要素からなる総体としてとらえるわけです。そしてそれらの要素が、作家の企図によって統御されてはおらず、まさに作品そのものによってのみ可能にされているかぎり、それらの要素間には、まったく新しい関係性を浮きあがらせることができるのです。そうして発見される形式上の諸関係は、作家個人per­sonne​=誰か]の精神のなかに実在していたものではありませんし、また、言語表出されたものé­non­cés​=言表、陳述]の潜在的内容とか、すぐに露呈するような秘密とかいったものでもありません。そうではなく、そうした諸関係はひとつの構築物なのです。しかしそれは、そうして叙述された諸関係が、扱われた素材に現実的に帰着させられうるやいなや可能となる、そういうひとつの正確なex­acte​=精密な]構築物です。われわれは、人びとhommes​=人間]の語ることを、いまだ定式化されていなかった、われわれによってはじめていわれる、しかし客観的に正確な諸関係のなかにおいてみることを、学んできたわけです。

こうして現代の批評は「そのものの内面にふかく入りこむことIntimior intimio ejus​=彼の内面のなほ内なる(アウグスティヌス『告白』第三卷第六章十一「我が最も内奧よりも内に interior intimo meo」が典故か)]」という内在性の大神話を、放棄しつつあるところです。箱詰めl'em­boî­te­ment​=入れ子]とか宝の箱にたとえて、作品という戸棚の奥に探しにゆけばよいとするような古い考え方thè­mes​=テーマ]から、完全に身をひき離しているわけです。現代批評は、テクストの外部に位置することによって、テクストにたいしてあらたな外部性を構成し、テクストのテクストを書くわけです。

福井憲彦譯「歴史の書き方 『言葉と物』をめぐって」中「歴史の書き方をめぐって」『actes』3、pp.174-175.

*13

ニーチェ『道徳の系譜學』第三論文「禁欲主義的理想は何を意味するのか」は第一節で「それ[=人間意志]は欲しないよりは、むしろまだ欲することを欲するといふ警句(アフォリズム)を提示して讀者に謎を掛け(公案風)、かう問ひ掛けた(教壇調)。

— Ver­ste­ht man mich?​... Hat man mich ver­stan­den?…

即ち木場深定譯で「――諸君には私の言うことがわかるか…​…私の言うことがわかったか​…」(『道徳の系譜』〈岩波文庫〉一九六四年十月第九刷改版、p.118​→二〇一〇年十二月第67版改版)、信太正三譯「――私の言うことがおわかりか? ・・・おわかりになったろうか? ・・・」(前掲ちくま学芸文庫版p.485)。直譯すれば「私を」になる一人稱單數代名詞の對格mich​(4格、英語目的格meに相當)が「私の言うことが」とくだいて意譯されてゐるのは、ここでは「私を」や「私のことが」にすると日本語として文意が通じまいから、已むを得ないのかも知れない。けれど、裏を返せば、少なくとも日本語での「私」はその儘すんなり「私の言ふこと」を意味しないことを示し、反對に「私の言ふこと」だけから復文すればwas ich sa­ge​(英what I say)やmei­ne Worte​(英my words)等となってmich一語に收まらないことが示せ、それぞれ喰ひ違ひを抱へた別語である樣が察しられよう。私の言ふことは私のこと全體の内では部分でしかない、にも拘らず、ドイツ語で「私」が他動詞ver­ste­hen(聞き取る、理解する)の目的語に取られる場合に「私の言ふこと」と云ふ意味に局限されるのは、全體を以て部分を示す或る種の換喩用法だらうが、日本語譯側からすると部分で全體を代表させてしまふ所(デデキント無限?)に一斑を見て全豹を卜するにも似た無理を感じさせられる。されば、これらをさう常に同意義扱ひで意譯して良いわけではないことに注意すべし。

