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このプロブレマティックはその根底において、現実の歴史的な問題を哲学的な問題に
ルイ・アルチュセール「若きマルクスについて――理論上の諸問題」原注*44(河野健二・西川長夫譯『マルクスのために』〈平凡社ライブラリー〉一九九四年六月、p.143)歪曲 している。――彼らはある問題に触れていた。しかしそれを解決してしまったと思い違いすることによって、解決の障碍物をつくり出した。
ニーチェ『曙光』四七「言葉がわれわれの妨害になる!」(茅野良男譯〈ちくま学芸文庫〉一九九三年九月、p.64)
須藤訓任『ニーチェの歴史思想』に近刊豫定で目を着けたのは、まづは書名からだったらう。既に榎並重行『ニーチェって何? こんなことをいった人だ』(〈新書y〉洋泉社、二〇〇〇年五月)を讀んでも、ニーチェ遺稿斷片(Nachgelassene Fragmente-1885, 38[14])*1から掻い摘んで「学問としての哲学は、全部歴史だというんだ」(p.31)と説く箇所に嬉しくなってしまふ讀者としては――。むしろ、「神の死」「ツァラトゥストラ」「永劫回歸」「力への意志」等の決まり文句と共に語られる所謂「ニーチェ」には讀む氣そそられない。
都立圖書館に入るの待って區立圖書館へ取り寄せ借覽、二〇一二年四月十一日を以て讀み了ると共にソーシャル・ライブラリー(ウェブ本棚の一種、二〇一八年以降稼働してない)に讀後感を記した。素っ氣無い短文なので、當時はさして感銘を受けなかったやうだ。以下その全文。
読了 2012/04/11
奧附には「2011年12月28日 初版第1刷発行」とあるが、實際に出たのは遲れて翌一月か。
ニーチェの著作中の相互に矛盾すると見える點を、前期中期後期と思想の發展上に割り振ってうまいこと説明してある。しかしどうも哲學の人の考察は、何か物足りない。期待しすぎたか。哲學者であるよりも文獻學者であるニーチェに即してくれると好みなのだが。
著者の「屋根から瓦が……――必然・意志・偶然」(『新・哲学講義 3 知のパラドックス』岩波書店、一九九八年一月)は惡くなかった筈だのに、本書五章で偶然と必然を述べるくだりではその議論を全く參照しないのは、不審。
http://www.sociallibrary.jp/entry/4872593898/m.3820946/
右文中「前期中期後期と思想の發展上に割り振って」云々にはいささか皮肉を含む*2。著者自身は斯く語る。
[…]ニーチェは二〇歳代半ばから四四歳時の発狂にいたるまで、哲学者として活躍しえた約二〇年の間、その思想を根本的なところからさまざまに転変させた。通常、その思想的変遷は、二〇歳代後半から三〇代前半の前期(一八六八、九年ごろから一八七六年頃まで)、三〇歳代中盤から四〇歳の手前の中期(一八七七年から一八八一年まで)、四〇歳少し前から発狂までの後期(一八八二年頃から一八八八年末まで)に分類される。本書においても、基本的にこの時期区分に則りながら叙述が進められる。第一、二章は前期、第三章は中期、第四章から第六章までは後期の「歴史」思想を取り扱う。
『ニーチェの歴史思想』「序文 歴史思想家としてのニーチェ」p.17
構成上の分量(割かれた章數)と位置(全四三一ページの中程、pp.163-265.)だけから見ても本書の中心を占めるのは「後期を取り扱った第四章から第六章まで」だが、これには「後期のこの「歴史方法論」[『道徳の系譜學』第二論文第十二節の語]にこそ、歴史に関するニーチェの思想全般において、最も注目すべき独自の観点が展開されていると、筆者としては評価したいからでもある」(p.18)との但し書きが附く。實質の量は本論六章以外の補論四篇も入れると「補論3」(pp.327-402.)が本書中の最長篇といふ不均衡っぷりなのだけれど、これも最も關聯するのは第五章にだから、やはり重點は「後期」にある。ただ、三期に劃するのはニーチェ論の通説らしいが、何を以てさう分けたのかはつひぞ讀者に知らされない――三分説はルー・サロメ以來の踏襲だらうが、五段階説のアルフレート・ボイムラーなんかもゐたし(渡邊二郎「15 ニーチェ思想の展開過程――三段階説をめぐって」渡邊二郎・西尾幹二編『ニーチェを知る事典 その深淵と多面的世界』〈ちくま学芸文庫〉二〇一三年四月、p.134)、また四つの基本モティーフで時代順の章構成にしたオイゲン・フィンク著あり、エーリッヒ・ポーダッハに準じて精神崩壞期を別立てにするのも一案だらう……。どれをなぜ節目とするか次第で區切りも變はってくるものを、基準不明なその分け方を當然の前提とされたままそこから天下り式に時期ごとの違ひも語り出されると、何だかひと頃の史學で盛んだった發展段階論を當て嵌める圖式主義の臭ひがせぬでもない。最終結果となった「後期」に至る行程の通過點として前期・中期が顧みられようものなら猶更に。事實、「あとがき」中に列記された初出一覽(pp.419-421.)を見ると、補論3(一九九六年)・補論1(一九九七年)は別として本論は、第四章(二〇〇〇年)、第六章(二〇〇一年)、第五章(二〇〇三年)の順に先行し、後から第一章(二〇〇七年、二〇〇四年――p.420に「二〇〇三年」とせるは誤記――)や第三章(二〇〇七年、二〇〇五年。一九九三年初出に基づく「四 「持続性」の問題と「よきヨーロッパ人」」は除く)が成稿、最後に第二章が書き下ろされたと判る。「後期」から遡及する方向で成立し、それを顛倒させ對象の年代順に列べ直したのが本書の構成である。歴史認識は往々にして倒敍法の逆轉を密かな先導とする。
文學者の活動を何期かに分けて發達史風に變遷を辿りながら對應する著述を見てゆくのは作家論の常套手段であり、思想家を扱ふ思想史でも同樣、要は著作者の履歴(personal history=個人史)を據り所にする時系列順の整序で、historyに履歴とも譯される語義があるからには、それも歴史主義流ではある。日本語で歴史と云ふ言葉は規模でも時間の長さでも個々人を超えた集團や時代についてでないと用ゐられにくいのに對して一個人の生涯に限局してはゐるが、言ふなれば縮小版の歴史主義があるわけだ。もしくは歴史主義の斷片化。「塊のままの歴史主義は、もはや手にあまるし、かえってウサン臭い。」「そこで、歴史主義にも、砕いて細かく(流行の言葉でいえば脱構築)という手法が、効用を発揮することになる」(榎並重行・三橋俊明『流行通行止め 現代思想メッタ打ち!』025、JICC出版局、一九八七年十月、p.35)。そして往年の歴史學において時代區分論が論議を喚んだやうに、斯かる傳記上に設定される時期區分(
著者は觸れないが、總題を『ニーチェの歴史思想』と名づけるのなら夙に『ニイチェの歴史哲學』(ヴォルフガング・・シュレーゲル/河合昇譯、愛宕書房、一九四二年八月)といった先行の類書もあり、歴史理論の方面で著名なヘイドン・ホワイト著でもニーチェに一章を割いてゐるし(岩崎稔監譯『メタヒストリー 一九世紀ヨーロッパにおける歴史的想像力』作品社、二〇一七年十月、「第9章 ニーチェ――隠喩の様式における歴史の詩的弁護」)、細かく掘り出せば抄譯『ニーチェ哲学の原景』(J・P・スターン著/河端春雄譯、啓文社、一九八七年二月)では省かれてしまってゐたものの原書には「觀念を歴史化する」と題する章も挾まれてゐたりして、それにも拘らず、ニーチェにおける思想群を歴史論に
「ニーチェの思想と言えば、歴史と関係付けられることは比較的少ないかもしれない。[…]事実、ニーチェが正面から歴史を論じた書物は『反時代的考察』第二篇「生に対する歴史の利と害について」くらいであろう」(p.6)とは本書でも認める所。しかも「利害について」*3と併稱しながら利點にもまして弊害を述べ立てた歴史主義批判として名高い。この一八七四年初刊の書に刻みつけられた反歴史主義者の像を「歴史思想家としてのニーチェ」に反轉させようとするならば、まづは『人間的、あまりに人間的』初卷(一八七八年刊)以後に目に着く歴史に關する肯定的發言を見直すべきことが必須、それにはニーチェが側面からでも歴史に論及した文言の總捲りが期待されるけれど(眞っ當にこの基本工程からこなしたニーチェ論が管見に入らない)、そこは期待外れでも、初期から晩期まで「歴史に関するニーチェの思想は、基本的立場の変遷につれてさまざまに変化してゆく」と見て「本書の意図はこの思想的変遷を――変遷の内在的理由ともども――追跡することにある」(p.9)と課題設定するのは頷ける。「[…]それはまた「歴史」認識の問題性の深化の過程と形容してよいものである」(p.9)。深化か表面化か、如何なる問題化かはさておき、「生に對する歴史の利害」の著者が考へを改めたとしなければ歴史思想家と見做すのは難しい以上、ニーチェ思想には時期による變化が、つまり「歴史」がある、と言ひ直してもよいわけ(歴史思想にも歴史がある……)。歴史に因果説明が求められるのと同樣に、この『反時代的考察』第二篇から『人間的、あまりに人間的 Ⅰ』への變説、「前期」から「中期」以降への思想轉向に對し、どういふ事由あってのことかといふ問ひが立つ。但しその追跡で「内在的」と限定した理由はいかがなものか、頭から内因性の遷移と決めて掛からずとも、變轉が外在的偶因による動搖である場合だってあらうものの、恐らく内面化しないと思想論や哲學研究にならぬと思はれてゐるのだらう。外發的影響から逃れた思考の自立を夢見るのは哲學者らしい振舞ひだが、外部環境拔きに自足させる考察は内部論理を捏ねくり回す手に頼りがちで、歴史が相手だと、前成説風に内發因子を入れ籠めて初期變動を後年の到達點の萌芽・胚胎・豫兆と解したり、變化に一定傾向の増大を假定して發展・發達・成長等と稱したり、兎角、變はったと云ふのに一貫する連續性ばかりに見入って變化の變化たる所以を見損なふといふ奇妙な逆理に嵌まりやすい。これまた歴史を論ずる者は心すべき所。
同じくこの第二反時代的考察への引照から始めたのが歴史認識論をめぐる拙文「アナクロニズム」で、二〇一〇年一月に書き上げて自サイト【書庫】に公開してゐたが、本書を讀了後その註疏*3に攝取し、「第二章 問題群としての「生に対する歴史の利と害について」」を參照して加筆した。と言っても同章中「二 「正義」の問題」p.91所引の譯文を參考にしたに留まり、須藤著の論旨には及ばなかった。因みに、その須藤譯の引用文は「生に對する歴史の利害」六の一節を「単純性が深遠性をとおして、また深遠性が単純性をとおして見渡されてくる」と譯し、「見渡され」は原文の動詞übersieht(三人稱變化形)が英語overlookに似て「見通す」とも「見逃す」とも二樣に譯せるのを良い意味の方で解釋したものだが、「見はるかす」とした井上政次譯(『反時代的考察 上卷』「第二編 生にとつての歴史の利弊について」、〈岩波文庫〉一九三五年三月、p.184)以外は從來の譯書では「見落とす」(*1前掲『反時代的考察』ちくま学芸文庫版p.180)等と惡い方にばかり取られ、
二〇二一年六月になって再讀の機があった。木田元『マッハとニーチェ 世紀転換期思想史』(新書館、二〇〇二年→〈講談社学術文庫〉、二〇一四年)のやうに思想の近似が語られてきた兩者の、影響なのか獨立發生なのか判然としない關係について詳細を知りたくなり、それには本書「第五章 「歴史精神」とは何か――ニーチェとマッハ」と「(補論3) ニーチェの「経済」思想――アヴェナリウス―マッハによる「あとからの影響」」とが役に立ちさうだからだったが、つまり何が書いてあったかは最早記憶に無かったので讀み直さざるを得なかったのだ。再び頭から一册全部讀過したら他にも得る所があって、既に朧氣になってゐた初讀時の印象と違った。こちらがその後ニーチェ讀解を進めてゐたからだらうか。同じ書物でも讀む者次第で讀み取ることは變はる、時としてその讀者が同一人物であってさへ。或いは、「M・ゾンマーのいう「あとからの影響 nachträglicher Einfluß」」(「補論3」p.371)……「すなわち「自分の思考のうちですでに獲得されていたか獲得間際になっていた洞察を加速し、確証し、表現手段の不備を是正するという触媒的機能」(強調―須藤)」(p.372)が作用したのかしらん。
二度目に讀んだ成果は、重ねて補筆した拙文「アナクロニズム」の第八節、第十節、註疏*9に攝り入れた。しかし勿論、そこに盛り込めなかったこともある。ひとは書く以上に讀むのだから。讀んで腹膨るる思ひとなれば一端なりと漏らしたくなって、喋ったり書いたりすることもあらうもの。時にそれを書評と呼ぶ。
本書への書評で、著者の門下であるらしい竹内綱史は「その白眉は何と言っても第4章と第6章であろう」(「《書評》須藤訓任『ニーチェの歴史思想――物語・発生史・系譜学』」『メタフュシカ』第43號p.119)と判定する。公刊後に審査受けた博士論文要旨にも「その主眼点は、後期ニーチェを取り扱った第四章から第六章において論究された、「伝統」と「同時代」の対自化という意味での「歴史方法論」にある」(p.4)と見える。いま、須藤訓任「時代の「根源」へ――ニーチェの視圏より」(日本現象学会編『現象学年報』17、二〇〇一年十一月)の前書き(p.109)を讀むに、二〇〇〇年十一月日本現象学会(第二十二回研究大會)パネル・セッション「歴史と根源」における發表原稿の再録である同文全二節のうち、「1.『道徳の系譜』」と「2.『ワーグナーの場合』」とを「それぞれ分量を数倍に拡大した形で、詳論しなお」したのが第四章・第六章の初出に當る由で、また、第六章初出では註ⅰに第四章初出を參照して「本稿は当初より同論文と一体をなす、その姉妹編として構想されている」(「同時代の「根源」へ――ニーチェ『ワーグナーの場合』を読む――」大谷大学哲学会編『哲學論集』第47號、二〇〇一年三月、p.54→本書では削除)との附言があり、特に評價されるこの二つの章は元もと
實際、本書所收のうち本書以外の所で讀んだことあるのは「第四章 認識者の系譜学――「時代」という名の自己」だけだったが、初出の『思想』二〇〇〇年十二月號「ニーチェ」特輯(岩波書店)の中では最も我が關心に訴へて面白かったものだ。第五章ともども『道徳の系譜學』が論じられてゐる。第四章初出で「機会を改めて論じることにしたい」(→本書p.166)とお預けにされた『ヴァーグナーの場合』についても、本書「第六章 同時代の「根源」へ――『ヴァーグナーの場合』を読む」で讀むを得、「現代」批判として重視する所以は理解できた。尤も「なぜ、ヴァーグナーなのか」(第六章「三 「楽士」の「拡大鏡」――「哲学者」の「やましい良心」」p.242)になると、果たしてそこまで特筆して時代の代表者扱ひせねばならぬのか、ワーグナー樂劇に興味薄く碌に聽いたこともない身では同感しかねるのだが。リヒャルト・ワーグナー拔きの十九世紀史なぞ歿後幾らも書かれてゐようが、同時代人にとってはまた違ったとかか? 須藤については「著者の並々ならぬ音楽愛好ぶりがうかがわれ」と前著『ニーチェ 〈永劫回帰〉という迷宮』(〈講談社選書メチエ〉一九九九年九月)への書評(大河内了義、大谷学会『大谷學報』第七十八卷第四號、二〇〇〇年二月、p.20)にあったから、クラシック音樂趣味からして當然とされたのだったらその趣味無き者には理解を得られぬのもまた理の當然であらう。聽く以外に文筆家としての論著を讀まうにも、藝術作品でないと受けが惡いのか、邦書『ワーグナー著作集』(第三文明社、一九九〇〜九八年)は全五卷豫定が1・3・5卷を「第一期」として出した切り杜絶、未刊分二册の編譯論文集は十數年後に他社から出て補はれる始末にて(三光長治監譯『友人たちへの伝言』『ベートーヴェン』法政大学出版局、二〇一二年一月/二〇一八年八月)、讀者に縁遠いのは日本語圈だけでなく、本國でも理論面の著作については「専門の批評家でさえ無知であることが多かった。」「無理解や無関心と無縁でない」(三光長治「あとがきに代えて――書斎人・ワーグナー――」『友人たちへの伝言』p.462・463)とのこと。讀めば青年ニーチェに與へた「思想的・理論的影響」に氣づかされるやうだが(高橋順一『響きと思考のあいだ リヒャルト・ヴァーグナーと十九世紀近代』Ⅲ、青弓社、一九九六年十二月、p.74)、思想史上におけるそれら論考群と中年ニーチェのワーグナー批判との對質はなほ審らかでない――例へば、綜合藝術論「未来の芸術作品」初章に「だが、誤謬は認識の父である」(藤野一夫譯、『友人たちへの伝言』p.64。Cf.高橋『響きと思考のあいだ』p.98)と言ふ邊りを結び目にしてヘーゲル左派・フォイエルバッハからワーグナーを經てニーチェ(NF-1880, 6[441]、1881, 11[162]=『生成の無垢 下』九九・*1前掲書p.75、11[325]=『仝』六〇・pp.46-47.、1887, 10[159]=『権力への意志 下』五四四後半・*1前掲書p.78、等)にまで及ぶ哲學史の伏流が考へられさうなものだが――。さうした障壁を乘り越えてワーグナー論の意義に説得力を持たせる程ではなかった第六章に比べると、やはり第四章が
眼目となる第四章を初出と校合してみたら、ニーチェ著の書名『悦ばしき知識』『道徳の系譜』『ワーグナーの場合』を『愉快な学』『道徳の系譜学』『ヴァーグナーの場合』に改めたり、傍點(胡麻ルビ)による強調を太字ゴシック體に變へたり、通例二字分竝べる三點リーダー「……」を奇妙にも「…」一箇に約めたり、その他小さな調整はあっても、「ほぼ発表段階のままのもの」(「あとがき」p.419)に該當すると言ってよい。細かく見れば、初出での誤植が訂正された箇所(「流れに掉さし」→p.176六行目「
本書第四章第二節によれば、一八八七年刊『道徳の系譜學』の第一論文「「善と惡」、「よい(優良)とわるい(劣惡)」」(„Gut und Böse“, „Gut und Schlecht“.)にて「ニーチェは[…]キリスト教道徳の支配圏から抜け出」て「それとは異なった、それに先立つ価値判断なるものを提示した」のだが、そこに問題が生じると須藤は言ふ。
[…]それも結局は、現在のなんらかの道徳の投影でないという保証はどこにあるのか。もしその保証がないとしたら、[…]
第四章「二 「起源」と「現在」の癒着」p.177
ここは、その保證が次節「三 「語源学」の物証」で明かされるのに備へての伏線で、初出(p.83)では「[…]投影でしかないという懸念はどのようにしたら払拭できるのか、もし払拭できないとしたら」となってゐた。この改稿はまるで、懸念は拂拭し切れないけれど保證ならできると言ふかのやうだ。保證する方が確度の増す分だけ大變さうなのに? 保證があってもまだ何か危疑の念が殘るのか? 内心の搖らぎを無理に強い言葉で塗り潰してないか? むしろ根深い不信感こそ批判力の證しだったのでは? ……かうして讀み合はせるとこの部分は、正に、表層の本文の下に抹消した異文が覆はれてゐるパリンプセスト(重ね書き羊皮紙)なのだ(この隱喩、ニーチェでは「生に對する歴史の利害について」三に用例あり)。――文意に大差は無い、が、これは後に響いてくる所である。「いったいニーチェは現在の道徳を相対化する視点を手に入れることができるのだろうか」(第四章二p.177)。
校正癖の然らしむる所、瑣末な言句に拘泥し過ぎかも知れない。しかしそれは本書の著者の手法でもある。竹内綱史が評して言ふには、「特徴的なのは、ニーチェの文章や表現から読み取れる(一見些細な)違和感に、徹底的にこだわる読解であろう。普通なら読み飛ばしてしまうような表現から、その著作全体、さらにはニーチェ哲学全体の理解を大きく変えてしまうような読解が導き出されるのだ」(「《書評》須藤訓任『ニーチェの歴史思想――物語・発生史・系譜学』」p.121)。顰みに傚ったわけではないが、また一點突破からの全面展開に成功するとも限らないが、もとより文獻學的(philological)とも呼べる
要するに、歴史や世界事象に立ち向かう自身の知的営みが文献学に比せられる精密な「読み」の方法に基づいているばかりでなく、その方法による探求の成果としての彼の著作もまた、辛苦をきわめたドイツ語彫琢の結果、言葉の語間に織り込まれた襞のいちいちをのびひろげられないことには十分な理解の不可能な、その意味でまさに文献学の対象とならざるをえないような言語作品となっている、というのである。
須藤訓任「「習俗の倫理」について――ニーチェの「遠近法主義」の前景と背景――」*3前掲『メタフュシカ』第36號p.2
右は本書「第三章 「思考の発生史」、「習俗の倫理」、「よきヨーロッパ人」」に吸收された初出「「習俗の倫理」について――ニーチェの「遠近法主義」の前景と背景――」(「あとがき」p.420に示された初出書誌は不正確で、題名から「習俗の倫理」を圍む鉤括弧と「について」とが脱落)からの引用であり、最初の節「〈レントーの術としての文献学〉」にある一段だが、本書では大幅に削除されてしまった不採用箇所なので初出に遡らないと讀めぬのが惜しい。本書第三章「三 「習俗の倫理」」は「あとがき」が「諸論文の初出」について言ふ「一部分だけが利用されているもの」(p.419)に當るわけだ。文獻學に關する切り捨てられた部分は、第三章とは別に序文にでも組み込んで置けば本書全體の讀解法を豫告する
さて再讀して、なかなか面白かったのに何かもやもやする。通讀後も更に讀み返すうちに、どこがをかしいのか指し示せるやうな氣がしてきた。ここからやうやく批評(=批判)に入れる。
須藤著は第四章第三節で『道徳の系譜學』第一論文末に着眼してゐる。そこで珍しく註を附けたニーチェは「どこかの大学の哲学部が一連の懸賞論文を募集」することを願ひ、「次のような問いを提案したい。その問いは、文献学者や歴史家の注目だけでなく、本来の専門的職業的哲学者の注目も大いに集めてしかるべきものである」と言ふ――即ち、「言語学、なかんずく、語源探求は、道徳的概念の発展史に対し、どのような示唆を与えるか」(p.184所引)。須藤の見る所、「こう提案するからには、『系譜学』における自分の語源詮索だけで充分だとも、またそれが最終的結論となるのだとも、ニーチェ自身決して思っていなかったのであろうが、ここに読み取られる口調は、まったく真摯なもの、といってよい」(p.184)。ニーチェの語源論そのものにはなほ補訂すべき不備不足あらうと、と讓歩する代りに、「ニーチェのそうした謙虚な「学的」姿勢」(p.184)だけは認めさせようとする論法である(そのためか、大眞面目に學術ぶった
いずれにしても、こうした語源学の実践によってこそ、「系譜学」ないし「発生史」を、「現在」の価値観の「投影」から護り、そのことを通して、「現在」とは異質な歴史的過去を、したがって、歴史の質的な非連続性を、「学的」に捉える可能性が切り開かれる、とニーチェは考えた。語源学はいわば物証であって、そこに「現在」からの「投影」がつけこむ隙はほとんどないはずだからである。
第四章「三 「語源学」の物証」p.185
……「ほとんど」? 「はず」だって? 最初は看過ごしてゐたが、これはチト變である。「物証」といふ譬喩で主觀を超えた確固たる客觀性(Objektivität=モノ性)を標榜するにも拘らず、斷定し切れずに留保せざるを得ない何かがある樣子。あたかも解釋を交へぬ原典の即物性を思はせる表現を打ち出しておきながら、いざ確言するには言葉を濁して躊躇を見せただけまだ幾らか正直さはあるにしても、しかし何がそこで引っ掛かったのかは、ぼかされたまま追究されない。ここ以降「物証」なる語は重出するも、隱喩であるよりむしろ
この微かな綻びを意識しつつ讀み返すと、これに照應する論理上の弱點が見つかる。次の『道徳の系譜』第二論文「〈負い目〉、〈良心の疚しさ〉、およびその類のことども」(信太正三譯の題)を論じた第五章のうち「四 結語」に「物証」の反復があり、そこでは「第四章で述べたことと本章の論旨とを関連づけ」るために前章を要約してゐる。曰く「第四章では、「キリスト教道徳」という名の「伝統」を血肉化した「認識者」であるニーチェが、いかにしてその「伝統」から距離をとり相対化して、批判の可能性を確保できるのかが問題であった。それに対する答えは、いかに自分の実感や思考では相対化したつもりであっても、それの成功は保証されず、そのためには、相対化を立証する確かな物証が必要となり、「善」「悪」という語の語源学がその物証となるのであった。その物証を通してニーチェは[…]ユダヤ・キリスト教的な道徳的価値観以前の[…]「貴族道徳」の存在を突き止めることができ、[…]キリスト教を相対化する立脚点を築いたのであった」云々(pp.218-219.)。問題視すべきツッコミどころはその直後に現れる。
むろんそのためには、ニーチェ自身のキリスト教道徳に対するかねて来の批判的スタンスがその前提となることはいうまでもない。そういうスタンスがあったからこそ、語源学を物証として的確に感知することができたのだ。さもなければ、物証はそのまま見過ごされるだけに終わっただろう。
第五章「四 結語」p.219
「いうまでもない」って……だから前第四章では言ってなかったと? だがここへ來て斷わりを入れたのも、自明視した儘では片付かない懸念があるからでは? 注視しよう、今や「物証」と言ふレトリックが頻用の果てに破綻を來してゐるのだ。「かねて来の批判的スタンス」……普通これは、豫斷とか先入見とか成心とか見込み搜査とか論點先取とか呼ぶものでないか? 何なら科學哲學風に「觀察の理論負荷性」(N・R・ハンソン)とでも言ふ方がお好みか? 所詮は解釋學的循環を脱せないとでも? いや、しかし、語源が物證であるとは、元來さういふ現在に屬した偏見からの投影を免れたことの
ところが、そもそもその語源論が當てにならないのだったとしたら……。秋山英夫譯『道徳の系譜』「解説」には「いろいろ誤りを指摘されながらも、文献学者として語源を駆使した研究方法も、さまざまな実りをもたらしており」(『ニーチェ全集 第三巻(第Ⅱ期)』白水社、一九八三年三月、p.327→秋山英夫「ニーチェ「道徳の系譜」」『回顧の季節』朝日出版社、一九八九年十二月、p.161)と見え、内實は不明にしたまま(「いろいろ」では判らぬ!)失敗を取り繕ふやうにしてニーチェ頌に仕立ててゐた。それに關しては須藤も無視し得なかったらしく、ひと言だけだが觸れてはゐた。
ニーチェの語源学が、百有余年後の二一世紀の学問水準からするなら、とても批判に耐ええないものだとしても、彼の、いかにも「認識者」としての自己規定にふさわしい「学的」論証の完備した形式性については、それとして認められなければならないだろう。少なくとも『系譜学』において、ニーチェは、語源学を通すことによってのみ、自己をも含めて「現在」を全面規定する歴史的「伝統」を相対化する視点を確保しえたのである。
第四章「三 「語源学」の物証」p.183
ニーチェによる善・惡の語源説は尤もらしく聞こえても謬説で、言語史的事實ではなかった――! 民間語源説ならぬ學者語源解の誤りがある……? ここで須藤も輕く流してしまって、どこがどう誤謬なのかといふ肝腎の批判内容については「批判に耐ええないものだとしても」と假定法めかした箇所に註(7)を附してW・シュテークマイヤー著(『ニーチェの「道徳の系譜學」』第五章第四〜六節S. 103-105.)やM・ブルゾッティ論文を擧げるのみ、それらドイツ語文獻に下駄を預けてしまひ自らは省みない。誤りだと承知してゐながら正しくはどうなのかを知らせない、眞實はどうでもいいと言はんばかりの態度は誤魔化しに見えてきてしまふ。他方、逆にそれらの批判など知らぬ氣に(無知なのか無視なのか)、二〇〇二年初版以來世界に名を馳せる分析哲學流ニーチェ解釋の書が「ニーチェの用いる語源学的な証拠をさらに支持する形で確証したものとして」M・ミゴッティ論文一本だけ參照して澄ましてゐる(ブライアン・ライター/大戸雄真譯『ニーチェの道徳哲学と自然主義 『道徳の系譜学』を読み解く』春秋社、二〇二二年一月、第5章原注(12)p.514、cf.第6章原注(7)pp.517-518.)といふ現状では、いづれが是か非かはっきり突き合はせるべきだらう。それに、正しい知識を求めるのみならず、誤りについてもニーチェがどのやうにして過誤に陷ったのかが知りたくなる。ニーチェを擁護するのでなく、批判的にその誤りに學ぶために。前車覆轍。アリストテレス『ニコマコス倫理學』第七卷第十四章(1154a22以下)に曰く「われわれは、しかしながら、ことがらの真を語るのみならず、また誤りの原因をも語らなくてはならない。というのは、そうすることが論議の可信性に寄与するからである。つまり、真ならぬことがらが何ゆえ真と見られているかということが首肯されうるとき、ことがらの真はますますその可信性を増大する」(高田三郎譯『ニコマコス倫理学 (下)』〈岩波文庫〉一九七三年二月、p.61→二〇〇九年十二月第四十九刷改版)。大體、形式が整ってゐると認められれば内容・實質は問はないと言ふのは、論理だけで體系化する思辨哲學流の建築法であって、素材から吟味する歴史(學)的な考證のやり方ではない(Cf. E・H・カー/清水幾太郎譯『歴史とは何か』〈岩波新書〉、一九六二年、pp.7-8.)。歴史的思考を主題とする論がそれでは濟まされまい。哲學の價値は全體の構築にありと信ずるあまり解體後も再利用できる建築資材の物質的價値が見失はれがちなこと、これをニーチェは「哲学者たちの誤謬」(『人間的、あまりに人間的 Ⅱ』「第一部 さまざまな意見と箴言」二〇一、*1前掲ちくま学芸文庫版p.150)と呼んだ。
