一九三〇年代匿名批評の接線
――杉山平助とジャーナリズムをめぐる試論――※
目次
- 一 小林秀雄の匿名批評禮讚
- 二 汚名に塗れた無名氏・杉山平助
- 三 匿名批評の時代としての一九三〇年代
- 四 私批評に抗する社會性
- 五 常識論とジャーナリズム論からの接近
- 六 ジャーナリズム批評における口承性
- 註
キーワード:文学の社会化、私批評、ジャーナリズム論、新聞文芸欄、口承性
要旨
小林秀雄も論じた如く、一九三〇年代には匿名批評が盛行し、且つ重視されてゐた。その匿名評論の第一人者だったのが杉山平助である。杉山が執筆した東京朝日新聞學藝欄の匿名コラム「豆戰艦」の成功を契機に、各紙誌に匿名短評欄が設けられ、杉山自身も評論家として名を成した。匿名批評および杉山の評價をめぐって交はされる論議は、當時トピックとなった常識論、新聞・ジャーナリズム論等と交叉しつつ、大きく言って文學の社會化といふ問題群を形成してゐた。廣く讀者の立場に立って活字にならない聲を反映するのがティボーデの謂ふジャーナリズム批評であり、それが匿名批評の中に見出され、また求められてゐた。
「すべての文学は匿名の状態に向かう」
E.M.Forster‘Anonymity:An Enquiry’*1
▲一 小林秀雄の匿名批評禮讚
「文藝批評つていうものは、みんな匿名にしちやつたらいいと思うんです」――これは小林秀雄の發言である(對談「大作家論」)。一時の放言ではない。小林の批評論を通覽すると、匿名批評が一再ならず繰り返されるトピックであることに氣づく。昭和十年代――一九三〇年代半ばから、彼の批評をめぐる思索は匿名批評に焦點を結ぶのが常となるのだ。その批評論は匿名批評論に收束するもの、とさへ言ひ得るだらう。
このことに觸れた小林秀雄論は僅かしかない*2。だが論より證據、匿名批評を論じた小林の文に就かれたい(a〜i)*3。まづ一九三六(昭和十一)年三月三日の「文藝時評」が「匿名批評」と題し(a)、「もし匿名批評が、健全に發達したなら、文藝時評の如きは要もないものとなるだらう、ならなくてはならぬと僕は思つてゐる」と結語した。これが反響を喚び*4、それに應へつつ小林は匿名批評をさらに再論してゆく――(b〜e)。中で最も詳論したのは、これら批評論の綜括でもある「文藝批評の行方」(f)である。そこで小林は、批評が「文學の社會的評價」をなさんとした結果、匿名批評だけが殘った、と觀るのだ。
さういふ事實に匿名批評が根ざしてゐるものなら、これは近代批評の根本的性格の具體化に他ならない。匿名批評の流行とは健全な文藝時評が生れる土臺を語つてゐる。そしてそれは優れた批評文學が生れる土臺でもある。フランスやルメエトルも、匿名批評の氾濫するなかで批評を書いた。アカデミックな批評に反對した彼等の批評は、匿名批評の精華とも言へる。 (「文藝批評の行方」)
戰時期の中絶を挾むものの、敗戰後にも匿名批評の勸めは再提言され(g〜i)、匿名批評への一方ならぬ入れ込みぶり、小林秀雄が匿名批評に託したものの大きさが、察せられる筈だ。かつて龜井秀雄が論じた「小林秀雄における社会時評のモチーフ」*5は、匿名批評論に於て最も尖鋭に現はれてゐると見なければならぬのだ。が、ここで小林秀雄論は任ではない。
かくも重視せられた匿名批評とは何ぞや、が本論の眼目になる。小林秀雄は一例なるのみ、それら匿名批評論の波紋を同時代のコンテクストの中に讀み取るべきなのだ。例へば小林にしばしば噛みついた矢崎彈*6は、「文藝批評のヂレンマ」(b)にも喰ひついてゐる。「現象論における小林秀雄の弱點」*7と題して曰く、「小林秀雄は批評家〔從來の文藝時評家〕の社會感覺の缺乏が匿名批評を興隆せしめた最大の原因だといふ。かれのいふ
