以下は内田魯庵著『貘の舌』(春秋社/杜翁全集刊行會・一九二一年五月)の廣告文で、同著『バクダン』(春秋社・一九二二年十一月十五日初版)卷末から採ったもの。
表紙・オーストリヤ式新意匠
三色版一・木版三・コロタイプ版七
四六
版 三百頁函入製本堅牢頗美本
- 定價貳圓五拾錢
- 送料拾四錢
文壇未拓の新領域!
隨筆體文明批評!假に之を隨筆と稱するも骨董玩物の考證でも追憶隨感でも無く、題を古い資料に借りる事があつても盡く皆活きた現實に觸れた一種の文明批評である、魯庵氏の圓轉滑脱の中に寓する機鋒峻辣なアイロニイと、尖鋭透徹なインサイトと、博大なる社會的視野及び文藝的興味とは一家獨特であつて、此の機鋒と、透徹と、博覽とが有つて初めて試み得る一流の隨筆體文明批評は蓋し文壇未拓の新領域である、所收百數十章は何れも皆古今東西の文獻を捕へたる隨感隨録であつて滿卷機智横溢す
本山桂川*1編輯兼發行の『土の鈴』は一九二〇(大正九)年六月創刊、民俗學の草創期、「むかしフオクロアを土俗學などと謂はうとした時代」(柳田國男)*2の地方雜誌の先驅として知られる。めくってゐたら、第二輯(土の鈴會、一九二〇年八月一日發行)の卷末後記「編輯のかたはらに」が面白い。圖らずも内田魯庵に觸れてゐるのだ。冒頭から引く。
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五月卅一日から讀賣新聞に魯庵先生の「貘の舌」といふ隨筆が連載された。おぢいさんのお話を聞いてゐると、獨りよがりのジレムマが時々ヒヨンな顏を出す。顏だけならまだしもだが、どうかすると馬脚まで現はれるからおかしい。貘の舌なら引拔いてやれ。
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其の「貘の舌」十七回の「郵便切手と翫具」といふ一節に「郵便切手は智識的で、土俗的翫具は趣味的だ」と云つてゐる。郵便切手の蒐集が智識的であるといふのは、第一に地理的智識を與へ、第二に歴史を教へてくれるからださうだ。初等學生の答案文ぢやあるまいし。
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「これに反して土俗的翫具は何等の智識をも與へない」とある。べら棒も此處に至つて極まれりだ。相も變らず日清戰爭以前の頭で以て土俗及土俗藝術研究の目的が論ぜられて居ては到底我が「土俗學」の黎明に新しい芽を伸ばすことは出來るものぢやない。
以下桂川は、玩具專門誌といふ誤解*3は困る、玩具は單に一端で土俗の綜合研究――趣味ではなく研究を目指すのだ、と抱負を説く。「も一遍明い所で發刊の趣旨を讀み直してくれ」となかなか鼻息が荒い。雜誌旗揚げしたばかりの意氣込みが傳はってくる。
しかし魯庵には玩具蒐集を貶めるつもりはなかったらう。のち單行本『貘の舌』「例言」は一九二一年五月附でかう記す。
一 新聞連載中、各方面から種々の御示教やらお叱言やらを頂戴した。其一つ二つを云ふと『郵便切手と翫具』の項中、切手の蒐集を知識的だと云つたに反して、土俗翫具は何等の知識をも與へないとウツカリ筆を滑らしたのが土俗翫具を一段貶したらしく請取られたと見えて、長崎の
「 土の鈴』といふ土俗研究の雜誌から手嚴しく叱られた。[……]『土の鈴』には爰でお禮を申上げて置く。
實際『貘の舌』「(十)郵便切手と翫具」を讀めば、一方を叩いて他方を持ち上げるやうなことはしてゐない。むしろ「蒐集の門」として二つながらに慫慂してゐるのだ。そこでは「土俗的翫具は人類學的に民俗研究の資料となつても、直接には何の知識をも與へない」とする代りに「藝術的感興を與へる」ことを高く評價してさへゐる(いささか桂川の引く初出と文辭が異なるのは、本にするとき改稿したやうだ)。それでも桂川には、「蒐集」が趣味に陷って研究へと展開しない嫌ひがあるのが不滿だったのだらう。先の「編輯のかたはらに」に曰く――
土俗玩具の蒐集も集める内が樂しみで集つて了へばお仕舞ひだと云つた人がある。これが抑べら棒のはじまりだ。蒐集することは單に一つの過程に過ぎない。總ての蒐集物を整理・分類・比較して各方面の觀察點から前人未發の何ものかを發見するのが吾々の目的である。