糾謬批正、正誤眞僞の闡明は學問研究の基本のはず――但し哲學者は除いて、とでも? 實證的(positiv=肯定的)精神とはその名に反して
どうもこのニーチェ研究者には、自身を認識者として律する學者肌の
繋がり具合を問ふからには、「価値の「批判」と「系譜学」(ないし「発生史」)が区別され」(第四章「一 『道徳の系譜学』の「系譜学」」p.172)た上で「相互の混同は厳しく戒められながらも――手を取り合い、協調関係に入り直すことができるようになる」(第四章三p.182)との言も、過去への遡行を現状への對抗から峻別しておいてサテさうすんなり縒りを戻せるものか、危ぶまれる。事實、歴史研究それ自體は現代批判へ結びつかない仕事などざらにあり、「実際、なんらかの事象の発生史を解明したところで、それの――とくに現在有する――「価値」の「批判」には直結するとは考えられないだろう」(p.172)。折角見事に「「起源」と「現在」の癒着」(第四章二)を切開したこの分離論(第四章一・二pp.172-181、第五章「一 問題の所在」pp.198-203、及び「序文」p.13)から、豫定調和のやうに統合されて圓環が閉ぢられると、釋然としない。そんな
發生史(「成立史」とも譯される、Entstehungsgeschichte)と批判との關係如何は、須藤以外の幾つかのニーチェ論でも「発生的誤謬推理」(谷山弘太「道徳の批判とは何か?――ニーチェ『道徳の系譜』第一論文における道徳の記述と批判の関係性に関する考察――」『メタフュシカ』第43號、二〇一二年十二月、p.24・pp.29-30.)「発生論的誤謬」(ブライアン・ライター『ニーチェの道徳哲学と自然主義』前掲第5章p.249以下。バーナード・レジンスター/岡村俊史・竹内綱史・新名隆志譯『生の肯定 ニーチェによるニヒリズムの克服』〈叢書・ウニベルシタス〉法政大学出版局、二〇二〇年三月、第四章第五節pp.336-337.)の問題として論點になってゐ、「発生論的虚偽」(大淵和夫・上原隆執筆、思想の科学研究会編『新版 哲学・論理用語辞典』三一書房、一九九五年四月、p.316)とも譯されるgenetic fallacy(M・R・コーエンとE・ナーゲル『論理と科學的方法への入門』ⅩⅨ章3節、一九三四年)に關しては科學哲學に始まり多々議論されてきた所、それらと摺り合はせられるかどうかも要再審だらう。間に變化を挾む限り過去は現在とは別物なのだから出自や發端といった原態を根據に現況の是非を判じるのは發生論的誤謬であり、その點を豫てニーチェが自戒してゐたことは遺稿斷篇三つ(第四章二p.181及び第五章一p.202所引NF-1884, 27[5]。p.181及びp.201所引NF-1885, 2[131]=原佑譯『権力への意志 上 ニーチェ全集12』「付録 計画と草案〔ムザリオン版〕」中「Ⅱ 一八八六年の計画」2の「第二書によせて」、*1前掲ちくま学芸文庫版p.466相當=『生成の無垢 下』Ⅲ中「一八八六年の計画」八七五・*1前掲書p.456相當。p.201所引NF-1885, 2[189]=『權力への意志』二五四第一段・同前ちくま学芸文庫版p.259相當。引用はしないが他にp.201でNF-1884, 27[72]・1885, 1[53]も參照)や『悦ばしき知識』第五書三四五末段(第四章三p.185所引。引用外の前段にて「發生史」に對し「批判」は別物との附言もあり)を本書が引示した通りで(例示にNF-1882, 4[90]、1883, 16[33]、1884, 26[161][224]や『善惡の彼岸』四も加へられよう)、「「起源」の「真理」あるいは「誤謬」がそれ自体としては、「現在」の価値査定の基準とはなりえない」(p.185)と言ひ換へられるわけだが、しかし他方で、『道徳の系譜學』第一論文の論法について「従来のキリスト教道徳「以前」にも別の道徳的価値評価が存在しえたことを立証すること」により「現在に支配的な道徳以外の道徳が可能であったこと、したがって、将来的に、それが忘却の眠りから覚めて再活性化されることがありうること、さらには、もしかしたら、これまでに存在したもの以外の道徳も可能であるかもしれないことが、展望されてくるのだ」(p.182。Cf.第五章「三 「偶然」としての歴史」p.216)と説くやうでは、その史實を當時可能にした條件拔きの短絡、過去がかうだったからやっぱり現在や未來も相變はらずだらうと推論する發生論的誤謬の論理その儘になってしまふ次第で、分裂して見える。在りし昔の事績を「ともかくかつて[einmal=一度]現われたことがあり、従ってまた可能なことなのである」(「ギリシア人の悲劇時代における哲学」序言、推定一八七四年稿、前掲『悲劇の誕生 ニーチェ全集2』p.350。Cf. NF-1873, 29[29][108])と仰ぎ慕ふやうな回歸願望に憑かれた想念は、既に「記念碑的歴史」の難點としてピュタゴラス派流の星廻りの迷信同然だと自ら批判し去った所(「生に對する歴史の利害について」第二節第三〜四段落、『反時代的考察』*1前掲ちくま学芸文庫版pp.138-139.)、歴史事象の獨異性・一回性を損なふことなく同等のまま反復する可能性なんて「天文学者が再び占星師になる」よりもありさうにないことと否定してゐたのに、そのニーチェが、依然過ちを繰り返してゐるとでも言ふのか(萬が一歴史が繰り返すとしても「二度目は
「發生史」と「批判」とが強化し合ふ惡縁を斷ち切らぬ限り『道徳の系譜學』も「致命的循環を犯している」ことになるが、「このことは、ニーチェ自身の思想的矛盾ないし哲学的退歩として解されるべきなのであろうか。それとも、彼は系譜学によるこの批判の企ての正当性を証しすることができるだろうか。」(第五章一p.202)――それで、怪しげな「語源学という物証」(第五章四p.220)を擔ぎ出してまでこの不整合を調停しようとした?――むしろ、問題を成す對立を緩和するよりは尖鋭にする方がニーチェらしい……? どうもすっきり氷解しない。『ニーチェ・矛盾の哲学』(W・ミュラー – ラウター、秋山英夫・木戸三良譯、以文社、一九八三年二月。「矛盾」と譯された原語はGegensätze=對立)とか呟きたくなる所で、當人も處女作の本文冒頭から「[…]たえず争いつづけ、わずかに周期的に仲直り[Versöhnung=和解、宥和、贖ひ(キリスト教の)]する雌雄の両性」(「第一章 物語としての歴史――『悲劇の誕生』の思想圏」一p.21・二p.32所引『悲劇の誕生』一、前掲ちくま学芸文庫版p.31相當、傍線はいま附した。Cf.『この人を見よ』「なぜ私はこんなに良い本を書くのか」五の「愛の定義」、川原栄峰譯『この人を見よ 自伝集 ニーチェ全集15』〈ちくま学芸文庫〉一九九四年六月、p.90)と夫婦和合についてすら敵對關係を常則となすぐらゐ、「苦痛、矛盾が真の存在だ。快楽、調和は仮象なのだ」(『生成の無垢 上』八三・*1前掲ちくま学芸文庫版p.109=NF-1870, 7[165])とか「宥和[Versöhnung]の陶然たる一瞬後には、再び對立に身を投じる」(NF-1883, 17[40])とか云って諧調を亂すやうでは到底安穩と落ち着きさうにない。「実際、ニーチェのもとでは『宥和』を越えてより鋭い『対立』へと向かう、一つの弁証法的な『対立』の三段の歩みが証示されている。中間審級としての『宥和』は、彼のもとでそのときただ一時的に存続しているにすぎない」(ジーグフリート・ブラッシェ「ニーチェの『悲劇の誕生』の周域におけるヘーゲル主義」一九八六年、勝道興『ニーチェ哲学とその音楽的律動の圏域』「Ⅲ-1) 自己回帰とその悲劇的逸脱――ニーチェにおける「ヘーゲル的なもの」(1)」二〇〇七年博士論文p.103より重引)とも。正反合ならぬ反・合・反か。晩期にもニーチェは、己れの内なる「諸能力の対抗[Gegensätze]」を「混合もしないし「和解」もさせない」のが我が本能だと豪語し(『この人を見よ』「なぜ私はこんなに利口なのか」九、ちくま学芸文庫版p.70。これ以外の邦譯者は安倍能成・小栗孝則を除き軒竝み「和解」=„versöhnen“を「妥協」と飜譯)、ヘーゲル臭い「和解」は別して引用符に括って拂ひ除けられてゐた。須藤とて曾てはニーチェに融和よりも緊迫感を看取して「ただし「対立の一致」とはいっても、[…]なんらかの形で調停されたり「止揚」させられたりするのではない。対立し相矛盾する性質はあくまで鋭く対立したままで、一個の存在のうちに凝縮する」(「ニーチェの脱ユートピア――自然と科学――」総編集・河上倫逸『JUSTITIA *ユスティティア* 文化社会史からの超学際 ❸』比較法制研究所發行/ミネルヴァ書房發賣、一九九二年二月、pp.88-89.――右は、須藤訓任「ニーチェの自然」『大谷學報』第七十卷第二號、一九九一年二月、p.7、の再説)等と釘を刺す所があったのだけれど、今ではわざわざ分け隔てた「發生史」と「批判」にまで「手を取り合い、協調関係に入り直すこと」を望むとは、すっかり丸くなってしまったみたいだ。本書で發生論的誤謬との對決が不徹底に見えるのも、須藤の解釋が妥協に傾いただけなのかしらん? 角を立てぬやう正・反を總合して異和が中和されるに至るなら「爪なきニイチエ、牙なきニイチエ、或は必ずしも恐るゝに足らざるか」(千八=森鷗外「續心頭語」『二六新報』一九〇一年十月十四日)。
それに、本書では「中期」ニーチェが掘り起こした太古(先史)の「習俗の倫理[Sittlichkeit der Sitte――氷上英廣譯「慣習道徳」は、ジョン・デューイではcustomary moralityの譯語にて反省道徳が對語]」(『曙光』九・一四・一八・三三、『悦ばしき知識』四三・四六・一四三・一四九・二九六、NF-1885, 1[10]、1885, 2[170]≒『権力への意志 上』二六五、及び『道徳の系譜學』序文第四節・第二論文第二節・第三論文第九節)に關し、「近代的道徳論からみれば、いかに許し難い誤謬のように思えようとも、一定の事実が、事実である(と信じられる)ことそのままで、同時に規範となるという、「習俗の倫理」とは、少し反省してみればわかるように、太古であるか近代であるかに関わりなく、人間の素朴な日常生活の大半を支配している「原始的」倫理である」(第三章「三 「習俗の倫理」」p.139)と述べた上で、これに對して「時代はいまや個性溢れる「自由な」「個人」の産出に向かう(べきだ)(Vgl. Ⅴ2, 11 [130][≒前掲『生成の無垢 下』四三三])というのが、ニーチェによる時代動向の診断である」(仝p.143)が、因習打破に勵む當のニーチェの「この意図そのもののうちにも一種の「習俗の倫理」が働いている。それというのも、過去における変化の事実が、将来も変化可能であるべきだという規範として機能しているからである」(p.144)と捉へ返し、この規範としての「事実」こそが「新たな解釈」を可能にする(p.145)と評價してゐたから、かうなるともう發生論的誤謬のみに留まらず、事實を規範に直結させる無分別によって謂はゆる「自然主義的誤謬」乃至「ヒュームの法則」違反(この呼び方は名實不相應でG・E・ムーア乃至D・ヒュームの原典の本義と違ふとの批判はさておき)の疑ひも起きる。
蟠りを感ずる理由は、『道徳の系譜學』から『ヴァーグナーの場合』への「連続性」を説くため「この場合、歴史ないし時代とは、過去と現在(同時代)の双方を包含するものとして考えられている」(第六章p.223)とあっさりひと括りにしてしまふやうな著者の構へにもあって、單に「時代 Zeit」と言っても特に現在進行中のこの現代を指す用法が強いのに對し、「時代」ならまだしも「歴史」に同時代の現在を組み込むのは言ふほど容易でなく、幾ら同時代史・現代史が試みられようと近い過去のことを「まだ歴史になってない」と否む常套句があるのを知らぬでもあるまいに、「歴史という概念において「過去」がもっている注目すべき優位」(『存在と時間』第七十三節原書S. 379=原佑・渡辺二郎譯『世界の名著 62 ハイデガー』中央公論社、一九七一年十月→『ハイデガー 世界の名著74』〈中公バックス〉一九八〇年二月、p.586)を顧慮しないのが氣に懸かる。同時代寄りの「時代」に比べて、過去である「歴史」は輕視されてないか。これでは現在(の同時代批判)へ回收するために過去の固有性を損なひかねない。「なぜなら、現在支配的な道徳の起源が非道徳的であるからといって、その価値が貶められる(「汚染」)必要がないばかりか、貶めようという心的傾向が作動してしまうことがそれ自体、現在の道徳に拘束されている(「投影」)ことの一証左にすぎないというのだから」(第四章二p.181。直前に所引のNF-1885, 2[131]からの換言)と考へる以上は、さうした現在との干渉を
この過去/現在の關係を變奏して「いうまでもなく、「伝統」と「現代」は地続きである」(第四章p.165)と言ふ文句も、「もとより、歴史的過去としての「伝統」と「近代」という「同時代」とは地続きである」(第六章p.225)とか「「伝統」と「同時代」とは繰り返すまでもなく、地続きである」(第六章「四 おわりに」p.252)とか再三斷言されるが、そんな論を俟たず自明かは疑ってよい(「言ふまでもなく」と言ひ出された「常識」は多くが因習か獨り決めの前提で論理の飛躍を彌縫するに過ぎないのは言はずと知れたこと)――そもそも本書にあっては、「歴史の質的非連続性」(第四章二p.181。Cf.同p.185、第五章三p.216)が追求され、「連続的歴史観の呪縛からの解放」(第五章三p.217、cf.第五章一p.202)が庶幾されるのだから。一續きと見えても實は不連續線を見落としてゐる懼れがあるのでは? 「地続き」とは言へ「両者に違いが認められないわけでもない。」(p.165)「両者を無差別的に論じるなら、重大な知的混乱を招きかねないだろう」(p.225)と取り敢へず須藤も留意はするものの、結論が「その相違の根幹をなすのは、いうまでもなく、「時間的距離」の有無である」云々(p.253)では拍子拔けで、量的差異である距離(おゝ「距離のパトス」さへも)は同一數直線上に連なった程度の差でしかないし、その前段で「伝統」と「同時代」は「その認識を試みる者に対し、いわばあまりにも「近い」がゆえに、認識困難となるのであって、その点では互いに共通している。「近さ」とは、自分がそれであるところのものの別名である」(p.253)と比喩してゐたため、距離の「近さ」で測れば傳統よりも同時代の認識し難さを重視するに傾くかのやうだ(近い物を大きく描く遠近法の錯覺か)。同時代批判として「時代のUrsprung」(根源、語源に即すと「原-亀裂」だとか)となる「時代の亀裂・裂け目」「時代のひび割れ」(p.253)を見出して「時代の等質な連続性に楔を打ち込み、穿つこと」(p.254)も説かれる一方、同時代でなく舊時代であり過去である歴史に對しては、傳統以前の異質な起源――「前史」(第四章二p.176)とも――との非連續性は重々再説されても、現代と地續きに見えるその「傳統」内に想定された連續性を疑問視することはついでのやうに唐突なベンヤミン(『パサージュ論』N19, 1及びN9a, 5)からの引據で示唆するのみ(第六章註(18)p.264。元は發表時のパネル・セッションの論題「歴史と根源―ニーチェ、ハイデガー、ベンヤミン―」に託つけた言及に過ぎない)、ましてやその「伝統」と呼ぶ過去と「同時代」と呼ぶ現在との間に潛む斷層を發掘することは著者の考へに上らないのが不審である。起源・傳統・同時代と三分される各期(時制なら大過去・過去・現在か)の、それぞれの内部にもそれぞれの間にも知られざる斷絶があり得る(Cf.ヴァルター・ベンヤミン/今村仁司・三島憲一ほか譯『パサージュ論 第3巻』N7a, 2・N9a, 6、〈岩波現代文庫〉二〇〇三年八月、p.206・215→『パサージュ論 (三)』〈岩波文庫〉二〇二一年四月、pp.233-234・p.243)。地續きの地盤とて地割れが走れば埋め難い溝を刻まれる。『ヴァーグナーの場合』が『道徳の系譜學』第三論文(第二〜五節)では不十分だった藝術家論を改めて同時代批判として引き繼いだものだと言ふ第六章(
『道徳の系譜學』第二論文が「仮説」(第四章四p.191)として推論したのは「歴史以前の時代、「先史時代(Vorzeit, Urzeit, Vorgeschichte)」のこと」(p.190)であった――尤も「[…]第二論文は、「先史時代」を問題とする以上、語源学という文献学の手法はもはや適用不可能である。その時代は、文字の発明以前の時代であって、言語という形での証拠提出はできないからである」(p.190)と言ふなら語源は
問題は、「起源」という名の過去と「現在」との異質性を、つまり、歴史の質的非連続性を、「現在」の価値観を持ち込むことなく、いかにして対自化するのか、に収斂する。
そうだとするなら、逆に疑問が出てこよう。もし『系譜学』なる書物の最終目標が、先に述べたように、道徳の価値の批判にあるのだとしたら、「系譜学」の手法を採用するまでもなく、直接批判に赴いて、それに邁進すればよいのではないか。むしろ、「系譜学」の採用は、「起源」と「現在」の癒着の危険に逆戻りすることになるだけではないのか。それにもかかわらず、『系譜学』は「道徳の系譜学」として執筆されたとするのなら、そこには、ニーチェの理論的退行には尽きない、しかるべき理由が存在するのだろうか。
第四章「二 「起源」と「現在」の癒着」pp.181-182.
この疑問を解決するには、現行の道徳が絶對ではなく以前には別樣であり得たと相對化する觀點を確固たる證據と共に示すべきであり、そこで「「語源学」に基づいて析出された「同じ概念変遷」[『道徳の系譜學』第一論文第四節冒頭]を手がかりにして」(p.183)……と、本書第四章「三 「語源学」の物証」は説いたのだった。ところが、そもその語源説とて失考に屬し頼りにならぬのだったら、物證同然の即物的な事實を裝ってもその實ニーチェの價値觀に歪められた解釋かと猜せられ、解釋者の現在の見方を過去に持ち込んだ投影かと警戒され、解答は問ひへと差し戻され、問題は改めて問ひ返され、今や、解消したはずの疑念は群れを成して復活して來よう。問題群の襲來だ。
即ち――どうして「かねて来の批判的スタンス」(p.219)の獨斷と偏見で以て直接に現在へ審判を下さないのか、わざわざ過去に遡って間接的に批判するその迂遠ぶりの意味は何か。――自分達の價値觀を相對化するためだらうか、それなら歴史ぶった系譜改め以外にも手は無いか、ヘテロトピア(異在郷)と云ふか空間上の異文化との比較、地誌・人文地理學・民族誌・文化人類學等の異化作用もあるではないか。「歴史的感覺 historische Sinn」と「
取り分け自己の相對化に關しては、更に問題が續出しさうではないか。本書に對しては「主張の裏づけや議論展開の厳密さに関しては、通常の学問的手続きが踏まえられていないように思われる箇所が多く見られる。」「また、鮮やかな読解に隠れて気づきにくいが、論理展開に隙が多いし、文献等によって十分に裏づけられてはいないように見える主張が散見される」(竹内綱史、前掲p.121)との苦言も呈されたけれど、具體論は二例を示すに留まったので他に問題があるのはどこなのやら、讀者それぞれに點檢が委ねられてゐようか――例へば以下のやうに?
幾らか補助線を引いておくと――もし、手っ取り早く本書大體を一言を以て貫くとすれば、「汝自身を知れ」か(註*1も看よ)。ニーチェ自身もギリシア語(γνῶϑι σεαυτόν / γνῶϑι σαυτόν / γνῶθι σαυτόν)やラテン語(nosce te ipsum)やドイツ語(Erkenne dich selbst / kenne dich selbst)で再々書き記してきたこの箴言は、よく知られたソクラテスの名言である以前にまづアポロン的戒律として公刊書第一作(『悲劇の誕生』四、前掲『悲劇の誕生 ニーチェ全集2』ちくま学芸文庫版p.50)から言及あったのでディオニュソス的破戒者にとっては空念佛かも知れぬにせよ、本書『ニーチェの歴史思想』では卷末「事項索引」に六箇所採られてをり、特に『道徳の系譜學』を論じた第四章(冒頭p.163)はそのデルポイ神殿における警告文の原義から説き起こされ、それに寄せる構へで第六章(「二 挑発としての『ヴァーグナーの場合』」pp.239-240.)は『ヴァーグナーの場合』序言について「ここには明らかに、〈汝自身を知れ〉という、ヨーロッパ精神を統べてきた、あの命法がこだましている」と目して左記のやうに續けるが、そこで綴り合はせられる二つの章は須藤著の中核であるからして、正にこの本の
自分がそうであるところのものを、そうである自分はいかにして知ることができ、また、知ることを通して、それに対しいかなる対処をすることができるのか――。
第六章「二 挑発としての『ヴァーグナーの場合』」p.240
この「自分がそうであるところのもの」といふ歐文脈臭い言ひ回し(Cf.第二章一p.85「自分がそれであるもの」、第二章三p.112「自分がそれであるところの「人間」」、第六章四p.253「自分がそれであるところのもの」)がまたいかにも何か原據ありげでないか。匂はされたのは、蓋し、ニーチェ最後の著書の名文句「如何に人はその人であるところのものになるか」wie man wird, was man ist(『この人を見よ』副題及び「なぜ私はこんなに利口なのか」九)か、或いはそれ以前の『悦ばしき知識』二七〇でもあるか。
おまえの良心は何を告げるか? ――「おまえは、おまえの在るところのものと成れ。[Du sollst der werden, der du bist.=汝はそれになるべきである、汝であるところのそれに。]」
信太正三譯『悦ばしき知識』第三書二七〇、ちくま学芸文庫版p.284
共にピンダロスの一節(ピュティア第二歌第七十二行=内田次信譯『祝勝歌集/断片選』〈西洋古典叢書〉京都大学学術出版会、二〇〇一年九月、p.128・「解説」p.456。Cf.小池登『ピンダロス祝勝歌研究』「第4章 『ピューティア第2歌』67行以下」知泉書館、二〇一〇年十一月)に基づき(そのゲーテ譯を擧げるのは誤り、存在しない由)、初めニーチェはギリシア文字のまま原文引用してゐたものの(一八六七年十一月三日附竝びに一八六八年二月一日〜三日附エルヴィーン・ローデ宛書翰=塚越敏譯『ニーチェ書簡集Ⅰ ニーチェ全集 別巻1』24・25、〈ちくま学芸文庫〉一九九四年七月、p.121・124。同文流用の一八六七年十二月一日附カール・フォン・ゲルスドルフ宛書翰も)、當初からもう、四語一句(γένοι᾽ οἷος ἐσσὶ μαθών=汝いかなる者かを知りて成れ)の句尾(μαθών=學ぶ、知る)を切り落とす斷章取義をなして汝自身を知るといふ文脈は後景に退くこととなったわけで、とは言へ、不特定の二人稱に向けた命令形が自らを律する自戒語ともなるのは「汝自身を知れ」等の碑銘文と同型ではあり、或いは「――如何に彼が、彼があるところのもの、彼があるであらうところのものになったか[wie er wurde, was er ist, was er sein wird=如何に彼は成ったか、何が彼であるか、何が彼であるだらうか]――」(一八七六年刊「バイロイトにおけるリヒアルト・ワーグナー」一、*1前掲『反時代的考察』p.357相當。Cf.草稿NF-1875, 11[46]・14[8])と疑問詞の形を取る時はまだ知ることへの請求を含むかにも見えたが、次第に句尾拔きの三語のみを典故にして變奏し出し(NF-1876, 19[40]、1879, 41[31]、1881, 11[297]=『生成の無垢 上』一一〇四・*1前掲ちくま学芸文庫版p.572)、ルー・フォン・ザロメ宛書翰に「ピンダロスはかつて「汝があるところのものとなれ[Werde der, der du bist!]」といっている」(推定一八八二年六月十日附、前掲『書簡集Ⅰ』177、pp.524-525.)「あなたがあなたであるところのものになりなさい[Werden Sie, die Sie sind!]」(一八八二年八月末、『書簡集Ⅰ』195、p.554相當。Cf.一八八二年十一月廿四日附ザロメ宛、『書簡集Ⅰ』207、p.577「あなたはあらねばならぬままであってください」)と書き送った時は文字通り對者への呼び掛けとして用ゐられたけれども、一八八二年八月廿日附ハインリヒ・ケーゼリッツ(筆名ペーター・ガスト)宛書翰の„werden, die wir sind“も二人稱から一人稱複數にした變形だし(恰度屆いたばかりの新刊『悦ばしき知識』の三三五「物理學萬歳!」篇尾近くに記した強調句「われわれ自身があるところのものになるのを欲する[wollen Die werden, die wir sind,]」からの自己引用)、一八八五年私版『斯くツァラトゥストラは語りき』第四部「蜜の供犧」14段中「おまえのあるところの者となれ![Werde, der du bist!]」(吉沢伝三郎譯『ツァラトゥストラ 下 ニーチェ全集10』〈ちくま学芸文庫〉一九九三年六月、p.178)も自分で自分に語り掛ける言葉とされてやはり形は二人稱ながら指示方向は自稱であり(Cf. M・ハイデッガー『存在と時間』第三十一節原書S. 145)、更には主語を三人稱不定代名詞(Cf. NF-1880, 6[177]、『善惡の彼岸』二四九)に汎化して「あらゆることにもかかわらず、ひとは在るところのものと成るにすぎない[daß man, trotz allem, nur das wird, was man ist≒あるやうにしかならない]」(『権力への意志 上』三三四・前掲ちくま学芸文庫版p.324=NF-1888, 14[113])と運命論めいた述定をなし、そこから自傳『この人を見よ』に到って關係詞を再び疑問詞めかし、……いづれにせよ、概念構造としては、動態動詞werden(三人稱現在wird=なる)と存在動詞sein(bist, ist, sind=ある)との對比の上で「ある」ところのものへと「なる」こと、「存在」への「生成」が求められてゐる、と理解できようか(須藤訓任『ニーチェ 〈永劫回帰〉という迷宮』第一章「6 再び自伝へ――『この人を見よ』」前掲書p.74參看)。ニーチェの言だと「生成の世界を存在の世界に、最も極限的に近づけること」(仝p.74所引NF-1886, 7[54]≒『権力への意志 下』六一七・前掲ちくま学芸文庫版p.148相當。原文の強調體に合はせ傍點を補った)に當るのだとか――但し、そこでの「最極端な接近[extremste Annäherung]」にしてもなほ合致ではなく(ミュラー – ラウター『ニーチェ・矛盾の哲学』前掲書第七章p.202も同旨)、結局は距離を殘し漸近するのみと云ふ限界を含意するかも?