實は小林と雖も、最初に匿名批評を論じた文藝時評(a)で杉山平助と豆戰艦の名を出すだけは出してゐた。だがいつもながら小林は現象と交はる具體性に乏しく、一接點といふに過ぎない。匿名批評といふ正體不明な代物に接近するには、その屈曲面に沿うて幾つもの接線を引き、輪郭を浮び上がらせる手だ。矢崎の言ふ通り、現象に即した註釋が要り用だ。それには杉山平助が主軸となるだらう。そも杉山平助とは何者か。
▲二 汚名に塗れた無名氏・杉山平助
矢崎彈ばかりでない、當時の匿名批評論がみな筆頭に擧げるのが杉山平助である。大宅壯一「流行性匿名批評家群」には「まづ第一に、すでにあまねく知られてゐて、その點でもはや匿名性をすら失つてゐるのは、
だがそれは名前が擧げやすかったからだとも言へよう。元來本名が匿されて判らない筈のこのジャンルで、匿名にも拘らず名を顯はしたのは杉山平助ひとりであった。まさに「有名なる無名氏」*11として知られてゐたわけだ。「まづ匿名で認められて、つぎに本名をかかげるにいたつたのも、いかにも「非常時」らしい文壇進出法である」とは先の大宅壯一の評である。名和潛は「匿名を父母として生まれた彼」と呼ぶ。
大抵の匿名評論家は、文壇もしくは、評論界に聲名を馳せたヴエテランであつて、特別に其名を祕するから、匿名なのであるが、杉山の場合はその逆であつた。祕すにも祕しやうのない無名の評論家が、もぐらもちのやうに、匿名の地下道を潜ぐつて、花壇を荒し廻つてゐるうち、自然にこの惡戲者の名が世の中に知られるやうになつた。それが杉山平助なのである。だから杉山平助が、變名もしくは匿名するとは、本來の意味を爲さない。變名もしくは匿名そのものが、杉山平助に外ならないのである。*12
杉山平助の、無名から匿名を經て有名に到る履歴を、ざっと辿っておかう*13。彼も初めは小説家志望だった。自傳的長篇『一日本人』(昭文堂・一九二五年十二月)を書下ろし自費出版して世に打って出、生田長江から過襃な程の激賞を受けた*14のだが、それでも「默殺された」*15。杉山は次第に創作と共に廣義の評論*16を志向するやうになる。
雌伏期を經て第二著『評論と隨筆 春風を斬る』(一九三三年五月)*17は「氷川烈」といふ署名で刊行された。氷川烈とは、東京朝日新聞學藝欄の匿名コラム「豆戰艦」で杉山が用ゐた筆名だ。『春風を斬る』は何も「豆戰艦」を收録したわけでなく、初出に遡れば實名で發表した文章ばかりだが、それを敢へてこの名義で一卷としたところに匿名批評家・氷川烈の本名以上の盛名振りがうかがはれる*18。「氷川烈の杉山平助なぞは實名の有無にかかはらず氷川烈でなければならなくなつてゐるのだ。言はば氷川烈といふ商標にプレミアムがついてゐるやうなものである」(尾崎士郎)*19。この一九三三年、杉山の活動は殊に目覺ましく、文壇内外で評論家として認知され*20、知名の士となったのである。
その杉山が覆面で登場した「豆戰艦」欄は、もと青野季吉の創案だった。青野によれば「およそ日華事変のぼっ発にかけて」の「匿名評論の時代」、「その時代に魁けたのは朝日の学芸欄の雑誌短評で、昭和五年のはじめごろ、主任の坂崎坦から相談をうけてわたしがその形式を打ち出したのであった。二年ばかりしてそれは「豆戦艦」の名で、氷川烈こと杉山平助(明治二八〜昭和二一年)の担当するところとなった」*21。毎月末「×月の雜誌」として圍まれた欄が勇ましく「豆戰艦」と題したのは一九三一年十二月からで初め無記名、年明けて一月より氷川烈の署名が入り、途中「その匿名を氷川烈、横手丑之助、大伴女鳥といふ風に變へたけれど、その前半期における筆者は、完全に私一人であつた」と杉山平助「匿名批評論」*22は言ふ。後期、即ち一九三四年二月の大伴女鳥(=タイハンメイチュウ)からは青野季吉との共同の筆名であり*23、以後同欄はX、玉藻刈彦(=タマニモウカルヒト)*24等の變名を交へつつ一九三六年五月まで續いた。「一九三二年、三年が最も絶頂であつた。ジャーナリズム全體から問題を拾つて辛辣に批評した。思ひ切つた惡口ものつたために、それは忽ち世間の注視の的となり、匿名批評がジャーナリズム全體に擴がつてゆき、筆者の杉山は文藝評論をはじめとし、あらゆるジャーナリズムに流行していつた」とは板垣直子の綜括するところ*25。廢止された時には「匿名批評の元祖「豆戰艦」や、「赤外線」はインテリにとつて學藝欄といふより全體朝日の魅力だつたのに、それが姿を消して」*26とまで惜しまれる程だった。
