問題群としての歴史思想
――須藤訓任『ニーチェの歴史思想――物語・発生史・系譜学――再讀


須藤すとう訓任のりひで『ニーチェの歴史思想――物語・発生史・系譜学――大阪大学出版会、二〇一一年十二月。


このプロブレマティックはその根底において、現実の歴史的な問題を哲学的な問題歪曲(ヽヽ)している。

ルイ・アルチュセール「若きマルクスについて――理論上の諸問題」原注*44(河野健二・西川長夫譯『マルクスのために』凡社ライブラリー〉一九九四年六月、p.143)

――彼らはある問題に触れていた。しかしそれを解決してしまったと思い違いすることによって、解決の障碍物をつくり出した。

ニーチェ『曙光』四七「言葉がわれわれの妨害になる!」(茅野良男譯〈ちくま学芸文庫〉一九九三年九月、p.64)

一、初讀時は讀み過ごす 

須藤訓任ニーチェの歴史思想』に近刊豫定で目を着けたのは、まづは書名からだったらう。既に榎並重行『ニーチェって何? こんなことをいった人だ新書y〉洋泉社、二〇〇〇年五月)を讀んでも、ニーチェ遺稿斷片Nach­ge­las­sene Frag­men­te-1885, 38​[14]*1から掻い摘んで「学問としての哲学は、全部歴史だというんだ(p.31)と説く箇所に嬉しくなってしまふ讀者としては――。むしろ、「神の死」「ツァラトゥストラ」「永劫回歸」「力への意志」等の決まり文句と共に語られる所謂「ニーチェ」には讀む氣そそられない。

都立圖書館に入るの待って區立圖書館へ取り寄せ借覽、二〇一二年四月十一日を以て讀み了ると共にソーシャル・ライブラリーウェブ本棚の一種、二〇一八年以降稼働してない)に讀後感を記した。素っ氣無い短文なので、當時はさして感銘を受けなかったやうだ。以下その全文。

読了 2012/04/11

奧附には「20111228 」とあるが、實際に出たのは遲れて翌一月か。

ニーチェの著作中の相互に矛盾すると見える點を、前期中期後期と思想の發展上に割り振ってうまいこと説明してある。しかしどうも哲學の人の考察は、何か物足りない。期待しすぎたか。哲學者であるよりも文獻學者であるニーチェに即してくれると好みなのだが。

著者の「屋根から瓦が​…​…――必然・意志・偶然」(『新・哲学講義 3 知のパラドックス』岩波書店、一九九八年一月)は惡くなかった筈だのに、本書五章で偶然と必然を述べるくだりではその議論を全く參照しないのは、不審。

http://www.sociallibrary.jp/entry/4872593898/m.3820946/

右文中「前期中期後期と思想の發展上に割り振って」云々にはいささか皮肉を含む*2。著者自身は斯く語る。

[…]ニーチェは二〇歳代半ばから四四歳時の発狂にいたるまで、哲学者として活躍しえた約二〇年の間、その思想を根本的なところからさまざまに転変させた。通常、その思想的変遷は、二〇歳代後半から三〇代前半の前期(一八六八、九年ごろから一八七六年頃まで)、三〇歳代中盤から四〇歳の手前の中期(一八七七年から一八八一年まで)、四〇歳少し前から発狂までの後期(一八八二年頃から一八八八年末まで)に分類される。本書においても、基本的にこの時期区分に則りながら叙述が進められる。第一、二章は前期、第三章は中期、第四章から第六章までは後期の「歴史」思想を取り扱う。

『ニーチェの歴史思想』「序文 歴史思想家としてのニーチェ」p.17

構成上の分量(割かれた章數)と位置(全四三一ページの中程、pp.163-​265.)だけから見ても本書の中心を占めるのは「後期を取り扱った第四章から第六章まで」だが、これには「後期のこの歴史方法論にこそ、歴史に関するニーチェの思想全般において、最も注目すべき独自の観点が展開されていると、筆者としては評価したいからでもある(p.18)との但し書きが附く。實質の量は本論六章以外の補論四篇も入れると「補論3」(pp.327-​402.)が本書中の最長篇といふ不均衡っぷりなのだけれど、これも最も關聯するのは第五章にだから、やはり重點は「後期」にある。ただ、三期に劃するのはニーチェ論の通説らしいが、何を以てさう分けたのかはつひぞ讀者に知らされない――三分説はルー・サロメ以來の踏襲だらうが、五段階説のアルフレート・ボイムラーなんかもゐたし渡邊二郎15 ニーチェ思想の展開過程――三段階説をめぐって渡邊二郎・西尾幹二編『ニーチェを知る事典 その深淵と多面的世界ちくま学芸文庫二〇一三年四月、p.134、また四つの基本モティーフで時代順の章構成にしたオイゲン・フィンク著あり、エーリッヒ・ポーダッハに準じて精神崩壞期を別立てにするのも一案だらう​…​…。どれをなぜ節目とするか次第で區切りも變はってくるものを、基準不明なその分け方を當然の前提とされたままそこから天下り式に時期ごとの違ひも語り出されると、何だかひと頃の史學で盛んだった發展段階論を當て嵌める圖式主義の臭ひがせぬでもない。最終結果となった「後期」に至る行程の通過點として前期・中期が顧みられようものなら猶更に。事實、「あとがき」中に列記された初出一覽pp.419-​421.を見ると、補論3(一九九六年)・補論1(一九九七年)は別として本論は、第四章(二〇〇〇年)、第六章(二〇〇一年)、第五章(二〇〇三年)の順に先行し、後から第一章(二〇〇七年二〇〇四年――​p.420に「二〇〇三年」とせるは誤記――)や第三章(二〇〇七年、二〇〇五年。一九九三年初出に基づく「四 持続性の問題とよきヨーロッパ人」は除く)が成稿、最後に第二章が書き下ろされたと判る。「後期」から遡及する方向で成立し、それを顛倒させ對象の年代順に列べ直したのが本書の構成である。歴史認識は往々にして倒敍法の逆轉を密かな先導とする。

文學者の活動を何期かに分けて發達史風に變遷を辿りながら對應する著述を見てゆくのは作家論の常套手段であり、思想家を扱ふ思想史でも同樣、要は著作者の履歴(per­son­al his­to­ry=個人史)を據り所にする時系列順の整序で、his­to­ryに履歴とも譯される語義があるからには、それも歴史主義流ではある。日本語で歴史と云ふ言葉は規模でも時間の長さでも個々人を超えた集團や時代についてでないと用ゐられにくいのに對して一個人の生涯に限局してはゐるが、言ふなれば縮小版の歴史主義があるわけだ。もしくは歴史主義の斷片化。「塊のままの歴史主義は、もはや手にあまるし、かえってウサン臭い。」「そこで、歴史主義にも、砕いて細かく(流行の言葉でいえば脱構築)という手法が、効用を発揮することになる榎並重行・三橋俊明流行通行止め 現代思想メッタ打ち!』025、JICC出版局、一九八七年十月、p.35)。そして往年の歴史學において時代區分論が論議を喚んだやうに、斯かる傳記上に設定される時期區分(劃期(エポック))も問題含みなのであるが​…​…歴史思想を論じる本書にそのことを氣にした形跡は見當らない。

著者は觸れないが、總題を『ニーチェの歴史思想』と名づけるのなら夙に『ニイチェの歴史哲學』(ヴォルフガング​・・シュレーゲル/河合昇譯、愛宕書房、一九四二年八月)といった先行の類書もあり、歴史理論の方面で著名なヘイドン​・ホワイト著でも「ニーチェ――隠喩の様式における歴史の詩的弁護」と題する一章を割いてゐて岩崎稔監譯『メタヒストリー 一九世紀ヨーロッパにおける歴史的想像力作品社、二〇一七年十月、第9章)、それにも拘らず、ニーチェにおける思想群を歴史論に焦點(ピント)を合はせて主題化することは從來滿足に成し遂げられてこなかったのであり――でないと本書は剩語贅説、車輪の再發明なるのみ――、これまで歴史思想論の敷衍を阻んできた問題點を割り出しておかねば難所(アポリア)堂々巡りに陷りかねまい。本書卷頭の「文 歴史思想家としてのニーチェ」は「だが、ニーチェほど歴史に強い関心を寄せた哲学者も多くはない、といっても過言ではない。書物で言えば、歴史に関する書としては目立ちにくいかもしれないが、処女作『悲劇の誕生』からして歴史物語の書であると断言してよいし、晩年の『道徳の系譜学』もまた何らかの意味で歴史関係の書物であることは題名からして明らかである(p.6)云々と例を擧げるが、一往は尤もらしい言ひ分でも、そんな明斷できるほど瞭然たるものだったなら何でそれらが以前は不十分にしか歴史といふ觀點から論じられてこなかったのか、何がそれらの思想を「こうした歴史意識ないし歴史精神(p.6)として認識する障礙になってゐたのか、先行研究の低迷といふ事實(これも過去の史實ならずや)に對する釋明が伴はなくては信用し切れない。たとひそれら歴史意識の徴證が「テクスト的な現実(蓮實重彦『ボヴァリー夫人論』筑摩書房、二〇一四年六月)の内に檢出されようが、同じくテクスト上に書かれてあるもっと優勢な言動の陰になって目立たないといふ現状を覆せぬ限り、實效力が無い。「歴史思想家としてのニーチェ」像は、殘念だが、未だに顯勢化せざる潛勢態(ポテンシャル)としてある――ニーチェの歴史思想』を名乘る出版によりやうやく幾らか現働態(アクチュアル)(希ener­geia/羅āc­tuā­li­tās/獨Wirk­lich­keit)になりかけたにしても。希望を現實と思ひ込まぬためには、あり得べきことと現にあることは分別しなくては、特に歴史においては、蓋然的な可能性はあったが實現してない潛勢力を既に成れる結果と突き合はせなくては(Cf.アイザイア・バーリン生松敬三歴史の必然性、『自由論』みすず書房、一九七一年十二月→新装版一九七九年七月p.216。そこにこそ歴史の意味(=感覺(センス))は宿り、それでこそ歴史的現實がまさに「他ならぬこれ」であった所以、それ以外でもあり得ながらどうしてさうならずにかうなったかが、掴めように。

ニーチェの思想と言えば、歴史と関係付けられることは比較的少ないかもしれない。[…]事実、ニーチェが正面から歴史を論じた書物は『反時代的考察』第二篇生に対する歴史の利と害についてくらいであろう(p.6)とは本書でも認める所。しかも「利害について」*3と併稱しながら利點にもまして弊害を述べ立てた歴史主義批判として名高い。この一八七四年初刊の書に刻みつけられた反歴史主義者の像を「歴史思想家としてのニーチェ(序文タイトル)に反轉させようとするならば、まづは『人間的、あまりに人間的』初卷(一八七八年刊)以降に目立つ歴史に關する肯定的發言を見直すべきことが必須、それにはニーチェが側面からでも歴史に論及した文言の總捲りが期待されるけれど(眞っ當にこの基本工程からこなしたニーチェ論が管見に入らない)、そこは期待外れでも、初期から晩期まで「歴史に関するニーチェの思想は、基本的立場の変遷につれてさまざまに変化してゆく」と見て「本書の意図はこの思想的変遷を――変遷の内在的理由ともども――追跡することにある(p.9)と課題設定するのは頷ける。「[…]それはまた歴史認識の問題性の深化の過程と形容してよいものである(p.9)。深化か表面化か、如何なる問題化かはさておき、「生に對する歴史の利害」の著者が考へを改めたとしなければ歴史思想家と見做すのは難しい以上、ニーチェ思想には時期による變化が、つまり「歴史」がある、と言ひ直してもよいわけ(歴史思想にも歴史がある​……)。但し「内在的」と限定した理由はいかがなものか、頭から内因性の遷移と決めて掛からずとも、變轉が外在的偶因による動搖である場合だってあらうものの、恐らく内面化しないと思想論や哲學研究にならぬと思はれてゐるのだらう。思考の自立を夢見て外發的影響から逃れたがるのは哲學者らしい振舞ひだが、外部環境拔きに自足させる考察は内部論理を捏ねくり回す手に頼りがちで、歴史が相手だと、前成説風に内發因子を入れ籠めて初期變動を後年の到達點の萌芽・胚胎・豫兆と解したり、變化に一定傾向の増大を假定して發展・發達・成長等と稱したり、變はったと云ふのに一貫する連續性ばかりに見入って變化の變化たる所以を見損なふといふ奇妙な逆理に嵌まりやすい。これまた歴史を論ずる者は心すべき所。

同じくこの第二反時代的考察への引照から始めたのが歴史認識論をめぐる拙文「アナクロニズム」で、二〇一〇年一月に書き上げて自サイト【書庫】に公開してゐたが、本書を讀了後その註疏*3に攝取し、「第二章 問題群としての生に対する歴史の利と害について」p.91を參照するくだりを加筆した。と言っても所引の譯文を參考にしたに留まり、須藤著の論旨には及ばなかった。

二、九年ぶりに再讀して 

二〇二一年六月になって再讀の機があった。木田元『マッハとニーチェ 世紀転換期思想史新書館、二〇〇二年→〈講談社学術文庫〉、二〇一四年)のやうに思想の近似が語られてきた兩者の、影響なのか獨立發生なのか判然としない關係について詳細を知りたくなり、それには本書「第五章 歴史精神とは何か――ニーチェとマッハ」と「(補論3) ニーチェの経済思想――アヴェナリウス―マッハによるあとからの影響」とが役に立ちさうだからだったが、つまり何が書いてあったかは最早記憶に無かったので讀み直さざるを得なかったのだ。再び頭から一册全部讀過したら他にも得る所があって、既に朧氣になってゐた初讀時の印象と違った。こちらがその後ニーチェ讀解を進めてゐたからだらうか。同じ書物でも讀む者次第で讀み取ることは變はる、時としてその讀者が同一人物であってさへ。或いは、「M・ゾンマーのいうあとからの影響 nach­träg­licher Ein­fluß(「補論3」p.371)​…​…「すなわち自分の思考のうちですでに獲得されていたか獲得間際になっていた洞察を加速し、確証し、表現手段の不備を是正するという触媒的機能(強調―須藤)(p.372)が作用したのかしらん。

二度目に讀んだ成果は、重ねて補筆した拙文「アナクロニズム」の第八節第十節註疏*9に攝り入れた。しかし勿論、そこに盛り込めなかったこともある。ひとは書く以上に讀むのだから。讀んで腹膨るる思ひとなれば一端なりと漏らしたくなって、喋ったり書いたりすることもあらうもの。時にそれを書評と呼ぶ。

本書への書評で、著者の門下であるらしい竹内綱史は「その白眉は何と言っても第4章と第6章であろう「《書評》​須藤訓任​『ニーチェの歴史思想――物語・発生史・系譜学』」『メタフュシカ』第43p.119)と判定する。公刊後に審査受けた博士論文要旨にも「その主眼点は、後期ニーチェを取り扱った第四章から第六章において論究された、伝統同時代の対自化という意味での歴史方法論にあるp.4と見える。いま、須藤訓任時代の根源――ニーチェの視圏より日本現象学会編『現象学年報17、二〇〇一年十一月)前書き(p.109)を讀むに、二〇〇〇年十一月日本現象学会第二十二回研究大會)パネル・セッション「歴史と根源」における發表原稿の再録である同文全二節のうち、「1.『道徳の系譜』」と「2.『ワーグナーの場合』」とを「それぞれ分量を数倍に拡大した形で、詳論しなお」したのが第四章・第六章の初出に當る由で、また、第六章初出では註に第四章初出を參照して「本稿は当初より同論文と一体をなす、その姉妹編として構想されている(「同時代の根源――ニーチェ『ワーグナーの場合』を読む――大谷大学哲学会『哲學論集』第47號、二〇〇一年三月、p.54​→本書では削除)との附言があり、特に評價されるこの二つの章は元もと(ひと)(つら)なのであった。

實際、本書所收のうち本書以外の所で讀んだことあるのは「第四章 認識者の系譜学――時代という名の自己」だけだったが、初出の『思想』二〇〇〇年十二月號「ニーチェ」特輯(岩波書店)の中では最も我が關心に訴へて面白かったものだ。第五章ともども『道徳の系譜學』が論じられてゐる。第四章初出で「機会を改めて論じることにしたい(→本書p.166)とお預けにされた『ヴァーグナーの場合』についても、本書「第六章 同時代の根源――『ヴァーグナーの場合』を読む」で讀むを得、「現代」批判として重視する所以は理解できた。尤も「なぜ、ヴァーグナーなのか」(第六章「三 楽士拡大鏡――哲学者やましい良心」p.242)になると、果たしてそこまで特筆して時代の代表者扱ひせねばならぬのか、ワーグナー樂劇に興味薄く碌に聽いたこともない身では同感しかねるのだが。リヒャルト・ワーグナー拔きの十九世紀史なぞ歿後幾らも書かれてゐようが、同時代人にとってはまた違ったとかか? 須藤については「著者の並々ならぬ音楽愛好ぶりがうかがわれ」と前著『ニーチェ 〈永劫回帰〉という迷宮(〈講談社選書メチエ〉一九九九年九月)への書評大河内了義、大谷学会『大谷學報』第七十八卷第四號、二〇〇〇年二月、p.20)にあったから、クラシック音樂趣味からして當然とされたのだったらその趣味無き者には理解を得られぬのもまた理の當然であらう。聽く以外に文筆家としての論著を讀まうにも、藝術作品でないと受けが惡いのか、邦書『ワーグナー著作集第三文明社、一九九〇〜九八年)は全五卷豫定が1​・3​・5卷を「第一期」として出した切り杜絶、未刊分二册の編譯論文集は十數年後に他社から出て補はれる始末にて(三光長治監譯『友人たちへの伝言』『ベートーヴェン』法政大学出版局、二〇一二年一月/二〇一八年八月)、讀者に縁遠いのは日本語圈だけでなく、本國でも理論面の著作については「専門の批評家でさえ無知であることが多かった。」「無理解や無関心と無縁でない(三光長治「あとがきに代えて――書斎人・ワーグナー――」『友人たちへの伝言』p.462・463)とのこと。讀めば青年ニーチェに與へた「思想的・理論的影響」に氣づかされるやうだが高橋順一響きと思考のあいだ リヒャルト・ヴァーグナーと十九世紀近代』Ⅲ、青弓社、一九九六年十二月、p.74、思想史上におけるそれら論考群と中年ニーチェのワーグナー批判との對質はなほ審らかでない――例へば、綜合藝術論「未来の芸術作品」初章に「だが、誤謬は認識の父である藤野一夫譯、『友人たちへの伝言』p.64。Cf.高橋『響きと思考のあいだp.98と言ふ邊りを結び目にしてヘーゲル左派・フォイエルバッハからワーグナーを經てニーチェにまで及ぶ哲學史の伏流が考へられさうなものだが――。さうした障壁を乘り越えてワーグナー論の意義に説得力を持たせる程ではなかった第六章に比べると、やはり第四章が(すぐ)れると見た。

眼目となる第四章を初出と校合してみたら、ニーチェ著の書名『悦ばしき知識』『道徳の系譜』『ワーグナーの場合』を『愉快な学』『道徳の系譜学』『ヴァーグナーの場合』に改めたり、傍點(胡麻ルビ)による強調を太字ゴシック體に變へたり、通例二字分竝べる三點リーダー「…​…」を奇妙にも「…」一箇に約めたり、その他小さな調整はあっても、「ほぼ発表段階のままのもの(「あとがき」p.419)に該當すると言ってよい。細かく見れば、初出での誤植が訂正された箇所(「流れに掉さし」→​p.176六行目「さおさし」、手偏は木偏に)、まだ見逃されたまま殘ってゐる箇所(p.188後から四行目「有しているだろか」の脱字)、新たに増えた誤植(p.169九行目「場当たり的でしかな」の衍字)、それぞれある。ただ、論旨に變はりはないやうでも微妙に書き換へられた措辭を一つ指摘しておく。

本書第四章第二節によれば、一八八七年刊『道徳の系譜學』の第一論文「善と惡よい(優良)とわるい(劣惡)„Gut und Böse“, „Gut und Schlecht“.にて「ニーチェは[…]キリスト教道徳の支配圏から抜け出」て「それとは異なった、それに先立つ価値判断なるものを提示した」のだが、そこに問題が生じると須藤は言ふ。

[…]それも結局は、現在のなんらかの道徳の投影でないという保証はどこにあるのか。もしその保証がないとしたら、[…]

第四章「二 起源現在の癒着」p.177

ここは、その保證が次節「三 語源学の物証」で明かされるのに備へての伏線で、初出(p.83)では「[…]投影でしかないという懸念はどのようにしたら払拭できるのか、もし払拭できないとしたら」となってゐた。この改稿はまるで、懸念は拂拭し切れないけれど保證ならできると言ふかのやうだ。保證する方が確度の増す分だけ大變さうなのに? 保證があってもまだ何か危疑の念が殘るのか? 内心の搖らぎを無理に強い言葉で塗り潰してないか? むしろ根深い不信感こそ批判力の證しだったのでは? …​…かうして讀み合はせるとこの部分は、正に、表層の本文の下に抹消した異文が覆はれてゐるパリンプセスト(重ね書き羊皮紙)なのだ(この隱喩、ニーチェでは「生に對する歴史の利害について」に用例あり)。――文意に大差は無い、が、これは後に響いてくる所である。「いったいニーチェは現在の道徳を相対化する視点を手に入れることができるのだろうか(第四章二p.177)

校正癖の然らしむる所、瑣末な言句に拘泥し過ぎかも知れない。しかしそれは本書の著者の手法でもある。竹内綱史が評して言ふには、「特徴的なのは、ニーチェの文章や表現から読み取れる(一見些細な)違和感に、徹底的にこだわる読解であろう。普通なら読み飛ばしてしまうような表現から、その著作全体、さらにはニーチェ哲学全体の理解を大きく変えてしまうような読解が導き出されるのだ「《書評》​須藤訓任​『ニーチェの歴史思想――物語・発生史・系譜学』」p.121)。顰みに傚ったわけではないが、また一點突破からの全面展開に成功するとも限らないが、もとより文獻學的(phil­o­log­i­cal)とも呼べる言葉ロゴスへのフィリアは好む所だ。著者も曾て、ニーチェの解釋論を考察する前振りでひと頻り文獻學者としてのニーチェを強調してゐたことがある。

要するに、歴史や世界事象に立ち向かう自身の知的営みが文献学に比せられる精密な「読み」の方法に基づいているばかりでなく、その方法による探求の成果としての彼の著作もまた、辛苦をきわめたドイツ語彫琢の結果、言葉の語間に織り込まれた襞のいちいちをのびひろげられないことには十分な理解の不可能な、その意味でまさに文献学の対象とならざるをえないような言語作品となっている、というのである。

須藤訓任習俗の倫理について――ニーチェの「遠近法主義」の前景と背景――『メタフュシカ』第36號二〇〇五年十二月、p.2

右は本書「第三章 思考の発生史習俗の倫理よきヨーロッパ人」に吸收された初出習俗の倫理について――ニーチェの「遠近法主義」の前景と背景――(「あとがき」p.420に示された初出書誌は不正確で、題名から「習俗の倫理」を圍む鉤括弧と「について」とが脱落)からの引用であり、最初の節「〈レントーの術としての文献学〉」にある一段だが、本書では大幅に削除されてしまった不採用箇所なので初出に遡らないと讀めぬのが惜しい。本書第三章「三 習俗の倫理」は「あとがき」が「諸論文の初出」について言ふ「一部分だけが利用されているもの(p.419)に當るわけだ。文獻學に關する切り捨てられた部分は、第三章とは別に序文にでも組み込んで置けば本書全體の讀解法を豫告するていとなったらうに。先例として、既に高橋允昭ニーチェの解釈」はその論題に「ニーチェが解釈ということをどう考えていたか」と「ニーチェをどう解釈するか」と云ふ主客兼用な「二重の意味(『デリダの思想圏世界書院、一九八九年七月、p.182)を併せ持たせ、ニーチェによる解釋論をニーチェ自身に對する讀解に適用する「といった試みがこれまでしばしば行なわれてきた(仝p.189)と述べてゐたけれども、二三ならず類例がある口振りなのに終始ベルナール​・ポートラ(本書「(補論4)ヘーゲルとニーチェ――歴史をめぐって」一p.404にても言及はあり)の紹介に掛かり切りで爾餘の例は出て來ない。須藤も省いたが、それら先行文獻の重なりを整理する手間だけでも立派に一仕事となる筈――前人に倣ふ以上の新味は出せなかったとしても。研究史は、或る種の讀者の系譜でもあって、その一員に列なる自身を省みる鏡となる。原典のみならずその解釋や註釋や飜譯や各種異文(ヴァリアント)(=變異)等、本文(テクスト)を圍繞する(パラ)テクストやメタテクストの類ひをも突き合はせつつ批判してこそ文獻學らしい讀み方になるといふもの。

三、再三再四讀み込む 

さて再讀して、なかなか面白かったのに何かもやもやする。通讀後も更に讀み返すうちに、どこがをかしいのか指し示せるやうな氣がしてきた。ここからやうやく批評(=批判)に入れる。

須藤著は第四章第三節で『道徳の系譜學』第一論文末に着眼してゐる。そこで珍しく註を附けたニーチェは「どこかの大学の哲学部が一連の懸賞論文を募集」することを願ひ、「次のような問いを提案したい。その問いは、文献学者や歴史家の注目だけでなく、本来の専門的職業的哲学者の注目も大いに集めてしかるべきものである」と言ふ――即ち、「言語学、なかんずく、語源探求は、道徳的概念の発展史に対し、どのような示唆を与えるか(p.184所引)。須藤の見る所、「こう提案するからには、『系譜学』における自分の語源詮索だけで充分だとも、またそれが最終的結論となるのだとも、ニーチェ自身決して思っていなかったのであろうが、ここに読み取られる口調は、まったく真摯なもの、といってよい(p.184)。ニーチェの語源論そのものにはなほ補訂すべき不備不足あらうと、と讓歩する代りに、「ニーチェのそうした謙虚な学的姿勢(p.184)だけは認めさせようとする論法である(そのためか、大眞面目に學術ぶった樣式(スタイル)が却ってパロディーかと思はせる效果を擧げてゐることは默過される――第一論文でも第十四節なぞ見るからに學術論文らしからぬ茶番劇風な戲文體だのに)。

いずれにしても、こうした語源学の実践によってこそ、「系譜学」ないし「発生史」を、「現在」の価値観の「投影」から護り、そのことを通して、「現在」とは異質な歴史的過去を、したがって、歴史の質的な非連続性を、「学的」に捉える可能性が切り開かれる、とニーチェは考えた。語源学はいわば物証であって、そこに「現在」からの「投影」がつけこむ隙はほとんどないはずだからである。

第四章「三 語源学の物証」p.185

……「ほとんど」? 「はず」だって? 最初は看過ごしてゐたが、これはチト變である。「物証」といふ譬喩で主觀を超えた確固たる客觀性(モノ性、Ob­jek­ti­vi­tät)を標榜するにも拘らず、斷定し切れずに留保せざるを得ない何かがある樣子。あたかも解釋を交へぬ原典の即物性を思はせる表現を打ち出しておきながら、いざ確言するには言葉を濁して躊躇を見せただけまだ幾らか正直さはあるにしても、しかし何がそこで引っ掛かったのかは、ぼかされたまま追究されない。ここ以降「物証」なる語は重出するも、隱喩であるよりむしろ濫喩カタクレーズ(Cf.佐藤信夫「記号の修辞性」『レトリックの消息』白水社、一九八七年二月、pp.210-​213.)と言ふか死喩デッド・メタファーと云ふか、語感に頼って無反省に多用され、自分がその言葉をどういふ意味で用ゐてゐるのかを分析した説明が試みられないまま無自覺なキイワードになったので、ささやかな留保の氣づきは埋もれて顧みられなくされる。哲學流にお硬く言へば、思考作業上の「操作的概念」は現に用語となってゐても「主題的概念」として捉へ返されないことがしばしばあるわけ(オイゲン・フィンク/新田義弘「フッサールの現象学における操作的概念」新田義弘・小川侃『現象学の根本問題』〈現代哲学の根本問題〉晃洋書房、一九七八年十一月)。それへの解法が徴候的讀解とも呼ばれる。

この微かな綻びを意識しつつ讀み返すと、これに照應する論理上の弱點が見つかる。次の『道徳の系譜』第二論文「〈負い目〉、〈良心の疚しさ〉、およびその類のことども(信太正三譯の題)を論じた第五章のうち「四 結語」に「物証」の反復があり、そこでは「第四章で述べたことと本章の論旨とを関連づけ」るために前章を要約してゐる。曰く「第四章では、キリスト教道徳という名の伝統を血肉化した認識者であるニーチェが、いかにしてその伝統から距離をとり相対化して、批判の可能性を確保できるのかが問題であった。それに対する答えは、いかに自分の実感や思考では相対化したつもりであっても、それの成功は保証されず、そのためには、相対化を立証する確かな物証が必要となり、という語の語源学がその物証となるのであった。その物証を通してニーチェは[…]ユダヤ・キリスト教的な道徳的価値観以前の[…]貴族道徳の存在を突き止めることができ、[…]キリスト教を相対化する立脚点を築いたのであった」云々(pp.218-​219.)。問題視すべきツッコミどころはその直後に現れる。

むろんそのためには、ニーチェ自身のキリスト教道徳に対するかねて来の批判的スタンスがその前提となることはいうまでもない。そういうスタンスがあったからこそ、語源学を物証として的確に感知することができたのだ。さもなければ、物証はそのまま見過ごされるだけに終わっただろう。

第五章「四 結語」p.219

「いうまでもない」って……だから前第四章では言ってなかったと? だがここへ來て斷わりを入れたのも、自明視した儘では片付かない懸念があるからでは? 注視しよう、今や「物証」と言ふレトリックが頻用の果てに破綻を來してゐるのだ。「かねて来の批判的スタンス​…​…普通これは、豫斷とか先入見とか成心とか見込み搜査とか論點先取とか呼ぶものでないか? 何なら科學哲學風に「觀察の理論負荷性(N・R・ハンソン)とでも言ふ方がお好みか? 所詮は解釋學的循環を脱せないとでも? いや、しかし、語源が物證であるとは、元來さういふ現在に屬した偏見からの投影を免れたことの(いひ)だったはずでは? 「現在のなんらかの道徳の投影でないという保証(第四章二p.177)として語源が提出されたと云ふのに、それでもなほ「それも結局は、現在のなんらかの道徳の投影でしかないという懸念」は「払拭できない前引第四章初出p.83)のだらうか? 或いはここを言ひ拔けできるとしたら、語源に例證を見出せたのは豫てよりキリスト教に抗する下心を懷いてゐたニーチェならではの批判精神のお蔭であってもひとたび發見された後は誰が審査しようと物的證據みたいな動かぬ確實性を有するのだ――とか何とか?

ところが、そもそもその語源論が當てにならないのだったとしたら​…​…。秋山英夫譯『道徳の系譜解説」には「いろいろ誤りを指摘されながらも、文献学者として語源を駆使した研究方法も、さまざまな実りをもたらしており『ニーチェ全集 第三巻(第期)白水社、一九八三年三月、p.327​→秋山英夫ニーチェ道徳の系譜」『回顧の季節朝日出版社、一九八九年十二月、p.161)と見え、内實は不明にしたまま(「いろいろ」では判らぬ!)失敗を取り繕ふやうにしてニーチェ頌に仕立ててゐた。それに關しては須藤も無視し得なかったらしく、ひと言だけだが觸れてはゐた。

ニーチェの語源学が、百有余年後の二一世紀の学問水準からするなら、とても批判に耐ええないものだとしても、彼の、いかにも「認識者」としての自己規定にふさわしい「学的」論証の完備した形式性については、それとして認められなければならないだろう。少なくとも『系譜学』において、ニーチェは、語源学を通すことによってのみ、自己をも含めて「現在」を全面規定する歴史的「伝統」を相対化する視点を確保しえたのである。

第四章「三 語源学の物証」p.183

ニーチェによる善・惡の語源説は尤もらしく聞こえても謬説で、言語史的事實ではなかった――! 民間語源説ならぬ學者語源解の誤りがある​……? ここで須藤も輕く流してしまって、どこがどう誤謬なのかといふ肝腎の批判内容については「批判に耐ええないものだとしても」と假定法めかした箇所に註(7)を附してW・シュテークマイヤー著『ニーチェの「道徳の系譜學」』第五章第四〜六節S. 103-​105.)M・ブルゾッティ論文を擧げるのみ、それらドイツ語文獻に下駄を預けてしまひ自らは省みない。誤りだと承知してゐながら正しくはどうなのかを知らせない、眞實はどうでもいいと言はんばかりの態度は誤魔化しに見えてきてしまふ。他方、逆にそれらの批判など知らぬ氣に(無知なのか無視なのか)、二〇〇二年初版以來世界に名を馳せる分析哲學流ニーチェ解釋の書が「ニーチェの用いる語源学的な証拠をさらに支持する形で確証したものとしてM・ミゴッティ論文一本だけ參照して澄ましてゐる(ブライアン・ライター/大戸雄真譯『ニーチェの道徳哲学と自然主義 『道徳の系譜学』を読み解く春秋社、二〇二二年一月、第5章原注(12​p.514、cf.第6章原注(7)pp.517-​518.といふ現状では、いづれが是か非かはっきり突き合はせるべきだらう。それに、正しい知識を求めるのみならず、誤りについてもニーチェがどのやうにして過誤に陷ったのかが知りたくなる。ニーチェを擁護するのでなく、批判的にその誤りに學ぶために。前車覆轍。アリストテレス『ニコマコス倫理學』第七卷第十四章1154a22以下)に曰く「われわれは、しかしながら、ことがらの真を語るのみならず、また誤りの原因をも語らなくてはならない。というのは、そうすることが論議の可信性に寄与するからである。つまり、真ならぬことがらが何ゆえ真と見られているかということが首肯されうるとき、ことがらの真はますますその可信性を増大する高田三郎『ニコマコス倫理学 (下)』〈岩波文庫〉一九七三年二月、p.61​→二〇〇九年十二月第四十九刷改版)。大體、形式が整ってゐると認められれば内容・實質は問はないと言ふのは、論理だけで體系化する思辨哲學流の建築法であって、素材から吟味する歴史(學)的な考證のやり方ではない(Cf. E・H・カー/清水幾太郎譯『歴史とは何か』〈岩波新書〉、一九六二年、pp.7-8.。歴史的思考を主題とする論がそれでは濟まされまい。哲學の價値は全體の構築にありと信ずるあまり解體後も再利用できる建築資材の物質的價値が見失はれがちなこと、これをニーチェは「哲学者たちの誤謬『人間的、あまりに人間的 「第一部 さまざまな意見と箴言」二〇一*1前掲ちくま学芸文庫版p.150)と呼んだ。

糾謬批正、正誤眞僞の闡明は學問研究の基本のはず――但し哲學者は除いて、とでも? 實證的(po­si­tiv=肯定的)精神とはその名に反して誤謬に對する否定的(ネガティヴ)な批判に長けるものだし、「眞實らしくないものの代りにより眞實らしいものdas Wahr­schein­lichere=よりありさうなもの、一層見込みのあること]を置き、場合によっては或る誤謬の代りに別のを置く」(『道徳の系譜學』「序言」第四節*1前掲ちくま学芸文庫版p.364相當)とニーチェ自身が(のたま)ったとて、眞實らしい誤謬の代りに眞實らしからぬ誤謬を置くことまで良しとしたわけではあるまいに――絶対的ではない真理」と雖も「反駁されたものは、排除されているのだ!!(本書補論3第二部註(37)p.394所引NF-​1880, 6​[310]――。ニーチェが自説に眞實らしさ(Wahr­schein­lich­keit=蓋然性)を誤認できたのは何でかと問ひを詰めなくては。或いは、「事実というものはない、あるのは解釈だけだ」といふ「遠近法主義」を「実証主義に反対して」唱へた所で(補論3第二部「二 枯葉としての理論――マッハ」p.380所引NF-​1886, 7​[60]。原佑譯『権力への意志 下 ニーチェ全集13四八一〈ちくま学芸文庫〉一九九三年十二月、p.27相當)、ならばその語源についてニーチェが「事實」として構成した解釋には解釋者のいかなる欲求や衝動がいかに働いてゐたのかを讀み取って、解釋を解釋してゆく作業が望まれよう。少なくとも、いきなり持ち出した「かねて来の批判的スタンス」に還元した切りではまだまだ解釋不全であらう。

どうもこのニーチェ研究者には、自身を認識者として律する學者肌の氣風エートスが薄めなのかも知れない(「研究倫理」とか云ふ現代用語とはまた別だ)。「あたう限り誤謬を排し、飽くことなく真理を追究する存在――それこそ、認識者すなわち科学者でなければ、何であろう(第四章三p.186)。さう、眞實の認識を迫って責め立ててくる「知的良心『人間的、あまりに人間的 一〇九『悦ばしき知識』『偶像の黄昏』「或る反時代的人間の遊撃」一八に殉じ、自己を犠牲にしてさへも貫徹する「私は欺くことを欲しない、私自身をも(増補版『悦ばしき知識』第五書三四四*1前掲ちくま学芸文庫版p.371相當。Cf.反時代的考察第三篇 教育者としてのショーペンハウアー*1前掲ちくま学芸文庫版p.247生成の無垢』八三七・*1前掲書p.430​≒NF-​1885, 39​[13]NF-​1885, 40​[20]39​[4]40​[43]=『權力への意志二七八と云ふ「誠實性」(Wahr­haf­tig­keit、類義でEhr­lich­keit, Red­lich­keit, Recht­schaf­fen­heitもニーチェは併用)。しかるに、その「真理への意志」の系譜自體が問ひ質され、「『系譜学』第三論文のクライマックスをなす第二三節から第二七節はその問題に取り組む(p.186)――だが、それは先のこと。その前段階であるこの第一論文ではまづ學者らしく證據固めをする建前だったのだから、前提となる立證がぐらつくと第三論文に達する前に崩れてしまふ。本書第四章「四 結語にかえて」は『道徳の系譜學』を構成する「三論文間相互の関係(p.189)をはっきりさせようとする。そこで須藤が言ふには、『系譜學』中における「仮説(Hy­po­th[e]­se, Hy­po­the­sen­we­sen」といふ語は第二論文での疚しい良心發生説の自稱に用ゐられはしても「第一論文での自分の理論に冠せられることはなかったものである。第一論文の理論は、語源学によって証拠固めがなされているはずだからである。仮説の語のこうした使い分けは、あきらかに理論としての確実性の多寡に応じていよう(p.191)とのこと(ここでも言葉が證據となるのだ)。「第二論文の理論もその[第一論文の]議論を土台とするならば、その限りにおいて、彼ら[=ニーチェの批判したパウル・レーやイギリス人達]の理論よりは、より蓋然性の高いものとして認められてよいはずだから(p.191)、「第一論文の固めた足場なしには、第二論文は議論が学的に展開しえない結構となっている(p.192)。第一・第二論文と違ひ「近代以降をテーマとする局面の多い第三論文は、先立つ二論文に見られるような、時代認識の方法論的問題を伏在させていないと思われるので、ここでは除外する」とて同時代批判を扱ふ第六章に先送りにされたが(p.190)、もし第一論文での歴史的實證無しに第三論文を展開できるのなら、第一論文は不要で第三論文だけで事足りよう。であればなぜ先づ第一論文があったのか、再考せずばなるまい。つまり、歴史探究を現代の批判に如何に接續できるのか――或いは、できないのか――が問題となる。

繋がり具合を問ふからには、「価値の批判系譜学(ないし発生史)が区別され(第四章「一 『道徳の系譜学』の系譜学」p.172)た上で「相互の混同は厳しく戒められながらも――手を取り合い、協調関係に入り直すことができるようになる(第四章三p.182)との言も、過去への遡行が現状への對抗から峻別されたのにさうすんなり縒りを戻せるものか、危ぶまれる。事實、歴史研究それ自體は現代批判へ結びつかない仕事などざらにあり、「実際、なんらかの事象の発生史を解明したところで、それの――とくに現在有する――価値批判には直結するとは考えられないだろう(p.172)。折角見事に「起源現在の癒着(第四章二)を斷ち切ったこの分離論(第四章一・二pp.172-​181、第五章「一 問題の所在」pp.198-​203、及び「序文」p.13)から、豫定調和のやうに統合されて圓環が閉ぢられると、釋然としない。そんな樂觀論(オプティミズム)でいいのかしらん、ニーチェにしてはニヒルでないやうな​……?

發生史(「成立史」とも譯される、Ent­ste­hungs­ge­schich­te)と批判との關係如何は、須藤以外の幾つかのニーチェ論でも「発生的誤謬推理(谷山弘太道徳の批判とは何か?――ニーチェ『道徳の系譜』第一論文における道徳の記述と批判の関係性に関する考察――『メタフュシカ』第43號、二〇一二年十二月、p.24・pp.29-​30.発生論的誤謬(ブライアン・ライター『ニーチェの道徳哲学と自然主義』前掲第5章p.249以下。バーナード・レジンスター/岡村俊史・竹内綱史・新名隆志譯『生の肯定 ニーチェによるニヒリズムの克服』〈叢書・ウニベルシタス法政大学出版局、二〇二〇年三月、第四章第五節pp.336-​337.の問題として論點になってゐ、「発生論的虚偽大淵和夫・上原隆執筆、思想の科学研究会『新版 哲学・論理用語辞典』三一書房、一九九五年四月、p.316)とも譯されるge­net­ic fal­l­acy(M・R・コーエンとE・ナーゲル『論理と科學的方法への入門』ⅩⅨ3節、一九三四年)に關しては科學哲學に始まり多々議論されてきた所、それらと摺り合はせられるかどうかも要再審だらう。間に變化を挾む限り過去は現在とは別物なのだから出自や發端といった原態を根據に現況の是非を判じるのは發生論的誤謬であり、その點を豫てニーチェが自戒してゐたことは遺稿斷篇三つ(第四章二p.181及び第五章一p.202所引NF-​1884, 27​[5]p.181及びp.201所引NF-​1885, 2​[131]原佑譯『権力への意志 上 ニーチェ全集12』「付録 計画と草案ムザリオン版」中「 一八八六年の計画」2の「第二書によせて」、*1前掲ちくま学芸文庫版p.466相當=『生成の無垢中「一八八六年の計画」八七五・*1前掲書p.456相當。p.201所引NF-​1885, 2​[189]『權力への意志』二五四第一段・同前ちくま学芸文庫版p.259相當。引用はしないが他にp.201NF-​1884, 27​[72]1885, 1​[53]も參照)や『悦ばしき知識』第五書三四五末段第四章三p.185所引。引用外の前段にて「發生史」に對し「批判」は別物との附言もあり)を本書が引示した通りで(例示にNF-​1882, 4​[90]1883, 16​[33]1884, 26​[161]『善惡の彼岸』も加へられよう)、「起源真理あるいは誤謬がそれ自体としては、現在の価値査定の基準とはなりえない(p.185)と言ひ換へられるわけだが、しかし他方で、『道徳の系譜學』第一論文の論法について従来のキリスト教道徳以前にも別の道徳的価値評価が存在しえたことを立証すること」により「現在に支配的な道徳以外の道徳が可能であったこと、したがって、将来的に、それが忘却の眠りから覚めて再活性化されることがありうること、さらには、もしかしたら、これまでに存在したもの以外の道徳も可能であるかもしれないことが、展望されてくるのだp.182。Cf.第五章「三 偶然としての歴史」p.216)と説くやうでは、その史實を當時可能にした條件拔きの短絡、過去がかうだったからやっぱり現在や未來も相變はらずだらうと推論する發生論的誤謬の論理その儘になってしまふ次第で、分裂して見える。在りし昔の事績を「ともかくかつてein­mal=一度]現われたことがあり、従ってまた可能なことなのであるギリシア人の悲劇時代における哲学序言、推定一八七四年稿、塩屋竹男譯『悲劇の誕生 ニーチェ全集2』〈ちくま学芸文庫〉一九九三年十一月、p.350。Cf. NF-​1873, 29​[29][108]と評價するやうな回歸願望に憑かれた想念は、既に「記念碑的歴史」の難點としてピュタゴラス派流の星廻りの迷信同然だと自ら批判し去った所「生に對する歴史の利害について」第二節第三〜四段落、『反時代的考察*1前掲ちくま学芸文庫版pp.138-​139.)、歴史事象の獨異性・一回性を損なふことなく同等のまま反復する可能性なんて「天文学者が再び占星師になる」よりもありさうにないことと否定してゐたのに、そのニーチェが、依然過ちを繰り返してゐるとでも言ふのか(萬が一歴史が繰り返すとしても二度目は茶番(ファルス)だらう)。

このことは、ニーチェ自身の思想的矛盾ないし哲学的退歩として解されるべきなのであろうか。それとも、彼は系譜学によるこの批判の企ての正当性を証しすることができるだろうか(第五章一p.201)――ニーチェの思考はそんなにも首尾一貫しないかしらん(はたまた未だに誤った考へ方を變へられないでゐるといふ惡い意味での初志貫徹だとでも?)​…​…むしろ問題を成す對立を和解せしめるよりは尖鋭にする方がニーチェらしい​……? どうもすっきり氷解しない。『ニーチェ​矛盾の哲学(W​・ミュラー ラウター、秋山英夫・木戸三良譯、以文社、一九八三年二月。「矛盾」と譯された原語Ge­gen­sät­ze=對立)とか呟きたくなる所で、當人も處女作の本文冒頭から「[…]たえず争いつづけ、わずかに周期的に仲直りVer­söh­nung=和解、宥和、贖ひ(キリスト教の)]する雌雄の両性(「第一章 物語としての歴史――『悲劇の誕生』の思想圏」一p.21​・二p.32所引、『悲劇の誕生』前掲ちくま学芸文庫版p.31相當。傍線はいま附した)と夫婦和合についてすら敵對關係を常則となすぐらゐ、「苦痛矛盾真の存在だ。快楽調和は仮象なのだ(『生成の無垢』八三・*1前掲ちくま学芸文庫版p.109=NF-​1870, 7​[165]とか「宥和Ver­söh­nungの陶然たる一瞬後には、再び對立に身を投じる」NF-​1883, 17​[40]とか云って諧調を亂すやうでは到底安穩と落ち着きさうにない。須藤とて曾てはニーチェに協調よりも緊迫感を看取して「ただし対立の一致とはいっても、[…]なんらかの形で調停されたり止揚させられたりするのではない。対立し相矛盾する性質はあくまで鋭く対立したままで、一個の存在のうちに凝縮する(「ニーチェの脱ユートピア――自然と科学――総編集・河上倫逸JUSTITIA *ユスティティア* 文化社会史からの超学際 比較法制研究所發行/ミネルヴァ書房發賣、一九九二年二月、pp.88-​89.――右は、須藤訓任「ニーチェの自然」『大谷學報』第七十卷第二號、一九九一年二月、p.7、の再説)等と釘を刺してゐたのだけれど、すっかり丸くなってしまったみたいで、本書で發生論的誤謬との對決が不徹底に見えるのは須藤の解釋が妥協に傾いただけなのかしらん?

それに、本書では「中期」ニーチェが掘り起こした太古(先史)の「習俗の倫理Sitt­lich­keit der Sit­te――氷上英廣譯「慣習道徳」は、ジョン・デューイではcus­tom­ar­y mo­ral­i­tyの譯語にて反省道徳が對語](『曙光』九​・一四​・一八​・三三、『悦ばしき知識』四三​・一四三​・一四九​・二九六、及び『道徳の系譜學』序文第四節​・第二論文第二節​・第三論文第九節)に關し「近代的道徳論からみれば、いかに許し難い誤謬のように思えようとも、一定の事実が、事実である(と信じられる)ことそのままで、同時に規範となるという、習俗の倫理とは、少し反省してみればわかるように、太古であるか近代であるかに関わりなく、人間の素朴な日常生活の大半を支配している原始的倫理である(第三章「三 習俗の倫理」p.139と述べた上で、それに對して「時代はいまや個性溢れる自由な個人の産出に向かう(べきだ)(Vgl. 2, 11 [130][≒前掲『生成の無垢』四三三])というのが、ニーチェによる時代動向の診断である(仝p.143)が、因習を打破する當のニーチェ自身「のうちにも一種の習俗の倫理が働いている。それというのも、過去における変化の事実が、将来も変化可能であるべきだという規範として機能しているからである(仝p.144)と見てゐたから、發生論的誤謬のみに留まらず、事實を規範に直結させる無分別な混同によって謂はゆる自然主義的誤謬」乃至「ヒュームの法則」違反(この呼び方は名實不相應でG・E・ムーア乃至D・ヒュームの原典の本義と違ふとの批判はさておき)の疑ひも起きよう。凡そ習俗とは一定不變を徳とするもの(『悦ばしき知識』二九六、それを、可變性までも習俗の一種と誇稱して齊一性(一樣性)原理よろしく大前提扱ひするとは、混亂させてくれる。無常は世の常、と言ふくらゐには矛盾語法だらう。類型として「ただ自ら變ずるwan­delt者のみ、私と同族ver­wandtであり續ける」と云ふニーチェの詩句『善惡の彼岸』卷末「高峰より――後歌――」、*1前掲ちくま学芸文庫版p.355相當を想はせようが、逆説を弄してまで變態を常態と言ひ(くる)めたいやうに見えてしまふ。

蟠りを感ずる理由は、『道徳の系譜學』から『ヴァーグナーの場合』への「連続性」を説くため「この場合、歴史ないし時代とは、過去と現在(同時代)の双方を包含するものとして考えられている(第六章p.223)とあっさりひと括りにしてしまふやうな著者の構へにもあって、單に「時代 Zeit」と言っても特に現在進行中のこの現代を指す用法が強いのに對し、「時代」ならまだしも「歴史」に同時代の現在を組み込むのは言ふほど容易でなく、幾ら同時代史・現代史が試みられようと近い過去のことを「まだ歴史になってない」と否む常套句があるのを知らぬでもあるまいに、「歴史という概念において過去がもっている注目すべき優位(『存在と時間』第七十三節原書S. 379原佑・渡辺二郎『世界の名著 62 ハイデガー』中央公論社、一九七一年十月→『ハイデガー 世界の名著74』〈中公バックス〉一九八〇年二月、p.586)を顧慮しないのが氣に懸かる。同時代寄りの「時代」に比べて過去である「歴史」は輕視されてないか。これでは現在(の同時代批判)へ回收するために過去の固有性を損なひかねない。「なぜなら、現在支配的な道徳の起源が非道徳的であるからといって、その価値が貶められる(汚染)必要がないばかりか、貶めようという心的傾向が作動してしまうことがそれ自体、現在の道徳に拘束されている(投影)ことの一証左にすぎないというのだから(第四章二p.181。直前に所引のNF-​1885, 2​[131]からの換言)と考へる以上は、さうした現在との干渉(かうむ)らない本來の過去自體(そのもの)がいやでも想定されざるを得ない筈――更に歴史にはならない過去、歴史認識外に放却された茫々たる往事も。少なくとも歴史には、現在の我々を結果とはしないやうな過去の歴史、源流とは縁遠い歴史があり(例へばスイス人にとっての春秋左氏傳とか。古代インド文獻は讀んだニーチェも支那史には無知だった)、他人事の歴史であれ研究者はゐる(我ら極東の夷人がニーチェを讀むに似て)。だが「批判的歴史(第二章「一 題名の問題」p.79)について須藤が「生に對する歴史の利害」第三節を一瞥しつつ「現在は過去の結果であり産物である」から「過去を現在から切り離して対象化することは[…]過去の毀損にしかならない(p.80)と述べる時、縁續きの時代しか頭に無いため「現在はつねに過去によってバイアスがかけられて」ゐることばかり氣にして、逆に現在から過去を裁く遡及方向の歴史批判では價値觀の違ひに鈍感な現在中心主義の産んだ偏向(バイアス)が大きいことを忘れてゐる。歴史に關心持つ動機が現在に對する是認だけでなく批判であっても(それがまた現在の行爲である限り――或いは未來と呼ばうとも)過去改竄を招きがちなわけだが、本書が「現在の価値判断が起源に投影される(第四章二p.178)ことを問題視する時には主として現状肯定が念頭にあるやうで現在(へ)の否定的價値判斷については今一つ切り込みが淺く、その批判的な歴史意識の描く過去像さへ現在性の(ざんにふ)かもといふ懷疑を徹底して煮詰めるには至ってない。

この過去/現在の關係を變奏して「いうまでもなく、伝統現代は地続きである(第四章p.165)と言ふ文句も、「もとより、歴史的過去としての伝統近代という同時代とは地続きである(第六章p.225)とか「伝統同時代とは繰り返すまでもなく、地続きである(第六章「四 おわりに」p.252)とか再三斷言されるが、そんな論を俟たず自明かは疑ってよい(「言ふまでもなく」と言ひ出された「常識」は多くが因習か獨り決めの前提で論理の飛躍を彌縫するに過ぎないのは言はずと知れたこと)――そもそも本書にあっては、「歴史の質的非連続性(第四章二p.181。Cf.同p.185、第五章三p.216)が追求され、「連続的歴史観の呪縛からの解放(第五章三p.217、cf.第五章一p.202)が庶幾されるのだから。一續きと見えても實は不連續線を見落としてゐる懼れがあるのでは? 「地続き」とは言へ「両者に違いが認められないわけでもない。(p.165)両者を無差別的に論じるなら、重大な知的混乱を招きかねないだろう(p.225)と取り敢へず須藤も留意はするものの、結論が「その相違の根幹をなすのは、いうまでもなく、時間的距離の有無である」云々(p.253)では拍子拔けで、量的差異である距離(おゝ「距離のパトス」さへも)は同一數直線上に連なった程度の差でしかないし、その前段で「伝統」と「同時代」は「その認識を試みる者に対し、いわばあまりにも近いがゆえに、認識困難となるのであって、その点では互いに共通している。近さとは、自分がそれであるところのものの別名である(p.253)と比喩してゐたため、距離の「近さ」で測れば傳統よりも同時代の認識し難さを重視するに傾くかのやうだ(近い物を大きく描く遠近法の錯覺か)。同時代批判として「時代のUr­sprung」(根源、語源に即すと「原-亀裂」だとか)となる「時代の亀裂・裂け目」「時代のひび割れ(p.253)を見出して「時代の等質な連続性に楔を打ち込み、穿つこと(p.254)も説かれる一方、同時代でなく舊時代であり過去である歴史に對しては、傳統以前の異質な起源――前史(第四章二p.176)とも――との非連續性は重々再説されても、現代と地續きに見えるその「傳統」内に想定された連續性を疑問視することはついでのやうに唐突なベンヤミン(『パサージュ論』N19, 1及びN9a, 5からの引據で示唆するのみ(第六章註(18​p.264。は發表時のパネル・セッションの論題歴史と根源―ニーチェ、ハイデガー、ベンヤミン―」に託つけた言及に過ぎない)、ましてやその「伝統」と呼ぶ過去と「同時代」と呼ぶ現在との間に潛む斷層を發掘することは著者の考へに上らないのが不審である。起源・傳統・同時代と三分される各期(時制なら大過去・過去・現在か)の、それぞれの内部にもそれぞれの間にも知られざる斷絶があり得る(Cf.ヴァルター・ベンヤミン/今村仁司・三島憲一ほか譯『パサージュ論 第3巻N7a, 2​・N9a, 6、〈岩波現代文庫〉二〇〇三年八月、p.206・215→『パサージュ論 (三)』〈岩波文庫〉二〇二一年四月、pp.233-​234・​p.243)。地續きの地盤とて地割れが走れば埋め難い溝を刻まれる。『ヴァーグナーの場合』が『道徳の系譜學』第三論文(第二〜五節)では不十分だった藝術家論を改めて同時代批判として引き繼いだものだと言ふ第六章就中(なかんづく)「一 Ernstということ」)の巧みな讀解には頷かされるが、にも拘らず系譜論と現代批判との繼ぎ目に易やすとは繋がらぬ裂傷を抱へてしまったことはもはや蔽ひ得ない――後期のニーチェは、この近代人の傷の治癒不可能性、換言するならば近代における持続の不可能性の方を言挙げする。(第三章「四 持続性の問題とよきヨーロッパ人」p.151)――更に振り返れば『道徳の系譜學』内部にも間隙が陰伏するわけで、扱ふ時代を異にする三論文それぞれに分斷した上で連携關係を問ひ直すことにならう。

『道徳の系譜學』第二論文が「仮説(第四章四p.191)として推論したのは「歴史以前の時代、先史時代(Vor­zeit, Ur­zeit, Vor­ge­schich­teのこと(p.190)であった――尤も「[…]第二論文は、先史時代を問題とする以上、語源学という文献学の手法はもはや適用不可能である。その時代は、文字の発明以前の時代であって、言語という形での証拠提出はできないからである(p.190)と言ふなら語源は文證(もんしょう)・書證であって、有史以前にこそ考古學風な「物証」といふ譬喩が相應(ふさは)しかったらうが、本書はさまで深く考へずに類比(アナロジー)に訴へた模樣、ここでも齟齬を來してゐる――。一方、「近代」乃至は「同時代」「現代」(この表現の搖れにおいて何か認識も搖らいでゐる?)を解釋するのが、第三論文や『ヴァーグナーの場合』。そのいづれでもない中間にある「歴史時代(p.192)を對象とする第一論文の必要性を問ふことは、當の歴史的方法の意義を問題にすることにもなる。

問題は、「起源」という名の過去と「現在」との異質性を、つまり、歴史の質的非連続性を、「現在」の価値観を持ち込むことなく、いかにして対自化するのか、に収斂する。

そうだとするなら、逆に疑問が出てこよう。もし『系譜学』なる書物の最終目標が、先に述べたように、道徳の価値の批判にあるのだとしたら、「系譜学」の手法を採用するまでもなく、直接批判に赴いて、それに邁進すればよいのではないか。むしろ、「系譜学」の採用は、「起源」と「現在」の癒着の危険に逆戻りすることになるだけではないのか。それにもかかわらず、『系譜学』は「道徳の系譜学」として執筆されたとするのなら、そこには、ニーチェの理論的退行には尽きない、しかるべき理由が存在するのだろうか。

第四章「二 起源現在の癒着」pp.181-​182.