――だが解せない、現にさうあるのに今更にさうなれとは? いま現在それであるのなら、既にもうさうなってゐる筈だが? 「〈ある〉とは、時間のずれを、時間的間隔を認めない。[…]それに対し、〈なる〉は、つねに時間的な広がりないし余地を前提とする。〈なる〉ところのものは、いまはそうでないはずのものだからである」(須藤『ニーチェ 〈永劫回帰〉という迷宮』第二章3p.124)……つまり、何かになるとは、以前は
――むしろその前に、如何にして自分がさうであらぬところのものになったかが疑問にならうか(將來どうならうかよりも過去、どうしてかうなったか)。そもそも本書では、ニーチェが「汝自身を知れ」に幾度か言及したうちヘラクレイトスの人柄に引きつけて敍したものに重點が置かれ(他は第四章一p.167で『悦ばしき知識』三三五に、第四章四p.192で『善惡の彼岸』三二に關聯させた程度)、そのヘラクレイトス論を、本書はまづ第一章「三 「ソクラテス」という人格――ヘラクレイトスとプラトンの間としての」(pp.45-46.)に長文引用し、更にその末尾近くに出るヘラクレイトス斷片(ディールス=クランツB101。プルタルコス「コロテス論駁」二〇・1118C、戸田七郎譯『モラリア 14』〈西洋古典叢書〉京都大学学術出版会、p.117相當)のニーチェによる獨譯„Mich selbst suchte und erforschte ich“(須藤譯「わたし自身を求め究めたのだ、わたしは」)に的を絞って、第二章「二 「正義」の問題」(p.88)でギリシア語(ἐδιζησάμην ἐμεωυτόν)からの斎藤忍随譯「我は我自らを求めたり」(『知者たちの言葉―ソクラテス以前―』Ⅱ「a ニーチェ」、〈岩波新書〉一九七六年十一月、p.20)と引き較べ、第四章初め(p.163)でも「先にも記したように」と斷わって同じ引用句を「汝自身を知れ」に繋げて再掲してゐたのだが、しかし、そこでその原文脈を見逃してしまって、ニーチェがヘラクレイトスのことを歴史知識に冷淡な者と述べた所を素通りしてゐるではないか。即ち一八七三年未完稿「ギリシア人の悲劇時代における哲學」第八節にて、そのヘラクレイトスの寸言が取り上げられる正に直前、須藤が引用の際にどういふわけか中略してしまった部分にある、「尋ねまわって知識を寄せ集めるこのような人間、つまり「歴史的な」人間どものことを、彼は軽蔑をもって語った」(塩屋竹男譯「ギリシア人の悲劇時代における哲学」〔本論〕、前掲『悲劇の誕生 ニーチェ全集2』p.395)といふその文……ここからどうやって歴史思想になると? いかにしてその對立物からの百八十度轉回が? 一八七二年末の手稿本に含まれる先行
――「ある」へと「なる」に際して、假にヘラクレイトス流にあらゆる事象は生成であるとし、毎時毎瞬なりつつある現在進行形なのであるとしても、それで「お前がそれである当のものに、たえず成れ――お前自身の教師や形成者[Bildner=彫刻家、造形者]に!」(前掲『生成の無垢 上』一一〇四=NF-1881, 11[297]冒頭。Cf. NF-1880,7[213])だとか、或いは「それはひとが
――直接に自己観察を行なっても、自分を知る[kennen zu lernen=知るに至る、〜と知り合ひになる、見聞する、思ひ知る]には、およそ不十分である。われわれには歴史が必要である[Cf. NF-1876, 23[48]]。なぜなら、過去が幾百の波をなしてわれわれのなかに流れこみつづけているからである。それどころか、われわれ自体が、一瞬ごとにわれわれがこの流れから感知するところのものにほかならない。そしてここでさえもやはりわれわれが、一見して自分たちの最も固有且つ最も個性的な本質と見えるものの流れのなかにくだってゆこうとするとき、ヘラクレイトスのあの金言「ひとは二度と同じ流れのなかに踏み入らない」が重要な意味を持ってくる。
中島義生譯『人間的、あまりに人間的 Ⅱ ニーチェ全集6』「第一部 さまざまな意見と箴言」二二三、前掲ちくま学芸文庫版p.166
内觀(Selbstbeobachtung=自己觀察。Cf.『人間的、あまりに人間的 Ⅰ』四九一、『悦ばしき知識』三三五、『生成の無垢 下』二四七・前掲書p.147=NF-1885, 2[103]、『権力への意志 上』四二六≒NF-1888, 14[27][28])を頼みに自ら知るだけでは足らぬとなれば、「敵[Gegner=對戰相手]によって己れ自身を知る」(前掲『悲劇の誕生 ニーチェ全集2』所收「ホメロスの競争」中「Ⅱ 初稿から」一〇、p.339=NF-1871, 16[19])と言ふか他者の衆合として自己を知ると云ふか、恐らくは、他者といふ鏡(
[…]おまへの友たちの顏は何であるか? それは或る凸凹して不完全な鏡に映った、おまへ自身の顏なのだ。
『ツァラトゥストラ』第一部「友人について」14段、ちくま学芸文庫版上p.103相當
私は澄んだ滑らかな鏡が我が教へのために要る。そなたらの表面では、私自身の肖像すらも歪む。
『ツァラトゥストラ』第四部「挨拶」42段、ちくま学芸文庫版下p.263相當
補助線(或いは脱線)はこれくらゐにして――さて、「汝自身を知れ」を「自己認識」と言ひ換へた須藤によれば、『道徳の系譜学』において「ニーチェは「認識者」の自己認識の試みを三段階に構想」して「第一に、ニーチェ自身の思想的由来の自己認識」(第四章p.166)を取り上げた……が、その一方、『道徳の系譜學』序文第一節を全文引用した上で「したがって、あくまで――基本的には――「系譜学者」として「認識者」の立場を堅持しながら、しかも「認識者」の自己認識の欠如を意識化し問題化してゆかねばならない」(第四章「一 『道徳の系譜学』の「系譜学」」p.168)と解釋するのであれば、さう言ふニーチェの自己認識にも不備を認識せずにはおかなくなる筈と思ふがどうか。その序文第一節(第四章一pp.166-167所引)からして「われわれはわれわれのことがわかっていない、われわれ認識者が自分自身のことをわかっていない[unbekannt=未知な。初出p.75での譯文は「われわれ認識者は、われわれ自身がわれわれ自身に知られていない」]」に始まって「われわれにとってわれわれはなんら「認識者」ではない…」で結ばれ、自己認識不全を力説してゐなかったか(Cf.『生成の無垢 上』六八三・*1前掲ちくま学芸文庫版p.431=NF-1878, 32[8]、仝一〇六一・p.553=NF-1880, 7[39]、『曙光』一一六、NF-1883, 12[40]、1885, 40[44])。これを發展段階式に「中期では[…]、道徳批判者として自己認識が欠如していたのに対し、後期にいたって、[…]「認識者」としての自己の自己認識が可能となった、とニーチェは示唆しているのである」(仝p.169)などと自己克服の
實際讀んでみたらどうだ、中でも『道徳の系譜學』「序言」第三節にて冒頭から「自分としては公言したくはない私に固有のある疑惑」「それは私の少年期に、ひとりでに、抑えがたく、環境や年齢や戒めや慣習に抗して現われてきたもので、ほとんど私の〈
須藤著が引用してゐた『曙光』九五「決定的論駁[die endgültige =最終的なもの]としての歴史的論駁」を想起しようか、曰く「――かつて人は、神が存在しないことを証明しようと努めた、――今日では、神が存在するという信仰がどのようにして発生し、なにによってその信仰が重みと重要性を得たのかを示す。そのことによって、神は存在しないという反対証明は、余計なものとなった」(第三章「二 「思考の発生史」と認識の意味」pp.130-131所引、第五章一p.200でも言及。ニーチェ原文の強調體に合はせ傍點を補った)云々……愚問が愚答を喚んで却って問題を山積させ解決が遠のくといふ負の連鎖に對し、問題を再設定して歴史に解を求めることで疑似問題が解消されたといふ實績があるではないか。かうした問題設定の變形は、のち『道徳の系譜學』で述べた所と同型ではなかったか。同じ一段を引きつつ須藤の前著が「『人間的、あまりに人間的』以来の「思考の発生史」の延長上にある、この「歴史的論駁」は六年後、『道徳の系譜』(一八八七年)において、全面的に展開されることになるだろうが」(『ニーチェ 〈永劫回帰〉という迷宮』第四章「2 隠れたる神の正体」前掲書p.206)と前未來形風に豫告してゐたのは、まづどこに當て嵌まるか。『道徳の系譜學』「序言」第三節によれば、曾て「われわれの善と悪とは本来いかなる起源を有するかという問題」を懷いた少年ニーチェは「神を悪の父となした」ことで解答としたのであったが(前掲ちくま学芸文庫版p.362。Cf. NF-1878, 28[7]、1884, 26[390]=『生成の無垢 上』一二三五・前掲書p.619、1885, 38[19])、「神学的先入見を道徳的先入見から切り離す」ことで「もはや悪の起源を世界の背後に求めるようなことはしなくなった」後では問題はかうなる――即ち「人間はいかなる条件のもとに善悪というあの価値判断を考えだしたか?」(仝p.363)。このやうに形而上から經驗的次元へと、また起源論から條件分析へと、「歴史学的および文献学的な習練が、[…]問題を別なものに変えてしまった」(p.363)のに倣って、問題は歴史的な設問に變換して問ひ直すべきではないのか。
だが歴史學はひとまづ措いてもニーチェの前歴である文獻學に關しては、本書ではなぜか扱ひが宜しくない――なぜか? 『道徳の系譜學』に遡ること十三年前の一八七四年刊『反時代的考察』第二篇「生に對する歴史の利害」序言の最終段落*8を引用しつつ(第二章「一 題名の問題」p.83)、「しかるに、引用の文面に目立つのは、「反時代的な」「古典文献学」に従事している自分が同時代との関係で有する「わたしを苛む感覚」はそれだけで、自分の「反時代性」を保証し、同時代に対する自分の批判的スタンスの真正性を立証してくれている、との自負の誇示である(最終第一〇節ではさらに「若さ(青年)Jugend」ということに、「反時代性」の真正性の保証が求められる)。「古典文献学」およびそれにもとづくこの感覚だけは、どういうわけか、歴史学の「熱病」の影響をなんら蒙らないかのようである」(p.84)と難ずる須藤は、その直前に「だが、「古典文献学」とは過去についての一歴史学でなくて、なんであろうか。そうだとすれば、「歴史病」の事実と正体を暴くはずの古典文献学それ自体も、したがって、古典文献学徒としてのニーチェ自身も、根底的に「歴史病」を病んでいることになろう。同じ病に罹患している者に、病の本体が剔抉できるだろうか」(p.84)と問うてゐたが、この修辭疑問は適言だらうか。歴史學や文獻學を輕くあしらふのは、どうも不用意でないか。
他方で同時代への批判については「「時代のやましい良心」であるとは、「時代」の「病」に罹患しているのみならず、罹患していることを適確に悩み意識しているということにほかならない」(第六章三p.250)と言ひ切ってもゐて、共に病人扱ひでも「デカダンスという中毒症に罹患した近代人」(仝p.249、序文p.17)に自己解剖ができると認めるのに歴史病患者(の古典文獻學徒)にはできなからうと見縊ったのはどうしたわけか。『ヴァーグナーの場合』での同時代批判が「『系譜学』の手法とパラレルである」と類比され、「「伝統」と「同時代」と[…]では、その認識や批判の方法は、具体相が一方で異なりつつも、深層において通底する」と相同が言はれる以上(第六章「四 おわりに」p.252)、竝行して、歴史中毒者も歴史的過去の認識(「発生史」)と批判とが可能であるはずでは? 歴史病患者における自己批判の困難さについて古典文獻學者たる前期ニーチェは自覺不足だったので「その超克の模索については、やはり、それから十数年後、後期ニーチェを待たねばならない」(第四章p.165)と言ふのが須藤の評する通りだとしても、それで、文獻學者の儘だったら未來永劫誰にもできないであらうことになるわけでもあるまいし、對稱性を損なってまで歴史病の方だけ治療の難度を上げる理由が何かあるのか。却ってそれどころか、「「伝統」としての歴史的過去と「同時代」という名の現在」の兩者は「その認識を試みる者に対し、いわばあまりにも「近い」がゆえに、認識困難となるのであって、その点では互いに共通している」と見ながらも、むしろ同時代の方が「「時間的距離」が基本的に欠如している」分だけ歴史的過去よりも形象化した像を結びにくい(pp.252-253.)と論じてゐたではないか。歴史病患者の歴史認識と現代人の同時代認識と、難度が高いのは一體どちらか。自身がそれによって形成されてゐる傳統を對自化するのと自己がそのうちに位置する現代の本質を剔抉するのと、果たしてどちらかがより難度が高いのか。……御都合次第でどちらでもいいのか?
のみならず、確かに文獻學には歴史學と相重なる所があるけれども、その面だけ見て歴史學の一種とまで決めつけるのは性急に一面化してないか。「過去についての一歴史学でなくて、なんであろうか」(p.84)とは反語の疑問文であり「否、それ以外の何ものでもない」以外の應答は豫期してないのだらうが、歴史學ではない文獻學の特性が何であるかと假にも問ふのであれば、同じく第二反時代的考察の序言結尾を引きながら「ニーチェの告白を見ている中に真正なフィロローグ[文獻學者]にはヒストーリケル[歴史學者]をせめる責務があるのかもしれないという気がしだした。古典文献学と歴史学との間にはぬくべからざる垣根があって、どうしても折合いのつかないものがあるのではないだろうか」と問題提起した斎藤忍随の「フィロローグ・ニーチェ――ニーチェ・コントラ・ブルックハルト――」(*8前掲『幾度もソクラテスの名を Ⅰ』p.59)を想起すべきではなかったか(これを參考にして拙文「アナクロニズム」で註疏*8に少々辨じたが、もっと本格的な論考を誰か讀ませてくれないか)。斎藤忍随の名は本書卷末「人名索引」には立項無いけれど第二章「二 「正義」の問題」(p.88)に著書『知者たちの言葉』を參照してゐるし、第四章でも初出では同じ書を擧げたのを本書では「先にも記したように」(p.163)とだけ加筆して斎藤著への言及を省略してしまった次第だが、同じ著者の古代ギリシア哲學紹介書だけ掲出して肝腎なニーチェ論を默殺するのはニーチェ研究書として不自然でないか。斎藤論文以外でも、「HistorieとPhilologieの相反」は西尾幹二の評傳『ニーチェ 第二部』第四章第三節(中央公論社、一九七七年六月、p.311以下→『西尾幹二全集 第4巻 ニーチェ』国書刊行会、二〇一二年十月、p.595以下。Cf.『西尾幹二全集 第4巻』「追補 渡邊二郎・西尾幹二対談「ニーチェと学問」」p.745以下)が小見出し立てて論じた所であり(同書「あとがき」p.391→全集版p.679に據れば「斎藤忍随氏からは、[…]古典文献学とニーチェとの関係をめぐっても貴重なヒントを与えていただいた」とか)、古典古代を規範と仰ぐ面が各時代を等價に眺める客觀主義と相容れないので文獻學は歴史學と同一視できないと説く異論が既に存する以上、先行研究を踏まへてそれらへの反論として自論を提出しなくては論文作法に悖らないか。研究史に目を瞑って自説に不都合な文獻は相手にしないのが歴史思想を論じる著者の心術か。それとも失念したのか知らなかったのか、それでもせめて斎藤論文や西尾著にも援引されたW・イェーガー「文獻學と歴史學」(未邦譯なれど藤井義夫の紹介書評はあり、東京商科大學一橋論叢編輯所『一橋論叢』第二卷第一號、岩波書店、一九三八年七月→改削『哲學的人間の形成』序論「補遺 「文獻學と歴史學」」弘文堂書房、一九四三年九月。三島憲一「イェーガー」*5前掲『ニーチェ事典』p.23も看よ)等のニーチェ論を離れた一般論へと行き着いてこの二系統の學知の異同比較論に想ひ到っても良かりさうなものでは? 第一、ニーブールからランケ前後の史學史を少し調べれば知れることだが、文獻學を一種の歴史學と分類するのは系統發生上から言へば逆さまで、諸學を培った文獻學からその新種として近代歴史學も發達し母屋を乘っ取る形となったと觀る方が史實に即してないか。さういふ學史に依據した上で、西尾幹二も「すなわち、ニーチェの否定したのは文献学ではなく、文献学の歴史化であった」(「58 古典文献学とニーチェ――かつて文献学たりしもの、今や哲学となれり」、渡辺二郎・西尾幹二編『ニーチェ物語 その深淵と多面的世界』〈有斐閣ブックス〉一九八〇年十二月→渡邊二郎・西尾幹二編『ニーチェを知る事典 その深淵と多面的世界』Ⅲ「B 諸学の中におけるニーチェ」、〈ちくま学芸文庫〉二〇一三年四月、p.473/改題「「
しかも、文獻學者たることと反時代性との結びつきに對して疑ひを插むのならば、正に『反時代的考察』の續篇にすべく書き掛けた「我ら文獻學者」草稿群が遺されてゐること、そこで古典文獻學教授たる自身を含めた文獻學の自己批判をニーチェが試みてゐたこと、これらの事どもに關して一語も無しで澄ましてゐるのは手落ちではないか。なぜ「我ら文獻學者」(前掲『哲学者の書』「Ⅷ 「われら文献学者」をめぐる考察のための諸思想および諸草案」)を一顧だにしないのか、批判版全集では「遺された斷片」の中に解體されてしまったからだらうか。夙に三島憲一「初期ニーチェの学問批判について――ニーチェと古典文献学」(氷上英廣編『ニーチェとその周辺』朝日出版社、一九七二年五月→前掲『ニーチェとその影』所收)は「我ら文獻學者」に論及してゐたがあの讀み方(拙文「アナクロニズム」註疏*10に批判)でもう間に合ってゐるとかだらうか、だったら三島であれそれ以外であれ註で參照するだけでもしておくべきでないか。自體、文獻學とはニーチェにとって何であったかの判斷は、「我ら文獻學者」に限らずとも他に文獻學についてニーチェがどう書いてゐるか、それらを全然檢討しないで片付くことだらうか。いつもながら自家撞着も辭さぬニーチェは贊否兩論述べてゐて文獻學への思ひは愛憎こもごも
須藤は『反時代的考察』第二篇序言に對して「そこには、自分のうちに食い込み自分に同化してしまった時代の「病」からいかにして距離をとりながら対処するのかということに関する切実な問題意識は感じられない。だが、それこそ、後期ニーチェが「系譜学」などをモットーに格闘することになるテーマなのだ」(第二章一p.84)と評し、「その一証左として」十四年後に刊行された『ヴァーグナーの場合』序言との對照により時代批判者が「古典文献学者」から「哲学者」へと役替へしたことを見出し(pp.84-85、第六章註(10)pp.262-263に要點再掲。*8後半も看よ)、前者から後者へ至る間には「さらに十数年に及ぶ思想的苦闘が要求されたのである」と時間上の經過を思想上の懸隔に變換し、「いずれにせよ、後期に至ってニーチェが「生に対する歴史の利と害について」を回顧した際、自分も「歴史病」に罹患していたことが強調されはしても、「古典文献学者」であるがゆえの「あのわたしを苛む感覚」――同時代への批判の真正性を保証してくれる特権的感覚――への言及がもはや皆無となる」(p.85)と結論するのだが、「後期」の結果から目的論的に「前期」を顧みるために『反時代的考察』前後に潛在した可能性を見損なってないか。未定稿「我ら文獻學者」もその潰えた可能性の一つだったのでは? もし過去も現在も別樣であり得たとしたらどうだらう。「「歴史」は、新たな、ないし未発に終わった可能性の貯蔵庫として、その限り、非連続的なものとして、理解されることができるし、またそうされねばならない」即ち「「歴史」が「偶然」の「とりきめ・しきたり」だとはこのことである」(第五章「三 「偶然」としての歴史」p.216)と言ひ、「「系譜学」は「とりきめ・しきたり」としての「偶然性」を暴露する。[…]いずれにせよ、「現在」は、また「歴史」を規定し担う伝統は、数ある新たな、また未発の可能性にまぎれた、一つの現実化した可能性にすぎなくなり、非連続的存在として剥き出しにされ、そうしたものとして批判に差し向けられる」(仝p.217)と云ふ*9のであれば猶のこと、ニーチェのテクスト群をも偶然としての歴史の産物と見做し、「「歴史」の「偶然性」――[…]この視座からするなら、「歴史」とは「無駄」と「犠牲」の巨大な堆積にほかならない」(p.215)と言ふその無駄な犧牲にも目を注ぎたいものではないか。だのに、この第五章における偶然論に反して、生憎と序文で「本書の意図」をニーチェに於る「思想的変遷を――変遷の内在的理由ともども――追跡することにある」(p.9)と宣言するやうでは、所詮「「歴史」のこの本質的「偶然性」が、「不合理」が理解できない。[…]「歴史」には、何らかの形で法則性なり方向性なりが内在すると思念されてしまうのである」(第五章三p.214)……つまり著者は自ら非とした「「歴史」を「合理化」しようとする、この体制化された抜き去りがたい心性」(p.214)「起源と現在の「転移」の体制化された心性」(p.215)を脱却し切れずにゐて、それだから外發的偶因の犧牲になった無駄な混亂は認識外に排除されざるを得ないのでは? となると、少なくとも「我ら文獻學者」の試みは論點に値しない徒事だと著者は否認したのか(それなら無視でなくさう明記すべきだが)、それとも遺稿中に埋沒した續『反時代的考察』の試行錯誤なぞ
いやいや、本書の帶にも記された内容紹介文は「ニーチェの全著作を膨大な遺稿群も含めて隅々まで踏破し」と謳ってゐるし、本書でニーチェの遺稿斷片からちょこちょこ利用してゐる著者には釋迦に説法、今さら言ふまでもないか? はたまた、言ふは易し、か。名のある成書を知った後から山積みの未成稿群を讀んでも無駄な冗長性(Cf.山内志朗『〈畳長さ〉が大切です』〈双書 哲学塾〉岩波書店、二〇〇七年九月)にしか見えず精々が補足扱ひか、或いはその逆に、
[…]ニーチェ哲学の全貌は遺稿をまつまでもなく、公刊著作のうちに基本的に現われているという一部の論者の主張にはやはり無理がある、といわざるをえない。こうした理解については、遺稿を知った者の目で後知恵的に著作をみれば、そうも言えるところがある、というのがせいぜいのところであろう。
補論3第一部註(8)、p.388
後知惠バイアスは歴史認識に附き纏ふもの、要注意か。さうとも、著者は言はなかったか、「ヘーゲルとニーチェ――それは「犠牲」をめぐる「歴史」の意味構成の分岐点にほかならない。(完成した)「歴史」の意義によって「犠牲」を正当化するのか、それとも、「犠牲」をもって「歴史の意味」の可能性の礎とするのか――」(補論4「三 「犠牲」の行方」pp.416-417.)と? また言はずや、「ここで、議論はきわどい局面にさしかかることになる。なぜなら、「犠牲」や「無駄」が「超人」の存在を可能ならしめると考えるのではなく、逆に、「超人」を「目的」として「犠牲」は捧げられると、ともすれば発想されてしまうからである」(仝p.415)と? さう、ともすればニーチェですら(!)曾ての學者時代の文業(『反時代的考察』第三篇「教育者としてのショーペンハウアー」六)を想ひ返した際に「一つのもの[哲學者を指す]になるために――一つのものに達しえんがために、多くのものであり、多くの場所にいたということが、とりもなおさず私が利口であるゆえんなのだ」(『この人を見よ』「反時代的考察」三、前掲ちくま学芸文庫版p.110)と手柄話にしてしまったみたいに、目的に收束しなかった無駄な經路は認容されないか、現在と不整合な過去が出て來ても結果に合はせて正當化されがちではないか。『道徳の系譜學』第二論文第十二節より敷衍して須藤曰く、「どれだけの「無駄 Unkosten[=冗費]」や「犠牲 Opfer」を要求するのかで、そのものの意味や価値が決定されてくる」(第五章「二 「経済」としての原理」p.209)、「それどころか、「犠牲」ないし「無駄」こそが「歴史」の意味を形作ると考える。」(補論4三p.414)……「しかし、力の過剰において可能となるのは例外や逸脱にほかならない以上、本来そうした例外や逸脱を締め出すものとして構想されていた「経済」にとっては、それは皮肉な結果といわねばならないだろう」(補論3第一部「三 世界の「経済」」p.363)……文獻學者ニーチェは哲學者ニーチェの形成を目的にした犧牲だったのだらうか、さうではなくその不經濟な無駄が(
哲學者たることへ收斂させようとするのは、著者が哲學科出身だからか、そもニーチェの時代から哲學者は文獻學者以上に威信ある肩書きだったからか……大學就任講演での締めの
ニーチェは『この人を見よ』の扉に「人は如何にして本来のおのれになるか」Wie man wird, was man ist? の一句をサブタイトルとしてえらんだが、これに私は卑俗なUmdeutung[再解釋、改釋]を施して、ニーチェは始めフィロローグであった、そして最後に矢張りそのフィロローグになったという意味にとりたいような気がする。
斎藤忍随「ニーチェとクラッスィッシェ・フィロロギー」『幾度もソクラテスの名を Ⅰ』前掲書p.49(初出一九五〇年九月)
同趣向でもっと深刻さうに述べた變奏も竝行する――恐らく、つい口にしたくなる聯想であり、利いた風でゐて「卑俗な」紋切型なのかも?
運命愛 amor fati の思想とあい表裏する、ツァラトゥストラ・ニーチェの達しえた永遠回帰の思想、それゆえにこそ最晩年のあの自伝的遺著『この人を見よ』の副題としてえらばれた、ピンダロスの〈汝が在るところのものになれ〉に由来すると言われる〈いかにして人は、人が本質的に在るところのものに現実的に成るか〉Wie man wird, was man ist の一句を想起するなら、フィロローグとして出発したその生涯が、またフィロローグとして終わったという、この回帰的な出会いの根底に、ニーチェ的人間の本質がさぐりあてられうるのではなかろうか。
原佑『ニーチェ 時代の告発』「序章 フィロローグ・ニーチェ」以文社、一九七一年十月、p.14
(『ニーチェ世界觀の展望』春秋社、一九五〇年八月、p.8の改稿)
似たことは須藤とて前著で書いてゐたのに、よもや忘れたか(ニーチェが後知惠で自己正當化したやうにも讀めようが)。
ピンダロスの詩句を典拠としたものであるが、was man istは「本来のおのれ」とも「現在の自分」の意味にも取れる。[…]
『この人を見よ』「利発」第九節では、自分が文献学者であったという、was man istからするなら、「回り道」「失策」であり自己誤解であったものが、それでもwas man istにとっておおいに役立っているのであって、その限り、わが「我欲」「自己陶冶」の意識されざる「利発さ」の表われであった、とも述べられている。
『ニーチェ 〈永劫回帰〉という迷宮』「第一章 ニーチェの「始まり」――INCIPIT…」中「6 再び自伝へ――『この人を見よ』」前掲書pp.73-74.
それはつまり、文獻學と訣別して哲學者へ轉身したと思ひきや、脱ぎ棄てた筈の文獻學が未完了な過去として猶も爾後の哲學に影響を及ぼし續けたと云ふことにならないか。……何やら「抑壓されたものの回歸」か反復強迫のやうな、或る種の文獻學的なものの繼續としての哲學?(または、手替へ品替へ續行される文獻學の試みとしての哲學?)