▲三 匿名批評の時代としての一九三〇年代
まさしく「匿名評論の時代」――匿名批評の盛行は一九三〇年代を通じての著しい特色であった。とはいへ盛り上がりっ放しではなく幾つかの小さい波があった。中でも、まづ杉山平助の匿名が公になったのは一九三二年。『新潮』一九三二年六月號のXYZ「文藝ノート」に「匿名批評の流行」といふ一節が見えるが、これを受けて翌七月號、近松秋江「近時罵憤録」が「匿名批評の化けの皮」として「朝日の豆戦艦が杉山平助であると知れては、忽ち興味索然」云々と述べたのである。するとそのまた翌月、八月號に杉山平助が「文藝時評」を寄稿、「文壇の公器」(中村武羅夫)たる文藝誌への初掲載とあって重々しく文學論を開陳するが、後半ガラリと輕評論調にくだけ、氷川烈は杉山なりと暴露する秋江その他の記事*27を擧げて「僕は知らん」と白を切ってみせた*28。この
次いで一九三三年に入ると、「朝日の「豆戰艦」をはじめとし、讀賣の「一枚評論」、都の「大波小波」、時事の「青龍刀」と、一時的現象たるかのごとく思はれた匿名評論形式は、今や常設的なるものへ移行せんとしつつある」(『文藝春秋』一九三三年三月號)*30と觀測される。さらに匿名流行の波が最高潮に達するのは一九三四年以降のこと*31。各紙の匿名コラムが定位置を得、また「この匿名の問題にからんで、鈴木茂三郎と「東京日日新聞」との間に、喧嘩がおつぱじまつて告訴沙汰にまで發展した」*32事件が話題になった*33こともあり、最早ついでの言及ではなく正面から「匿名批評の蔓延と、その害惡とが評論界の問題になりはじめた」(『文藝春秋』一九三四年五月號)*32のだ。
大宅壯一の「流行性匿名批評家群」(前掲)もその一つ。「鈴木〔茂三郎〕氏自身も古くから匿名評論の達人の一人だといふ*34から、この評論形式それ自體の時代的、社會的意義は認めてをられるに違ひない」とした上で、「これまで匿名評論といへば、或る事件や問題について、それを正面から論ずることのできない特殊な條件のもとにおかれてゐた人間が、やむをえずとつた特殊な、どつちかといへば變態的な評論形式であつた。ところが、近頃はかへつて匿名評論の方が、ヂヤーナリズムの上で、特にセーヴされた指定席を占めてゐる場合が多い。裏木戸がいつの間にか玄關になつてしまつた形である」と概觀する。
つまり「これまで刺身のツマであつたものが獨立の小さな皿の雲丹や鹽からにまで發展した」のであり、「相手のあら搜しとか漫罵とかカリカチュアとか云ふ、舊い匿名評論に通有したそれとはまるで違つて」ゐるといふのだ(青野季吉)*35。「いつの時代にもある」などと看過ごせない、この一九三〇年代ならではの特有性を認むべき所以である。そして「それまでも匿名批評は存在したが、それは未だ片隅の埋め草的存在に過ぎ」なかったのに「それが今日のやうな特殊な興味と權威をもつて學藝ジヤーナリズムに流通しはじめたのには、杉山平助の匿名批評が、あづかつて大いに力があつたとされる」*36。
匿名コラム隆盛の嚆矢となった經緯は、杉山も自負する所だ。「近年に至つて、俄然としてこの欄を重要視する機運の勃興して來たのは、何と云つても朝日新聞の「豆戰艦」がトツプを切つたもので、たちまちにして、全ヂヤアナリズムがこれに風靡せられた」、「いづれにせよ、「日々」の「匿名欄」〔「蝸牛の視角」か〕、その後の「おけらの唄」、都の「大波小波」、讀賣の「壁評論」、報知の「速射砲」等が陸續としてあらはれたのは、むしろその後のことである」、「新聞の「匿名欄」の旺盛に刺戟せられて、從來散見してゐた雜誌における匿名的評論も、さらにまた旺盛になつて來て、編輯者の重要な關心をひくやうになつた」(前掲「匿名批評論」)。のち『文藝』一九四〇年三月號、アンケート「最近の新聞紙上に行はれてゐる匿名文化雜誌批評をどう思ふか」で、先頭に杉山平助曰く「余の「豆戰艦」を摸して遠く及ばざるものとす」*37とのみ。四〇年代、既に匿名批評は「支那事變に入つて、國民生活が上から引締められてくるに從ひ、弱つてゆき、大東亞戰爭に入ると、今やジャーナリズムに一つの匿名批評なしといふ状態になつた」(板垣直子)*38のである。