果して「私(のこと)」の理解は「私の言ふこと」の理解で十全に置き換へ得るものか。ニーチェ最後の著書、執筆後二十年・沒後八年を經た一九〇八年初刊『この人を見よ』は、終章「なぜ私は一個の運命なのか」、八、九、各節冒頭で、„Hat man mich ver­stan­den?“​といふ疑問文を繰り返す。本邦初譯の安倍能成は「人々は余を解したか」(南北社、一九一三年十一月、p.293​・298​・302)とし、十五年後に岩波文庫版で「人は私を解してくれたか?」「人は私を解したか」(一九二八年十月、p.200​・203​・206​→一九三九年一月第十四刷(改版)=復刻版〈名著/古典籍文庫〉一穂社、二〇〇五年十月​→一九五〇年九月第十八刷改版p.191​・194​・196)と改譯した。三井信衛譯が「人々は私を理解しただらうか」(太陽堂、一九二四年十月、p.247​・251​・253)。これら初期邦譯は歐文直譯體で不定代名詞manまで譯出し、中でも安倍能成の岩波文庫舊版は「及ばずながら出來るだけ原文に忠實であらうとした」(「譯者序」p.7)と言ふ通り。後年、阿部六郎譯「私といふものが分つたらうか?」(『ニイチエ選集 第八卷 此の人を見よ 偶像の薄明 ニイチエ對ワグナア』創元社、一九四二年一月、p.167・170・172)は舊字新かなづかひ「私というものが分つたろうか?」(『この人を見よ』〈新潮文庫〉一九五二年七月、p.142・144・146)で三十餘年重刷され續け、後繼となる西尾幹二譯は「私という人間をこれでお分かり頂けたであろうか?」(『ニーチェ全集 第四巻(第期) 偶像の黄昏 遺された著作(一八八八―八九年)白水社、一九八七年二月→『西尾幹二全集 第5巻 光と断崖― 最晩年のニーチェ国書刊行会、二〇一一年十月、p.231​・233​・234/〈新潮文庫〉一九九〇年六月​→二〇一五年七月二十三刷改版p.211・214・217)とくどくなったものの、丘沢静也譯「私は理解してもらえただろうか?」(〈光文社古典新訳文庫〉二〇一六年十月)とも意のある方向はほぼ等しい。自己言及に溢れた『この人を見よ』において、ニーチェ原文がmich(ことさ)ら文字通りに意味させ、ver­ste­hen連語共起(コロケーション)による慣用的含意は表面化させずにゐる​…​…と讀んだわけだらう。ところが、氷上英広譯が「私の言うことが、わかったろうか?」(『ニーチェ 世界文學大系 42』筑摩書房、一九六〇年二月、p.410​・411)と和らげたのを始め、秋山英夫譯も最初「人は私を解したか」(『この人を見よ・アンチクリスト』角川文庫、一九五一年三月、p.264​・266​・268)としてゐたのに新譯を「わたしのいうことがおわかりか?」「わたしのいうことが、わかったか?」(『世界の大思想 25 ニーチェ こうツァラツストラは語った この人を見よ河出書房新社、一九六五年十一月、p.410​・411​・412)に改めてしまひ、川原栄峰譯では「私の言うことがおわかりだろうか?」(『ニーチェ全集 第十四巻』理想社、一九六七年四月→『この人を見よ 自伝集 ニーチェ全集15』〈ちくま学芸文庫〉一九九四年六月、p.180​・183​・185)、手塚富雄譯でも「わたしの言うことがおわかりだったろうか?」(〈岩波文庫〉一九六九年四月、p.189​・192​・194​→二〇一〇年十二月第五十五刷改版)となってゐて、理解する對象(目的語)に私をではなくその言ったことを据ゑた點で、飜譯者の無理解を露呈してゐる――或いは過度な理解による譯し過ぎを。解ったつもりのお節介こそ困りもの。誤譯ではないが適譯でもない。およそ飜譯で間違ひの元は他言語による異化效果を馴らして自言語の慣用に同化してしまふ自文化中心主義、即ちベンヤミンの飜譯論も引くルドルフ・パンヴィッツが言ふには「翻訳する者の根本的な誤謬は、異邦の言語によって自らの言語を激しく運動させるのではなく、自らの言語がたまさか至り着いた状態を墨守してしまう点にある」(「『ヨーロッパ文化の危機』補説三ッ木道夫編譯思想としての翻訳――ゲーテからベンヤミン、ブロッホまで』白水社、二〇〇八年十二月、p.166、cf. p.205)。他言語(起點言語)を自言語で解する譯讀には反作用として譯述で使ふ自言語(目標言語)に異言語化を及ぼす擴大深化が伴はなくてはならぬ、と。「私をmich)解する」を「私の言ふことが解る」に意譯するやうな類のこなれた日本語化にあっては原文の異質性が見失はれがちになる。且つまた、言はれたことの理解をその發言者の理解に重ねようと欲するのは解釋學に至る病なのであり、固より言葉と人とは同じでなく、作者は作品と別である。ニーチェ自身も言ふ、「私は一つの物であり、私の著作は別の物である」(安倍能成譯『この人を見よ』「何故に私はかかる良書を書くか」第一節冒頭、岩波文庫初版p.83。川原栄峰p.76は「私は私、私の著書は私の著書、両者はそれぞれ別のものだ」と原文離れした自由譯、手塚富雄p.75西尾幹二もこれを踏襲)。「芸術家をその作品からできるだけ切り離し、芸術家その人をその作品と同じようには真面目にとらないということは、たしかに一番よいやりかたである。[…]だから、たいていの場合それ[=藝術家]は、作品そのものを賞翫しようとするときには忘れられねばならないものなのだ」(『道徳の系譜』第三論文四、ちくま学芸文庫版pp.490-​491.)。子曰く、君子は言を以て人を擧げず、人を以て言を廢せず(『論語』衞靈公第十五)。「だれが話そうとかまわないではないか」(サミュエル・ベケット/ミシェル・フーコー)と極言せぬまでも、言葉はまづ言葉として受け取らうではないか。翻訳の領域においても、初メニ言葉アリキが妥当するのだ」(ヴァルター・ベンヤミン翻訳者の課題野村修編譯『暴力批判論 他十篇――ベンヤミンの仕事1――』〈岩波文庫〉一九九四年三月、p.85)。