彼[ニーチェ]にとって哲學とは、つねに宙吊りな[en suspens=未決の]一種の文獻學、期限無しの、つねにもっと先へと繰り擴げられる文獻學、決して絶對的な固定はされぬであらう文獻學でなければ、何なのか。
M・フーコー「ニーチェ、フロイト、マルクス」、『ミシェル・フーコー思考集成 U』*5前掲書p.410相當
ニーチェにおける文獻學は古層と言ふか執拗低音と云ふか、民俗學で謂ふ殘存(survivals)に似て、前期後期を截然と切り離す時代區分に固執しては殘存は前代に押しやられてしまってそれが今なほ現存してゐる現在性に意味を見出せなくなるが、「前代というものは垂氷のように、ただところどころにぶら下ってきているのではないか」(柳田國男「民俗学から民族学へ」中「時代區劃という概念」、『民俗学について 第二柳田國男対談集』〈筑摩叢書〉一九六五年九月、p.66。「實驗の史學」五、『定本 柳田國男集 第二十五卷』筑摩書房、一九六四年一月、p.512=『柳田國男全集 22』「日本民俗学研究」中「採集期と採集技能」五、筑摩書房、二〇一〇年九月、pp.417-418も看よ。「民俗学から民族学へ――日本民俗学の足跡を顧みて」「実験の史学」共に、柳田國男『日本の民俗学』〈中公文庫プレミアム・日本再見〉二〇一九年六月、所收、p.317・pp.167-168.)。謂はば斷層面に露出した「生きてゐる過去」(アンリ・ド・レニエ)が文獻學か。ニーチェが「先史とはあらゆる時代にそこにあるもの、換言するなら、再び可能であるところのもの」(第四章四p.190所引、『道徳の系譜學』第二論文第九節。前掲ちくま学芸文庫版p.443相當。Cf.「生に對する歴史の利害について」草稿NF-1873, 29[34])と書き添へてゐたやうに、それと似て折口信夫の愛用語である「發生」(一九四七年初刊『日本文學の發生 序説』「聲樂と文學と」中「三 短歌の發生」初段→『折口信夫全集 第七卷 國文學篇 1』〈中公文庫〉一九七六年二月、pp.227-228.→『折口信夫全集 4 日本文学の発生 序説(文学発生論)』中央公論社、一九九五年五月、pp.182-183參照。ニーチェとの類比は神崎繁『ニーチェ』前掲書Ⅰp.37參看)が古代に盡きず後代なほ繰り返し再生し續けるものを意味したやうに、文獻學もまた……? 起源ではなく發生であるとは、蓋し「常に新たに相次ぐ誕生中」(『悲劇の誕生』四、ちくま学芸文庫版p.52相當)と云ふ生生流轉、ぶくぶく湧き立つあぶくの如く刻々と散じては現ずる生滅去來を謂ふか。「よどみに浮かぶうたかたはかつ消えかつ結びて」(『方丈記』第一段)……「カバラによると、神は毎瞬に無数の天使を新しく創出する。それらの天使の定めは、無のなかへ溶けこむまえに、おのおのが神の玉座のまえで一瞬神の讃歌をうたうこと、だけである」(野村修『ベンヤミンの生涯』〈平凡社選書〉一九七七年一月、「序 三つの天使像」p.11所引→〈平凡社ライブラリー〉一九九三年八月、p.13所引。道籏泰三譯「アゲシラウス・サンタンデル〔第二稿〕」『来たるべき哲学のプログラム』晶文社、一九九二年十二月→新装版、二〇一一年十二月、p.365相當/浅井健二郎譯「アゲシラウス・サンタンデル〔第二稿〕」浅井健二郎編譯『ベンヤミン・コレクション3 記憶への旅』〈ちくま学芸文庫〉一九九七年三月、pp.12-13相當)と記すベンヤミンが、この傳説を「真のアクチュアリティー」の「はかなさ」(das Ephemere)を譬喩するのに用ゐてゐた(野村修譯「雑誌『新しい天使』の予告」『暴力批判論 他十篇――ベンヤミンの仕事 1――』〈岩波文庫〉一九九四年三月、p.103/浅井健二郎譯「雑誌『新しい天使』の予告」浅井健二郎編譯『ベンヤミン・コレクション4 批評の瞬間』〈ちくま学芸文庫〉二〇〇七年三月、p.24相當)のも想起されようか。要は、毎瞬絶えず繼起する生成(と消滅)において現在性が成立するや否や、同時に、既にその發生源として「先史」(Vorzeit)とも呼べるやうな先行の何かが想定されてしまってゐる、と考へてよいか。しかし連續創造説(村井則夫『ニーチェ 仮象の文献学』「Ⅴ 仮象としての世界――ニーチェにおける現象と表現」中、一「(ⅱ) 力と自己保持」p.227參照)みたいで哲學好みだらうが、如何せん、「つねにすでに」式の汎時的な一般解は歴史性を無化してしまふから、常住不斷と言っても始まりと終りのある或る區間内に限ってのことと辨へるべきか。兎まれ、實在しながらも必ずしも現働化しない潛勢力のやうに、文獻學が哲學の底流をなすと考へられるのなら?
實は須藤も第三章第三節の初出「「習俗の倫理」について」(前掲pp.1-2.)では、「ニーチェが『曙光』(1881年)に1886年になって追加した序文(第5節)」から「私が文献学者であったのは無駄[umsonst=甲斐無し]ではない。私はいまなお文献学者だろう、つまりゆっくりした読み方の教師だろう」以下を引用し、『道徳の系譜學』序文第八節で讀解の爲には反芻を要すると告げた結語に重ねてゐたのだけれど、本書收録に際し文獻學と解釋論に關するそこら一帶がざっくり刪除されて活かされなかったのはなぜだらう……第二章や第四〜六章との不整合を收拾しかねた?……單に紙幅の都合とでも? ニーチェが文獻學を誇る言辭は『アンチクリスト』四七・五二(*8前掲『偶像の黄昏 反キリスト者 ニーチェ全集14』ちくま学芸文庫版pp.241-242・pp.251-252.)にも見え、後者は「「習俗の倫理」について」(p.6)も引合ひに出した所で、最後の著作活動をした一八八八年に稿成ったものだが、それすら一時的な搖り返しだとでも? 『この人を見よ』の回想では「わたしの最初の文献学上の仕事、あらゆる意味におけるわたしの始まり」(前掲『ニーチェ 〈永劫回帰〉という迷宮』第一章2p.29所引「なぜわたしはこんなに利発なのか」第九節、ニーチェ原文の強調體に合はせ傍點を補った。前掲ちくま学芸文庫版p.71相當)と言ふやうに文獻學の處女論文が斯學に留まらぬ全般的な意義を擔ってニーチェの始源に定位され、他面、大學離職(一八七九年)前後には「どんなに長い時間がすでに浪費されてしまったか――私の文献学者としての今までの全生活が私の使命に照らしてみるとなんと無益に[nutzlos]、気まぐれにみえることか」(『この人を見よ』「人間的な、あまりに人間的なもの および二つの続編」第三節、ちくま学芸文庫版p.115)と自省したとも言ふのだから、何とまあ極端な振幅で動搖したことか。それでも、「私が意地悪く、間違った解釈技術に文句をつけずにおられないというのも、年来の文献学者のやることとして容赦せられたい」(『善悪の彼岸』二二、*1前掲ちくま学芸文庫版p.49)と言った風に幾分輕口めかしてゐようと、文獻學で批評眼を修錬した事自體は搖るぐまいが? それらを見て、文獻學者ゆゑの特權的感性を自負する姿勢がなほも斷續してゐたとしないのは何ゆゑか、「生に對する歴史の利害」の頃とは何が違ってゐると言ふのだらう? ……もしかして、變はったのはニーチェである以上に須藤の考へだったとか? どのみち反證となる諸文書を見ぬ振りしなくては論を進められぬやうなら、文獻學を過小評價する本書の問題の立て方にこそ問題があったのでないか。
よしんば『曙光』序文その他書證はそっくり度外に置くとし、たとひ「後期に至ってニーチェが「生に対する歴史の利と害について」を回顧した際、[…]「古典文献学者」であるがゆえの「あのわたしを苛む感覚」[…]への言及がもはや皆無となる」(p.85)とした所で、沈默は否定と見做せるか、批判の據り所が文獻學者たることにあるのは否認できるか。曾て「敢へて公的に發言する者は、自分の意見を變へるや直ちに、公的にも自らに反論する[widersprechen=矛盾する]ことを義務づけられる」(NF-1876, 21[23]。Cf. 21[66]・23[159])と手帳に書き留めたニーチェにしては、あるべき自己論駁さへも皆無のまま默許してゐることになる(矛盾!)のだが? 無定見の誹りを免れようとてか、自らを脱皮する蛇(『曙光』五七三等)に比するのは聞こえは良いが、剥いだ皮と向き合はずに濟むとでも? 居直って「勝手ながら私は私[の言ったこと]を忘れることにさせてもらふ。なぜ矛盾し[てはいけ]ないのだ!」(NF-1881, 12[127]。Cf. 1887, 11[92])と嘯くのが、今日は昨日の我ならずの類句(Cf. NF-1881, 12[128]、『ツァラトゥストラ』第一部「山の木について」11段、宮本武藏『五輪書』水之卷後書)で自己超克の謂だとしても、無責任に昨非を忘れ去っては過去の克服にもならず不誠實なだけでは? 皮肉にも「肯定的にして否定的。――この思索家は、自分に反駁してくる相手をひとりとして必要としない。そのためには自分だけで十分である」(『人間的、あまりに人間的 Ⅱ』第二部二四九、ちくま学芸文庫版p.448)と自贊した割には自己否定が不十分だったにせよ、他者からの批判を呼び込む異論の種ぐらゐは蒔かれてゐないのか。無かったことを確認する不在證明は悉皆調査を要して煩に堪へないからか、須藤は皆無と決め込んで何ら例文を擧げなかったけれども、そこに檢討の餘地ありとすれば?――そもニーチェの舊作回顧としては、一八八六年より翌年に掛けて舊著を再刊した中で五點は『悲劇の誕生』卷頭「自己批判の試み」を始めとする新版序文を附したのに、何のつもりか再版『反時代的考察』全四篇にだけ著者の申し出により(一八八六年八月廿九日附エルンスト・ヴィルヘルム・フリッチュ宛書翰)自序の追加が無かったこともあって、その缺を補ふ代替が求められようか。いや『反時代的考察』にも、NF-1877, 22[48]や1881, 12[220](「若書きにしてユヴェナリス風諷刺 Juvenilia et Juvenalia」云々の自評が一八八八年二月十九日附ゲオルク・ブランデス宛書翰と共通)、1885, 35[48](≒*8前出『生成の無垢 上』一二九六・pp.659-661、但し表題「序言[Vorrede.]」が闕文。下記異稿群とも比較せよ、NF-1884, 26[406]=*8前出『生成の無垢 上』一二八六、1884, 26[408]、1885, 40[58]=『生成の無垢 上』一二九三、NF-1885, 41[2]1.≒『生成の無垢 上』一二八八→改稿『善惡の彼岸』三一、NF-1885, 41[2]2.=『生成の無垢 上』四二六Ⅱ・p.281=『偶像の黄昏 反キリスト者』「附録Ⅲ 『ヴァーグナーの場合』のための最初の覚え書き」四六Ⅱ・*8前掲ちくま学芸文庫版pp.475-476.)や1885, 2[201](=『生成の無垢 上』一二八一)等、後から序文を書き掛けた形跡はあるので、遂に書きあぐねた理由が分析されるべきだったのではないか(見た所、全四篇の總序とするには第四篇のワーグナーへの想ひが收拾つかないで均衡を失したか)。本書(第二章註(2)p.112)が參照だけしたJ・ザラクヴァルダの第二反時代的考察研究をもっと掘り下げてみれば? 少なくとも、問題の『反時代的考察』第二篇に言及した作者後年の再解釋にはまづ『人間的、あまりに人間的』第二卷「序文」第一節(一八八六年)が擧げられ、そこで「「歴史病」を批判してわたしが述べたことは、その病からゆっくりと苦労しながら回復することを学んだ者として述べたのであって、一度[einstmals=曾て]それに苦しんだからといって、金輪際「歴史」はお断りというつもりの者としてなどでは決してない」(第二章一p.86所引、『人間的、あまりに人間的 Ⅱ』*1前掲ちくま学芸文庫版p.10相當。ニーチェ原文の引用符に合はせ「歴史」に鉤括弧を補った。Cf.草稿NF-1886, 6[4])と述懷したくだりは確かに文獻學こそ顧みられてないものの、あれだけ反歴史熱を煽った後に却って「歴史の手に落ちること」(『人間的、あまりに人間的 Ⅱ』第一部一〇、ちくま学芸文庫版p.30)となった自語相違への辯解がましいし、當時その病苦を感知した者が文獻學者であったといふ事實に沿って讀解を補完しても十分通じさうなのだが、どうか。また、『この人を見よ』(一八八八年十月執筆)が「なぜ私はこんなに良い本を書くのか」と題して自作自解を書き列ねたうち「反時代的考察」の章を開くとその全四篇中で第二篇は歴史論であることについてさして筆を費やしてないものの、同章全三節は第一節での『反時代的考察』各篇概要のあと改めて第二節で第一篇を詳述し第三節で第三・第四篇を追考したのになぜだか第二篇のみ全く再説せずに飛ばされるといふ片寄った構成であり、餘りに他篇との均衡を失して明らかな記述不足である分だけ却って何か
假に「後期」の哲學者が文獻學者時代の特權性を取り消したとしても、では文獻學以外で時流に反して歴史病批判を可能にした素因は何か、少なくとも「前期」に文獻學者であることによって時代批判者たり得ると思はれたのは何を以てのことであったのか、その疑問が未解決になるが放置しても構はぬのか。『反時代的考察』における文獻學者の氣負ひを最初から不首尾に終るものと見切るのは結果論でないか。後から見れば無根據な自信であったにしろ、やはりどのやうにして誤ったのか・何によって惑はされたかについて、往時における文獻學者の位置づけを知識社會史的に勘案した解明が要りさうな……當時それなりに何か文獻學者ならではの特別扱ひを見込める雰圍氣があったのでは? しかし、ニーチェも連續講演「われわれの教養施設の将来について」(前掲『哲学者の書』Ⅲ所收「第二講」pp.89-90.「第三講」p.107以下)や「我ら文獻學者」草稿でいま時の文獻學者どもの現世に即した順應ぶりを頻りと慷慨してゐた通り、古典文獻學を修めても大方は彼ほど非現代的にならぬと痛感してゐた筈だから、なればこそ一層問ひたくなるところ――文獻學は如何にして同時代批判となりしか? それともかう問ふべきか――誤解であらうとあるまいと、ニーチェとその時代にあって文獻學的批判が現代批判へ至り得るかのやうに思はれたのは一體、何が彼らをさうさせたのか? その經緯は、筋道は? 眞理であれ誤謬であれ、何であれその評價は一時「括弧入れ」しつつ(それこそニーチェの謂ふ「道徳外の意味における眞理と虚僞」として、或いは「善惡の彼岸」において?)、それを眞なり僞なりと觀ずることがどうやって發生し成立し傳播され繼受されたのか(または、し損ねたのか)を問ふことで自らの價値判斷への認識を新たにする――これ即ち「[…]これらの価値の価値がそれ自身まず一度疑問に付されねばならない――そのためにはそれらの価値が生い育ち、発展し、ずれ動いてきた諸条件や諸事情に関する知識が必要とされる」(第四章一p.172所引、『道徳の系譜學』序文第六節。第五章一p.198所引の譯文とは少しく異同あり)と言ふわけで、さうやって事の次第を主題化するやうに問題を歴史的に設定してこそニーチェの「歴史的方法論」(『道徳の系譜學』第二論文第十二・十三節、ちくま学芸文庫版p.454・455)に適ふ論じ方にならうものではないか。
いかなる種類の歴史学にとっても、次の命題以上に重要な命題は存在しない。[…]――すなわち、事物の発生の原因と、それの最終的な効用や事実上の利用や目的の体系への組み込みとは天と地ほどかけ離れているということ。なんらかの現存のもの、なんらかの仕方で成立しきたったものは、優位に立つ力によって新たな見解にもとづいて繰り返し解釈されてゆき、新たに占有され、新たな利点のために向き替えられ作り変えられてゆくのだということ。[…]
『道徳の系譜學』第二論文第十二節、『ニーチェの歴史思想』第五章三pp.212-213所引
問題となるその事柄の推移を歴史的に把握すると言っても、結果論や起源論に還元されがちだが、兩端いづれにも偏しない過程論とでも言はうか、變化それ自體の成り行きを見据ゑるのが蓋し史眼か(その變はりゆく中での異同を訂せば文献學者流か?)。
それに、後期ニーチェが「歴史的過去および同時代の双方を含めた意味での「時代」」(第四章p.164)を相手取って挌闘したのは本書主要部と目される第四章から第六章に述べられた次第だが、『道徳の系譜學』等で歴史的考察はなされても結局そこでも歴史病の本態を剔抉することはなされなかったみたいなのはどうしたことか。
歴史的教養の根源――そして、「新時代」の精神、「近代意識」の精神に対しこの教養が内的にまったく根本的に矛盾することの根源――この根源それ自身が再度歴史的に認識されなければならない、歴史が歴史自身の問題を解決しなければならない、知はその棘を自分自身に向けなければならない――この三つの「なければならない Muss」が、「新時代」の精神の命法となる、新時代に本当になにか新たなもの・強力なもの・生の約束となる根源的なものが存在するとしたら(S. 302)。
第二章「一 題名の問題」p.82所引
この第二反時代的考察第八節を出典とする箇所は、歴史(學)*10自らに反省を促す際に繰り返し引かれる或る種の名言となってをり(例、シリーズ〈歴史を問う〉全六卷、岩波書店、二〇〇一年十一月〜二〇〇四年六月。各卷頭に毎度掲げられた「編集委員を代表して」の上村忠男による「序にかえて」p.vi。のち、上村忠男「〔提題〕歴史の暮れ方に歴史を再考する」『知の棘 歴史が書きかえられる時』岩波書店、二〇一〇年十月、p.90、に吸收)、右の引用句を約めて須藤は「歴史の歴史」(p.82、cf. p.80)と呼んだが、その意味でのメタヒストリーを、つまり道徳の系譜學でなく歴史の系譜批判をニーチェのテクストから引き出して來ない限り、「しかし、歴史的教養それ自身はどこに由来したのだろうか」(p.81)と言ふ問題は棚上げにされた儘なのでは……? ここでの「歴史の歴史」はいまだ「希望的観測に、予感にして要請に、留まっていたといわねばならない」(p.82)と評される程度であったにせよ、以後(「後期」ニーチェ、乃至はポスト・ニーチェ)もなほ實行が伴はぬ掛け聲倒れなのか。心性史の豫言者さながらに「これまでのところ、存在[Dasein=生存]に色合いをあたえていたもののすべてが、まだ歴史をもたなかった。いいかえるなら、どこに愛の歴史が、貪欲の歴史が、嫉妬や良心の歴史が、敬虔や残虐行為の歴史があるというのだ?[…]」「以上の観点や資料を委曲をつくして調べあげるためには、すべての時代の人々[Geschlechter=世代]ならびに計画的に共同研究する学者たちの幾世代かを必要とする」(『悦ばしき知識』七「勤勉な者たちのための数言」、ちくま学芸文庫版p.68・69)と新しい歴史研究の課題群を提言したニーチェは、五年のち「ある場合に、私はこうした種類の歴史に対する嗜好や天分を煽りたてようと手をつくしてもみたが、――今になって見れば、それも詮ないことだった」(増補『悦ばしき知識』第五書三四五、仝p.374)と人頼みを悔いて「よろしい! まさにそれこそ、われわれの仕事なのだ。――」(仝p.376相當、第四章三p.185所引)と結語し、有言實行するかの如く『道徳の系譜學』に取り掛かり同年内に刊行を見た次第なれど、だが、それら多種の「〜の歴史」の中で根本問題たる「歴史の歴史」はどこへやってしまったのだらう。「「歴史の歴史」とは[…]現在を成立せしめている過去を現在から問いなおすという、ある意味では自縄自縛的な試みである。[…]――こうした洞察と問題意識こそ、後期ニーチェの「系譜学」の発条であるとともに、「現在」(同時代)をいかに捉えるかという点で、『ヴァーグナーの場合』とも繋がってゆくものである」(p.82)とのことだけれど、しかし、そこで問題設定がずれて歴史(學)そのものを的とする狙ひを逸らしてしまったのでないか。「「認識者」それ自身の、つまりは「科学」の、「系譜学」もまた、「道徳の系譜学」の不可欠の中核部分をなす」(第六章三p.245)と言ふのは尤もながら、更にその諸科學の中でも歴史學とその諸科學における歴史志向とに問題はあったこと、そこに絞り込んで系譜を糾すことを忘れてないか。『道徳の系譜學』第三論文「禁欲主義的理想は何を意味するのか」第二十三節以下が「無制約的な「真理への意志」を本質とする近代科学それ自体の「系譜学」」として「キリスト教道徳に内在した「誠実性」の徳に由来すること」を暴き出した(第四章三p.186)とは言へ、眞理(Wahrheit)が誠實性(Wahrhaftigkeit)といふ徳目よりして求められたと述べるだけでは話が大きすぎで具體性に乏しく歴史的
本書では沒却された箇所にも目を通せば『道徳の系譜學』でもメタ歴史論の兆しぐらゐは拾へるものの、歴史學者ランケを擧げたり(第三論文第十九節、前掲ちくま学芸文庫版p.550)「近代の全歴史記述」(仝第二十六節、p.575)を云々したりは禁欲主義批判の「ついでに[anbei=添へて]」(仝p.549)觸れたに留まり、史學史よりすればいづれ掻い撫での側面攻撃に過ぎないので、これらを歴史の系譜論的反省に繋げるにはどうしたものか。「禁欲主義的僧侶」(第三論文第十一節以下、ちくま学芸文庫版p.515〜)を槍玉に擧げるなら心理學に趨る前に教會史を繙いて修道院制を掘り下げて貰ひたかった所(Cf.ジョルジョ・アガンベン/上村忠男・太田綾子譯『いと高き貧しさ 修道院規則と生の形式』みすず書房、二〇一四年十二月)、何より歴史學との關係ではベネディクト會修道士のうち古文書學の確立者ジャン・マビヨン(宮松浩憲譯『ヨーロッパ中世古文書学』九州大学出版会、二〇〇〇年二月)ら十七世紀サン・モール學派の功績(佐藤彰一『歴史探究のヨーロッパ 修道制を駆逐する啓蒙主義』〈中公新書〉二〇一九年十一月、第三〜四章參照)が特筆されるべき所だが、ニーチェには知られてなかったのだらうか。「歴史の歴史」としてまづ史學史から着實に調べ上げようとする意氣込みを見せなかったのは、そして多少歴史(學)への論評はあってもそこから「歴史的理性批判」(ディルタイ、島田虔次)なり歴史的判斷力批判なりへと展開できなかったのは、病身で在野著述業となり渡り鳥暮らしであったニーチェ個人の不如意に留まらずその哲學自體の限界だったのではあるまいか――さもなくば、そもそもニーチェを「歴史思想」の方向で引き延ばすこと(プロクルステス風擴張讀解)に限界があったのか、それ故にこれ以上は無理になるとか? 自稱
押して他に歴史論絡みで讀み込むとすれば、『道徳の系譜學』が終結部に入る邊りか。「自己超克」を自己破壞的な逆機能より説いて「あらゆる偉大な事象は、それ自身によって、自己止揚の作用によって、没落する[gehen … zu Grunde(/zugrunde)=破滅・崩壞する/底に達する/根據へ行く。Cf. NF-1888, 20[73]=中島義生譯「詩集」中「五 ディオニュソス頌歌のための断片」69及び「訳註」213、前掲『ニーチェ書簡集U 詩集』p.552・618]」(第四章三p.187所引、第三論文第二十七節/ちくま学芸文庫p.581相當)と言ひ、「ひとつひとつ結論を引き出してきたキリスト教の誠実性は、最後にもっとも強力な結論を引き出す、自分自身に敵対する結論を。」(仝p.187所引/同前p.582相當)「われわれのうちにおいて、真理へのあの意志が[己れ自身を sich selbst]問題として意識化されるようになった」(仝p.188所引、[ ]内は須藤の譯文の缺脱を原文に據り補完。/同前p.582相當)と云ふ邊り、初意に反して自分に跳ね返ってくる曲折が世に謂ふ歴史の
あらゆる歴史は、これまで、結果[Erfolges=成功、成果]の見地から、しかも結果における理性の想定に基づいて、書かれて来た。[…]「もしもかくかくのことが起こらなかったならば、何が生じていたであろうか」という問いは、ほとんど異口同音に拒否されているが、しかし、これこそはまさに、枢要なる問題なのであって、それによって一切のものは、皮肉な[ironischen]ものになるのである。
『哲学者の書』「Ⅷ 「われら文献学者」をめぐる考察のための諸思想および諸草案」二(155)、ちくま学芸文庫版p.543=NF-1875, 5[58](Cf.仝(182)p.563=5[64])
歴史におけるイロニーは時に歴史の
蓋し「歴史の歴史」と號するのは、言ふなれば、自己認識する歴史か……「ショーペンハウアーにとって、歴史の意義とはなにより、人類の自己意識という点に存する」(序文p.7。須藤「学説と人格のあわい――「哲学史」の成立条件を求めて――」渡邊二郎監修・哲学史研究会編『西洋哲学史観と時代区分』昭和堂、二〇〇四年十月、7章「2 歴史は実在するか――ショーペンハウアーの場合」p.277からの流用、詳細はそちらを看よ)とやら、その延長上で「完全に記憶された[gedachte/想起された]歴史なら宇宙的な自己意識だらう」(『人間的、あまりに人間的 Ⅱ』第一部一八五、ちくま学芸文庫版p.142相當)だの「――かくして自己認識は、過去の一切に関しての総体認識となる」(前出『人間的、あまりに人間的 Ⅱ』第一部二二三、ちくま学芸文庫版p.167)だの「人類の歴史を総体として自己の歴史と感じる」(『悦ばしき知識』三三七、ちくま学芸文庫版p.355)だのと想像を膨らませるのをむしろ主客顛倒させ、「私たちは歴史一般の自己意識にほかならない」(前出『権力への意志 上』二一八、ちくま学芸文庫版p.222=NF-1887, 11[374])と云った意味での歴史的自意識過剩か? もはや個我の自己認識の擴張版や人間集團の集合自意識が語られたのが歴史なのではない、命題を換位しようか、總じて運行する歴史それ自身に自己意識が芽生えるにつれその一部を受け持たされたのが我々である……? 同樣に、「「真実のところ、歴史がわれわれに属するのではなく、われわれが歴史に属しているのである」というガーダマーの文章」(第六章p.224。ハンス=ゲオルク・ガダマー/轡田収・巻田悦郎譯『真理と方法 哲学的解釈学の要綱 Ⅱ』第二部第Ⅱ章第1節a「β 啓蒙思想による先入見の信用喪失」、〈叢書・ウニベルシタス〉法政大学出版局、二〇〇八年三月、p.437相當)を祖述して「人間に対して、歴史的伝統の方こそが「主体」であるといわねばならない」(第六章pp.224-225.)云々を辯じ立て、人間の被投性――ハイデッガー用語で、「既在」(Gewesen=既往、在來)と呼ぶ過去と特に對應させられる(『存在と時間』第六十五節原書S. 325-326及び第七十六節仝S. 396)――とでも言ひたいのか、歴史の中に抛り出された人間の受動性を認めて「その限り、人間は「歴史内存在」であって、歴史的伝統は人間にとって「背後遡行不可能」といってよい」(p.224)と内部閉塞感を募らせた上、それでも猶且つ「歴史は、「伝統」は、なんらかの形で、対自化され、相対化されなくてはならない」(p.225)と歴史外に出た超歴史的な視線を欲するのであれば、畢竟、歴史といふ主體が歴史自らを對象化(客體化・客觀化)しながら外に開いてゆく以外どうしやうもないことになるのが論理的歸結であって、まさしく「それはもはや歴史以外のものによる歴史の相対化ではなく」、かと言って「逆に歴史による超歴史の相対化である」(第二章二p.99)にも盡きず、今や歴史がその相對化作用を折り返して歴史自身に及ぼすのであり、いよいよ歴史知がその棘を自分自身にまで向ける時であり、最早「超歴史的なもの」とは歴史に對する解毒劑として「生存に永遠であり同じ意味をもち続けるものという性格を与えるものの方へ、すなわち芸術と宗教の方へ眼を生成からそらして向ける諸力」(「生に対する歴史の利害について」一〇、ちくま学芸文庫版pp.226-227)を指すどころか、むしろ歴史の・歴史による・歴史のための歴史として、歴史の圈外遙かに超越したと言ふよりは餘りに歴史的過ぎると云ふ意味での超歴史性があり、何なら、歴史の「自己止揚」とでも、歴史の自己反省・自己批判による自己差異化(分化)とでも呼ぶがいいが――固より歴史とは雜多で純一でなく自ら異他性を孕んだものなればこそ差異を分出し得るのだらうが――、この可能性を須藤は夢にも考慮しようとすらせず、それを、「[…]人間は歴史の主体であるし、そうでなければならない」(p.225)などと
他視點と云ふか、「より多くの眼、さまざまな眼」(『道徳の系譜學』第三論文第十二節、ちくま学芸文庫版p.520。Cf.『生成の無垢 下』五六・前掲書p.43=NF-1881, 11[65]、仝五七・p.44=1881, 13[5]、四四五・p.266=1881, 11[10]、NF-1881, 11[141]、『権力への意志 下』五四〇・ちくま学芸文庫版p.75≒NF-1885, 34[230])を取り込む多視點式
このように一度違った風に見ること、違った風に見ようと意志することは、知性がいつかその「客観性」に到達するための少なからざる鍛錬であり準備である。客観性とは言っても「関心なき[interesselose=沒利害な]直観」というのではなく(これは意味不明のナンセンスである)、自分の賛否を手中に収め自由にこなして出し入れする能力のことである。その結果として、まさしく多様なパースペクイティヴや情動的解釈を認識に役立てるすべを心得ていることである。(…)見ること・「認識すること」には[ein=或る・一つの]パースペクティヴ的なそれしかない[「遠近法的なものの見方、遠近法的な「認識」しか存在しないのだ」と譯した前掲「「習俗の倫理」について」p.10所引の方が原文に近かった]。一つの事柄に関してより多くの情動や眼が発言権を与えられ、多様な眼[je mehr Augen, verschiedne Augen=より多くの眼、樣ざまな眼]が投入されればされるほど、それだけいっそうその事柄に関するわれわれの「概念」、われわれの「客観性」はより完全になる(『道徳の系譜学』第三論文第一二節、Ⅵ2, S. 382f)。
「(補論2) ニーチェの「正義」論再考――「力への意志」の尺度をめぐって」p.320所引
これを要して「多数のパースペクティヴ」の「懐深い統合」(補論2p.322・324・325)と表現するのは、圓滿大度な包容力を慕ふ著者の性情か。さは言へ、「自己のうちなるパースペクティヴの数が増加するだけ、自己の潜在的力も上昇するだろうが、それだけいっそう自己解体の危険も増大する」(p.323)ので難行ではあり、複眼思考がこなせなくても本書だけを狹量と責められぬか。それでも「「歴史(物語り)」には、多数の本質的に異質な可能性が存する。[…]「語り」の主体の相克的多数性が、そこから直接的に帰結する」(補論4「二 「歴史」の語り部としての「哲学者」」p.412)と述べてゐながら、歴史の