▲四 私批評に抗する社會性
匿名批評論が杉山平助論へと脱線してしまったやうだ。しかし再び言はう、「變名もしくは匿名そのものが、杉山平助に外ならないのである」(名和潛)。匿名批評が杉山平助を有名にした反面、また著名評論家としての「彼れ杉山に於ては、この匿名批評の態度が、そのまゝ署名批評の上にも現はれて來る」*39。なれば兩面突き合せてこそ立體として把握できようもの。匿名批評論を杉山平助論として解析すること、且つ杉山平助論を匿名批評論に統合すること――。そもそも當時の匿名批評に關する言説は、對象の性質上、何を(誰を)名指すものか明確でない一般論が多く、現象論的な事實への還元が困難なのだが、暗に杉山を念頭に置いた説と讀めば判然とすることが屡々ある。
例へば匿名批評の本質論としては、勝本清一郎の斷案がある。曰く「その最も高い本質は、從來の印象批評とか私批評とか云ふものの個人的境地を、マルクス主義的批評とは別の側から、やはり一種の客観的社會的批評にまで揚棄した點にある」と*40。また匿名短評欄創設の提案者だったと名乘る青野季吉は、發案した「その直接の動機は、當時、心理的・個性的な「私批評」が文壇的の評論を支配した形になつてゐて評論に社會性、大衆性といふものが、影を潜めてゐた形だつたからである。」「そこでその「私批評」によつて生じた大きな空虚を埋めるためには、明確な階級的な意味での、社會性や大衆性に立つ批評〔=プロレタリア批評〕でなく、水準的な社會感覺や大衆感覺に立つた街頭批判的、路上批評的の評論が、是非とも必要であると考へた」*41と説明してゐる。
ここに「私批評」といふのは無論「私小説」に倣った造語で、もと一九二六年に正宗白鳥が青野季吉の外在批評論に反論する中で言ひ出した*42のだが、既にこの頃は小林秀雄流を批判する語となってゐた*43。青野・白鳥論爭の頃は私批評に相對するのは左翼公式理論だったのが、昭和十年前後、プロレタリア派解體以降の所謂文藝復興期にあっては、匿名批評がその任を帶びたわけである。小林自身、既往を省みたが故に匿名批評に期する所があったのだらう。合言葉は「文學の社會化」――但し、もはや左翼イデオロギー式ではなく、だ。
これらは正に、杉山平助の軌跡と合致する。「プロ文學の全盛が更に續いてゐたならば彼は或ひは現れ得なかつたかも知れない」*44のだ。大宅壯一に言はせると、閉鎖集團である文壇の特殊性(谷川徹三の所謂「文壇的方言」)を批判して「文藝批評に社會的な觀點を最初に取り入れたのが、プロレタリア批評家である」。「ところが、このマルクス主義といふものは」「一般人の眼からみると、これまた特殊な原理で、」「殊に滿洲事變以後」「支持する層は漸次狹められてきた。この時期に擡頭した一種の社會的文藝批評家が杉山平助である」(「杉山平助を語る」)*45。同樣に、杉山が成功した要因を「左翼思想の退潮以來、急角度で方向轉換してゐたジヤーナリズムの要求」に見るのは青野季吉の杉山平助評である。
左翼思想特に極左思想による觀念の氾濫と、反常識又は非常識の跳梁と、公式主張の沒人間性とに食傷したジヤーナリズムは、生活に即した平明な唯物觀と、もの分りのいい常識主義と、素の肉體でぶつかつて來る人間性とを求めた。そこにわが杉山平助のために一杯に幕のひらかれた舞臺が展開されたのだ。*46