で、改めて當の『この人を見よ』本文の言に即せば、まづは「序言」第一節中の„dass man mich weder ge­hört, noch auch nur ge­sehn hat.“​は「誰もわたしに耳を傾けず、目も向けないという」(手塚富雄譯、前掲p.7)と譯しておけば過不足無からうものを、川原栄峰譯は「誰も私の言うことを聞かず、また誰も私の書いたものを見もしないという」(前掲p.13)、西尾幹二譯は「の言を聴く者はなく、私の書いたものに誰も目を向けさえもしないという」(前掲『西尾幹二全集 第5巻』p.122/新潮文庫p.3)などと餘計な補填をして指示對象を狹めてしまふ嫌ひがあった。同じく第一節末に強調體で„Hört mich!“と記す文は、さすがに「私を聞け」と直譯しては不自然にしても、單純に「私に聽け!」と譯した生田長江(『ニイチェ全集 第九編 偶像の薄明(外五篇)』新潮社、一九二六年十一月、p.275)や安倍能成(岩波文庫p.14)はすっきり簡勁な語調だったが、少數ながら「よく聴き給え!」(阿部六郎譯新潮文庫版p.7)「よく聞いてくれ!」(氷上英広譯前掲p.359)と自稱代名詞を譯さない日本語化もある一方で、土井虎賀壽が「私のいうことを聞いてくれ!」(〈世界文學選書56〉三笠書房、一九五〇年九月、p.2)、川原栄峰が「私の言うことを聞け!」(p.14)、手塚富雄が「わたしの言を聴け!」(p.8)、西尾幹二が「吾が言を聴くべし!」(p.4)、丘沢静也が「私の言葉に耳を傾けてくれ!」とか譯補して大方は著者よりその言表に注意を向ける傾きを交へ須藤訓任もまた「わたしの言うところを聴け!」(前掲『ニーチェ 〈永劫回帰〉という迷宮』p.73所引)と發話を發話者に混同して換喩風の轉移を異としなかった――なので直ぐ後に續く「なによりも、わたしを取り違えてくれるな!」(Ver­wech­selt mich vor Allem nicht!と今一つ平仄が合ってない。次いで、第一章に當る「なぜ私はこんなに賢明なのか」の第八節に假定文で„wenn man mich ver­stan­den hat,“​とあって、ここを安倍能成は初譯の「若し人々にして余の言を解するなら」(南北社、p.51)から剩語を削って逐語的な「若し人々にして私を解したならば」(岩波文庫p.44​→p.41)に改めたのだが、却って阿部六郎譯では「私の心が分つたならば」(p.30)、手塚富雄譯で「わたしがいま述べたことがわかってもらえたなら」(pp.37-​38.)、西尾幹二譯では「私の言おうとすることが分っていただけたのなら」(新潮文庫改版p.38)、と(ひそ)かに原語には無い修飾句の繼ぎ足しをしてゐる。しかし三章目の「なぜ私はこんなに良い本を書くのか」第一節で後半に現れる„Wer Et­was von mir ver­stan­den zu ha­ben glaub­te,“​及び„wer Nichts von mir ver­stan­den hat­te,“​は、川原も「私を多少とも理解したと思い込んでいる人も」「私を全然理解しなかった人は」(p.79)と字句通り増減無く譯し、ここだけはどの譯本も「私のことを」(阿部p.67/丘沢pp.87-88)「私というものを/が」(氷上p.379)としても「私の言うことを」とはしてなかった(嚴密には與格von mirと對應するのは「私を」よりも「私について」であらう、秋山英夫譯がそれで統一)。だがまた同書の自著解説集のうち道徳の系譜学章末に出る現在完了形„Man hat mich ver­stan­den.“​の譯文(阿部六郎新潮文庫版p.122「これで私を分つてくれたことと思う」)は、「人々は私のいうことが分つた筈である」(土井p.87)「私の言うことがおわかりだろう」(川原p.155)と無くもがなの「言う」を插んだり、逆に「これでおわかりであろう」(氷上p.402・秋山新譯p.396)「わかっていただけたろう」(手塚p.162)「以上で理解して頂けたであろう」(西尾新潮文庫改版p.179)と主語・目的語諸共に略してうやむやに處理したりされる。すっかり譯し落として闕文なのが丘沢静也(p.180)。そして最終章、「なぜ私は一個の運命なのか」第三節末の„Ver­ste­ht man mich?