夙に一八六七年頃大學生ニーチェは問うた、「歴史とは無限に異なった無數の利害關心がそれらの生存のためにする闘爭の
觀念論の止み難き性向か、とかく
歴史(學)は歴史(學)自體の問題を解決せねばならぬ(die Historie muss das Problem der Historie selbst auflösen)と要請されたのに、「歴史を歴史によって克服する」をモットーにしたトレルチ(但しキリスト教ヨーロッパの惡臭芬々なので要再審査)がやったみたいな歴史主義の歴史のやり直し、廣義の史學史の再檢討、ヒストリオグラフィー論といった歴史的實踐によって應じようとしないのはどうしてか。文獻學の定義である「認識されたものの再認識」(アウグスト・ベーク)よろしくニーチェ研究者はニーチェの書いた跡を後から追認すれどニーチェが求めた所を自ら追求しないのか、勞働を賤しむ哲學者は勤勉なる歴史學者に任せっ放しで問題を思想史として引き受ける氣にならぬのだらうか。もしも歴史學單獨では自力解決できさうになければ宜しく介入すべき所では? いや、もはや自己完結不能、内に納まらぬほど膨れ上がったとすれば? 想へばピヒトのニーチェ講義でも一再ならず引用されてゐたやうに、ニーチェが第一著『悲劇の誕生』(一八七二年刊)の一八八六年新版に寄せた「自己批判の試み」第二節には「学問の問題は、学問の地盤においては認識され得ない」(前掲ピヒト著p.161・167・168・236・251・320所引、前掲ちくま学芸文庫版p.14相當)とあったではないか――この否定文は「学問の」を「科学の」と譯す邦語版が多かったりニーチェの科學批判と見られがちだったりで、ここだけ取ると個別科學(特に自然科學)の諸問題を哲學論議に吸ひ上げようとする新カント派流儀にも通用しさうだが、原文脈は往年の若書きについてそこで初めて學問それ自身が問題含み(problematisch)として捉へられたと自評する流れでの插入句であって、その段をピヒトは「ハイデガーが初めて洞察したように(Ⅰ, 253[マルティン・ハイデッガー/細谷貞雄監譯『ニーチェ|Ⅰ 美と永遠回帰』〈平凡社ライブラリー〉一九九七年一月、p.300相當])、ここでの〈学問〉[Der Begriff »die Wissenschaft«]とは、真理との関係における知[Wissen]そのもののことである。つまりニーチェはここで〈学問〉という概念を、この他の多くの個所と同様に、ドイツ観念論の哲学が用いたような意味で使っている。〈学問〉とは、特殊科学[Spezialwissenschaften]のことではなくて、統一として捉えられた学問、つまり学問についての学[die Wissenschaft von der Wissenschaft]が考えようとするような学問の全体、すなわち哲学のことである」(『ニーチェ』第二部第一章「a 真理の知としての学問の問題」p.155)と講説してをり、既に眞理への意志までも糾問したニーチェである以上、哲學による科學批判どころかそも哲學自體を問題視してゐ、當の哲學思考が前提する
しかるに哲學畑の歴史論たるや……ヘルベルト・シュネーデルバッハ『ヘーゲル以後の歴史哲学 歴史主義と歴史的理性批判』(古東哲明譯、〈叢書・ウニベルシタス〉法政大学出版局、一九九四年七月)を讀んだ時*11にも思ったが、史學史に踏み込めないのは哲學者の限界なのかしらん? 一般に學際研究では越境が難事といふだけでなく、殊に哲學的
哲学者たちのところでみられるすべての特異体質とは何かとおたずねなのか? ……たとえば彼らの歴史感覚の欠如、生成という考え方自身に対する彼らの憎悪、彼らのエジプト主義である。彼らは、永遠の相のもとで sub specie aeterni、或る事象を非歴史化すれば、――それをミイラとすれば、その事象に栄誉をあたえたことになると信じている。哲学者たちが数千年来扱ってきたすべてのものは、概念のミイラであった。
『偶像の黄昏』「哲学における「理性」」一、原佑譯『偶像の黄昏 反キリスト者 ニーチェ全集14』〈ちくま学芸文庫〉p.38
ここまで切言されても歴史センスが身につかぬ哲學の徒は何たる鈍感さか。哲學をも歴史化して批判する所に意義を見出せぬなら一體ニーチェの歴史思想の何を讀んでゐるのだか。『道徳の系譜學』で「彼らには歴史的精神そのものが欠如している」「総じて彼らはみな、今もって哲学者たちの古風な習わしがそうであるがごとく、本質的に非歴史的な考えかたをしている」(第一論文第二節、ちくま学芸文庫版p.377)と當て擦られても讀み過ごす程に無神經なのか。まさか哲學(への批判)は他人事だとでも言ふのか、ニーチェ讀者が? 反ってニーチェ自身の半面でもある拔き難い哲學熱ばかりが傳染してゐるのだらうか。
それとも、ひょっとしてもしかして、哲學が歴史知(の歴史的批判)に向ふに
[…]病が二乗化され、昂進する危険[…]冪数の付された病的状態、極端化された病、病の「極」は、――そして、そのことでいえば、ニーチェの描き出す、病の「像」も、ことによったら、作者の意図をものの見事に裏切って――それだけいっそう強力な「魅惑」を発揮し、人々に批判眼を涵養するどころか、ますます多くの人々を巻き込み、感染させ、相乗的に自己増殖しかねないだろう。
「第六章 同時代の「根源」へ――『ヴァーグナーの場合』を読む」中「三 「楽士」の「拡大鏡」――「哲学者」の「やましい良心」」p.250
しかし、正にもう『反時代的考察』第二篇「生に對する歴史の利害について」からして、ニーチェに記述された歴史病の病像は、痛罵にも拘らず歴史へ惹きつけ歴史論を喚起する魅力が無かったか(偶數乘すれば
例へば、ヘイドン・ホワイト『メタヒストリー』(原著一九七三年初刊)の第9章「ニーチェ」が「一九世紀の他のほとんど全ての文化の領域と同様に、フリードリッヒ・ニーチェは歴史の領域でも転回点を刻み込んだ」(ホワイト/田中裕介譯「歴史への意志」青土社『現代思想』一九九八年十一月臨時増刊「総特集 ニーチェの思想」p.59)といふ語り出しなのは多分に紋切型ながら、まだその祖型が陳腐になり切る前の一九二二年の段階でも特に歴史論において「彼以前の人々にとって自明であったことが、彼にとっては問題となり、彼はその問題に思い悩み、[…]それゆえ、最近の歴史主義の危機と自己反省とは、大部分ニーチェに由来している」(近藤勝彦譯『トレルチ著作集 4 歴史主義とその諸問題(上)』第二章2、ヨルダン社、一九八〇年十月、p.212)と認められた通り、歴史の問題化自體が如何に多くをニーチェ效果に負ふことか。甲論乙駁、「この論文[「生に對する歴史の利害」]は、その大胆な主張をもって、津波のような反歴史的評論と評論的な
いかにも歴史病克服が若きニーチェの主意であったらうが、あれ讀んで歴史嫌惡ばかり募らせる「健康」な讀者なぞあまりに素朴と言ふもの、批判力ある讀み手なら却って歴史熱を高めても不思議あるまいし、それどころか「また特に認識及び自己認識への我々の渇望は病める魂を健康なるのと同じぐらゐ要しないかどうか[Cf.新約ルカ傳五・三一]、要するに、健康への一途な意志とは一箇の偏見、一箇の怯儒、そして多分は細やか至極な野蠻さと後進性との一片であるかもしれないのではないか」(『悦ばしき知識』一二〇末、*1前掲ちくま学芸文庫版p.214相當)。著者たるニーチェ自身さへ方針轉回して四年後の『人間的、あまりに人間的』からは歴史的思考へと舵を切ったのは、病氣がぶり返したのか自己批判なのかそれとも……今や『道徳の系譜學』(既出第二論文第十二節)を併讀して「「[…]あらかじめ存在しているものは、新たな意図[Absichtenの譯だが、Ansichten(=見方)の誤植]をもって、その「意味」や「目的」が後から何度も解釈し直される」という、「歴史方法論の主要観点」(Ⅱ―一二、S.329, 331)として重要視されて駆使される定則」(第四章四p.192)を見取った以上は、古典文獻學教授時代の否定的な歴史(學)批評をも肯定的(positiv=實證的)に讀み替へる理路が立ちはしないか――例へば、啓蒙主義への敵意から召喚された歴史精神が時を經て今では逆に啓蒙の守護神となったと評價する『曙光』一九七(前掲ちくま学芸文庫版p.226)に
何等かの事情のために不透明にされている意味を明確にすることが解釈の使命と考えられている[…]。その限り、解釈によって明らかにされる意味とは、表層の背後ないし深層に埋没しており、その深層を発掘するのが解釈の作業である、と規定される。だが、ニーチェはこうした解釈概念ときっぱり手を切る。
須藤訓任「「習俗の倫理」について――ニーチェの「遠近法主義」の前景と背景――」前掲p.3
「主観」[„Subjekt“=「主體」]は、なんらあたえられたものではなく、何か仮構し加えられたもの、背後へと挿入されたものである。――解釈の背後になお解釈者を立てることが、結局は必要なのであろうか? すでにこのことが、仮構であり、仮説である。
前出『権力への意志 下 ニーチェ全集13』第三書四八一、ちくま学芸文庫版p.27=NF-1886, 7[60]
以上、豫想以上に問題點が出て來るので止めどなくなったけれど、瑕釁を
「問題群」と云ふ語は本書第二章の題名先頭に掲げられてゐるものの、「これは中村雄二郎氏の用語である」(註(4)p.112)と典據(『問題群―哲学の贈りもの―』〈岩波新書〉一九八八年一月)を附記するだけで別段含意は示されないから、「群」一字では纏まりの弱い寄せ集めの意味にしかならないかも……しかも中村雄二郎著にあっても重用される割に主題化されない定義不明の操作概念であるばかりか「西田の問題を歴史的な文脈のなかに置くよりも、むしろ現代の問題として考えたい」(中村『西田幾多郎』第1章「2 問題群としての〈西田幾多郎〉」、〈20世紀思想家文庫〉岩波書店、一九八三年七月、p.40→『中村雄二郎著作集 Ⅶ 西田哲学』一九九三年七月、p.29→『西田幾多郎 Ⅰ』〈岩波現代文庫〉二〇〇一年一月、pp.31-32.)などと歴史に背く口實にさへ用ゐられる
西諺に曰く、發問は答への半ば、とか(典故はアリストテレス『ニコマコス倫理學』第一卷第七章末1098b7-8か、フランシス・ベイコン
『學問の進歩』第二卷ⅩⅢ. 9及び増補ラテン語版第五書第三章か)。ニーチェの言葉で「良き質問者には既に半分回答されてゐる」(ツァラトゥストラ第三部草稿NF-1883, 23[5]、1884, 31[59][61][64]、33[1])とはその一
なにを問題とすべきか?………………………ニーチェからの変奏――問題なんてない、ただ問題化があるだけだ。問題化する諸関係と、その体制があり、それらが、問題の現実性を組み立て維持する。問題とは、それらの体制の稼働の結果、生産された効果にほかならない。必要なのは、それ故、解答をもって応えることではなく、この諸関係と体制を、問題化への/による抵抗によって解除することだ。
榎並重行・三橋俊明『流行通行止め 現代思想メッタ打ち!』161、p.115
問題が起ると、人々は、ともかくもまず、解決を求める。問題そのものの綿密な考察と理解こそが、その前に必要なのではないか、と問う声は滅多に聞えない。[…]従って、そこでは避けられている――まず、問題を、それがそのなかで生じた諸関係や諸状況の配列そのものの問題化を要請する契機とみなすこと、つまり、問題を、その問題の更なる問題化、その内と外の双方へ伸ばされる一層の問題化への呼びかけとして、受け止めること(いわば問題性の発展を目ざすこと)が――。次いで、問題の歴史を追究すること、すなわち、その出自と由来の分析へと進み、その問題性の本質が問題そのもののなかにはなく、異質で雑多な要因と関係の配列から生成してきたものであることの把握へと向うこと(問題を解決するのではなく、それを問題として生成せしめたそれ自身とは別の諸存在の変換、置換、移転等によって、問題性の配列自体解除することを目ざすこと)が――。要するに、問題の解決を求める合唱に加わる時、ひとは、二重の回避を自らに求めている、――問題を考察と認識の大いなる冒険への招請として受け取らないこと、そして――問題をまさに問題と認めている自らの認知の体系とその運用そのものをも疑う歴史性の挑戦への踏石とはしないこと。[…]
榎並重行『ニーチェのように考えること 雷鳴の轟きの下で』「4章 歴史の襲来」、前掲書pp.147-148.
以前は問題無く過ごしてきた所に問題性を見留めるのが問題化であり、斯くて事件出來すれば、出來事を捉へるといふ意味で歴史の認識に通ずるか。例へばニーチェの場合は『悲劇の誕生』新版に十四年經ての自己批評を添へた時、同書が掴んだ「一つの新しい問題」を振り返って「今日なら私は、それは學問そのものの問題であった――初めて問題的なものとして、疑問なものとして捉へられた學問、と言ふであらう」と再定義してから「學問の問題は學問の地盤の上では認識され得ない」(前出「自己批判の試み」二)と斷じてゐたけれど、見ての通りこれは回顧の遠近法で描かれた自畫像であり、後向きに過去へと目をやって歴史化することを通じて以前の立脚地の外に出て問題が認識できたのではあるまいか。哲學においても、哲學問題の枠外からその問題性を問題化するのが歴史と云ふことにならうか。
それとも、それとても「奇妙なやり方で問いと答えとを混同すること」なのか……即ち「誰に促されたというのでもないのに、人は、潜在的な設問に回答を用意しておくことが現代にふさわしい義務だと確信する。そして、用意された回答を口にしながら、その身振りを問題の提起だと勘違いすることになったのだ」(蓮實重彦『物語批判序説』「Ⅰ」中「Ⅳ 流行から問題へ」、中央公論社、一九八五年二月→〈中公文庫〉一九九〇年十月、pp.107-108.)、と?――「進歩の「問題」、階級の「問題」、貧困の「問題」、人道主義の「問題」から、終末の「問題」、権力の「問題」、差別の「問題」、環境汚染の「問題」、等々へと、そのつど「問題」体系の配置を組みかえながらも、現代的な言説はその構造を維持しつづけてきた。また、それが維持されている限りにおいて、その歴史性は隠蔽されていたわけである」(仝「Ⅴ 現代的な言説」pp.137-138.)のだが、そこへ「歴史」といふ問題(を裝った解答)も追加されるまでのことであらう、と? 恰度、かのゾロアスター假託書が「そして、わたし自身と同じく、きみたちは、その答えとして、もろもろの問いをみずからに与えた」(『ツァラトゥストラ』第二部「救済について」13段、前掲ちくま学芸文庫版上p.253)と告げてゐたやうに? 現實に問ひ掛けられる相手がゐない以上、暫くはあれこれ讀みながら自問自答を繰り返すことにならうか……「一つ一つの答えからは新しい問い、探究、推測、推定[Wahrscheinlichkeiten=眞實らしさ、蓋然性、見込み]が生じた」(『道徳の系譜』「序言」三、*1前掲ちくま学芸文庫版p.363)と言ふわけだ?
ともあれ、こうした展望が私にひらけてから、ゆえあって私は、学識に富む大胆で勤勉な仲間を捜し求めるようになった(今でも捜し求めている)。
『道徳の系譜』「序言」七冒頭、ちくま学芸文庫版p.368
われ、問いぬ、――されど、わが網にかかりし
「青銅の沈黙」、中島義生譯「詩集」中「五 ディオニュソス頌歌のための断片」125、前掲『ニーチェ書簡集Ⅱ 詩集』p.576≒NF-1888, 20[1]応答 あらざりき……
邦譯ニーチェ全集の理想社版改めちくま学芸文庫版には收載してない遺篇なので、白水社版から抄出しておく(角括弧[ ]内はその底本であるグロイター版全集ことKritische Gesamtausgabe Werke原文=NF-1885, 38[14]に即して補った)。
われわれをあらゆるプラトン的、ライプニッツ的思考法と根本的に区別するものは次のことである。すなわち、われわれはいかなる永遠の概念も、[永遠の]価値も、[永遠の]形式も、[永遠の]魂の存在も信ずることなく、また哲学は、それが学問であって立法でないかぎり、われわれにとって「歴史」という概念の最も[廣く]拡大されたものを意味するにすぎない。語源学や言語史によって、われわれはすべての概念が生成したものであり、多くの概念がさらに生成するものであることを[viele als noch werdend=多くをなほ生成しつつあるものとして]知っている[nehmen=受け取る]。[下略]
麻生建譯『ニーチェ全集 第八巻(第Ⅱ期) 遺された断想(一八八四年秋―八五年秋)』白水社、一九八三年七月、p.430
類似した一文が、昔の
私がただそれのみをなほ通用せしめるやうな哲學は、歴史の最も一般的な形式として[の哲學]、ヘラクレイトス的な生成を何とかして記述し記號に縮約しようとする(一種の見かけ上の[scheinbarem=假象状の、〜らしく見える]存在にさながら飜譯しミイラ化する)試みとして[の哲學で]ある
NF-1885, 36[27] (Nietzsche Werke. Kritische Gesamtausgabe Ⅶ3, 1974: S. 286.)
同系で、これと併せて部分引用されやすかった
私たちをプラトンやライプニツからと同様にカントから分かつものは、私たちが精神的なものにおいても生成だけを信ずるという点である、――私たちは徹頭徹尾歴史学的である。これは大激変だ。ラマルクとヘーゲル――、ダーウィンは一つの余波にすぎない。ヘラクレイトスとエンペドクレスの思考法がふたたび復活したのだ。カントも「純粋精神」という形容矛盾を超克しはしなかった。[しかし私たちは。]
『生成の無垢 上 ニーチェ全集 別巻3』六二一、p.399
(=グロースオクターフ版著作集ⅩⅢ卷21番:S. 10≒NF-1885, 34[73]=前掲『ニーチェ全集 第八巻(第Ⅱ期)』pp.225-226相當)
畢竟、哲學さへもはや史學となりぬ、と。荻生徂徠の至言「學問は歴史に極まり候事に候」(『徂徠先生答問書』上/中村幸彦校注『日本古典文學大系94 近世文學論集』岩波書店、一九六六年十二月、p.187相當/今中寛司・奈良本辰也編『荻生徂徠全集 第六巻』河出書房新社、一九七三年七月、p.178相當/島田虔次編輯『荻生徂徠全集 第一卷 学問論集』みすず書房、一九七三年七月、p.433)を想はせよう。以上に引く三篇、どれ一つとして觸れもせずに「ニーチェの歴史思想」を説く須藤著は、恐らくは同牀異夢であらうか。なほ、初めに抄記した引用文中「語源学や言語史」(榎並重行『ニーチェって何?』p.32の引用ではなぜか中略された箇所)のことは後出するので留意されたい(Cf.サラ・コフマン/宇田川博譯『ニーチェとメタファー』〈ポストモダン叢書〉朝日出版社、一九八六年七月、第五章pp.150-151.)。立法ではなく學問(Wissenschaft=科學)である限りでの哲學が歴史(學)に包攝されるのは、かうした言語研究の史的部門が特に與ってのことと見える。
ただ他方、これと前後するニーチェのテクストには、哲學は立法であらねばと望む文も見つかり(原佑譯『権力への意志 下 ニーチェ全集13』九七六・九七九、〈ちくま学芸文庫〉一九九三年十二月、p.474・p.475=NF-1884, 26[425]・1885, 35[47])、一八八六年刊『善惡の彼岸』二一一は斷定口調で「だがしかし真の哲学者は命令者であり立法者である」(信太正三譯『善悪の彼岸 道徳の系譜 ニーチェ全集11』〈ちくま学芸文庫〉一九九三年八月、p.209。同文はNF-1885, 38[13]よりの流用)とか言ふ。立法(Gesetzgebung)とは、カント好みの用語ながら、ニーチェにあっては價値を價値規準ごと創造し定立する
書いた時、念頭にあったのは多分、犬飼裕一『マックス・ウェーバーにおける歴史科学の展開』(ミネルヴァ書房、二〇〇七年七月)か(拙文「アナクロニズム」註疏*18にも引照したもの)。「第4章 歴史科学と文化諸科学の関係」中「第2節 生に対する歴史の利害」がニーチェとブルクハルトとの對比を軸とし、それを論じたカール・レーヴィット『ヤーコプ・ブルクハルト 歴史のなかの人間』(西尾幹二・瀧内槇雄譯、〈ちくま学芸文庫〉一九九四年八月)を引きつつ批判もしてゐた。
[…]書簡や小品にまで言及しているとはいえ、レーヴィットが用いている手法は、ニーチェとブルクハルトのテキストと、そこに表現される成熟期の典型的な「思想」だけを扱う、伝統的な思想史(あるいは哲学史)のそれである。[…]少なくともレーヴィットが信じる意味での「思想」以外のものは意識に上ってこない。さらにニーチェとブルクハルトが書いたもの以外は、後の解釈者のものを除いては検討に入ってこない。
[…]
[…]レーヴィットにとって問題なのは、無時間的に存在する「ニーチェ的思想」であって、ニーチェ自身の思想の変遷やニーチェを取り巻くブルクハルトのような人々との時間的な相互関係は放置されたままなのである。[…]レーヴィットの場合も特定の思想家の「成熟期」の到達点からそれまでの生涯を目的調和的に再構成しようとする点では変わらない。
『マックス・ウェーバーにおける歴史科学の展開』pp.158-159.
「ニーチェ自身の思想の変遷」と言ふ點では『ニーチェの歴史思想』は三期に分けて論じてはゐるものの、時に「思想家の「成熟期」の到達点からそれまでの生涯を目的調和的に再構成しようとする」弊に陷った感はある。ニーチェ外のショーペンハウアーやマッハやアヴェナリウスやヘーゲルとの關係は論及あれど、「相互関係」と言ふよりほぼ一方的にニーチェ側から見て專らニーチェと照應する面に光を當てるニーチェ研究書なので、飜って彼らの思考からすればニーチェがどう見えようかといふ論點は問題にされないし、例へばマッハならマッハの歴史思想そのものの軌跡を史的に記述したり物理學者が歴史的研究に向ったいきさつを史的に考察したりするには至らない。――因みに、「歴史思想」と題する割には同時代におけるもっと歴史研究寄りな論著との比較對照も手着かずであり、從來ニーチェ論にしばしば語られたブルクハルト(ニーチェとバーゼル大學で同僚)ですら目配りされることなく、ましてやバッハオーフェンやイェーリング(共にニーチェ就任前の元バーゼル大學ローマ法教授)、トライチュケ(ニーチェと反目)、ディルタイ(生の哲學に竝稱されすぎて今更?)、ドロイゼン、モムゼン、等々が列なる十九世紀歴史思想史は視程外に出て皆目感知されない。どうやら哲學(科)的志向が仇となったか、歴史的關心が案外厚くないのが殘念だ。
本書書き下ろしの「第二章 問題群としての「生に対する歴史の利と害について」」のうち「一 題名の問題」を摘要しておく。邦譯では「利害」「功罪」(大河内了義譯「生に対する歴史の功罪」『ニーチェ全集 第二巻(第Ⅰ期)』白水社、一九八〇年四月)等の對義の二字熟語にされてきた原題Nutzen und Nachteil(ニーチェ原文は舊式綴りでNachtheil)について、須藤は「何か釈然としないところ、より語気を強めるなら、いらつかされるところがある」(p.68)と語り出す。普通、ドイツ語での組み合せはNutzen對SchadenかVorteil對Nachteilになるらしい。「実際ニーチェも当該の著作やその周辺の草稿でNutzen-SchadenおよびVorteil-Nachteilをそれぞれ対義語として用いているのである」(p.69)。問題なのは特にNachteilだ――(p.69)。
Nutzenは「利益」と訳して、とりあえず大過ないであろう。それに対し、Nachteilの方はやや微妙である(Nutzenの反意語である)Schadenの意味に近いものとして「損害」と解することはむろん可能である。しかし、Nachteilはそれに尽きないというか、第一義的には「短所」「欠点」「デメリット」といった意味合いも強いであろう(そのことは、Nachteilの字義が形のうえからするなら「遅れた部分」であることを考えるなら、よりわかりやすいかもしれない)。その限り、NutzenとNachteilは、NutzenとSchadenほど純然たる対義的関係をなすとは言いにくい。
「あるいは、Nachteilという語を用いるとしても、Vor-und Nachteilと記して「利害得失」くらいを意味させてもよかっただろう」に、それもニーチェは「回避した」(p.70)。「Nのそろい踏みにして、視覚上・聴覚上の一致を狙う美感(?)が働いた」とするだけでは「この両語の採用の論拠としてあまりに薄弱であり、むしろ冗談めいて響くだろう」(p.70)。第一、「実はNutzenもNachteilも著作「生に対する歴史の利と害について」本文(序文を含む)のなかにはほとんど登場しない」(p.70)。草稿(p.71所引=NF-1873, 30[2])と比較すると、「Nutzenは最終稿でははぎ取られながら、Schadenという語の方は出版段階でも保持されている(序文、第一、二節)」ことが判明し、「しかるに、ニーチェの趣旨はこの[「記念碑的」「骨董的」(antiquarische=好古的)「批判的」と命名される]三種類の歴史の「害」を言い募ることにあるのではない。むしろ彼の本意は、[…]第四節以降第九節まで、現在において猖獗を極めている歴史病のもたらす五点の「不都合」(とりあえず、この日本語を援用するとして)を告発することにあった。[…]五点を、「生に奉仕する」歴史の種別とは無関係に、「歴史」の、歴史的発想(歴史主義と言ってもよいだろう)そのものの「過剰」「肥大」ゆえの「不都合」として摘発しようとするのである。」「おそらくは、Schadenならぬ、いやSchadenも含めて、こうした「不都合」の温床を指示するべく――単なるSchadenとは区別しながら――意図してニーチェは概括的にNachteilという語をあえて採用したのだと思われる」(p.72)。そのわけは、「「歴史」が「生」にもたらすSchadenという場合には、[…]互いに別々のものの一方が他方によって害を蒙るというイメージが強いであろう」(p.73)。
他方、(Schadenならぬ)Nachteilといわれる場合には、「生」と「歴史」とは――Schadenの場合ほど――分離されていない。Nachteilをひとまず「短所」ないし「デメリット」と訳してみるなら、そのことは判然としてこよう。AがBの「短所」であるとか、「デメリット」になると述べられるとき、AはBの所有物であったり、属性や性質であると理解されるのが自然である。したがって、「生」にとって「歴史」が「短所」ないし「デメリット」とされる場合、「歴史」は何らかの形で「生」に内在する「生」の一部であると位置づけられることになろう。
續いて(p.74)、註(6)が插まれる(p.112)。
歴史は生の一部としてNachteilではあるが、そのVorteilではない。このことは「歴史」批判の書としての同書の基本的性格の然らしめるところである。従って他方、歴史の「利」はあくまで、いわば結果的個別的「利益」としてNutzenに限定されざるを得ないことになる。この事情が、題名にも反映されているのだ。
更に須藤は、「やや突拍子もないが、Nutzen und Nachteilとはニーチェによるある詩句の翻訳ないし翻案なのではないかという仮説を提出」する。若きニーチェが古典文獻學徒として研究してきた詩人テオグニスの「エレゲイア」第百三十三行中「災難と利得 ἄτη και κέρδος[ἄτης καὶ κέρδεος]」の
本節における議論からして、意を汲むなら、同書の題名は「歴史が生にもたらす利益と病巣について」とでも訳すべきだろうが、本書では一般に通用している邦題(「利と害」は「利害」と一括される場合が多いようだが)を一貫して採用することにする。
斯くて仔細な檢討の結果、表面上は通例と變はらぬ儘となった(大山鳴動して鼠一匹?)。
なほ、須藤の檢討外であったその後のニーチェの用例も
ところで、「利害」といふ邦題がをかしいのはNachteilが害と違って内在する部分(Teil)だからとの主旨であれば、舊い譯の「利弊」(生田長江、井上政次、山口四郎。秋山英夫は「利弊」から「利害」に改譯)や「功過」(桑木巖翼)ではどうだらう。お誂へ向きに、利弊は同音の
起源というものの外在性、つまり人間の内側に何かがあるというふうに思っているその空想の由来を辿っていって、実は内側に何もなく、外在性のものの散乱があるということをつきとめること、それにもかかわらず、内側に何かあるというその解釈―虚構が機能するという事態をとらえるために、まさにそれを機能させている、力の関係の配列のなかにわれわれがいかにはまりこみになっているかということを把握すること。
榎並重行『ニーチェって何? こんなことをいった人だ』前掲書p.196
また、この第二反時代的考察で歴史過剩が熱病と見立てられるからには、後年「病者の光學」(『この人を見よ』「なぜ私はこんなに賢明なのか」一)を自任したニーチェの病ひと健康に關する言説と照合してはどうか。例へば、「そこで彼自身が病気になる場合、心理学者はその科学的な好奇心の一切をあげて自分の病気の観察にふりむけるのだ」(『悦ばしき知識』「序文――第二版のための――」二、前掲ちくま学芸文庫版p.9)と言ふ文によって、「生に對する歴史の利害について」序言の「それどころか、われわれはみな歴史学の消耗性の熱病に苦しんでいる」「わたしは、わたしを苛むあの感覚が掻き立てられるもととなった経験をたいていはわたし自身から取り出している」(須藤著第二章一p.83所引、註*8後出)と述べたくだりが想ひ起こされてゐるとしたら? 夙にE・ベルトラム『ニーチェ』が「プィロクテテス」の章(原書第六版までは正に「病氣 KRANKHEIT」を章題としてゐた)にひと通り纏めたやうな「ニーチェの病気是認論[Theodicee=辯神論・神義論]」(*1前掲筑摩叢書版上卷p.215、cf. p.213。p.219「ニーチェだけに独自な病気の弁明[Rechtfertigung=正當化・義認]」も一九二二年第六版でTheodicee der Krankheitだったのを一九二九年第七版で書き改めたもの)と云ふテーマ論の中に、時代外れな歴史病批判を位置づけるのも一興であらう(單に病氣非難論に立って第二反時代的考察に特有の
ニーチェ『曙光』第一書五四
病氣についての考へ !――病人が少なくとも、今までのやうに、病氣そのものによってよりも、自分の病氣についての自分の考へによって一層多く惱まねばならないといふことがないやう、病人の空想を鎭めること、――私が考へるに、これは何程かのことだ! そしてそれは少なからぬことだ! 諸君は今や我々の課題がお解りか?
