森 洋介
初出『文献継承』第9號(金沢文圃閣・二〇〇五年七月)、横書き。三月末脱稿。リンクは無論このウェブ版から附したもの、御參考までに。送稿後に知った追加文獻として、池田弥三郎『郷愁の日本語 市井のくらし』「「恵存」についての追記」(〈あずさ選書〉あずさ書房・一九八〇年十一月)、がある。署名本に就ては語られた文章も多々なれば、なほ博雅の士の御示教を乞ふ。
その後、第八回サイン會を丹羽文雄・中村光夫と共に行った徳川夢聲の記述があること(徳川夢声「張り見世」『地声人語』〈東洋新書〉東洋文化協会・一九五九年三月)、ツイッターにてking-biscuitこと大月隆寛氏より教示を得、更に、ファン・サービスとしてのサインやその集ひは文學より映畫界が先行してゐたのではとの假説を想ひ着く。
我々にとって、近代において、書物といへば活版本だ。活字印刷された本に個性は無用、複製可能な同一性こそ本性だ。ところが、同じ本に差異をつけるものがある。美本や汚本と古書店が値を上下させるのもそれだが、署名本もその一つ。
福田久賀男に「署名本」といふ短文がある(『彷書月刊』一九九三年五月號特輯「集書ノ記・探書ノ記」)。大正文學を中心に博搜の文獻通だった福田だが、市隱の風といふか、狩野亨吉らに傚って自著を出さぬスタイルを取ったため、死の床に就いてから編まれた遺著『探書五十年』(不二出版・一九九九年三月)で纔かに知られる。「『探書五十年』編集委員会後記」は、收録できなかった文を列擧して「これと初出一覧を合わせれば、「福田久賀男著作目録」となる」と記す。が、この一篇は缺。他に『彷書月刊』に載った文は幾つも入れておきながら、こんなものが落ちてゐるとはどうしたことか。この分だとまだ相當遺漏がありさうだ。
だがまあそれはさておき、「署名本」の冒頭、福田久賀男はこんな疑問から書き出してゐた。「さきごろ、神田の東京堂書店での辻邦生のサイン会を目のあたりにして不図思ったのは、一体こういう
一九五〇年十月十三日附『毎日新聞』〈有楽町〉欄に、林房雄が「サイン・パーティー」といふ一文を寄せてゐる。曰く、ハワイ大學教授ツヨシ・マツモト氏の話では、アメリカではオートグラフ・パーティーと言って、著者と出版社と百貨店とが協力して新刊書を賣る。「サイン・パーティーといえば、わかりが早かろう」。日本では何故やらぬと問はれ、「日本の小説家はみんなハニカミ屋なのですよ」「自分の著書が売れるように努力することが恥かしいのですか」「芸術は商品にあらずという古い看板を下したくないのでしよう」「それは恥かしがつているのではなくて大変威張つていることになりますね」……。で、試みては如何、と。
次いで林房雄は、翌一九五一年七月二十三日附『讀賣新聞』に「サイン・パーティ」の題で、その第一回の實現を報告した。同月十四・十五日開催、場所は三越。「小林秀雄という人気のある大スタアがいたために、若い読者達が彼の前に列をつくり、押すな押すなの騒ぎ」といふ盛況、兩日の賣上げ約九萬圓中「八割は小林君の著書であつた。私と今日出海君はお相伴の形になつたが、サイン・パーテイは全体として成功ということになる」。その十年後、小林人氣は三島由紀夫に喰はれてしまふのだから、對照の妙、時勢の推移を感じさせられる。
林房雄は、この第一回サイン・パーティーが「先例となつて、方々で行われるようになれば、楽しかろう」と大いに奬勵し、「印税だけ取つて売行は出版社と小売店まかせという態度と習慣は、あまりに「封建貴族」すぎる」と作家の參加を促す。その後それが「サイン會」といふ名で定着する迄の經緯は別に調ぶべき事だが、兎まれこれで、もとは戰後占領下におけるアメリカ文化移入の一端であったと知れた。
とはいへ、輸入の成功は受容し得るだけの基盤が何かあったればこそと見られる。それが、署名本だ。狹義に言ふと、署名本とサイン本とは違ふ。本來署名本の興味は、福田久賀男も例を擧げる如く、前の持ち主の來歴を辿れる所にある(その點、藏書印にも似る)。獻呈署名入りが著者から特定の人へと贈られた證しなのに對し、サイン會では集まった不特定多數の讀者にサインする。つまりサイン本には宛名が無い。「某さん江」と書いて貰った所でその場限りの關係なら意味は無い。色紙代りに自著を持參させるに過ぎず、畢竟サイン本とは疑似署名本だ。筆蹟を慕ふのは識語揮毫を乞ふ文人趣味の傳統を汲むが、殊に活版以降、ベンヤミンの複製技術論に謂ふアウラが、近代の書物から失はれたことの代償でもあらう。さらにオリジナルへと遡れば、署名本から手澤本へ、原稿類・肉筆物にまで行き着くわけだ。自筆本蒐集狂を名乘る青木正美が好い例である。
が、今は署名本が問題だ。例へば森田草平は、漱石の『漾虚集』が出版された時(一九〇六年)「あの我国最初の豪華版ともいうべき美本に、先生自ら署名されたものを頂戴した。」「見返しに署名して著書を贈呈するというようなことも、西洋の風習として聞いてはいたが、実際には初めて先生から教わった」と回顧する(『續 夏目漱石』甲鳥書林・一九四三年→改題『漱石先生と私』東西出版社・一九四七〜八年→『森田草平選集 第四巻』理論社・一九五六年九月、89頁)。成程、和本の見返しでは署名する餘地があるまい。「××先生惠存」と自署する慣習からすると洋裝本以前からのことみたいだが、惠存は目下向けで目上には插架と識すべきだとの注意もある事を想へば(池田弥三郎『暮らしの中の日本語』毎日新聞社・一九七六年三月)、案外、雅馴な熟語ではなかったのかも。今や、自筆獻本は檢印廢止と同樣に省略され、「謹呈 著者」と印字した短册札を挾み込むのが大半だ(これは早く中野好夫か誰かが始めてゐたと何かで讀んだが、いま出てこない)。手許の古本だと、勝浦吉雄『翻訳の今昔』(文化評論出版・一九八〇年八月)が、名刺を一回り大きくしたカードに'With Author's Compliments'と斜體で刷って挾んであり、英米の著者寄贈書はさうやるのか。
世の愛書家の署名本自慢も、もっとその歴史や類型論に及ぶと面白くなる筈。ジェラール・ジュネット『スイユ』(水声社・二〇〇一年二月)のやうに。
(もり やうすけ/近代日本思想史+書誌學)■