この疑問を解決するには、現行の道徳が絶對ではなく以前には別樣であり得たと相對化する觀點を確固たる證據と共に示すべきであり、そこで「語源学に基づいて析出された同じ概念変遷『道徳の系譜學』第一論文第四節冒頭]を手がかりにして(p.183)​…​…と、本書第四章「三 語源学の物証」は説いたのだった。ところが、そもその語源説とて頼りにならぬのだったら、物證同然の即物的な事實を裝ってもその實ニーチェの價値觀に歪められた解釋かと猜せられ、解釋者の現在の見方を過去に持ち込んだ投影かと警戒され、解答は問ひへと差し戻され、問題は改めて問ひ返され、今や、解消したはずの疑念は群れを成して復活して來よう。問題群の襲來だ。

即ち――どうして「かねて来の批判的スタンス(p.219)の獨斷と偏見で以て直接に現在へ審判を下さないのか、わざわざ過去に遡って間接的に批判するその迂遠ぶりの意味は何か。――自分達の價値觀を相對化するためだらうか、それなら歴史ぶった系譜改め以外にも手は無いか、ヘテロトピア(異在郷)と云ふか空間上の異文化との比較、地誌・人文地理學・民族誌・文化人類學等の異化作用もあるではないか。「歴史的感覺 hi­sto­ri­sche Sinn」と「異國趣味(エキゾティシズム) Exo­tis­mus」とはニーチェ遺稿中で同列に竝立されてもゐてNF-​1884, 26​[393][399]≒『生成の無垢』一〇八三・一一六四、NF-​1885, 34​[180]末≒『生成の無垢』七〇五末。Cf. NF-​1887, 11​[407]『權力への意志』七八〇、前者に對し「これは本質的には異国主義Exo­tismの感覚である(『権力への意志一〇一、前掲ちくま学芸文庫版p.114≒NF-​1887, 9​[3]と後者への還元までされたが、さて猶も歴史のみを主として別解を探らぬ理由は? ニーチェ自身「歴史」を「旅行術」へとずらしてみせたのを(『人間的、あまりに人間的 』第一部二二三「どこへ旅行しなければならぬか」)、またぞろ通時化したがるのはなぜ。現に須藤も、中期ニーチェが「」を獎勵した草稿NF-​1876, 23​[196]=「『人間的、あまりに人間的』第一巻初版――一八七八年五月――のための一つの序文(遺稿)」前掲『人間的、あまりに人間的 ちくま学芸文庫版所收)を引用した上でその延長として「書物などを通した精神の旅」「異なる時代への旅」をも「歴史の語で呼んだ」と見做しつつ「多様な文化に関する知としての、全体としての歴史『人間的、あまりに人間的 「第二部 漂泊者とその影」一八八。ニーチェ原文の強調體に合はせ傍點を補った)といふ隻句を切り出して「現在ならそれにはむしろ、文化人類学の名が与えられようが(第三章「一 ソクラテス再考――アフォリズムの揺籃」p.124)附言(コメント)してゐたのに、或いはまた「ニーチェが[生に對する歴史の]利と害で描いた動物の姿とは、その時期のニーチェなりの人間の相対化の試みの一環であった(第二章「三 動物の問題」p.112)と結論するならば今日謂ふ動物行動學(エソロジー)の方向でも可であらうに、どうしてそこまで歴史に向かって時間上の他者を求めるのか。ニーチェが「私たちは、比較の時代に生きており(『権力への意志二一八ちくま学芸文庫p.222NF-​1887, 11​[374]と言ひつつ主に歴史の比較(比較史?)で代表させるのは何故か、相對化にも種々あるうち歴史的相對化ばかりを絶對視する根據はあるのか、批判は專ら歴史に正當性を得られるといふ信念はどこから來たのか。――もしや「歴史の世紀」とも稱される十九世紀の「歴史的な時代動向(第二章一p.81所引、「生に對する歴史の利害について」序言第二段落)に影響されたのか、これまた一種の歴史主義か、だとすればそれも結局は當時の「現在」に制約された偏向であったのでは​……? ニーチェとの思想上の親和性が話題になるエルンスト・マッハ(一八三八〜一九一六年)が通常の物理學者の職分をはみ出てまで『仕事保存の命題の歴史と根源』(本書第五章及び補論3にて言及)や『その發展における力學:歴史的批判的敍述(邦譯『マッハ力学』他)のやうな科學史に深入りした經緯はどうだったのか、同じ「歴史熱*1前掲『反時代的考察』「第二篇 生に対する歴史の利害について」中「緒言」第三段落p.120、仝「」p.194)の流行からの派生では? マッハ力學史の原書副題中「歴史的・批判的 hi­sto­risch-kri­tisch」とは文獻學流校訂版に冠する定型句ではないか、原典資料となる古い科學書も歴史的文獻學の隆盛無くして本文(テクスト)整備がされ得たらうか。いやマッハは例外か、「一八三〇年以降の、つまりドイツ観念論とロマン主義の時期以降の自然研究者たちは、自分たちの学科の歴史に対してますます関心を薄くする(ディートリヒ・フォン・エンゲルハルト/岩波哲男ほか譯啓蒙主義から実証主義に至るまでの 自然科学の歴史意識 実証主義的自然科学」6、理想社、二〇〇三年五月、p.192)と云ふ情況の(もと)先端の研究者たちの中では少数派に属する(仝p.195。不思議と同書はマッハもP・デュエムも名すら出ない)のであらうか、それでも自然科學の歴史に關する研究が存したのは前代からの履歴效果(ヒステリシス)か。――そしてその點では、長期持續(フェルナン・ブローデルと言ふべきか時代後れの殘響なのか、一世紀以上經った現代にあってニーチェやマッハの歴史思想を取沙汰する我ら思想史の徒もなほ引き續きその歴史主義的な「現在」に屬してしまってゐる……? 『道徳の系譜學』第三論文は學問的な眞への認識欲求が依然としてキリスト教道徳を引きずってゐることを糾明したが(その頻りと敵視したのさへ、歴史と傳統あるキリスト教と云ふより、十九世紀半ば以降顯著になったヨーロッパ市民社會の再キリスト教化といふ同時代現象への反撥ではなかったかとの嫌疑が濃厚であるが*4)、キリスト教圈外に住む我々極東の不信心な讀者にとっては、その「歴史」思想に執らはれた儘であることの方がまだ切實な問題なのではあるまいか。――果たしてニーチェを讀むことはどれくらゐ「歴史主義とその諸問題」(エルンスト・トレルチ/近藤勝彦譯『トレルチ著作集』4〜​6、ヨルダン社、一九八〇年十月〜八八年五月)を考察するのに寄與するか。ニーチェ論はどこまで歴史主義論を射程に入れられるか、どうすればニーチェ學者がニーチェ談義に跼蹐せず歴史論へと展開できるか。――ニーチェのテクストの忠実な読解について、著者ほど信頼の置ける研究者はなかなか存在しない(テクストへの完全な忠実さなるものが存在し得ないことを深く自覚していることも含めて)」と竹内綱史の評言(前掲p.121にあれど、忠順にニーチェ講讀に努めるばかりでは滿足できなくないか*5。「古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ」(松尾芭蕉)とやら、當のニーチェが註まで附けて言語學に援助を呼び掛けたと云ふのに、ニーチェ研究者はどうしてもっと歴史言語學はじめ關聯諸學における歴史學派*6の成果に就いて眞摯に學ばうとしないのか。――逆に、例へば十九世紀の諸歴史學派を通觀するハンス・ヨアヒム・シュテーリヒ『西洋科学史 歴史と人間◎ドイツ歴史学派の興隆と精神分析学菅井準一・長野敬・佐藤満彦譯、〈現代教養文庫〉社会思想社、一九七六年六月)の中にも「ショーペンハウアーとニーチェ」の項(第一二章a、pp.59-​62.)が設けられたりしたものの、申し訣程度に『反時代的考察』第二篇のみ要説したやうな處遇を見ると、ニーチェ通の讀者は不滿を覺えないか。ニーチェ專門の見地からは「生に對する歴史の利害」以外のアフォリズム集等に分散した歴史關聯諸稿をも含めてもっと詳細に見直した異論あって然るべきではなかったか、その務めは本書によってどの程度果たされたか。――せめて、歴史學側でカルロ・ギンズブルグがニーチェを讀み込みながら歴史認識論の切り口にしてみせた上村忠男『歴史・レトリック・立証』「序論 歴史・レトリック・立証」みすず書房、二〇〇一年四月)くらゐの業前(わざまへ)は、哲學研究の方にも望んで良からうか。――ギンズブルグも一例だが、後世の歴史思想へのニーチェの影響史を更には考慮すべきか。即ち、「歴史思想家としてのニーチェ(序文)の所謂「死後の生(ヴァルター・ベンヤミン)は如何に。それに觸れずに濟ませた本書は、受容史關聯では(わづ)かに「ポストモダンの先駆的哲学者として喧伝された(「(補論4)ヘーゲルとニーチェ――歴史をめぐって」二、p.406)などと紋切型をなぞった程度なのだが、何を避けてゐるのか*7。『ニーチェの歴史思想』と題する書物一卷を通じてミシェル・フーコーが名だに出ぬとは異なこと、逆に須藤執筆のフーコー論鷲田清一責任編集『哲学の歴史 12 実存・構造・他者 20世紀 Ⅲ』「Ⅹ フーコー」、中央公論新社、二〇〇八年四月)にもニーチェへの論及を含まぬといふ「日本の哲学系ニーチェ研究の第一人者(竹内綱史、前掲p.117らしからぬ不自然さ、二十世紀の歴史論におけるニーチェ效果をどう見るのやら。反ってそれら後代からの反響こそが今日ニーチェを歴史思想として讀めるやうにしてくれてゐるのでないのか。謂はばニーチェの後史にして自身の前史でもあり​…​…その手の歴史化は自己相對化の一方式だが、よもや著者は自分の影響源を開示したくないとか? 「歴史に関するニーチェの考察の変遷」について「それぞれの時期の歴史思想は、現代の眼から見ても、それぞれが歴史に関する典型的な考え方の表明ともなっている(p.17)と一言添へるだけでは漠然として空虚であり何でそこに踏み込まないのだか、具體例と結びつく特定記述無しでは歴史には接近できないのが解らないのか、視座を共有するその現代においてどんな歴史觀とどう對應するのかこそが問題では? 著者が「序文」の結びに「本書はあくまでフリードリヒ・ニーチェという一個人の思想家に関するモノグラフィーである(p.19)と局限する一方でそれ以外のことは過大に見積って「アクチュアルな重大問題にコミットしたり判定を下す資格も能力も余裕も現在の筆者にはない(p.19)と遁辭に紛らす弱腰な姿勢は、「読み手としては物足りなさが残る(竹内綱史、前掲p.121どころか學問上の不屆きとさへ言へ、二十一世紀の現代から「ニーチェの歴史思想」を評價する以上その價値判斷する自己の立場を省みるためにも、歴史の中で自ら位置測定を試みるべきだったのではないか。舊全集で未成作「我ら文獻學者」の最終斷章とされた遺文を想起しよう、ニーチェは「文献学者は自己の無罪を立証しようと思うならば三つの事柄を理解しなければならないすなわち古代と現代と自己自身とである[…](『哲学者の書 ニーチェ全集3』「 われら文献学者をめぐる考察のための諸思想および諸草案*3前掲ちくま学芸文庫版p.574。新全集にて相當するNF-​1875, 7​[7]は末尾に疑問文一行の追加あり)と結論してゐたではないか。多少とも文獻學流を汲み入れた領域なら皆同樣、思想史研究であれば、まづ過去の思想を「理解する」に留まらず、それがなされる「現代」やそれをなす「自己自身」についても相伴って理解を改めてゆかねば、第一の對象の理解すら自分で思ふ程できてゐるかどうか。――さういへば、己れの價値基準を明らめることがマックス・ウェーバーの價値自由論の要諦だったか…​…自ら「歴史學派の子」(ヴェーバー/折原浩補譯『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』〈岩波文庫〉二〇〇三年十一月第七刷、p.147相當)と稱して内からの批判を敢行したウェーバー、その「ヴェーバーとニーチェ」問題は、歴史思想の面から比較し直したらどうなるか。…​…等々。

取り分け自己の相對化に關しては、更に問題が續出しさうではないか。本書に對しては「主張の裏づけや議論展開の厳密さに関しては、通常の学問的手続きが踏まえられていないように思われる箇所が多く見られる。」「また、鮮やかな読解に隠れて気づきにくいが、論理展開に隙が多いし、文献等によって十分に裏づけられてはいないように見える主張が散見される(竹内綱史、前掲p.121との苦言も呈されたけれど、具體論は二例を示すに留まったので他に問題があるのはどこなのやら、讀者それぞれに點檢が委ねられてゐようか――例へば以下のやうに?

四、もっと歴史學的精神を! 

幾らか補助線を引いておくと――もし、手っ取り早く本書大體を一言を以て貫くとすれば、「汝自身を知れ」か註*1も看よ)。ソクラテスの名言として知られる以前のアポロン的戒律としてニーチェ自身もギリシア語(γνῶϑι σεαυτόν / γνῶϑι σαυτόν / γνῶθι σαυτόν)やラテン語(no­sce te ip­sum)やドイツ語(Er­ken­ne dich selbst / ken­ne dich selbst)で書き記してきたこの箴言は、本書では卷末「事項索引」に六箇所採られてをり、特に『道徳の系譜學』を論じた第四章(冒頭p.163)がそのデルポイの神殿での原義から説き起こされ、それに寄せる構へで第六章(「二 挑発としての『ヴァーグナーの場合』」pp.239-​240.)は『ヴァーグナーの場合』序言について「ここには明らかに、〈汝自身を知れ〉という、ヨーロッパ精神を統べてきた、あの命法がこだましている」と目して左記のやうに續けるが、そこで綴り合はせられる二つの章は『ニーチェの歴史思想』の中核であるからして、本書の(かなめ)とも言へないか(大袈裟か?)。

自分がそうであるところのものを、そうである自分はいかにして知ることができ、また、知ることを通して、それに対しいかなる対処をすることができるのか――

第六章「二 挑発としての『ヴァーグナーの場合』」p.240

この「自分がそうであるところのもの」といふ歐文脈臭い言ひ回し(Cf.第二章一p.85「自分がそれであるもの」、第二章三p.112「自分がそれであるところの人間」、第六章四p.253「自分がそれであるところのもの」)がまたいかにも何か原據ありげでないか。匂はされたのは、蓋し、ニーチェ最後の著書の名文句如何に人はその人であるところのものになるかwie man wird, was man ist(『この人を見よ』副題及び「なぜ私はこんなに利口なのか」、或いはそれ以前の『悦ばしき知識』二七〇でもあるか。

おまえの良心は何を告げるか? ――おまえは、おまえの在るところのものと成れ。Du sollst der wer­den, der du bist.=汝はそれになるべきである、汝であるところのそれに。]

信太正三『悦ばしき知識』第三書二七〇、ちくま学芸文庫p.284

共にピンダロスの一節(ピュティア第二歌第七十二行内田次信譯『祝勝歌集/断片選〈西洋古典叢書〉京都大学学術出版会、二〇〇一年九月、p.128解説」p.456。Cf.小池登ピンダロス祝勝歌研究』「第4章 『ピューティア第2歌』67行以下知泉書館、二〇一〇年十一月に基づき(そのゲーテ譯を擧げる誤り、存在しない由)、初めニーチェはギリシア文字のまま原文引用してゐたものの一八六七年十一月三日附竝びに一八六八年二月一日〜三日附エルヴィーン・ローデ宛書翰=塚越敏譯『ニーチェ書簡集Ⅰ ニーチェ全集 別巻12425、〈ちくま学芸文庫〉一九九四年七月、p.121​・124。同文流用の一八六七年十二月一日附カール・フォン・ゲルスドルフ宛書翰も)、當初からもう、四語一句(γένοι᾽ οἷος ἐσσὶ μαθών=汝いかなる者かを知りて成れ)の句尾(μαθών=學ぶ、知る)を切り落とす斷章取義をなして汝自身を知るといふ文脈は後景に退くこととなったわけで、とは言へ、不特定の二人稱に向けた命令形が自らを律する自戒語ともなるのは「汝自身を知れ」等の碑銘文と同型ではあり、或いは――如何に彼が、彼があるところのもの、彼があるであらうところのものになったかwie er wur­de, was er ist, was er sein wird=如何に彼は成ったか、何が彼であるか、何が彼であるだらうか]――(一八七六年刊「バイロイトにおけるリヒアルト・ワーグナー」*1前掲『反時代的考察』p.357相當。Cf.草稿NF-​1875, 11​[46]​・14​[8]と疑問詞の形を取る時はまだ知ることへの請求を含むかにも見えたが、次第に句尾拔きの三語のみを典故にして變奏し出しNF-​1876, 19​[40]1879, 41​[31]1881, 11​[297]=『生成の無垢』一一〇四・*1前掲ちくま学芸文庫版p.572、ルー・フォン・ザロメ宛書翰に「ピンダロスはかつて汝があるところのものとなれWer­de der, der du bist!といっている(推定一八八二年六月十日附、前掲『書簡集177、pp.524-​525.)あなたがあなたであるところのものになりなさいWer­den Sie, die Sie sind!一八八二年八月、『書簡集195、p.554相當。Cf.一八八二年十一月廿四日附ザロメ宛、『書簡集207、p.577「あなたはあらねばならぬままであってください」)と書き送った時は文字通り對者への呼び掛けとして用ゐられたけれども、一八八二年八月廿日附ハインリヒ・ケーゼリッツ(筆名ペーター・ガスト)宛書翰„wer­den, die wir sind“​も二人稱から一人稱複數にした變形だし(恰度屆いたばかりの新刊『悦ばしき知識』三三五「物理學萬歳!」篇尾近くに記した強調句「われわれ自身があるところのものになるのを欲するwol­len Die wer­den, die wir sind,」からの自己引用)、一八八五年私版『斯くツァラトゥストラは語りき』第四部「蜜の供犧」14段中「おまえのあるところの者となれ!Wer­de, der du bist!吉沢伝三郎譯『ツァラトゥストラ 下 ニーチェ全集10』〈ちくま学芸文庫〉一九九三年六月、p.178)も自分で自分に語り掛ける言葉とされてやはり形は二人稱ながら指示方向は自稱であり(Cf.ハイデッガー『存在と時間』第三十一節原書S. 145、更には主語を三人稱不定代名詞(Cf. NF-​1880, 6​[177]『善惡の彼岸』二四九に汎化して「あらゆることにもかかわらず、ひとは在るところのものと成るにすぎないdaß man, trotz al­lem, nur das wird, was man ist​≒あるやうにしかならない](『権力への意志三三四・前掲ちくま学芸文庫p.324=NF-​1888, 14​[113]と運命論めいた述定をなし、そこから自傳『この人を見よ』に至って關係詞を再び疑問詞めかし、…​…いづれにせよ、概念構造としては、動態動詞wer­den​(三人稱現在wird=なる)と存在動詞sein​(bist, ist, sind=ある)との對比の上で「ある」ところのものへと「なる」こと、「存在」への「生成」が求められてゐる、と理解できようか須藤訓任『ニーチェ 〈永劫回帰〉という迷宮』第一章「6 再び自伝へ――『この人を見よ』」前掲書p.74參看)。ニーチェの言だと生成の世界を存在の世界に、最も極限的に近づけること(仝p.74所引NF-​1886, 7​[54]​≒『力への意志 六一七・前掲ちくま学芸文庫p.148相當。原文の強調體に合はせ傍點を補った)に當るのだとか(但し、その「最極端の接近An­nä­he­rung」にしても結局は距離を殘し漸近するのみと云ふ限界を含意するかも?)。

――だが解せない、現にさうあるのに今更にさうなれとは? いま現在それであるのなら、既にもうさうなってゐる筈だが? 「〈ある〉とは、時間のずれを、時間的間隔を認めない。[…]それに対し、〈なる〉は、つねに時間的な広がりないし余地を前提とする。〈なる〉ところのものは、いまはそうでないはずのものだからである(須藤『ニーチェ 〈永劫回帰〉という迷宮』第二章3p.124)​…​…つまり、何かになるとは、以前は(しか)あらざりしものへと變はることにあらずや。成るのは未だ然らざる者(に/が)なのにNF-​1879, 41​[31]​/1885, 36​[53]≒『権力への意志一〇八(すで)に然くある者がいかで猶も成り得よう(Cf.『ツァラトゥストラ』第二部「自己超克について」34。わざわざならねばならぬのは、そのあるものが自らのあり方にずれを生んで、全き自己同一性を保持できずにゐるからでは? 生成變化して、もはや先にさう「であった」ものではなく「なって」ゐるのであるとか、もしくは、自らが現にあるそのあり方について無知無自覺なので存在と意識との隔たりを埋めなければならぬ場合を考へてみたら、どうだらう。いっそお題を人間は自分が現にないところ『ツァラトゥストラ』第二部「有徳者たちについて」19「私ないところのもの」を仄めかす暗示引用の如し](本来の)自分を設定したくなりがちだが、その逆の運動こそが真の課題なのである永井均『これがニーチェだ』〈講談社現代新書〉一九九八年五月、p.190)とでも讀み換へるか、それこそが課題であることをなくさうとする逆説的な課題なのだと? 現にあるが儘の自己の、自己への回歸​…​…自分の尻尾を呑み込まうとする蛇みたいな螺旋状の持って回った自己肯定なのか、「きみたちのうちには、円環の渇望がある。自己自身に再び到達するためにこそ、あらゆる円環Ringはわが身をよじりringt曲げるのだ(「有徳者たちについて」12段、吉沢伝三郎譯『ツァラトゥストラ 上 ニーチェ全集9』〈ちくま学芸文庫〉一九九三年六月、p.167と? そんな、それ以上何にもならうとせぬやうにならうと言ふやうな否定的肯定永井前掲書p.195の境地は、無爲にして「化す」ならばまだしも、下手をすると何ら變動無き生成の固定か「現状容認(前掲『ニーチェ 〈永劫回帰〉という迷宮』第二章p.91​・125​・第四章p.213​・242)、無批判な現状追認(ステイタス・クオ)になってしまはないかしらん。さなくば生成せる存在とは如何にあることか、その現にあるのはどのやうなあり樣であるか。實はどうであるのか知ってゐるつもりで知らないことは存外多いし、結構自分のことだって自己理解できてないものだから、意識して汝自身であるがためには汝自身を知らねば​…​…だが、どうやって? 「しかし如何にしてわれわれはわれわれ自身を再発見するか? 如何にして人間は自己を知りうるか?教育者としてのショーペンハウアー*1前掲ちくま学芸文庫版p.239)、と第三反時代的考察から既に問はれてゐたが、どうしたことかニーチェ公刊書中この第三篇に限り本書は全く言及を缺くので、本書での言ひ方を取ると「自分がそれであるものを自分がいかにして洞察していくのか(第二章一p.85)。その困難たるや、視線は顏より發して自身の顏を捉へ得ず、鏡像に頼っても鏡はその鏡自身を映せない​…​…あらゆる自己觀察はどうしても盲點や死角に制約されるのでは? どうすれば、私が私を認識する? 自己認識とは、動詞(認識する)を挾んで主語(ich=私は)と客語(mich=私を)とに分裂した二人格(『生成の無垢』一六三​・一六四、*1前掲書p.99=NF-​1882, 3​[1]​333, 352を一語に重ねることで二者間の不一致を見えなくする詐稱でないのか(Cf.『生成の無垢』一七三​・p.102=NF-​1884, 26​[18]。それに、ニーチェに言はせれば「人があるところのものwas man istに人はなるといふことは、人がであるかwas man istが人であるか]を人は朧げにさへ豫感してないことを前提とする」(『この人を見よ』「なぜ私はこんなに利口なのか」*5前掲ちくま学芸文庫版p.69相當)とやら、何になるのか前以て目的を定められさうにないのだけれど? 第一、あるべきものを知ったところで、お望み通りさうなることができようか。知行合一どころか、「認識は行動を殺す『悲劇の誕生』前掲悲劇の誕生 ニーチェ全集2』p.72。NF-​1869, 3​[10]=『生成の無垢』五九・*1前掲書p.93相當兩斷し「正しい認識には正しい行為が続いて行かなければならないというあの最も致命的な偏見、あの最も深い誤謬『曙光』一一六ちくま学芸文庫版p.138)に斬り込むのがニーチェだったのでは? 一は何乘しても一の儘であるやうに、自己同一性を認知したって自分は自分であると云ふ同語反復(トートロジー)(恆眞式)に嵌まるばかりでどうにもならず何にもならない?​…​…「いつも一かける一――それは長いあいだには二となるのだ!(一八八三年初刊『ツァラトゥストラ』第一部「友人について」初段ちくま学芸文庫版『上』p.101。草案がNF-​1882, 3​[1]​108なんて法外な算術(Cf.生成の無垢』一九六​・p.118​≒NF-​1885, 40​[8]、仝二四二​・p.145​≒NF-​1885, 2​[68]を成り立たせるのなら、その一なる自身は實は小數點以下が略され一個以上(プラス・アルファ)を含んでゐたと考へるしかない? 何にせよ獨力で自らならうとしてなれるものでなければ、もう他力任せで、自づと然うなる、自然になされるが儘になるであらう(wer­denは動作受動の助動詞にもなるけど)、とでも? いや、その「ある」ところのものと「なれ」と言はれる時、現在が未來に掏り替へられてないか(wer­denが未來形の助動詞でもあるのをいいことに?)。或る種の時間錯誤と言はうか、『ツァラトゥストラ』第二部「救濟について」が「〜であった Es war」といふ過去を「さう私が欲した! So wol­lte ich es!」に變じることを「後ろ向きに欲すること Zu­rück­wol­len」と稱したのに似て、語勢で眩惑されさうになるけれど、だが考へてみると、一體どうしたらそんなことができるのやら途方に暮れないか。

――むしろその前に、如何にして自分がさうであらぬところのものになったかが疑問にならうか(將來どうならうかよりも過去、どうしてかうなったか)。そもそも本書では、ニーチェが「汝自身を知れ」に幾度か言及したうちヘラクレイトスの人柄に引きつけて敍したものに重點が置かれ(他は第四章一p.167で『悦ばしき知識』三三五に、第四章四p.192で『善惡の彼岸』三二に關聯させた程度)、そのヘラクレイトス論を、本書はまづ第一章「三 ソクラテスという人格――ヘラクレイトスとプラトンの間としての(pp.45-​46.)に長文引用し、更にその末尾近くに出るヘラクレイトス斷片(ディールス=クランツB101。プルタルコス「コロテス論駁」二〇・1118C、戸田七郎譯『モラリア 14〈西洋古典叢書〉京都大学学術出版会p.117相當)のニーチェによる獨譯„Mich selbst such­te und er­forsch­te ich“(須藤譯「わたし自身を求め究めたのだ、わたしは」)に的を絞って、第二章「二 正義の問題」(p.88)でギリシア語ἐδιζησάμην ἐμεωυτόνからの斎藤忍随譯「我は我自らを求めたり(『知者たちの言葉―ソクラテス以前―a ニーチェ」、〈岩波新書〉一九七六年十一月、p.20)と引き較べ、第四章初め(p.163)でも「先にも記したように」と斷わって同じ引用句を「汝自身を知れ」に繋げて再掲してゐたのだが、しかし、そこでその原文脈を見逃してしまって、ニーチェがヘラクレイトスのことを歴史知識に冷淡な者と述べた所を素通りしてゐるではないか。即ち一八七三年未完稿「ギリシア人の悲劇時代における哲學」第八節にて、そのヘラクレイトスの寸言が取り上げられる正に直前、須藤が引用の際にどういふわけか中略してしまった部分にある、「尋ねまわって知識を寄せ集めるこのような人間、つまり歴史的な人間どものことを、彼は軽蔑をもって語った塩屋竹男譯「ギリシア人の悲劇時代における哲学」〔本論〕、前掲悲劇の誕生 ニーチェ全集2』p.395)といふその文…​…ここからどうやって歴史思想になると? いかにしてその對立物からの百八十度轉回が? 一八七二年末の手稿本に含まれる先行異文ヴァリアント(「書かれなかった五冊の書物のための五つの序文」中「 真理の情熱(パトス)について第五段落西尾幹二譯『ニーチェ全集 第二巻(第期)*3前掲p.325/渡辺二郎譯「 真理の情熱について」『哲学者の書 ニーチェ全集3*3前掲ちくま学芸文庫版p.220)には無かった加筆箇所であり、一八七四年刊『反時代的考察』第二篇「生に對する歴史の利害について」に引き繼がれる反歴史主義が強く出た部分なので、歴史思想論に取り込みかねて須藤は見て見ぬ振りをしたのだらうか。「もし反對物Ge­gen­theilさへもが反對物から、黒いものが例へば白いものから、發生し得るとすれば「ギリシア人の悲劇時代における哲學」一六、前掲ちくま学芸文庫版p.432相當。Cf.『人間的、あまりに人間的 と思案する二千數百年來の哲學問題を蒸し返したくならないか。ではどうすれば、この異分子を看過することなく、即ち、ヘラクレイトスの名の(もと)にニーチェが再構成したやうな專ら内側に眼を向けて自己探究に沈潛する孤高の隱士の像を受け止め、そこから外向きな歴史への關心に轉成することができるのか。…​…蓋し「哲学者は、社会の傍観者として世捨て人的に自閉する性向がある(第一章三p.38)とは須藤も認める所、これには哲學者に社會的教導力があって欲しいニーチェ(「教育者としてのショーペンハウアー」としても難を覺えたか、「哲学者は、例外者のように、民族Volk=民衆]から、全くかけ離れたところに立っているのではない(前掲『哲学者の書』「 哲学者に関する著作のための準備草案」一p.230​≒NF-​1872, 19​[13]。Cf.仝二pp.338-​339​・340-​341​≒NF-​1872, 23​[19][45][14]、仝二pp.333-​335≒NF-​1873, 28​[2]「ギリシア人の悲劇時代における哲學」ちくま学芸文庫版pp.358-​359.)と裾野あっての頂きみたいなことを言ひ出し、また別の斷章に辯じて曰く、「哲學者」は「隱者として」さへも「全く獨り自分のためにfür sich=おのれにとって、對自]のみ在るのは、可能ではない。なぜなら人間として他の人間たちとの關係を持ってゐるから」NF-​1873, 29​[205]哲学者の書』「 苦境に立つ哲学をめぐる考察のための諸思想p.426相當=生成の無垢』一九〇​・*1前掲書p.173相當。Cf. NF-​1873, 29​[213][223]1874, 34​[37]とか――これだけでは唯我獨尊の世外畸人(アウトサイダー)を薄めた社會性に丸め込むかのやうで、詭辯臭い? でも、のちに自己や主體といった自同性を單一性(Ein­heit=一者性、統一體、單位)でなく數多性Viel­heit/比較級Mehr­heit=多數性)の複合へと解體するニーチェのことだから『人間的、あまりに人間的 第一部一七*1前掲ちくま学芸文庫版p.33、cf.前掲『生成の無垢』一九六≒NF-​1885, 40​[8]。ほか、『生成の無垢』一〇七四​・前掲書p.557=NF-​1880, 7​[105]。『生成の無垢』一一六​・前掲書p.86=NF-​1881, 12​[35]、仝一九八​・p.120=1885, 38​[1]、二五四​・p.151=1885, 1​[58]、三一八​・p.180=1884, 27​[26]、三三六​・p.189=1884, 27​[8]、三四三​・p.194=1885, 37​[4]、七三三​・p.361=1884, 27​[27]、七三四​・p.361=1885, 34​[123]、一二六四​・p.666=1882, 4​[83]。『権力への意志四九〇・前掲ちくま学芸文庫p.34NF-​1885, 40​[42]八八六・p.403=1887, 10​[59]NF-​1884, 25​[363]NF-​1885, 2​[91]『善惡の彼岸』一二一九、ここで、最早『悲劇の誕生』(一八七二年刊)の「根源一者という形而上学の夢想から離脱し(第三章一p.121。補論1「五 転移のゆくえ」pp.300-​301も參看)てその逆の等根源的な多者性へと軸足を移しつつあるとしたら? この過渡期を經た後、「私は個人名詞としてではなく集合名詞として考えていた一八七八年初頭リヒャルトとコージマー・ヴァーグナー宛書翰草稿、前掲『ニーチェ書簡集140、p.450)等と言ひ出し、果ては、自身の孤獨(Ein­sam­keit)ではなく「多士多彩」Viel­sam­keit、ニーチェの造語)にこそ惱まされてきた(『この人を見よ』「なぜ私はこんなに利口なのか」一〇ちくま学芸文庫版p.74相當。Cf.『人間的、あまりに人間的 Ⅱ第一部三四八(うそぶ)くにも至ったのでは? つまり一種の「分散された魂」の心理學(エドワード・S・リード/村田純一・染谷昌義・鈴木貴之(ソウル)から(マインド) 心理学の誕生講談社学術文庫〉二〇二〇年十月、第1章p.30)として、または「諸部分間の闘争(ヴォルフガング​・ミュラー=ラウター/新田章譯「内的闘争としての有機体 ヴィルヘルム・ルーのフリートリヒ・ニーチェへの影響」『ニーチェ論攷』第三章理想社、一九九九年四月、p.129所引NF-​1886, 7​[25]=『権力への意志六四七ちくま学芸文庫版p.173相當生理學として、「私たちのうちなる闘争――私たちはおのれをけっして個体In­di­vi­du­um=個人]として取り扱わないで、二元性や数多性Zwei- und Mehr­heitとして取り扱うのだ。」「私たちは社会を私たちの内へと移し入れ、縮小してしまったのであり、そしておのれの殻に閉じこもるsich auf sich zu­rück­zie­hen=自分に引き籠もる]のは社会からの逃避ではなくて(『生成の無垢』三六〇​・前掲書p.210=NF-​1880, 6​[80]。Cf.仝三五九​・pp.208-​209=NF-​1880, 6​[70]等と自己分析する「本質的な多元論〔複数主義〕(ジル・ドゥルーズ/江川隆男ニーチェと哲学第一章2、〈河出文庫〉二〇〇八年八月、p.24にとっては、不可分を原義とするin­di­vi­du­um(個)ですらも「di­vi­du­um分かちうるもの)」『人間的、あまりに人間的 五七末、*1前掲ちくま学芸文庫版p.93。Cf.原佑譯『ルー・ザロメ著作集3 ニーチェ 人と作品以文社、一九七四年三月、p.54へ分解され「部分個人増田一夫「ミシェル・フーコーのゲーム」ミシェル・フーコー思考集成 1976–1977 セクシュアリテ/真理筑摩書房、二〇〇〇年八月、p.426)にまで分割可能(英di­vid­u­al, di­vis­i­ble)だとしたら?――時にそれが「かつて自我das Ich=我なるもの]は畜群のうちに隠れていた。そして現今では自我のうちになお畜群が隠れている(『生成の無垢』八三九​・前掲書p.473=NF-​1882, 5​[1]​273。Cf. NF-​1882, 4​[188][189][203][207]1884, 26​[157]と個性確立を阻む因襲の如く語られるにもせよ、概ね「よりも古くてまだ我の中にも生き續けてゐる」NF-​1882, 4​[58]と言ふに等しく、須藤にも讀み取られた通り「自己に対する他者の優位は、太古の時代のみならず、人間の精神的機構の原理的制約であるともニーチェは考える(第三章註(5p.160のであり、しかも「私とは一個の他者である」(アルテュール・ランボーどころか複數の他者ども(多者)であって多重人格よろしく幾つもの假面(ペルソナ)(Cf. NF-​1884, 26​[73][370]1885, 35​[68]36​[17]​≒『生成の無垢』一二九九Ⅴ​・前掲書p.67940[8]≒『生成の無垢』一九六へと分身するわけで、詮ずる所、自己とは(ひし)めく他者の離合集散、外力の(せめ)ぎ合ひ同然なのだとすれば​…​…謂はば力と力波の戯れとして同時に一にしてであり(「(補論2) ニーチェの正義論再考――力への意志の尺度をめぐって」p.310所引NF-​1885, 38​[12]=『権力への意志一〇六七ちくま学芸文庫版p.541相當)、そこで、自分探しをするうちにむしろ我と我が身を織り成した他者性もろもろを見つける結果になる(Cf.『悦ばしき知識』第五書三五四後半、ちくま学芸文庫版pp.393-​394.とすれば…​…「私たちは或る人間が或る他の人間ein An­de­rer=違ったもの、別人になるということを信じてはいない。もっとも、その人間がすでに他の人間である場合、言いかえれば、しばしばよくみられることだが、雑多な諸人格eine Viel­heit von Per­so­nenであり、少なくとも諸人格となりうる素質をもっているvon An­sät­zen zu Per­so­nen, ist=諸人格への萌し(の多さ)である]場合は[Cf.前掲NF-​1884, 26​[370]1885, 40​[8]​]、別である。この場合におこるのは、一つの別の役割が前景にでてきて、古い人間[新約ロマ書​・六「舊き人」、Cf.仝エペソ書​・二二コロサイ書​・九が引込むということである・・・(『権力への意志三九四ちくま学芸文庫版p.377​≒NF-​1888, 14​[151]。Cf.『生成の無垢』七五七≒NF-​1885, 40​[18]跡づけられ(後から出て來たことを初めから胎藏されてゐた可能性として加上するだけでは前成説紛ひだが)、更には、その以前とは別な一面を優勢にした變動の契機を特定することで、矛盾めく對立項への豹變も説明が附きさうではあるか。さうか、元から自分は自分にあらざる他者達であった――だからこそ懸命に自分になり續けなくては自分らしくあれない、のか? 「ひとつの自己たらんと欲せ『人間的、あまりに人間的 第一部三六六ちくま学芸文庫版p.239)といふ命令を行動に移すのか、汝自身となれ、汝自身をなせ、と? 否、人類はいつでも能動態と受動態とを取り違えてきた」のを訂すべく「君はなされるdu wirst ge­than! いかなる瞬間にも!『曙光』一二〇ちくま学芸文庫p.146と構文變換した方が、宜しくニーチェ文法に適ふか。さては「これは私Ich=我]とは言はぬが、私を行ふthut Ich=我を爲す](『ツァラトゥストラ』第一部「肉體の輕蔑者らについて」6段とはこの謂か。で、知るべき自己自身への自問はかうなる――「私」は何かに行はれてゐる限りで(他動性において)「私」としてあらしめられてゐるのなら、そこでは何が・如何になされてゐるのか知らないか榎並重行『ニーチェのように考えること 雷鳴の轟の下で』「2章 自己をめぐる疑惑」河出書房新社、二〇一二年二月、p.63參照)

――「ある」へと「なる」に際して、假にヘラクレイトス流にあらゆる事象は生成であるとし、毎時毎瞬なりつつある現在進行形なのであるとしても(Cf.前掲『生成の無垢』一一〇四=NF-​1881, 11​[297]冒頭)、或いは「それはひとが(ただ)に有するのみならず、なほ引き續き獲得するし獲得せねばならないものでもある、何となればひとは常に復たそれを手放すし手放さねばならぬpreis­ge­ben muss=犧牲に供さざるを得ない]が故に!」(『悦ばしき知識』第五書三八二翌秋『この人を見よ』「斯くツァラトゥストラは語りき」にも自家引用。原型が『生成の無垢』七四〇・前掲書p.450=NF-​1883, 12​[1]135.)といった筆法を借用するにしても、しかしそんなのは結局、いつまでも遲れが出て現状に追ひ着かないといふこと(「つねにすでに、また、つねになほ」あらず!)ではあるまいか。ニーチェ説きて曰く「私たちの意識はびっこを引いて後についてゆき、わずかのものしか一挙には観察せず(『生成の無垢』一七​・前掲書p.20=NF-​1880, 6​[340]。Cf.仝一一五p.85NF-​1881, 11​[316]​…又侮りて曰く「過去をほんのひと缺片(かけら)だけ時間越しに引きずってゆく以上になすことなく、自分ではつひぞ現在であらぬnie­mals Ge­gen­wart sind=一度も居合はせない]者ら」『悦ばしき知識』三三五ちくま学芸文庫p.353相當)​…晩くなってからやっと飛び立つミネルヴァの梟のやうに、はたまた龜との競走に後れを取り續けるアキレスのやうに、遂に自知は自得自足に至り得ぬもの(Cf.ヘラクレイトス斷片B45――「反時代的」などと譯されるun­zeit­ge­mäßはその意味での時代後れ、毎度の時外れ、延々たる時間不即應だったとしたら? ただ目前の今を生きる動物にはなれない人間が抱へてしまった一種の錯時性(アナクロニー)なのか、現在は了解した時にはいつももう過去であり、且つそれはそのまた以前の經過より成ったものであり、…​…つまりは、歴史なのでは? 既にして歴史と化した以上、己れが現に在るところとの差分を有する分だけ他者になってゐると見てよいか――なんらの個体も存在せず、最も短い瞬間においても個体はすぐ次の瞬間におけるのとは何か別のものAn­de­res=他者]であり(『生成の無垢』九四・前掲書p.71=NF-​1881, 11​[156]​…「君がまだ別人ein An­de­rer=違ふもの]だったその頃――君は常に別人である――『悦ばしき知識』三〇七ちくま学芸文庫版pp.323-​324​相當)と言った風に? 時差は飛び越せず、他者は自己に解消し得ない、ならば歴史とはどこまでも不完全な知識である(完了した過去でさへ最早全ては追跡し切れない)と云ふことか――「決して完成され得ない未完了相Im­per­fec­tum=半過去。ドイツ語文法では過去形Prä­ter­itum)の舊稱、書き言葉での物語りの時制。Cf. NF-​1876, 15​[15][18]」「間斷無い在りきGe­we­sen­sein=既在、曾てのであること。seinの過去分詞、乃至は完了不定詞からの名詞化]「生に對する歴史の利害について」*1前掲反時代的考察』pp.123-​124相當として過去を斷ち切れず尾を曳くのが人間であり、總じて「それ自體としては如何なる認識追求も、その本質によって、永久に滿足させられないし滿足させないものと見える(「ギリシア人の悲劇時代における哲學」ちくま学芸文庫版p.394相當)、と? 自己認識も亦然り、か。

――直接に自己観察を行なっても、自分を知るken­nen zu ler­nen=知るに至る、〜と知り合ひになる、見聞する、思ひ知るには、およそ不十分である。われわれには歴史が必要である[Cf. NF-​1876, 23​[48]。なぜなら、過去が幾百の波をなしてわれわれのなかに流れこみつづけているからである。それどころか、われわれ自体が、一瞬ごとにわれわれがこの流れから感知するところのものにほかならない。そしてここでさえもやはりわれわれが、一見して自分たちの最も固有且つ最も個性的な本質と見えるものの流れのなかにくだってゆこうとするとき、ヘラクレイトスのあの金言「ひとは二度と同じ流れのなかに踏み入らない」が重要な意味を持ってくる。

中島義生譯『人間的、あまりに人間的  ニーチェ全集6』「第一部 さまざまな意見と箴言」二二三前掲ちくま学芸文庫p.166

内觀Selbst­be­ob­ach­tung=自己觀察。Cf.『人間的、あまりに人間的 四九一『悦ばしき知識』三三五、『生成の無垢』二四七​・前掲書p.147=NF-​1885, 2​[103]、『権力への意志四二六NF-​1888, 14​[27][28]を頼みに自ら知るだけでは足らぬとなれば、「Geg­ner=對戰相手]によって己れ自身を知る前掲悲劇の誕生 ニーチェ全集2』所收「ホメロスの競争」中「 初稿から」一〇、p.339=NF-​1871, 16​[19]と言ふか他者の衆合として自己を知ると云ふか、恐らくは、他者といふ鏡(歪曲遠近法(アナモルフォーズ)向きの歪んだ鏡だらうが)に映し出して見たり、外界に働き掛けて反作用を蒙ったりして、思ひ知らされることにならうか。…​…迷へる哉ツァラトゥストラよ、亂反射しない正反射の鏡面なぞどこに求めて得られよう、よもや歪像鏡以外に「現実と自己を正しく映し出す平面鏡(村井則夫『ニーチェ――ツァラトゥストラの謎中公新書二〇〇八年三月、p.192が期待できるとでも?

[…]おまへの友たちの顏は何であるか? それは或る凸凹して不完全な鏡に映った、おまへ自身の顏なのだ。

『ツァラトゥストラ』第一部「友人について」14ちくま学芸文庫版上p.103相當

私は澄んだ滑らかな鏡が我が教へのために要る。そなたらの表面では、私自身の肖像すらも歪む。

『ツァラトゥストラ』第四部「挨拶」42ちくま学芸文庫版下p.263相當

補助線(或いは脱線)はこれくらゐにして――さて、「汝自身を知れ」を「自己認識」と言ひ換へた須藤によれば、『道徳の系譜学』において「ニーチェは認識者の自己認識の試みを三段階に構想」して「第一に、ニーチェ自身の思想的由来の自己認識(第四章p.166)を取り上げた…​…が、その一方、『道徳の系譜學』序文第一節を全文引用した上で「したがって、あくまで――基本的には――系譜学者として認識者の立場を堅持しながら、しかも認識者の自己認識の欠如を意識化し問題化してゆかねばならない(第四章「一 『道徳の系譜学』の系譜学」p.168)と解釋するのであれば、さう言ふニーチェの自己認識にも不備を認識せずにはおかなくなる筈と思ふがどうか。その序文第一節(第四章一pp.166-​167所引)からして「われわれはわれわれのことがわかっていない、われわれ認識者が自分自身のことをわかっていないun­be­kannt=未知な。初出p.75での譯文は「われわれ認識者は、われわれ自身がわれわれ自身に知られていない」]に始まって「われわれにとってわれわれはなんら認識者ではない​…」で結ばれ、自己認識不全を力説してゐなかったか(Cf.『生成の無垢』六八三​・*1前掲ちくま学芸文庫版p.431=NF-​1878, 32​[8]、仝一〇六一​・p.553=NF-​1880, 7​[39]『曙光』一一六NF-​1883, 12​[40]1885, 40​[44]。これを發展段階式に「中期では[…]、道徳批判者として自己認識が欠如していたのに対し、後期にいたって、[…]認識者としての自己の自己認識が可能となった、とニーチェは示唆しているのである(仝p.169)などと自己克服の物語(ストーリー)であるかに見せ掛けても、それに盡きず「認識者にとっての自己認識の欠如は単なる偶発的事実ではなく、本質的必然性である(p.169)の意だと強調する以上、その限りで識り得るのは精々「無知の知」まで、「汝自身を知れ」と云ふ命令は完遂不可能であり、己れを知ることはニーチェ自身にも果たし得ぬ永遠の宿題と言ふか、どこまでも未完成な途上の試みと見るべきか。けれど、その「後期」ニーチェとて免れない自己認識上の盲點や錯誤について追及しようとしないのが本書の訝しい所で、後期になるほど缺點に盲目となるのは進歩史觀と同流か、單に吾が佛尊しなのかミイラ取りがミイラになったのか。須藤が言ふ「ニーチェ自身の思想的由来の自己認識」を檢證すると、「実際、全八節からなる『系譜学』序文は――とくに、その第二節から第五節までは――道徳思想家としてのニーチェ自身の系譜学を開陳した、という性格が強い(pp.169-​170.)と目され、確かにそこで少年期に懷胎した裏返しの神義論(辯神論)(第三節)やらパウル・レーからの刺戟(第四節)やら思想上の來歴が自傳風に回顧されたとはいへ、それであの「ニーチェ自身のキリスト教道徳に対するかねて来の批判的スタンス(第五章四p.219)の由來が判明したとまでは言へないのではないか。その批判への意志は無前提に成り立つものなのか、その同時代への反時代的な反抗心がどこから來たのかを語ってなければニーチェの歴史的=系譜論的な自己批評はなほも不徹底だったことになるのだが?