類句に、「情念[Leidenschaften selber=煩惱自體]によって苦しめられるより、情念についての[自分の]考えによって苦しめられる」(恒川隆男譯『ニーチェ全集 第十一巻(第Ⅰ期)』白水社、一九八一年五月、p.387=NF-1880, 6[398]=『生成の無垢 下』三四九・*1前掲書p.202)とも。豫て「医学的道徳」(前掲『哲学者の書 ニーチェ全集3』「Ⅶ 「苦境に立つ哲学」をめぐる考察のための諸思想」p.413・449=NF-1873, 29[230]・30[15])に關し思ふ所のあったニーチェ(仝p.421=NF-1873, 31[4])が病氣論を煎じ詰めた結果、要は、病状それ自體から分離して病感・病識が問題とされ、症候の生理學に纏綿した心理學的な苦惱を削ぐわけだ(この心理は倫理にも掏り替はる、『道徳の系譜學』第三論文第十六節參照)。別な言ひ方だと「事物が何であるかということよりも、事物がどう呼ばれるかということの方が遥かに遥かに重要であること」(『悦ばしき知識』五八「創造者としてのみ!」、前掲ちくま学芸文庫版p.132)への對處であり――その
三島憲一『ニーチェ以後 思想史の呪縛を越えて』「序章 ニヒリズムとナルシシズム――「ニヒリズム克服」についての京都学派の妄想――」「第五章 破壊的理性の美学――素描の試み――」(岩波書店、二〇一一年三月)參照。すなはちニーチェの時代背景には「ナポレオン戦争の終結とともに、だがさらには一八四八年革命以降、特に顕著になったヨーロッパの再キリスト教化、そしてそれとタイアップした市民階級の再封建化といわれる現象」(pp.150-151.)があり、「啓蒙主義とフランス革命、戦乱と政治上の「世俗化」でいったんは崩壊したキリスト教が、一世代で市民社会の家庭向きにモデル・チェンジして復活したのである」(p.153)。「最近の社会史では、「第二の宗派時代(Zweites konfessionelles Zeitalter)」とも言われている」(p.2)。「ニーチェが闘ったのは、まさにこの文化なのである。プラトニズムとキリスト教のヨーロッパ二千年の形而上学を相手にしたつもりであったが、実際には自分の時代だったのである。」(p.3)――「ニーチェが虚妄と見て闘ったのは、一九世紀のこの再キリスト教化された文化なのである。なまじ教養があるから、ヨーロッパ二千年の歴史と見間違えたのである。というのは、このキリスト教的抑圧をかける市民社会の教養の体系が、一方では文学史を通じてナショナル・カルチャーを作り、他方では哲学史・文化史を通じてヨーロッパ二千年の偽りの連続性を作り上げたからである。[…]市民階級のアイデンティティに逆らうはずが、自らそれを内面化しているために、プラトニズムとキリスト教の二千年の歴史の逆転を考えてしまったのである。家にかかっている系図をひっくり返してみただけである。ほかの系図も描けるとは思えなかったのだろう」(pp.7-8.)。畢竟ニーチェは、自分が屬する現代の「創られた傳統」(E・ホブズボウム)を歴史的起源に投影してしまってゐたらしい(その傳統が現代と「地続き」に見えたりするのも大方、現代に發明された所爲であらう)。古來潛在したニヒリズムが顯在化するのを「必然的な歴史的趨勢」(p.159)となすニーチェの歴史觀は「リベラリズムの歴史図式をそのまま継承して逆転しただけ」(p.166)で、「「はじめから良くなるようになっていた」に、「はじめから(正確に言えば、はじめの次の瞬間から)駄目だった」を置き換えただけである。ただの裏返しにすぎず、本当はそんなことはどうでもよかったはずなのである。なぜなら、ニーチェにとってはこの現在の生が重要だったのだから。そこに食い込むキリスト教と市民社会の新たな独善性が敵だったのだから」(pp.167-168.)。發生史を經由する迂回戰術で叩かうとして踏み迷ふくらゐなら、直接その自分の同時代を正面攻撃してゐれば良かった……?
ミシェル・フーコー「監獄についての対談――本とその方法」(一九七五年)の結句を想ひ出す。つつましくも「もしも私がうぬぼれ屋だったら、自分でやっていることに「道徳の系譜学」という総題をつけるところなんですが」と茶化しを入れてから、フーコーは言ふ……。
ニーチェの存在は次第に重要性を増しています。しかし、彼に注目するにしても、ヘーゲルやマラルメについてやってきたと同じような解釈[commentaire=論評、註釋]をやられるんではうんざりです。私なら自分で気に入った人間だったら、それを利用しますね。ニーチェの打ち出したような思想に敬意を表する唯一のやり方は、それを利用し、それをねじ曲げてキーキーいわせることですよ。だから、それに忠実かどうかなどと評論家連中[commentateurs=註釋者・解説者ら]が言うことなんて愚にもつかないことですよ。
中澤信一譯、『ミシェル・フーコー思考集成 Ⅴ 1974–1975 権力/処罰』筑摩書房、二〇〇〇年三月、p.372
時にはニーチェに抗ひつつ、軋みを立てながら摩擦と共にニーチェを使用すること。ニーチェに共感同調するばかりでなく、異物感を持った他者としてそのテクストを遇すること。ニーチェを逆撫でにして毛羽立ててやること……ニーチェの文章自體が外部との軋轢を生むと共に内からも軋み合ふ悲鳴を上げてゐなかったか。一見滑らかな文にすら躓き、
蛇足ながら註疏しておくと、何らかの歴史的考察を事新しくニーチェ著に倣って「系譜學」と名づけるのはこのフーコー(就中、伊藤晃譯「ニーチェ、系譜学、歴史」竹内書店『パイデイア』季刊11・一九七二春號「特集=〈思想史〉を超えて――ミシェル・フーコー」一九七二年二月→『ミシェル・フーコー思考集成 Ⅳ 1971‑1973 規範/社会』筑摩書房、一九九九年十一月)以降に弘まった風だが、『道徳の系譜學』の書きぶりを注意深く讀めば御本尊は取り立てて系譜學を唱導してなかったやうだと氣づく。そもそも原書名»Zur Genealogie der Moral«の頭に冠せたzur(zu derの融合形≒英語to the)は、なぜかみな邦題では端折ってしまふけれど、「へ向けて」「に寄せて」などと譯せる。「考えてみれば、『系譜学』の原題からして、ニーチェのそうした謙虚な「学的」姿勢を明確にしている、といえないこともない」と見込んだ須藤は「このZuは、むろん、単に「…について」くらいの意味に解することもできるが、しかし、「…に向けて」とか「…のために」をも意味し、学術的「寄与」の含意ともなりうる」(『ニーチェの歴史思想』第四章三p.184)と述べ、ドイツ語論文タイトルの定型‚Beitrag zur …‘(〜への寄與)の略式と思はせたいやうだが、「に向けて」は必ずしも「のために für」と同義ではなく時に「に對して gegen」の意でもあって贊否兩用である。前置詞zu(=へ)が指す方向に位置する主題(系譜學)は、嚮後會得すべき前方の達成目標ならば自らさう名乘ったと見做してもよいが、他方、例へばカール・マルクス「ユダヤ人問題によせて Zur Judenfrage」(一八四四年)がブルーノ・バウアー著»Die Judenfrage«に反對する批判書評であったやうに、難のある既成學説へ論鋒を向けて攻撃目標に擧げたのだったら自稱にはなるまい。さてニーチェが”Eine Streitschrift“(=論難書、抗議文)と副題したこの書物はどちらだ。外題に留めず内實を確かめるべく、系譜(學)なる語の全用例を原典及び信太正三譯『道徳の系譜』(「事項索引」あり)に徴すれば、まづ「序言」第四節に「一種の逆立ちした、ひねくれた系譜学的仮説が、それも元来はまことにイギリス式の仮説が」(前掲ちくま学芸文庫版p.364)と腐したのに始まって、批判對象として「レー博士は、すべてのイギリスの道徳系譜学者と同じく」(仝p.365)と括られ、以後「彼らの道徳系譜学のお粗末さ加減は」(第一論文第二節p.377)だの「あの道徳系譜学者たちの迷信が」(仝p.378)だの、「道徳系譜学上の問題点に関する」(第一論文第四節p.381)駁論が續き、罵倒と共に對抗すべき〈彼奴ら〉を「系譜學者」と呼んでゐる。一人稱の所有代名詞を冠して「わが[unsern=我らが]道徳系譜学者たち」(第二論文第四節p.430)と呼ぶ所は自陣に入れるかに見せて明らかに皮肉で、すぐ次の文で「彼らはからっきしの能無しである」(仝p.430)と一蹴して三人稱扱ひ、「これら在来の道徳系譜学者ら」(仝p.431)は排撃される。同樣に「従来わが[unsre=我らが]素朴な道徳系譜学者や法律系譜学者らが」(第二論文第十三節p.455)云々にも嘲弄の語氣があって、前節で「これまでの道徳系譜学者らは」「相変わらず素朴なやりかたをしている」(第二論文第十二節p.451)と責めたのを承けての言だ。
歴史學それ自體と史學科外の各學科における歴史學派との違ひについては、佐々木博光「第七章 啓蒙主義と人文学――近代ドイツにおける歴史の科学化、科学の歴史化」(南川高志編著『知と学びのヨーロッパ史―人文学・人文主義の歴史的展開―』ミネルヴァ書房、二〇〇七年三月)が論じて、興味深い。それによれば、十八世紀啓蒙主義史學がもたらした「現世的な因果関係の解明」(p.174)に對し、新人文主義の「学問のための学問」の流れに乘った十九世紀ランケ以降の史學プロパーは消極的であり、「因果の解読を通じて社会的に有用な知識を提供する」といふ意味で「むしろ啓蒙主義史学の遺産を継承したのは他分野の歴史学派の歴史研究であった」(p.183)。歴史法學、國民經濟學、マックス・ウェーバーの因果歸屬論、等。「史料批判を重視する史学科の歴史研究と因果の解明を優先する歴史学派の歴史研究が、ほとんど没交渉のまま併存したのがドイツの歴史研究の特徴であった。」「ロマン主義の影響を蒙ったのは、むしろ歴史学派の歴史研究の方であった。」「原因を民族的な個性として済ますような因果理解が幅を利かせる。」「しかし、歴史を超越した因果帰属は、本来の因果関係のありかを隠蔽[…]する危険を秘めていた。ここに歴史主義論争の重要な一面が顔を覗かせる。人間の作り出した科学に客観的な因果関係の確定が期待できるのか、結局、科学は自分に都合のよい因果関係しか作り出さないのではないかという疑問である」(p.183)。「歴史が科学化を遂げた一八、一九世紀は、歴史研究に関する両立しがたいコンセプトが生まれた時期であった。一つは問題の歴史的な由来を解き明かすことを目指すタイプの歴史研究で、いま一つは特定の問題意識に導かれるような研究を主観的、党派的として排し、史料の精査を通じて史実を積み上げてゆくタイプの歴史研究である。前者が歴史研究に社会的な有用性を認めたのに対して、後者はそれに個人の修練に及ぼす教育的な価値を認めた」(p.184)。兩者の架橋が望まれ、「今後の歴史的文化科学の採るべき針路として、経験的に基礎づけられた問題史という線が浮上する」(p.185)。……以下略。より詳細には、佐々木博光「歴史主義の徴候のなかの文化諸科学」京都大学人文科学研究所『人文學報』第81號、一九九八年三月、も看よ(うち「Ⅲ 歴史主義批判の系譜」に「1. ニーチェ―生の哲学―」の節もあるが、例に漏れず「生に対する歴史の功罪」の歴史學批判のみ檢討してその後のニーチェの歴史勸獎論は眼中に無いし、ウェーバーとの對比を示すに急である)。
一般史/部門史(分野史)とも呼び分けられるこの一對の關係については、オットー・ブルンナー『ヨーロッパ――その歴史と精神』もまづ「Ⅰ 専門分野としての「歴史」と歴史諸科学」で題目に掲げた所であって(成瀬治・石川武ほか譯、岩波書店、一九七四年一月)、要するに、史學科で專攻されるやうな「狭義の歴史学、つまり一般史」は「人間、それもつねに社会的結合関係において現われる個々の人間、ならびに、もろもろの人間集団を対象としている」ので「政治的なものが中心的意義をも」つが、史學以外の各種學科における歴史部門が第一に取り扱ふ對象は「人間ないしもろもろの人間集団ではなく、それらの作品なのであ」り、人間による産物を人間から分離して制度や文化それ自體に焦點を當てるので「「意味形象」としての作品が問題だ」と言ふ(pp.17-20.)。「狭義の――本来の意味におけるといってもよいのだが――歴史は、人間および人間集団の、すなわち、家族、部族、民族、国家、都市、教会等といった社会的形象の歴史である」のに對して、「狭義の歴史学からはっきりと区別される歴史的個別諸科学のタイプ」において「もろもろの
歴史主義と言っても史學本流と分れてむしろ史學外で展開した傾向があるとは言はれてみれば成程、歴史學派をも檢討するには狹義の史學史だけでは濟まないわけで、關聯する諸學史に學ばずにはゐられない。だが、「「歴史の学」と「学の歴史」のあいだにはふるくから埋めがたい対立関係が存在した。そして,そのことが学問史が自律的な一分野として自己形成するのをさまたげてもいた」とヴォルフ・レペニースが論じてゐる由(佐々木博光「歴史主義の徴候のなかの文化諸科学」前掲p.121)。一般的に言って、歴史學界内部の割據ならまだしも、外在する「学部・学科別の分野史(経済学部における経済史、法学部における政治史、等々)といった複数の要素によっていくつかの集団に仕切られている」こととなると史學史の視界に入らなくなりがちで、「こうした歴史研究の複数性に無自覚なまま、自己の所属する集団を基準に自己反省としての史学史を語り続けるならば、史学史はこうした複数性への無自覚さを再生産することにつながり、それは容易に自己の帰属集団を史学史の中心に位置づける作業へと転化してしまう」(松沢裕作「『近代日本のヒストリオグラフィー』の意図と達成」立教大学史学会『史苑』第77卷第1號「〈特集〉外国史家が読み解く『近代日本のヒストリオグラフィー』」二〇一六年十二月、p.80)。學史を業界人が内部需要に應へた自己正統性のための業界史にせぬやうに、との戒めであれば、生産側に立つより受容史・讀者論で外部へと擴げるのも一法ではある。
十二年先立つ須藤の前著『ニーチェ 〈永劫回帰〉という迷宮』は、どうも永劫回歸論は趣味に合はぬので題だけで敬遠してゐたけれどこの際讀んでみると、受容論へ配慮する素振りは見せてをり、受容史へ關はらうとしない點で本書『ニーチェの歴史思想』は前著での反省を裏切ってむしろ弱點を惡化させたと判る。
本書には、ニーチェ批判の観点ははっきりとした形では出されていません。それは、筆者の姿勢として、あたう
須藤訓任『ニーチェ 〈永劫回帰〉という迷宮』「エピローグ」、前掲書pp.247-248.る 限り「共感的」な読解を目指したことの結果でもありますが、むろん、それが大きな問題点であることは、言うまでもありません。ただ、わたしとしては、ニーチェ批判の論点は、彼の近代批判と一体化させて試行すべきものと考えています。[…]ニーチェを読むとはおそらく、その批判精神をいかにとらえるかの問題にほかならないのではないでしょうか。そして、それは、わたしたちにとっては、「はじめに」でも触れたように、日本の「近代」の問題と、つまりは、日本の西洋受容の――したがって、たとえばニーチェ受容の――問題と切り離して論じることはできない問題であるはずです。
「はじめに」で觸れたとは、その末段(p.7)で、西洋での激しい毀譽襃貶に比して「日本人が、ニーチェに共感し、またもてはやすのは、もしかしたら、超越神との厳しい緊張関係を経ることなく、神の不在に納得しているのであって、それは日本人自身の自己満足・自己肯定に安住する結果になっているのではないか。それは、ニーチェ哲学の生命である批判精神を削ぐことになってはいないか」と問うて「[…]本書で論ずる余裕はありませんでしたが、ニーチェに共感するとしたら、その共感する自分は何者なのかといった、わたしたちにおける、いわば「思想の運命」のようなものについては、わたしとしても、考えつづけて行かねばならない、と思っています」と結ぶ邊りが照應する。暗示引用された林達夫『思想の運命』(岩波書店、一九三九年七月)の標題作を見れば、思想を寄生蟲に譬へて「思想の力もまたその無力も同時にその思想が己の宿り場としてゐる當の社會的身體の状態から來てゐる」(p.315)とか、植木に見立てて「原産地におけるよりも遙かに遠い外國の土地に移し植ゑられたものの方がずつとその場所を得て見事に繁茂してゐるやうな植物が中々に多くあるものだが」(p.318)とか言って、轉移や環境に注目してゐた。畢竟、わがニーチェ愛讀者諸君は讀者論的問題として自身が宿ったり育ったりした時代的・社會的背景を省みるべきであり、特にはニーチェ享受史に即した設問として講究すべしと云ふわけだ。その言や善し!(なれど行ひは未だし)――もしそれ、考へを撤回したのならば、さう書くが良からう。書下ろしを含む單著の公刊は過去の自分への批評を記す好機であったはず。『ニーチェの歴史思想』の「あとがき」に「拙著『ニーチェ 永劫回帰という迷宮』(選書メチエ、講談社、一九九九年)をご参照いただければ、幸いである」(p.421)と型通りの言及はあるも、但しその前著に要修正點ありとはどこにも述べてない。
反時代的であることをニーチェ自ら定式化した陳述として屡々典據にされる箇所で、拙文「アナクロニズム」第五節でも斎藤忍随の譯文で引用した。本書での引用譯文は以下の通り。
本考察もまた反時代的である。なぜならわたしはここで、時代が誇ってしかるべきもの、つまり、その歴史学的教養を時代の損害 Schaden、虚弱性 Gebreste[=身體的缺陷、疾患]、欠陥 Mangel〔Nachteilとはこの三者の総称であり、その病巣である〕として理解することを試みているからであり、それどころか、われわれはみな歴史学の消耗性の熱病に苦しんでいる、少なくともそれに苦しんでいることを認識すべきだとわたしは思うからである。(…)また気を軽くするためにだまっているわけにゆかないが、わたしは、わたしを苛むあの感覚 Empfindung[en]が掻き立てられるもととなった経験をたいていはわたし自身から取り出しているのであって、他人から取り出したとしたら、それはただ比較のためにすぎないし、わたしは、ただ自分が古代の、とりわけ古代ギリシャの徒弟である限りにおいてのみ、[dieser=この]今の時代の申し子としての自分に関してこれほど反時代的な経験をするにいたったのだ。しかし、古典文献学者としての職業柄、次のことだけは自認することが許されるのでなければならない。すなわち、古典文献学のわれわれの時代における意義とは、この時代にあって反時代的に――ということは、時代に反して、そしてそのことによって時代に向けて、願わくは来るべき時代のために良かれと――作用するということでなければ、なんであろうか[を私は知らないであらう ich wüsste nicht](Ⅲ1, S. 242f.)。
第二章「一 題名の問題」p.83所引([ ]内は須藤著に無い補足、ニーチェ原文に據る)
これを須藤が讀解すると、かうなる。
古代ギリシャの「徒弟」であるがゆえに、現代を相対化する視点を自分は確保している、だが、そのことによって、現代の同時代人として「歴史学の消耗性の熱病に苦しんでいる」「今の時代の申し子」である自分は、ある種のジレンマに追い込まれ、そこからあの「わたしを苛む感覚」が由来する、というわけである。この「感覚」のおかげで、自分は「歴史病」をそれとして身を以て突き止め、それからの快癒を展望するすべを心得ているというのである。
第二章「一 題名の問題」pp.83-84.