“​も、安倍能成の舊岩波文庫版は「人は私を解するか?」(p.194​→p.185)だったのが、阿部六郎譯にて「私の言うことが分るか?」(新潮文庫p.138)、川原栄峰譯だと「私の言うことがおわかりだろうか?」(pp.174-​175.)、手塚富雄譯で「わたしの言おうとすることがおわかりだろうか?」(p.183)、西尾幹二譯は「私の言わんとする処はもうお分りであろうか?」(新潮文庫改版p.204)、丘沢静也譯「私の言っていることがおわかりだろうか?」(p.206)と説明調に膨らませて飜譯される始末で、以上散發した流れを受け、遂に同章第七節以降の疑問形„Hat man mich ver­stan­den?“​による疊句(リフレイン)三連發に至り第九節で掉尾を飾る――試みに私譯するなら「私は理解されたか」とか「私のことが解ったか」とかか。見ての通り、これら各句節は相互に變換可能なヴァリエーションを成し、テクスト論用語で總稱すれば同位態イゾトピーなのであった。それが飜譯諸版を介して一層異文ヴァリアントを増し、「私を」と直譯したり「私の言うことが」と意譯(でも意味が違ってゐる?)したり、譯者によってどころか同じ譯者でも、ぶれがある次第。わけても終章第三節での疑問文の現在形が第七〜九節では完了形になっただけの差なのに(『道徳の系譜學』第三論文一では直列に竝べてゐた)、土井譯と秋山舊譯では第三節で「私のいうことが」「私の言ふことが」と譯したmichを第七節以降「私を」にする齟齬が生じ(秋山は新譯で「わたしのいうことが」の方に揃へてしまった)、理解すべき對象を發言から發言者にずらしたのは生田長江・阿部六郎・西尾幹二・丘沢静也も同斷。文脈に應じて多義に用ゐる語句は無闇に譯語を統一すれば濟むものではないと一般論としては言へるにしろ、しかし特に『この人を見よ』の邦題を持つこの自傳風作品、「序言」第一節からして「私は誰であるか」(川原栄峰譯p.13)と問ひを立てて各章題でも「私は」を執拗なほど連呼してゐるこの自意識過剩な書物においては、せめて、「私を理解する」が一卷を蔽って反復變奏されるモティーフだと解るやうな言葉での譯し方が望ましい(このフレーズに着目したニーチェ論の一例は、カール・バルト教会教義学』第三卷第二分册第二部第四五節第二項「人間性の根本形式」。菅円吉・吉永正義譯『創造論 Ⅱ/2 造られたもの(中)新教出版社、一九七四年一月)。どうにも上手く日本語譯に表はせない含意ならば強引に譯文に盛り込むよりは別に解を附すも可、語釋や解説を譯語に竄入すべからざることもまた原文を尊重する飜譯者の(わきま)へのはず。――そもそも、言を解することで人を解し得るものかどうか、私のことは理解されなくとも、言ふことが理解されただけで上首尾だらうが。むしろ私の言ふことは私を超えた意味を帶びてしまふであらう、獨り私個人にのみ屬する私的言語でなく共用される語彙・文法・慣例(convention)から成る以上は。言語を前にしたら私なぞ知ったことではない!――ニーチェがすでに一世紀ほど前に示してくれた事実」、「つまり記号(シーニュ)のあるところに人間はあり得ず、記号に語らしめるところで人間は沈黙せざるを得ないという事実」(M・フーコーミシェル・フーコー『言葉と物』廣瀬浩司譯、『ミシェル・フーコー思考集成 』前掲p.311/レーモン・ベルール「ミッシェル・フーコーとの対話 ――その一――」『構造主義との対話』前掲p.103)。…​…言ったこと、お解りいただけただらうか。

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【書庫】書評集 > 問題群としての歴史思想史?――須藤訓任『ニーチェの歴史思想――物語・発生史・系譜学――再讀

刊記

發行日 
2021年7月21日 開板/2021年10月17日 改版
發行所 
http://livresque.g1.xrea.com/Review/nietzsche01.htm
編輯發行人 
森 洋介 © MORI Yôsuke, 2021. [livresque@yahoo.co.jp]
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