實際讀んでみたらどうだ、中でも『道徳の系譜學』「序言」第三節にて冒頭から「自分としては公言したくはない私に固有のある疑惑」「それは私の少年期に、ひとりでに、抑えがたく、環境や年齢や戒めや慣習に抗して現われてきたもので、ほとんど私の先天性ア・プリオリと呼んで差し支えないような疑惑である​(前掲ちくま学芸文庫版p.362)などと言ふ邊り、説明拔きに生まれつきの個性なのだと獨斷する天才神話さながらだったではないか。それ以上は「背後遡行不可能 un­hinter­geh­bar(第三章p.145、第六章p.224・225・251・253、補論1​p.269)といふわけか? しかし、やはり須藤の讀み飛ばした所だが、ニーチェは同じ節の半ばで「若干の歴史学的および文献学的な習練が、心理学的な問題一般にたいする生得の選り好みの烈しい感覚も手伝って、ほどなく私の問題を別なものに変えてしまった(前掲p.363)と述べてをり、依然簡短に過ぎて説明不足ではあるが少なくとも心理學的選好と違って歴史學・文獻學教育の方は後天的(經驗的)なのが明らかなので、その竝び稱される歴史學や文獻學やの影響史を探ることならばニーチェの個人史(履歴)への穿鑿心を越えた學問的な課題として遂行可能でないか。史學史・文獻學史の流れの中からのニーチェ的思考の發生を觀察すること、「ニーチェの歴史思想」でなく歴史思想におけるニーチェ的モーメント、といふ主題では如何? さすれば先述の「認識者の自己認識の試みを三段階に構想する」ニーチェの、「第一に、ニーチェ自身の思想的由来の自己認識」「次いで、ニーチェの思想的先駆者における自己認識の問題」「第三に、近代的科学者一般としての認識者の本質規定(p.166)といふ問題設定にも、歴史的にアプローチし直すことができようか。

須藤著が引用してゐた『曙光』九五「決定的論駁die end­gül­tige​ =最終的なもの]としての歴史的論駁」を想起しようか、曰く「――かつて人は、神が存在しないことを証明しようと努めた、――今日では、神が存在するという信仰がどのようにして発生しなにによってその信仰が重みと重要性を得たのかを示す。そのことによって、神は存在しないという反対証明は、余計なものとなった(第三章「二 思考の発生史と認識の意味」pp.130-​131所引。ニーチェ原文の強調體に合はせ傍點を補った)云々​…​…愚問が愚答を喚んで却って問題を山積させ解決が遠のくといふ負の連鎖に對し、問題を再設定して歴史に解を求めることで疑似問題が解消されたといふ實績があるではないか。かうした問題設定の變形は、のち『道徳の系譜學』で述べた所と同型ではなかったか。同じ一段を引きつつ須藤の前著が「『人間的、あまりに人間的』以来の思考の発生史の延長上にある、この歴史的論駁は六年後、『道徳の系譜』(一八八七年)において、全面的に展開されることになるだろうが(『ニーチェ 〈永劫回帰〉という迷宮』第四章「2 隠れたる神の正体」前掲書p.206)と前未來形風に豫告してゐたのは、まづどこに當て嵌まるか。『道徳の系譜學』「序言」第三節によれば、曾て「われわれの善と悪とは本来いかなる起源を有するかという問題」を懷いた少年ニーチェは「神を悪のとなした」ことで解答としたのであったが(前掲ちくま学芸文庫版p.362。Cf. NF-​1878, 28​[7]1884, 26​[390]=『生成の無垢』一二三五​・前掲書p.6191885, 38​[19]、「神学的先入見を道徳的先入見から切り離す」ことで「もはや悪の起源を世界の背後に求めるようなことはしなくなった」後では問題はかうなる――即ち「人間はいかなる条件のもとに善悪というあの価値判断を考えだしたか?(仝p.363)。このやうに形而上から經驗的次元へと、また起源論から條件分析へと、「歴史学的および文献学的な習練が、[…]問題を別なものに変えてしまった(p.363)のに倣って、問題は歴史的な設問に變換して問ひ直すべきではないのか。

だが歴史學はひとまづ措いてもニーチェの前歴である文獻學に關しては、本書ではなぜか扱ひが宜しくない――なぜか? 『道徳の系譜學』に遡ること十三年前の一八七四年刊『反時代的考察』第二篇「生に對する歴史の利害」序言の最終段落*8を引用しつつ(第二章「一 題名の問題」p.83)、「しかるに、引用の文面に目立つのは、反時代的な古典文献学に従事している自分が同時代との関係で有するわたしを苛む感覚はそれだけで、自分の反時代性を保証し、同時代に対する自分の批判的スタンスの真正性を立証してくれている、との自負の誇示である(最終第一〇節ではさらに若さ(青年)Jugendということに、反時代性の真正性の保証が求められる)。古典文献学およびそれにもとづくこの感覚だけは、どういうわけか、歴史学の熱病の影響をなんら蒙らないかのようである(p.84)と難ずる須藤は、その直前に「だが、古典文献学とは過去についての一歴史学でなくて、なんであろうか。そうだとすれば、歴史病の事実と正体を暴くはずの古典文献学それ自体も、したがって、古典文献学徒としてのニーチェ自身も、根底的に歴史病を病んでいることになろう。同じ病に罹患している者に、病の本体が剔抉できるだろうか(p.84)と問うてゐたが、この修辭疑問は適言だらうか。歴史學や文獻學を輕くあしらふのは、どうも不用意でないか。

他方で同時代への批判については「時代のやましい良心であるとは、時代に罹患しているのみならず、罹患していることを適確に悩み意識しているということにほかならない(第六章三p.250)と言ひ切ってもゐて、共に病人扱ひでも「デカダンスという中毒症に罹患した近代人(仝p.249、序文p.17)に自己解剖ができると認めるのに歴史病患者(の古典文獻學徒)にはできなからうと見縊ったのはどうしたわけか。『ヴァーグナーの場合』での同時代批判が「『系譜学』の手法とパラレルである」と類比され、「伝統同時代[…]では、その認識や批判の方法は、具体相が一方で異なりつつも、深層において通底する」と相同が言はれる以上(第六章「四 おわりに」p.252)、竝行して、歴史中毒者も歴史的過去の認識(「発生史」)と批判とが可能であるはずでは? 歴史病患者における自己批判の困難さについて古典文獻學者たる前期ニーチェは自覺不足だったので「その超克の模索については、やはり、それから十数年後、後期ニーチェを待たねばならない(第四章p.165)と言ふのが須藤の評する通りだとしても、それで、文獻學者の儘だったら未來永劫誰にもできないであらうことになるわけでもあるまいし、對稱性を損なってまで歴史病の方だけ治療の難度を上げる理由が何かあるのか。却ってそれどころか、「伝統としての歴史的過去と同時代という名の現在」の兩者は「その認識を試みる者に対し、いわばあまりにも近いがゆえに、認識困難となるのであって、その点では互いに共通している」と見ながらも、むしろ同時代の方が「時間的距離が基本的に欠如している」分だけ歴史的過去よりも形象化した像を結びにくい(pp.252-​253.)と論じてゐたではないか。歴史病患者の歴史認識と現代人の同時代認識と、難度が高いのは一體どちらか。自身がそれによって形成されてゐる傳統を對自化するのと自己がそのうちに位置する現代の本質を剔抉するのと、果たしてどちらかがより難度が高いのか。…​…御都合次第でどちらでもいいのか?

のみならず、確かに文獻學には歴史學と相重なる所があるけれども、その面だけ見て歴史學の一種とまで決めつけるのは性急に一面化してないか。「過去についての一歴史学でなくて、なんであろうか(p.84)とは反語の疑問文であり「否、それ以外の何ものでもない」以外の應答は豫期してないのだらうが、歴史學ではない文獻學の特性が何であるかと假にも問ふのであれば、同じく第二反時代的考察の序言結尾を引きながら「ニーチェの告白を見ている中に真正なフィロローグ[文獻學者]にはヒストーリケル[歴史學者]をせめる責務があるのかもしれないという気がしだした。古典文献学と歴史学との間にはぬくべからざる垣根があって、どうしても折合いのつかないものがあるのではないだろうか」と問題提起した斎藤忍随「フィロローグ・ニーチェ――ニーチェ・コントラ・ブルックハルト――*8前掲『幾度もソクラテスの名を 』p.59)を想起すべきではなかったか(これを參考にして拙文「アナクロニズム」で註疏*8に少々辨じたが、もっと本格的な論考を誰か讀ませてくれないか)。斎藤忍随の名は本書卷末「人名索引」には立項無いけれど第二章「二 正義の問題」(p.88)に著書『知者たちの言葉』を參照してゐるし、第四章でも初出では同じ書を擧げたのを本書では「先にも記したように(p.163)とだけ加筆して斎藤著への言及を省略してしまった次第だが、同じ著者の古代ギリシア哲學紹介書だけ掲出して肝腎なニーチェ論を默殺するのはニーチェ研究書として不自然でないか。斎藤論文以外でも、「Hi­sto­riePhi­lo­lo­gieの相反」は西尾幹二の評傳『ニーチェ 第二部』第四章第三節中央公論社、一九七七年六月、p.311以下→『西尾幹二全集 第4巻 ニーチェ国書刊行会、二〇一二年十月、p.595以下。Cf.『西尾幹二全集 第4巻』「追補 渡邊二郎・西尾幹二対談ニーチェと学問p.745以下)が小見出し立てて論じた所であり(同書「あとがき」p.391→全集版p.679に據れば「斎藤忍随氏からは、[…]古典文献学とニーチェとの関係をめぐっても貴重なヒントを与えていただいた」とか)、古典古代を規範と仰ぐ面が各時代を等價に眺める客觀主義と相容れないので文獻學は歴史學と同一視できないと説く異論が既に存する以上、先行研究を踏まへてそれらへの反論として自論を提出しなくては論文作法に悖らないか。研究史に目を瞑って自説に不都合な文獻は相手にしないのが歴史思想を論じる著者の心術か。それとも失念したのか知らなかったのか、それでもせめて斎藤論文や西尾著にも援引されたW・イェーガー「文獻學と歴史學」(未邦譯なれど藤井義夫の紹介書評はあり、東京商科大學一橋論叢編輯所『一橋論叢』第二卷第一號、岩波書店、一九三八年七月。三島憲一「イェーガー*5前掲『ニーチェ事典』p.23も看よ)等のニーチェ論を離れた一般論へと行き着いてこの二系統の學知の異同比較論に想ひ到っても良かりさうなものでは? 第一、ニーブールからランケ前後の史學史を少し調べれば知れることだが、文獻學を一種の歴史學と分類するのは系統發生上から言へば逆さまで、諸學を培った文獻學からその新種として近代歴史學も發達し母屋を乘っ取る形となったと觀る方が史實に即してないか。さういふ學史に依據した上で、西尾幹二も「すなわち、ニーチェの否定したのは文献学ではなく、文献学の歴史化であった(「58 古典文献学とニーチェ――かつて文献学たりしもの、今や哲学となれり」、渡辺二郎・西尾幹二編『ニーチェ物語 その深淵と多面的世界』〈有斐閣ブックス〉一九八〇年十二月渡邊二郎・西尾幹二編『ニーチェを知る事典 その深淵と多面的世界「B 諸学の中におけるニーチェ」、〈ちくま学芸文庫〉二〇一三年四月、p.473/改題「古典文献学(フイロロギー)ということばの使われ方西尾幹二全集 第5巻 光と断崖― 最晩年のニーチェ 掌篇国書刊行会、二〇一一年十月、p.450)と要言したのではなかったか。

しかも、文獻學者たることと反時代性との結びつきに對して疑ひを插むのならば、正に『反時代的考察』の續篇にすべく書き掛けた「我ら文獻學者」草稿群が遺されてゐること、そこで古典文獻學教授たる自身を含めた文獻學の自己批判をニーチェが試みてゐたこと、これらの事どもに關して一語も無しで澄ましてゐるのは手落ちではないか。なぜ「我ら文獻學者」(前掲『哲学者の書』「 われら文献学者をめぐる考察のための諸思想および諸草案」)を一顧だにしないのか、批判版全集では「遺された斷片」の中に解體されてしまったからだらうか。夙に三島憲一初期ニーチェの学問批判について――ニーチェと古典文献学氷上英廣編『ニーチェとその周辺朝日出版社、一九七二年五月→三島憲一『ニーチェとその影 芸術と批判のあいだ』未来社、一九九〇年三月→増補『ニーチェとその影〈講談社学術文庫〉一九九七年九月)は「我ら文獻學者」に論及してゐたがあの讀み方(拙文「アナクロニズム」註疏*10に批判)でもう間に合ってゐるとかだらうか、だったら三島であれそれ以外であれ註で參照するだけでもしておくべきでないか。自體、文獻學とはニーチェにとって何であったかの判斷は、「我ら文獻學者」に限らずとも他に文獻學についてニーチェがどう書いてゐるか、それらを全然檢討しないで片付くことだらうか。いつもながら自家撞着も辭さぬニーチェは贊否兩論述べてゐて文獻學への思ひは愛憎こもごも兩價的(アンビヴァレント)、一筋繩でゆかぬにせよ、だからこそ簡單に解決濟みみたいに扱はれる問題ではないのだが? いやさ、たとひニーチェの企圖に無くとも文獻學論・文獻學史は面白さうではないか、文獻や言葉に腐心する人文學の徒であれば食指動かさずにゐられようか。まさか、文獻學フィロロジー哲學フィロソフィーの領分には非ずと遠慮してゐるとか? 思へば『ニーチェ 仮象の文献学』村井則夫著、知泉書館、二〇一四年四月)と題する本でも文獻學(それも譬喩なるのみ)よりか假象論に力が入ってゐたし、現代哲學の徒には文獻學へ立ち入れなくする障礙でもあるのかしらん?――考證學(éru­di­tion=學識、蘊蓄)に對立したデカルト主義者の歴史輕視野沢協解説 メルキセデクの横死――『歴史批評辞典』の歴史批評」四「3 歴史批評とデカルト主義」、『ピエール・ベール著作集 第三巻 歴史批評辞典 A - D法政大学出版局、一九八二年三月、p.1292以下)もさうだが、なにか思想家が多讀多識を見下す惡風、「要するに、彼らは何かを学ぶよりも何も知らないことの方が一層哲学的である理由をいつも見いだしたのである(『反時代的考察第三篇 教育者としてのショーペンハウアー*1前掲ちくま学芸文庫版p.340)と云ふわけでなしに? 本場ドイツではナウマン版ニーチェ著作集に入らなかった古典文獻學論考・講義が別扱ひで漸く大八つ折判グロースオクターフ著作集第三部『フィロロギカ』全三卷(クレーナー版ⅩⅦ​・ⅩⅧ​・ⅩⅨ卷、一九一〇〜一三年)として追補されたものの、その大八つ折判全二十卷(索引卷含む)の流布版である小八つ折判クラインオクターフ全十六卷では除外、グロイター版全集で第二部(一九八二〜九五年)に再録されるもデジタル版eKGWB、二〇〇九年ウェブ公開)への轉載は闕略となってゐるし、日本語版ニーチェ全集は少なく數へても五種以上出たのに文獻學方面の邦譯が教授就任講演「ホメロスと古典文獻學」のほか一部に留まるのは、哲學者ニーチェは時を超え言語を越えて讀み繼がれるも文獻學者はさにあらずといふことか? 時勢に取り殘された遺物の如き文獻學の非時代性に比べ、哲學は中々どうして即時代的ではないか。變通無礙、時代が違っても合はせられるのは、つまり時代差を無かった事にしてゐるのは、己が時代制約性に盲目な鈍感力か、歴史性を白紙にしてしまふ健忘力に惠まれてゐればこそか、これも「非歴史的に感覚する能力」「忘却する力(「生に対する歴史の利害についてちくま学芸文庫p.124の仕業であったのか。さうやって時世便乘で適應してきた哲學への反動か、「思えば、生の哲学や実存主義、あるいはナチズムの予言者、ポスト・モダンの守護神と、出ずっぱりだった二十世紀諸思潮の表舞台から離れたところで、少々ニーチェを休ませてやりたいという気持ち」を漏らす神崎繁は古代哲學專攻の立場から「近年の古典文献学者としてのニーチェの再評価」に觸れて「その意味でも、ウィリアム・カルダー三世やアルバート・ヘンリックスといった、古典学史にも造詣の深い研究者によるニーチェ評価が、彼の哲学の理解にも反映されなくてはならないと考えたのである『ニーチェ どうして同情してはいけないのか「あとがき」、〈シリーズ・哲学のエッセンス〉NHK出版、二〇〇二年十月、p.122)と述べてゐたから、その線で「我ら文獻學者」再論も興を喚ばないか。

須藤は『反時代的考察』第二篇序言に對して「そこには、自分のうちに食い込み自分に同化してしまった時代のからいかにして距離をとりながら対処するのかということに関する切実な問題意識は感じられない。だが、それこそ、後期ニーチェが系譜学などをモットーに格闘することになるテーマなのだ(第二章一p.84)と評し、「その一証左として」十四年後に刊行された『ヴァーグナーの場合』序言との對照により時代批判者が「古典文献学者」から「哲学者」へと役替へしたことを見出し(pp.84-​85、第六章註(10​pp.262-​263に要點再掲。*8後半も看よ)、前者から後者へ至る間には「さらに十数年に及ぶ思想的苦闘が要求されたのである」と時間上の經過を思想上の懸隔に變換し、「いずれにせよ、後期に至ってニーチェが生に対する歴史の利と害についてを回顧した際、自分も歴史病に罹患していたことが強調されはしても、古典文献学者であるがゆえのあのわたしを苛む感覚――同時代への批判の真正性を保証してくれる特権的感覚――への言及がもはや皆無となる(p.85)と結論するのだが、「後期」の結果から目的論的に「前期」を顧みるために『反時代的考察』前後に潛在した可能性を見損なってないか。未定稿「我ら文獻學者」もその潰えた可能性の一つだったのでは? もし過去も現在も別樣であり得たとしたらどうだらう。「歴史は、新たな、ないし未発に終わった可能性の貯蔵庫として、その限り、非連続的なものとして、理解されることができるし、またそうされねばならない」即ち「歴史偶然とりきめ・しきたりだとはこのことである(第五章「三 偶然としての歴史」p.216)と言ひ、「系譜学とりきめ・しきたりとしての偶然性を暴露する。[…]いずれにせよ、現在は、また歴史を規定し担う伝統は、数ある新たな、また未発の可能性にまぎれた、一つの現実化した可能性にすぎなくなり、非連続的存在として剥き出しにされ、そうしたものとして批判に差し向けられる(仝p.217)と云ふ*9のであれば猶のこと、ニーチェのテクスト群をも偶然としての歴史の産物と見做し、「歴史偶然性――[…]この視座からするなら、歴史とは無駄犠牲の巨大な堆積にほかならない(p.215)と言ふその無駄な犧牲にも目を注ぎたいものではないか。だのに、この第五章における偶然論に反して、生憎と序文で「本書の意図」をニーチェに於る「思想的変遷を――変遷の内在的理由ともども――追跡することにある(p.9)と宣言するやうでは、所詮「歴史のこの本質的偶然性が、不合理が理解できない。[…]歴史には、何らかの形で法則性なり方向性なりが内在すると思念されてしまうのである(第五章三p.214)​…​…つまり著者は自ら非とした「歴史合理化しようとする、この体制化された抜き去りがたい心性(p.214)起源と現在の転移の体制化された心性(p.215)を脱却し切れずにゐて、それだから外發的偶因の犧牲になった無駄な混亂は認識外に排除されざるを得ないのでは? となると、少なくとも「我ら文獻學者」の試みは論點に値しない徒事だと著者は否認したのか(それなら無視でなくさう明記すべきだが)、それとも遺稿中に埋沒した續『反時代的考察』の試行錯誤なぞ(はな)から目に入らなかっただけか。

いやいや、本書の帶にも記された内容紹介文は「ニーチェの全著作を膨大な遺稿群も含めて隅々まで踏破し」と謳ってゐるし、本書でニーチェの遺稿斷片からちょこちょこ利用してゐる著者には釋迦に説法、今さら言ふまでもないか? はたまた、言ふは易し、か。名のある成書を知った後から山積みの未成稿群を讀んでも無駄な冗長性(Cf.山内志朗『〈畳長さ〉が大切です』〈双書 哲学塾〉岩波書店、二〇〇七年九月)にしか見えず精々が補足扱ひか、或いはその逆に、覺書き(ノート)の散亂する斷簡に筋道つけようとすれば公表された既刊著書をアリアドネーの絲にして縋るほかないとか?

[…]ニーチェ哲学の全貌は遺稿をまつまでもなく、公刊著作のうちに基本的に現われているという一部の論者の主張にはやはり無理がある、といわざるをえない。こうした理解については、遺稿を知った者の目で後知恵的に著作をみれば、そうも言えるところがある、というのがせいぜいのところであろう。

補論3第一部註(8)、p.388

後知惠バイアスは歴史認識に附き纏ふもの、要注意か。さうとも、著者は言はなかったか、「ヘーゲルとニーチェ――それは犠牲をめぐる歴史の意味構成の分岐点にほかならない。(完成した)歴史の意義によって犠牲を正当化するのか、それとも、犠牲をもって歴史の意味の可能性の礎とするのか――(補論4「三 犠牲の行方pp.416-​417.)と? また言はずや、「ここで、議論はきわどい局面にさしかかることになる。なぜなら、犠牲無駄超人の存在を可能ならしめると考えるのではなく、逆に、超人目的として犠牲は捧げられると、ともすれば発想されてしまうからである(仝p.415)と? さう、ともすればニーチェですら(!)曾ての學者時代の文業(『反時代的考察』第三篇「教育者としてのショーペンハウアー」を想ひ返した際に「一つのもの[哲學者を指す]になるために――一つのものに達しえんがために、多くのものであり、多くの場所にいたということが、とりもなおさず私が利口であるゆえんなのだ(『この人を見よ』「反時代的考察*5前掲ちくま学芸文庫版p.110)と手柄話にしてしまったみたいに、目的に收束しなかった無駄な經路は認容されないか、現在と不整合な過去が出て來ても結果に合はせて正當化されがちではないか。『道徳の系譜學』第二論文第十二節より敷衍して須藤曰く、「どれだけの無駄 Un­ko­sten[=冗費]犠牲 Op­ferを要求するのかで、そのものの意味や価値が決定されてくる(第五章「二 経済としての原理」p.209)、「それどころか、犠牲ないし無駄こそが歴史の意味を形作ると考える。(補論4三p.414)​…​…「しかし、力の過剰において可能となるのは例外や逸脱にほかならない以上、本来そうした例外や逸脱を締め出すものとして構想されていた経済にとっては、それは皮肉な結果といわねばならないだろう(補論3第一部「三 世界の経済」p.363)​…​…文獻學者ニーチェは哲學者ニーチェの形成を目的にした犧牲だったのだらうか、さうではなくその不經濟な無駄が(皮肉(アイロニカル)にも)哲學者たることを可能としたのだらうか――或いはむしろ、それ以外でもあり得たことの可能性なのだとしたら?

哲學者たることへ收斂させようとするのは、著者が哲學科出身だからか、そもニーチェの時代から哲學者は文獻學者以上に權威ある肩書きだったからか​…​…大學就任講演での締めの銘句(モットー)かつて文献学たりしものは、今や哲学となれり(「ホメロスと古典文献学」、前掲悲劇の誕生 ニーチェ全集2』p.493)みたいに?――いっそ「なれり fac­ta est」を成り果てたの意に取り、哲學者は成れの果てだとすれば? 『反時代的考察』第二篇序言を『ヴァーグナーの場合』序言と比較して「生に対する歴史の利と害についてでは古典文献学者に振り当てられていた役割がここでは哲学者の担当となっている(第二章一p.85)と指摘した須藤だが、視界から文獻學者を退場させると歴史學その他關聯諸學に通じる展望も失ってしまったのではなからうか。須藤も前著『ニーチェ 〈永劫回帰〉という迷宮では「やがて、哲学者の方が文献学者を押しのけ、ついには葬り去ってしまうことになる(第一章「2 自伝を書く少年から哲学者へ」前掲書p.30)と約述しつつも「ただし、哲学と文献学は二者択一的な排他的関係をなすのではない(仝「3 『悲劇の誕生』をどう見るか」p.37)と留意する所がまだあったのに、それとていかに兩立するのかは處女作『悲劇の誕生』の名を擧げるのみにて「文献学の実証(仝p.37)との絡みは不詳、どこが文獻學でどう實證的か論究する用意ありや否や――どうも實質を伴はず文飾の域を出なかった? 第一、柳沼重剛悲劇の起源は祭祀か青土社『現代思想』一九七三年八月號「特集=ケレーニイ/新しいギリシア像の発見」。Cf.柳沼「二人の古典学者について」『西洋古典こぼればなし』〈同時代ライブラリー〉岩波書店、一九九五年十月)を前に古典學者ニーチェを擁護できるのだらうか。大體あの初期悲劇論は、後年既に文獻學研究より離れて久しいニーチェをして「あるいはせめて文献学者として」語るべきだったかと後悔せしめた(「或る自己批判の試み『悲劇の誕生』ちくま学芸文庫版p.17)くらゐ、本人は文獻學書でなく美學か何かのつもりだったとか五郎丸仁美初期ニーチェ哲学における美的遊戯 カント、シラー美学との連関を中心に』第Ⅰ部第1章第1節「(a)美学の書としての『悲劇の誕生』」、国際基督教大学大学院比較文化研究科提出博士論文、二〇〇〇年三月、pp.19-​24.​→『遊戯の誕生 カント、シラー美学から初期ニーチェへ〈ICU比較文化叢書〉国際基督教大学比較文化研究会、二〇〇四年四月、第部第1章「第1節 美学書としての『悲劇の誕生』」pp14-​16.​…​…もっと適例が擧げられないのかしらん。一往、本書でも『道徳の系譜學』第一論文で語源學に訴へた所について「ニーチェはむしろここで、古典文献学からの自らの出自を再確認し肯定している。彼は、専門的学者としては、つまり認識者としては、まずなにより古典文献学者であったし、また、それに尽きていた、といってよい(第四章三p.183)と言ひ添へてはゐたが――しかしニーチェの呼び掛けも「言語学Sprach­wis­sen­schaft、なかんずく、語源探求は(p.184所引)であって、語源論は既に文獻學と言ふより十九世紀の新興科學である比較言語學にお株を奪はれつつあったのだが?(Cf.「我ら文獻學者」大八つ折判(グロースオクターフ)版著作集改編128番=クレェーナー・ポケット29NF-​1875, 3​[4]、前掲『哲学者の書』pp.481-​482./谷本慎介譯『ニーチェ全集 第五巻(第期)白水社、一九八〇年八月、p.118)――、そこで「後期」にも古典文獻學者としての一面を認めたのだって、「ニーチェは語源学を自説開陳のための単なるきっかけ、ないしダシに用いているわけでは決してない(第四章三p.183)と辯護する中でその「学的姿勢(p.184)を裏書きしようとした傍證に過ぎず、裏讀みして勘繰るなら、學者=認識者としては文獻學者に盡きると斷じたのはもしや哲學者は認識者を超えた存在だと誇りたいのか、哲學とは認識論に盡きぬそれ以上の何かだ(存在論とか、眞理の發見でなく發明だとか?)と言ふつもりか、されどしかし、逆に見ればその哲學者の認識とは文獻學により基礎づけされてゐるといふことではあるまいか。書字を認識せず文獻學を土臺とせずしてどんな哲學が成り立つか(文獻(テクスト)を離れ文書を成さぬ純粹思考の哲學があるとして學たり得るか)、さては不斷に文獻學からの超出を圖るイデオロギー的上部構造をば哲學と稱するか。それなら、文獻學が哲學に取って代られたのではなく後年も哲學者(フィロゾーフ)のうちに文獻學者(フィロローグ)が猶存したと見てはどうか。

ニーチェは『この人を見よ』の扉に「人は如何にして本来のおのれになるか」Wie man wird, was man ist? の一句をサブタイトルとしてえらんだが、これに私は卑俗なUmdeutung[再解釋、改釋]を施して、ニーチェは始めフィロローグであった、そして最後に矢張りそのフィロローグになったという意味にとりたいような気がする。

斎藤忍随「ニーチェとクラッスィッシェ・フィロロギー」『幾度もソクラテスの名を 前掲書p.49

同趣旨でもっと深刻さうに述べた變奏も見られる――恐らく、つい口にしたくなる聯想であり、利いた風でゐて「卑俗な」紋切型なのかも?

運命愛 amor fati の思想とあい表裏する、ツァラトゥストラ・ニーチェの達しえた永遠回帰の思想、それゆえにこそ最晩年のあの自伝的遺著『この人を見よ』の副題としてえらばれた、ピンダロスの〈汝が在るところのものになれ〉に由来すると言われる〈いかにして人は、人が本質的に在るところのものに現実的に成るか〉Wie man wird, was man ist の一句を想起するなら、フィロローグとして出発したその生涯が、またフィロローグとして終わったという、この回帰的な出会いの根底に、ニーチェ的人間の本質がさぐりあてられうるのではなかろうか。

原佑『ニーチェ 時代の告発』「序章 フィロローグ・ニーチェ」以文社、一九七一年十月、p.14

似たことは須藤とて前著で書いてゐたのに、よもや忘れたか(ニーチェが後知惠で自己正當化したやうにも讀めようが)。

ピンダロスの詩句を典拠としたものであるが、was man istは「本来のおのれ」とも「現在の自分」の意味にも取れる。[…]

『この人を見よ』「利発」第九節では、自分が文献学者であったという、was man istからするなら、「回り道」「失策」であり自己誤解であったものが、それでもwas man istにとっておおいに役立っているのであって、その限り、わが「我欲」「自己陶冶」の意識されざる「利発さ」の表われであった、とも述べられている。

『ニーチェ 〈永劫回帰〉という迷宮』「第一章 ニーチェの始まり――INCIPIT」中「6 再び自伝へ――『この人を見よ』」前掲書pp.73-​74.

ニーチェにおける文獻學は古層と言ふか執拗低音と云ふか、民俗學で謂ふ殘存survivals)に似て、前期後期を截然と切り離す時代區分に固執しては殘存は前代に押しやられてしまってそれが今なほ現存してゐる現在性に意味を見出せなくなるが、「前代というものは垂氷のように、ただところどころにぶら下ってきているのではないか(柳田國男「民俗学から民族学へ」中「時代區劃という概念」、『民俗学について 第二柳田國男対談集』〈筑摩叢書〉一九六五年九月、p.66。「實驗の史學」五、『定本 柳田國男集 第二十五卷』筑摩書房、一九六四年一月、p.512=『柳田國男全集 22』「日本民俗学研究」中「採集期と採集技能」五、筑摩書房、二〇一〇年九月、pp.417-​418も看よ。「民俗学から民族学へ――日本民俗学の足跡を顧みて」「実験の史学」共に、柳田國男『日本の民俗学』〈中公文庫プレミアム・日本再見〉二〇一九年六月、所收、p.317​・pp.167-​168.)。謂はば斷層面に露出した「生きてゐる過去」(アンリ・ド・レニエ)が文獻學か。ニーチェが「先史とはあらゆる時代にそこにあるもの、換言するなら、再び可能であるところのもの(第四章四p.190所引、『道徳の系譜學』第二論文第九節。前掲ちくま学芸文庫p.443相當。Cf.「生に對する歴史の利害について」草稿NF-​1873, 29​[34]と書き添へてゐたやうに、それと似て折口信夫の愛用語である「發生」一九四七年初刊『日本文學の發生 序説』「聲樂と文學と」中「三 短歌の發生」初段→『折口信夫全集 第七卷 國文學篇 1〈中公文庫〉一九七六年二月、pp.227-​228.→『折口信夫全集 4 日本文学の発生 序説(文学発生論)中央公論社、一九九五年五月、pp.182-​183參照。ニーチェとの類比は神崎繁『ニーチェ』前掲書p.37參看)が古代に盡きず後代なほ繰り返し再生し續けるものを意味したやうに、文獻學もまた​……? 起源ではなく發生であるとは、ぶくぶく湧き立つあぶくの如く刻々と散じては現ずる生滅流轉を謂ふか。「よどみに浮かぶうたかたはかつ消えかつ結びて」(『方丈記』第一段)​…「カバラによると、神は毎瞬に無数の天使を新しく創出する。それらの天使の定めは、無のなかへ溶けこむまえに、おのおのが神の玉座のまえで一瞬神の讃歌をうたうこと、だけである野村修『ベンヤミンの生涯』〈平凡社選書〉一九七七年一月、「序 三つの天使像」p.11所引→〈平凡社ライブラリー〉一九九三年八月、p.13所引。道籏泰三譯「アゲシラウス・サンタンデル〔第二稿〕」『来たるべき哲学のプログラム晶文社、一九九二年十二月→新装版、二〇一一年十二月、p.365相當/浅井健二郎譯「アゲシラウス・サンタンデル〔第二稿〕浅井健二郎編譯『ベンヤミン・コレクション3 記憶への旅〈ちくま学芸文庫〉一九九七年三月、pp.12-​13相當)と記すベンヤミンは、この傳説を「真のアクチュアリティー」の「はかなさ」(das Eph­e­me­re)を譬喩するのに用ゐてゐたではないか野村修雑誌『新しい天使』の予告暴力批判論 他十篇――ベンヤミンの仕事 1――』〈岩波文庫〉一九九四年三月、p.103浅井健二郎譯「雑誌『新しい天使』の予告浅井健二郎編譯『ベンヤミン・コレクション4 批評の瞬間〈ちくま学芸文庫〉二〇〇七年三月、p.24相當)。しかし連續創造説(村井則夫『ニーチェ 仮象の文献学』「 仮象としての世界――ニーチェにおける現象と表現」中、一「(ⅱ) 力と自己保持」p.227參照)みたいで哲學好みだらうが、如何せん、「つねにすでに」式の汎時的な一般解は歴史性を無化してしまふか。

實は須藤も第三章第三節の初出習俗の倫理について前掲pp.1-​2.)では、「ニーチェが『曙光』(1881年)に1886年になって追加した序文(第5節)」から「私が文献学者であったのは無駄umsonst=甲斐無し]ではない。私はいまなお文献学者だろう、つまりゆっくりした読み方の教師だろう」以下を引用し、『道徳の系譜學』序文第八節で讀解の爲には反芻を要すると告げた結語に重ねてゐたのだけれど、本書收録に際し文獻學と解釋論に關するそこら一帶がざっくり刪除されて活かされなかったのはなぜだらう​…​…第二章や第四〜六章との不整合を收拾しかねた?​…​…單に紙幅の都合とでも? ニーチェが文獻學を誇る言辭は『アンチクリスト』四七​・五二*8前掲『偶像の黄昏 反キリスト者 ニーチェ全集14ちくま学芸文庫版pp.241-​242​・pp.251-​252.)にも見え、後者は「習俗の倫理についてp.6も引合ひに出した所で、最後の著作活動をした一八八八年に稿成ったものだが、それすら一時的な搖り返しだとでも? 『この人を見よ』の回想では「わたしの最初の文献学上の仕事、あらゆる意味におけるわたしの始まり(前掲『ニーチェ 〈永劫回帰〉という迷宮』第一章2p.29所引「なぜわたしはこんなに利発なのか第九節、ニーチェ原文の強調體に合はせ傍點を補った。前掲ちくま学芸文庫版p.71相當)と言ふやうに文獻學の處女論文が斯學に留まらぬ全般的な意義を擔ってニーチェの始源に定位され、他面、大學離職(一八七九年)前後には「どんなに長い時間がすでに浪費されてしまったか――私の文献学者としての今までの全生活が私の使命に照らしてみるとなんと無益にnutz­los、気まぐれにみえることか(『この人を見よ』人間的な、あまりに人間的なもの および二つの続編第三節ちくま学芸文庫版p.115)と自省したとも言ふのだから、何とまあ極端な振幅で動搖したことか。それでも、「私が意地悪く、間違った解釈技術に文句をつけずにおられないというのも、年来の文献学者のやることとして容赦せられたい(『善悪の彼岸』二二、*1前掲ちくま学芸文庫版p.49)と言った風に幾分輕口めかしてゐようと、文獻學で批評眼を修錬した事自體は搖るぐまいが? それらを見て、文獻學者ゆゑの特權的感性を自負する姿勢がなほも斷續してゐたとしないのは何ゆゑか、「生に對する歴史の利害」の頃とは何が違ってゐると言ふのだらう? …​…もしかして、變はったのはニーチェである以上に須藤の考へだったとか? どのみち反證となる諸文書を見ぬ振りしなくては論を進められぬやうなら、文獻學を過小評價する本書の問題の立て方にこそ問題があったのでないか。

よしんば『曙光』序文その他書證はそっくり度外に置くとし、たとひ後期に至ってニーチェが生に対する歴史の利と害についてを回顧した際、[…]古典文献学者であるがゆえのあのわたしを苛む感覚[…]への言及がもはや皆無となる(p.85)とした所で、沈默は否定と見做せるか、批判の據り所が文獻學者たることにあるのは否認できるか。曾て「敢へて公的に發言する者は、自分の意見を變へるや直ちに、公的にも自らに反論するwi­der­spre­chen=矛盾する]ことを義務づけられるNF-​1876, 21​[23]。Cf. 21[66]23[159]と手帳に書き留めたニーチェにしては、あるべき自己論駁さへも皆無のまま默許してゐることになる(矛盾!)のだが? 無定見の誹りを免れようとてか、自らを脱皮する蛇(『曙光』五七三等)に比するのは聞こえは良いが、剥いだ皮と向き合はずに濟むとでも? 居直って「勝手ながら私は私[の言ったこと]忘れることにさせてもらふ。なぜ矛盾し[てはいけ]ないのだ!NF-​1881, 12​[127]。Cf. 1887, 11​[92]と嘯くのが、今日は昨日の我ならずの類句(Cf. NF-​1881, 12​[128]『ツァラトゥストラ』第一部「山の木について」11、宮本武藏『五輪書』水之卷後書で自己超克の謂だとしても、無責任に昨非を忘れ去っては過去の克服にもならず不誠實なだけでは? 皮肉にも「肯定的にして否定的――この思索家は、自分に反駁してくる相手をひとりとして必要としない。そのためには自分だけで十分である『人間的、あまりに人間的 第二部二四九ちくま学芸文庫版p.448)と自贊した割には自己否定が不十分だったにせよ、他者からの批判を呼び込む異論の種くらゐは蒔かれてゐないのか。無かったことを確認する不在證明は悉皆調査を要して煩に堪へないからか、須藤は皆無と決め込んで何ら例文を擧げなかったけれども、そこに檢討の餘地ありとすれば?――ニーチェの舊作回顧としては、一八八六年より翌年に掛けて舊著を再刊した中で五點は『悲劇の誕生』卷頭「自己批判の試み」を始めとする新版序文を附したのに、何のつもりか再版『反時代的考察』全四篇にだけ著者の申し出により一八八六年八月廿九日附エルンスト・ヴィルヘルム・フリッチュ宛書翰)自序の追加が無かったこともあって、その缺を補ふ代替が求められようか。いや『反時代的考察』にも、NF-​1877, 22​[48]1881, 12​[220]「若書きにしてユヴェナリス風諷刺 Ju­ve­nil­i­a et Ju­ve­na­li­a云々の自評が一八八八年二月十九日附ゲオルク​・ブランデス宛書翰と共通)1885, 35​[48]*8前出『生成の無垢一二九六・pp.659-​661、但し表題「序言Vor­re­de.」が闕文。下記異稿群とも比較せよNF-​1884, 26​[406]*8前出『生成の無垢』一二八六、1884, 26​[408]1885, 40​[58]=『生成の無垢』一二九三、NF-​1885, 41​[2]​1.​≒『生成の無垢』一二八八→改稿『善惡の彼岸』三一NF-​1885, 41​[2]​2.=『生成の無垢』四二六・p.281=『偶像の黄昏 反キリスト者』「附録Ⅲ 『ヴァーグナーの場合』のための最初の覚え書き四六*8前掲ちくま学芸文庫版pp.475-​476.)1885, 2​[201](=『生成の無垢一二八一)等、後から序文を書き掛けた形跡はあるので、遂に書きあぐねた理由が分析されるべきだったのではないか(見た所、全四篇の總序とするには第四篇のワーグナーへの想ひが收拾つかないで均衡を失したか)。本書(第二章註(2)p.112)が參照だけしたJ​・ザラクヴァルダの第二反時代的考察研究をもっと掘り下げてみれば? 少なくとも、問題の『反時代的考察』第二篇に言及した作者後年の再解釋にはまづ『人間的、あまりに人間的』第二卷「序文」第一節(一八八六年)が擧げられ、そこで「歴史病を批判してわたしが述べたことは、その病からゆっくりと苦労しながら回復することを学んだ者として述べたのであって、一度einst­mals=曾て]それに苦しんだからといって、金輪際歴史はお断りというつもりの者としてなどでは決してない(第二章一p.86所引、『人間的、あまりに人間的 *1前掲ちくま学芸文庫版p.10相當。ニーチェ原文の引用符に合はせ「歴史」に鉤括弧を補った。Cf.草稿NF-​1886, 6​[4]と述懷したくだりは確かに文獻學こそ顧みられてないものの、あれだけ反歴史熱を煽った後に却って「歴史の手に落ちること(『人間的、あまりに人間的 』第一部一〇ちくま学芸文庫版p.30)となった自家撞着への辯解がましいし、當時その病苦を感知した者が文獻學者であったといふ事實に沿って讀解を補完しても十分通じさうなのだが、どうか。また、『この人を見よ』(一八八八年十月執筆)が「なぜ私はこんなに良い本を書くのか」と題して自作自解を書き列ねたうち「反時代的考察」の章を開くとその全四篇中で第二篇は歴史論であることについてさして筆を費やしてないものの、同章全三節は第一節での『反時代的考察』各篇概要のあと改めて第二節で第一篇を詳述し第三節で第三・第四篇を追考したのになぜだか第二篇のみ全く再説せずに飛ばされるといふ片寄った構成であり、餘りに他篇との均衡を失して明らかな記述不足である分だけ却って何か闕語法(レティサンス)(Cf.佐藤信夫レトリック認識』「第1章 黙説あるいは中断」、〈講談社学術文庫〉一九九二年九月)めいた韜晦が窺はれはしないか。なぜ第二篇だけが? 文獻學者の特權感覺から目を逸らしてゐるだけ、にしては、力餘って産湯ごと赤子を流す勢ひだが? これのプロトタイプか、既に書翰では、一八八八年二月十九日附ブランデス宛返信に初期作の自著紹介をした時も『反時代的考察』の他三篇は擧げながら第二篇には素知らぬ顏で口を噤み塚越敏譯「ニーチェ書簡集282*9前掲『ニーチェ書簡集Ⅱ 詩集』pp.140-​141.)、同類の變異形(ヴァリエーション)として同年六月廿一日附カール・クノルツ宛書翰(仝293、pp.176-​177.)でも第二篇に限って言ひ落とされ、第二反時代的考察については漸く同五月四日附ブランデス宛書翰にて先月四月十四日附E・W・フリッチュ宛を看よ)たまたま歴史學會誌に讚評を得たといふ吉報を傳へた程度で遂に自評は一言も無かった(仝288、p.162)のは、故意の省略か無意識な抑壓か​…​…ついでに、同年九月十六日附H・ケーゼリッツ宛書翰で最新刊『ヴァーグナーの場合』の編輯上の遺漏を「裏表紙の圖書一覽に反時代的考察缺くのは、ほとんど感歎に値します」と皮肉ったのだって半ば本心だったりして? かと言って眞っ向から自己批判して否定し去るでもなし、どうも蔑ろと言ふよりか「生に對する歴史の利害」ばかり別格に除けられるやうなのは、そこに著者たりし本人にも輕々には扱ひかねる何かがあって均し竝みに論じ得なかったのでなからうか。岩波書店版『フロイト全集』で「編集委員」の一人でもある須藤には先刻承知の筈だが、聯想上の缺落は精神分析流には「抵抗」と見做せ、そこで何に對して防衞機制が作動してゐるのかは大いに解釋の爭はれる所、そしてこの第二篇まるごとの回避を見たからには、文獻學を輕んじたのみと速斷せずとも、歴史病を豫後なほ重く感ずるが故に心的外傷(トラウマ)や精神的負擔から敬遠することだってありさうではないか。何にしろ今後とも歴史學を斷念しないと公言した以上それと複合したり反撥したりする文獻學とも縁は切れまいに、何故そこでニーチェ(や須藤)は歴史學・文獻學論に篤と向き合へなかったか、何が「我ら文獻學者」再考を妨げたのか。時世への對抗意識のあまり對ワーグナーや反キリスト教にかまけた所爲もあらうが、察するに、「一般に歴史学的な作業をやるものには、その職業病といってよいほどうつ病が多い(中井久夫治療文化論――精神医学的再構築の試み六2(4)歴史家の職業病としてのうつ病」、〈同時代ライブラリー〉岩波書店、一九九〇年七月、p.80​→〈岩波現代文庫〉二〇〇一年五月、p.82)と云ふ診斷の裏を返せば、躁狂じみた『この人を見よ』のやうな高調子では片付かない難題の一つが批判的歴史論であったのでは​……? 謂はゆる史料批判を含めて、事細かに關聯文獻を探索し檢證するといふ正に文獻學的な作業は、大風呂敷擴げる開放感に比べると氣が重く憂鬱なのかも知らぬが、調査を疎かにして健忘症(アムネジア)多幸症(オイフォリー)へ逃避するよりは歴史思想らしく、實直ではあるのでないか――「今日良くなされ、達者になされ得るのは、小さなことだけだ。ここでのみまだ誠實性は可能である」『ヴァーグナーの場合』「第二のあとがき」、前掲偶像の黄昏 反キリスト者』p.339相當とも言ふことだし? …​…この他にまだ、文獻學に觸れるのを忌避した回想文があるのだらうか。

假に「後期」の哲學者が文獻學者時代の特權性を取り消したとしても、では文獻學以外で時流に反して歴史病批判を可能にした素因は何か、少なくとも「前期」に文獻學者であることによって時代批判者たり得ると思はれたのは何を以てのことであったのか、その疑問が未解決になるが放置しても構はぬのか。『反時代的考察』における文獻學者の氣負ひを最初から不首尾に終るものと見切るのは結果論でないか。後から見れば無根據な自信であったにしろ、やはりどのやうにして誤ったのか・何によって惑はされたかについて、往時における文獻學者の位置づけを知識社會史的に勘案した解明が要りさうな…​…當時それなりに何か文獻學者ならではの特別扱ひを見込める雰圍氣があったのでは? しかし、ニーチェも連續講演「われわれの教養施設の将来について(一八七二年。前掲『哲学者の書』所收)や「我ら文獻學者」草稿でいま時の文獻學者どもの現世に即した順應ぶりを頻りと慷慨してゐた通り、古典文獻學を修めても大方はニーチェほど非現代的にならぬと痛感してゐた筈だから、なればこそ一層問ひたくなるところ――文獻學は如何にして同時代批判となりしか? それともかう問ふべきか――誤解であらうとあるまいと、ニーチェとその時代にあって文獻學的批判が現代批判へ至り得るかのやうに思はれたのは一體、何が彼らをさうさせたのか? その經緯は、筋道は? 眞理であれ誤謬であれ、何であれその評價は一時「括弧入れ」しつつ(それこそニーチェの謂ふ「道徳外の意味における眞理と虚僞」として、或いは「善惡の彼岸」において?)、それを眞なり僞なりと觀ずることがどうやって發生し成立し傳播され繼受されたのか(または、し損ねたのか)を問ふことで自らの價値判斷への認識を新たにする――これ即ち「[…]これらの価値の価値がそれ自身まず一度疑問に付されねばならない――そのためにはそれらの価値が生い育ち、発展し、ずれ動いてきた諸条件や諸事情に関する知識が必要とされる(第四章一p.172所引、『道徳の系譜學』序文第六節と言ふわけで、さうやって事の次第を主題化するやうに問題を歴史的に設定してこそニーチェの「歴史的方法論(『道徳の系譜學』第二論文第十二・十三節、ちくま学芸文庫版p.454​・455)に適ふ論じ方にならうものではないか。

いかなる種類の歴史学にとっても、次の命題以上に重要な命題は存在しない。[…]――すなわち、事物の発生の原因と、それの最終的な効用や事実上の利用や目的の体系への組み込みとは天と地ほどかけ離れているということ。なんらかの現存のもの、なんらかの仕方で成立しきたったものは、優位に立つ力によって新たな見解にもとづいて繰り返し解釈されてゆき、新たに占有され、新たな利点のために向き替えられ作り変えられてゆくのだということ。[…]

『道徳の系譜學』第二論文第十二節、『ニーチェの歴史思想』第五章三pp.212-​213所引

問題となるその事柄の推移を歴史的に把握すると言っても、結果論や起源論に還元されがちだが、兩端いづれにも偏しない過程論とでも言はうか、變化それ自體の成り行きを見据ゑるのが蓋し史眼か(その變はりゆく中での異同を訂せば文献學者流か?)。

それに、後期ニーチェが「歴史的過去および同時代の双方を含めた意味での時代(第四章p.164)を相手取って挌闘したのは本書主要部と目される第四章から第六章に述べられた次第だが、『道徳の系譜學』等で歴史的考察はなされても結局そこでも歴史病の本態を剔抉することはなされなかったみたいなのはどうしたことか。

歴史的教養の根源――そして、「新時代」の精神、「近代意識」の精神に対しこの教養が内的にまったく根本的に矛盾することの根源――この根源それ自身が再度歴史的に認識されなければならない、歴史が歴史自身の問題を解決しなければならない、知はその棘を自分自身に向けなければならない――この三つの「なければならない Muss」が、「新時代」の精神の命法となる、新時代に本当になにか新たなもの・強力なもの・生の約束となる根源的なものが存在するとしたら(S. 302)。

第二章「一 題名の問題」p.82所引

この第二反時代的考察第八節を出典とする箇所は、歴史(學)*10自らに反省を促す際に繰り返し引かれる或る種の名言となってをり(例、シリーズ歴史を問う全六卷、岩波書店、二〇〇一年十一月〜二〇〇四年六月。各卷頭に毎度掲げられた「編集委員を代表して」の上村忠男による「序にかえて」p.vi。のち、上村忠男「〔提題〕歴史の暮れ方に歴史を再考する」『知の棘 歴史が書きかえられる時岩波書店、二〇一〇年十月、p.90、に吸收)、右の引用句を約めて須藤は「歴史の歴史(p.82、cf. p.80)と呼んだが、その意味でのメタヒストリーを、つまり道徳の系譜學でなく歴史の系譜批判をニーチェのテクストから引き出して來ない限り、「しかし、歴史的教養それ自身はどこに由来したのだろうか(p.81)と言ふ問題は棚上げにされた儘なのでは​……? ここでの「歴史の歴史」はいまだ「希望的観測に、予感にして要請に、留まっていたといわねばならない(p.82)と評される程度であったにせよ、以後(「後期」ニーチェ、乃至はポスト・ニーチェ)もなほ實行が伴はぬ掛け聲倒れなのか。心性史の豫言者さながらに「これまでのところ、存在Da­sein=生存]に色合いをあたえていたもののすべてが、まだ歴史をもたなかった。いいかえるなら、どこに愛の歴史が、貪欲の歴史が、嫉妬や良心の歴史が、敬虔や残虐行為の歴史があるというのだ?[…]」「以上の観点や資料を委曲をつくして調べあげるためには、すべての時代の人々Ge­schlech­ter=世代]ならびに計画的に共同研究する学者たちの幾世代かを必要とする悦ばしき知識勤勉な者たちのための数言」、ちくま学芸文庫版p.68・69)と新しい歴史研究の課題群を提言したニーチェは、五年のち「ある場合に、私はこうした種類の歴史に対する嗜好や天分を煽りたてようと手をつくしてもみたが、――今になって見れば、それも詮ないことだった(増補『悦ばしき知識』第五書三四五、仝p.374)と人頼みを悔いて「よろしい! まさにそれこそ、われわれの仕事なのだ。――(仝p.376相當、第四章三p.185所引)と結語し、有言實行するかの如く『道徳の系譜學』に取り掛かり同年内に刊行を見た次第なれど、だが、それら多種の「〜の歴史」の中で根本問題たる「歴史の歴史」はどこへやってしまったのだらう。「歴史の歴史とは[…]現在を成立せしめている過去を現在から問いなおすという、ある意味では自縄自縛的な試みである。[…]――こうした洞察と問題意識こそ、後期ニーチェの系譜学の発条であるとともに、現在(同時代)をいかに捉えるかという点で、『ヴァーグナーの場合』とも繋がってゆくものである(p.82)とのことだけれど、しかし、そこで問題設定がずれて歴史(學)そのものを的とする狙ひを逸らしてしまったのでないか。「認識者それ自身の、つまりは科学の、系譜学もまた、道徳の系譜学の不可欠の中核部分をなす(第六章三p.245)と言ふのは尤もながら、更にその諸科學の中でも歴史學とその諸科學における歴史志向とに問題はあったこと、そこに絞り込んで系譜を糾すことを忘れてないか。『道徳の系譜學』第三論文「禁欲主義的理想は何を意味するのか」第二十三節以下が「無制約的な真理への意志を本質とする近代科学それ自体の系譜学」として「キリスト教道徳に内在した誠実性の徳に由来すること」を暴き出した(第四章三p.186)とは言へ、眞理(Wahr­heit)が誠實性(Wahr­haf­tig­keit)といふ徳目よりして求められたと述べるだけでは話が大きすぎで具體性に乏しく歴史的細部(ディテール)からも遠く、では何で歴史がライプニッツ謂ふ所の「永遠の眞理」「理性の眞理」「必然的眞理」でないまでも「事實の眞理」「偶然的眞理」として尊重されるやうになったのか、「学問ないし科学一般の本質(序文p.13)といった大仰な概論でなく特論として格別に歴史學興隆の由來因縁を明かすといふ懸案は果たされず、ましてや諸學問中の歴史學派の沿革には及ばずじまひ、しばしば自然科學と對立させて精神科學の代表格とされるこの學風の發生史を他にどこかでニーチェが手掛けたのだらうか。あちらこちら點在する關聯語句を接ぎ合はせて穴埋めしようにも、『悦ばしき知識』第五書三五七にヘーゲル流「發展」概念へ論及した部分が​…​…などと空谷の跫音に縋っても寥々として、微木を以て滄海を填めんとするの概あり、到底責めを塞げぬのでは? 所詮「私自身はあらゆる種類の試みと冒險、前奏と約束以上に出なかった」一八八八年二月十三日附H・ケーゼリッツ宛書翰と卑下して見せたやうな未達成の企ての一つで、未了の儘なのか。ニーチェがやってないなら、代りにフリードリッヒ・マイネッケ『歴史主義の成立(上・下、菊盛英夫・麻生建譯、〈筑摩叢書〉一九六八年一月・六月)をニーチェ流に再構成するくらゐはできないか――マイネッケ著原題Die Ent­ste­hung des Hi­sto­ris­musは「歴史主義の發生」とも譯せ、内容はランケ以前ゲーテ迄の先驅者達を扱って歴史主義が主流化した十九世紀以降は對象範圍外であったから、成長後の歴史主義の擴散と變質を繼ぎ足して「補志」(清朝考證學流の史學で、歴代正史のうち紀傳體における制度史・文化史に當る志類の缺落を補遺するもの)を行ふもまた宜しからずや。