しかし、「快癒を展望するすべを心得ている」なんて思ひ上がった言揚げはこの第二反時代的考察の「緒言」(小倉志祥譯「生に対する歴史の利害について」『反時代的考察 ニーチェ全集4』前掲pp.119-121.)を讀み通した限りどこにも出て來ないので、勇み足の誣告である。引用されたこの序言末段の一つ前の段落劈頭にも「私はひっきりなしに私を苦しめてきた一つの感覚を描写しようと努力した」(ちくま学芸文庫版p.120)云々とあって、病状の診斷を先務として治療や處方箋にはまだ言ひ及んでない。自然に順序通り讀めばまづ、「わたしを苛むあの感覚」とはその數行前に述べた「歴史学の消耗性の熱病に苦しんでいる」こと、且つその「苦しんでいる[leiden=病む、惱む]ことを認識」した病苦の自覺、と讀まれる。その苦しみを覺えさせた經驗は「わたし自身から取り出しているのであって、他人から」でないとは、つまりこれからこの前口上に續いて本文で非を鳴らすことになる歴史熱に自分も罹患してゐる、歴史病のことで他人を誹ってゐるやうに見えても基本は自己批判なのだ、我が身を切って著者自身を(も)責めてゐるのだから讀者は自分達(だけ)への非難と受け取って惡く思はないでくれたまへ、と豫防線を張りたいわけだらう。その文脈を押さへると「わたしを苛むあの感覚」は、歴史熱と古典文獻學との相剋する所より生じるとは言へど、苦しませる源は同時代の歴史熱、即ち「周知のごとく二世代以来殊にドイツ人の間で注目されている有力な歴史主義的な時代傾向」(ちくま学芸文庫版p.120)の方に感覺の主因があって、文獻學は病氣をもたらした病因でなく病識を持たせたに過ぎない(感覺神經からの信號を快苦に變換する感官に比擬されるか)。「これほど反時代的[unzeitgemässen=非時代適合的、時代に相應しくない、時代後れ]」となった所以が「今の時代」の子でありながら「古代の[älterer Zeiten=より古き諸時代。わりに年取った時(絶對比較級)]」就中ギリシアの弟子であるからだと言ふのも、ただ古典文獻學者として比較的に今風でない時代を學んだ限りで純現代人からは外れて時代環境に不適應になっただけだと謙遜した素振りになってゐる。「次のことだけは自認することが許されるのでなければならない」も、下手に出て最低限持ち分ぐらゐは保守しようとする讓歩案の言ひ樣だらう。「現代を相対化する視点を自分は確保している」などと自信滿々な口吻に讀み換へる須藤の讀みとは異なって讀める。多分、本文の印象を序文に遡及投影したものか。「「古典文献学者」であるがゆえの「あのわたしを苛む感覚」――同時代への批判の真正性を保証してくれる特権的感覚――」(p.85)とまで言ふ須藤は、感覺の本源は文獻學より發したかのやうに言ひ做し、「わたしを苛む[quälenden(現在分詞形・形容詞)=苦しめてゐる、惱ましい]」感覺の受動性を能動的な批判意識に掏り替へてゐる。本書は更に、この第二章第一節終盤の要點を述べ直した第六章註(10)において「しかし、古典文献学者であるがゆえの反時代性が、それだけで、同時代の子としての自分を相対化すると想定されている。つまり、自分はいかに時代のただなかに位置しているとはいえ、自分の「本質」ははなから反時代的であると確信されており、だからこそ、時代に対する「苦痛の感覚」ももっぱら自分のうちから由来する、と断言しえたのである」(p.263)とパラフレーズしてゐるが、前文は不可無くても後文が難ありだ。ニーチェはその感覺を催させた經驗の例に引き出したのは大抵が自分自身からであるとは言ったけれども、病苦の感覺そのものは「もっぱら自分のうちから由来する」のでなく同時代の歴史病から來たもの、時代情況の中で時代傾向より得た「經驗 Erfahrungen」に由來すると受け取られるのであって、この經驗を内的經驗(主觀的感覺、感情)としか解さぬのは餘りに心理主義といふもの、病理上からも内因のみでの發症は考へられないし、例へば痛覺は身體に内在しようともその起こりは痛覺受容器の外から與へられた侵害刺戟に歸せられるのと同樣である(
なほ、右の「感覚 Empfindung」(p.83所引)に關説して、「ニーチェにとって、歴史と非歴史とはまずもって「感覚」ないし「感受」Empfindungの問題であった(Empfindungの前期ニーチェにおける重要性については補論1参照。また、本書八三頁の引用文中の「感覚」の語にも留意されたい」(第二章「三 「動物」の問題」p.106)との指示があるのに從ひ「(補論1)「転移」としての言語――初期ニーチェの場合」も披見すると、未完稿「道徳外の意味における真理と虚偽について」(前掲『哲学者の書 ニーチェ全集3』Ⅵ「三 一八七三年夏から」㈠相當)を評釋して「人間にまずあたえられているのは神経刺戟である。いや、人間は第一次的には感覚 Empfindungそのものであり、感覚として存在する」(「一 「転移」という現象」p.276)と斷じてゐるが、それに對する當然の疑問「神経刺戟もまた外界の事物の人間的場への転移ではないだろうか」には「ある点ではそうもいえるだろうが、しかしニーチェはそう断言することは避けている。なぜなら、人間から完全に切り離された外界、つまり〈物自体〉については、一切の積極的な言明が不可能だからである」(p.276)と觀念論すれすれの不可知論で躱し、「[…]その意味でニーチェはこの時期、感覚一元論とでも呼ぶべき立場に立っている」(p.277)と早くもマッハとの相近(收斂進化)を言ひたげな風である。感覺が感覺を感覺する……それでは苦しみの感受(Empfangen)とはまるで自分で自分を苦しめるだけの自傷癖も同然にならう。しかしながら結局「神経刺戟の形象への転化によって、人間には「外界」が開かれる」(p.278)のならば「この点からニーチェの思想の難点をあげつらうことも可能であろう」(「五 「転移」のゆくえ」p.298)、即ち「それゆえ神経刺戟とは形象に転化しうる限りでの感覚であり、そうした点でそれはまた、いかに「外界」は物自体として不可知であろうとも、ともかくそれによって何らかの形で触発されると考えざるをえない限り、「外界」の受容としての感覚といえるのだが[…]」(p.298)と。然り、感覺とは内感(innerer Sinn=内官)に留まれないもの、何かしら觸發される受動性を拭ひ去れぬものでないか(Cf.カント『純粹理性批判』B153ff)。外から動かされた痕跡らしき感觸が消えぬ以上、須藤が「それでもなお、初期ニーチェの言語論にあって、言語の「外」として認められるべきものがあるとすれば、それこそは――何度か示唆してきたように――「転移」という現象であろう」(pp.301-302.)と結論づけた廣義の轉移、メタファーの「語源的意味」(一p.272)とも言はれる「転移 Übertragung」(p.273)とは、その觸發(Affektion, Affizierung)の動きに重なることと考へればよい。たとひニーチェ風認識論に則って、「内官は、結果を原因と取り違える」(氷上英廣譯『ニーチェ全集 第十一巻(第Ⅱ期)』白水社、一九八三年十月、p.313=NF-1888, 15[85])――「このことを名づけて私は文献学の欠如と言う」(『権力への意志 下』四七九・*1前掲書p.25=NF-1888, 15[90])――とか、「刺激と刺激をひき起こす事物とが最初から取りちがえられる!」(『生成の無垢 下』六四・*1前掲書p.50=NF-1881, 11[270]初段)とか、刺戟物(への信念)は刺戟が造り出した錯誤だと考へるにしても(或いは神經生理學に則り大腦からの「感覺の投射」と呼ぶにしても)、さうやって實體感を誘發させるやうな刺戟(の感覺)には、内實はどうあれそれを受ける外から内への方向性、ベクトルが備はってゐたことだけは、否めまい。ましてや病氣の感覺と言へば、pathos(希)であれaffectus(羅)であれ心身の受動状態における變調を表はす語であったこと、古代よりストア派や醫學思想に見られる通り(ミシェル・フーコー/田村俶譯『性の歴史Ⅲ 自己への配慮』新潮社、一九八七年四月、pp.73-74.)。ドイツ語なら、Leiden(病苦)のLeideform(受け身形)なることPassion(熱情、受苦)のPassiv(受動態)なるが如し、か。現に須藤の引用でも「わたしを苛むあの感覚が掻き立てられるもととなった経験」とくだいて譯されたやうに(ちくま学芸文庫版p.121「あの私を苦しめる感覚を惹き起こした経験」)、感覺にはそれを喚起した(erregten=興奮させた・刺戟した)客體が措定されてゐるのだ。……原文にそぐはぬ解釋は何により歪んで何のため歪めたのか、「問題意識」よりは「テクスト読解に重点を置く人」(竹内綱史、前掲p.120)と評される須藤をして斯く不精確なる讀解をなさしめたのは如何なる問題構制であったのか、どんな意圖せざる意嚮が讀み取られるか。「いかにして、人間にあって非意図的無意識を意識化するのか――」(第四章「四 結語にかえて」p.193)。
外來性・外發性をも内在化してしまはうとする本書の獨我論めいた解釋法は、思考パターンにおいて、僧侶が導くルサンチマンの方向轉換(『道徳の系譜學』第三論文第十五節末、ちくま学芸文庫版p.533以下)と似たり寄ったりになってゐる。禍ひなる哉、病める羊が「私は苦しい、これは誰かの所爲(schuld=咎、罪責)にちがひない」と恨みを外に向けると、牧人たる禁欲僧が「その通り、だがお前自身がその誰かなのだ」と吹き込んで自責の念として内攻させ、疚しい良心はますます病ましくなる……。この外から内への反轉に關して須藤は、同じく『道徳の系譜學』より第二論文を引き合ひに出して「外に向かっていた「自由の本能」(=攻撃性)が内に向けられることによって、「やましい良心」が発生した(第一六―一七節)と述べられると、一見いかにもそれは、[第三論文が述べる]「ルサンチマンの方向転換」に等しい事態を指すかのように、受け取られかねない。しかし、ここでは「やましい良心」に「能動態の」(第一八節)という性格付けがなされており、それはルサンチマンとそのまま同一視することは許されない」(第四章四p.190)と注意してゐたけれど、そのあと第二論文は「疚しい良心といふものは一つの病氣なのだ、それは何ら疑ひを容れない」(第十九節冒頭)と再確認してゐるので、
按ずるに。本書はこの「生に對する歴史の利害について」を第二章で論ずるにあたり、その序言を十四年後の『ヴァーグナーの場合』序言と重ねつつ對比した(第二章一pp.83-85.)。兩者を「見ようによっては同じような趣意の文面をもつ」(p.83)と言ふ通り、「反時代的 unzeitgemäss」な前者の再來が後者の「自分の時代を自分のうちで超克すること」(p.84及び第六章「二 挑発としての『ヴァーグナーの場合』」p.239所引。原文はSeine Zeit in sich zu überwinden、原佑譯では「おのれの内なるその時代を超克すること」、『偶像の黄昏 反キリスト者 ニーチェ全集14』〈ちくま学芸文庫〉一九九四年三月、pp.285-286.)にも見えようし、それぞれの主役が前者は文獻學者で後者は哲學者たることに差が見出されてゐる。そこから須藤は「要するに、青年時代のニーチェには、「時代のやましい良心」としての哲学者の役割・使命に関する着想(のちに本文で詳論する)が、いまだ欠けているのである」(第六章註(10)p.263)と總括した。その『ヴァーグナーの場合』を精讀した論考が第六章であり、初出は本書で書き下ろした第二章に十年先立つ。よって、第二章で「詳細は第六章を参照いただきたいが」(p.85)と語る著者は順逆顛倒のうちにあり、畢竟『ヴァーグナーの場合』を高く買ふといふ結論に合はせて先行著作であるこの『反時代的考察』第二篇を裁斷してしまったのでないかと猜せられる。だが結果から前歴に遡るにしてもその結果が複數分岐してゐるとしたら、つまり『ヴァーグナーの場合』を唯一の結論と見込まないとすれば、必ずしもそれに歸結させなくてよくなり、「生に對する歴史の利害」の意味づけも違ってくるか知れない。哲學者に「その時代の疚しい良心たること」を課するのは別に『ヴァーグナーの場合』序言に始まったことでなく實は二年前の『善惡の彼岸』二一二と同工異曲であったが、その種の變奏とは見解を異にするやうなそれ以外の結果――例へば前年に上梓された増補版『悦ばしき知識』第五書三八〇「「漂泊者」は語る」結文は、己が反時代性さへも超克してゆく道を説いてゐた。
「[…]何よりもまずこの時代そのものを自分自身のなかで「克服」する[diese Zeit in sich selbst zu „überwinden“]必要がある、――それはその者の力の試金石[Probe=試演、小手調べ、腕試し]なのだ、――したがっておのれの時代ばかりか、この時代に反対してきたこれまでのおのれの嫌悪[Widerwillen=反感]や反抗心[Widerspruch=反論、矛盾]をも克服しなければならない。こうした時代に生きるがゆえのわが苦悩を、わが反時代性[Zeit‑Ungemässheit=時代不適合性]を、わがロマン主義を…」(第三章「四 「持続性」の問題と「よきヨーロッパ人」」p.158所引、『悦ばしき知識』*1前掲ちくま学芸文庫版p.452相當/村井則夫譯『喜ばしき知恵』〈河出文庫〉二〇一二年十月、p.443相當)と。
なほも「歴史の利害」と『ヴァーグナーの場合』との差等を辨別したいのだとしても、同時代批判のためワーグナーといふ「典型的デカダン」たる同時代人を「拡大鏡」(第六章三p.243所引NF-1888, 14[65]=『権力への意志 上』四七・前掲ちくま学芸文庫版p.59相當。『場合』では第三節に唯一の用例があることも述べるべきであった)にして時代の症状を映し出したと讀む第六章(「三 「楽士」の「拡大鏡」――「哲学者」の「やましい良心」」)の着眼點で以て『ヴァーグナーの場合』以外をも通覽してみれば、まづ目に留まりやすい所で同年執筆の『この人を見よ』(「なぜ私はこんなに賢明なのか」七、前掲ちくま学芸文庫版p.38)には「強力な拡大鏡」にした人物の例示に『反時代的考察』第一篇「ダーヴィト・シュトラウス、告白者にして著述家」を擧げてワーグナー攻撃と共に竝べてをり、本書もそれに觸れつつ(第六章三p.244)「ここにいう「ヴァーグナー」とは文脈からして『反時代的考察』第四篇「バイロイトのヴァーグナー」ではなく、『場合』に問題視されているヴァーグナーを指す」(第六章註(11)p.263)と註記したけれど、しかし須藤は言ひ落としてゐるが、四年前ニーチェは正にその第四反時代的考察における理想視した描像について、若氣の過ちではあれ「――生涯の或る時期には、ひとは、諸事物や人間たちを見まちがう権利をもっている、――拡大鏡、それが私たちに希望を与えるのだ」(『生成の無垢 上』一二八六・前掲書p.653=NF-1884, 26[406])と申し開きしてゐて、擴大鏡とは批判どころか過襃の技法、過大評價の美稱だったし(『悦ばしき知識』二四一等も然り)、直ぐ後にワーグナーとショーペンハウアーと二人
ここでニーチェの言から可能性を導く須藤だが、逆に、以前「屋根から瓦が……――必然・意志・偶然」(『【岩波】新・哲学講義③ 知のパラドックス』)でスピノザとニーチェとを檢討した時には「一言でいうなら、可能性という様相の排除・抹消だといえる」との結論を引き出してゐた。
[…]ニーチェにおいては現実は必然=偶然と規定されました。この規定に関して見逃してならないことは――明言されてはいませんが――可能性は偶然性と峻別されるということです。その峻別のうえで、必然=偶然として現実を規定することによって、可能性の様相が抹消されるのです。あるいはむしろ、可能性が抹消されるからこそ、現実は必然=偶然として規定されるのであって、両者はことの表裏をなします。
中岡成文ほか編集委員『【岩波】新・哲学講義③ 知のパラドックス』岩波書店、一九九八年一月、p.146
讀み返して照合してみたら正反對の主張だったので、戸惑はされる。考へを變へたのか知れないが、それならさうとひと言でも斷わってもらひたいものである。
本書第五章(初出二〇〇三年)中「三 「偶然」としての歴史」の行論は以下の通りであった。「[…]いまだマッハを知らなかったと思われる中期の段階で、ニーチェはすでにマッハと思想的戦略において、ほぼ軌を一にしていた、といってよい。」「ところが、中期ニーチェ、『人間的』のニーチェにおいては、発生史の洞察はそのまま、事象の因果的必然性の洞察でもあるとされる。」「[…]「ほぼ」と述べた理由はそこにある。マッハは、中期ニーチェのように、因果的必然性を揚言することがないからである。そこが、両者の基本的差異である。そして、この差異にこそ、後期ニーチェに対するマッハの([思惟經濟に續く]いま一つの)影響を云々できる可能性が潜んでいる。」「絶対的な必然的因果関係を中期ニーチェが見ていたところに、マッハはむしろ「偶然」を、「しきたり・とりきめ Convention[=因襲、規約]」」を、観取する」(p.211)。そこでマッハの力學史(一八八三年初版)から引例される(p.212)。
歴史探求は単に現存のものの理解を促進するだけではない。それは、現存のものが部分的にはしきたりと偶然の産物であることを明かすことによって、新たなものの可能性を示唆しもする。さまざまな道をたどって到達される、より高い立脚点からは、より自由な眼差しによる展望が効き、さらに新たな道をそれとして知ることができるのだ(Mechanik, S. 251)。
このマッハ(伏見譲譯『マッハ 力学 力学の批判的発展史』講談社、一九六九年十月、第Ⅱ章§8-7.p.239相當/岩野秀明譯『マッハ力学史 上 古典力学の発展と批判』〈ちくま学芸文庫〉二〇〇六年十二月、p.397相當)に繋げられるのが、『道徳の系譜學』第二論文第十二節でニーチェが「ある「事物」・器官・慣習の歴史全体とはこのようにして、つねに新たな解釈とつじつま合わせの継続した記号連鎖なのである。ただし、それら解釈とつじつま合わせの原因それ自体は互いに連関しあっている必要はない。むしろ、事情によっては単に偶然的に互いに継起し取って代わりあうだけなのである」云々と述べる箇所(p.213所引)だ。――但し、マッハ著に接して以後の新生面のやうに思はせたいあまりか、まるでそれ以前にニーチェが「歴史における偶然[Zufall]」(NF-1876, 19[47]・1880, 10[F101])を認定したことが無かったみたいに決めて掛かって、先在せる『人間的、あまりに人間的 Ⅰ』二三七(*1前掲ちくま学芸文庫版p.258)やNF-1880, 1[63]や『曙光』四九六(Cf. NF-1881, 11[317]・13[1])等の系脈(後續に『生成の無垢 下』一〇四六・*1前掲書p.552=NF-1884, 25[166]も)に目もくれないでゐる點、論證としては拔かりがあるものの、そこは、認知した偶然をば(肯定的)可能性の
しかし、だからこそ、キリスト教道徳の勝利が「偶然」の産物であり、そうであるからには、反対に、キリスト教道徳の批判的超克の可能性も開けてくるのである。その意味で、物証としての語源学と「偶然」としての歴史観は、相互に支え合う関係にある。語源学は現行の価値観以外の価値観の存在を立証し、その限り道徳的価値観の歴史的変遷を証拠だてる。それは「偶然」としての「歴史」のれっきとしたひとつの事例である。他方、語源学という物証が、現行の道徳的価値観以前の価値観を立証できるためには、そもそも歴史がさまざまに変遷する可能性を秘めたものでなければならず、そしてその変遷が真にラディカルな変遷であるためには、歴史の変動は本質的に「偶然」的な変動でなければならない[…]。歴史はその本質が「偶然」であることが確証されてこそ、ニーチェの「系譜学」は「系譜学」としての威力を発揮できるのである(第五章)。
なにやら循環論法臭い論じ方である。「歴史の「偶然な」「非連続性」とは、『系譜学』における探求にとって、その理論的立脚点となるという意味で、出発点をなすばかりか、歴史探求に際して発見論的原理として作動するという意味で、目標地点をも構成するものなのである」(p.216、傍線引用者)とも言ふ邊り、自覺の上なのかどうか……「発見論的」(heuristisch=索出的)と言ふと哲學上カントの統整的(regulatives=規制的・調整的)原理を匂はせるが(『純粹理性批判』B644・B699・B799。Cf.『善惡の彼岸』一五)、統整用の理念を構成的に使用すべからずと云ふのも第一批判書(B717ff.)の教へだった。構成因として實體化する勿れ、そこから「誤れる循環」が發し「本來證明さるべきであったものが前提される」のだ(B721)、と。統整的・發見的原理に据ゑられる理性の形式は合目的性であるが(仝B714ff、『判斷力批判』第七十八節)、特に右の引用段の後半で「〜ためには、〜でなければならない」を繰り返すのは、まさしく「ためにする」議論で、目的論に囚はれて見える。「「歴史」は目的論的に「進歩」するとか、あるいは逆に堕落すると、ともすれば考えられてしまう」(p.214)と用心してゐてさへ己が望む目的のためには警戒心が薄れるものか、何のためといふ目的に同調してくれる相手に向けた論理構成なので、目指す向きが異なる他者には通用しない。その目標は達成しかねる、そんな結果を求めぬ、と拒否されたらどう説得するのやら。目的論ではなく必要條件の分析として、もし起きた史實以外の可能性があるならばその歴史は偶然である(必然とはそれ以外の可能性が無いこと、と云ふ定義の對偶)と論理學式に判斷するのだとしても、逆は必ずしも眞ならず、曾て歴史上に偶然があったことは今ここの現實とは別樣な(しかも「真にラディカルな」!)可能性あることの十分條件になるか、後件肯定の虚僞でないか、一件(單稱命題、特稱命題)が偶然だったら歴史全般に及んで全件(全稱命題)が「本質的に」偶然性であることになるのか(しかし偶たまであることが「本質」って、「稀によくある」みたいで形容矛盾っぽくないか)、現實として出來事には必然もあれば偶然もあって時と場合によりけり(それこそが大いなる偶然性とか?)ではいけないのかしらん……それに何より、「可能性は偶然性と峻別される」と論じてゐた過去の記憶を消去してしまったかのやうだ。その「屋根から瓦が……――必然・意志・偶然」では「可能性とは何より未来に関係づけられます」(前掲p.147)と決め込んでおきながら、本書第四章・第五章の立論では何よりまづ過去の偶然(所謂「歴史のif」)に可能性を見出してそこに現状を變革する將來の可能性が託される按排――曰く「むしろ逆に、歴史の本質的「偶然性」の洞察を梃子として、必然性と変更不可能性に凝り固まっているかに思われる歴史事象を解きほぐし、そこに歴史の新たな可能性を展望し」(第五章三p.212。Cf.前引第四章三p.182)云々――、過去だか未來だかもう混亂せざるを得ず、論旨の瓦解は不可避となる。敢へての
この齟齬する須藤の二つの論考は、整合させられるのか、分けて考へるべきなのか、いづれかを棄却するのか、或いは兩論併記のまま
[…]ニーチェの著作の多くはアフォリズムの集成という形態になっている。その形態は、ニーチェの思考に視点の多数性を可能にした。それが、一切はなんらかの観点からの解釈であるという「遠近法主義」の思想にも繋がっていることは明白であるが、しかし、他方、アフォリズム形式ではない著作をものする場合、著者としての自分の立場・観点はいかなるものかという問題に対する、ニーチェの意識を先鋭化したようにも思われる。そうした著作の一つである『系譜学』において、著者ニーチェは、「認識者」として、つまりは「学者」として自己規定している。
第六章「三 「楽士」の「拡大鏡」――「哲学者」の「やましい良心」」pp.244-245.
ついでながら、厭味が得意な三島憲一に言はせると「哲学者や政治学者は比較的まとめやすい『道徳の系譜学』をメイン・ディッシュにして、いくつかのアフォリズムを適当につけあわせるのが常である」(*4前掲『ニーチェ以後』「第四章 プラトン変貌――ニーチェ、ハイデガー、ガダマー――」p.123)とのこと。下手したら、易きに附いただけに終る。さて、本書刊行後の再論となる須藤訓任「「運命」について――スピノザ、ショーペンハウアー、ニーチェ――」(岩波書店『思想』二〇一四年四月號「スピノザというトラウマ」)は如何に、と見れば、「Ⅲ 天空の骰子――ニーチェ」で「必然性と等号で結ばれることによって偶然性からは(人間的自己による)変更可能性、一般に操作可能性が奪取されてしまう」(p.266)云々とやはり可能性の否認を讀み取り、篇尾「追記」に「屋根から瓦が……」第二節を併せて參照すべきものとはするが、『ニーチェの歴史思想』にて論じた偶然性から可能性へと向かふ思想に關しては口を拭って全然言及せずじまひだ。
なほ公平に言って、本書の著者も論理性を發揮しないわけではない。曰く「むろん、対象は認識されない限り、批判されることもありえない。その意味では認識は、批判の必然的先行条件となるのであって、そうである以上、両者を一刀両断に分割することはできない。若きニーチェの時代批判も当然ながら、時代認識を含意する」(第四章p.165)……しかして論理上、必要條件たる認識は必ずしも批判といふ歸結を導くに足る十分條件ではない(批判どころか歴史認識が顯彰史觀に傾く場合さへある)。ここから、「「起源」と「現在」とは、すなわち、「発生史」と(「現在」の)「批判」とは、峻別されるしかない」(第四章二p.180)と言ふ目覺ましく重要な論點へと繋がる條理が讀み解けよう(著者本人が明示はしてないけれど)。この分離無くしては、またしても「[…]二種類の超時間性――「起源」の超歴史性と「現在」の所与性――は癒着し相互的強化の循環過程に入りこむことになる」(第五章一p.199)。「「系譜学」と「批判」との間に無媒介的な連結を認めることを逡巡するとでもいうような感覚」、そこには「「歴史精神」[『道徳の系譜学』第一論文第二節]が宿っている。そして、この精神の内実いかんにこそ、中期ニーチェと後期ニーチェとの――特に、その歴史思想に関する――決定的な差異がかかっているのである」(仝p.200)。この切斷の冴えをこそ! 一往「発生史がある局面では批判に通ずることを、彼[ニーチェ]も認めてはいる」(仝p.202)と言ふ通り、歴史的感覺(異なる價値觀を排斥せず同化もせず相異なるまま竝存して認識する能力としての)が道徳批判を可能にしてくれることもあらうが、それは或る場合での特稱命題であって全稱(universal)でも必然でもない以上、可能性を現實化して批判にまで至らしめるには他にまだ何か足りない條件があると考へなくては。尤も、そこで「ただし、『系譜学』の最終的ターゲットはあくまで、道徳の「批判」であって、その「発生史」の方ではない」(第四章一p.172)と云ふ類ひの目的論に執心すると、結論ありきの論點先取、ニーチェ「後期」を必然視してその達成からのみ前歴(先行條件)に遡及する如き循環論になりがちである。また、論理形式だけでは割り切れないのは歴史における時間の流れが一方向で不可逆な所で、無時間的に操作可能な論理命題と違って時間經過は前後非對稱であり、そこも、結果から逆算して原因や前提條件を推論する場合には要注意か。「――そして私の視線は、大概は過誤がなされる所の、あの至極難儀で至極油斷ならぬ逆推理の形式に向けていよいよ研ぎ澄まされた――作品から著作者への、行爲から行爲者への、理想からそれを必要とする者への、どんな思考や評價の仕方からもその背後で指令してゐる欲求への、逆推理[Rückschlusses=遡及推理、歸納的推論、逆向きの結論]」(増補『悦ばしき知識』三七〇「ロマン主義とは何か?」、前掲ちくま学芸文庫版p.434相當/村井則夫譯『喜ばしき知恵』前掲書p.425相當。『ニーチェ對ヴァーグナー』「我ら對蹠人」にも改變しつつ自己引用、*8前掲『偶像の黄昏 反キリスト者』p.364相當。Cf.『人間的、あまりに人間的 Ⅰ』二二七「結果から根拠や無根拠へと逆に推理される」、前掲ちくま学芸文庫版pp.247-248.)。
「生に対する歴史の利と害について」に關説して、須藤著の曰く。
「歴史」の原語はHistorieである。Historieは場合によっては「歴史学」と訳される。ニーチェの三区分[「記念碑的歴史」「骨董的歴史」「批判的歴史」]を「歴史」と翻訳するのは、実は少々不正確の謗りを免れない。というのも、たとえば「記念碑的歴史」とは、なんらかの歴史事象を一種の記念碑に見たてて、それを手本に一念奮起して、これからの事業に邁進しようという、歴史事象に対する態度ないし姿勢を指すのであって、それをそのまま――少なくとも現行の日本語においては――過去の歴史事象と同一視されやすい「歴史」という言葉で意味させるには、無理があるからである。しかし他方、Historieを歴史学と訳すのにも、この場合違和感が残るだろう。「記念碑的歴史」などの歴史的態度は、「学」の厳密性・禁欲性と、どこかそぐわないところがあるからである。
「(補論4)ヘーゲルとニーチェ――歴史をめぐって」中「二 「歴史」の語り部としての「哲学者」」p.406
歴史「學」と稱するほど學術的でない「態度ないし姿勢」なら、歴史觀、史眼と言ったところか。その意味での「歴史」は、史學科の歴史研究に限らず諸學における歴史學派や非學問的な一般讀者向け歴史物語等にも分有される。
ちなみに、同じ第二反時代的考察について講説した渡邊二郎は「ニーチェが、「生にとっての歴史の利害」と言ったとき、その「歴史」とは、もっと明確に言えば、「ヒストーリエ(Historie)」であり、つまり、「記述としての歴史」ないし「歴史叙述」のこと、端的に言って「歴史的知識」「歴史的認識」のことにほかならない」(『歴史の哲学 現代の思想的状況』「第十二章 ニーチェの登場」〈講談社学術文庫〉一九九九年十一月、p.304)とかれこれ
ゲシヒテは出来事としての歴史であり、ヒストリーは出来事の記述としての歴史である。本書ではゲシヒテもヒストリーも「歴史」と訳した。「歴史」の語感にはこの二つの意味が含まれているのみならず、ニーチェはヒストリーとゲシヒテを一応区別して使ってはいるが、必ずしもそうではないからである。じっさいドイツ語のゲシヒテにも「物語」「歴史記述」の意味が含まれているのである。[…例は略…]訳者が前後の連関からしてゲシヒテとの区別をはっきりさせた方がよいと思った場合には、ヒストリーを「歴史記述」あるいは「史学」と訳しておいた。
このやうに、歴史(Geschichte)それ自體とそれを知ったり考へたり語ったりした歴史(Historie)とは、ヘーゲル『歴史哲學講義』「序論」(武市健人譯『ヘーゲル全集10 改譯 歴史哲學 上卷』岩波書店、一九五四年→第十九刷、一九九五年四月、p.99。武市譯『歴史哲学 上』〈岩波文庫〉一九七一年二月、p.147)以來よく對比される概念ではあるものの劃然とは割り切れずに重なり合ふ。生起した物事でもあればその表象でもある「歴史」なる語の用法には、二分性よりもむしろ二重性がある。喩へれば、何やら書物といふ書名の書物のやうな自分を自分の上に折り重ねた複合があり、もっと言へば、
「反對物」とも譯されるGegensatz即ち「對立」概念への批判は、ニーチェにおいて既に『人間的、あまりに人間的 Ⅰ』一より見られるのが八年經て『善惡の彼岸』二に再論、翌年の「形而上学の心理学によせて」と題する遺篇(『権力への意志 下』五七九・*1前掲ちくま学芸文庫版pp.111-113=NF-1887, 8[2])へも引き繼がれ、ほか、對立を程度差(Gradverschiedenheiten)に解消する『人間的、あまりに人間的 Ⅱ』第二部六七に加へ關聯文を含む斷章は『善惡の彼岸』二四や、遺稿ではNF-1880, 6[204]、及び『生成の無垢 下』四一二・*1前掲書p.240=NF-1881, 11[115]、『権力への意志 上』三七・*1前掲ちくま学芸文庫版p.49=NF-1887, 9[107]、『権力への意志 下』五五二c・前掲ちくま学芸文庫版p.87=NF-1887, 9[91]C、も對照せよ。一方で、「私は對立性が大好きだ」(推定一八八八年一月末エリーザベト・フェルスター宛書翰下書き)と筆にし、ヘラクレイトス(ディールス=クランツB53、B80)張りに殊更「闘爭」を旨とするニーチェにしてなほ、斯く對立思考を窘める言のある次第。「私は、精神の事柄においても、戦いと対立とを欲するのである」(『生成の無垢 上』一二九九Ⅴ・前掲書p.680≒NF-1885, 36[17])と言ひ誇るあのニーチェが、だ。年來敢へてポレミックなものを吐き出して已まず(Cf.一八七四年三月十九日附E・ローデ宛書翰=『ニーチェ書簡集Ⅰ』91・前掲ちくま学芸文庫版p.333相當)、「諸要素の多様性と諸対立の緊張」が「人間の偉大さにとっての前提条件」(『権力への意志 下』八八一・前掲ちくま学芸文庫版p.400=NF-1887, 10[111]。Cf.同書九六六・p.465=NF-1884, 27[59]及び八四八・pp.359-360=NF-1887, 9[166])だとか「[…]こうした強烈な対立概念、この対立概念の照明力が私には必要なのである」(『ニーチェ全集 第十二巻(第Ⅱ期)』*9前掲書p.130=NF-1888, 23[3]3.)とか言ひ募る激論家が、善惡正邪その他舊來の道徳臭い二元論を敵視するあまり、「いかなる対立もない」(前掲『権力への意志 下』五五二)等と全否定の極論に及び、その所爲で却って對立是認の態度との間の對立を引き立たせてしまふとは、これまた皮肉な。……對立に對しても批判を對立させ、どこまでも反對命題を提起せずにゐられない、天邪鬼みたいな? 或いは反語めいた自己懷疑なのか、反論の餘地を殘して誘ひ掛けてゐるのか、「ひょっとするとそれは眞でないかしれぬ、――他のものがそれと挌闘せむことを!」(NF-1883, 16[63]末文≒『生成の無垢 下』一三六四・前掲書p.718相當。Cf.『善惡の彼岸』二二結尾及び一八、NF-1880, 7[60]=『生成の無垢 上』一〇七七・前掲書p.559)と言った風に? より對立度緩めな物言ひでは、「私はけっして抗言[Widersprechen=矛盾]を挑発するつもりはない。むしろ、私といっしょに問題を形成するよう、手助けをせよ!」(『生成の無垢 上』一〇七五・前掲書p.558=NF-1880, 7[166])とも。どのみち、「主要觀點。距離を引き裂く、但し何ら對立を作り出さない」(NF-1887, 10[63]≒『権力への意志 下』八九一・ちくま学芸文庫版p.408相當)と唱へようとも、その「主要手段」(Hauptmittel)として「中間形成物[die Mittelgebilde]を剥ぎ去り」(仝p.409相當)「裂け目をより大きく裂き開ける」(NF-1887, 10[64]≒同書八九一・p.408相當。Cf. NF-1887, 10[58]、10[59]≒同書八八六・p.404)のなら、間を繋ぐ漸次の階調(Gradation)を失って二極化が進み、分かたれた兩端が或る種の對立に至ることは避けられまいが。
㈠ あらゆる言表が他の言表によって放棄せられるように見える。自己矛盾はニーチエの思惟の根源的特徴である。ニーチェにおいてはいつも、或る判断に対して同時にそれの反対が見いだされる。外観的には彼はすべての事柄について二様の見解を持しているように見える。だからわれわれは[man=ひとは]、われわれが欲することのために、ニーチェから随意に引用句を引き出すことができるのである。[…]
それにもかかわらず、矛盾は恐らくしばしば重要な意義をもつことがある。[…]
いずれにしても解釈の任務は、あらゆるものにおいて矛盾を発見することであり、かりに矛盾を発見しなかった場合でも決して満足することなく、かつ[und dann vielleicht,=それならことによると、]この矛盾をその必然性において経験することである[かも知れない]。その都度[gelegentlich=折を見て・偶たま]矛盾に躓くことなく、むしろ矛盾性の根源が探求されねばならない。
カール・ヤスパース/草薙正夫譯『ヤスパース選集⓲ ニーチェ(上)』「序論」、理想社、一九六六年十一月、pp.24-25.