同じ事情を或る「杉山平助論」では、極左的思想の氾濫を經てナイル流域が再び沃野にたち返ると、自由主義的思想がプロ文學を肥料にして芽を出した――と喩へ、ここに於て大宅壯一との對比が語られもする*47。つまり、その「野武士流」の類似と立場の相違*48とが。通例、杉山の人氣は「無遠慮な口の利き方と、その口の利き方の根據」、即ちその「立場が藝術派でもなく、左翼でもなく、これまで他に類のない、社會的な、新聞記者的な、大衆的なものである事」に「原因してゐる」(伊集院齊)*49とされるのだ。
▲五 常識論とジャーナリズム論からの接近
ここで落とせないのが戸坂潤の「匿名批評論」だ*50。やはり鈴木茂三郎の東京日日新聞告訴事件を枕に振って「新聞に對するかうした〔社會人からする〕批判こそが、實は本當の意味での
戸坂は「批評が元來匿名批評的な根本性質を有つてゐる」と言ふ。――批評する側は「社会の通念や輿論や常識」といった「何か一般的普遍的な力を意識して」これを代表する。批評者が個人名を有してゐても、それが「名を有つてゐる點に」ではなく「社會の立場の代表者某だといふ點に意味がある」。署名を要求するのは「ファン意識」や「個人倫理」に過ぎず、「批評の
同樣に、青野季吉は「この輿論性があるから、人々は筆者の何人たるかと云ふ詮索に囚はれず、地で語られた、ひろく通用し、また通用してゐる意見として、匿名評論に應對するのである」*51と言ふ。同じことは伊藤整も認める。「匿名批評においては新聞記事が無記名であつてしかも大衆の聲である
見ての通り、ことは
その頃「最近の文壇では、常識といふ言葉が流行して居る」*57と言はれたが、戸坂潤の常識論の一つは「近來、常識といふものに多少反省を加へてゐるものは杉山平助だらう」と書き出すものだ*58。また唯物論研究會で戸坂の盟友である岡邦雄の「杉山平助論」*59も、「現在の評論家の中で、いろんな意味から自分の敬服してゐる人が二人ゐる。杉山平助と戸坂潤とだ」と始め、大正の長谷川如是閑に繼ぐ「ジャーナリスト乃至啓蒙家」――「アンシクロペヂスト」が彼らだと云ひ、そこから「偉大な常識家」としての杉山の檢討に移るのだ。杉山平助ときては「氏の批評は常識的であるとの批評をたえず受けてゐた」*60と總評される程だが、これとて必ずしも貶辭でなく杉山自身また常識について一家言を有した*61。常識論議は、文學を「社會の一般常識から監視する」所に匿名批評の功を見た小林秀雄説(c)からも起ってゐる*62。また世評に曰ふ――「通俗評論家といはれる者はみんな優れた常識家である。その意味で杉山平助も新聞向きの評論家だ。」*63――「近來杉山平助くらゐ新聞が利用できるジヤアナリストは姿を見せない」*64。常識と、新聞・ジャーナリズムとの、相關。匿名批評=杉山平助の像が結ばれるのもそこに於てである。
杉山や大宅壯一らの活躍した場である、新聞の學藝欄といふ制度も注目を要する。明治後期に文藝欄として誕生し今日は文化欄とも呼ばれるこの紙面の歴史は植田康夫が大略を述べてをり*65、『都新聞』(現『東京新聞』)の匿名コラム「大波小波」に就ても特記してゐる。だがそれだけでは、匿名批評の時代が取分け新聞學藝欄に端を發したこと、特にこの三〇年代に學藝欄が躍進した事實が、見逃されてしまふ。その一例が、QQQ「新聞學藝欄批判」。『新潮』一九三六年新年號から翌年十一月號まで連載された匿名月評で、同時期、『新潮』には一九三三年以來「ヂヤアナリズムの動き」欄が續いてゐたのだが、ジャーナリズム諸種のうちでも新聞學藝欄だけ別して時評する必要が認められたわけだ。何より決定的な例は、月刊紙『日本學藝新聞』(新聞文藝社→日本學藝新聞社、のち月二回刊→旬刊)である。一九三五年十一月五日附創刊號の第一面を飾ったのは杉山平助「昨今の新聞學藝」。同紙は謂はば各紙の文藝面・學藝欄をそれだけで獨立させて一紙としたやうなものだった。かくて新聞學藝欄及び新聞學藝欄的なるものが一般讀者層にまで滲透しつつあったのであり、さればこそ、一新聞紙の眇たるコラムに過ぎぬ「豆戰艦」が大いに世評に上ったわけも領解できよう。