本書では沒却された箇所にも目を通せば『道徳の系譜學』でもメタ歴史論の兆しくらゐは拾へるものの、歴史學者ランケを擧げたり(第三論文第十九節、前掲ちくま学芸文庫版p.550)近代の全歴史記述(仝第二十六節、p.575)を云々したりは禁欲主義批判の「ついでにanbei=添へて](仝p.549)觸れたに留まり、史學史よりすればいづれ掻い撫での側面攻撃に過ぎないので、これらを歴史の系譜論的反省に繋げるにはどうしたものか。「禁欲主義的僧侶」(第三論文第十一節以下、ちくま学芸文庫版p.515〜)を槍玉に擧げるなら心理學に趨る前に教會史を繙いて修道院制を掘り下げて貰ひたかった所(Cf.ジョルジョ・アガンベン上村忠男・太田綾子譯『いと高き貧しさ 修道院規則と生の形式みすず書房、二〇一四年十二月)、何より歴史學との關係ではベネディクト會修道士のうち古文書學の確立者ジャン・マビヨン宮松浩憲ヨーロッパ中世古文書学九州大学出版会、二〇〇〇年二月)ら十七世紀サン・モール學派の功績佐藤彰一歴史探究のヨーロッパ 修道制を駆逐する啓蒙主義』〈中公新書〉二〇一九年十一月、第三〜四章參照)が特筆されるべき所だが、ニーチェには知られてなかったのだらうか。「歴史の歴史」としてまづ史學史から着實に調べ上げようとする意氣込みを見せなかったのは、そして多少歴史(學)への論評はあってもそこから「歴史的理性批判」ディルタイ島田虔次なり歴史的判斷力批判なりへと展開できなかったのは、病身で在野著述業となり渡り鳥暮らしであったニーチェ個人の不如意に留まらずその哲學自體の限界だったのではあるまいか――さもなくば、そもそもニーチェを「歴史思想」の方向で引き延ばすこと(プロクルステス風擴張讀解)に限界があったのか、それ故にこれ以上は無理になるとか? 自稱不道徳主義者(インモラリスト)(『人間的、あまりに人間的 』「第二部 漂泊者とその影」一九、『善惡の彼岸』三二、仝二二六、『人間的、あまりに人間的 』第二版「序言」末、『偶像の黄昏』「四大誤謬」、等)として「道徳」論に力んだ餘り歴史そっちのけになり、ニーチェ(とその讀者達)は「系譜學」の前提となる歴史志向を究明し損ねてないか。歴史(學)自體を問題とする歴史(學)を提議し、その名も「歴史の歴史」と銘打つからには、歴史の理論や歴史についての思辨(およそ歴史哲學と稱する類ひ)とは違って調査し記述し例示し​…​…といった擧動が必須の筈で、それこそ歴史學を見習ふべき所ではないか。歴史(學)への意志は、實證精神は、どこへ行ったのか――それがどこから來たのかを脚下照顧する前にどこかへ紛れ失せてしまったやうなら、その思考の歴史化を改めて試行し直してはどうか。願はくは「歴史思想家としてのニーチェ(序文)であるにもまして歴史家であれ、即ち、思想家たる以前に歴史學者として(せめて文獻學者として)資料群と取っ組む中で思考しなければならないことが要望されるのであり、頭を使ふだけでなく手や眼で調べながら考へよ、と言へばよいか。勞働者として發掘現場に携はった經驗無しにいかで考古學者たり得よう。

押して他に歴史論絡みで讀み込むとすれば、『道徳の系譜學』が終結部に入る邊りか。「自己超克」を自己破壞的な逆機能より説いて「あらゆる偉大な事象は、それ自身によって、自己止揚の作用によって、没落するge­hen … zu Grun­de(/zu­grun­de)=破滅・崩壞する/底に達する/根據へ行く。Cf. NF-​1888, 20​[73]中島義生譯「詩集」中「五 ディオニュソス頌歌のための断片69及び「訳註213、前掲『ニーチェ書簡集U 詩集』p.552​・618(第四章三p.187所引、第三論文第二十七節ちくま学芸文庫p.581相當)と言ひ、「ひとつひとつ結論を引き出してきたキリスト教の誠実性は、最後にもっとも強力な結論を引き出す、自分自身に敵対する結論を。(仝p.187所引/同前p.582相當)われわれのうちにおいて、真理へのあの意志が[己れ自身を sich selbst問題として意識化されるようになった(仝p.188所引、[ ]内は須藤の譯文の缺脱を原文に據り補完。/同前p.582相當)と云ふ邊り、初意に反して自分に跳ね返ってくる曲折が世に謂ふ歴史の皮肉(イロニー)(Cf.「世界史的なイロニー」、『アンチクリスト』三六末・『この人を見よ』「ワーグナーの場合」に相似するが――よって「或るものがその反対物Ge­gen­satz=對立、對當關係]からどうして発生できるのか」」(第三章「二 思考の発生史と認識の意味」p.133所引『人間的、あまりに人間的 *1前掲ちくま学芸文庫p.25相當。Cf.『善惡の彼岸』冒頭)と訝る者に應へるかの如く「あらゆる人間的なものは、その発生に関してアイロニカルに考察されるiro­ni­sche Be­trach­tung=イローニッシェな考察]に値する。だからこの世にはアイロニーIro­nie(イロニー)]がかくも有り余っているのだ(第三章二p.129所引『人間的、あまりに人間的 二五二結文。ニーチェ原文の強調體に合はせ「有り余って」も太字にした)と言ってゐたのが「その結末に關して」も言へさうで餘計に反語(イロニー)が溢れ返る始末だが――それと竝行(パラレル)に、且つその原型として、もう十數年前から、歴史(學)に歴史(學)的な誠實性を歴史(學)自身に對しても徹底させることが要求されてゐたにも拘らず、どうしてその課題を見失ってしまふのやら​…​…それこそイロニーをニーチェ著作中で一番早く一番長く論じたのも「生に對する歴史の利害について」(第節。ちくま学芸文庫版p.161、p.191​・pp.197-​198、p.203​・205​・206)であったのに? ややこしいことに「ニーチェは[…]イロニーに対して一般に否定的である。」「しかしそうした批判にもかかわらず,イロニーはどこか無意識のうちにニーチェ自身の思考の方法となっていた大貫敦子「イロニー」前掲『ニーチェ事典』p.29)と概説され、近親憎惡(Cf.『曙光』六三隣人憎悪か自省自懲か、ニーチェがイロニーを拒否しつつもイローニッシュ(皮肉、反語的)だった(ベーダ・アレマン/山本定祐イロニーと文学第一章「2 ニーチェのイロニー概念」、国文社、一九七二年四月、p.47以下)のは否み難いが、否とも諾とも表裏兩義に取れる、そこがまた反語(イロニー)らしさか。さうした判斷樣相(モダリティー)の搖らぎを含んだイロニー感覺が、歴史の必然を偶然かも知れないと問ひ直したり勝者(ホイッグ)史觀に疑ひを容れたりする多角度からの視點と相關するのだとしたら?

あらゆる歴史は、これまで、結果Er­fol­ges=成功、成果]の見地から、しかも結果における理性の想定に基づいて、書かれて来た。[…]もしもかくかくのことが起こらなかったならば、何が生じていたであろうか」という問いは、ほとんど異口同音に拒否されているが、しかし、これこそはまさに、枢要なる問題なのであって、それによって一切のものは、皮肉なものになるのである。 『哲学者の書』「 われら文献学者をめぐる考察のための諸思想および諸草案」(155)、ちくま学芸文庫p.543=NF-​1875, 5​[58](Cf.仝(182p.5635[64]

歴史におけるイロニーは時に歴史の逆説(パラドックス)とも呼ばれるもの、結果論で正當化する「あとからのNach­träg­li­che=事後的な、追補の]合理性」『曙光』第三章三p.141所引)を洗ひ落としたら「或る發生の正確な歴史は殆んどどれも感情にとって逆説的で冒涜的に聞こえないか? 良き歴史家といふものは根本においてのべつ抗言するWi­der­spricht=矛盾する]のでないか?」(『仝』一、ちくま学芸文庫版p.21相當)​…​…當然、良き歴史家(皮肉?)が自身にも反抗する(自己矛盾!)と共に歴史主義の發生史が足元から掘り返され、歴史學の歴史も反語や逆説に充ち滿ちることにならうか。「[…]歴史学は、予期されざるun­ge­woll­te=不本意な]結果をもたらす。」「最終的には歴史[學]は予期されたman woll­te=欲された]ものとは違うものを証明した(『ニーチェ全集 第十一巻(第期)*3前掲書p.397=NF-​1880, 6​[428]、p.566=1880, 10​[D88]。Cf. NF-​1883, 7​[21]​≒『生成の無垢』六八八・前掲書p.335、7​[117]=仝七二五・p.356)とはいかにも皮肉な結末、その反轉過程(の歴史)について具體例で裏づけた詳説が讀みたいものではないか。だがもう『曙光』(一八八一年刊)からして「道徳的偏見に関する思想」を副題とし、道が逸れてなかったか。歴史的アプローチによって歴史認識自體を問ひ直すといふ大事な任務は粗略にして今さらキリスト教道徳批判のためにばかり凝り固まるのはどうして、既に史學史上は舊來の聖書史觀に從屬する「普遍史」を脱して十八世紀ゲッティンゲン學派岡崎勝世キリスト教的世界史から科学的世界史へ ドイツ啓蒙主義歴史学研究勁草書房、二〇〇〇年十一月、第二編參看。併せて仝第三篇第二章の増補改稿と目せる「ドイツ啓蒙主義歴史学研究 (–2、完)A. L. von シュレーツァーにおける普遍史から世界史への転換―」『埼玉大学紀要(教養学部)』第47卷第2號、二〇一二年三月、も看よ)以來の「世界史」(Welt­ge­schich­te世俗史の意も持つ)認識が非キリスト教圈含む多方面へと視野を擴げてゐたのに? そもそも「歴史の歴史」と云ふ「この試みに真正面から取り組まないことには、歴史の問題は解決の展望が開けてこない(第二章一p.82)のならば、眞っ向から歴史學及び諸學における歴史的研究を歴史的に敍述し考察するのが正攻法であらうが? 歴史研究を歴史研究すること、この題目(プログラム)は、言ひ出したニーチェ自らは達せられぬ仕儀となったのがこれまた皮肉(イローニッシュ)なれど、それでもニーチェを讀んだ後生に承け繼がれれば「他の鳥がさらに遠く飛ぶだろう(『曙光最終段落五七五ちくま学芸文庫p.463とばかりにまだ本懷と言へようものを、ニーチェ研究者達が「ニーチェの歴史思想」を論題とする者ですら歴史の歴史調査に本氣で取り組む氣色(けしき)が無いとなれば皮肉な上にも皮肉極まって何ともはや、どこまで眞面目に取ってよいのか惑はされるではないか。――因みに「眞面目に取る ernst neh­men」は、否定形にするとイロニーと同義となり(成瀬無極『疾風怒濤時代と現代獨逸文學』「人間」一(三)「(ニ) 浪漫的反語」、改造社、一九二九年十二月、p.246、特にドイツ・ロマン主義以降の所謂ロマンティック・アイロニーの反對命題とされるが、ニーチェにおいてもイロニーと對義を成すのは『曙光』一六二NF-​1880, 8​[17]の改稿)に見える通り、この慣用句は『悦ばしき知識』三二七「眞面目に取る」(書名の„fröh­li­che Wis­sen­schaft“​が本文中二箇所だけ出現したうちの一)で題材となったほか、『道徳の系譜學』(「序言」第七節、cf.第三論文第十一節よりずっと前から「生に對する歴史の利害」(第節。ちくま学芸文庫版p.130​・137​・155)等にも既出で、ニーチェの口癖の一つだったのでは?――しかるに本書は第六章で「真剣」「真面目」を鍵語(キイワード)にした上で(「一 Ernstということ」p.229以下)本気に取る(ernst[ zu] neh­men)こと」を含む『ヴァーグナーの場合』第三節の文を引用しておきながら(「二 挑発としての『ヴァーグナーの場合』」p.234)、その成句が十數年來舊著に用ゐられてきた前歴にまで説き及ばず、ひたすら『道徳の系譜學』第三論文から『ヴァーグナーの場合』への連續性を裏づけせむがためにばかり「ヴァーグナーに対して真面目な応対を意図して避けようとするこの態度(第六章「一 Ernstということ」p.232)を讀み取る所爲で、反語的な距離の取り方が「歴史の利害」の頃には未だ無かったかの如く思はせる誤誘導(ミスリード)をしてないか――

蓋し「歴史の歴史」と號するのは、言ふなれば、自己認識する歴史か​…​…「ショーペンハウアーにとって、歴史の意義とはなにより、人類の自己意識という点に存する(序文p.7。須藤「学説と人格のあわい――哲学史の成立条件を求めて――渡邊二郎監修・哲学史研究会編『西洋哲学史観と時代区分』昭和堂、二〇〇四年十月、7章「2 歴史は実在するか――ショーペンハウアーの場合」p.277からの轉用、詳細はそちらを看よ)とやら、その延長上で「完全に記憶されたge­dach­te/想起された]歴史なら宇宙的な自己意識だらう」『人間的、あまりに人間的 第一部一八五ちくま学芸文庫版p.142相當)だの「――かくして自己認識は、過去の一切に関しての総体認識となる前出人間的、あまりに人間的 』第一部二二三、ちくま学芸文庫版p.167だの「人類の歴史を総体として自己の歴史と感じる『悦ばしき知識』三三七ちくま学芸文庫版p.355)だのと想像を膨らませるのをむしろ主客顛倒させ、「私たちは歴史一般の自己意識にほかならない前出権力への意志二一八ちくま学芸文庫p.222NF-​1887, 11​[374]と云った意味での歴史的自意識過剩か? もはや個我の自己認識の擴張版や人間集團の集合自意識が語られたのが歴史なのではない、命題を換位しようか、總じて運行する歴史それ自身に自己意識が芽生えるにつれその一部受け持たされたのが我々である​……? 同樣に、「真実のところ、歴史がわれわれに属するのではなく、われわれが歴史に属しているのであるというガーダマーの文章(第六章p.224。ハンス=ゲオルク・ガダマー/轡田収・巻田悦郎譯『真理と方法 哲学的解釈学の要綱 』第二部第章第1節a「β 啓蒙思想による先入見の信用喪失」、〈叢書・ウニベルシタス法政大学出版局、二〇〇八年三月、p.437相當)を祖述して「人間に対して、歴史的伝統の方こそが主体であるといわねばならない(第六章pp.224-​225.)云々を辯じ立て、人間の被投性――ハイデッガー用語で、「既在」(既往、Gewesenと呼ぶ過去と特に對應させられる(『存在と時間』第七十六節原書S. 396――とでも言ひたいのか、歴史の中に抛り出された人間の受動性を認めて「その限り、人間は歴史内存在であって、歴史的伝統は人間にとって背後遡行不可能といってよい(p.224)と内部閉塞感を募らせた上、それでも猶且つ「歴史は、伝統は、なんらかの形で、対自化され、相対化されなくてはならない(p.225)と歴史外に出た超歴史的な視線を欲するのであれば、畢竟、歴史といふ主體が歴史自らを對象化(客體化・客觀化)しながら外に開いてゆく以外どうしやうもないことになるのが論理的歸結であって、まさしく「それはもはや歴史以外のものによる歴史の相対化ではなく」、かと言って「逆に歴史による超歴史の相対化である(第二章二p.99)にも盡きず、今や歴史がその相對化作用を折り返して歴史自身に及ぼすのであり、歴史の圈外遙かに超越したと言ふよりは餘りに歴史的過ぎると云ふ意味での超歴史性(歴史の​・歴史による​・歴史のための歴史)があり、何なら、歴史の自己反省・自己批判による自己差異化(分化)とでも呼ぶがいいが――固より歴史とは雜多で純一でなく自ら異他性を孕んだものなればこそ差異を分出し得るのだらうが――、この可能性を須藤は夢にも考慮しようとすらせず、それを、「[…]人間は歴史の主体であるし、そうでなければならない(p.225)などと存在(ザイン)​・當爲(ゾルレン)ある = べき)を短絡した道徳的命法を對置することで糊塗してゐるのは主體性への妄執もいいところ、まるで構造主義に無理解な實存主義者紛ひの強辯ではないか。「さもなければ、人間は歴史舞台の登場人物であるとは言えても、なにかある不可視の力に翻弄される操り人形にすぎなくな」る(p.225)って?――心ならずも運命悲劇に配役されたみたいな言ひ分だけれども(或いは自意識が無意識に動かされてゐるやうとでも?)、それは事實上嫌でも認めざるを得ないことでは…​…「歴史は偶然に翻弄されている(第五章「二 経済という原理」p.210)とマッハを通じて思ひ知った(註*9所述)だけになほさら? いやマッハ以前に、既に「生に對する歴史の利害」第一節ちくま学芸文庫p.130。Cf.草稿NF-​1873, 29​[95]で「超歴史的立場」の例をB・G​・ニーブール書翰集(一八三八年刊第二卷四四八番より引いた文が、歴史は物の見方が「如何に偶然左右されたものかを知るのに役立つと述べてゐたのだが、加へて第六節(仝p.176。Cf.草稿NF-​1873, 29​[62]29​[60]でもFr​・グリルパルツァーを引據にして(一八七二年版全集第九卷所收「ドラマトゥルギーによせて」S. 129と「歴史一般によせて」S. 40の接合。「受け取る」意の動詞三人稱形an­nimmtは出典原文に無いニーチェの插入)歴史とは偶然を受け入れる仕方としてゐたのに、いまさら? 「我ら文獻學者」のためのノートに據れば「大抵の人間は、明らかに、この世に偶然に存在している。彼らのうちには、高次の種類の必然性など、何一つとして見られない(前掲『哲学者の書』p.464/白水社版『ニーチェ全集 第五巻(第期)』p.141相當=NF-​1875, 3​[64]。Cf.仝p.455/p.124=3​[19]とか​…​…ここに職として一文獻學者たる身への自嘲の響きを微塵たりとも感じ取れない讀者がゐるとしたら、我こそは少數の例外者と思ひ上がる俗物(スノッブ)でもあらうか。歴史の必然性を決定する黒幕を持ち出さずとも(ヘーゲル流の理性の狡智ぢゃあるまいし)、あれこれの偶然性のもとで日々流されゆく人間なぞ歴史上幾らも例のあること、そんな端役(エキストラ)に如何ほどの主體性があらう。人間を運命とは切り離して對決させる「トルコ人の宿命論」(『人間的、あまりに人間的 第二部六一をニーチェが難じてゐたにも拘らず、どうして(も)人間を歴史の主體に据ゑなければ氣が濟まないのか、餘りに人間的な主體を? ニーチェ論によっては正にその反對なのに?――M・ハイデッガー『ニーチェ』に抗してG・ピヒト『ニーチェ』は言ふ、「しかし、歴史には主体の構造はない。〈歴史的哲学his­to­ri­sche Phi­lo­so­phie、ニーチェの用例は唯『人間的、あまりに人間的 あるのみ]は、ヘーゲルの場合のように、歴史において顕わになる精神の自己認識なのではない。むしろ、道徳の系譜学によって、同時に、主体の主体性の系譜が暴かれ、主体は虚構として暴露されるのである。(第一部「第四章 〈歴史的哲学〉の歴史的任務と超越論的基本形態*1前掲書p.59​…​…これも含め、本書で(補論3を例外として)先行文獻批判が手薄なのは、歴史(特には研究史・受容史)を等閑視してないか。或いは文獻學(ニーチェ論文獻の、歴史論文獻の)を? そこに自分とは別樣な讀み方の可能性があるかも知れないのなら、知りたくならないか。

他視點と云ふか、「より多くの眼、さまざまな眼」(『道徳の系譜學』第三論文第十二節ちくま学芸文庫版p.520。Cf.『生成の無垢』五六・前掲書p.43=NF-​1881, 11​[65]、仝五七​・​p.44=1881, 13​[5]、四四五・​p.266=1881, 11​[10]NF-​1881, 11​[141]、『権力への意志五四〇ちくま学芸文庫版p.75≒NF-​1885, 34​[230]を取り込む多視點式遠近法(パースペクティヴ)がニーチェ流なのでは? それとて手嚴しい見方をすれば、舊友E・ローデがフランツ・オーヴァーベック宛に『善惡の彼岸』讀後感を書き送って「氣分次第で、或る視點が採り上げられるとそこから今や一切が變改せられる――まるで世の中にはこの一つの視點しかないかのやうに! そして當然その次にも同樣に一面的な相反する視點が取られて賞讚される一八八六年九月一日附書翰と陰口した通りではあるが、恐らくニーチェとしては敢へてさうしたつもりであって、中立無私を裝ふよりは、我見の一面性を無くすのでなくむしろ複數に増やすことで打開するのが遠近法主義者の目論見ではなかったか。相異なる「一面的な見解」が相爭ふ中から「時として一つの中間、一つの鎭靜、[…]一種の公正Ge­rech­tig­keit=正義]と協約とが生じる」ことがあり、その牽制し合った拮抗状態が「認識」と稱されるのだ『悦ばしき知識』三三三としたら?

このように一度違った風に見ること、違った風に見ようと意志することは、知性がいつかその「客観性」に到達するための少なからざる鍛錬であり準備である。客観性とは言っても「関心なきin­te­r­es­se­lo­se=沒利害な直観」というのではなく(これは意味不明のナンセンスである)、自分の賛否を手中に収め自由にこなして出し入れする能力のことである。その結果として、まさしく多様なパースペクイティヴや情動的解釈を認識に役立てるすべを心得ていることである。(…)見ること・「認識すること」にはein=或る・一つの]パースペクティヴ的なそれしかない[「遠近法的なものの見方、遠近法的な認識しか存在しないのだ」と譯した前掲「習俗の倫理について」p.10所引の方が原文に近かった]。一つの事柄に関してより多くの情動や眼が発言権を与えられ、多様な眼je mehr Au­gen, ver­schied­ne Au­genより多くの眼、樣ざまな眼]が投入されればされるほど、それだけいっそうその事柄に関するわれわれの「概念」、われわれの「客観性」はより完全になる(『道徳の系譜学』第三論文第一二節2, S. 382f)。

「(補論2) ニーチェの正義論再考――力への意志の尺度をめぐって」p.320所引

これを要して「多数のパースペクティヴ」の「懐深い統合(補論2p.322​・324​・325)と表現するのは、圓滿大度な包容力を慕ふ著者の性情か。さは言へ、「自己のうちなるパースペクティヴの数が増加するだけ、自己の潜在的力も上昇するだろうが、それだけいっそう自己解体の危険も増大する(p.323)ので難行ではあり、複眼思考がこなせなくても本書だけを狹量と責められぬか。それでも「歴史(物語り)には、多数の本質的に異質な可能性が存する。[…]語りの主体の相克的多数性が、そこから直接的に帰結する(補論4「二 歴史の語り部としての哲学者」p.412)と述べてゐながら、歴史の(うち)に歴史の自己超克を可能にするやうな競り合ふ觀點の胎動(多くは死産されようとも)を認知しようとしない儘であるのは、どれだけ歴史に冷眼なのやら。對抗上、歴史(學)側からの見方を立てざるを得ないのだが? 

夙に一八六七年頃大學生ニーチェは問うた、「歴史とは無限に異なった無數の利害關心がそれらの生存のためにする闘爭の(ほか)の何であるか」Ge­sam­mel­te Wer­ke, Ers­ter Band, Mu­sa­rion Ver­lag 1922, S. 286.=​Kri­ti­sche Ge­samt­aus­ga­be Wer­ke 4: Nach­ge­las­se­ne Auf­zeich­nun­gen, Herbst 1867-Früh­jahr 1868, 56​[7], De Gruy­ter 1999, S. 368.。逆手に取って開き直れば――さうとも、差異の爭亂である以外の歴史なんて、多元性や不均等や不均衡や相剋や相互批判や相對主義やその他諸もろでない歴史なんて何だらう(それはもう靜態的な「冷たい社會」の沒歴史性では?)。紛糾、扞格、牴牾、葛藤、何であれ、既に啓蒙主義時代の歴史哲學でも「非社交的社交性(イマヌエル・カント「世界市民的目論見における一般史のための理念」第四命題)と言ひ換へた對抗關係(アンタゴニズム)こそ歴史の驅動機ではなかったか、喰ひ違ひや啀み合ひ無くして歴史と呼ぶに足る進展はあり得たか、それら時代變遷の因となり果となる千差萬異が突き合はされるからこそ歴史の各部分も互ひに相對化されるのでないか。​…​…では歴史的判斷力批判はどうなる、「判断力(第二章「二 正義の問題」p.90所引「生に對する歴史の利害」第六節ちくま学芸文庫版p.172相當)が「記念碑的歴史」を據り所にするやうなら「そうだとすると、過去を裁く力を裁かれる過去自身から引き出すという、おかしなことになろう(第二章二p.92)って? をかしいのは歴史を全面一枚岩みたいに思ひ做すその全一論への偏執がをかしいので、かねて各時代の水面下に叛服向背する多方向の矢印(ベクトル)の衝突があれば、そこから一端を取り出して他端の批判に差し向けたとて何の怪しむことがあらう。つまり或る力にはその對重(Ge­gen­ge­wicht釣合ひ重り(カウンターウェイト))を當て(Cf. NF-​1884, 26​[276]生成の無垢』二四〇、押し引きし合ひながらその時どきで偏重や過重(Über­ge­wicht=優位)を却けてゆくこと、謂はば「平衡Gleich­ge­wichtsの手段としての闘争(『生成の無垢』二五一​・前掲書p.149≒NF-​1885, 1​[31]だが、完全なる靜止平衡状態は實現し得ぬ限り(『生成の無垢』一三二二・一三二〇=NF-​1881, 11​[245][265]參看)、局所ごとに摩擦や抵抗が併發すること、それが歴史に見出すべき動きだとすれば? 個別具體を早上がりして總論へ飛躍したがるのは哲學の惡い癖で、ニーチェも「全体を審判し、測定し、比較し、ましてや否定することは、できるものではない!」(『権力への意志七六五末段ちくま学芸文庫版p.279​≒NF-​1888, 15​[30]​2。改稿が『偶像の黄昏』「四大誤謬」ちくま学芸文庫p.68相當)と否定したが、個々の部分否定ならば實行可能でないか。[…]排すべきは個々のもののみといふこと、全體では一切が救濟され肯定されるといふことを信仰しつつ――それはもはや否定しないer ver­neint nicht mehr​…​…」『偶像の黄昏』「或る反時代的人間の遊撃」四九末段ちくま学芸文庫版p.145相當。草稿NF-​1887, 9​[178]結部≒『権力への意志九五末段・ちくま学芸文庫p.108には「個々のもの」に關する插入句が無かった)云々も、精確に讀むと、その信念がそれ以上何ものも(つまり如何なる「個々のもの」も)否定しないer ver­neint nichts mehr.)とは言ってをらぬのださうだしミュラー=ラウター復讐の精神と永劫回帰 ハイデッガーの後期ニーチェ解釈に寄せて」前掲『ニーチェ論攷』第五章第六節p.277。Cf.新田章「ショーペンハウアーとニーチェ――いわゆる実践理性のアンティノミーに関して『そのつどの今』悠光堂、二〇一五年五月、p.225)、全否定であれ全肯定であれ誇大な全稱命題を特稱や單稱に限定してゆくのが歴史的批判の定跡なのでは? 尤も、本書で始めは「生、全体としての生に対して、生の一部分である個人がなんらかの確定的な判断や価値評価を下すことは不可能なこと・許されないことだから」「すなわち、一部が全体の代理を標榜することに、生に対する根本的な不正が根差す。(第六章「(補遺) デカダン=ソクラテス」p.260、『偶像の黄昏』「ソクラテスの問題」に依據)代理とは不可避的に不正 un­ge­recht[=不公正]なるものである(補論2p.315)と嚴に(いまし)めておいて、一轉、その「代理」が人爲による「等価関係の設定(補論2p.318​・320)であれば「力への意志としての正義Ge­rech­tig­keit=公正](仝p.324所引NF-​1886, 7​[24]=『權力への意志三七五たり得ると(うけが)はれると、何だか寛大なやうな、はぐらかされたやうな​…​…?

觀念論の止み難き性向か、とかく一にして全(ヘン・カイ・パーン)(ニーチェの用例は獨語Eins und Al­les『悦ばしき知識』一一〇に一度だけ)形而上學じみた思辨にこだはるにしても(例、山口誠一ニーチェとヘーゲル ディオニュソス哲学の地下通路』第一編「第三章 ニーチェの根源一者――矛盾としてのディオニュソス法政大学出版局、二〇一〇年二月。新田章「ニーチェとエマーソン」前掲『そのつどの今』所收→『ヨーロッパの仏陀――ニーチェの問い――』「第四章 一即一切――エマスン受容理想社、一九九八年十月)、それだって、須藤が正義についてニーチェの定義した生そのものの最高の代理者Re­prä­sen­tant(補論2p.314所引NF-​1884, 25​[484]=『生成の無垢』六六四、ちくま学芸文庫版p.419相當。25​[453]≒『生成の無垢』一四〇二が祖稿か)と云ふ一隻句を深遠に解釋して「万有でもあれば万有の一部として万有の尺度でもあるという」こと​・「生の一部が生全体の代理者、すなわち、あらゆる生事象を測定する尺度となる(仝p.318)ことを容認するからには、且つまた、反時代的な歴史論解讀に(あた)り「歴史はわれわれのの分離不可能な一部(第二章一p.78。註*3も看よ)と斷じて生に内包させたからには、同樣に、歴史もまた生全般の縮圖としてそこで「一部が全体を測定するために、作為した規約であり因襲である[=con­ven­tion(補論2p.324)ことがあってよからうに? 加ふるに、須藤は本書で後期ニーチェの正義論と對比して初期のうち「生に對する歴史の利害について」第六節前後を叩き臺にしたけれど(補論2p.315)それ以外目を配らなかったが――補論2の續考「正義について――ニーチェとハイデガー――(『Hei­deg­ger-​Fo­rumvol.6「特集 ニーチェ」二〇一二年九月、p.88でも中期の『漂泊者とその影』二二「均衡の原理」を足すのみだが――、既にその前年ニーチェがもはや審判者を闘技者と別たずに見る一段高い觀戰者としての世界觀をヘラクレイトスに持たせて「多者の争闘がそのままeine=一つの。reine=純粹な、と誤植する版多し]義そのものである! そして一般に、一者は多者であるギリシア人の悲劇時代における哲学前掲悲劇の誕生』所收pp.383-​384.)と呼號させてゐたからには、更にまた、畢竟ニーチェ後年の正義理念「生そのものの最高の代表者」云々もこの初期のギリシア風な競爭(アゴーン)即正義の見地に還元されるかのやう論を結んだ先例(ベルトラム『ニーチェ 上』「公正*1前掲筑摩叢書版pp.160-​161。これに續きK・ヤスパース『ニーチェ』第二部第二章中「限界無き眞理意志の情熱」の「正義」の項も)まである以上は、同樣に、多の抗爭そのものである歴史をそこに重ね合はせてみる思考も出來たらうに――つまり、正義論を歴史論に差し戻す饋還(フィードバック)回路があり得るであらうに、この可能性に一向に想到せぬのはどんな偏見に礙げられたのやら。何でさう歴史にばかり不公正な裁き手なんだか​…​…「いかにして部分Theilはここで全体に対する審判者を演ずるにいたるのか?」と「断罪Ver­ur­thei­lung=有罪判決]」や「道徳的判断Ur­theilen=審判]」の「権利Recht=正義]」に疑問を突きつけたニーチェの文言(『権力への意志三三一、前掲ちくま学芸文庫版p.321=NF-​1886, 7​[62]に沿って問題を立て直すと言ふのなら、まだしも? 代表​・代理についての批判NF-​1882, 3​[1]359=『生成の無垢』一〇四五『善惡の彼岸』一九九ちくま学芸文庫版p.172『悦ばしき知識』第五書三六六後半・ちくま学芸文庫版pp.425-​426、cf. NF-​1885, 34​[162]≒『権力への意志七五後段ちくま学芸文庫版p.90等)を歴史論に移して考へられないものか――のちに歴史學でもアナール派第四世代前後になってre­pré­sen­ta­tion(ルプレザンタシオン)を意識に現前する(プレザン)ものの意(ほぼ「イメージ」の呼び換へ。「再現前」と譯すのはハイデッガー流の僞語源説、このre-は反復でなく強意の接頭辭)のみならず上演や代議制その他廣義に取った「表象」概念が採用された(ロジェ・シャルチエ/松本雅弘譯「文化史の再定義 プラチック・表象・領有三和酒類企劃『季刊ii­chikoNO.19特集・インテレクチュアル・ヒストリーの文化学――領有・人笑はれ・精神史」一九九一年四月→註を落として再録『季刊ii­chikoNO.134特集 知のアルシーヴⅠ――31周年記念号」二〇一七年四月、參照。平易には、シャルチエ/福井憲彦譯『読書の文化史 テクスト・書物・読解』「4 文化的プラチックと表象をめぐる歴史家の仕事 ふたつのインタヴュー」中「インタヴュー1988」、新曜社、一九九二年十一月、「集合表象と社会表象」の節pp.126-​131.)ことだし?――即ち歴史において、どの時代のどんな部分がどうしてその他を代表する(re­prä­sen­ti[e]­ren=代理​・表象する)やうになったか、とか(Cf. NF-​1873, 29​[52]1884, 26​[205][282]等)。全て勢力爭ひの現れだと答へる一本調子な權力闘爭史觀ではよしや所謂「強者の正義」(プラトン『ゴルギアス』カリクレス、『國家』のトラシュマコス。或いはむしろニーチェが直接言及した限りでは、トゥキュディデス著のメロス談判におけるアテナイ人――『人間的、あまりに人間的 Ⅰ』九二「正義の起源」及びNF-​1875, 6​[32]1888, 14​[147]権力への意志四二九ちくま学芸文庫版p.418參照)を振り翳すにしても餘りに粗っぽくて歴史的個別性が解き明かせないし、實際、仔細に具體相を觀れば歴史上の或る地域​・身分​・人​・機能等どれも部分であって全體でなかったのが、他の部分を越えて表象(總代)であるかに見えたのはどうしてだらう。表象する(Vor­stel­len=表象作用)とは僞ることNF-​1881, 11​[325][330]≒『生成の無垢』六〇​・五八)と言ふなら、いっそ表象を假象Schein=見せ掛け)と呼ぶ方がニーチェ語法に馴染むか、それにしてもどうしてそんな假象性が露顯せぬまま眞實らしい見映えを呈してゐられたのだか。問ひの形は、願望を裏切られた怨み言となりがちな「何故」(獨wa­rum​/英whyより「どうして」乃至「如何にして」wie​/how、如何なる過程を經て斯くなりしか。提喩(シネクドキ)換喩(メトニミー)か、いづれにしろ一部分が全を蔽ふ僭越沙汰は不正義やも知れぬが、事の善し惡しはさておきその成り立ちを知る歴史研究は欲しいではないか。それに、「正義」(公正)とて「愛」が天下全民を「雨の如く公平un­par­tei­isch=英im­par­tial、不偏不黨、非部分的]」に(うる)ほすのに比せば好かれぬもの『人間的、あまりに人間的 六九「愛と正義」、典故は舊約詩篇七二​・。Cf. NF-​1881, 12​[75]≒『生成の無垢』四四九、『悦ばしき知識』一四〇、それどころか「正義の徳」は「ほとんど常に死ぬほどに憎まれている生に対する歴史の利害についてちくま学芸文庫版p.172)と言ふ程だのに一體全體それでどうやって正義の名において代行する(re­präsen­tie­ren=地位相應に振舞ふ、體面を保つ)ことが出來たと? そも表象とは單に表象されるもの(所記(シニフィエ))が表象するもの(能記(シニフィアン))によって媒介される二項構成でなく、前者とは別物な筈の後者を前者(の(しるし))として認知することを可能にするもの(表象能力、表象可能性)といふ第三の要素もあってこそ成り立つ道理だが、十七世紀古典主義時代の轉換以降、さうした兩項間の關係を成立させる第三項を能記の内に織り込み濟みとすることで以て表象はただ所記(内容、對象)を示すに留まらず併せて自身が立派に表象であることをも示す(表象作用の體現たることの自己呈示)といふ二重の機能を含み持つに至った(フーコー『言葉と物』第三章「 二重化された表象」の修正説として、山内志朗「誤読」の哲学 ドゥルーズ、フーコーから中世哲学へ』「第2章 フーコーと近世の截断」、青土社、二〇一三年十二月、を參照)、とか? 哲學上の基礎概念たる表象からして時代區分を伴ふ成立史が問題になるのなら、表象したりされたりする「正義」や「生」等々も歴史に問はないでどうするか。思辨任せの理念さへ歴史問題と化し、時代や社會の中で表現されてきたその諸樣態(多くは語誌)を調査する歴史式解法を以て須藤ら哲學者にもっと概念史が問はれるなら、勢ひその歴史なるものも歴史化して捉へるべき事案とならうか。

歴史(學)は歴史(學)自體の問題を解決せねばならぬdie Historie muss das Pro­blem der Hi­sto­rie selbst auf­lösen)と要請されたのに、「歴史を歴史によって克服する」をモットーにしたトレルチ(但しキリスト教ヨーロッパの惡臭芬々なので要再審査)がやったみたいな歴史主義の歴史のやり直し、廣義の史學史の再檢討、ヒストリオグラフィー論といった歴史的實踐によって應じようとしないのはどうしてか。文獻學の定義である「認識されたものの再認識アウグスト・ベークよろしくニーチェ研究者はニーチェの書いた跡を後から追認すれどニーチェが求めた所を自ら追求しないのか、勞働を賤しむ哲學者は勤勉なる歴史學者に任せっ放しで問題を思想史として引き受ける氣にならぬのだらうか。もしも歴史學單獨では自力解決できさうになければ宜しく介入すべき所では? いや、もはや自己完結不能、内に納まらぬほど膨れ上がったとすれば? 想へばピヒトのニーチェ講義でも一再ならず引用されてゐたやうに、ニーチェが第一著『悲劇の誕生』(一八七二年刊)の一八八六年新版に寄せた「自己批判の試み」第二節には「学問の問題は、学問の地盤においては認識され得ない(前掲ピヒト著p.161​・167​・168​・236​・251​・320所引、前掲ちくま学芸文庫版p.14相當)とあったではないか――この否定文は「学問の」を「科学の」と譯す邦譯書が多かったりニーチェの科學批判と見られがちだったりで、ここだけ取ると個別科學(特に自然科學)の諸問題を哲學論議に吸ひ上げようとする新カント派流儀にも通用しさうだが、原文脈は往年の若書きについてそこで初めて學問それ自身が問題含み(pro­ble­ma­tisch)として捉へられたと自評する流れでの插入句であって、その段をピヒトは「ハイデガーが初めて洞察したように(, 253[マルティン・ハイデッガー/細谷貞雄監譯『ニーチェ|Ⅰ 美と永遠回帰凡社ライブラリー〉一九九七年一月、p.300相當)、ここでの〈学問〉[Der Be­griff ​»die Wis­sen­schaft«​とは、真理との関係における知Wis­senそのもののことである。つまりニーチェはここで〈学問〉という概念を、この他の多くの個所と同様に、ドイツ観念論の哲学が用いたような意味で使っている。〈学問〉とは、特殊科学Spe­zi­al­wis­sen­schaf­tenのことではなくて、統一として捉えられた学問、つまり学問についての学die Wis­sen­schaft von der Wis­sen­schaftが考えようとするような学問の全体、すなわち哲学のことである『ニーチェ』第二部第一章「a 真理の知としての学問の問題」p.155)と講説してをり、既に眞理への意志までも糾問したニーチェである以上、哲學による科學批判どころかそも哲學自體を問題視してゐ、當の哲學思考が前提する先驗的(ア・プリオリ)な認識基盤からして疑問視してゐる(仝第二部第二章a、第二部第十章b)、と讀まれるのであり​…​…そんなわけで、問題認識に不感症な自己準據の閉域より脱出したくば、哲學の方こそもっと外部に協力を仰ぎ歴史學でも導入するといいかも? 萬事を變化の相の下に置く歴史は形而上學が探求する不變不動な永遠の眞理をも生成消滅させずにおかず、歴史經過においては學問を支へる地盤さへも移り變はって(地動説か大陸移動説か膨張宇宙論か)元の地點を認識し得るだけの距離が開き視差が生じるではないか。

しかるに哲學畑の歴史論たるや​…​…ヘルベルト​・シュネーデルバッハ『ヘーゲル以後の歴史哲学 歴史主義と歴史的理性批判古東哲明譯、〈叢書・ウニベルシタス〉法政大学出版局、一九九四年七月)を讀んだ時*11にも思ったが、史學史に踏み込めないのは哲學者の限界なのかしらん? 一般に學際研究では越境が難事といふだけでなく、殊に哲學的紀律訓練ディシプリンに特有の偏性なのだとすれば? ヘーゲル以降哲學は哲學史になってしまったと云ふやうな慨歎(例、カール​・レーヴィット「人間と歴史」「真理と歴史性中村啓・永沼更始郎譯『ある反時代的考察 人間・世界・歴史を見つめて』〈叢書・ウニベルシタス〉法政大学出版局、一九九二年十一月、p.282​・442​・453。船木亨『現代思想史入門』「第3章 歴史――構造主義史観へ」〈ちくま新書〉二〇一六年四月、pp.219-​220​・p.237)は異口同音に繰り返されてきたことながら――何々以來と時系列上の前後關係に順序づけること自體が既に歴史的展望(みとほし)遠近法(パースペクティヴ))だが――、それでゐて歴史研究プロパーからすればおよそ杜撰で歴史音痴もいいところ、史心・史力(柳田國男「國史と民俗學」他。佐藤健二歴史社会学の作法 戦後社会科学批判』〈現代社会学選書岩波書店、二〇〇一年八月、第4章p.115以下參看)の貧弱は哲學の通弊だと思はないか。「歴史的感覺の缺乏が全ての哲學者の遺傳的缺陷Erb­feh­ler≒宿弊、カント用語では原罪ならぬ「原謬」とも譯す]である『人間的、あまりに人間的 ちくま学芸文庫p.26相當)とはニーチェも反復再言した所ではないか。

哲学者たちのところでみられるすべての特異体質とは何かとおたずねなのか? …​…たとえば彼らの歴史感覚の欠如、生成という考え方自身に対する彼らの憎悪、彼らのエジプト主義である。彼らは、永遠の相のもとで sub specie aeterni、或る事象を非歴史化すれば、――それをミイラとすれば、その事象に栄誉をあたえたことになると信じている。哲学者たちが数千年来扱ってきたすべてのものは、概念のミイラであった。

『偶像の黄昏』「哲学における理性、原佑『偶像の黄昏 反キリスト者 ニーチェ全集14』〈ちくま学芸文庫〉p.38

ここまで切言されても歴史センスが身につかぬ哲學の徒は何たる鈍感さか。哲學をも歴史化して批判する所に意義を見出せぬなら一體ニーチェの歴史思想の何を讀んでゐるのだか。『道徳の系譜學』で「彼らには歴史的精神そのものが欠如している」「総じて彼らはみな、今もって哲学者たちの古風な習わしがそうであるがごとく、本質的に非歴史的な考えかたをしている第一論文第二節ちくま学芸文庫版p.377)と當て擦られても讀み過ごす程に無神經なのか。まさか哲學(への批判)は他人事だとでも言ふのか、ニーチェ讀者が? 反ってニーチェ自身の半面でもある拔き難い哲學熱ばかりが傳染してゐるのだらうか。

それとも、ひょっとしてもしかして、哲學が歴史知(の歴史的批判)に向ふに(あた)っては歴史病の發症を危懼する所爲で及び腰なのだらうか――「時代のやましい良心」が生眞面目さに凝り固まらぬやう「病の深化・昂進になってはならない」「ミイラ取りがミイラになってしまうことだけは、なんとしても防がねばならない(第六章三p.250)と戒める須藤の言葉は同時代ではない過去に對する歴史意識にも當て嵌まるのだ、と?(ところで、哲學研究者って歴史以外でも專門外の事柄に對してそんなに愼重居士だったっけ)​…​…いっそニーチェ風に箴言を弄せば「怪物と闘う者は、そのためおのれ自身も怪物とならぬよう気をつけるがよい善悪の彼岸一四六ちくま学芸文庫版p.138)とか?(だが直ぐ續けて「お前が永いあいだ深淵をのぞき込んでいれば、深淵もまたお前をのぞきこむ」と言ひ足されてゐたやうに、一方的に歴史化してゐた視線が或る時反轉して自分が歴史化され出すスリル感こそ歴史の妙味では?)​…​…哲學者は、自分さへミイラにならなければ物事の歴史性を脱色し概念の剥製に仕立ててしまふことはまだ許容される、とでも? 哲學史で目につく歴史的批判の甘さ、「文献学の二大機能たるいわゆる批判(クリテイク)解釈(インタープレタツイオン)(池田龜鑑「文献学的立場の領域と限界」『古典文学研究の基礎と方法 池田龜鑑選集』至文堂、一九六八年八月、p.126。Cf. pp.113-​114・pp.138-​140・pp.173-​174・p.192​・201が雙方竝立し拮抗すべき所で得てして批判を弛めて解釋學の偏重に歸するのも、不朽不變であるべき眞理が歴史に相對化されて名譽失墜するのを恐れる餘りの所業であった…​…のか? 「不朽なるものDas Un­ver­gäng­liche=過ぎ去らぬもの、移ろはざるもの]/とは汝の比喩なるのみ!」(増補『悦ばしき知識』附録「プリンツ・フォーゲルフライの歌」冒頭「ゲーテに」ちくま学芸文庫版p.463相當。Cf.『斯くツァラトゥストラは語りき』第二部「至福の島々で」18及び「詩人たちについて」1段と諭したニーチェ以後もまだ哲學は過ぎ去りゆくもの(過去=Ver­gan­gen­heit)をよく考へられぬ儘だと? それにしたって、提起された課題を歴史の歴史」と呼び換へておいて歴史の自乘になるのを避けたがるのは無理がないか――自己反省におけるxのx、メタxとは、累乘(po­ten­zie­ren=シェリング用語では「勢位高揚」「展相化」)して高次となったx(x², x³, …)でなくば何であらう?

[…]病が二乗化され、昂進する危険[…]冪数の付された病的状態、極端化された病、病の「極」は、――そして、そのことでいえば、ニーチェの描き出す、病の「像」も、ことによったら、作者の意図をものの見事に裏切って――それだけいっそう強力な「魅惑」を発揮し、人々に批判眼を涵養するどころか、ますます多くの人々を巻き込み、感染させ、相乗的に自己増殖しかねないだろう。

「第六章 同時代の根源――『ヴァーグナーの場合』を読む」中「三 楽士拡大鏡――哲学者やましい良心」p.250

しかし、正にもう『反時代的考察』第二篇「生に對する歴史の利害について」からして、ニーチェに記述された歴史病の病像は、痛罵にも拘らず歴史へ惹きつけ歴史論を喚起する魅力が無かったか(偶數乘すれば負量(マイナス)正數(プラス)に裏返るとか?)。小著『ヴァーグナーの場合』は須藤が高評價しても改めて讀んでも格別魅了されないし、ついでにエドゥアルト・ハンスリックの反ワーグナー評から幾つも盜用してゐた(マンフレート・エーガー/谷本愼介譯「『ニーチェのバイロイト受難劇』より「ハンスリックかく語りき」」『国際文化学研究 神戸大学国際文化学部紀要』第25號、二〇〇六年一月)とあっては創意の程も疑はれねばなるまいし、「従来ニーチェ研究者によって、思想書としてのその意義に十分注意が払われてこなかった(第六章p.224)と言ふのがやはりさもありなむと頷けるのだけれど、對して、第二反時代的考察は何かと議論の的となり波紋を擴げてきたではないか。研究者・解釈者による同書の重要性の認知(第二章p.67)は本書も述べる所、だが例にハイデッガーを擧ぐのみでは哲學であり過ぎる、もっと歴史學寄りでの讀まれ方から捉へ直してはどうだらう。

例へば、ヘイドン​・ホワイト『メタヒストリー』原著一九七三年初刊)の第9章「ニーチェ」が「一九世紀の他のほとんど全ての文化の領域と同様に、フリードリッヒ​・ニーチェは歴史の領域でも転回点を刻み込んだ(ホワイト/田中裕介譯「歴史への意志青土社『現代思想』一九九八年十一月臨時増刊「総特集 ニーチェの思想」p.59)といふ語り出しなのは多分に紋切型ながら、まだその祖型が陳腐になり切る前の一九二二年の段階でも特に歴史論において「彼以前の人々にとって自明であったことが、彼にとっては問題となり、彼はその問題に思い悩み、[…]それゆえ、最近の歴史主義の危機と自己反省とは、大部分ニーチェに由来している近藤勝彦譯『トレルチ著作集 4 歴史主義とその諸問題(上)』第二章2、ヨルダン社、一九八〇年十月、p.212)と認められた通り、歴史の問題化自體が如何に多くをニーチェ效果に負ふことか。甲論乙駁、「この論文[「生に對する歴史の利害」]は、その大胆な主張をもって、津波のような反歴史的評論と評論的な似非(えせ)歴史をわきたたせた(ゲルハルト・リッター/岸田達也譯『現代歴史叙述の問題性について』〈創文社歴史学叢書〉一九六八年十一月、p.33)だけでなく、それらへの反撥も招き、斯く言ふリッター自身の舊稿「歴史と生 ニーチェおよび現代生哲学との一つの対決(一九三八年初出→藤枝征司譯「『権力の人倫的問題について』(8)」流通経済大学経済学部『流通經濟大學論集』Vol. 27, No. 2​・通卷第97號、一九九二年十一月の如き歴史學界からの異議抗論でさへ、『反時代的考察』の挑發效果のうちだとすれば? 成程、須藤が讀んだ『ヴァーグナーの場合』とて「悪意ある嗤い(第六章「二 挑発としての『ヴァーグナーの場合』」p.238)で挑發を仕掛けたのかも知らぬ、が、「明らかにニーチェは読者を挑発しようとしている。[…]それは、問題の存在と所在に無自覚な同時代人を、挑発を通して、問題の発見へと誘導するためにほかならない(仝pp.238-​239)と言ふ評語に相應する成果を擧げたのは當のワーグナー嘲弄の書よりかむしろ初期の時代外れな反歴史論だったわけで、意圖よりも結果で評價する限りニーチェは「自分もかつてそうであったところのヴァグネリアンたち(仝p.239)以上に爾後自分もさうなったやうな歴史主義者達にこそ問題意識を掻き立てるのに成功した――少なくとも受容史上はそれが現實だ、とすれば? いっそ觀念論風に、ピヒトが「カントはここで問題そのものの強制に従っている」とか「哲学者の個人的素質あるいは意図に反しても遂行され得るほどに、断固たる力をもつ或る種の問題連関が哲学の基礎をなす領域に存在するということを、この展開から読み取ることができる(前掲『ニーチェ』第二部第二章d、p.177​・179)とか述べた哲學觀を歴史論へも應用すれば、畢竟、對象となる事柄自體の論理展開に牽引される概念系列が歴史を主題とした場合にも(にじ)み出て來ずにはゐないのだとすれば、主體としての歴史がニーチェといふ媒介を通して筆者に逆らっても自己主張してゐるかのやうな?