シュネーデルバッハ『ヘーゲル以後の歴史哲学 歴史主義と歴史的理性批判』は、目次に「第四章 フリードリッヒ・ニーチェ」もあれど、章頭で「生に對する歴史の利害について」のみ扱ふと斷わってゐるため在り來りの安直な論じ方から脱け出てなく、批判的歴史の鼓吹者に轉じた中期以後のニーチェについて拾ひ上げようとしない。同樣に歴史哲學の通史としても守備範圍を狹く窄める消極性が目につく。ソーシャルライブラリーに登録した際の讀後メモは、以下の通り。
読了 2010/10/05
譯者(古東哲明)の〔 〕による補足が必要以上に多い。
卷末「文献表」に邦譯を補ってあるのは哲學書ばかり、マイネッケすら漏れてゐるってどういふこと?
その分析はなかなか讀解の參考になるものの所詮は哲學者の論、哲學史に限定されてをり、歴史家であるブルクハルトやドロイゼンの章を立ててゐるとはいへ、科學史(學問史)に及ばない。「歴史認識の実践〔暗黙裡の行為〕を哲学的に解釈することと、その歴史認識の実践自体との、事柄としては必然的なつきあわせ〔対比〕を、おこなわないままにとどめざるをえなかった。そうしたつきあわせ〔対比〕は、科学史家との共同作業をつうじてのみ、なされるべきだからである」(p.38)。これだから哲學者って……カッシーラーやフーコーの爪の垢でも煎じて飮め。
cf. 笠原賢介譯ヘルベルト・シュネーデルバッハ「歴史における‘意味’?――歴史主義の限界について――」http://hdl.handle.net/10114/3995
http://www.sociallibrary.jp/entry/4588004425/m.3820946/
歴史哲學(Geschichtsphilosophie)なんて形容矛盾だと却下したのはブルクハルト『世界史的考察』(新井靖一譯〈ちくま学芸文庫〉二〇〇九年八月、p.12)だったが、同要素を竝べ替へた哲學史(Geschichte der Philosophie)と稱される組合せもまたぎくしゃくしないわけがなく、そのブルクハルトが拒んだヘーゲルですら『哲學史講義』でまづは「直ちにこの對象自體が或る内的相剋を含む」(序論「A 哲學史の概念」。武市健人譯『哲学史序論――哲学と哲学史――』〈岩波文庫〉一九六七年六月、p.49相當)と斷わっておいた程で、そんな根っからの對立は如何にヘーゲル派がお得意の辯證法的統一に止揚させたがった所で到底納まり切らず、爾後それが十九世紀ドイツ講壇哲學に不協和音を奏でた樣はニーチェの同時代觀察記(一八七四年刊)にも描寫が見られる。
過去のものの博識な[gelehrte]
「教育者としてのショーペンハウアー」八、前掲『反時代的考察』〈ちくま学芸文庫〉pp.336-337.歴史記述 はインドにおいてもギリシアにおいても決して真の哲学者の仕事ではなかった。そして哲学教授がその種の研究に携わる場合、人々によって精々のところ、あれは有能な文献学者、好古家、語学者、歴史家である――だが決して哲学者ではない、と言われることに甘んぜざるをえない。精々のところ、と但し書きをしたのは、文献学者は大学哲学者の行なった大抵の学者的[gelehrten=學識ある]業績に対して、あれは拙劣な研究であり、学問的厳密さが欠けており、概して嫌らしい退屈さを伴っているという感情を抱いているからである。例えばギリシア哲学者の歴史について言えば、学者的ではあるが、しかし極めて学問的であるとはいえない、遺憾ながら余りにも退屈なリッター、ブランディス、ツェラーの研究がその上に繰り広げた眠気を催す靄からそれを再び誰が解放するだろうか?
この前後で學識ある(佛語éruditに當る)歴史學より哲學を選ぶ姿勢を見せるニーチェだが、哲學者を理想化する基調とは裏腹に、數ページ後では現實の惡しき哲學教授どもを斥けて「疑いもなく今では個別科学の側にいる人々の方が一層論理的であり、一層慎重であり、一層謙虚であり、一層独創的であり、要するに、いわゆる哲学者においてよりも個別科学においての方が一層哲学的に行っているのである」(仝p.341。NF-1880, 4[138]も同旨。Cf. NF-1872, 19[74][75][76])と認め、「自然科学と
自らニーチェの名を先蹤とする系譜を成し(僞系圖かも知れぬが)、哲學の普遍性を解體して特殊化した各種の特定主題から思考を起ち上げる方途を示しつつ、古文書漁りのやうな歴史學的作業に身を委ねた歴史研究者には、フーコーといふ實例がある。ジャック・アタリの如き史料調査の實務拔きに歴史家ぶる輩に對しては距離を取る態度を露骨にしてゐた程(西永良成譯「歴史の濫造者たちについて」『ミシェル・フーコー思考集成 Ⅸ 1982‑83 自己/統治性/快楽』筑摩書房、二〇〇一年十一月)。ニーチェに事寄せたフーコーの談(一九六七年)を引いておく。
ヘーゲル以前、哲学は必ずしも全体性を目指してはいなかった、ということを指摘しておきましょう。[…]したがって私は、哲学とは全体性を視野に収めるものである、という考えは、比較的最近のものであるように思います。そして私には、二十世紀の哲学はまた新たにその性質を変えつつあるように思われます。つまり、哲学はみずからの任務を制限し限定しようとしているばかりではなく、みずからを相対化しつつあるようにも思われるのです。結局、今日において哲学するとは何を意味するのでしょうか。哲学するとは、全体性についての言説すなわち世界の全体性がそこで取り戻されるようなひとつの言説を構成することではなく、実際には、むしろあるひとつの活動を実践する[exercer=〜を營む、〜に從事する、修練する]こと、あるひとつの活動形式を実践することです。手短に言うなら、今日において哲学とは、さまざまに異なる領野において実践され得るようなひとつの活動形式のことである、ということになるでしょう。[…]
[…]
[…]ニーチェにとって、哲学するとは、さまざまな領域において一連の諸行為や諸操作を行うことでした。ギリシャ時代の悲劇を記述することも哲学であり、文献学や歴史に従事することもまた哲学でした。それに加えて、ニーチェが発見したのは、哲学に特有の活動が、診断という仕事にあるということでした。我々とは今日において一体何であるか。我々がそこで生きているこの「今日」とは一体どのようなものなのか。彼のこの診断という活動には、彼の[宇宙であるこの]思考、言説、文化の宇宙[全體]が[tout cet univers de pensée, de discours, de culture qui était son univers]、自分より以前にどのようにして構成されたのかということを明らかにする[établir=確立する]ために、自分の足もとを掘りおこすという仕事が伴っていました。[…]次のことを言うにとどめておきましょう、つまり、私はニーチェを読むまで、イデオロギー的に「歴史主義的」[«historiciste»=「歴史主義者」]なままであり、ヘーゲル的[hégélien]なままであったということを。
慎改康之譯「フーコー教授、あなたは何者ですか」、『ミシェル・フーコー思考集成 Ⅱ』*5前掲書pp.468-470.
フーコーへのインタヴュー(聞き手レーモン・べルール)「歴史の書き方をめぐって」(*5前掲、福井憲彦譯「歴史の書き方 『言葉と物』をめぐって」後半、p.174「寓意に関する警戒」。前掲レーモン・ベルール「ミッシェル・フーコーとの対話 ――その二――」p.116「アレゴリー的不信」。「歴史の書き方について」『ミシェル・フーコー思考集成 Ⅱ』p.439「
以下、フーコーが、自分の本(『言葉と物』)に現前してゐる主體(主語)とて今日では言はれたこと全てにおいて話してゐる「匿名の「ひと」」なのだと述べたのに對し、その主語on(フランス語で三人稱主格の不定代名詞。英語one、ドイツ語manに當る)の規定をべルールに問はれての返答である。
おそらく少しずつ、苦労をしながらではありますが、寓意に関する大きな警戒[la grande méfiance allégorique]から、いま解放されつつあるところではないでしょうか。私がいっているのは単純なことでして[J'entends par là l'idée simple qui consiste,≒それが意味するのは〜といふ單純な考へ]、テクストをまえにして、そのテクストが現実に語っていることの下でほんとうに語っていること以外は、なにも問わないという警戒ですね。そこにはおそらく、むかしの注釈の[exégétique=(聖書)釋義學的な]伝統からひきついだ遺産がありましょう。つまり、いわれたことすべてをまえにして、われわれは、何か別のことがいわれているのではないか、と疑ってしまうんですね。そうした寓意に関する警戒の世俗版がもたらしてきた効果の結果、すべての注解者は、著者のほんとうの思想をいたるところでみつけねばならない、著者がいわずしていっていたこと、著者がうまくいえなかったけれどもいおうとしていたこと、あるいは著者が隠そうとしたけれども隠しきれなかったことをみつけねばならない、とされてきたわけです。
しかし、言語を扱うには、今ではその他の可能性もいっぱいあるのだ、ということに気づかれています。たとえば現代の批評がそうです。少しまえまでまだ行われていたやり方と、現代批評とは、はっきり区別されます。いま現代批評は、みずからが検討するさまざまなテクストについて、つまりみずからの
対象 としてのテクストについて、一種の新しい結びつき[combinatoire=組合せ、結合法]を形成[formuler=定式化、表明]しようとしているのです。つまり、テクストの内在的な秘密を再構成しようとするのではなく、テクストを(言葉、文章、さらには音韻、主題、文学形式、物語の総体[ensemble=集合]といった)諸要素からなる総体としてとらえるわけです。そしてそれらの要素が、作家の企図によって統御されてはおらず、まさに作品そのものによってのみ可能にされているかぎり、それらの要素間には、まったく新しい関係性を浮きあがらせることができるのです。そうして発見される形式上の諸関係は、作家個人[personne=誰か]の精神のなかに実在していたものではありませんし、また、言語表出されたもの[énoncés=言表、陳述]の潜在的内容とか、すぐに露呈するような秘密とかいったものでもありません。そうではなく、そうした諸関係はひとつの構築物なのです。しかしそれは、そうして叙述された諸関係が、扱われた素材に現実的に帰着させられうるやいなや可能となる、そういうひとつの正確な[exacte=精密な]構築物です。われわれは、人びと[hommes=人間]の語ることを、いまだ定式化されていなかった[informulés]、われわれによってはじめていわれる、しかし客観的に正確な諸関係のなかにおいてみることを、学んできたわけです。こうして現代の批評は「そのものの内面にふかく入りこむこと[Intimior intimio ejus=彼の内面のなほ内なる(アウグスティヌス『告白』第三卷第六章第十一段落「我が
福井憲彦譯「歴史の書き方 『言葉と物』をめぐって」中「歴史の書き方をめぐって」『actes』3、pp.174-175.最 内よりも内奧に interior intimo meo」が典故か)]」という内在性の大神話を、放棄しつつあるところです。箱詰め[l'emboîtement=入れ子]とか宝の箱にたとえて、作品という戸棚の奥に探しにゆけばよいとするような古い考え方[thèmes=テーマ]から、完全に身をひき離しているわけです。現代批評は、テクストの外部に位置することによって、テクストにたいしてあらたな外部性を構成し、テクストのテクストを書くわけです。
もしこれ、ニーチェと引き合はせるとすれば、次の條あたりか。「文書[die Schrift=書き物]のいわんと欲することを素直に[schlicht=簡素に]理解しよう、しかし二重の意味はかぎ出すまい、まして前提とはすまい、というつもりで、現在文献学者があらゆる書物に対して作り出したのと同じような厳密な解釈術[Erklärungskunst=説明の技法]を自然に適用するには、きわめて多くの悟性を要する。しかしながら書物に関してすらよくない解釈術が決して完全には克服されていず、もっとも教養のある社会においてもなおたえず寓意的・神秘的な改釈[Ausdeutung=解釋、(夢や謎の)判じ]の残滓に出くわすように、自然に関してもまたそうした状態にある」(『人間的、あまりに人間的 Ⅰ』八、前掲ちくま学芸文庫版p.32)。同書二七〇「読む術」(p.288)や『人間的、あまりに人間的 Ⅱ』「第二部 漂泊者とその影」一七「深い解釈[Erklärungen=説明]」も相通ずる。これらを取り上げた大石紀一郎「ニーチェにおける〈文献学〉――古典文献学の精神からの〈力への意志〉の解釈学の誕生――」(東京大学教養学部外国語科編『外国語科研究紀要』第37巻第1號、一九九〇年三月、p.223・pp.231-232.)も參看。
ニーチェ著『道徳の系譜學』第三論文「禁欲主義的理想は何を意味するのか」は第一節末で「むしろそれ[=人間意志]は欲しないよりはまだ無を欲することを欲する[=意志せぬよりもいっそなほ虚無を意欲せむとする] eher will er noch das Nichts wollen, als nicht wollen.」といふ
— Versteht man mich?… Hat man mich verstanden?…
即ち木場深定譯で「――諸君には私の言うことがわかるか……私の言うことがわかったか……」(『道徳の系譜』〈岩波文庫〉一九六四年十月第九刷改版(改譯)、p.118→二〇一〇年十二月第67版改版)、信太正三譯「――私の言うことがおわかりか? ・・・おわかりになったろうか? ・・・」(前掲ちくま学芸文庫版p.485)。直譯すれば「私を」になる一人稱單數代名詞の對格mich(4格、英語目的格meに相當)が「私の言うことが」とくだいて意譯されるのは、ここでは「私を」や「私のことが」にすると日本語として文意が通じまいから、已むを得ないのかも知れない。けれど、裏を返せば、少なくとも日本語の「私」ではその儘すんなり「私の言ふこと」を意味してくれないことを示し、反對に「私の言ふこと」だけから復文すればwas ich sage(英what I say)やmeine Worte(英my words)等となってmich一語に收まらないことが示せ、それぞれ喰ひ違ひを抱へた別語である樣が察しられよう。されば、これらをさう常に同意義扱ひで等價交換して良いわけではないことに注意すべし。なるほど語脈によっては、ここが話者を理解したかと問ふ原文から話題を理解させようと促す譯文へと變換され得ても、しかし、もし「私の言ふこと」が了解されたかが訊きたいだけだとしたら何故was ich sageでなくmichで表現するのやら。この話し手自身を理解對象に据ゑた疑問文が、讀み方次第では聞き手への自分の言葉の傳はり具合を確かめる質問だと解釋されるとしても、そこで重心に偏りが起きてないか。何でもドイツ語學者によれば、「ドイツ語に見られるドイツ人の自我の捉え方」は「からだ」を疎外して「しばしば「こころ」だけをそのまま自己と同一視するという、顕著な特徴をもっている」さうで、更に重點を絞ると「ドイツ人は「こころ」といえば、ただちに思考作用を考えるのが普通である」し「言葉をそのまま思考と同一視するのも、ドイツ的思考法の一特色をなしている(自己=思考=言葉)。」――
日本語の「彼を理解する」はその人の気持ちや性格、おかれた立場などを総体的につかんでいる、という意味で使われるのが普通だと思うが、ドイツ語の verstehen の対象(=4格目的語)は具体的で個別的なことがらであることが多い。つまり ihn verstehen といえば、普通には、「彼が今言ったことが分かる」「彼が今何を考えているかが分かる」の意味であって、「彼を理解する」という意味になることは、どちらかといえば稀なケースに属する。ihn hören は「彼を聞く」と直訳するわけにはいかない。「彼に耳を傾ける」と言えないこともないが、やはり日本語としてはおかしい。どうしても ihn を「彼の言うこと」などと、「言う」に当たる部分をなんらかの形で補わざるをえない。つまり ihn は〈言葉=自己〉である。
寺門伸「ドイツ人の自我観」
言葉は事の
實はこれ、讀み進めると行文自ら言葉そのものを浮上させる仕掛けになってゐて(浮遊する
果たして「私(のこと)」の理解は「私の言ふこと」の理解(=聽き取り)で十全に置き換へ得るものか。ニーチェ最後の著書、執筆後二十年・沒後八年を經た一九〇八年初刊『この人を見よ』は、終章「なぜ私は一個の運命なのか」七、八、九、各節冒頭で、„Hat man mich verstanden?“といふ疑問文を重ねて掲げる。本邦初譯の安倍能成は「人々は余を解したか」(南北社、一九一三年十一月、p.293・298・302)とし、十五年後に岩波文庫版で「人は私を解してくれたか?」「人は私を解したか?」「人は私を解したか」(一九二八年十月、p.200・203・206→一九三九年一月第十四刷(改版)=復刻版〈名著/古典籍文庫〉一穂社、二〇〇五年十月→一九五〇年九月第十八刷改版p.191・194・196)と改譯した。三井信衛譯が「人々は私を理解しただらうか」(太陽堂、一九二四年十月、p.247・251・253)。これら初期邦譯は歐文直譯體で不定代名詞manまで譯出し、中でも安倍能成の岩波文庫舊版は「及ばずながら出來るだけ原文に忠實であらうとした」(「譯者序」p.7)と言ふ通り。後年、阿部六郎譯「私といふものが解つたらうか?」(「此の人を見よ」『ニイチエ選集 第八卷』創元社、一九四二年一月、p.167、p.170・172「私といふものが分つたらうか?」)は舊字新かなづかひ表記「私というものが解つたろうか?」(『この人を見よ』〈新潮文庫〉一九五二年七月、p.142、p.144・146「私というものが分つたろうか?」)で三十餘年重刷され續け、後繼となる西尾幹二譯は「私という人間をこれでお分かり頂けたであろうか?」(『ニーチェ全集 第四巻(第Ⅱ期) 偶像の黄昏 遺された著作(一八八八―八九年)』白水社、一九八七年二月→前掲『西尾幹二全集 第5巻 光と断崖― 最晩年のニーチェ』所收p.231・233・234/〈新潮文庫〉一九九〇年六月→二〇一五年七月二十三刷改版p.211・214・217)とくどくなったものの、丘沢静也譯「私は理解してもらえただろうか?」(〈光文社古典新訳文庫〉二〇一六年十月、p.213・216・219)とも意のある方向はほぼ等しい。『この人を見よ』の邦題(但しラテン語Ecce homoに對し文法上は不正確な飜譯だとか、cf.圓増治之「ニーチェに於ける「メランコリー」」中「一 ニーチェの自叙伝『エッケ・ホモ』」、『ニーチェ 解放されたプロメテウス』創文社、一九九〇年二月、pp.167-168.)を持つこの自己言及に溢れた書において、ニーチェ原文がmichを
で、改めて當の『この人を見よ』本文の言に即せば――(以下十一件、いづれも幸ひに原書異版間の校異が問題にならぬ箇所だった)。まづは「序言」第一節中程の副文(從屬節)„dass man mich weder gehört, noch auch nur gesehn hat.“①は、逐語譯すれば「人々が私に聽かず、私を見もしなかつたといふこと」(生田長江譯「この人を見よ」『ニイチェ全集 第九編 偶像の薄明(外五篇)』新潮社、一九二六年十一月、p.275→『ニイチェ全集 8 善惡の彼岸 この人を見よ(ニイチエ自傳)』日本評論社、一九三五年七月、p.321)や「人々が私に聽かないのみか、私を見るだにもしなかったといふ一事」(安倍能成譯岩波文庫版p.13)といった所であり、多少和らげた譯で「誰ひとり私に耳を傾けず、見むきもしないということ」(氷上英広譯p.359)とか「誰もわたしに耳を傾けず、目も向けないということ」(手塚富雄譯p.7)とかしておけば過不足無からうものを――或いは過去を表はす現在完了形として「これまでだれもわたしに耳を傾けてくれず、またわたしを見むきもしなかったという一事」(秋山英夫新譯p.323)とでも譯すべきかも知れないものの――、それが、川原栄峰譯では「誰も私の言うことを聞かず、また誰も私の書いたものを見もしないという事態」(理想社p.11→ちくま学芸文庫p.13)、西尾幹二譯は「私の言を聴く者はなく、私の書いたものに誰も目を向けさえもしないという事態」(前掲『西尾幹二全集 第5巻』p.122/新潮文庫p.3)などと餘計な補填をして指示對象を狹めてしまふ嫌ひがあった。これに類して「私の言ふ事」「私の聲」「私の言葉」といった附加をするのが小栗孝則譯(改造文庫p.9)、阿部六郎譯(創元社p.3→新潮文庫p.7)、土井虎賀壽譯(〈世界文學選書〉56、三笠書房、一九五〇年九月、p.2)、秋山英夫舊譯(角川文庫p.125)、丘沢静也譯(p.7)で、老婆心の籠もった譯解だ(清朝考證學者流の誡める「増字解經」に近し)。同じく第一節、結びに強調體で„Hört mich!“②と記す文は、さすがに「私を聞け」と直譯しては不自然にしても、單純に「私に聽け!」と譯した生田長江(前掲p.275→p.321)や安倍能成(岩波文庫p.14)はすっきり簡勁な語調であったが、また自稱代名詞を譯さない日本語化も「よく聽き給え!」(阿部六郎譯新潮文庫版p.7)「よく聞いてくれ!」(氷上英広譯前掲p.359)と二例はあったが――但し私拔きに「聽け!」とした加藤一夫譯「此の人を見よ」(『世界大思想全集 8 ニーチエ』春秋社、一九二九年二月、p.3)は‘Listen!’と一語文にした初期英語版(アンソニー・M・ルドヴィッチ譯)と書中の譯文大體が符合するので重譯本として以後除外、且つ小栗孝則譯での「やい! 我こそは何ノ誰某」(p.9)と戲譯に
かくて言葉に即する限り、如上各句でのmichといふ言葉は私の言ふこと(言葉)でなくそれを語る私に指し向けられてゐることが了解されようものの、さりとて、對象たるその私へと導く手懸りは書かれた言葉しか與へられてゐない限りで私を理解するにはまづその言葉の讀解を先立てるほかなく、それがひとを見紛はせる。はてさて、文は人なりや。「私は取違へられることを欲しない」(安倍能成譯『この人を見よ』「何故に私はかかる良書を書くか」一、岩波文庫版p.84→p.81)とは言っても、混同は避け難い。曾ては自己顯示慾を抑へて「「私は[ich]」といふおぞましい序言ことば[Vorrede-Wörtchen]が我慢できるのは、それに續く書物[序文後の本文]の中に出て來ないといふ條件の下でのみです」(一八八六年八月廿九日附E・W・フリッチュ宛書翰追伸)と嘯き、實際『悦ばしき知識』第二版序文でも「――だがニーチェ氏のことは放っておかう」(第二節冒頭、ちくま学芸文庫版p.9相當)と言ってのけたニーチェだが、いやもっと前、まだ著書も無いうちから「今後は序言で私について全く話題にしないものとする」(NF-1869, 2[27])と思ひ定めてゐたし、序に限らず、「非人稱的[unpersönlich=沒個性、非人情、事務的]」に書くこと・一人稱單數も複數も一切省くこと(前掲『哲学者の書』Ⅵ一p.326≒NF-1872, 19[65][208])といふ自戒を銘記したこともあるのだが、『この人を見よ』ときては到頭
331 カール・フクスへ 〔トリーノ〕一八八八年十二月二十七日
拝啓。いろいろ考えてみますと、これからはもう私のことについて[über mich≒私を超えて、私以上に、の意も懸けたか?]喋ったり書いたりすることは、すべて無意味となりました。いま印刷中の『この人を見よ』という著作とともに、私は自分が何者であるのか[wer ich bin=私は誰であるか]という疑問を今後永遠に取り除いてしまったのです[ad acta gelegt=解決濟みとした、不問に付した、棚上げにした]。今後、人びとは私のことで[um mich=私をめぐって]心を
塚越敏譯「ニーチェ書簡集 Ⅱ」『ニーチェ書簡集Ⅱ 詩集 ニーチェ全集 別巻2』〈ちくま学芸文庫〉p.275労 わすべきでなく、私がそこに存在する理由である事物 のことで、心を労わすべきなのです。
我執と自己放下とが言語において表裏飜轉する――否、言語さへも?……「われは一個の言葉
或いは、これをしも言語論的轉回(の先驅)と評すべきか、ニーチェによれば近代哲學では俗流デカルト主義に抗して「我[Ich]」とは思惟の先行要件ではなく恰かも「文法と文法上の主語を信ずるように」活動から逆にそのあるべき原因として主體(Subjekt=主觀/主語)が合成されたのではないかとの疑ひがあったし(『善惡の彼岸』五四、*1前掲ちくま学芸文庫版p.102。Cf.『善惡の彼岸』一七・仝p.41、仝二〇・pp.45-46、三四・p.73、NF-1885, 35[35]→抄出改稿38[3]=『権力への意志 下』四八三・前掲書p.28、36[26]=『権力への意志 下』五四九・仝p.80、38[14]、40[11][16][20]、40[23]=『生成の無垢 下』一七六・前掲書pp.103-105、1885, 2[139]後半=『権力への意志 下』六三一・前掲書p.159、2[193]=『権力への意志 下』五四八・仝p.80、1886, 4[8]、1886, 7[1]末の一部抄録=『生成の無垢 下』二三四・前掲書p.142、1887, 10[158]=『権力への意志 下』四八四・前掲書p.29、『道徳の系譜學』第一論文第十三節・ちくま学芸文庫版p.405)、そのことは、次世紀の言語學側から論を進めたらエミール・バンヴェニストの有名な定式「ことばにおいて,そしてことばによって,人間はみずからを主体 sujetとして構成する」(高塚洋太郎譯「ことばにおける主体性について」岸本通夫監譯『一般言語学の諸問題』みすず書房、一九八三年四月、p.244)に通ずる。まう少し噛み碎いた言ひ方だと、「わたしを口に出す唯一の人物[personne=人稱、人格]として自己を同定する[s'identifiant=一體化する]ことによって,おのおのの話し手は,かわるがわるみずからを《主辞[sujet=主語]》の位置に置くのである」(仝「代名詞の性質」p.238)からして、畢竟「《我[ego]》と言うものが《我》なのである」(p.244)。無内容な(私の)言ったこと、お解りいただけただらうか。
「ちっともわかりません! 先生!」――では、初めからやり直すことにしよう。
木場深定譯『道徳の系譜』第三論文「一」結句、前掲書p.118