新聞小説論もこの昭和十年前後の話題として文學史に記されるが、小説至上主義を脱して觀るなら、それ以上に顯著なのが杉山平助の言ふ「新聞向きの評論」*66――謂はば「フユトン・クリティク」(矢代梓)*67――の展開だった。杉山平助(ら)の特長は、新聞以外に寄稿する時でもフィユトニスト(文藝欄ライター)としての性格を發揮した所にある。事實その手腕を買はれた杉山平助は、一九三五年九月より東京朝日新聞學藝部囑託となってゐる。三〇年代に匿名批評が獲得した社會性も、新聞の――乃至は
▲六 ジャーナリズム批評における口承性
大宅壯一は杉山に告げる。「君が新聞の匿名批評家としてスタートしたといふことは、君の最大の強味である。元來新聞は雜誌と違つて、讀者層がすこぶる廣汎で、異質的である。そこで文學や文壇的現象を批評するには、文學生産者である少數の作家たちの立場から離れて、廣汎なる文學消費者の立場に立たねばならぬ」と*68。「讀者の立場」と言ってもいい。別の所で大宅は、杉山を「徹底したヂャーナリストの立場」と見、その「ヂャーナリズム」には「口から口へつたへられ」て活字に表れにくい「讀者の批評」が反映する、局外批評や匿名批評の存在理由も「この讀者の立場を反映してゐる點に存する」、と論じた*69。
ところで大宅壯一はその匿名批評論では、「或る人が杉山平助氏を批評して「彼は座談を活字化することに妙をえてゐる」といつたが、たしかにそれは彼の急所をついた言葉である。しかもそれは杉山氏ばかりでなく、多かれ少かれ、匿名批評家全體にあてはまることである」と言ひ、さらに、匿名は「活字を意識した場合のポーズよりも、座談の
座談といへば、「座談會の流行は、匿名評論の氾濫と共に、近頃のヂヤーナリズム界を特色づけるもつとも著しい傾向である」と言ったのも、大宅壯一だ(「座談會の流行」)*70。座談會とは昭和初年の『文藝春秋』が發祥であること、よく知られてゐよう。大宅の曰く「各種の匿名評論に一番力瘤を入れてゐるのもこの雜誌〔『文藝春秋』〕だといふことを考へれば、兩者の結合は決して偶然でない」(「座談會の流行」)。――「特に『文藝春秋』の如きは、政治、經濟、新聞、ラヂオ等にわたつて、常設的匿名評論が、同誌全體の脊髓になつてゐるといつても、敢て過言ではない」(「流行性匿名批評家群」)。
因みにこの『文藝春秋』こそは杉山平助が「豆戰艦」に先だって匿名批評の經驗を積んだ場でもあった。戰前『文藝春秋』は毎號、卷頭隨筆に續けて「文藝春秋」欄を掲げる構成だった。アフォリズム風の短評を連ねる形式で、見開き二頁の無署名コラムながら、誌名そのままを名乘るからには雜誌の看板とも目される。實にこの文藝春秋子が杉山平助で、菊池寛の拔擢で一九二八年九月以來擔當、十年に亙り毎月書き綴った*71のである。のち「文壇從軍記」と改題して杉山の著書に順次收録、journalの原義である「日々の記録」としても評價できるものだ。
大宅の指摘に戻ると、これが興味深いのは、座談會どころか別に口述筆記でもない書かれた批評さへもが「座談の活字化」と見做し得る所にある。さう、「讀者の批評」だ。恐らく、曾てならば口頭に於てのみ聞かれ消え去る儘であった發言、記すに値せずと文字の世界からはじき出されてゐた聲無き聲が、今や、活字上に定着されつつあった――匿名批評といふ形で。
ここにサント=ブーヴが參照される。出典は『月曜閑談』だが、むしろ小林秀雄譯『我が毒』「XXI 批評について」に「パリでは、眞の批評は喋り乍ら出來上がる」と譯された斷章で知られる。これを小林は「眞の批評は座談から生れる」とし、「決して文學者仲間の文藝談を指したのではなかつた。パリ人の座談を指した」と説いてゐた*72。この延長上に小林の匿名批評觀も開花したと覺しく、それは後世代の批評家に結實する――「「批評は座談から生れる」といふ言葉があるが、匿名批評の根本的性格は、その座談から生れる批評なのだ」(十返肇)*73。この斷章に續く一節は、なほ一層匿名批評に符合するものだらう。