いかにも歴史病克服が若きニーチェの主意であったらうが、あれ讀んで歴史嫌惡ばかり募らせる「健康」な讀者なぞあまりに素朴と言ふもの、批判力ある讀み手なら却って歴史熱を高めても不思議あるまいし、それどころかまた特に認識及び自己認識への我々の渇望は病める魂を健康なるのと同じぐらゐ要しないかどうか[Cf.新約ルカ傳五・三一、要するに、健康への一途な意志とは一箇の偏見、一箇の怯儒、そして多分は細やか至極な野蠻さと後進性との一片であるかもしれないのではないか」(『悦ばしき知識』一二〇末、*1前掲ちくま学芸文庫p.214相當)。著者たるニーチェ自身さへ方針轉回して四年後の『人間的、あまりに人間的』からは歴史的思考へと舵を切ったのは、病氣がぶり返したのか自己批判なのかそれとも…​…今や『道徳の系譜學』既出第二論文第十二節)を併讀して「[…]あらかじめ存在しているものは、新たな意図Ab­sichtenの譯だが、An­sichten(=見方)の誤植をもって、その「意味」や「目的」が後から何度も解釈し直されるという、歴史方法論の主要観点―一二、S.329, 331)として重要視されて駆使される定則(第四章四p.192)を見取った以上は、古典文獻學教授時代の否定的な歴史(學)批評をも肯定的(po­si­tiv=實證的)に讀み替へる理路が立ちはしないか――例へば、啓蒙主義への敵意から召喚された歴史精神が時を經て今では逆に啓蒙の守護神となったと評價する『曙光』一九七*1前掲ちくま学芸文庫版p.226(なぞら)へて? それとて後講釋に過ぎない? でも、新たな讀み方が單に主觀への我田引水でなく對象から發した變化可能性である場合は? 時に作者の意圖を裏切っても作動する作品に就くことの、何が惡いのだらうか。さうしたイロニー(反語)こそ讀書の妙味、批評の醍醐味では? いや、書いた作者よりも書かれた文言(テクスト)に忠實であるのが裏切りかどうか。紙背に突き拔けた眼光で裡面から作意を忖度するよりは文面上に留まって言葉自體を吟味するのが、解釋學とはまた違ふ文獻學的批判(批評)の流儀ではなかったか。我々の眼に讀めるのは行間でなく行文であって、言ひ換へれば、テクストが現實に述べたこととは別にその奧底に何か眞に言ってゐるものが祕められてはゐまいかと勘繰るやうな「アレゴリー的疑心(M・フーコー)*12に執らはれないこと、言外に眞意を探るよりも言語表現から發する力を巨細漏らさず認識すること、陰の操り主と覺しき言語の主體(言表行爲の動作主)を見拔かうとするのでなく言語を主體としてその作用(はたらき)を見屆けること、所詮でなく能詮としての言語が自他に及ぼす動きを追跡すること――むしろ作者といふ主體概念さへ作品(Werk=仕事)の作用(Wir­kung=效果・影響)であるのを讀み解くこと、「作品が、藝術家の、哲學者のそれがはじめて、それを創造した者、創造したらしき者を發明する『善惡の彼岸』二六九、前掲ちくま学芸文庫版p.325相當。『ニーチェ對ヴァーグナー』「心理學者が發言する」に自己引用、*8前掲偶像の黄昏 反キリスト者 ニーチェ全集14ちくま学芸文庫版p.375相當)と云ふ逆説を受容者側の手順通りに認證すること、詰まる所、あの解釋學の定式「作者を作者自身よりもよく理解する」(H=G・ガダマー『真理と方法 』第二部第章第1節β シュライアーマッハーの一般解釈学の構想」前掲書pp.317-​323參照。Cf.安酸敏眞『歴史と解釈学――《ベルリン精神》の系譜学――「第五章 ディルタイにおける解釈学と歴史主義知泉書館、二〇一二年七月、p.205​・pp.214-​215、及び第一章p.57​・63、第三章pp.131-​132。小西甚一『日本文藝史【別巻】 日本文学原論』「解釈・理論の次元」二(一)(三)・三(二)及び「餘論ふうな結語」一(一)、笠間書院、二〇〇九年七月、pp.442-​446​・p.458​・459​・465​・471​・567​・pp.605-​606​・p.614​・643​・652​・658​・821​・827とは微妙に相異して「言葉というものはしばしば、それを使用する人間たちよりももっとよく自分自身のことがわかっているものだということ(フリードリッヒ・シュレーゲル「難解ということについて」山本定祐編譯『ロマン派文学論』〈冨山房百科文庫〉一九九九年七月第二刷p.235)​…​…言ってゐることが、お解りか?*13

何等かの事情のために不透明にされている意味を明確にすることが解釈の使命と考えられている[…]。その限り、解釈によって明らかにされる意味とは、表層の背後ないし深層に埋没しており、その深層を発掘するのが解釈の作業である、と規定される。だが、ニーチェはこうした解釈概念ときっぱり手を切る。

須藤訓任「習俗の倫理について――ニーチェの遠近法主義の前景と背景――前掲p.3

「主観」„Subjekt“=「主體」]は、なんらあたえられたものではなく、何か仮構し加えられたもの、背後へと挿入されたものである。――解釈の背後になお解釈者を立てることが、結局は必要なのであろうか? すでにこのことが、仮構であり、仮説である。

前出権力への意志 下 ニーチェ全集13』第三書四八一p.27NF-​1886, 7​[60]

五、問ひは續く…… 

以上、豫想以上に問題點が出て來るので止めどなくなったけれど、瑕釁をあげつらったつもりはなく、あまた浮かぶ疑問符をどうにか言葉にしようとテクストに徴して擧證に努めたのは讀み取ってもらへようか。歴史思想史に關心する身であれば、門外漢の一讀者からもこれくらゐは不審紙が附けられるのだが、須藤訓任は、またその著書を讀んだ者らは、これらの疑問群にどう答へるであらう。もしや專門家(ニーチェ專攻の?)には問題外であり門前拂ひされるのか、或いはどこかでこの各問を解いたり反問したりした論考が讀めるのか​…​…まだ積み殘しの案件もありさうな?

「問題群」と云ふ語は本書第二章の題名先頭に掲げられてゐるものの、「これは中村雄二郎氏の用語である(註(4)​p.112)と典據『問題群―哲学の贈りもの―』〈岩波新書〉一九八八年一月)を附記するだけで別段含意は示されないから、「群」一字では纏まりの弱い寄せ集めの意味にしかならないかも​…​…しかも中村雄二郎著にあっても重用される割に主題化されない定義不明の操作概念であるばかりか「西田の問題を歴史的な文脈のなかに置くよりも、むしろ現代の問題として考えたい(中村『西田幾多郎』第1章「2 問題群としての〈西田幾多郎〉」、20世紀思想家文庫〉岩波書店、一九八三年七月、p.40​→『中村雄二郎著作集 Ⅶ 西田哲学』一九九三年七月、p.29​→『西田幾多郎』〈岩波現代文庫〉二〇〇一年一月、pp.31-​32.)などと歴史に背く口實にさへ用ゐられる爲體(ていたらく)だから、歴史思想には不向きかも? 畢竟、本書『ニーチェの歴史思想』もまた、ニーチェ研究の論文集として各論それぞれに見どころはあれど、問題群の歴史思想論としての統合は不首尾と評すべきか。實の所、竹内綱史の書評が「要するに本書は、扱っている内容の広がりからすると、少々題名が控え目すぎるのではないかと思われるほど、豊かな本なのである」と賞した「賛辞(前掲p.120は、皮肉にも、名實伴はぬチグハグさを裏書きしてないか(またもや「題名の問題」*3、いや中身に問題がある?)。歴史に關するニーチェの「思想的変遷を[…]追跡する」と言ふ「本書の意図(序文p.9)も、さう「初めから意図されて書かれたものではなく」「結果的に浮かび上がってきたような意図であ(竹内綱史p.120るからして、その意に添って終始支障(もんだい)無くニーチェが讀めるかどうか一から追試すべきで、意圖の實行よりは假説の檢證の(てい)でじっくり漏らさず讀み直す「反芻(『道徳の系譜學』「序言」結語ちくま学芸文庫版p.371)を期待したくなる所だが、遺憾ながら、本書の如く事後になっての總括を初志であった風に裝へば辻褄ずれるのは歴史認識論上からも當然のこと、現に、夥しいニーチェの章句群から「歴史」「歴史家」「歴史的感覺」等――その他「過去 Ver­gan­gen­heit(Cf. Ver­gäng­lich­keit=移ろひやすさ、無常)」「古代」等々も?――に關説した思想(もんだい)があちこち散在するのを索出し集中させるといふ基礎作業が網羅性を心懸けぬまま摘まみ喰ひ程度に留まったのもそれ故か(良く言って、拔取り檢査ぐらゐ?)。本書で、『道徳の系譜學』と『ヴァーグナーの場合』とを二焦點にしながら後者への贔屓目が祟って「歴史」より「(同)時代」に偏心したり、新稿「第二章 問題群としての生に対する歴史の利と害についてを入れて構想した著書の割にはどうも歴史的思考が貫徹されず不手際な歴史の捌き方を見せたり、かれこれ既述したやうな諸もろの問題を惹き起こすのは、歴史思想といふ主題が所詮は後附けの見繕ひ以上に出なかったのか。では、初めから歴史思想論を主動させて書き直せばどんな本にならうか、想像しては如何。ここで雪崩れなす問題群を改めて「ニーチェの歴史思想」と云ふ軸線に沿って展望し直すとしたら?

西諺に曰く、發問は答への半ば、とか(典故はアリストテレス『ニコマコス倫理學』第一卷第七章末1098b7-​8か)。ニーチェの言葉で「良き質問者には既に半分回答されてゐる(ツァラトゥストラ第三部草稿NF-​1883, 23​[5]1884, 31​[59][61][64]33​[1]とはその一變種ヴァリアントに過ぎぬが、文獻學修業時代の覺書き(一八六七年秋〜六八年春)にある「新しい答へを得ようとするのなら、新しい問ひを立て得るのでなくてはならないGe­sam­mel­te Wer­ke, Ers­ter Band, Mu­sa­rion Ver­lag, S. 295​Kri­ti­sche Ge­samt­aus­ga­be Wer­ke 4, 57​[30], De Gruy­ter, S. 398.も同種の變奏ヴァリエーションだったのかも。そこで問題群にどう應對するかが問題になるとして、歴史の哲學を志向する本書のやうな立場であれば、『歴史の観念小松茂夫・三浦修譯、紀伊國屋書店、一九七〇年五月)の著者でもあるR・G・コリングウッドが思想を「問いと答え」の對關係で捉へた「問答論理学」に倣って間宮陽介「思考と歴史――コリングウッド試論」岩波書店『思想』一九八七年四月號通卷754號「思想史・再考」參照)、書かれた思想である答へから書かれざる思想である問題關心を推察し、文意からそこに設定された文脈(コンテクスト)である問題状況へと遡行しつつ、正に「問題史」を構成する方向で群がる疑問を系統立てられないものか。丸山眞男の「私は思想史というものは問題史としてしかありえない、と考えている(『忠誠と反逆 転形期日本の精神史的位相』「あとがき」、筑摩書房、一九九二年六月→〈ちくま学芸文庫〉一九九八年二月、p.471)といふ斷案を踏まへて東島誠が「ですが私は,もっとラディカルに,歴史学というものは問題史としてしかありえないと考えています.ここで問題史というのは、いわゆるテーマ史ではありません.〈公共性の歴史〉などはどうでもいいのであって,重要なのは〈公共性の問題化の歴史〉です佐々木毅・金泰昌編『公共哲学 3 日本における公と私』「発展協議」、東京大学出版会、二〇〇二年一月、p.137)と言ひ立てたのを思へば、いっそ問題化史とでも呼んだ方が紛れが無からうか。この概念(コンセプト)の開祖とされる一八九二年初版ヴィルヘルム・ヴィンデルバント著『哲學史教本』(河合讓譯『西洋哲學史』上下卷、改造社、一九三〇〜三一年。井上忻治『一般哲學史』全四卷、第一書房、一九三二〜三三年。ハイムゼート増補/桑木嚴翼増訂 哲學史要』〈冨山房百科文庫〉一九三九年二月――尤も哲學以外ならチェス雜誌にPro­blem­ge­schich­teなる語の先例が見つかるが――の登場背景にある新カント派論壇、エドゥアルト​・ツェラーらとの競合も考へに入れると(宮本冨士雄『哲學史の哲學』第二章、弘文堂書房、一九四八年七月、p.177以下。加来彰俊「十九世紀の哲学史家」5、田中美知太郎編集『講座 哲学大系 2 哲学の歴史人文書院、一九六三年七月、pp.422-​425.)、問題史とは元もと、哲學史研究がいよいよ精度を上げた十九世紀後半において純哲學流な解釋が歴史學的な考證(特に文獻學式な資料批判)との間で搖るがされる中で持ち上がってきた折衷策ではなかったか。それゆゑ問題史と言っても歴史の問題化か問題の歴史化か曖昧で兩面あるが、問題意識が主導する「上から」の歴史敍述ばかりと思ひきや飜って己が問題意識を歴史に照らして反省することでもあり得るといふ反面が見逃せない所で、つまり意識に内在化するよりは歴史といふ外在聯關においてその問題提起がどうして成立し得たかを問ひ返す自己批判でもあって、如何にも哲學者が入れ込みさうな恆久不變の問題(おゝ古來の謎!であるどころかむしろそれがいつ如何にして問題となったかといふ歴史が問はれるべきなのであり(Cf.ガダマー『真理と方法 』第二部第章第3節c「β 問いと答えの論理」前掲書pp.580-​583.、その意味では晩期フーコーに頻出の「問題構成(田村俶譯『性の歴史Ⅱ 快楽の活用』「序文」、新潮社、一九八六年十月、p.17以下)と飜譯されるpro­blé­ma­ti­sa­tion(動詞pro­blé­ma­ti­serの實詞化)も「問題化」米虫正巳経験・装置・問題化関西学院大学人文学会『人文論究』第五十六卷第三號、二〇〇六年十二月)と解した方が歴史の中で生成消滅する諸問題を變化の動態に即して捉へられるわけで、またフーコーもその一派を成すフランス・エピステモロジー乃至「概念の哲學」の脈を引く論者にあっては「問題」概念そのものが主題化され「問題論的転回」を稱するに至ってをり近藤和敬数学的経験の哲学 エピステモロジーの冒険』第4章以下、青土社、二〇一三年四月。仝『〈内在の哲学〉へ カヴァイエス・ドゥルーズ・スピノザ青土社、二〇一九年六月、特に前著への補正はpp.412-​413.)、それら大陸哲學に馴染まぬ者でも英米系ではリチャード・ローティが哲學史敍述における「合理的再構成」と「歴史的再構成」とを總合する第三のジャンルを擧げて「精神史(Gei­stes­ge­schich­te)――何でこんなずれた命名なんだか――は、問題解決のレヴェルよりも、問題構制prob­lem­at­icsのレヴェルにおいて、仕事をする。それは、〈過去の偉大な哲学者の解答や解決がどの点において現代の哲学者のそれと一致するか〉を問うのではなく、なぜ人は​…​…という問いを自分の思想の中心に据えるべきであったのかなぜ人は​…​…という問題を真剣に取り上げたのか、といった問いを追究することに、多くの時間をかける冨田恭彦譯『連帯と自由の哲学 二元論の幻想を超えて』「Ⅳ 哲学史の記述法――四つのジャンル」二、岩波書店、一九八八年五月、p.121)と述べた邊りに引き寄せれば​…​…いやもう、ニーチェ主義の假面を(かぶ)る系譜學者ならばかう語ってもいいか、「[價値轉換するニーチェをハイデッガーに取り込むのがデリダだが]そうではなく、問題をひっくり返すことは、問題性そのものを消すことによって、かえって、それをまさに問題たらしめ、問題として現実化し、機能させ、維持してきた問題化そのものの諸関係とその機構を、考察可能にするために行われる戦術にほかならない。つまり、ニーチェは常に明示する――問題の本質は問題性そのものの内部にはない、と。それはむしろ、問題化の諸関係とその内部化の機構の方にあり、[…]榎並重行・三橋俊明流行通行止め 現代思想メッタ打ち!』023、前掲書p.28)とかとか。

なにを問題とすべきか?………………………ニーチェからの変奏――問題なんてない、ただ問題化があるだけだ。問題化する諸関係と、その体制があり、それらが、問題の現実性を組み立て維持する。問題とは、それらの体制の稼働の結果、生産された効果にほかならない。必要なのは、それ故、解答をもって応えることではなく、この諸関係と体制を、問題化への/による抵抗によって解除することだ。

榎並重行・三橋俊明『流行通行止め 現代思想メッタ打ち!』161、p.115

問題が起ると、人々は、ともかくもまず、解決を求める。問題そのものの綿密な考察と理解こそが、その前に必要なのではないか、と問う声は滅多に聞えない。[…]従って、そこでは避けられている――まず、問題を、それがそのなかで生じた諸関係や諸状況の配列そのものの問題化を要請する契機とみなすこと、つまり、問題を、その問題の更なる問題化、その内と外の双方へ伸ばされる一層の問題化への呼びかけとして、受け止めること(いわば問題性の発展を目ざすこと)が――。次いで、問題の歴史を追究すること、すなわち、その出自と由来の分析へと進み、その問題性の本質が問題そのもののなかにはなく、異質で雑多な要因と関係の配列から生成してきたものであることの把握へと向うこと(問題を解決するのではなく、それを問題として生成せしめたそれ自身とは別の諸存在の変換、置換、移転等によって、問題性の配列自体解除することを目ざすこと)が――。要するに、問題の解決を求める合唱に加わる時、ひとは、二重の回避を自らに求めている、――問題を考察と認識の大いなる冒険への招請として受け取らないこと、そして――問題をまさに問題と認めている自らの認知の体系とその運用そのものをも疑う歴史性の挑戦への踏石とはしないこと。[…]

榎並重行『ニーチェのように考えること 雷鳴の轟きの下で』「4章 歴史の襲来」、前掲書pp.147-​148.

以前は問題無く過ごしてきた所に問題性を見留めるのが問題化であり、斯くて事件出來すれば、出來事を捉へるといふ意味で歴史の認識に通ずるか。例へばニーチェの場合は『悲劇の誕生』新版に十四年經ての自己批評を添へた時、同書が掴んだ「一つの新しい問題」を振り返って「今日なら私は、それは學問そのものの問題であった――初めて問題的なものとして、疑問なものとして捉へられた學問、と言ふであらう」と再定義してから「學問の問題は學問の地盤の上では認識され得ない」前出「自己批判の試み」と斷じてゐたけれど、見ての通りこれは回顧の遠近法で描かれた自畫像であり、後向きに過去へと目をやって歴史化することを通じて以前の立脚地の外に出て問題が認識できたのではあるまいか。哲學においても、哲學問題の枠外からその問題性を問題化するのが歴史と云ふことにならうか。

それとも、それとても「奇妙なやり方で問いと答えとを混同することなのか​…​…即ち「誰に促されたというのでもないのに、人は、潜在的な設問に回答を用意しておくことが現代にふさわしい義務だと確信する。そして、用意された回答を口にしながら、その身振りを問題の提起だと勘違いすることになったのだ(蓮實重彦物語批判序説「Ⅰ」中「Ⅳ 流行から問題へ」、中央公論社、一九八五年二月→〈中公文庫〉一九九〇年十月、pp.107-​108.)、と?――進歩問題、階級の問題、貧困の問題、人道主義の問題から、終末の問題、権力の問題、差別の問題、環境汚染の問題、等々へと、そのつど問題体系の配置を組みかえながらも、現代的な言説はその構造を維持しつづけてきた。また、それが維持されている限りにおいて、その歴史性は隠蔽されていたわけである(仝「Ⅴ 現代的な言説」pp.137-​138.)のだが、そこへ「歴史」といふ問題(を裝った解答)も追加されるまでのことであらう、と? 恰度、かのゾロアスター假託書が「そして、わたし自身と同じく、きみたちは、その答えとして、もろもろの問いをみずからに与えた(『ツァラトゥストラ』第二部救済について13、前掲ちくま学芸文庫版上p.253と告げてゐたやうに? 現實に問ひ掛けられる相手がゐない以上、暫くはあれこれ讀みながら自問自答を繰り返すことにならうか​…​…「一つ一つの答えからは新しい問い、探究、推測、推定Wahr­schein­lich­keiten=眞實らしさ、蓋然性、見込み]が生じた『道徳の系譜』「序言」*1前掲ちくま学芸文庫版p.363)と言ふわけだ?

ともあれ、こうした展望が私にひらけてから、ゆえあって私は、学識に富む大胆で勤勉な仲間を捜し求めるようになった(今でも捜し求めている)。

『道徳の系譜』「序言」冒頭、ちくま学芸文庫p.368

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*1

邦譯ニーチェ全集の理想社版改めちくま学芸文庫版には收載してない遺篇なので、白水社から抄出しておく(角括弧[ ]内はその底本であるグロイター版全集ことKri­ti­sche Ge­samt­aus­ga­be Werke原文NF-​1885, 38​[14]に即して補った)。

われわれをあらゆるプラトン的、ライプニッツ的思考法と根本的に区別するものは次のことである。すなわち、われわれはいかなる永遠の概念も、[永遠の]価値も、[永遠の]形式も、[永遠の]魂の存在も信ずることなく、また哲学は、それが学問であって立法でないかぎり、われわれにとって「歴史」という概念の最も廣く]拡大されたものを意味するにすぎない。語源学や言語史によって、われわれはすべての概念が生成したものであり、多くの概念がさらに生成するものであることをvie­le als noch wer­dend=多くをなほ生成しつつあるものとして]知っているneh­men=受け取る][下略]

麻生建譯『ニーチェ全集 第八巻(第期) 遺された断想(一八八四年秋―八五年秋)白水社一九八三年七月、p.430

類似した一文が、昔の大八つ折判(グロースオクターフ)版著作集ⅩⅢでは連續して直ぐ次の番號47に排列されてゐた(ナウマン社一九〇三年刊及びクレーナー社一九二三年第二版S. 23)。麻生建の譯文(『ニーチェ全集 第八巻(第期)』p.373)では解りにくいので、異譯(原佑・吉沢伝三郎譯『生成の無垢 上 ニーチェ全集 別巻3六三六〈ちくま学芸文庫〉一九九四年九月、p.407)も參考にして、試譯してみる([ ]内は飜譯上の補足)。

私がただそれのみをなほ通用せしめるやうな哲學は、歴史の最も一般的な形式として[の哲學]、ヘラクレイトス的な生成を何とかして記述し記號に縮約しようとする(一種の見かけ上のschein­ba­rem=假象状の、〜らしく見える]存在にさながら飜譯しミイラ化する)試みとして[の哲學で]ある

NF-​1885, 36​[27] (Nietz­sche Wer­ke. Kri­ti­sche Ge­samt­aus­ga­be 3, 1974: S. 286.)

同系で、これと併せて部分引用されやすかった斷章(フラグメント)元はエルンスト・ベルトラムニーチェ――一神話の試み――』「ドイツ的生成」所引、そこから重引された。原書一九一八年初版。淺井眞男譯『ニイチェ 上卷』木村書店、一九三五年四月、p.135​→『ニーチェ』筑摩書房、一九四一年十一月、p.119​→浅井真男譯『ニーチェ 上 ――一つの神話の試み――』〈筑摩叢書〉一九七〇年四月、p.106相當)も、全文掲げておく。附加の末文は、グロイター版で補完され、更に誤植訂正されたもの(白水社版は未修正)。

私たちをプラトンやライプニツからと同様にカントから分かつものは、私たちが精神的なものにおいても生成だけを信ずるという点である、――私たちは徹頭徹尾歴史学的である。これは大激変だ。ラマルクとヘーゲル――、ダーウィンは一つの余波にすぎない。ヘラクレイトスエンペドクレスの思考法がふたたび復活したのだ。カントも「純粋精神」という形容矛盾を超克しはしなかった。[しかし私たちは。]

『生成の無垢 上 ニーチェ全集 別巻3六二一、p.399
グロースオクターフ版著作集ⅩⅢ21S. 10​≒NF-​1885, 34​[73]前掲『ニーチェ全集 第八巻(第期)』pp.225-​226相當)

畢竟、哲學さへもはや史學となりぬ、と。荻生徂徠の至言「學問は歴史に極まり候事に候」(『徂徠先生答問書』中村幸彦校注『日本古典文學大系94 近世文學論集』岩波書店、一九六六年十二月、p.187相當/今中寛司・奈良本辰也編『荻生徂徠全集 第六巻河出書房新社、一九七三年七月、p.178相當/島田虔次編輯『荻生徂徠全集 第一卷 学問論集みすず書房、一九七三年七月、p.433)を想はせよう。以上に引く三篇、どれ一つとして觸れもせずに「ニーチェの歴史思想」を説く須藤著は、恐らくは同牀異夢であらうか。なほ、初めに抄記した引用文中「語源学や言語史」(榎並重行『ニーチェって何?』p.32の引用ではなぜか中略された箇所)のことは後出するので留意されたい(Cf.サラ・コフマン/宇田川博『ニーチェとメタファー』〈ポストモダン叢書〉朝日出版社、一九八六年七月、第五章pp.150-​151.)。立法ではなく學問(Wis­sen­schaft=科學)である限りでの哲學が歴史(學)に包攝されるのは、かうした言語研究の史的部門が特に與ってのことと見える。

ただ他方、これと前後するニーチェのテクストには、哲學は立法であらねばと望む文も見つかり(原佑譯権力への意志 下 ニーチェ全集13九七六​・九七九、〈ちくま学芸文庫〉一九九三年十二月、p.474​・p.475NF-​1884, 26​[425]​・1885, 35​[47])、一八八六年刊『善惡の彼岸』二一一は斷定口調で「だがしかし真の哲学者は命令者であり立法者である」(信太正三譯『善悪の彼岸 道徳の系譜 ニーチェ全集11』〈ちくま学芸文庫〉一九九三年八月、p.209。同文はNF-​1885, 38​[13]よりの流用)とか言ふ。立法(Ge­setz­ge­bung)とは、カント好みの用語ながら、ニーチェにあっては價値を價値規準ごと創造し定立する(いひ)である(一八七四年刊「教育者としてのショーペンハウアー」小倉志祥譯『反時代的考察 ニーチェ全集4』〈ちくま学芸文庫〉一九九三年十月、p.265)。遂には「大地の主die Her­ren der Er­de=地球の支配者達]」とも等置される「未来の立法者」(『権力への意志 上 ニーチェ全集12一三二末、〈ちくま学芸文庫〉一九九三年十二月、p.140NF-​1885, 35​[9]末)は、超人の異名同然に言ひ囃されてきた​…​…さうした立法者ニーチェの像に歴史家ニーチェが差し挾まれるのだ。立法者か、歴史學者か。一八八六年中『善惡の彼岸』に續けて新版で出し直した二著(初版は一八七八年と一八七九年だが)では、片や「そして立法者たることは暴君たることのいっそう洗練された形式である」(池尾健一譯『人間的、あまりに人間的  ニーチェ全集5二六一精神の暴君たちTy­ran­nen」、〈ちくま学芸文庫〉一九九四年一月、p.278)と持ち上げ、片や「どんな種類の僭主も(僭主的なty­ran­nen­hafte=暴君めいた、專制君主のやうな]芸術家や政治家も)歴史をして自分たちを目指した準備、階梯と見えさせるために、好んで歴史に暴力を加えるのだ」(中島義生譯『人間的、あまりに人間的  ニーチェ全集6』「第一部 さまざまな意見と箴言三〇七、〈ちくま学芸文庫〉一九九四年二月、p.209)と咎め、立法と歴史との間には對立が潛んでゐた。だったら、誇らかに「立法者的で専制者的なty­ran­ni­schen精神の持ち主」(原佑・吉沢伝三郎譯『生成の無垢 下 ニーチェ全集 別巻4』八二一、〈ちくま学芸文庫〉一九九四年九月、p.408=NF-​1885, 34​[88])を氣取るよりもまづ認識に努める學究の立場を取る者に限って、學問の學たる哲學をば廣義の歴史學となす資格があるわけだらう。定義に惱んだ末「哲学者には異なった二種類がある」(権力への意志九七二、前掲書p.470​≒NF-​1885, 38​[13])と想ひ到ったニーチェは、從來のに對置する第二種の哲學者を「未来の立法者」(仝p.470​≒NF-​1884, 26​[407]。この『權力への意志』九七二NF-​1885, 38​[13]との混成本文)と稱するも、反面、その(きた)るべき者への下準備として既成價値に從事する第一種の方には定まった呼び名を授けなかったが(「労働者」等と賤稱はしたが)、その任務は「一切の長大なものを、〈時間〉そのものをすらも切りつめてab­zu­kür­zen、全過去を制圧できるようにするということ」(『善惡の彼岸』二一一、前掲書p.209)ださうで、未來でなく過去に對應するのだから敢へて命名すれば「歴史家」なのかも。哲學を二途に別つうち、立法と對照を成す側の仕事について「記号によって総括し簡約化するab­kür­zen」(前掲『権力への意志』p.470=NF-​1885, 38​[13])と述べるのも、前引の歴史としての哲學を推す斷想(1885, 36​[27]=『生成の無垢』六三六)で見た「記號に縮約ab­zu­kür­zen」云々と相通じ(他にNF-​1884, 26​[227]=『生成の無垢』二七〇、1885, 34​[185]38​[2]=『生成の無垢』二〇一、1885,1​[28]≒『生成の無垢』二五三、1885, 2​[193]=『権力への意志五四八1886, 5​[10]5​[16]=『生成の無垢』二七四、6​[11]=『権力への意志五一三、等も)、兩文とも要は、生起だか生成だかの略述が歴史化だと云ふことなので。もしやこれ既にマッハ流の思惟經濟説(本書補論3)だとすれば、なべて科學認識は感覺現象を記號化した要約版とされるので歴史學も亦然りなのか。とにかく一八八五年六月より七月に掛けてのルーズリーフ中、遺篇38​[13]で「本來のei­gent­li­chen=眞の]哲學者」は立法者なりと唱へ、だがその直後38​[14]では「それが学問であって立法でないかぎり」我らが哲學は歴史學であり古い哲學者らとは違ふのだと誇る、といった按排。立法者一邊倒でなく歴史思想家たる面を讀み取らなかったら片手落ちだらう。ゲオルク​・ピヒト著『ニーチェ』が「ニーチェでは歴史が哲学の唯一の内容となったというテーゼ」(青木隆嘉譯、〈叢書・ウニベルシタス〉法政大学出版局、一九九一年七月、序論第三章p.16。Cf. p.ⅺ​・14​・15・18・28・44・74・77・87・93・112・141・169・226・328・329​・338​・359​・368​・378​・399​・459)を掲げながら將來目標に「立法者としての哲学者」(仝序論第二章p.11及び「事項索引」の同項參照)を講義豫定とする解釋も參考にならうものの、同書の説く「歴史」は過去よりも未來向きの意味合ひを強めてゐる點(第二部第十五章a、p.356)、言葉に無理をさせてゐる感は否めない​…​…。歴史好きはしばしば行く末に目を背けても來し方を顧みるもの。遡って以前の著書に照らせば、一八八二年刊『悦ばしき知識』三三五物理学万歳!」末段はかう語ってゐた――だが、われわれときては、われわれが本来それであるところの者となることを欲するのだ――新しい人間、一度きりの人間、比類ない人間、自己立法的なSich-selber-Ge­setz­ge­ben­den人間、自己自身を創造する人間に、なることを欲するのだ! そのためには、われわれは、世界における一切の法則的なものGe­setz­li­chen、必然的なものの、こよなき学び手となり発見者とならねばならない。この意味での創造者でありうるためには、われわれは物理学者でなければならない、」云々(信太正三譯『悦ばしき知識 ニーチェ全集8』〈ちくま学芸文庫〉一九九三年七月、p.353​…​…「ある」(sein=存在する)やうに「なる」(wer­den生成する)、即ち、自分自身になること、己れ自身に己が法を制定する自律した存在への生成であり、その前提として理法(Ge­setz)を知らねばならず、故に學者たることを要する​…​…而して學者代表の物理學者(Phy­si­ker=形而下學者。反形而上學者 An­ti­me­ta­phy­si­kerの意か、cf.一八八七年増補『悦ばしき知識』第五書三四四)は今や歴史學者となる? されば「われわれが本来それであるところの者」(die wir sind=我々であるもの)は、今や、過去分詞形に變換した「それが本來如何にあつたか」wie es ei­gent­lich ge­we­sen[ ist]​(山中謙二譯『ランケ選集 ローマ的・ゲルマン的諸民族史(上)』「初版序言」、千代田書房、一九四八年九月、p.15)と云ふ、かの歴史學的提題として問はれることになる​…?! さうだ、ニーチェのあの格率(マキシム)おまえは、おまえの在るところのものと成れ。„Du sollst der wer­den, der du bist.“​(『悦ばしき知識』二七〇、前掲書p.284)、及びそれを三人稱にして問うた如何に人は彼であるところのものになるかwie man wird, was man ist(一八八八年成稿『この人を見よ』「なぜ私はこんなに利口なのか」とは、更に、その成るべき存在は何であるかといふ自己認識を求める命法「汝自身を知れ」(茅野良男譯『曙光 ニーチェ全集7』四八「汝自身を知れは学問の全体である」、〈ちくま学芸文庫〉一九九三年九月、p.64。後述の本稿第四節も看よ)とは、恰かも好し、歴史研究のススメでもあったのだ! おゝ歴史學萬歳!!――と、歴史主義者は自讚に誘はれる。事實、「汝自らを知れ、それも歴史によって」(ベルンハルト・グレトゥイゼン野沢協譯『ブルジョワ精神の起源 教会とブルジョワジー』「まえがき――ジャン・ポーランへの手紙」〈叢書・ウニベルシタス〉法政大学出版局、一九七四年十二月、p.6。野沢協「訳者あとがき」pp.379-​380をも看よ)と言ふ標語(スローガン)が、『ニーチェ以後のドイツ哲學思想入門』(一九二六年)の著もある或るディルタイ門下の公式化する所となった。但し「汝自身であれ! 汝が今為し、考え、欲しているもの、それはすべて汝ではないぞ、と呼び掛ける自己の良心に従うべきだ」(「教育者としてのショーペンハウアー」、前掲ちくま学芸文庫版p.236)との由なれば、求められるのは自己像(セルフ・イメージ)を外れた殆んど他者のやうな自己自身であり、自己批判無き自己正當化は許されまい。「生成」の旗を奉ずるニーチェが言ふには、「現在が未来のために、ないしは過去が現在のために是認されるge­recht­fer­ti­gt=正當化される、義認される]ことがあっては絶対にならない」(権力への意志七〇八、前掲ちくま学芸文庫版p.233NF-​1887, 11​[72])。當然ながら、過去の探究者たる歴史家を「未來の立法者」といふ目的への手段とするやうな正當化も(前段階は手段に非ずの説は、NF-​1883, 7​[129]及び7[21]も看よ)。

*2

書いた時、念頭にあったのは多分、犬飼裕一マックス・ウェーバーにおける歴史科学の展開』(ミネルヴァ書房、二〇〇七年七月)か(拙文「アナクロニズム」註疏*18にも引照したもの)。「第4章 歴史科学と文化諸科学の関係」中「第2節 生に対する歴史の利害」がニーチェとブルクハルトとの對比を軸とし、それを論じたカール・レーヴィット『ヤーコプ・ブルクハルト 歴史のなかの人間』(西尾幹二・瀧内槇雄譯、〈ちくま学芸文庫〉一九九四年八月)を引きつつ批判もしてゐた。

[…]書簡や小品にまで言及しているとはいえ、レーヴィットが用いている手法は、ニーチェとブルクハルトのテキストと、そこに表現される成熟期の典型的な「思想」だけを扱う、伝統的な思想史(あるいは哲学史)のそれである。[…]少なくともレーヴィットが信じる意味での「思想」以外のものは意識に上ってこない。さらにニーチェとブルクハルトが書いたもの以外は、後の解釈者のものを除いては検討に入ってこない。

[…]

[…]レーヴィットにとって問題なのは、無時間的に存在する「ニーチェ的思想」であって、ニーチェ自身の思想の変遷やニーチェを取り巻くブルクハルトのような人々との時間的な相互関係は放置されたままなのである。[…]レーヴィットの場合も特定の思想家の「成熟期」の到達点からそれまでの生涯を目的調和的に再構成しようとする点では変わらない。

『マックス・ウェーバーにおける歴史科学の展開』pp.158-​159.

ニーチェ自身の思想の変遷」と言ふ點では『ニーチェの歴史思想』は三期に分けて論じてはゐるものの、時に「思想家の成熟期の到達点からそれまでの生涯を目的調和的に再構成しようとする」弊に陷った感はある。ニーチェ外のショーペンハウアーやマッハやアヴェナリウスやヘーゲルとの關係は論及あれど、「相互関係」と言ふよりほぼ一方的にニーチェ側から見て專らニーチェと照應する面に光を當てるニーチェ研究書なので、飜って彼らの思考からすればニーチェがどう見えようかといふ論點は問題にされないし、例へばマッハならマッハの歴史思想そのものの軌跡を史的に記述したり物理學者が歴史的研究に向ったいきさつを史的に考察したりするには至らない。――因みに、「歴史思想」と題する割には同時代におけるもっと歴史研究寄りな論著との比較對照も手着かずであり、從來ニーチェ論にしばしば語られたブルクハルト(ニーチェとバーゼル大學で同僚)ですら目配りされることなく、ましてやバッハオーフェンやイェーリング(共にニーチェ就任前の元バーゼル大學ローマ法教授)、トライチュケ(ニーチェと反目)、ディルタイ(生の哲學に竝稱されすぎて今更?)、ドロイゼン、モムゼン、等々が列なる十九世紀歴史思想史は視程外に出て皆目感知されない。どうやら哲學(科)的志向が仇となったか、歴史的關心が案外厚くないのが殘念だ。

*3

本書書き下ろしの「第二章 問題群としての生に対する歴史の利と害について」のうち「一 題名の問題」を摘要しておく。邦譯では「利害」「功罪」(大河内了義「生に対する歴史の功罪」『ニーチェ全集 第二巻(第Ⅰ期)』白水社、一九八〇年四月)等の對義の二字熟語にされてきた原題Nut­zen und Nach­teil(ニーチェ原文は舊式綴りでNach­theil)について、須藤は「何か釈然としないところ、より語気を強めるなら、いらつかされるところがある」(p.68)と語り出す。普通、ドイツ語での組み合せはNut­zenScha­denVor­teilNach­teilになるらしい。「実際ニーチェも当該の著作やその周辺の草稿でNut­zen-Scha­denおよびVor­teil-Nach­teilをそれぞれ対義語として用いているのである」(p.69)。問題なのは特にNach­teil――​(p.69)。

Nut­zenは「利益」と訳して、とりあえず大過ないであろう。それに対し、Nach­teilの方はやや微妙である(Nut­zenの反意語である)Schadenの意味に近いものとして「損害」と解することはむろん可能である。しかし、Nach­teilはそれに尽きないというか、第一義的には「短所」「欠点」「デメリット」といった意味合いも強いであろう(そのことは、Nach­teilの字義が形のうえからするなら「遅れた部分」であることを考えるなら、よりわかりやすいかもしれない)。その限り、Nut­zenNach­teilは、Nut­zenScha­denほど純然たる対義的関係をなすとは言いにくい。

あるいは、Nach­teilという語を用いるとしても、Vor-und Nach­teilと記して利害得失くらいを意味させてもよかっただろう」に、それもニーチェは「回避した」(p.70)。「Nのそろい踏みにして、視覚上・聴覚上の一致を狙う美感(?)が働いた」とするだけでは「この両語の採用の論拠としてあまりに薄弱であり、むしろ冗談めいて響くだろう」(p.70)。第一、「実はNut­zenNach­teilも著作生に対する歴史の利と害について本文(序文を含む)のなかにはほとんど登場しない」(p.70)。草稿(p.71所引=NF-​1873, 30​[2])と比較すると、「Nut­zenは最終稿でははぎ取られながら、Scha­denという語の方は出版段階でも保持されている(序文、第一、二節)」ことが判明し、「しかるに、ニーチェの趣旨はこの[「記念碑的」「骨董的」(an­ti­qua­rische好古的)「批判的」と命名される]三種類の歴史のを言い募ることにあるのではない。むしろ彼の本意は、[…]第四節以降第九節まで、現在において猖獗を極めている歴史病のもたらす五点の不都合(とりあえず、この日本語を援用するとして)を告発することにあった。[…]五点を、生に奉仕する歴史の種別とは無関係に、歴史の、歴史的発想(歴史主義と言ってもよいだろう)そのものの過剰肥大ゆえの不都合として摘発しようとするのである。」「おそらくは、Scha­denならぬ、いやScha­denも含めて、こうした不都合の温床を指示するべく――単なるScha­denとは区別しながら――意図してニーチェは概括的にNach­teilという語をあえて採用したのだと思われる」(p.72)。そのわけは、「歴史にもたらすScha­denという場合には、[…]互いに別々のものの一方が他方によって害を蒙るというイメージが強いであろう」(p.73)。

他方、(Schadenならぬ)Nachteilといわれる場合には、「生」と「歴史」とは――Scha­denの場合ほど――分離されていない。Nach­teilをひとまず「短所」ないし「デメリット」と訳してみるなら、そのことは判然としてこよう。AがBの「短所」であるとか、「デメリット」になると述べられるとき、AはBの所有物であったり、属性や性質であると理解されるのが自然である。したがって、「生」にとって「歴史」が「短所」ないし「デメリット」とされる場合、「歴史」は何らかの形で「生」に内在する「生」の一部であると位置づけられることになろう。

續いて(p.74)、註(6)が插まれる(p.112)。

歴史は生の一部としてNachteilではあるが、そのVor­teilではない。このことは「歴史」批判の書としての同書の基本的性格の然らしめるところである。従って他方、歴史の「利」はあくまで、いわば結果的個別的「利益」としてNut­zenに限定されざるを得ないことになる。この事情が、題名にも反映されているのだ。

更に須藤は、「やや突拍子もないが、Nutzen und Nach­teilとはニーチェによるある詩句の翻訳ないし翻案なのではないかという仮説を提出」する。若きニーチェが古典文獻學徒として研究してきた詩人テオグニス「エレゲイア」第百三十三行中「災難と利得τη και κέρδος[ἄτης καὶ κέρδεος]」の災難(アーテー)に當てた譯語がNach­teilでは、と(p.74)。「τηとは、神々やダイモーンに取り憑かれた人間がその結果として抱いたりしでかしたりしてしまう妄想・錯乱や愚行・失策を、さらには行き着く先としての身の破滅を基本的には意味する」(p.75)。「神々の賜物」である降って湧いたやうな災難は「自分の責任ではないものの、しかしあくまで身から出た錆であるもの」(p.75)だとか。これを原語とするなら「Nach­teilとは、歴史に波及させる不都合であるには相違ないにしろ、しかしそれは同時にそのものに内在し巣食っている短所なのである」(p.76)。「歴史病」と呼ばれる通り「歴史のうちで過剰になることによって、は病気となる」、喩へるなら「の寄生体としての歴史」(p.76)。「主体となる」生に對し「内在的成分」として「従属するはず」の歴史が損害をもたらすのは、「はいわば自家中毒的症状を呈してしまうのだ。この自家中毒的な、歴史のあやうい共生関係を表示するために、採用されたのがNach­teilであった」(p.77)。「Nach­teilとは、種類を問わずに学問化した歴史過剰となりとなることによって発症する病状の大元に存する、いわば癌化した病巣を言い当てようとしているのである」(p.78)。けれども、ニーチェは「歴史の学問化や過飽和を、神々から人間に送られてくる青天の霹靂のごとき突発的災難とみなすことによって」それらの「経緯や原因に対する探求をシャットアウトしてしまう。そのため歴史――歴史学および歴史病――の歴史という問題圏を切り開き展開することができなくなってしまう」(p.80)。その問はるべき「歴史の歴史の問題圏」に關してこの時點でのニーチェが「まったく気づいていなかったというわけではない」ものの、辛うじて「キリスト教の厭世的精神が歴史的教養と結託したところから歴史の過剰が派生したのではないかとの推測の試みがやや自信なげにではあるが、提示され」るに留まった(p.80)。第二反時代的考察第八節に曰く「歴史とは依然として変装した神学なのだ」(p.81所引。Cf.反時代的考察「第四篇 バイロイトにおけるリヒアルト・ヴァーグナー」前掲ちくま学芸文庫版p.370ver­kapp­te Theo­lo­gie覆面せる神學とはヘーゲル哲學を(なじ)ったルートヴィヒ・フォイエルバッハの語らしいが、ヴァーグナー『著作集』「第三及び第四卷への序論」中より孫引きして轉用した模樣)と。この結託による歴史の過剩は「τηのような偶発的事件、青天の霹靂である。なぜなら、その結託は歴史的教養からするなら、知らぬ間の出来事だからである」(p.81)​…​…。以上、題名問題について締め括りになるのは、p.85で附された註(7)である(p.112)。

本節における議論からして、意を汲むなら、同書の題名は「歴史が生にもたらす利益と病巣について」とでも訳すべきだろうが、本書では一般に通用している邦題(「利と害」は「利害」と一括される場合が多いようだが)を一貫して採用することにする。

斯くて仔細な檢討の結果、表面上は通例と變はらぬ儘となった(大山鳴動して鼠一匹?)。

なほ、須藤の檢討外であったその後のニーチェの用例も(けみ)すると、Nut­zen und Scha­denよりは少ないが、Nut­zen und Nach­theilといふ對にした形は歴史以外にも適用され、やはり「利害」と飜譯されてきた(例、『人間的、あまりに人間的 Ⅱ第一部一九七前掲ちくま学芸文庫版p.148)。そもそも、動詞nüt­zen(役立つ)に比しても名詞Nut­zenの方はこの歴史論の本文中での「登場はたった一回」(p.70)しかも惡い意味でであったし(『反時代的考察』「第二篇 生に対する歴史の利害について前掲ちくま学芸文庫版p.182「有利である」)、後續のニーチェ著でもNut­zenNützlichkeit(有用性、功利)はしばしば反語となり懷疑の對象ともなってゐて(例、『人間的、あまりに人間的 Ⅰ『曙光』三七効用からの誤った推論」)、素直には受け取れない。因みに、英文邦譯を讀んでゐると目にする「歴史の効用と誤用」「歴史の善用と悪用」等は英語版タイトルが長らく“The Use and A­buse of His­to­ry”だった所からの重譯と見え、第二反時代的考察への言及だと同定しにくいのだが、一九八三年新譯(第二章注(5)p.112が「1997」として擧げるのは第二版)“On the uses and dis­ad­van­tages of his­to­ry for life”で原題に近づけられた。

ところで、「利害」といふ邦題がをかしいのはNach­teilが害と違って内在する部分(Teil)だからとの主旨であれば、舊い譯の「利弊」(生田長江井上政次山口四郎秋山英夫は「利弊」から「利害」に改譯)や「功過」(桑木巖翼)ではどうだらう。お誂へ向きに、利弊は同音の()(へい)と通用する。とは言へ、頻りと「内在的成分」(p.73​・74​・77)だと力説する一方で「寄生体」「にとりついた歴史という病原体」「微生物」(p.77)等に(なぞら)へるのだから、感染症における病原菌と同樣、その「病巣」とは内部に巣喰った外部と言ふか外部に侵された内部と云ふか、もはや純粹な内在性を保った初發からの成分(Be­stand­teil=存續部分)ではない――その意味でNach­theilの語源は、後からの・追加の(nach-)部分なりと訓詁すればよいのか。飽くまで外患ならぬ内憂だと言ひ張る氣なら、部分が全體を乘っ取る同型の事案を譬喩した「癌細胞のごときもの」(「(補論2) ニーチェの正義論再考――力への意志の尺度をめぐってp.325)の方がまだしも一貫できたかも。現にこの『反時代的考察』第二篇中、本書(p.70)がNach­teilの題名以外での使用は「二回に留まる」と指摘したうち第九節最終段落より引用した「他人の利害得失 Vor­t[h]eil und Nach­t[h]eilに自分や自分の党派の有利 Vor­t[h]eilを求める〔狭い視野に閉じこもった人間〕S. 319)という言い方」のやうに、自陣外に屬する餘所(よそ)の(frem­den)不利な部分が自身の取り分とされる事があるからには、自己にとって内側でない外部の事物が有する性質をそれの短所=Nach­teilと呼んでも「違和感」(p.73)は起こらぬ筈で、從って「生に對する(für=にとっての、のための、〜向けの)歴史の利害」といふ題名でも歴史が生の外に無く内に在るのみだとは決めかねる。發生史的には生の内より出でて生に叛くほど限度外にまで膨脹したと考へたいやうで辯證法擬きの自己疎外論法かと思へば、逆方向の、外物を同化吸收しようとして手中に納め切れぬ風も仄見せるし。大體、内か外かが問題なのだったら、ドイツ語でScha­denでなくNach­theilを選擇したニーチェの發想源に古典ギリシア語τη​(átē)を透かし見るといふ飛躍した「仮説」にした所で、アーテー論として本書(p.75)も原書名を擧げるE・R・ドッズ著『ギリシァ人と非理性第一章第二章岩田靖夫・水野一譯、みすず書房、一九七二年十二月)に就けば、アーテー(狂ひ、迷妄、逆上)の名で呼ばれる非合理な激情は内的衝動と云ふより外から人間を襲って取り憑くものとするのがホメロス期ギリシア人の習性(エートス)であって、以て不名譽な行爲を神の仕業に歸する次第だが(ここが『道徳の系譜學』第二論文第二十三節で神が古代ギリシアでは惡因として利用されたと説く所に重なるのは須藤も示唆する通り。Cf.『権力への意志一三五​・一三六ちくま学芸文庫版pp.146-​149=NF-​1888, 14​[124][125])、それを自己責任の負荷を免れるため「堪え難い恥辱感を[…]外的な力に投影することを可能にした」機構と解する(ドッズ邦譯第一章p.22。Cf.斎藤忍随「恥と死 ――ホメーロスの場合――」『幾度もソクラテスの名を  1966-​1986』みすず書房、一九八六年十二月、p.212)にしても、それが後代には天罰に對する罪の意識となり内面化されていったのだとしても、外在性が由來に存する以上ただ生への内屬ばかりを押し立てる論據には不適當で、却って反證となる。ならば「歴史の歴史」における「経緯や原因に対する探求」(p.80)も、むしろ想定外な外因の探索が推獎されよう。或いは、内力を外力への應力と見るか、内在的理由にすら外なる力も同然の偶發性が折り込まれてきた痕跡を辿るべきか。

起源というものの外在性、つまり人間の内側に何かがあるというふうに思っているその空想の由来を辿っていって、実は内側に何もなく、外在性のものの散乱があるということをつきとめること、それにもかかわらず、内側に何かあるというその解釈―虚構が機能するという事態をとらえるために、まさにそれを機能させている、力の関係の配列のなかにわれわれがいかにはまりこみになっているかということを把握すること。

榎並重行『ニーチェって何? こんなことをいった人だ前掲p.196

また、この第二反時代的考察で歴史過剩が熱病と見立てられるからには、後年「病者の光學」(『この人を見よ』「なぜ私はこんなに賢明なのか」)を自任したニーチェの病ひと健康に關する言説と照合してはどうか。例へば、「そこで彼自身が病気になる場合、心理学者はその科学的な好奇心の一切をあげて自分の病気の観察にふりむけるのだ」(『悦ばしき知識』「序文――第二版のための――前掲ちくま学芸文庫版p.9)と言ふ文によって、「生に對する歴史の利害について」序言の「それどころか、われわれはみな歴史学の消耗性の熱病に苦しんでいる」「わたしは、わたしを苛むあの感覚が掻き立てられるもととなった経験をたいていはわたし自身から取り出している」(須藤著第二章一p.83所引、註*8後出)と述べたくだりが想ひ起こされてゐるとしたら? 夙にE・ベルトラム『ニーチェ』が「プィロクテテス」の章(原書第六版までは正に「病氣 KRANK­HEIT」を章題としてゐた)にひと通り纏めたやうな「ニーチェの病気是認論Theo­di­cee=辯神論・神義論]」(*1前掲筑摩叢書版上卷p.215、cf. p.213。p.219「ニーチェだけに独自な病気の弁明Recht­fer­ti­gung=正當化​・義認]」も一九二二年第六版Theo­di­cee der Krank­heitだったのを一九二九年第七版で書き改めたもの)と云ふテーマ論の中に、時代外れな歴史病批判を位置づけるのも一興であらう(單に病氣非難論に立って第二反時代的考察に特有の(きず)を位置づける見方ならば既にある、清水真木ニーチェは健康な人間の作り方を教えるか理想社『理想』六八四號「特集 哲学者ニーチェ」二〇一〇年二月、pp.34-​37.)。ニーチェは、病氣に關する思想Ge­dan­ken=考へ]を次のやうに約言した。

病氣についての考へ(ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ)――病人が少なくとも、今までのやうに、病氣そのものによってよりも、自分の病氣についての自分の考へによって一層多く惱まねばならないといふことがないやう、病人の空想を鎭めること、――私が考へるに、これは何程かのことだ! そしてそれは少なからぬことだ! 諸君は今や我々の課題がお解りか?

ニーチェ『曙光』第一書五四

類句に、「情念Lei­den­schaf­ten sel­ber=煩惱自體]によって苦しめられるより、情念についての[自分の]考えによって苦しめられる」(恒川隆男譯『ニーチェ全集 第十一巻(第期)白水社、一九八一年五月、p.387=NF-​1880, 6​[398])とも。豫て「医学的道徳」(渡辺二郎譯『哲学者の書 ニーチェ全集3』「 苦境に立つ哲学をめぐる考察のための諸思想」、〈ちくま学芸文庫〉一九九四年四月、p.413​・449=NF-​1873, 29​[230]​・30​[15])に關し思ふ所のあったニーチェ(仝p.421=NF-​1873, 31​[4])が病氣論を煎じ詰めた結果、要は、病状それ自體から分離して病感・病識が問題とされ、症候の生理學に纏綿した心理學的な苦惱を削ぐわけだ(この心理は倫理にも掏り替はる、『道徳の系譜學』第三論文第十六節參照)。別な言ひ方だと「事物が何であるかということよりも、事物がどう呼ばれるかということの方が遥かに遥かに重要であること」(『悦ばしき知識』五八「創造者としてのみ!」前掲ちくま学芸文庫p.132)への對處であり――その稱謂(よびな)は「最初には仮象であったものが最後にはほとんどいつも本質と化し、本質として作用するwi­rkt」(仝pp.132-​133.)のだが、「本質的として通用している世界、いわゆる現実Wirk­lich­keitを破壊するために、この起源を指摘し、妄想というこの霧の覆いを指摘すれば、それで十分だと思う者は、なんという馬鹿者だろう! ただ創造者としてのみわれわれは破壊できるのだ!」(須藤訓任「習俗の倫理について――ニーチェの「遠近法主義」の前景と背景――」大阪大学大学院文学研究科哲学講座『メタフュシカ』第36號、二〇〇五年十二月、p.7所引)と續く。構築主義を想はせるが、兎まれ、疾病と疾病恐怖症とは複合するが別物で、後者は器質性でなく神經症に類する。現に病める者は、その病ひについて氣に病むことで病むことを更に重篤にしかねない。しからば歴史病の場合も、罹患を認める自覺は要るにせよ、病症への憂慮が度を過ぎれば別の病ひとならうか。或いは、もともと健康低下した生命體が病苦への不安から生じさせた心氣症が歴史病だったのか。土臺「隱喩としての病ひ」(スーザン・ソンタグ/富山太佳夫譯『隠喩としての病い/エイズとその隠喩』〈始まりの本〉みすず書房、二〇一二年九月)なので、はなから生理よりも心理上の問題なのか​…​…。譬喩を解釋するばかりでなく類比がどこまで實態と適合するか檢證すべきところ(歴史學的調査の出番だ)。――治療における誤處置。人は強壯sys­tème forti­fiantによって虚弱と闘ふことを欲せずに、或る種の正當化や道徳化によって[弱さを]欲する。即ち、解釋によって​…​…」(NF-​1888, 14​[65]『權力への意志』四七。Cf.茶園陽一ニーチェにおける病気健康の思想注(5)、大阪大学大学院文学研究科『待兼山論叢 哲学篇34號、二〇〇〇年十二月、p.28)。

*4

三島憲一ニーチェ以後 思想史の呪縛を越えて「序章 ニヒリズムとナルシシズム――ニヒリズム克服についての京都学派の妄想――」「第五章 破壊的理性の美学――素描の試み――岩波書店、二〇一一年三月)參照。すなはちニーチェの時代背景には「ナポレオン戦争の終結とともに、だがさらには一八四八年革命以降、特に顕著になったヨーロッパの再キリスト教化、そしてそれとタイアップした市民階級の再封建化といわれる現象」(pp.150-​151.)があり、「啓蒙主義とフランス革命、戦乱と政治上の世俗化でいったんは崩壊したキリスト教が、一世代で市民社会の家庭向きにモデル・チェンジして復活したのである」(p.153)。「最近の社会史では、第二の宗派時代(Zweites kon­fes­sio­nelles Zeit­alterとも言われている」(p.2)。「ニーチェが闘ったのは、まさにこの文化なのである。プラトニズムとキリスト教のヨーロッパ二千年の形而上学を相手にしたつもりであったが、実際には自分の時代だったのである。」(p.3)――ニーチェが虚妄と見て闘ったのは、一九世紀のこの再キリスト教化された文化なのである。なまじ教養があるから、ヨーロッパ二千年の歴史と見間違えたのである。というのは、このキリスト教的抑圧をかける市民社会の教養の体系が、一方では文学史を通じてナショナル・カルチャーを作り、他方では哲学史・文化史を通じてヨーロッパ二千年の偽りの連続性を作り上げたからである。[…]市民階級のアイデンティティに逆らうはずが、自らそれを内面化しているために、プラトニズムとキリスト教の二千年の歴史の逆転を考えてしまったのである。家にかかっている系図をひっくり返してみただけである。ほかの系図も描けるとは思えなかったのだろう」(pp.7-​8.)。畢竟ニーチェは、自分が屬する現代の「創られた傳統」(E・ホブズボウム)を歴史的起源に投影してしまってゐたらしい(その傳統が現代と「地続き」に見えたりするのも大方、現代に發明された所爲であらう)。古來潛在したニヒリズムが顯在化するのを「必然的な歴史的趨勢」(p.159)となすニーチェの歴史觀は「リベラリズムの歴史図式をそのまま継承して逆転しただけ」(p.166)で、「はじめから良くなるようになっていたに、はじめから(正確に言えば、はじめの次の瞬間から)駄目だったを置き換えただけである。ただの裏返しにすぎず、本当はそんなことはどうでもよかったはずなのである。なぜなら、ニーチェにとってはこの現在の生が重要だったのだから。そこに食い込むキリスト教と市民社会の新たな独善性が敵だったのだから」(pp.167-​168.)。發生史を經由する迂回戰術で叩かうとして踏み迷ふくらゐなら、直接その自分の同時代を正面攻撃してゐれば良かった​…​…?

*5

ミシェル・フーコー監獄についての対談――本とその方法(一九七五年)の結句を想ひ出す。つつましくも「もしも私がうぬぼれ屋だったら、自分でやっていることに道徳の系譜学という総題をつけるところなんですが」と茶化しを入れてから、フーコーは言ふ​…​…。

ニーチェの存在は次第に重要性を増しています。しかし、彼に注目するにしても、ヘーゲルやマラルメについてやってきたと同じような解釈com­men­taire=論評、註釋]をやられるんではうんざりです。私なら自分で気に入った人間だったら、それを利用しますね。ニーチェの打ち出したような思想に敬意を表する唯一のやり方は、それを利用し、それをねじ曲げてキーキーいわせることですよ。だから、それに忠実かどうかなどと評論家連中com­men­ta­teurs=註釋者・解説者ら]が言うことなんて愚にもつかないことですよ。

中澤信一譯、『ミシェル・フーコー思考集成  19741975 権力/処罰筑摩書房、二〇〇〇年三月、p.372

時にはニーチェに抗ひつつ、軋みを立てながら摩擦と共にニーチェを使用すること。ニーチェに共感同調するばかりでなく、異物感を持った他者としてそのテクストを遇すること。ニーチェを逆撫でにして毛羽立ててやること…​…ニーチェの文章自體が外部との軋轢を生むと共に内からも軋み合ふ悲鳴を上げてゐなかったか。一見滑らかな文にすら躓き、(つか)へ、吃りつつ精讀するのが文獻學者流だ。須藤訓任に言はせれば「ニーチェは精神的にも肉体的にも過敏な人で」「そういう著述家であるからには、その読者にも過剰な反応を強いることになり」、「客観的なニーチェ解釈ではあきたらないというか、ニーチェの字面を超えて、思索ないし解釈をせり上げてしまうところが、どうもニーチェには潜んでいるようです」(前掲『ニーチェ 〈永劫回帰〉という迷宮』「エピローグ」pp.246-​247.)との由、さながら累乗的に勢位を高める(ジツヒ・ポテンツイーレン)」(ベンヤミン/浅井健二郎ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念第一部Ⅲ、〈ちくま学芸文庫〉二〇〇一年十月、p.98、cf. p.69​・128​・137)と稱するロマン主義的批評に似通ひ、事實ニーチェを濫用する斷章取義や我田引水の方が餘程ありふれてゐようが、困惑させられるのは、さうやって(たかぶ)った擴張解釋がどれもこれもさも眞のニーチェに忠實なる如き素振りであることで(贊同者のみならず批判者でさへ大半は歪曲したニーチェ像に基づきながら自分が正しく讀み取ったニーチェに對して異見してゐると思ひ込んでゐよう)、デフォルメに伴ふ軋り音が耳に入らぬ(てい)にされてゐる所に不信が募る。「むしろ問題は、どうしていつも本物のニーチェが語られてしまうかということにある」(兼子正勝訳者後記」ピエール・クロソウスキー『ニーチェと悪循環哲学書房、一九八九年二月、p.489)。ニーチェと云ふ名において、擬ひ物(クロソウスキーの謂ふシミュラクル)の散亂でさへなほどうしても同一性への收斂を裝はずにゐられぬのなら、その仕儀や如何に。――フーコーも『言葉と物』刊行一年後のインタヴュー(一九六七年)ではレーモン・べルールに問はれて反省の仕種を見せてゐた。曰く、「もしもういちどやりなおさねばならないとすれば、この本で私がニーチェにあたえたあいまいな、まったく特権的で超méta-歴史的な規定を、こんどはあたえないようにこころみると思いますね。そういう規定をあたえてしまったのは私のまちがいla fai­blesse=甘さ、弱み]ですが、その原因はおそらく、私の考古学が、厳密な意味での構造主義よりもニーチェ流の系譜学に多くを負っているからだ、ということでしょう」(福井憲彦譯「歴史の書き方 『言葉と物』をめぐって」後半「歴史の書き方をめぐって」、福井憲彦・山本哲士編集『actes(アクト)No.3「特集 思想の地盤がえ」日本エディタースクール出版部、一九八七年五月、p.181。レーモン・ベルール/古田幸男・川中子弘譯『構造主義との対話』「第二章 歴史と構造」中「ミッシェル・フーコーとの対話 ――その二――」〈ブリタニカ叢書〉日本ブリタニカ、一九八〇年二月、p.128相當。石田英敬譯「歴史の書き方について」『ミシェル・フーコー思考集成  19641967 文学/言語/エピステモロジー筑摩書房、一九九九年三月、p.449相當)。

蛇足ながら註疏しておくと、何らかの歴史的考察を事新しくニーチェ著に倣って「系譜學」と名づけるのはこのフーコー(就中、伊藤晃譯「ニーチェ、系譜学、歴史竹内書店『パイデイア』季刊11​・一九七二春號「特集=〈思想史〉を超えて――ミシェル・フーコー」一九七二年二月→『ミシェル・フーコー思考集成  1971‑1973 規範/社会筑摩書房、一九九九年十一月)以降に弘まった風だが、『道徳の系譜學』の書きぶりを注意深く讀めば御本尊は取り立てて系譜學を唱導してなかったやうだと氣づく。そもそも原書»Zur Ge­nea­lo­gie der Mo­ral«​の頭に冠せたzurzu derの融合形≒英語to the)は、なぜかみな邦題では端折ってしまふけれど、「へ向けて」「に寄せて」などと譯せる。「考えてみれば、『系譜学』の原題からして、ニーチェのそうした謙虚な学的姿勢を明確にしている、といえないこともない」と見込んだ須藤は「このZuは、むろん、単に…についてくらいの意味に解することもできるが、しかし、…に向けてとか…のためにをも意味し、学術的寄与の含意ともなりうる」(『ニーチェの歴史思想』第四章三p.184)と述べ、ドイツ語論文タイトルの定型Bei­trag zur …‘​(〜への寄與)の略式と思はせたいやうだが、「に向けて」は必ずしも「のために für」と同義ではなく時に「に對して gegen」の意でもあって贊否兩用である。前置詞zu(=へ)が指す方向に位置する主題(系譜學)は、嚮後會得すべき前方の達成目標ならば自らさう名乘ったと見做してもよいが、他方、例へばカール・マルクス「ユダヤ人問題によせて Zur Ju­den­fra­ge」(一八四四年)がブルーノ・バウアー著»Die Ju­den­fra­ge«​に反對する批判書評であったやうに、難のある既成學説へ論鋒を向けて攻撃目標に擧げたのだったら自稱にはなるまい。さてニーチェが”Eine Streit­schrift​(=論難書、抗議文)と副題したこの書物はどちらだ。外題に留めず内實を確かめるべく、系譜(學)なる語の全用例を原典及び信太正三譯『道徳の系譜』(「事項索引」あり)に徴すれば、まづ「序言」第四節に「一種の逆立ちした、ひねくれた系譜学的仮説が、それも元来はまことにイギリス式の仮説が」(前掲ちくま学芸文庫版p.364)と腐したのに始まって、批判對象として「レー博士は、すべてのイギリスの道徳系譜学者と同じく」(仝p.365)と括られ、以後「彼らの道徳系譜学のお粗末さ加減は」(第一論文第二節p.377)だの「あの道徳系譜学者たちの迷信が」(仝p.378)だの、「道徳系譜学上の問題点に関する」(第一論文第四節p.381)駁論が續き、罵倒と共に對抗すべき〈彼奴ら〉を「系譜學者」と呼んでゐる。一人稱の所有代名詞を冠して「わがun­sern=我らが]道徳系譜学者たち」(第二論文第四節p.430)と呼ぶ所は自陣に入れるかに見せて明らかに皮肉で、すぐ次の文で「彼らはからっきしの能無しである」(仝p.430)と一蹴して三人稱扱ひ、「これら在来の道徳系譜学者ら」(仝p.431)は排撃される。同樣に「従来わがun­sre=我らが]素朴な道徳系譜学者や法律系譜学者らが」(第二論文第十三節p.455)云々にも嘲弄の語氣があって、前節でこれまでの道徳系譜学者らは」「相変わらず素朴なやりかたをしている(第二論文第十二節p.451)と責めたのを承けての言だ。本文(テクスト)の用法上、系譜學者呼ばはりはほぼ蔑稱に近い。それに對し同じく一人稱複數でも「われわれ哲学者にとって」(「序言」第二節p.362、uns Phi­lo­so­phen)「われわれ哲学者たるものは」(第三論文第八節p.505、wir Phi­lo­so­phen)乃至「われわれ心理学者にとっては」(第三論文第十九節p.547、Für uns Psy­cho­lo­gen)「われわれ心理学者とて」(第三論文第二十節p.550、wir Psy­cho­lo­gen)と自己規定する時は、系譜學者どもを呼ぶのと調子が違ってゐる――所詮「われわれはわれわれを取り違えざるをえない」(「序言」第一節、須藤著第四章p.167所引。ちくま学芸文庫版p.360相當)とは言へ、だ。他稱(三人稱)の中に強ひて自稱とも取れさうなものを見出すにしても、顰め顏無しに「系譜學」を説いたのは道徳系譜学者にとってその青色Blaue、空虚漠然の比喩]より百倍も重要なのは」(「序言」第七節p.369)以下の二三行ぐらゐがどうにか、それさへ「灰色」と言ひ「典拠をあげうる事実、現実に確証できる事柄、実際にあった事実」(仝p.369)と表現される限り普通に歴史學で言ひ古された實證主義Po­si­ti­vis­mus止まりで格別新見無く、まして積極的(ポジティヴ)(肯定的)に「系譜學」と銘打った言擧げなど更さら見當らない。とにかく用例に即した文獻實證上は御覽の次第で、この著者を系譜學者とは呼べまい。おみそれだ、系譜學と題する本が系譜學を自任してなかったとは! 但し該書外(エピテクスト)に目を轉ずれば、系譜論刊行後著者がその書名に言及した文で悉くzurは省かれてゐるし(一八八八年六月二十一日附カール・クノルツ宛書翰ほか、同年九月刊『ヴァーグナーの場合』「結び」、十一月校了『アンチクリスト』二四、四五、等々)、特に『この人を見よ』における自著自解の章題で「道徳の系譜学 論争の一書」(川原栄峰譯『この人を見よ 自伝集 ニーチェ全集15』〈ちくま学芸文庫〉一九九四年六月、p.154)と副題まで入れながらzurが脱落したのは存外單なる不注意の略記でないやも知れず、同章の「この系譜学を構成している三つの論文は」(仝p.154)と言ふ書き出しと相俟って最早「系譜學」を敵視することなく自ら實踐するかにも見えようものの、事後的な外部徴憑のこの一言半句を以て系譜學者に仕立てるには根據薄弱な上、結句その章末とて「[…]一心理学者の三つの決定的な準備作業である。――この書は、最初の僧侶心理学を含んでいる」(前掲信太正三譯『道徳の系譜』「解説」p.628所引。川原譯p.155相當)と締め括られる以上、やはりニーチェ自身が標榜する呼稱は心理學者であっても系譜學者ではない。由來「系譜」とは、先祖の榮光に(あづか)らうとする末裔が連綿たる血統を繕ふもの、それを卑しめる不連續な「恥ヅベキ起源 pu­den­da ori­go」(『曙光』四二、一〇二、『權力への意志』二五四第一段=NF-​1885, 2​[189])をほじくり返してきた「発生史」(『道徳の系譜』第一論文第一節p.375)の別稱とするには相應しからぬ名であって、それこそ貴族主義なニーチェにはお似合ひだと混ぜっ返すにせよ、だがいかにも系圖買ひが相續したがりさうなその「騎士的・貴族的な」(第一論文第七節p.387)價値序列は「奴隷道徳」の「ルサンチマン」(第一論文第十節p.393)によって轉覆されてしまったと喝破するのが『系譜學』書であるからして、どのみち「系譜(學) Ge­nea­lo­gie」といふ題號は反語(イロニー)としてでもなければ自稱し得ないのであった。してみると、昨今散見する系譜學の看板を掲げた史論史評は果たしてニーチェ流の門派に列なるのかどうか、「系譜學」の系統そのものが疑はしい。系譜學者は眞贋鑑定も職務だのに、時どき自分が僞系圖作りに手を染めてしまふので御用心(Cf.日野龍夫偽証と仮託――古代学者の遊び」『江戸人とユートピア〈岩波現代文庫〉二〇〇四年五月)。ニーチェに名のみを()りた擬ひ物でなく正眞正銘『道徳の系譜學によせて』のまねびならば、まづは既存の史觀を問題視して「系譜學」のレッテルを貼りつつ論爭を吹っかける筈で、むしろ系譜學への批判であらねばなるまい。…​…それをしもなほ〈批判的繼承〉として系譜學と稱すると言ふのか? 「したがって系譜学とはある意味で系譜批判であるといってよいだろう。」「この系譜批判としての系譜学という問題意識」(高橋順一解釈と系譜学大石紀一郎ほか編『ニーチェ事典』弘文堂、一九九五年二月、p.84)などと、日本語で「系譜」と「系譜学」とを一字の差を以て言ひ分けられても、どちらの語義も兼ねる原語Ge­nea­lo­gieにそんな區別を擔はせるのは一語に掛けた意味負荷が重過ぎである。大體、論敵とされた英國式の道徳起源論は單なる「系譜」である以上にそれを論じた「系譜學」であるわけで、理窟に合はない。――それでニーチェをキイキイ言はせてやれようか、軋んでゐるのはニーチェ解釋の方でないかどうか。

*6

歴史學それ自體と史學科外の各學科における歴史學派との違ひについては、佐々木博光「第七章 啓蒙主義と人文学――近代ドイツにおける歴史の科学化、科学の歴史化(南川高志編著知と学びのヨーロッパ史―人文学・人文主義の歴史的展開―ミネルヴァ書房、二〇〇七年三月)が論じて、興味深い。それによれば、十八世紀啓蒙主義史學がもたらした「現世的な因果関係の解明」(p.174)に對し、新人文主義の「学問のための学問」の流れに乘った十九世紀ランケ以降の史學プロパーは消極的であり、「因果の解読を通じて社会的に有用な知識を提供する」といふ意味で「むしろ啓蒙主義史学の遺産を継承したのは他分野の歴史学派の歴史研究であった」(p.183)。歴史法學、國民經濟學、マックス・ウェーバーの因果歸屬論、等。「史料批判を重視する史学科の歴史研究と因果の解明を優先する歴史学派の歴史研究が、ほとんど没交渉のまま併存したのがドイツの歴史研究の特徴であった。」「ロマン主義の影響を蒙ったのは、むしろ歴史学派の歴史研究の方であった。」「原因を民族的な個性として済ますような因果理解が幅を利かせる。」「しかし、歴史を超越した因果帰属は、本来の因果関係のありかを隠蔽[…]する危険を秘めていた。ここに歴史主義論争の重要な一面が顔を覗かせる。人間の作り出した科学に客観的な因果関係の確定が期待できるのか、結局、科学は自分に都合のよい因果関係しか作り出さないのではないかという疑問である」(p.183)。「歴史が科学化を遂げた一八、一九世紀は、歴史研究に関する両立しがたいコンセプトが生まれた時期であった。一つは問題の歴史的な由来を解き明かすことを目指すタイプの歴史研究で、いま一つは特定の問題意識に導かれるような研究を主観的、党派的として排し、史料の精査を通じて史実を積み上げてゆくタイプの歴史研究である。前者が歴史研究に社会的な有用性を認めたのに対して、後者はそれに個人の修練に及ぼす教育的な価値を認めた」(p.184)。兩者の架橋が望まれ、「今後の歴史的文化科学の採るべき針路として、経験的に基礎づけられた問題史という線が浮上する」(p.185)。……以下略。より詳細には、佐々木博光「歴史主義の徴候のなかの文化諸科学」京都大学人文科学研究所『人文學報』第81號、一九九八年三月、も看よ(うち「 歴史主義批判の系譜」に1. ニーチェ―生の哲学―の節もあるが、例に漏れず「生に対する歴史の功罪」の歴史學批判のみ檢討してその後のニーチェの歴史勸獎論は眼中に無いし、ウェーバーとの對比を示すに急である)。

一般史/部門史(分野史)とも呼び分けられるこの一對の關係については、オットー・ブルンナー『ヨーロッパ――その歴史と精神』もまづ「 専門分野としての歴史と歴史諸科学」で題目に掲げた所であって(成瀬治・石川武ほか譯、岩波書店、一九七四年一月)、要するに、史學科で專攻されるやうな「狭義の歴史学、つまり一般史」は「人間、それもつねに社会的結合関係において現われる個々の人間、ならびに、もろもろの人間集団を対象としている」ので「政治的なものが中心的意義をも」つが、史學以外の各種學科における歴史部門が第一に取り扱ふ對象は「人間ないしもろもろの人間集団ではなく、それらの作品なのであ」り、人間による産物を人間から分離して制度や文化それ自體に焦點を當てるので「意味形象としての作品が問題だ」と言ふ(pp.17-​20.)。「狭義の――本来の意味におけるといってもよいのだが――歴史は、人間および人間集団の、すなわち、家族、部族、民族、国家、都市、教会等といった社会的形象の歴史である」のに對して、「狭義の歴史学からはっきりと区別される歴史的個別諸科学のタイプ」において「もろもろの理念(イデー)や制度、文化的創造物、法秩序、経済構造、言語や文学、芸術や音楽、哲学や宗教などの歴史を書くときは、」「一つの事実関連だけを全体から孤立させ、少なくともまずそれをその担い手である人間と社会集団からいったん切り離し、固有の内的法則性に従って、――よくいわれる表現を借りれば――その発展に則して、この事実関連を叙述することが試みられる」(同書「 西欧の歴史思想」p.32)、と。この二項の對比は、政治史と文化史(延いては精神史)といふ論爭となってきた對立にも重ねられる(前掲​pp.13-​14及び「 ヨーロッパ社会史の問題」pp.116-​119.)。前者が主・後者は從となすのが中世史と國制史を本領とするブルンナーの立場であるかに見えるにしろ、それでも「しかしながらさしあたって重要なことは、自己完結的でない歴史sto­ria a se non suffi­ciente)、歴史的個別諸科学、文化史、精神史ないし社会史のこのようなタイプが、十八世紀以降になってようやく成立したものであり、したがって歴史主義という全複合体と同時代の現象である点を確認しておくことである」(p.32)と言ふ所より推せば、より近代的な歴史意識は專門の歴史學そのものにもまして諸學科における歴史的研究に良くも惡くも尖端的に突出するものではなからうか。生物學史、經濟學史、文獻學・言語學史を三幅對にして考察したミシェル・フーコー『言葉と物―人文科学の考古学―』第十章「四 歴史」に據ると、十九世紀に「人間のうちに発見された歴史性」一般が諸領域に擴散したと云ふのは顛倒した見方で、先づ各對象に固有で相互に異質な歴史性が受け取られてからその重ね合はせにより「人間が〈歴史〉の主体として成立」した、とか(渡辺一民・佐々木明譯、新潮社、一九七四年六月、pp.389-​392.)。また逆に、史學史とはブルンナーの言ふ意味では一般史でなく文化史・精神史に類するから、史學史においては、專門でありながら一般であらうとする「歴史學」(就中、政治史)――専門分野としての歴史、つまり一般史」(前掲​p.13)と言ふのはよく考へたら形容矛盾だらう――が部門史として限局され一學科として相對化されるのではないか。

歴史主義と言っても史學本流と分れてむしろ史學外で展開した傾向があるとは言はれてみれば成程、歴史學派をも檢討するには狹義の史學史だけでは濟まないわけで、關聯する諸學史に學ばずにはゐられない。だが、「歴史の学学の歴史のあいだにはふるくから埋めがたい対立関係が存在した。そして,そのことが学問史が自律的な一分野として自己形成するのをさまたげてもいた」とヴォルフ・レペニースが論じてゐる由(佐々木博光歴史主義の徴候のなかの文化諸科学」前掲p.121)。一般的に言って、歴史學界内部の割據ならまだしも、外在する「学部・学科別の分野史(経済学部における経済史、法学部における政治史、等々)といった複数の要素によっていくつかの集団に仕切られている」こととなると史學史の視界に入らなくなりがちで、「こうした歴史研究の複数性に無自覚なまま、自己の所属する集団を基準に自己反省としての史学史を語り続けるならば、史学史はこうした複数性への無自覚さを再生産することにつながり、それは容易に自己の帰属集団を史学史の中心に位置づける作業へと転化してしまう」(松沢裕作「『近代日本のヒストリオグラフィー』の意図と達成」立教大学史学会『史苑』77卷第1號「〈特集〉外国史家が読み解く『近代日本のヒストリオグラフィー』」二〇一六年十二月、p.80)。學史を業界人が内部需要に應へた自己正統性のための業界史にせぬやうに、との戒めであれば、生産側に立つより受容史・讀者論で外部へと擴げるのも一法ではある。

*7

十二年先立つ須藤の前著『ニーチェ 〈永劫回帰〉という迷宮』は、どうも永劫回歸論は趣味に合はぬので題だけで敬遠してゐたけれどこの際讀んでみると、受容論へ配慮する素振りは見せてをり、受容史へ關はらうとしない點で本書『ニーチェの歴史思想』は前著での反省を裏切ってむしろ弱點を惡化させたと判る。

本書には、ニーチェ批判の観点ははっきりとした形では出されていません。それは、筆者の姿勢として、あたう(ママ)限り「共感的」な読解を目指したことの結果でもありますが、むろん、それが大きな問題点であることは、言うまでもありません。ただ、わたしとしては、ニーチェ批判の論点は、彼の近代批判と一体化させて試行すべきものと考えています。[…]ニーチェを読むとはおそらく、その批判精神をいかにとらえるかの問題にほかならないのではないでしょうか。そして、それは、わたしたちにとっては、「はじめに」でも触れたように、日本の「近代」の問題と、つまりは、日本の西洋受容の――したがって、たとえばニーチェ受容の――問題と切り離して論じることはできない問題であるはずです。

須藤訓任『ニーチェ 〈永劫回帰〉という迷宮』「エピローグ」、前掲書pp.247-​248.

「はじめに」で觸れたとは、その末段(p.7)で、西洋での激しい毀譽襃貶に比して「日本人が、ニーチェに共感し、またもてはやすのは、もしかしたら、超越神との厳しい緊張関係を経ることなく、神の不在に納得しているのであって、それは日本人自身の自己満足・自己肯定に安住する結果になっているのではないか。それは、ニーチェ哲学の生命である批判精神を削ぐことになってはいないか」と問うて「[…]本書で論ずる余裕はありませんでしたが、ニーチェに共感するとしたら、その共感する自分は何者なのかといった、わたしたちにおける、いわば思想の運命のようなものについては、わたしとしても、考えつづけて行かねばならない、と思っています」と結ぶ邊りが照應する。暗示引用された林達夫『思想の運命』(岩波書店、一九三九年七月)の標題作を見れば、思想を寄生蟲に譬へて「思想の力もまたその無力も同時にその思想が己の宿り場としてゐる當の社會的身體の状態から來てゐる」(p.315)とか、植木に見立てて「原産地におけるよりも遙かに遠い外國の土地に移し植ゑられたものの方がずつとその場所を得て見事に繁茂してゐるやうな植物が中々に多くあるものだが」(p.318)とか言って、轉移や環境に注目してゐた。畢竟、わがニーチェ愛讀者諸君は讀者論的問題として自身が宿ったり育ったりした時代的・社會的背景を省みるべきであり、特にはニーチェ享受史に即した設問として講究すべしと云ふわけだ。その言や善し!(なれど行ひは未だし)――もしそれ、考へを撤回したのならば、さう書くが良からう。書下ろしを含む單著の公刊は過去の自分への批評を記す好機であったはず。『ニーチェの歴史思想』の「あとがき」に「拙著『ニーチェ 永劫回帰という迷宮』(選書メチエ、講談社、一九九九年)をご参照いただければ、幸いである」(p.421)と型通りの言及はあるも、但しその前著に要修正點ありとはどこにも述べてない。

*8

反時代的であることをニーチェ自ら定式化した陳述として屡々典據にされる箇所で、拙文「アナクロニズム」第五節でも斎藤忍随の譯文で引用した。本書での引用譯文は以下の通り。

本考察もまた反時代的である。なぜならわたしはここで、時代が誇ってしかるべきもの、つまり、その歴史学的教養を時代の損害 Scha­den、虚弱性 Ge­breste[=身體的缺陷、疾患]、欠陥 Man­gelNach­teilとはこの三者の総称であり、その病巣である〕として理解することを試みているからであり、それどころか、われわれはみな歴史学の消耗性の熱病に苦しんでいる、少なくともそれに苦しんでいることを認識すべきだとわたしは思うからである。(…)また気を軽くするためにだまっているわけにゆかないが、わたしは、わたしを苛むあの感覚 Emp­fin­dung[en]が掻き立てられるもととなった経験をたいていはわたし自身から取り出しているのであって、他人から取り出したとしたら、それはただ比較のためにすぎないし、わたしは、ただ自分が古代の、とりわけ古代ギリシャの徒弟である限りにおいてのみ、die­ser=この]今の時代の申し子としての自分に関してこれほど反時代的な経験をするにいたったのだ。しかし、古典文献学者としての職業柄、次のことだけは自認することが許されるのでなければならない。すなわち、古典文献学のわれわれの時代における意義とは、この時代にあって反時代的に――ということは、時代に反して、そしてそのことによって時代に向けて、願わくは来るべき時代のために良かれと――作用するということでなければ、なんであろうか[を私は知らないであらう ich wüss­te nicht1, S. 242f.)。

第二章「一 題名の問題」p.83所引([ ]内は須藤著に無い補足、ニーチェ原文に據る)

これを須藤が讀解すると、かうなる。

古代ギリシャの「徒弟」であるがゆえに、現代を相対化する視点を自分は確保している、だが、そのことによって、現代の同時代人として「歴史学の消耗性の熱病に苦しんでいる」「今の時代の申し子」である自分は、ある種のジレンマに追い込まれ、そこからあの「わたしを苛む感覚」が由来する、というわけである。この「感覚」のおかげで、自分は「歴史病」をそれとして身を以て突き止め、それからの快癒を展望するすべを心得ているというのである。

第二章「一 題名の問題」pp.83-​84.

しかし、「快癒を展望するすべを心得ている」なんて思ひ上がった言揚げはこの第二反時代的考察の「緒言」(小倉志祥譯「生に対する歴史の利害について」『反時代的考察 ニーチェ全集4前掲pp.119-121.)を讀み通した限りどこにも出て來ないので、勇み足の誣告である。引用されたこの序言末段の一つ前の段落劈頭にも「私はひっきりなしに私を苦しめてきた一つの感覚を描写しようと努力した」(ちくま学芸文庫版p.120)云々とあって、病状の診斷を先務として治療や處方箋にはまだ言ひ及んでない。自然に順序通り讀めばまづ、「わたしを苛むあの感覚」とはその數行前に述べた「歴史学の消耗性の熱病に苦しんでいる」こと、且つその「苦しんでいるleiden=病む、惱む]ことを認識」した病苦の自覺、と讀まれる。その苦しみを覺えさせた經驗は「わたし自身から取り出しているのであって、他人から」でないとは、つまりこれからこの前口上に續いて本文で非を鳴らすことになる歴史熱に自分も罹患してゐる、歴史病のことで他人を誹ってゐるやうに見えても基本は自己批判なのだ、我が身を切って著者自身を(も)責めてゐるのだから讀者は自分達(だけ)への非難と受け取って惡く思はないでくれたまへ、と豫防線を張りたいわけだらう。その文脈を押さへると「わたしを苛むあの感覚」は、歴史熱と古典文獻學との相剋する所より生じるとは言へど、苦しませる源は同時代の歴史熱、即ち「周知のごとく二世代以来殊にドイツ人の間で注目されている有力な歴史主義的な時代傾向」(ちくま学芸文庫版p.120)の方に感覺の主因があって、文獻學は病因でなく病識をもたらしたに過ぎない(感覺神經からの信號を快苦に變換する感官に比擬されるか)。「これほど反時代的un­zeit­ge­mässen=非時代適合的、時代に相應しくない、時代後れ]」となった所以が「今の時代」の子でありながら「古代のälte­rer Zei­ten=より古き諸時代。わりに年取った時(絶對比較級)]」就中ギリシアの弟子であるからだと言ふのも、ただ古典文獻學者として比較的に今風でない時代を學んだ限りで純現代人からは外れて時代環境に不適應になっただけだと謙遜した素振りになってゐる。「次のことだけは自認することが許されるのでなければならない」も、下手に出て最低限持ち分くらゐは保守しようとする讓歩案の言ひ方だらう。「現代を相対化する視点を自分は確保している」などと自信滿々な口吻に讀み換へる須藤の讀みとは異なって讀める。多分、本文の印象を序文に遡及投影したものか。「古典文献学者であるがゆえのあのわたしを苛む感覚――同時代への批判の真正性を保証してくれる特権的感覚――」(p.85)とまで言ふ須藤は、感覺の本源は文獻學より發したかのやうに言ひ做し、「わたしを苛むquä­lenden(現在分詞形・形容詞)=苦しめてゐる、惱ましい]」感覺の受動性を能動的な批判意識に掏り替へてゐる。本書は更に、この第二章第一節終盤の要點を述べ直した第六章註(10​において「しかし、古典文献学者であるがゆえの反時代性が、それだけで、同時代の子としての自分を相対化すると想定されている。つまり、自分はいかに時代のただなかに位置しているとはいえ、自分の本質ははなから反時代的であると確信されており、だからこそ、時代に対する苦痛の感覚ももっぱら自分のうちから由来する、と断言しえたのである」(p.263)とパラフレーズしてゐるが、前文は不可無くても後文が難ありだ。ニーチェはその感覺を催させた經驗の例に引き出したのは大抵が自分自身からであるとは言ったけれども、病苦の感覺そのものは「もっぱら自分のうちから由来する」のでなく同時代の歴史病から來たもの、時代情況の中で時代傾向より得た「經驗 Er­fah­run­gen」に由來すると受け取られるのであって、この經驗を内的經驗(主觀的感覺、感情)としか解さぬのは餘りに心理主義といふもの、病理上からも内因のみでの發症は考へられないし、例へば痛覺は身體に内在しようともその起こりは痛覺受容器の外から與へられた侵害刺戟に歸せられるのと同樣である(病跡學(パトグラフィー)流のニーチェ論には思想の變轉を進行性痲痺、謂はゆる腦梅毒から説明する類ひもあるが、スピロヘータ菌が體内にあったとて内因とは言ふまい)。「生に對する(für)歴史の利害」といふ題名自體に生への外界からの干渉が表はされてゐると見てもよく、少なくともその序言の範圍では「時代に対する」苦痛と言ふより時代に因る・時代に於る苦痛として語ってゐた。同じ刺戟を歴史熱に浮かされた同時代人は誇らしく快く感じてゐたが、文獻學者はその感覺を苦患と認知したまで。時好への反感はいかにも黴臭い古典文獻學の徒らしいけれど、反感は反動(Re­ak­ti­on=反作用、反應)であって、能動主體である前に受動が先立つ。本書も別の章では「現状に対する反動としての反時代性」(第三章四p.158)と言ひ、そして「反動的な力とは文字通り、反作用の力、つまり、まず他から働きかけられてはじめて作動し始める力である。その限り、それは他によってその方向や活動のあり方が決定されるのであって、みずからの発意で決定する自発的な力ではない」(補論2pp.321-​322.)と述べてゐるではないか(固より受動無くして能動あるのみの存在など、神の如き第一動者を空想する以外、あり得ないが)。

なほ、右の「感覚 Emp­fin­dung」(p.83所引)に關説して、「ニーチェにとって、歴史と非歴史とはまずもって感覚ないし感受Emp­fin­dungの問題であった(Emp­fin­dungの前期ニーチェにおける重要性については補論1参照。また、本書八三頁の引用文中の感覚の語にも留意されたい」(第二章「三 動物の問題」p.106)との指示があるのに從ひ「(補論1)転移としての言語――初期ニーチェの場合」も披見すると、未完稿道徳外の意味における真理と虚偽について*3前掲『哲学者の書 ニーチェ全集3』Ⅵ三 一八七三年夏から相當)を評釋して「人間にまずあたえられているのは神経刺戟である。いや、人間は第一次的には感覚 Emp­fin­dungそのものであり、感覚として存在する」(「一 転移という現象」p.276)と斷じてゐるが、それに對する當然の疑問「神経刺戟もまた外界の事物の人間的場への転移ではないだろうか」には「ある点ではそうもいえるだろうが、しかしニーチェはそう断言することは避けている。なぜなら、人間から完全に切り離された外界、つまり〈物自体〉については、一切の積極的な言明が不可能だからである」(p.276)と觀念論すれすれの不可知論で躱し、「[…]その意味でニーチェはこの時期、感覚一元論とでも呼ぶべき立場に立っている」(p.277)と早くもマッハとの相近(收斂進化)を言ひたげな風である。感覺が感覺を感覺する​…​…それでは苦しみの感受(Emp­fan­gen)とはまるで自分で自分を苦しめるだけの自傷癖も同然にならう。しかしながら結局「神経刺戟の形象への転化によって、人間には外界が開かれる」(p.278)のならば「この点からニーチェの思想の難点をあげつらうことも可能であろう」(「五 転移のゆくえ」p.298)、即ち「それゆえ神経刺戟とは形象に転化しうる限りでの感覚であり、そうした点でそれはまた、いかに外界は物自体として不可知であろうとも、ともかくそれによって何らかの形で触発されると考えざるをえない限り、外界の受容としての感覚といえるのだが[…]」(p.298)と。然り、感覺とは内感(in­ne­rer Sinn=内官)に留まれないもの、何かしら觸發される受動性を拭ひ去れぬものでないか(Cf.カント『純粹理性批判』B​153​ff)。外から動かされた痕跡らしき感觸が消えぬ以上、須藤が「それでもなお、初期ニーチェの言語論にあって、言語のとして認められるべきものがあるとすれば、それこそは――何度か示唆してきたよう――転移という現象であろう」(pp.301-302.)と結論づけた廣義の轉移メタファーの「語源的意味」(一p.272)とも言はれる「転移 Über­tra­gung」(p.273)とは、その觸發(Af­fek­ti­on, Af­fi­zie­rung)の動きに重なることと考へればよい。たとひニーチェ風認識論に則って、「内官は、結果を原因と取り違える」(氷上英廣譯『ニーチェ全集 第十一巻(第期)白水社、一九八三年十月、p.313=NF-​1888, 15​[85]――このことを名づけて私は文献学の欠如と言う」(『権力への意志四七九*1前掲書p.25NF-​1888, 15​[90]――とか、「刺激と刺激をひき起こす事物とが最初から取りちがえられる!」(『生成の無垢』六四・*1前掲書p.50=NF-​1881, 11​[270]初段)とか、刺戟物(への信念)は刺戟が造り出した錯誤だと考へるにしても(或いは神經生理學に則り大腦からの「感覺の投射」と呼ぶにしても)、さうやって實體感を誘發させるやうな刺戟(の感覺)には、内實はどうあれそれを受ける外から内への方向性、ベクトルが備はってゐたことだけは、否めまい。ましてや病氣の感覺と言へば、pa­thos​(希)であれaf­fec­tus​(羅)であれ心身の受動状態における變調を表はす語であったこと、古代よりストア派や醫學思想に見られる通り(ミシェル・フーコー/田村俶譯『性の歴史Ⅲ 自己への配慮新潮社、一九八七年四月、pp.73-74.)。ドイツ語なら、Lei­den​(病苦)のLei­de­form​(受け身形)なることPas­si­on(熱情、受苦)のPas­siv(受動態)なるが如し、か。現に須藤の引用でも「わたしを苛むあの感覚が掻き立てられるもととなった経験」とくだいて譯されたやうに(ちくま学芸文庫版p.121「あの私を苦しめる感覚を惹き起こした経験」)、感覺にはそれを喚起した(erregten=興奮させた・刺戟した)客體が措定されてゐるのだ。​…​…原文にそぐはぬ解釋は何により歪んで何のため歪めたのか、「問題意識」よりは「テクスト読解に重点を置く人」(竹内綱史、前掲p.120)と評される須藤をして斯く不精確なる讀解をなさしめたのは如何なる問題構制であったのか、どんな意圖せざる意嚮が讀み取られるか。「いかにして、人間にあって非意図的無意識を意識化するのか――」(第四章「四 結語にかえて」p.193)。

外來性・外發性をも内在化してしまはうとする本書の獨我論めいた解釋法は、思考パターンにおいて、僧侶が導くルサンチマンの方向轉換(『道徳の系譜學』第三論文第十五節末、ちくま学芸文庫版p.533以下)と似たり寄ったりになってゐる。禍ひなる哉、病める羊が「私は苦しい、これは誰かの所爲(schuld=咎、罪責)にちがひない」と恨みを外に向けると、牧人たる禁欲僧が「その通り、だがお前自身がその誰かなのだ」と吹き込んで自責の念として内攻させ、疚しい良心はますます病ましくなる…​…。この外から内への反轉に關して須藤は、同じく『道徳の系譜學』より第二論文を引き合ひに出して「外に向かっていた自由の本能(=攻撃性)が内に向けられることによって、やましい良心が発生した(第一六―一七節)と述べられると、一見いかにもそれは、[第三論文が述べる]ルサンチマンの方向転換に等しい事態を指すかのように、受け取られかねない。しかし、ここではやましい良心能動態の(第一八節)という性格付けがなされており、それはルサンチマンとそのまま同一視することは許されない」(第四章四p.190)と注意してゐたけれど、そのあと第二論文は「疚しい良心といふものは一つの病氣なのだ、それは何ら疑ひを容れない」(第十九節冒頭)と再確認してゐるので、能動的(アクティヴ)に疚しくあれば病ひでなくなるわけでもあるまい(況んや歴史病をや)。體は健常とて好んで病める者を眞似て我から身を苛むならば則ち病氣なり(徒然草第八十五段風)。ここら邊、支配慾が他にはけ口を得られなくて自己自身を虐げるのが苦行禁慾だと説いた『人間的、あまりに人間的 一三七ちくま学芸文庫版p.165)の燒き直しであって、先史時代を扱ふ『道徳の系譜學』第二論文も、平和な社會での暴力禁止等に阻まれて矛先が銘々自身へ向けられたといふ假説(『善惡の彼岸』七六の敷衍)に基づく。そこから「人間の内面化」(第十六節ちくま学芸文庫p.463。Cf.『権力への意志三七六ちくま学芸文庫版p.361​≒NF-​1887, 8​[4]抄)は力が外部への放出を抑へ込まれた内閉状態によるものとし、そこに征服者たる「一群の金髮の猛獸」から被支配者達に強制された壓迫があった(仝第十七節)と推斷する以上、良心の呵責がただ己れ自らに對して能動性を發揮するのも制縛下の不自由な受動性を前提としてのことになる。自己の作用を自身に受ける再歸用法とあっては能動寄りでも中動態ぐらゐが精々か、主意主義では蔽ひ切れない。このやうに、事前にあった受苦受難を感受しておきながら()げて「能動態の疚しい良心」(『道徳の系譜學』第二論文第十八節、ちくま学芸文庫版p.468相當)に讀み替へたがるのがニーチェ、それを眞似るのが著者のニーチェ讀解としたら、さて、本書の遣り口に讀み取れる問題は何か。

按ずるに。本書はこの「生に對する歴史の利害について」を第二章で論ずるにあたり、その序言を十四年後『ヴァーグナーの場合』序言と重ねつつ對比した(第二章一pp.83-​85.)。兩者を「見ようによっては同じような趣意の文面をもつ」(p.83)と言ふ通り、「反時代的 un­zeit­ge­mäss」な前者の再來が後者の「自分の時代を自分のうちで超克することSei­ne Zeit in sich zu über­win­den」(p.84及び第六章「二 挑発としての『ヴァーグナーの場合』」p.239所引。原佑譯「おのれの内なるその時代を超克すること」、「序言」『偶像の黄昏 反キリスト者 ニーチェ全集14〈ちくま学芸文庫〉一九九四年三月、pp.285-​286.)にも見えようし、それぞれの主役が前者は文獻學者で後者は哲學者たることに差が見出されてゐる。そこから須藤は「要するに、青年時代のニーチェには、時代のやましい良心としての哲学者の役割・使命に関する着想(のちに本文で詳論する)が、いまだ欠けているのである」(第六章註(10)​p.263)と總括した。その『ヴァーグナーの場合』を精讀した論考が第六章であり、初出は本書で書き下ろした第二章に十年先立つ。よって、第二章で「詳細は第六章を参照いただきたいが」(p.85)と語る著者は順逆顛倒のうちにあり、畢竟『ヴァーグナーの場合』を高く買ふといふ結論に合はせて先行著作であるこの『反時代的考察』第二篇を裁斷してしまったのでないかと猜せられる。だが結果から前歴に遡るにしてもその結果が複數分岐してゐるとしたら、つまり『ヴァーグナーの場合』を唯一の結論と見込まないとすれば、必ずしもそれに歸結させなくてよくなり、「生に對する歴史の利害」の意味づけも違ってくるか知れない。哲學者に「その時代の疚しい良心たること」を課するのは別に『ヴァーグナーの場合』序言に始まったことでなく實は二年前の『善惡の彼岸』二一二と同工異曲であったが、その種の變奏とは見解を異にするやうなそれ以外の結果――例へば前年に上梓された増補版『悦ばしき知識第五書三八〇漂泊者は語る」結文は、己が反時代性さへも超克してゆく道を説いてゐた。 「[…]何よりもまずこの時代そのものを自分自身のなかで克服するdie­se Zeit in sich selbst zu „über­win­den“​必要がある、――それはその者の力の試金石Pro­be=試演、小手調べ、腕試し]なのだ、――したがっておのれの時代ばかりか、この時代に反対してきたこれまでのおのれの嫌悪Wi­der­wil­len=反感]や反抗心Wi­der­spruch=反論、矛盾]をも克服しなければならない。こうした時代に生きるがゆえのわが苦悩を、わが反時代性Zeit‑Un­ge­mäss­heit=時代不適合性]を、わがロマン主義を…」(第三章「四 持続性の問題とよきヨーロッパ人」p.158所引、『悦ばしき知識*1前掲ちくま学芸文庫版p.452相當/村井則夫譯『喜ばしき知恵』〈河出文庫〉二〇一二年十月、p.443相當)と。暗示引用(アリュージョン)引喩)により『反時代的考察』への反省だと仄めかされてゐる(もっと明示された自責の言も遺稿にはあった、生成の無垢一二八一​・*1前掲書p.650NF-​1885, 2​[201])。この自己批判と考へ合はせるなら、『ヴァーグナーの場合』序言が「一切の時代的なもの、時代向きのものZeit­ge­mässeに対する深い疎遠、冷淡、幻滅」(ちくま学芸文庫版p.286)だけを告げて反時代的な自己自身にも打ち克つべきことに説き及ばないのは、一段上がった超克から後戻りした觀を呈する(少なくとも、續く行のツァラトゥストラ云々では自己超克の次なる階梯が定かでなくなった)。『悦ばしき知識』第二版(一八八七年)より後に『ヴァーグナーの場合』(一八八八年)が出來たからと言って後者が前者の成果であるとは限るまい、post hoc er­go prop­ter hoc(前後即因果)の誤謬、「一歩前進、二歩後退」と云ふことだってあらう。「けだし発展図式なるものは、時期的にあとなるものが事柄としてもより重要であるということに対して、何の保証をも与えるものではないからである」(オイゲン・フィンク『ニーチェの哲学』第一章2、吉澤傳三郎譯『ニーチェ全集 別巻理想社、一九六三年五月、p.22)。如上の『悦ばしき知識』増補で得られた結論からすれば、『ヴァーグナーの場合』序言は第二反時代的考察の序言と同程度で等しく乘り越えられるべき段階なのであり、そこでの時代批判者たる資格が古典文獻學者から哲學者へと入れ代った所で構造は同形だし機能上も特段の進展は認められないわけで、もう『ヴァーグナーの場合』の哲學者を持ち上げるために殊更「生に對する歴史の利害」の文獻學者を低める解釋をせずとも濟む。これにて、本書とは異なる讀みの、一丁上がり――まだ他の讀み方もあらうか?