文學には二種類ある――一つは、公認の、書かれた、紋切型の、教授された、キケロ風の文學であり、もう一つは、口頭の、爐邊の談話に現れる、插話風の、よく人の惡口を言ふ、禮を知らぬ文學、前者を訂正し、屡々滅茶苦茶にして了ふが、時には、同時代の人とともに殆んど皆死滅して了ふ文學。 (『我が毒』「批評について」)*74
事實、小林の譯した『我が毒』に傾倒した山本健吉*75は、杉山平助及び匿名批評を評するに、この後者、口頭の文學を當てることを以てした*76のである。
この斷想録は小林譯より先行する石川湧譯『わが毒舌』(一九三五年十月刊)*77の方で讀まれてゐたかもしれない。初刊本「譯者後記」で石川湧は「著者の現代的意義については、私が最近に譯刊したテイボオデ「批評の生理學」(春秋社版)が教へるところが多いであらう」と指示してゐる。正に右の斷章を展開した論が『批評の生理學』第一章で、サント=ブーヴを承けたティボーデは、自然發生的批評、即ち一般讀書人による話される(書かれざる)批評が、今日では殆ど新聞の批評・ジャーナリストの批評に流れ込んでゐると論ずる*78。そしてティボーデの批評論から花田清輝のコラージュ的杉山平助論の一節も取られたのだ。即ち「讀まるべき批評家、しかし、讀みかへさるべきでない批評家――ヂヤーナリスト」(「赤づきん――杉山平助の肖像畫」)*79と。つまりはサント=ブーヴの謂ふ「同時代人と一緒に殆んど全く死滅してしまふ文學」(石川湧譯)である。
これは勝本清一郎の皮肉な杉山平助評*80にも通ずる――「杉山氏は目下危機に立つてゐる。と云ふのは彼の批評文が」「單行本の形になつて大いに讀まれ始めてゐるからである」。「單行本で讀まれては彼の評論も臺なしである」、なぜならそれらは(杉山*81が)「自身でも云つてゐる新聞向き、或はせい〴〵雜誌向きの評論」であって、その日毎に「讀み飛ば」すべきもので「繰返しては讀めない」から。――けれども文藝批評には「杉山氏の場合の如くに、現實の社會の中に波紋を起す作用の中にこそ自分の仕事の生命を見出してゐて、その波紋が靜まれば彼の仕事の生命も終り、もし彼の仕事が殘るとすればそれは書き殘された評論集の中にではなく、文壇が實際に動いた歴史の澪の跡にこそ何らかのかくれた形でうかゞへる、と云つた風な仕事ぶりもある」のだ――。
成程、匿名批評は署名のある批評に比べ後世に遺らない。本名に於てさへ典型的な迄に匿名批評的な評論を書いた杉山とあらば、埋もれて當然だらう。にも拘らず、杉山平助の名がなほ(辛うじて?)傳へられてゐるとすれば……。「元祖豆戰艦を凌駕する匿名批評が、現はれさうで容易に現はれない」(小林秀雄・a)と云はれ、匿名批評の中から名を成したのは杉山平助が唯一例外に等しい。恐らくそれは彼が、見てきた通り、餘りに匿名批評性を體した常識論を説く、稀有の常識的個性の持ち主なるが故ではないか。「同じ常識主義でも杉山流に徹底することは、普通の常識では到達しえない境地で、常識に徹して常識を脱してゐる」(大宅壯一)*82。非常識なほどに常識的であるといふことが彼の個性だったのだ。
逆に言へば、當時のアクチュアリティーに即した「現象論的解釋」(矢崎彈)、もしくは讀者論的研究が目指す「同時代読者の読み」*83に接近するには、杉山平助に――匿名批評に就くに如くはない。そこにこそ、日々の會話に自然發生する讀者の批評が、口から出ては發散してしまふ聲の痕跡が、過去における「文學的現在」(ティボーデ)が、見出されるだらう。
本稿も亦、能ふ限り同時代の聲に語らせ、書く者の「固有名を消し去って、語られる言説のこの巨大な匿名のつぶやきのなかに自らの声を住まわせ」*84ようと努めたものだ。願はくは、これが眞に「常識」(當時の)をなぞったものでしかなく餘計な獨創性なぞ無からんことを。