なほも「歴史の利害」と『ヴァーグナーの場合』との差等を辨別したいのだとしても、同時代批判のためワーグナーといふ「典型的デカダン」たる同時代人を「拡大鏡」(第六章三p.243所引NF-​1888, 14​[65]=『権力への意志四七・前掲ちくま学芸文庫p.59相當。『場合』では第三節に唯一の用例があることも述べるべきであった)にして時代の症状を映し出したと讀む第六章(「三 楽士拡大鏡――哲学者やましい良心」)の着眼點で以て『ヴァーグナーの場合』以外をも通覽してみれば、まづ目に留まりやすい所で同年執筆の『この人を見よ』(「なぜ私はこんなに賢明なのか」*5前掲ちくま学芸文庫版p.38)には「強力な拡大鏡」にした人物の例示に『反時代的考察』第一篇「ダーヴィト・シュトラウス、告白者と著述家」を擧げてワーグナー攻撃と共に竝べてをり、本書もそれに觸れつつ(第六章三p.244)「ここにいうヴァーグナーとは文脈からして『反時代的考察』第四篇バイロイトのヴァーグナーではなく、『場合』に問題視されているヴァーグナーを指す」(第六章註(11​p.263)と註記したけれど、しかし須藤は言ひ落としてゐるが、四年前ニーチェは正にその第四反時代的考察における理想視した描像について、若氣の過ちではあれ「――生涯の或る時期には、ひとは、諸事物や人間たちを見まちがう権利をもっている、――拡大鏡、それが私たちに希望を与えるのだ」(『生成の無垢一二八六​・前掲書p.653=NF-​1884, 26​[406])と申し開きしてゐて、擴大鏡とは批判どころか過襃の技法、過大評價の美稱だったし(『悦ばしき知識』二四一等も然り)、直ぐ後にワーグナーとショーペンハウアーと二人(なら)べて名を出してもゐるので『反時代的考察』第三篇「教育者としてのショーペンハウアー」での「理想」化(第五節冒頭)や時代認識論(第三節最終段落〜第四節冒頭)をも聯想させずにおかないし(だがなぜかこの第三篇だけ本書全文を通して一言も觸れられず檢討外)、重ねて、『反時代的考察』新版序文のための試稿らしき遺篇でもやはりワーグナーとショーペンハウアーとを共に擧げてから物事を拡大して見る目」(『生成の無垢一二九六・前掲書p.659NF-​1885, 35​[48]​『ニーチェ全集 第八巻(第期)*1前掲書p.338相當)云々と辯じてゐたし、これら先例に言及しなかった須藤だとて、人物を用ゐた「拡大鏡という極端化の手法」(第六章三p.244)が特別ワーグナー批判に限らず「ニーチェにおいて[…]他にも多く見られる」(仝註(11​p.263)とは認めざるを得なかったのだし(だのにまだ續けて「しかし、『場合』のニーチェには、その手法をより意識的に駆使し、切れ味の鋭さを確かめているといった、趣が感じられると私感以外に根據も示さず我田引水するのは惡足掻きっぽく見えてしまふ)、以上により、個人名を題名に掲げた類型としてそれら各篇は同系列ながらその點で『反時代的考察』全四篇中ただ第二篇「生に對する歴史の利害について」のみが例外で不揃ひだったこと(夙にこれを指摘した斎藤忍随「フィロローグ・ニーチェ―― ニーチェ・コントラ・ブルックハルト――幾度もソクラテスの名を  1946–​1965みすず書房、一九八六年十一月、p.53を看よ)に注目できたはずであり、とすれば『ヴァーグナーの場合』での新機軸の如く特記された擴大鏡といふ手口(飾らずに呼べば誇張、歪曲)も既に『反時代的考察』の他の三篇にて十數年前から(ため)し濟みだったことになりさうで却って人名を表立てない第二篇特有の違ひ――それこそ「題名の問題」(第二章一)でもある!――が際立つし(亦一説に、第二反時代的考察での「擴大鏡としての人物」役はエドゥアルト・フォン・ハルトマンと見做すヨルグ・ザラクヴァルダの論もあったが、題名は問題にしてない。Stu­di­en zur zwei­ten Un­zeit­ge­mä­ssen Be­trach­tung, Nietz­sche-Stu­di­en 13, 1984: S. 42.)、飜ってそこからまた、餘りに人間的な特定人格への傾注や一人の固有名詞に託された過重な負荷、個性ある人物を萬物の尺度に擬する強引な擬人觀(それが英雄崇拜から超人説まで絡む次第は、E・ベルトラム/浅井真男譯『ニーチェ 下 ――一つの神話の試み――』「ナポレオン」〈筑摩叢書〉一九七一年九月、參看)に關し、しばし省みて想ひを致すことにもならう。――時の人誰彼への個人的な好惡感情を時代批判と取り違へてないかどうか、有名人に時代相を代表させる選良(エリート)意識は無名の大衆がのさばる現代社會でどこまで有效か、それにしても傳記は歴史の全體的部分(pars to­ta­lis)たるものか否か、等々。…​…と、かうして自分の批判意識を更に相對化してゆく自己批判を須藤が示せなかったのは、先づ『ヴァーグナーの場合』に入れ込んだ結果、その高評價を維持するための構成がそれとは別樣な論據を視野に入れる目を遮った所爲と覺しい。「自分たちが公然と感嘆する或る偉大さを称讃するのに、それが自分たちにいたる前段階、橋だと称する以外に道を知らないほどに僣越な人間たちが存在する」(浅井真男譯ベルトラム『ニーチェ 上』「系譜*1前掲筑摩叢書版p.63所引、『人間的、あまりに人間的 「第二部 漂泊者とその影」二一〇。Cf.『人間的、あまりに人間的 二〇七)とや。他にも理由があらうか?――「それとも、わが兄弟たちよ? それとも?――」(『曙光』本文結尾ちくま学芸文庫版p.463相當)。

*9

ここでニーチェの言から可能性を導く須藤だが、逆に、以前「屋根から瓦が​…​…――必然・意志・偶然」(『【岩波】新・哲学講義 知のパラドックス』)でスピノザとニーチェとを檢討した時には「一言でいうなら、可能性という様相の排除・抹消だといえるとの結論を引き出してゐた。

[…]ニーチェにおいては現実は必然=偶然と規定されました。この規定に関して見逃してならないことは――明言されてはいませんが――可能性は偶然性と峻別されるということです。その峻別のうえで、必然=偶然として現実を規定することによって、可能性の様相が抹消されるのです。あるいはむしろ、可能性が抹消されるからこそ、現実は必然=偶然として規定されるのであって、両者はことの表裏をなします。

中岡成文ほか編集委員『【岩波】新・哲学講義 知のパラドックス』岩波書店、一九九八年一月、p.146

讀み返して照合してみたら正反對の主張だったので、戸惑はされる。考へを變へたのか知れないが、それならさうとひと言でも斷わってもらひたいものである。

本書第五章(初出二〇〇三年)中「三 偶然としての歴史」の行論は以下の通りであった。「[…]いまだマッハを知らなかったと思われる中期の段階で、ニーチェはすでにマッハと思想的戦略において、ほぼ軌を一にしていた、といってよい。」「ところが、中期ニーチェ、『人間的』のニーチェにおいては、発生史の洞察はそのまま、事象の因果的必然性の洞察でもあるとされる。」「[…]ほぼと述べた理由はそこにある。マッハは、中期ニーチェのように、因果的必然性を揚言することがないからである。そこが、両者の基本的差異である。そして、この差異にこそ、後期ニーチェに対するマッハの([思惟經濟に續く]いま一つの)影響を云々できる可能性が潜んでいる。」「絶対的な必然的因果関係を中期ニーチェが見ていたところに、マッハはむしろ偶然を、しきたり・とりきめ Convention[=因襲、規約]」を、観取する」(p.211)。そこでマッハの力學史(一八八三年初版)から引例される(p.212)。

歴史探求は単に現存のものの理解を促進するだけではない。それは、現存のものが部分的にはしきたり偶然の産物であることを明かすことによって、新たなものの可能性を示唆しもする。さまざまな道をたどって到達される、より高い立脚点からは、より自由な眼差しによる展望が効き、さらに新たな道をそれとして知ることができるのだ(Me­cha­nik, S. 251)。

このマッハ(伏見譲『マッハ 力学 力学の批判的発展史』講談社、一九六九年十月、第§8-7.p.239相當/岩野秀明『マッハ力学史 上 古典力学の発展と批判』〈ちくま学芸文庫〉二〇〇六年十二月、p.397相當)に繋げられるのが、『道徳の系譜學』第二論文第十二節でニーチェが「ある事物・器官・慣習の歴史全体とはこのようにして、つねに新たな解釈とつじつま合わせの継続した記号連鎖なのである。ただし、それら解釈とつじつま合わせの原因それ自体は互いに連関しあっている必要はない。むしろ、事情によっては単に偶然的に互いに継起し取って代わりあうだけなのである」云々と述べる箇所(p.213所引)だ。――但し、マッハ著に接して以後の新生面のやうに思はせたいあまりか、まるでそれ以前にニーチェが「歴史における偶然Zu­fall」(NF-​1876, 19​[47]​・1880, 10​[F101])を認定したことが無かったみたいに決めて掛かって、先在せる『人間的、あまりに人間的 二三七*1前掲ちくま学芸文庫版p.258)やNF-​1880, 1​[63]『曙光』四九六Cf. NF-​1881, 11​[317]​・13​[1])等の系脈(後續に生成の無垢』一〇四六・*1前掲書p.552=NF-​1884, 25​[166]も)に目もくれないでゐる點、論證としては拔かりがあるものの、そこは、認知した偶然をば(肯定的)可能性の(しるし)と受け止め直す所からがマッハの影響下に入る(これまた「あとからの影響」?)​…​…とか何とか言ひ分けられなくもない、かも? この邊、逐一摘記するとややこしくくどくなるので、本書「序文」で各章を概觀して著者自ら要述した文(p.15)を借りよう。曰く、「道徳的価値観の変遷は、価値観そのものに内在した価値の優劣によって決定されるのではない」、「解釈の葛藤」といふ「外在的な力関係」で歸趨が定まる​…​…。

しかし、だからこそ、キリスト教道徳の勝利が「偶然」の産物であり、そうであるからには、反対に、キリスト教道徳の批判的超克の可能性も開けてくるのである。その意味で、物証としての語源学と「偶然」としての歴史観は、相互に支え合う関係にある。語源学は現行の価値観以外の価値観の存在を立証し、その限り道徳的価値観の歴史的変遷を証拠だてる。それは「偶然」としての「歴史」のれっきとしたひとつの事例である。他方、語源学という物証が、現行の道徳的価値観以前の価値観を立証できるためには、そもそも歴史がさまざまに変遷する可能性を秘めたものでなければならず、そしてその変遷が真にラディカルな変遷であるためには、歴史の変動は本質的に「偶然」的な変動でなければならない[…]。歴史はその本質が「偶然」であることが確証されてこそ、ニーチェの「系譜学」は「系譜学」としての威力を発揮できるのである(第五章)。

なにやら循環論法臭い論じ方である。「歴史の偶然な非連続性とは、『系譜学』における探求にとって、その理論的立脚点となるという意味で、出発点をなすばかりか、歴史探求に際して発見論的原理として作動するという意味で、目標地点をも構成するものなのである」(p.216、傍線引用者)とも言ふ邊り、自覺の上なのかどうか​…​…「発見論的」(heu­ri­stisch=索出的)と言ふと哲學上カントの統整的(re­gu­la­ti­ves=規制的・調整的)原理を匂はせるが(『純粹理性批判』B​644​・B699​・B799。Cf.『善惡の彼岸』一五)、統整用の理念を構成的に使用すべからずと云ふのも第一批判書(B​717​ff.)の教へだった。構成因として實體化する勿れ、そこから「誤れる循環」が發し「本來證明さるべきであったものが前提される」のだ(B721)、と。統整的・發見的原理に据ゑられる理性の形式は合目的性であるが(仝B714ff、『判斷力批判』第七十八節)、特に右の引用段の後半で「〜ためには、〜でなければならない」を繰り返すのは、まさしく「ためにする」議論で、目的論に囚はれて見える。「歴史は目的論的に進歩するとか、あるいは逆に堕落すると、ともすれば考えられてしまう」(p.214)と用心してゐてさへ己が望む目的のためには警戒心が薄れるものか、何のためといふ目的に同調してくれる相手に向けた論理構成なので、目指す向きが異なる他者には通用しない。その目標は達成しかねる、そんな結果を求めぬ、と拒否されたらどう説得するのやら。目的論ではなく必要條件の分析として、もし起きた史實以外の可能性があるならばその歴史は偶然である(必然とはそれ以外の可能性が無いこと、と云ふ定義の對偶)と論理學式に判斷するのだとしても、逆は必ずしも眞ならず、曾て歴史上に偶然があったことは今ここの現實とは別樣な(しかも「真にラディカルな」!)可能性あることの十分條件になるか、後件肯定の虚僞でないか、一件(單稱命題、特稱命題)が偶然だったら歴史全般に及んで全件(全稱命題)が「本質的に」偶然性であることになるのか(しかし偶たまであることが「本質」って、「稀によくある」みたいで形容矛盾っぽくないか)、現實として出來事には必然もあれば偶然もあって時と場合によりけり(それこそが大いなる偶然性とか?)ではいけないのかしらん​…​…それに何より、「可能性は偶然性と峻別される」と論じてゐた過去の記憶を消去してしまったかのやうだ。その「屋根から瓦が​…​…――必然・意志・偶然」では「可能性とは何より未来に関係づけられます」(前掲p.147)と決め込んでおきながら、本書第四章・第五章の立論では何よりまづ過去の偶然(所謂「歴史のif」)に可能性を見出してそこに現状を變革する將來の可能性が託される按排――曰く「むしろ逆に、歴史の本質的偶然性の洞察を梃子として、必然性と変更不可能性に凝り固まっているかに思われる歴史事象を解きほぐし、そこに歴史の新たな可能性を展望し」(第五章三p.212。Cf.前引第四章三p.182)云々――、過去だか未來だかもう混亂せざるを得ず、論旨の瓦解は不可避となる。敢へての錯時法(アナクロニー)ならまだしも味があらうが、峻別説を取り下げたわけでもあるまいし。必然(=否定の不可能、〜でないことができない)の強調は中期までのニーチェであって後期はマッハに影響受けて轉調したのだと言ひ逃れようにも、「屋根から瓦が​…​…」が引證したのは「中期」末に當る『曙光』一三〇「目的? 意志?」(p.140所引)だけでなく「後期遺稿」(p.139=NF-​1884, 27​[71])や「晩年のある遺稿」(p.141=NF-​1887, 10​[138]=『権力への意志六三九末・*1前掲ちくま学芸文庫版p.168)や「後期」に屬する『道徳の系譜學』第一論文第十三節篇首(p.144所引)もであり、それらを踏まへて「運命は、必然・偶然とは両立できても、可能性とは排他的なのです」(p.147)と説いてゐた。ニーチェのキイワードの一つとされる「運命愛」(p.147)ことamor fatiは使用例が計十度、一八八一年遺篇に二例あるも殘りは一八八二年以降八九年迄に八件が確かめられ、須藤著の從ふ時期區分では「後期」になるし、ニーチェがマッハを讀んだかも知れない一八八二年から八四年の前後を跨いで出現する。運命愛とは「人が別樣な何ものをもNichts an­ders持たうと欲しないこと[=何ごともそれ以外無いあり方が意志されるといふこと]」(『この人を見よ』「なぜ私はこんなに利口なのか」一〇末、ちくま学芸文庫版p.75相當。Cf.NF-​1888, 25​[7]別言(パラフレーズ)される以上、他でもあり得ると唆かさうにも附け入る隙が無く、可能性はすっかり閉め出されてゐるわけ。地體『道徳の系譜學』だけ見ても、「決然と見方を変えること、見方を変えようと欲することan­ders-sehn-wol­len=違った風に見たがる」(第三論文一二ちくま学芸文庫版pp.519-520.)を推賞したその口で、「別様にありたいAn­ders-sein・別所にありたい」(仝一三、p.522)「別な人間であったらJe­mand An­de­res sein!」(仝一四、p.525)といった可能性願望が冷評されてゐて、おまけに「ここに我立つ、我は他なるを得ずich kann nicht an­ders.=私は違った風にできない]」(仝第二十二節p.558相當)とルターの名科白(せりふ)を藉りて見得を切る始末(Cf. NF-​1880, 4​[68]。『悦ばしき知識』一四六『ツァラトゥストラ』第四部「砂漠の娘たちのあいだで第二節9聯・ちくま学芸文庫版下p.317、その改稿が沙漠の娘らにまじりて」3、『ニーチェ書簡集Ⅱ 詩集 ニーチェ全集 別巻2中島義生譯「詩集」中「四 ディオニュソス頌歌」〈ちくま学芸文庫〉一九九四年八月、p.491『この人を見よ』「なぜ私はこんなに良い本を書くのか」)、偶然性に可能性を認めてゆく論調と共存させるには難があらうものを、さうした突き合はせが須藤著でなされないのは、異論を抱へた論述の軋めき音が聞こえぬやうだ。まあ運命愛以前に、「とくに等しきものの永劫回帰という法外な思想などは顕著に反歴史的な色彩を帯びている」(本書「序文」p.6)と言ふのだから歴史思考とはどうやっても折合ひがつけられさうになく、「本書ではニーチェの主要思想の一つである等しきものの永劫回帰についてはごく部分的にしか取り扱わなかった」(「あとがき」p.421)のは單に缺如扱ひするよりか同じ本の中で矛盾無く扱ふのは無理があったと言ふべきで、ニーチェ思想には相反する「双極性」(「ギリシア人の悲劇時代における哲學」、第一章「三 ソクラテスという人格――ヘラクレイトスとプラトンの間としての」p.47所引。前掲悲劇の誕生ちくま学芸文庫版p.381「両極性」)があると考へればよいのだらうか​…​…(木本伸『中期ニーチェ研究――「自由精神」による「確信」からの解放――広島大学文学研究科一九九八年二月博士論文、第4章2p.124以下、及び第2章註4p.62・第4章4p.134も看よ。但し、分極性・對極性とも譯すPo­la­ri­tätのニーチェ自身の用例はこの一例切り、シェリング派の概念を祖述したA・ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』第二卷第二十七節に據るのみ)。

この齟齬する須藤の二つの論考は、整合させられるのか、分けて考へるべきなのか、いづれかを棄却するのか、或いは兩論併記のまま(しば)らく存疑として判斷保留(エポケー)で問ひを開いておく(cf. NF-​1885, 35​[29]、「解釋におけるEphe­xis[=ἔφεξις、愼重さ。ἐποχή(エポケー)と同源]としての文獻學」と『アンチクリスト』五二は言ふ)か​…​…。固より斷片(フラグメント)を閃かせるニーチェ文には、短章集でない評論文からしてもう、個々の金屬片を十分に溶解し直すことなく全體に嵌め込んだかのやうだとの評があった程(一八七四年三月廿四日附ニーチェ宛E・ローデ書翰M・モンティナーリ編「ニーチェ生活記録氷上英廣譯『ニーチェ全集 第十二巻(第Ⅱ期)白水社、一九八五年八月、p.260所引)、體系立てた論理的一貫性を要請するのは出來ない相談だとしても、ニーチェを論ずる著者の理路は筋を通してくれないと讀者はついてゆけなくなる。でないと著者も、學者として自己規定できまいが?

[…]ニーチェの著作の多くはアフォリズムの集成という形態になっている。その形態は、ニーチェの思考に視点の多数性を可能にした。それが、一切はなんらかの観点からの解釈であるという「遠近法主義」の思想にも繋がっていることは明白であるが、しかし、他方、アフォリズム形式ではない著作をものする場合、著者としての自分の立場・観点はいかなるものかという問題に対する、ニーチェの意識を先鋭化したようにも思われる。そうした著作の一つである『系譜学』において、著者ニーチェは、「認識者」として、つまりは「学者」として自己規定している。

第六章「三 楽士拡大鏡――哲学者やましい良心」pp.244-​245.

ついでながら、厭味が得意な三島憲一に言はせると「哲学者や政治学者は比較的まとめやすい『道徳の系譜学』をメイン・ディッシュにして、いくつかのアフォリズムを適当につけあわせるのが常である」(*4前掲『ニーチェ以後』「第四章 プラトン変貌――ニーチェ、ハイデガー、ガダマー――」p.123)とのこと。下手したら、易きに附いただけに終る。さて、本書刊行後の再論となる須藤訓任運命について――スピノザ、ショーペンハウアー、ニーチェ――」(岩波書店『思想』二〇一四年四月號「スピノザというトラウマ」)は如何に、と見れば、「 天空の骰子――ニーチェ」で「必然性と等号で結ばれることによって偶然性からは(人間的自己による)変更可能性、一般に操作可能性が奪取されてしまう」(p.266)云々とやはり可能性の否認を讀み取り、篇尾「」に「屋根から瓦が​…​…」第二節を併せて參照すべきものとはするが、『ニーチェの歴史思想』にて論じた偶然性から可能性へと向かふ思想に關しては口を拭って全然言及せずじまひだ。

なほ公平に言って、本書の著者も論理性を發揮しないわけではない。曰く「むろん、対象は認識されない限り、批判されることもありえない。その意味では認識は、批判の必然的先行条件となるのであって、そうである以上、両者を一刀両断に分割することはできない。若きニーチェの時代批判も当然ながら、時代認識を含意する」(第四章p.165)​…​…しかして論理上、必要條件たる認識は必ずしも批判といふ歸結を導くに足る十分條件ではない(批判どころか歴史認識が顯彰史觀に傾く場合さへある)。ここから、「起源現在とは、すなわち、発生史と(現在の)批判とは、峻別されるしかない」(第四章二p.180)と言ふ目覺ましく重要な論點へと繋がる條理が讀み解けよう(著者本人が明示はしてないけれど)。この分離無くしては、またしても「[…]二種類の超時間性――起源の超歴史性と現在の所与性――は癒着し相互的強化の循環過程に入りこむことになる」(第五章一p.199)。「系譜学批判との間に無媒介的な連結を認めることを逡巡するとでもいうような感覚」、そこには「歴史精神[『道徳の系譜学』第一論文第二節]が宿っている。そして、この精神の内実いかんにこそ、中期ニーチェと後期ニーチェとの――特に、その歴史思想に関する――決定的な差異がかかっているのである」(仝p.200)。この切斷の冴えをこそ! 尤も、そこで「ただし、『系譜学』の最終的ターゲットはあくまで、道徳の批判であって、その発生史の方ではない」(第四章一p.172)と云ふ類ひの目的論に執心すると、結論ありきの論點先取、ニーチェ「後期」を必然視してその達成からのみ前歴(先行條件)に遡及する如き循環論になりがちである。また、論理形式だけでは割り切れないのは歴史における時間の流れが一方向で不可逆な所で、無時間的に操作可能な論理命題と違って時間經過は前後非對稱であり、そこも、結果から逆算して原因や前提條件を推論する場合には要注意か。「――そして私の視線は、大概は過誤がなされる所の、あの至極難儀で至極油斷ならぬ逆推理の形式に向けていよいよ研ぎ澄まされた――作品から著作者への、行爲から行爲者への、理想からそれを必要とする者への、どんな思考や評價の仕方からもその背後で指令してゐる欲求への、逆推理Rück­schlusses=遡及推理、歸納的推論、逆向きの結論]」(増補『悦ばしき知識』三七〇「ロマン主義とは何か?」前掲ちくま学芸文庫版p.434相當/村井則夫譯『喜ばしき知恵』前掲書p.425相當。『ニーチェ對ヴァーグナー』「我ら對蹠人」にも改變しつつ自己引用、*8前掲偶像の黄昏 反キリスト者』p.364相當。Cf.人間的、あまりに人間的 二二七結果から根拠や無根拠へと逆に推理される、前掲ちくま学芸文庫版pp.247-​248.)。

*10

生に対する歴史の利と害について」に關説して、須藤著の曰く。

「歴史」の原語はHistorieである。Hi­sto­rieは場合によっては「歴史学」と訳される。ニーチェの三区分[「記念碑的歴史」「骨董的歴史」「批判的歴史」]を「歴史」と翻訳するのは、実は少々不正確の謗りを免れない。というのも、たとえば「記念碑的歴史」とは、なんらかの歴史事象を一種の記念碑に見たてて、それを手本に一念奮起して、これからの事業に邁進しようという、歴史事象に対する態度ないし姿勢を指すのであって、それをそのまま――少なくとも現行の日本語においては――過去の歴史事象と同一視されやすい「歴史」という言葉で意味させるには、無理があるからである。しかし他方、Hi­sto­rieを歴史学と訳すのにも、この場合違和感が残るだろう。「記念碑的歴史」などの歴史的態度は、「学」の厳密性・禁欲性と、どこかそぐわないところがあるからである。

「(補論4)ヘーゲルとニーチェ――歴史をめぐって」中「二 歴史の語り部としての哲学者」p.406

歴史「學」と稱するほど學術的でない「態度ないし姿勢」なら、歴史觀、史眼と言ったところか。その意味での「歴史」は、史學科の歴史研究に限らず諸學における歴史學派や非學問的な一般讀者向け歴史物語等にも分有される。

ちなみに、同じ第二反時代的考察について講説した渡邊二郎は「ニーチェが、生にとっての歴史の利害と言ったとき、その歴史とは、もっと明確に言えば、ヒストーリエ(Hi­sto­rieであり、つまり、記述としての歴史ないし歴史叙述のこと、端的に言って歴史的知識歴史的認識のことにほかならない」(『歴史の哲学 現代の思想的状況』「第十二章 ニーチェの登場〈講談社学術文庫〉一九九九年十一月、p.304)とかれこれ言ひ換へ(パラフレーズ)し、更には「歴史的知識Hi­sto­rie)」に「歴史的出来事Ge­schich­te)」を對置しようとする(仝pp.318-​319、cf.第一章「二 歴史の問題を考える際の出発点」)。曾ては、ニーチェの「生に対する歴史」云々に關し「我々はここで生を、Hi­sto­rieに対して、[…]Ge­schich­teとして、捉えかえしても差支えないのではあるまいか」(渡辺二郎「歴史の進歩について」成城大学文芸学部『成城文藝』第16號、一九五八年十一月、p.16)とまで言ってゐたぐらゐ。だがその點、小倉志祥譯「生に対する歴史の利害について」は「訳註」3(前掲ちくま学芸文庫版p.467)で次の通り注意した。

ゲシヒテは出来事としての歴史であり、ヒストリーは出来事の記述としての歴史である。本書ではゲシヒテもヒストリーも「歴史」と訳した。「歴史」の語感にはこの二つの意味が含まれているのみならず、ニーチェはヒストリーとゲシヒテを一応区別して使ってはいるが、必ずしもそうではないからである。じっさいドイツ語のゲシヒテにも「物語」「歴史記述」の意味が含まれているのである。[…例は略…]訳者が前後の連関からしてゲシヒテとの区別をはっきりさせた方がよいと思った場合には、ヒストリーを「歴史記述」あるいは「史学」と訳しておいた。

このやうに、歴史(Ge­schich­te)それ自體とそれを知ったり考へたり語ったりした歴史(Hi­sto­rie)とは、ヘーゲル『歴史哲學講義「序論」武市健人譯『ヘーゲル全集10 改譯 歴史哲學 上卷』岩波書店、一九五四年→第十九刷、一九九五年四月、p.99。武市譯『歴史哲学 上』〈岩波文庫〉一九七一年二月、p.147)以來よく對比される概念ではあるものの劃然とは割り切れずに重なり合ふ。生起した物事でもあればその表象でもある「歴史」なる語の用法には、二分性よりもむしろ二重性がある。喩へれば、何やら書物といふ書名の書物のやうな自分を自分の上に折り重ねた複合があり、もっと言へば、本文(テクスト)の附隨物である註釋の引用中にも本文が含まれて(紋中紋?)更にそこから散佚書の原文が再構される(輯逸)といったやうな文獻學式循環と相同の饋還(フィードバック)構造があり、或いは、まるで或る人間が自己言及時の主語を人類と自稱して一人稱代名詞や個體向け固有名をも兼ねさせてゐるみたいな奇妙さ、あたかも動物園に虎や兎やその他實在の動物たちと相竝んで「動物」といふ名札の檻があるかのやうな高次(メタ)レヴェルと對象(オブジェクト)レヴェルを綯ひ混ぜにした再歸性がある​…​…はたまた、入れ子状の共示義(コノテーション)が意味階層を上下すると言ふか、人間とは動物(の一種)であるが人間性とは動物(=けだもの)とは違ってゐることであると定義するやうな撞着語法(オクシモロン)にも似て、廣義では下位語を包攝する上位語だが狹義には下位語同士として對立する「自己下位語関係」(佐藤信夫レトリックの意味論 意味の弾性』「9 意味の《弾性》…自己比喩」、〈講談社学術文庫〉一九九六年五月)の累加がある​…​…。惟ふに、ゲシヒテに對してのヒストーリエは、集合Aとそれ以外の補集合とが排除し合ふ類ひの分斷された二項對立關係ではなく融即的對立立川健二「イェルムスレウ 言語としての主体、あるいは内在論的構造主義の可能性」立川・山田広昭『ワードマップ 現代言語論 ソシュール フロイト ウィトゲンシュタイン新曜社、一九九〇年六月、p.94。Cf.オスワルド・デュクロ/伊藤晃譯「言語範疇」、O・デュクロ/ツヴェタン・トドロフ共著『言語理論小事典朝日出版社、一九七五年五月、p.186)、即ち、A對非Aといふ相互に外在化された對稱性(シンメトリー)圖式でなくてAはA+αに對立し、意味論上で有徴((しるし)つき)と無徴との缺性對立を成す、と見ればよい。つまり、A及び非Aを併せて概括した不明確な擴がり(Ex­ten­sion=外延)を有する廣義の「歴史」の中で、その全體に對し部分として限定される内包(In­ten­sion)へと集中性(In­ten­si­tät=強度)を高めることにより狹義のAである»Hi­sto­rie«​が判明に特徴づけられる、と。發生論の上では胚が自ら分化してゆく過程に類比できさうで、これを要するに、ヘーゲル擬きに客體としてのGe­schich­teが主觀化されたり意識化されたりするとHi­sto­rieになるとも、逆に、言語論的轉回よろしくまづ記録や敍述としてのHi­sto­rieが存すればこそその基層にGe­schich­teの展がりが想像されるとも言へようが、いづれにせよ一方は他方と重なって包含されつつ分有(par­tici­pa­tion=融即、參與、獨語Teil­ha­be)の中から内部分裂して意味が派生する次第。たまたまドイツ語では對概念に言ひ分けられさうだからとて(それすら相互嵌入してゐるのが實態だったが)、内か外かの排中律に則って別立てにしては現實離れしてしまふ。歴史といふ語に現れる「客観的事実と主観的解釈[…]のような二面性ないし曖昧さが常につきまとっている」有樣に對し「だが,曖昧なものを曖昧なままにしておいたのでは,歴史学という営みの性質は,いつまでたっても鮮明にならないであらう.そこで私は,思い切って,区切りのはっきりしない曖昧なものを,できるだけはっきりと区別することにした.[…]」(遅塚忠躬史学概論』「はしがき」中「00-4 歴史学の曖昧さ東京大学出版会、二〇一〇年五月、p.8)などと果斷決行したくなるのも一理あるにしろ、歴史論として更に志向すべきは、そこに纏はりついてくる曖昧さを強ひて斷ち切ること以上にその曖昧なる「歴史(學)」が實際どのやうに曖昧であるかについて事例に添ひながら錯綜ぶりや入り組み方を判然(はっきり)とさせてゆくこと、大まかに「曖昧な」と括った諸相を如何なる曖昧さ具合なのか明瞭にすることであり、分離純化にもまして化合の混然たる仕組みを理解することをこそ課題とすべきだらう(「いかなる化學者も二つの元素からその合一によって何が成るのかを豫言できまい、彼がそれを既に知ってゐるのでなければ!」NF-​1885, 34​[217])。要素に分割して曖昧さを無くすばかりだとその曖昧なる所以が見失はれかねないので、元の曖昧さの性質を損なはぬ儘、曖昧なものは曖昧なものとして如何に曖昧なるかを問ひ質してゆく究明が要る。曖昧とひと口に言ってもその語自體が多義性を孕み何タイプかに類別される如し(ウィリアム・エンプソン『曖昧の七つの型』を想へ)。現に事實問題として曖昧さが存し、「歴史歴史学を使い分けるとしても,もとの歴史という言葉自体が客観的と主観的という二つの意味を併せもっていることを消し去ることはできない」(遅塚著p.7)からには、兩義性の解消によって曖昧性自體(そのもの)の解明から思考を逸らしては空論となる。むしろ歴史が歴史たるのは專らそれが曖昧であり二重である限りにおいてなのかも知れなくて、歴史學者ジャック・ル・ゴフが哲學者ポール・リクールに藉りた言に據ると「歴史家[の職業技能(メチエ)]というアポリア(難問)のすべて」は「方法的な過ちに由来するものではなく、正当な根拠を持つ曖昧さなのである」(立川孝一譯『歴史と記憶』「第四章 歴史」、〈叢書・ウニベルシタス〉法政大学出版局、一九九九年八月、p.166所引)。理想状態に焦がれ未決状態に()れて白黒つけたがるよりは灰色域(グレー・ゾーン)内で粘り強く實地踏査し續けること、そんな所作の方が歴史學徒には似つかはしい――「系譜學は灰色である。細心であり忍耐強く證據文書(ドキュメント)徴するものdo­cu­men­taireである」(フーコー« Nietz­sche, la gé­né­a­lo­gie, l'his­toi­re »冒頭、伊藤晃譯「ニーチェ、系譜学、歴史*5前掲『ミシェル・フーコー思考集成 ​p.11相當)。引喩仄めかし(アリュージョン))の材源をニーチェに徴すれば、『道徳の系譜學』「序言」第七節に曰く「[…]すなはち灰色なもの、言ふなれば、典據あるものdas Ur­kund­li­che、實際に確認し得べきもの、實際に現存したもの」​…​…確實に證據づけるべく孜々と資料に當りながらもなほ消えゆく過去は蓋然性に留まり暫定假説に堪へねばならないのが歴史研究といふものだ。同流で「文献学という灰色の霧」(一八七〇年五月廿一日附リヒァルト・ヴァーグナー宛書翰=『ニーチェ書簡集40、前掲ちくま学芸文庫版p.187)も。――恐らく異議あるか、それらの灰色はただ地味で冴えない文獻實證主義の譬喩に過ぎない、と? 「灰色のGrau­er仄白む朝」と「實證主義の鷄鳴」とが類義累積で竝列されてゐた『偶像の黄昏』(「いかにして真の世界が最後には寓話となったか*8前掲ちくま学芸文庫版p.47相當)みたいに? それどころかゲーテ(『ファウスト』第一部第四場二〇三八〜二〇三九行)の名言に據れば、緑なす生命に比しては一切の理論さへも灰色(老いの隱喩とも)ではなかったか? しからば、生の哲學の代表者からも引照しておくとしよう――しかし、哲学するということは、批判が定立と反定立という対立[する二つの見方=les deux vues o­ppo­séesを外から見て取るこの具体的な実在の内部に、まさに直観の努力によって身を置くことである。もし灰色を目にしたことがなければ、白と黒がどのように混じり合うかを想像することはできないだろう。しかしいちど灰色を目にすれば、白と黒の二つのdou­ble=二重の]視点から灰色をどう考察できるかは容易にわかる」(アンリ・ベルクソン「形而上学入門」、原章二譯『思考と動き』〈平凡社ライブラリー〉二〇一三年四月、p.305=原書p.224)。そんな直觀頼みが難無く解らせてくれる程のものかは疑問點だし、批判主義者ならずとも「概念なき直觀は盲目である」(『純粹理性批判』B75、cf. B314)と言ひ返したくなるが、黒白いづれかに還元するのが目的ではなく雙方がどんな風に相互浸透してゐるかを灰色状態において見据ゑるべきだといふ點で是としたい。ニーチェならば…​…​「一切の四角張った對立に對して抵抗し、物事のうちに相當の不確實さを望み、對立を取り去るところの――中間色、陰影、晝下がりの光や果てしない海原の愛好者としての、趣味である」(NF-​1885, 2​[162]=『生成の無垢』一二五〇・*1前掲ちくま学芸文庫p.628相當。改稿が『悦ばしき知識』第五書三七五)と言ふ所か。

反對物」とも譯されるGe­gen­satz即ち「對立」概念への批判は、ニーチェにおいて既に『人間的、あまりに人間的 より見られるのが八年經て『善惡の彼岸』に再論、翌年の「形而上学の心理学によせて」と題する遺篇(権力への意志五七九​・*1前掲ちくま学芸文庫版pp.111-​113=NF-​1887, 8​[2])へも引き繼がれ、ほか、對立を程度差(Grad­ver­schie­den­hei­ten)に解消する『人間的、あまりに人間的 第二部六七に加へ關聯文を含む斷章は『善惡の彼岸』二四や、遺稿ではNF-​1880, 6​[204]、及び『生成の無垢』四一二・*1前掲書p.240=NF-​1881, 11​[115]権力への意志三七*1前掲ちくま学芸文庫p.49NF-​1887, 9​[107]権力への意志五五二c・​前掲ちくま学芸文庫版p.87=NF-​1887, 9​[91]C、も對照せよ。一方で、「私は對立性が大好きだ」(推定一八八八年一月末エリーザベト・フェルスター宛書翰下書き)と筆にし、ヘラクレイトス(ディールス=クランツB53B80)張りに殊更「闘爭」を旨とするニーチェにしてなほ、斯く對立思考を窘める言のある次第。「私は、精神の事柄においても、戦いと対立とを欲するのである」(『生成の無垢』一二九九Ⅴ​・前掲書p.680​≒NF-​1885, 36​[17])と言ひ誇るあのニーチェが、だ。年來敢へてポレミックなものを吐き出して已まず(Cf.一八七四年三月十九日附E・ローデ宛書翰=『ニーチェ書簡集91・前掲ちくま学芸文庫p.333相當)、「諸要素の多様性と諸対立の緊張」が「人間の偉大さにとっての前提条件」(権力への意志八八一​前掲ちくま学芸文庫p.400NF-​1887, 10​[111]。Cf.同書九六六p.465NF-​1884, 27​[59]及び八四八・pp.359-​360=NF-​1887, 9​[166])だとか「[…]こうした強烈な対立概念、この対立概念の照明力が私には必要なのである」(『ニーチェ全集 第十二巻(第Ⅱ期)*9前掲書p.130=NF-​1888, 23[3]​3.)とか言ひ募る激論家が、善惡正邪その他舊來の道徳臭い二元論を敵視するあまり、「いかなる対立もない」(前掲『権力への意志』五五二)等と全否定の極論に及び、その所爲で却って對立是認の態度との間の對立を引き立たせてしまふとは、これまた皮肉な。…​…對立に對しても批判を對立させ、どこまでも反對命題を提起せずにゐられない、天邪鬼みたいな? 或いは反語めいた自己懷疑なのか、反論の餘地を殘して誘ひ掛けてゐるのか、「ひょっとするとそれは眞でないかしれぬ、――他のものがそれと挌闘せむことを!」(NF-​1883, 16​[63]末文≒『生成の無垢』一三六四・前掲書p.718相當。Cf.『善惡の彼岸』二二結尾及び一八NF-​1880, 7​[60]=『生成の無垢』一〇七七・前掲書p.559)と言った風に? より對立度緩めな言ひ回しでは、「私はけっして抗言Wi­der­spre­chen=矛盾]を挑発するつもりはない。むしろ、私といっしょに問題を形成するよう、手助けをせよ」(『生成の無垢』一〇七五​・前掲書p.558=NF-​1880, 7​[166])とも。どのみち、「主要觀點距離を引き裂く、但し何ら對立を作り出さない」(NF-​1887, 10​[63]​≒権力への意志八九一ちくま学芸文庫版p.408相當)と唱へようとも、その「主要手段」(Haupt­mit­tel)として「中間形成物die Mit­tel­ge­bil­deを剥ぎ去り」(仝p.409相當)「裂け目をより大きく裂き開ける」(NF-​1887, 10​[64]​≒同書八九一・p.408相當。Cf. NF-​1887, 10​[58]10​[59]​≒同書八八六​・p.404)のなら、間を繋ぐ漸次の階調(Gra­da­ti­on)を失って二極化が進み、分かたれた兩端が或る種の對立に至ることは避けられまいが。

 あらゆる言表が他の言表によって放棄せられるように見える。自己矛盾はニーチエの思惟の根源的特徴である。ニーチェにおいてはいつも、或る判断に対して同時にそれの反対が見いだされる。外観的には彼はすべての事柄について二様の見解を持しているように見える。だからわれわれはman=ひとは]、われわれが欲することのために、ニーチェから随意に引用句を引き出すことができるのである。[…]

それにもかかわらず、矛盾は恐らくしばしば重要な意義をもつことがある。[…]

いずれにしても解釈の任務は、あらゆるものにおいて矛盾を発見することであり、かりに矛盾を発見しなかった場合でも決して満足することなく、かつund dann viel­leicht,=それならことによると、]この矛盾をその必然性において経験することである[かも知れない]。その都度ge­le­gent­lich=折を見て・偶たま]矛盾に躓くことなく、むしろ矛盾性の根源が探求されねばならない。

カール・ヤスパース/草薙正夫譯『ヤスパース選集 ニーチェ(上)「序論」、理想社、一九六六年十一月、pp.24-25.
*11

シュネーデルバッハ『ヘーゲル以後の歴史哲学 歴史主義と歴史的理性批判は、目次に「第四章 フリードリッヒ・ニーチェ」もあれど、章頭で「生に對する歴史の利害について」のみ扱ふと斷わってゐるため在り來りの安直な論じ方から脱け出てなく、批判的歴史の鼓吹者に轉じた中期以後のニーチェについて拾ひ上げようとしない。同樣に歴史哲學の通史としても守備範圍を狹く窄める消極性が目につく。ソーシャルライブラリーに登録した際の讀後メモは、以下の通り。

読了 2010/10/05

譯者(古東哲明)の〔 〕による補足が必要以上に多い。

卷末「文献表」に邦譯を補ってあるのは哲學書ばかり、マイネッケすら漏れてゐるってどういふこと?

その分析はなかなか讀解の參考になるものの所詮は哲學者の論、哲學史に限定されてをり、歴史家であるブルクハルトやドロイゼンの章を立ててゐるとはいへ、科學史(學問史)に及ばない。「歴史認識の実践〔暗黙裡の行為〕を哲学的に解釈することと、その歴史認識の実践自体との、事柄としては必然的なつきあわせ〔対比〕を、おこなわないままにとどめざるをえなかった。そうしたつきあわせ〔対比〕は、科学史家との共同作業をつうじてのみ、なされるべきだからである」(p.38)。これだから哲學者って​…​…カッシーラーやフーコーの爪の垢でも煎じて飮め。

cf. 笠原賢介譯ヘルベルト・シュネーデルバッハ「歴史における‘意味’?――歴史主義の限界について――http://hdl.handle.net/10114/3995

http://www.sociallibrary.jp/entry/4588004425/m.3820946/

歴史哲學(Geschichts­philosophie)なんて形容矛盾だと却下したのはブルクハルト『世界史的考察』新井靖一譯〈ちくま学芸文庫〉二〇〇九年八月、p.12)だったが、同要素を竝べ替へた哲學史(Ge­schich­te der Phi­lo­so­phie)と稱される組合せもまたぎくしゃくしないわけがなく、そのブルクハルトが拒んだヘーゲルですら『哲學史講義』でまづは「直ちにこの對象自體が或る内的相剋を含む」(序論 哲學史の概念」。武市健人譯『哲学史序論――哲学と哲学史――』〈岩波文庫〉一九六七年六月、p.49相當)と斷わっておいた程で、そんな根っからの對立は如何にヘーゲル派がお得意の辯證法的統一に止揚させたがった所で到底納まり切らず、爾後それが十九世紀ドイツ講壇哲學に不協和音を奏でた樣はニーチェの同時代觀察記(一八七四年刊)にも描寫が見られる。

過去のものの博識なge­lehrte歴史記述(ヒストリー)インドにおいてもギリシアにおいても決して真の哲学者の仕事ではなかった。そして哲学教授がその種の研究に携わる場合、人々によって精々のところ、あれは有能な文献学者、好古家、語学者、歴史家である――だが決して哲学者ではない、と言われることに甘んぜざるをえない。精々のところ、と但し書きをしたのは、文献学者は大学哲学者の行なった大抵の学者的ge­lehrten=學識ある]業績に対して、あれは拙劣な研究であり、学問的厳密さが欠けており、概して嫌らしい退屈さを伴っているという感情を抱いているからである。例えばギリシア哲学者の歴史について言えば、学者的ではあるが、しかし極めて学問的であるとはいえない、遺憾ながら余りにも退屈なリッター、ブランディス、ツェラーの研究がその上に繰り広げた眠気を催す靄からそれを再び誰が解放するだろうか?

「教育者としてのショーペンハウアー」前掲『反時代的考察』〈ちくま学芸文庫〉pp.336-​337.

この前後で學識ある(佛語é­ru­ditに當る)歴史學より哲學を選ぶ姿勢を見せるニーチェだが、哲學者を理想化する基調とは裏腹に、數ページ後では現實の惡しき哲學教授どもを斥けて「疑いもなく今では個別科学の側にいる人々の方が一層論理的であり、一層慎重であり、一層謙虚であり、一層独創的であり、要するに、いわゆる哲学者においてよりも個別科学においての方が一層哲学的に行っているのである」(仝p.341NF-​1880, 4​[138]も同旨。Cf. NF-​1872, 19​[74][75][76])と認め、「自然科学と歴史学(ヒストリー)」を竝び稱して「これらの学問が、非常に長らく哲学と混同されてきたドイツ的夢想や思想の家計Denk­wirth­schaft=思惟經濟、思考の家政・所帶、思考業。Cf. NF-​1873, 30​[19]=『哲学者の書』「 苦境に立つ哲学をめぐる考察のための諸思想」前掲書p.436]を次第に威嚇するようになり、今では思想の(あるじ)どもDenk­wirthe=思想亭亭主(おやぢ)ら]が一本立ちでselbst­stän­dig=獨立自營して]やってゆく試みを止めたくてたまらないほどになっている」(仝p.342)と評價してもゐる。四年後の謂はゆる中期實證主義における第一作には、「全体でなく部分において強力な学問精神。」「ここに学問的個別領域と哲学との間の敵対関係がある」(人間的、あまりに人間的 *1前掲ちくま学芸文庫版pp.30-​31。Cf.『善惡の彼岸』二〇四​・二〇五、但し哲學側に立つ反對論)とも。後年この文獻學教授辭任前後の回心について「それ以來私は事實もはや生理學、醫學及び自然科學より外やらなかった――本來の歴史的な研究にやっと私が改めて立ち歸ったのさへ、その課題に儼として強ひられてからだった」(前出『この人を見よ』「人間的な、あまりに人間的なもの」ちくま学芸文庫版p.116相當)と追想したのも、誇張はあれど方向は合ふ(「中期」の特性とされる科學贔屓が既に「前期」のショーペンハウアー論に見えてゐたわけだから從來の時期區分は動搖を來すが、固より大雜把な目安でしかないと知れよう)。ここにおいて、哲學(いや思想稼業か)そのものの自活は斷念され、自主自立の哲學者といふ理念は實現し難く、むしろ哲學外の諸學術で本來の哲學以上に哲學的な營爲が行はれてゐる​…​…例へば、物理學者マッハの科學認識論のやうに?――或いはもっと個々の研究課題に即した形で? となればもう大文字の〈哲學〉からは離れて、即ちもはや、哲學科における純哲學だか各種部門への應用哲學(哲學の統一性からの分割、殆んどの歴史哲學もそれ)だかに縛られたり、萬學を包括するメタ學問となる哲學やら全科學の基礎づけをする哲理やらに執着したりしてゐないで、今や十九世紀以降に專門諸學の實踐の中でそれぞれ開發されてきた思考(論理、概念、發想、手法(メチエ)その他)としての小さな哲學が課題とならうもの。「哲學的思考はあらゆる學問的思考のただ中に感知されるべきである、推測校訂Con­jek­tur=判讀]に際してすらも」(NF-​1872, 19​[75])と文獻學にも哲學の芽生えが看取される如し。普遍的な哲學一般ではなく特定領域ごとに生じる何か哲學的なものの檢出。哲學者が強ひて他學科の研究内容を哲學化するよりもまづ專門家が各自その研究活動の中で研究の仕方において哲學してゐることの再認識。各學問分野の戰場で競はれる問題解決への取り組みを觀戰し、その戰術​・戰略​・戰理を引き出すこと。唯物論者ルイ​・アルチュセールが「学者のあるいは科学者の自然発生的な哲学」(西川長夫​・阪上孝​・塩沢由典譯『科学者のための哲学講義』〈叢書ヌヴェラージュ〉福村出版、一九七七年二月、p.77)と名づけたやうな理論闘爭の場を、目的意識でない歴史意識で以て再構成すること(歴史意識を以てすれば解題書誌ですら章學誠流に學術史としての目録學へと勢位高揚(ポテンツィーレン)される如く)。よくある各學界内部向けの「回顧と展望」みたいな研究史や學説史からはみ出すエピステモロジー風な哲學性、諸學史​・學問史における内在論理の攷究が宿す思考力​…​…。そこで歴史知・歴史認識における哲學、歴史(ゲシヒテ)哲學ならぬ歴史學(ヒストーリエ)の哲學(及び史學科外での歴史研究の哲學)もその一環を成さうし、それは近代歴史學では史料論​・史學概論​・史學史​・ヒストリオグラフィー等に埋め込まれた形で掘り返されてきたものだった。それらに通ぜずして何の歴史思想史ぞ。歴史學的知性はしばしば哲學に滿たぬ直觀や經驗則ではあれ、哲學者流の歴史理論の類ひとておよそ歴史家を滿足させず研究現場に遠い空言なれば(カール​・ヘンペルに發する歴史の分析哲學の應酬を想へ)、まだしも實績を殘してゐる所謂「歴史の実務家pra­ti­cien)」(渡辺和行近代フランスの歴史学と歴史家――クリオとナショナリズム――』序章、ミネルヴァ書房、二〇〇九年十一月、p.25注(68))達の實踐してきた認識にこそ就くべし。歴史家の「為すべきこと」でなく「歴史家が実際に為していることを研究しなくてはならない。」「われわれがここで理解したいと思っているのは、歴史に関するさまざまな思弁的理論[…]ではなくて、歴史家自身の仕事であり、その仕事の論理的な諸条件なのである」(中才敏郎譯「歴史哲学」D​・P・ヴィリーン編象徴・神話​・文化ミネルヴァ書房、一九八五年十月、p.155​・157)と心懸けてゐた碩學エルンスト​・カッシーラーですら遺著『認識問題4 近代の哲学と科学における』の「第三部 歴史学的認識の基本形式と基本動向」(山本義隆​・村岡晋一譯、みすず書房、一九九六年六月)が掉尾にしては奮はなかったことに鑑みても、やはり遺作であるマルク​・ブロックの未完書『新版 歴史のための弁明 歴史家の仕事』(松村剛譯、岩波書店、二〇〇四年二月)を繼續するやうな史學側からの自己分析が欲しい。フィリップ​・アリエス『歴史の時間』(杉山光信譯、みすず書房、一九九三年三月)のやうに「学問的歴史学」以外の「歴史を前にしての態度」まで含めるとなほ良し。哲學者諸君も、史料發掘を人任せにして既知文獻を綴り合はせる程度の哲學史家ではないのなら、歴史學で從事するやうな實務に自ら關はって參與觀察し、修史行爲を内省してみるがよい。

自らニーチェの名を先蹤とする系譜を成し(僞系圖かも知れぬが)、哲學の普遍性を解體して特殊化した各種の特定主題から思考を起ち上げる方途を示しつつ、古文書漁りのやうな歴史學的作業に身を委ねた歴史研究者には、フーコーといふ實例がある。ジャック・アタリの如き史料調査の實務拔きに歴史家ぶる輩に對しては距離を取る態度を露骨にしてゐた程(西永良成譯「歴史の濫造者たちについて」『ミシェル・フーコー思考集成  1982‑83 自己/統治性/快楽筑摩書房、二〇〇一年十一月)。ニーチェに事寄せたフーコーの談(一九六七年)を引いておく。

ヘーゲル以前、哲学は必ずしも全体性を目指してはいなかった、ということを指摘しておきましょう。[…]したがって私は、哲学とは全体性を視野に収めるものである、という考えは、比較的最近のものであるように思います。そして私には、二十世紀の哲学はまた新たにその性質を変えつつあるように思われます。つまり、哲学はみずからの任務を制限し限定しようとしているばかりではなく、みずからを相対化しつつあるようにも思われるのです。結局、今日において哲学するとは何を意味するのでしょうか。哲学するとは、全体性についての言説すなわち世界の全体性がそこで取り戻されるようなひとつの言説を構成することではなく、実際には、むしろあるひとつの活動を実践するex­er­cer​〜を營む、〜に從事する、修練する]こと、あるひとつの活動形式を実践することです。手短に言うなら、今日において哲学とは、さまざまに異なる領野において実践され得るようなひとつの活動形式のことである、ということになるでしょう。[…]

[…]

[…]ニーチェにとって、哲学するとは、さまざまな領域において一連の諸行為や諸操作を行うことでした。ギリシャ時代の悲劇を記述することも哲学であり、文献学や歴史に従事することもまた哲学でした。それに加えて、ニーチェが発見したのは、哲学に特有の活動が、診断という仕事にあるということでした。我々とは今日において一体何であるか。我々がそこで生きているこの「今日」とは一体どのようなものなのか。彼のこの診断という活動には、彼の[宇宙であるこの]思考、言説、文化の宇宙[全體]tout cet uni­vers de pen­sée, de dis­cours, de cul­ture qui était son uni­vers、自分より以前にどのようにして構成されたのかということを明らかにするé­tab­lir=確立する]ために、自分の足もとを掘りおこすという仕事が伴っていました。[…]次のことを言うにとどめておきましょう、つまり、私はニーチェを読むまで、イデオロギー的に「歴史主義的」«hi­sto­ri­ciste»=「歴史主義者」]なままであり、ヘーゲル的hé­gél­ienなままであったということを。

慎改康之譯「フーコー教授、あなたは何者ですか」、『ミシェル・フーコー思考集成 *5前掲書pp.468-​470.
*12

フーコーへのインタヴュー(聞き手レーモン・べルール)歴史の書き方をめぐって*5前掲、福井憲彦譯「歴史の書き方 『言葉と物』をめぐって」後半、p.174「寓意に関する警戒」。前掲レーモン・ベルール「ミッシェル・フーコーとの対話 ――その二――」p.116アレゴリー的不信」。「歴史の書き方について」『ミシェル・フーコー思考集成 』p.439「寓意的(アレゴリツク)疑惑」)參看。ここでアレゴリー的(寓意・寓喩に關する)と言ふその趣意(こころ)は、ギリシア語源all­ēgoríāの原義「別樣な語り方」「他のものを話す」を踏まへてをり、解釋學を論じた際に「アレゴリアやヒュポノイアhypo­noia=下心、嫌疑、推測]」(「ニーチェ、フロイト、マルクス」大西雅一郎譯、『ミシェル・フーコー思考集成 』前掲書p.402​・412相當。豊崎光一譯、季刊『第二次エピステーメー』創刊0號(0号)「【緊急特集】ミシェル・フーコー死の閾」朝日出版社、一九八四年十二月、p.66​・77相當。前田耕作譯「ニーチェ・フロイト・マルクス」、情況編集委員会編『情況』一九七六年五月號Vol.95情況出版、p.108​・114相當)とも言ってゐたもの。

以下、フーコーが、自分の本(『言葉と物』)に現前してゐる主體(主語)とて今日では言はれたこと全てにおいて話してゐる「匿名のひとなのだと述べたのに對し、その主語on(フランス語で三人稱主格の不定代名詞。英語one、ドイツ語manに當る)の規定をべルールに問はれての返答である。

おそらく少しずつ、苦労をしながらではありますが、寓意に関する大きな警戒la gran­de mé­fiance allé­go­riqueから、いま解放されつつあるところではないでしょうか。私がいっているのは単純なことでしてJ'en­tends par là l'idée sim­ple qui con­siste,​≒それが意味するのはといふ單純な考へ、テクストをまえにして、そのテクストが現実に語っていることの下でほんとうに語っていること以外は、なにも問わないという警戒ですね。そこにはおそらく、むかしの注釈のexé­gé­tique=(聖書)釋義學的な]伝統からひきついだ遺産がありましょう。つまり、いわれたことすべてをまえにして、われわれは、何か別のことがいわれているのではないか、と疑ってしまうんですね。そうした寓意に関する警戒の世俗版がもたらしてきた効果の結果、すべての注解者は、著者のほんとうの思想をいたるところでみつけねばならない、著者がいわずしていっていたこと、著者がうまくいえなかったけれどもいおうとしていたこと、あるいは著者が隠そうとしたけれども隠しきれなかったことをみつけねばならない、とされてきたわけです。

しかし、言語を扱うには、今ではその他の可能性もいっぱいあるのだ、ということに気づかれています。たとえば現代の批評がそうです。少しまえまでまだ行われていたやり方と、現代批評とは、はっきり区別されます。いま現代批評は、みずからが検討するさまざまなテクストについて、つまりみずからの対象(オブジエ)としてのテクストについて、一種の新しい結びつきcom­bina­toi­re=組合せ、結合法]を形成formu­ler=定式化、表明]しようとしているのです。つまり、テクストの内在的な秘密を再構成しようとするのではなく、テクストを(言葉、文章、さらには音韻、主題、文学形式、物語の総体en­sem­ble=集合]いった)諸要素からなる総体としてとらえるわけです。そしてそれらの要素が、作家の企図によって統御されてはおらず、まさに作品そのものによってのみ可能にされているかぎり、それらの要素間には、まったく新しい関係性を浮きあがらせることができるのです。そうして発見される形式上の諸関係は、作家個人per­sonne=誰か]の精神のなかに実在していたものではありませんし、また、言語表出されたものé­non­cés=言表、陳述]の潜在的内容とか、すぐに露呈するような秘密とかいったものでもありません。そうではなく、そうした諸関係はひとつの構築物なのです。しかしそれは、そうして叙述された諸関係が、扱われた素材に現実的に帰着させられうるやいなや可能となる、そういうひとつの正確なex­acte=精密な]構築物です。われわれは、人びとhommes=人間]の語ることを、いまだ定式化されていなかったin­formu­lés、われわれによってはじめていわれる、しかし客観的に正確な諸関係のなかにおいてみることを、学んできたわけです。

こうして現代の批評は「そのものの内面にふかく入りこむことIntimior intimio ejus=彼の内面のなほ内なる(アウグスティヌス『告白』第三卷第六章第十一段落「我が(いや)内よりも内奧に interior intimo meo」が典故か)]」という内在性の大神話を、放棄しつつあるところです。箱詰めl'em­boî­te­ment=入れ子]とか宝の箱にたとえて、作品という戸棚の奥に探しにゆけばよいとするような古い考え方thè­mes=テーマ]から、完全に身をひき離しているわけです。現代批評は、テクストの外部に位置することによって、テクストにたいしてあらたな外部性を構成し、テクストのテクストを書くわけです。

福井憲彦譯「歴史の書き方 『言葉と物』をめぐって」中「歴史の書き方をめぐって」『actes』3、pp.174-​175.

もしこれ、ニーチェと引き合はせるとすれば、次の條あたりか。「文書die Schrift=書き物]のいわんと欲することを素直にschlicht=簡素に]理解しよう、しかし二重の意味はかぎ出すまい、まして前提とはすまい、というつもりで、現在文献学者があらゆる書物に対して作り出したのと同じような厳密な解釈術Er­klä­rungs­kunst​=説明の技法]を自然に適用するには、きわめて多くの悟性を要する。しかしながら書物に関してすらよくない解釈術が決して完全には克服されていず、もっとも教養のある社会においてもなおたえず寓意的・神秘的な改釈Aus­deu­tung=解釋、(夢や謎の)判じ]の残滓に出くわすように、自然に関してもまたそうした状態にある」(人間的、あまりに人間的、前掲ちくま学芸文庫版p.32)。同書二七〇読む術」(p.288)や『人間的、あまりに人間的 Ⅱ「第二部 漂泊者とその影」一七深い解釈Er­klä­run­gen​=説明]も相通ずる。これらを取り上げた大石紀一郎ニーチェにおける〈文献学〉――古典文献学の精神からの〈力への意志〉の解釈学の誕生――」(東京大学教養学部外国語科編『外国語科研究紀要37巻第1號、一九九〇年三月、p.223​・pp.231-232.)も參看。

*13

ニーチェ著『道徳の系譜學』第三論文「禁欲主義的理想は何を意味するのか」は第一節末で「むしろそれ[=人間意志]は欲しないよりはまだ欲することを欲する[=意志せぬよりもいっそなほ虚無を意欲せむとする] eher will er noch das Nichts wol­len, als nicht wol­len.といふ警句(アフォリズム)を提示して讀者に謎を掛け(公案風)、かう問ひ掛けた(教壇調)。

— Ver­ste­ht man mich?​… Hat man mich ver­stan­den?…

即ち木場深定譯で「――諸君には私の言うことがわかるか…​…私の言うことがわかったか​…」(『道徳の系譜』〈岩波文庫〉一九六四年十月第九刷改版(改譯)、p.118​→二〇一〇年十二月第67版改版)、信太正三譯「――私の言うことがおわかりか? ・・・おわかりになったろうか? ・・・」(前掲ちくま学芸文庫p.485)。直譯すれば「私を」になる一人稱單數代名詞の對格mich​(4格、英語目的格meに相當)が「私の言うことが」とくだいて意譯されるのは、ここでは「私を」や「私のことが」にすると日本語として文意が通じまいから、已むを得ないのかも知れない。けれど、裏を返せば、少なくとも日本語の「私」ではその儘すんなり「私の言ふこと」を意味してくれないことを示し、反對に「私の言ふこと」だけから復文すればwas ich sa­ge​(英what I say)やmei­ne Worte​(英my words)等となってmich一語に收まらないことが示せ、それぞれ喰ひ違ひを抱へた別語である樣が察しられよう。されば、これらをさう常に同意義扱ひで等價交換して良いわけではないことに注意すべし。なるほど語脈によっては、ここが話者を理解したかと問ふ原文から話題を理解させようと促す譯文へと變換され得ても、しかし、もし「私の言ふこと」が了解されたかが訊きたいだけだとしたら何故was ich sa­geでなくmichで表現するのやら。この話し手自身を理解對象に据ゑた疑問文が、讀み方次第では聞き手への自分の言葉の傳はり具合を確かめる質問だと解釋されるとしても、そこで重心に偏りが起きてないか。何でもドイツ語學者によれば、「ドイツ語に見られるドイツ人の自我の捉え方」は「からだ」を疎外して「しばしばこころだけをそのまま自己と同一視するという、顕著な特徴をもっている」さうで、更に重點を絞ると「ドイツ人はこころといえば、ただちに思考作用を考えるのが普通である」し「言葉をそのまま思考と同一視するのも、ドイツ的思考法の一特色をなしている(自己=思考=言葉)。――

日本語の「彼を理解する」はその人の気持ちや性格、おかれた立場などを総体的につかんでいる、という意味で使われるのが普通だと思うが、ドイツ語の ver­ste­hen の対象(=4格目的語)は具体的で個別的なことがらであることが多い。つまり ihn ver­ste­hen といえば、普通には、「彼が今言ったことが分かる」「彼が今何を考えているかが分かる」の意味であって、「彼を理解する」という意味になることは、どちらかといえば稀なケースに属する。ihn hö­ren は「彼を聞く」と直訳するわけにはいかない。「彼に耳を傾ける」と言えないこともないが、やはり日本語としてはおかしい。どうしても ihn を「彼の言うこと」などと、「言う」に当たる部分をなんらかの形で補わざるをえない。つまり ihn は〈言葉=自己〉である。

寺門伸「ドイツ人の自我観」

言葉は事の()に過ぎず、私の言ふことは私のこと全體の内では一部分でしかない、にも拘らず、ドイツ語で「私」が他動詞ver­ste­hen​(=聞き取る、理解する)の目的語に取られる場合に「私の言ふこと」に當る意味以外は切り捨てて語義がその部分のみに局限されるのは、全體を以て部分を示す或る種の換喩用法(to­tum pro par­te)だらうが、飜って日本語譯側からすると、部分で全體を代表させてしまふ所(pars pro to­to)に一斑を見て全豹を卜するにも似た無理を感じさせられる(デデキント無限?)。​…いや、言葉の方が人間よりも賢い場合、さう、私の言ふことが私自身にもよく理解されてない時には、最早その言は部分集合どころか「私」全體からさへはみ出す――往々にして小人の大言壯語や淺學の道聽塗説がさうあるやうに。いづれにしろズレが出るのだ。意味作用の逸れは、文勢から大意を酌めば近似値に丸め込めても、言々句々に焦點を合はせれば齟齬が浮かび出てくるもの(ゲシュタルト崩壞?)。

實はこれ、讀み進めると行文自ら言葉そのものを浮上させる仕掛けになってゐて(浮遊する能記(シニフィアン)?)、右の疑問文は、その後„man ver­ste­ht mich“​と平敍文にした形で同じ第三論文中に木魂返しされ、目配せみたいにして第八節第十三節第二十六節ちくま学芸文庫版p.505​・522​・577「もちろん私の言うところはすでにもうお分かりであろうが」「おわかりのことだろうが」)に出て來るし、第二十節冒頭„Aber man wird mich schon ver­stan­den ha­ben:“​「ところで、私の言わんとするところは、とっくにお分かりのことだろう」(仝p.550)も派生形だ(未來完了形として推量敍法の助動詞wer­den​の現在三人稱單數形wirdを伴ってゐ、逆に、原文にこれが無いのに信太正三譯が「であろう」「だろう」と推量表現にしてゐた所は意譯による補筆だったと判る――意譯は細部を意に介しない)。ついでに、michでなくsich(三人稱)だが、慣用句wie sich von selbst ver­ste­ht自づから明らかな通り、解り切ったことながら、の意。譯は「言わずと知れた」「勿論」「いうまでもなくとも、仝p.503​・530​・534​・555)及びその變形(仝p.487​・540​・551)がこの第三論文でだけ頻度高いのも判る人には判る言葉遊びだらう。更に、一八八八年九月執筆『アンチクリスト』の「序言」でも二段落目に「人が私を理解しman mich ver­ste­ht、しかも必然性をもって理解する諸条件」(*8前掲『偶像の黄昏 反キリスト者ちくま学芸文庫p.163)が告げられ、「私」を問題として讀者の理解を問ふ口調は翌月起稿する『この人を見よ』にも引き繼がれる​…​…もういっそ、「ワカルカナ? わかんねエだろうナ」(松鶴家千とせ)と言はんばかり。「物を書くとき、人は理解されたがるばかりでなく、同じくらゐ確かに理解されないつもりでもある」(増補『悦ばしき知識』三八一理解度の問題に寄せて」、前掲ちくま学芸文庫p.453相當/前掲喜ばしき知恵』p.443相當。Cf.『生成の無垢』七六二​・*1前掲書p.376=NF-​1882, 1​[20]、仝七九八​・p.399=NF-​1885, 1​[182]の一部抄録、『善惡の彼岸』二七​・二九〇)とや。

果たして「私(のこと)」の理解は「私の言ふこと」の理解(=聽き取り)で十全に置き換へ得るものか。ニーチェ最後の著書、執筆後二十年・沒後八年を經た一九〇八年初刊『この人を見よ』は、終章「なぜ私は一個の運命なのか」、八、九、各節冒頭で、„Hat man mich ver­stan­den?“​といふ疑問文を重ねて掲げる。本邦初譯の安倍能成は「人々は余を解したか」(南北社、一九一三年十一月、p.293​・298​・302)とし、十五年後に岩波文庫版で「人は私を解してくれたか?」「人は私を解したか?」「人は私を解したか」(一九二八年十月、p.200​・203​・206​→一九三九年一月第十四刷(改版)=復刻版〈名著/古典籍文庫〉一穂社、二〇〇五年十月​→一九五〇年九月第十八刷改版p.191​・194​・196)と改譯した。三井信衛譯が「人々は私を理解しただらうか」(太陽堂、一九二四年十月、p.247​・251​・253)。これら初期邦譯は歐文直譯體で不定代名詞manまで譯出し、中でも安倍能成の岩波文庫舊版は「及ばずながら出來るだけ原文に忠實であらうとした」(「譯者序」p.7)と言ふ通り。後年、阿部六郎譯「私といふものが解つたらうか?」(「此の人を見よ」『ニイチエ選集 第八卷』創元社、一九四二年一月、p.167、p.170​・172「私といふものが分つたらうか?」)は舊字新かなづかひ表記「私というものが解つたろうか?」(『この人を見よ』〈新潮文庫〉一九五二年七月、p.142、p.144​・146「私というものが分つたろうか?」)で三十餘年重刷され續け、後繼となる西尾幹二譯は「私という人間をこれでお分かり頂けたであろうか?」(『ニーチェ全集 第四巻(第期) 偶像の黄昏 遺された著作(一八八八―八九年)白水社、一九八七年二月→前掲西尾幹二全集 第5巻 光と断崖― 最晩年のニーチェ所收p.231​・233​・234/〈新潮文庫〉一九九〇年六月→二〇一五年七月二十三刷改版p.211​・214​・217)とくどくなったものの、丘沢静也譯「私は理解してもらえただろうか?」(光文社古典新訳文庫〉二〇一六年十月、p.213​・216​・219)とも意のある方向はほぼ等しい。『この人を見よ』の邦題(但しラテン語Ecce homoに對し文法上は不正確な飜譯だとか、cf.増治之ニーチェに於けるメランコリー」中「一 ニーチェの自叙伝『エッケ・ホモ』」、『ニーチェ 解放されたプロメテウス創文社、一九九〇年二月、pp.167-​168.)を持つこの自己言及に溢れた書において、ニーチェ原文がmich(ことさ)ら文字通りに意味させ、ver­ste­hen連語共起(コロケーション)による慣用的含意は表面化させずにゐる​…​…と讀んだわけだらう。ところが、小栗孝則譯は「諸君には、私の言ふ事が理解出來たか?」「この私の言ふ事が理解出來たか?」「この私が理解出來たか?」(〈改造文庫〉改造社出版、一九三六年四月、p.208​・210​・213)と、解釋の幅を見せつけるかの如く譯文を三樣に變移させ、その分、原文が同文句の間歇回歸だとは看て取り難くなってゐる。前二者「私の言ふ事」に寄せる方向で、氷上英広譯が「私の言うことが、おわかりだろうか?」「私の言うことがわかったろうか?」「私の言うことが、わかったろうか?」(『ニーチェ 世界文學大系 42』筑摩書房、一九六〇年二月、p.410​・411)と三唱したのを始め、秋山英夫譯も最初「人は私を解したか」(『この人を見よ・アンチクリスト』〈角川文庫〉一九五一年三月、p.264​・266​・268)としてゐたのに新譯を「わたしのいうことがおわかりか?」「わたしのいうことが、わかったか?」(『世界の大思想 25 ニーチェ こうツァラツストラは語った この人を見よ河出書房新社、一九六五年十一月、p.410​・411、p.412)に改めてしまひ、川原栄峰譯では「私の言うことがおわかりだろうか?」(『ニーチェ全集 第十四巻』理想社、一九六七年四月、p.148​・151​・152​→この人を見よ 自伝集 ニーチェ全集15』〈ちくま学芸文庫〉一九九四年六月、p.180​・183​・185)、手塚富雄譯でも「わたしの言うことがおわかりだったろうか?」(〈岩波文庫〉一九六九年四月、p.189​・192​・194​→二〇一〇年十二月第五十五刷改版、未見)となってゐて、理解する對象(Ob­jekt=目的語)に私をではなくその言ったことを据ゑた點で、飜譯者の無理解を露呈してゐる――或いは過度な理解による譯し過ぎを。解ったつもりのお節介こそ困りもの。誤譯ではないが適譯でもない。およそ飜譯で間違ひの元は他言語による異化效果を馴らして自言語の慣用に同化してしまふ自文化中心主義、即ちベンヤミンの飜譯論も引くルドルフ・パンヴィッツが言ふには「翻訳する者の根本的な誤謬は、異邦の言語によって自らの言語を激しく運動させるのではなく、自らの言語がたまさか至り着いた状態を墨守してしまう点にある」(「『ヨーロッパ文化の危機』補説三ッ木道夫編譯『思想としての翻訳――ゲーテからベンヤミン、ブロッホまで白水社、二〇〇八年十二月、p.166、cf. p.205所引)。他言語(起點言語)を自言語で解する譯讀には反作用として譯述で使ふ自言語(目標言語)に異言語化を及ぼす擴大深化が伴はなくてはならぬ、と。「私をmich)解する」を「私の言ふことが解る」に意譯するやうな類ひのこなれた日本語化にあっては原文の異質性が見失はれがちになる。且つまた、言はれたことの理解をその發言者の理解に重ねようと欲するのは解釋學に至る病(ディルタイ流に症状顯著)なのであり、固より言葉と人とは同じでなく、作者は作品と別である。ニーチェ自身「私は一つの物であり、私の著作は別の物である」(安倍能成譯『この人を見よ』「何故に私はかかる良書を書くか」第一節冒頭、岩波文庫p.83​→改版p.79。川原栄峰前掲p.63​→p.76は「私は私、私の著書は私の著書、両者はそれぞれ別のものだ」と原構文を崩した自由譯、手塚富雄p.75西尾幹二p.163/p.82もこれを踏襲)と斷わりを入れてゐる。前年の著書にも言ふ、「芸術家をその作品からできるだけ切り離し、芸術家その人をその作品と同じようには真面目にとらないということは、たしかに一番よいやりかたである。[…]――だから、たいていの場合それ[=藝術家]は、作品そのものを賞翫しようとするときには忘れられねばならないものなのだ」(道徳の系譜第三論文第四節ちくま学芸文庫版pp.490-​491.)。子曰く、君子は言を以て人を擧げず、人を以て言を廢せず(『論語』衞靈公第十五)。「だれが話そうとかまわないではないか」(サミュエル・ベケットミシェル・フーコー)と極言せぬまでも、言葉はまづ言葉として受け取らうではないか。翻訳の領域においても、初メニ言葉アリキが妥当するのだ」(ヴァルター・ベンヤミン翻訳者の課題、前掲野村修編譯『暴力批判論 他十篇――ベンヤミンの仕事 1――』p.85/内村博信譯「翻訳者の使命浅井健二郎編譯『ベンヤミン・コレクション2 エッセイの思想』〈ちくま学芸文庫〉一九九六年四月、p.405相當/三ッ木道夫譯「翻訳者の課題」前掲『思想としての翻訳』p.202相當)。

で、改めて當の『この人を見よ』本文の言に即せば――(以下十一件、いづれも幸ひに原書異版間の校異が問題にならぬ箇所だった)。まづは「序言」第一節中程の副文(從屬節)„dass man mich we­der ge­hört, noch auch nur ge­sehn hat.“は、逐語譯すれば「人々が私に聽かず、私を見もしなかつたといふこと」(生田長江譯「この人を見よ」『ニイチェ全集 第九編 偶像の薄明(外五篇)』新潮社、一九二六年十一月、p.275​→『ニイチェ全集 8 善惡の彼岸 この人を見よ(ニイチエ自傳)日本評論社、一九三五年七月、p.321)や「人々が私に聽かないのみか、私を見るだにもしなかったといふ一事」(安倍能成譯岩波文庫版p.13)といった所であり、多少和らげた譯で「誰ひとり私に耳を傾けず、見むきもしないということ」(氷上英広譯p.359)とか「誰もわたしに耳を傾けず、目も向けないということ」(手塚富雄譯p.7)とかしておけば過不足無からうものを――或いは過去を表はす現在完了形として「これまでだれもわたしに耳を傾けてくれず、またわたしを見むきもしなかったという一事」(秋山英夫新譯p.323)とでも譯すべきかも知れないものの――、それが、川原栄峰譯では「誰も私の言うことを聞かず、また誰も私の書いたものを見もしないという事態」(理想社p.11​→ちくま学芸文庫p.13)、西尾幹二譯は「の言を聴く者はなく、私の書いたものに誰も目を向けさえもしないという事態」(前掲『西尾幹二全集 第5巻』p.122​/新潮文庫p.3)などと餘計な補填をして指示對象を狹めてしまふ嫌ひがあった。これに類して「私の言ふ事」「私の聲」「私の言葉」といった附加をするのが小栗孝則譯(改造文庫p.9)阿部六郎譯(創元社p.3​→新潮文庫p.7)土井虎賀壽譯(〈世界文學選書〉56、三笠書房、一九五〇年九月、p.2)秋山英夫舊譯(角川文庫p.125)丘沢静也譯(p.7)で、老婆心の籠もった譯解だ(清朝考證學者流の誡める「増字解經」に近し)。同じく第一節、結びに強調體で„Hört mich!“と記す文は、さすがに「私を聞け」と直譯しては不自然にしても、單純に「私に聽け!」と譯した生田長江(前掲p.275​→p.321)や安倍能成(岩波文庫p.14)はすっきり簡勁な語調であったが、また自稱代名詞を譯さない日本語化も「よく聽き給え!」(阿部六郎譯新潮文庫版p.7)「よく聞いてくれ!」(氷上英広譯前掲p.359)と二例はあったが――但し私拔きに「聽け!」とした加藤一夫譯「此の人を見よ」(『世界大思想全集 8 ニーチエ』春秋社、一九二九年二月、p.3)はListen!と一語文にした初期英語版(アンソニー・M・ルドヴィッチ譯)と書中の譯文大體が符合するので重譯本として以後除外、且つ小栗孝則譯での「やい! 我こそは何ノ誰某」(p.9)と戲譯に(はし)った箇所は勘定に入れぬものとする――、むしろ大方は、土井虎賀壽が「私のいうことを聞いてくれ!」(p.2)、秋山英夫が「私の言ふことを聴き給へ!」(舊譯p.125​/新譯p.323「わたしのいうことを聞きたまえ!」)、川原栄峰が「私の言うことを聞け!」(p.11​→​p.14)、手塚富雄が「わたしの言を聴け!」(p.8)、西尾幹二が「吾が言を聴くべし!」(p.122​/​p.4)、丘沢静也が「私の言葉に耳を傾けてくれ!」(p.8)とか譯補して著者よりその言表に注意を向ける傾きを交へ須藤訓任もまた「わたしの言うところを聴け!」(『ニーチェ 〈永劫回帰〉という迷宮』前掲書p.73所引)と發話を發話者に混同して換喩風の轉移を異としなかった――なので直ぐ後に續く「なによりも、わたしを取り違えてくれるな!」(Ver­wech­selt mich vor Al­lem nicht!)と今一つ平仄が合ってない(ここの「私を」を「私の言ふこと」にした和譯はつひぞ見たことなし)。次いで、第一章に當る「なぜ私はこんなに賢明なのか」の第八節半ば、段下げしてツァラトゥストラの名で語り出す五行程前に假定文„wenn man mich ver­stan­den hat,“とあって、ここを安倍能成は初譯の「若し人々にして余の言を解するなら」(南北社p.51)から剩語を削って逐語的な「若し人々にして私を解したならば」(岩波文庫p.44​→改版p.41)に改訂したのだが、これ以外で「私を」にした邦譯書は先行の生田長江譯「或は人々にして私を理解してくれてゐるならば」(新潮社p.299​→日本評論社p.344)あるのみ、直譯調の三井信衛譯ですら「若し人たちが私の言ふことを理解してくれるなら」(p.40)であったし、却ってその後、小栗孝則譯では「私の言つてゐる意味が呑み込めれば」(p.41)、阿部六郎譯で「私の心が分つたならば」(p.30)、秋山英夫は幾分敬讓な「私の言ふことが分つて戴けたとすれば」(角川文庫p.149)を「わたしのいうことがわかっていただけなら」(河出書房新社p.337)に改譯、氷上英広譯では「私の言うことがわかっていただけら」(p.367)、川原栄峰譯は「私が今述べたことがわかっていただけたのなら」(p.34​→p.40)で手塚富雄譯は「わたしがいま述べたことがわかってもらえたなら」(pp.37-​38.)、西尾幹二譯が「私の言おうとすることが分っていただけたのなら」(p.140​/p.38)、丘沢静也譯「私が書いてきたことを理解してもらえるなら」(p.43)等々、みな(ひそ)かに對應原語が無い被修飾句を繼ぎ足しして、各人各樣定まりなく(アスペクト)を變化させてゐる。その次は、三章目の「なぜ私はこんなに良い本を書くのか」第一節で、初めの方に「聞かない」「取り違へる」と言ふ「序言」第一節の再言が見られ、前者„dass man heu­te nicht hö­rt,の譯は「今日人々が耳を貸さないこと」(秋山英夫舊譯p.179​→新譯p.356「かさない」)で十分だらうに、事實その線で譯した生田長江(p.331​→p.374)​・小栗孝則(p.86)​・阿部六郎(p.64​→p.58)​・土井虎賀壽(p.38)あるのに、原文に忠なる筈の安倍能成は初譯「人が今日聽かぬこと」(p.115)からの改譯で「人が今日私を聽かないこと」(pp.83-​84.​→​p.80)と原文に無い目的語を割り込ませてゐて、更に、川原栄峰譯が「今日誰もが私の説くことに耳をかさず」(p.63​→​p.76)と私全般から私の言葉へと絞り込むと(氷上譯p.378では直前にあるべきこの句自體が脱落して後續の竝行句「今日人々が私から受け取るすべを知らないということは」だけしかなかった)、後發譯も「誰もわたしのことばを聞かず」(手塚p.75)「誰も私の言を聞かず」(西尾p.163​/p.83)と追隨し、丘沢譯「今日はまだ誰も聞く者がおらず」(p.85)までは目的語無しに戻らなかった。しかし、同節後半に對句を成す„Wer Et­was von mir ver­stan­den zu ha­ben glaub­te,“竝びに„wer Nichts von mir ver­stan­den hat­te,“は、川原栄峰も「私を多少とも理解したと思い込んでいる人も」「私を全然理解しなかった人は」(p.65​→​p.79)と増減無く日本語に移し、西尾幹二譯(p.165​/pp.85-​86.)もほぼ同文。抄譯と云ふか半端な要旨に近い平野岩夫編ニイチエ『わが哲學』(〈あかね叢書〉大東出版社、一九三九年十月、p.75)を見てもこの部分は他の箇所に比べて原文離れせず「私のことを何か判つた積りでゐる人も」「私について何も解しなかつた人は」。嚴密には與格von mirと對應する日本語は「私を」よりも「私について」であらうが、それで雙方一律に調(ととの)へてあるのは字句通り「私について何物かを理解したやうに思つた人は」「私について何物をも理解しなかつた人は」と譯した生田長江(p.334​→p.376​・377)以外には、秋山英夫(舊譯p.181​・182​/新譯p.367)くらゐ。ほか、「私のことを/が」(阿部p.67​→​p.60丘沢p.87​・88)「私というものを/が」(氷上p.379)「わたしというものを」(手塚p.78)とはされても、ここだけはどの譯本(刊年順に十四種、安倍1913三井1924、生田1926、安倍1928改譯小栗1936阿部1942土井1950秋山1951氷上1960、秋山1965改譯、川原1967、手塚1969、西尾1987、丘沢2016。加藤1929選外)も「私の言ふことを/が」とはしてなかった。だがまた同章以下の自著解説集のうち「道徳の系譜學 一論爭文書」章末に出る現在完了形の平敍文„Man hat mich ver­stan­den.“――同文はその前月脱稿した『アンチクリスト』四九冒頭(前掲ちくま学芸文庫版p.244)で使用濟みゆゑ再利用――の譯文は、生硬な「諸君は私を理解してくれた」(安倍能成譯岩波文庫版p.171​→​p.163)から「これで私を分つてくれたことと思う」(阿部六郎譯新潮文庫版p.122)へと(こな)れさせるのはまだしも、「諸君には私の言ふ事もわかると思ふが。」(小栗p.179)「人々は私のいうことが分つた筈である」(土井p.87)「私の言うことがおわかりだろう」(川原p.128​→​p.155)と無くもがなの「言う」まで插んだり、逆に主語・目的語もろ共に略して「これでおわかりであろう」(氷上p.402、秋山新譯p.396)「わかっていただけたろう」(手塚p.162)「以上で理解して頂けたであろう」(西尾p.214​/​p.179)などと有耶無耶に處理したりされる。動詞まで譯し落としてすっかり闕文なのが丘沢静也(p.180)。そして最終章、「なぜ私は一個の運命なのか」第三節末の疑問形„Ver­ste­ht man mich?“は、お氣に入り文句だったのか使ひ回しなのか用例上は初例『道徳の系譜學』第三論文第一節から『アンチクリスト』六一ちくま学芸文庫版p.275)での再利用を經て三例目に當り、ここも、安倍能成譯ではそのまま簡潔に「人は余を解するか」(南北社版p.283)乃至「人は私を解するか?」(舊岩波文庫版p.194​→​p.185)だったのが(その點、安倍初譯の「簡潔」さに難癖つけた和辻哲郎『ニイチェ研究』「附録」は「不當」だらう)、生田長江譯では「諸君は私の言を理解するだらうか?」(p.419​→​p.459)だし、小栗孝則譯にて「諸君には私の言つてゐる事がわかるか?」(p.202)となり、阿部六郎譯でも「私の言うことが分るか?」(新潮文庫p.138)、殆んど等しく秋山英夫舊譯(p.259「私の言ふことが分るか。」→新譯p.407「わたしのいうことが、わかるか?」)が續き、やや慇懃に氷上英広譯が「私の言うことが、おわかりだろうか?」(p.408)とし、その讀點を除いただけが差分の川原栄峰譯「私の言うことがおわかりだろうか?」(p.144​→​pp.174-​175.)は同一の譯文を後出の同章第七・第八・第九節冒頭にまで適用(原文は異なるのに差をつけないのでは細心と言へまい)、岩波文庫新版の手塚富雄譯だと「わたしの言おうとすることがおわかりだろうか?」(p.183)、西尾幹二譯「私の言わんとする処はもうお分りであろうか?」(p.227​/​p.204)、丘沢静也譯は「私の言っていることがおわかりだろうか?」(p.206)​…​…と、説明調に膨らまされて文辭に即するより文義の講釋に流れる有樣、以上散發した波に乘って、遂に同章第七節以降の„Hat man mich ver­stan­den?“​⑩​⑪(前例は『道徳の系譜學』を除くとNF-​1885, 41​[7]​=『権力への意志 下 ニーチェ全集13一〇五一​・前掲p.526のみ)による疊句(リフレイン)三連發に至り第九節で掉尾を飾る――試みに私譯するなら「私は理解されたか」とか「私のことが解ったか」とかか。このフレーズに着目したニーチェ論は例へば、カール・バルト教会教義学』第三卷第二分册第二部十章 造られたもの 〈中〉」四十五節二 人間性の根本形式中に餘論の一つとして插入された長文があり(菅円吉・吉永正義譯『創造論 Ⅱ 造られたもの 中新教出版社、一九七四年一月、pp.66-​88.、尤もKröner版初ページ(序言第一節末)と最後の五ページ(終章第七〜九節)とから引くのみでその中間の類句は拾ってなかったけれど、見ての通り、これら各句節は相互に變換可能なヴァリエーションを成し、テクスト論用語で總稱すれば同位態イゾトピーなのであった。それが飜譯諸版を介して一層異文ヴァリアンツを増し、「私を」と直譯したり「私の言うことが」と意譯(でも意味が違ってゐる?)したり、譯者によってどころか同じ譯者同じ譯書でも、ぶれがある次第(これらの目的語をほぼ「私を」で押し徹した實例は安倍能成譯岩波文庫版のみ)。わけても終章の疑問文は第三節と第七・八・九節​⑩​⑪とで現在形か現在完了形かだけの差で、前年執筆の『道徳の系譜學』第三論文第一節では兩方ならべて隣り合はせにしてゐた文先頭に引用した通り)なのに、土井虎賀壽譯や秋山英夫舊譯に照らすと終章第三節で「私の言ふことが」と飜譯したmichが第七節以降「私を」にされて不一致が生じてをり(土井p.100「私のいうことが分るかしら?」→​p.103​・105「人々は私を理解したであろうか?」p.106「人々は私を理解してくれたであろうか?」/秋山p.259「私の言ふことが分るか」→​p.264​・266​・268「人は私を解したか」――秋山は新譯で「わたしのいうことが」の方に揃へてしまって氷上英広・川原栄峰・手塚富雄と同列になった)、理解すべき對象をここで言ふ事から言ふ者へと横滑りさせたのは生田長江・小栗孝則・阿部六郎・西尾幹二・丘沢静也でも同斷、michの本義へ舞ひ戻ってゐる。それなら初めから「私の言ふことが」とせずに「私を」乃至「私のことが」といふ譯で一貫させられないのか。活きた言葉ほど固定し難いのは百も承知、文脈に應じて多義に用ゐる語句は無闇に譯語を統一すれば濟むものではないと一般論としては言へるにしろ、しかし特に『この人を見よ』といふこの自敍傳風作品、「序言」第一節からして私は誰であるか川原栄峰譯p.11​→​p.13)と問ひを立てて各章題でも「私は」を執拗なほど連呼してゐるこの自意識過剩な書物においては、せめて、「私を理解する」(mich zu ver­ste­hen)が一卷を蔽って反復變奏されるモティーフだと解るやうな枠内に收めた言葉での譯し方が望ましい。どうにも上手く日本語譯に表はせない含蓄ならば強引に譯文に盛り込むよりは別に解を附するも可、語釋や解説を譯語に衍入すべからざることもまた原文を尊重する飜譯者の(わきま)へのはず。見た目は不粹でも、「私〔の言ふこと〕を」などと補譯は括弧内に插記して本文に紛れ込ませぬやうに仕切る手だってある。

かくて言葉に即する限り、如上各句でのmichといふ言葉は私の言ふこと(言葉)でなくそれを語る私に指し向けられてゐることが了解されようものの、さりとて、對象たるその私へと導く手懸りは書かれた言葉しか與へられてゐない限りで私を理解するにはまづその言葉の讀解を先立てるほかなく、それがひとを見紛はせる。はてさて、文は人なりや。「私は取違へられることを欲しない」(安倍能成譯『この人を見よ』「何故に私はかかる良書を書くか」一、岩波文庫版p.84​→​p.81)とは言っても、混同は避け難い。曾ては自己顯示慾を抑へて「私はichといふおぞましい序言ことばVor­re­de-Wört­chenが我慢できるのは、それに續く書物[序文後の本文]の中に出て來ないといふ條件の下でのみです」(一八八六年八月廿九日附​・W​・フリッチュ宛書翰追伸)と嘯いたこともあるニーチェだが(もっと前、NF-​1869, 2​[27]では、今後序文で私について話題にすまいと言ってゐたが)、『この人を見よ』ときては箍が外れたかのやうに「私」が溢れ出て、いよいよ私と私の書き物との異同を見分けづらくさせる。そもそも、言を解することで能く人を解し得るものかどうか、私のことは理解されなくとも、言ふことが理解されただけで上首尾だらうが。むしろ私の言ふことは私を超えた意味を帶びてしまふであらう、獨り私個人にのみ屬する私的言語でなく共用される語彙​・文法​・慣例(con­ven­tion)から成る以上は。「作者たるものは、その作品が語り出すとき、口をつぐまねばならぬ」(人間的、あまりに人間的 第一部 さまざまな意見と箴言一四〇*1前掲ちくま学芸文庫版p.108。Cf.仝一五六、p.117)と言へる如く、もはや言語作品は作者の聲に語られるのではなく言葉自ら作動するに任され、書く者の手を離れても讀み手それぞれにおいて作用し續けるであらう(Cf.『人間的、あまりに人間的 二〇八本がほとんど人間になっている」、*1前掲ちくま学芸文庫p.221)。さう、言語を前にしたら私な知ったことか、誰が話さうと構ひはしない、既に言葉にされたからには!――Was lie­gt an mir!(「私に何のことがあらう!NF-​1880, 7​[45]7​[102]=『生成の無垢』一〇八〇​・*1前掲ちくま学芸文庫版p.560相當、7​[126]=仝一〇七九​・​p.559相當、7​[158]7​[181]『曙光』四九四五四七『悦ばしき知識』三三二NF-​1884, 31​[13]1885, 2​[183]=『生成の無垢』一三〇八​・前掲書p.686、cf.『曙光』二七〇、『善惡の彼岸』二三)…​…この一句は、漢文脈の反語疑問「何有於我哉(なにかわれにあらんや)」(『論語』述而第七、『十八史略』卷一「帝堯陶唐氏」)に似て異義紛々、謙讓な「私などどうでもいい」(例、ワーグナー『タンホイザー』第二幕第四場から驕慢な「私には何でもない」まで幅のある色合ひ(ニュアンス)に解される言ひ回しだが、意味深長で應用が利くこの文句をニーチェは自分に氣合ひを掛けるため日々復唱したさうだし(一八八〇年十月三十一日附F・オーヴァーベック宛葉書)、これと竝んで共にストア學派に學んだと言ふ成語「それになんのことがあろうか„was lie­gt dar­an?“​(『生成の無垢五九一​・前掲書p.386=NF-​1881, 15​[59]――エピクロス式慰め「それは我々に何の關はりも無い」(『人間的、あまりに人間的 第二部、cf.神崎繁『ニーチェ』前掲書p.59及び『ツァラトゥストラ』第二部「至福の島々で」章末34)の再定式化か――も分身たるツァラトゥストラ決まり文句「それになんのことがあろう!」(第四部「醉歌異題夜にさすらう者の歌」]・7段末尾、『ツァラトゥストラ』前掲ちくま学芸文庫版p.333)となり、その書には「おまえの一身などに、なんのことがあろうWas lie­gt an dir=何がお前に懸かってゐるのだ]、ツァラトゥストラよ! おまえの言葉を語り、そして砕けよ!」(『ツァラトゥストラ第二部最も静かな時22段、ちくま学芸文庫版p.266。Cf. NF-​1883, 10​[35]及び13​[3])との臺詞(せりふ)もあったのだった。恐るべき言語が前面に出る時それを口に出す者は碎け散ってしまふ、と。傳記上のニーチェ發狂に歸結させたくなる所だらうが、その前に、即ち一八八九年一月三日トリノ街頭昏倒事件より一週間前の書信で、既に私は問題でなくなったと綴られてゐた(そのまた一年前の歳末書翰群、一八八七年十二月十四日附カール・フクス宛第一段落=ちくま学芸文庫版書簡集Ⅱ278​pp.128-​129十二月廿日附ケーゼリッツ宛末段同日附ゲルスドルフ宛第一段落中程=ちくま学芸文庫版書簡集Ⅱ279​p.131等とも多少文面が似通ひ、過去までの自分を持て餘しつつ片をつけたがる態度は精神錯亂前からの反復強迫みたいだが​…殊に新年を迎へる前頃には毎年過ぎ越し方を省み直す風なのだが)。

331 カール・フクスへ  〔トリーノ〕一八八八年十二月二十七日

拝啓。いろいろ考えてみますと、これからはもう私のことについてüber mich​≒私を超えて、私以上に、の意も懸けたか?]喋ったり書いたりすることは、すべて無意味となりました。いま印刷中の『この人を見よ』という著作とともに、私は自分が何者であるのかwer ich bin=私は誰であるか]という疑問を今後永遠に取り除いてしまったのですad acta ge­legt=解決濟みとした、不問に付した、棚上げにした。今後、人びとは私のことでum mich=私をめぐって]心を(わずら)わすべきでなく、私がそこに存在する理由である事物(もの)のことで、心を労わすべきなのです。

塚越敏譯「ニーチェ書簡集 Ⅱ」『ニーチェ書簡集Ⅱ 詩集 ニーチェ全集 別巻2』〈ちくま学芸文庫〉p.275

我執と自己放下とが言語において表裏飜轉する――否、言語さへも?​…​…「われは一個の言葉製造者(づくり)Wor­te-ma­cher=饒舌家、法螺吹き・大口叩き]にすぎず、/言葉に何ほどのことあらん!was lie­gt an Wor­ten!/われに何ほどのことあらん!」(中島義生譯「詩集」中「五 ディオニュソス頌歌のための断片33、前掲『ニーチェ書簡集Ⅱ 詩集』p.540=NF-​1888, 20​[157]ほぼ同文がNF-​1884, 29​[55]=フリードリヒ・キットラー大宮勘一郎・石田雄一譯『書き取りシステム 1800・1900』Ⅱ「ニーチェ」、インスクリプト、二〇二一年四月、p.362所引。Cf.『道徳の系譜學』第一論文第九節)。これぞ、「ニーチェがすでに一世紀ほど前に示してくれた事実」、「つまり記号(シーニュ)のあるところに人間はあり得ず、記号に語らしめるところで人間は沈黙せざるを得ないという事実​…​…(M・フーコー「ミシェル・フーコー『言葉と物』」廣瀬浩司譯、*5前掲『ミシェル・フーコー思考集成 』p.311​/レーモン・ベルール「ミッシェル・フーコーとの対話 ――その一――」『構造主義との対話』p.103。福井憲彦譯「歴史の書き方 『言葉と物』をめぐって」前半「『言葉と物』をめぐって」『actes(アクト)』3、p.167相當)。

或いは、これをしも言語論的轉回(の先驅)と評すべきか、ニーチェによれば近代哲學では俗流デカルト主義に抗して「我Ich」とは思惟の先行要件ではなく恰かも「文法と文法上の主語を信ずるように活動から逆にそのあるべき原因として主體(Sub­jekt=主觀/主語)が合成されたのではないかとの疑ひがあったし(『善惡の彼岸』五四*1前掲ちくま学芸文庫版p.102。Cf.『善惡の彼岸』一七​・仝p.41、仝二〇​・pp.45-​46、三四​・p.73、NF-​1885, 35​[35]​→抄出改稿38​[3]=『権力への意志四八三・前掲書p.28、36​[26]=『権力への意志五四九・仝p.80、38​[14]40​[11][16][20]40​[23]=『生成の無垢』一七六・前掲書pp.103-​105、1885, 2​[139]後半=『権力への意志六三一・前掲書p.159、2​[193]=『権力への意志五四八・仝p.80、1886, 4​[8]1886, 7​[1]末の一部抄録=『生成の無垢』二三四・前掲書p.142、1887, 10​[158]=『権力への意志四八四・前掲書p.29、『道徳の系譜學』第一論文第十三節ちくま学芸文庫p.405)、そのことは、次世紀の言語學側から論を進めたらエミール・バンヴェニストの有名な定式「ことばにおいて,そしてことばによって,人間はみずからを主体 su­jetとして構成する」(高塚洋太郎譯「ことばにおける主体性について岸本通夫監譯『一般言語学の諸問題みすず書房、一九八三年四月、p.244)に通ずる。まう少し噛み碎いた言ひ方だと、「わたしを口に出す唯一の人物per­sonne=人稱、人格]として自己を同定するs'i­den­ti­fiant=一體化する]ことによって,おのおのの話し手は,かわるがわるみずからを《主辞su­jet=主語]》の位置に置くのである」(仝「代名詞の性質」p.238)からして、畢竟「《我e­go》と言うものが《我》なのである」(p.244)。無内容な同語反復(トートロジー)に聞こえるのは自己言及する循環過程を通じて主體が成り立つことの反映だが、自稱詞は普通名詞と違ひ、言語記號とその指向對象との關係を扱ふ意味論に屬さず、その使用者との關係を扱ふ語用論の問題圈に入る以上、「わたしは、名詞的記号の場合のように対象の用語en termes de=〜の點から、〜の面において]ではなく、《話し方 lo­cu­tion》の用語によってしか定義することができない」(p.235)。そも「わたし」は「人称の指示子in­dica­teur=指標]」(p.237)として「これ」「ここ」「いま」等の指示詞(dé­mons­tra­tifs――ロマーン・ヤーコブソン『一般言語学みすず書房、一九七三年三月、p.152)では「転換子」(shift­er​/佛譯em­bra­yeur)、現代言語學の術語ではダイクシス(deix­is直示)と稱する範疇――を含む「《虚》記号の集合」(p.237)の中心を占めて主體性を成すこと、その空虚な中心である「《虚》の形」(「ことばにおける主体性について」p.248)は現に發動中の言述(ディスクール)それ自體の内でその都度毎に遂行的(パフォーマティヴ)に滿たされるしかないことは、特に『一般言語学の諸問題』中 言語における人間」の諸論考が再三説いた所で、「話し手が自分を《主辞》として言表するのは、わたしが話し手をさして言っている()dis­coursの現存in­stanceにおいてである.[…]この点を十分に考えてみるならば,主辞の同一性の客観的な証言は,主辞がこのように自分で自分のことを語る証言以外にはないことがわかるであろう」(p.246)。これを踏まへてロラン・バルト作者の死は「わたしとは、わたしと言う者にほかならない」(花輪光譯『物語の構造分析みすず書房、一九七九年十一月、p.83)と言ひ換へた。つまり(對偶)、「私」と言ふのでなければ私にはならない――言表(エノンセ)の主語であることでしか言表行爲(エノンシアシオン)の主體たり得ない。常識論の順序を覆して、人格としての私が先づ在ってその者が「私」と言ふ言葉を發するのではない、「私」と言ふ一人稱代名詞を行使する出來事としての談話(ディスクール)の中でその主語=主體として私が出來る、主體が言葉を生むのでなく言葉が主體を作る、と敷衍したいわけだ。因みに「話す」のラテン語(lo­quor, for)は活用形に能動態が無く中動態のみの動詞類(形式所相動詞)の一例に擧げられ、それらにつき中動態の場合,主辞は,[動詞が表現する動きの]過程の場所であり,[…]主辞〔の表わす主体〕が,主辞自身の中で成し遂げられる何事か[…(話す、等)]を成し遂げるのである」(矢島猷三譯「動詞の能動態と中動態」『一般言語学の諸問題部、p.170)と規定したのもバンヴェニストであった。もしこれに能動形を與へれば、主語は過程の外に立つ動作主となり、もはや主語を場としなくなった動作過程はその目的語(對象)となる他の辭項に轉移され、斯くて他動詞は中動から能動への轉換の所産なのだとか。逆から見たら、自分で自分を作用(アクション)の對象(目的語)に含むのが中動態の動詞であり(故に機能上は再歸動詞に類比される)、「みずからもその影響を被りつつ事を行なうil ef­fec­tuer en s'af­fec­tant=自ら變状しつつ實行する]」(仝p.171)所に外部へ働き掛けるだけの單に能動的(アクティヴ)な他動詞との對立がある。話すことで主體化するとは、その話す過程に卷き込まれて自己變容が起きてゐるのだ(Cf.小野文誰が話しているのか?――エミール・バンヴェニストの言語思想における異質な話し手の相貌」『慶應義塾大学言語文化研究所紀要』第54號、二〇二三年三月、p.17​・23)。尤も、主語と主體、語られる「私」と語る私がどれほどズレ無く重なるのか、「指向する者ré­fé­rentとしてのわたしの現存と、指向される者ré­fé­réとしてのわたしを含む()の現存」の二重性(前掲「代名詞の性質」p.236)は分裂を潛めてゐて、必ずしも主體性への統合に成功しないが。バンヴェニスト(仝p.235相當)を引照するアガンベンであれば、共有言語體系と個別發話實踐との裂け目に注意しつつ「言語から()〔言述行為〕への移行は、よく見ると、パラドックス的な行為であり、その行為は主体化と脱主体化をともに含んでいる」(上村忠男​・廣石正和譯『アウシュヴィッツの残りのもの――アルシーヴと証人』315月曜社、二〇〇一年九月→二〇〇四年七月第三刷、p.157)とか云ふところ。別言すれば「[…]主体化の流れと脱主体化の流れ、生物学的な生を生きている存在が言葉を話す存在になる流れと言葉(ロゴス)が生物学的な生を生きている存在になる流れがたえず通過する。これらの流れは、外延を同じくするが、一致することはない」(仝324p.184。Cf.10、p.214)。ここで主體とは主體化する主體ばかりでなく「脱主体化の主体」(仝p.146​・192​・204)でもあって、例へばカント(『純粹理性批判』B152​-156)が論じた自己觸發(Selbst­af­fek­ti­on)の場合のやうに「受動的な主体は自分自身の受動性にたいして能動的でなければならず」(312、p.147)、ならば同樣に、客體化されることに主體的であるやうな、謂はば、私でなくなる「私」が言葉の流れに浮き沈みしてゐる樣を見殘さぬやうにしなくては…​…。フーコーだったら「脱 - 主体化の企て」に關しニーチェ(やバタイユ、ブランショ)の名と共に言ふだらう、自らを自分自身から引き離すこと、己れが同じ儘であるのを妨げること、と(増田一夫ミシェル・フーコーとの対話ドゥチオ・トロンバドーリと。『ミシェル・フーコー思考集成  1979​81 政治/友愛筑摩書房、二〇〇一年九月、p.196)。どうかこの邊、餘りにも一般化して「自分をあるが儘でない別ものau­tre qu'il n'est≒自分以外の他者]と思ひ做すやうに人間に分かち與へられた力」(ジュール・ド・ゴーティエ『ボヴァリスム』一九〇二年初刊)と定義されたロマン主義風の夢想癖と一緒くたにしたり、體のいい成長小説(ビルドゥングスロマン)流に「自己自身であるためには常に自己を超え出て行かなければならない」(W・メニングハウス/伊藤秀一譯『無限の二重化 ロマン主義・ベンヤミン・デリダにおける絶対的自己反省理論』「あとがき ロマン主義的詩的反省理論の文学史および社会史的指標について」、〈叢書・ウニベルシタス〉法政大学出版局、一九九二年二月、p.284)などと自己實現を目指す教訓譚に納まり返ったりはせぬやうに願ひたいものだ。――(私の)言ったこと、お解りいただけただらうか。

「ちっともわかりません! 先生!」――では、初めからやり直すことにしよう。

木場深定譯『道徳の系譜』第三論文「一」結句、前掲書p.118

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【書庫】書評集 > 問題群としての歴史思想史?――須藤訓任『ニーチェの歴史思想――物語・発生史・系譜学――再讀

刊記

發行日 
2021年7月21日 開板/2024年4月25日 改版
發行所 
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編輯發行人 
森 洋介 © MORI Yôsuke, 2021-2024. [livresque@yahoo.co.jp]
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