このあと、「初め私が土俗玩具の蒐集に多く力を注いで居たものだから「土の鈴」の發行も、大方其爲めだらうと早合點して「土の鈴」をおもちや專門の雜誌だと紹介してくれた人もある。贔負[贔屓]の引倒しぢや却て迷惑、」と續く。桂川とて蒐集から始めたのであった。しかし最早そこにとどまってをらぬ、といふわけだ。穿った見方をすれば、桂川は過去の自分を否認したいが故に近親憎惡で魯庵に反撥した風でもある。
桂川の魯庵への忿懣は尾を引いたやうだ。『土の鈴』第五輯(一九二一年二月)を見ると、卷末の桂川記「覺え帖」(「え」は變體假名「江」)が、各種新年號の紹介で東京朝日の柳田國男連載「炭燒長者譚」と『太陽』の南方熊楠「鷄に關する傳説及民俗」を擧げ、「其研究の系統立つた著述を望んで止まないのは單に日本に於る吾々ばかりではあるまい」と述べたついでに、「それに較べると讀賣紙上内田魯庵氏の「ばくだん」なぞどうもあきたらないものだ」と、言はでものことを附け足してゐる。
「ばくだん」は正しくは「バクダン」であらう。魯庵曰く、「『バクダン』は『貘談』である。同じ新聞に連掲した前著『貘の舌』を承けたので、貘の咄といふ意味である」(『バクダン』「凡例」)と。
ところでこの『バクダン』でも、魯庵は別な方角から噛みつかれた。我樂他宗・趣味山平凡寺和尚こと三田林藏である。事のいきさつは山口昌男『内田魯庵山脈』「20 ハイブラウ魯庵の敗北――三田平凡寺」に詳しい。
要は、『バグダン』「(二十九)建築的キューリオ」のうち「(中)定石を無視した家」で述べられた「何とか總本山」「何とか和尚の天井裏」云々が實は平凡寺宅のことで、曰くありげに名を伏せて嘲弄された三田平凡寺の怒るまいことか、逆に魯庵を名指しして搦んだ文章を我樂他宗機關誌『趣味と平凡』上に著したのである。しかも新聞初出の該當箇所は單行本で書き直されてゐるのだといふ。この嫌味たっぷりの平凡寺の調子を味はひたい向きは、是非『内田魯庵山脈』を繙かれたい。
ついでながら『内田魯庵山脈』には「『バクダン』を読む」と題する章もあって、その内容を順に紹介してゐる。そして次章「27
山口昌男は「魯庵、平凡寺は本来反目する必要はなかった」とし、兩者を「〔淡島〕寒月の二人のよき弟子」と見る。「魯庵と三田平凡寺との間には通底しているものが極めて多い」とも言ふ。では、にも拘らず諍ひ合ったのは何故なのか。魯庵はハイブラウで平凡寺はローブラウといふのが山口の鑑定だ。山口の見る所、『バクダン』に先立つ『貘の舌』「(八)納札の過去現在未來」で魯庵がお札博士スタールに皮肉な筆つきだったのも、フレデリック・スタールが平凡寺の主催する我樂他宗に屬することへの反感があったためらしい。スタール附きの日本人通譯の所爲でスタールは「日本の知識階級に交渉を求めなかつた」「交遊の大半を、日本の下級にのみ求めた」(齋藤昌三「余の見た魯庵翁」)。これが魯庵の氣に入らなかったのだ、と。
恐らく、平凡寺と魯庵とでは趣味といふものの捉へ方に差があったのだ。本山桂川との場合も然り。もし「趣味」のスペクトルを計るメーターがあるとすれば、魯庵を眞ん中に挾んで平凡寺は道樂・好事家寄り、桂川は研究・學問寄りに針が振れてゐよう。
趣味といっても魯庵には知的好奇心・好學心と不可分だったらうが、平凡寺にとって「趣味」とは全然研究を排するものの
[……]趣味家が集つて彼の傘下に我楽他宗なる団体を組織した時、趣味家に研究は外道だと云つたことを記憶しているからである。僕の研究があつて趣味も向上するという説に、彼が極力反対したので、二人のこの論争を淡島寒月翁が見兼ねて、「片や平凡寺、片や相対寺〔齋藤昌三の我樂他宗での號〕、どつちも敗けるな、しつかりしつかり」という葉書を寄せて来たことがある。寒月から云えばどつちにも怪我をさしてはならないという老婆心から、何れの肩も持たなかつたのに相違ない。
と、ある*4。なほこの齋藤昌三達が平凡寺・我樂他宗に對抗して出した『いもづる』誌(一九二三年九月創刊)には本山桂川も參加、改卷第三輯(一九二四年五月)から革新第六(一九二五年九月)まで九號に亙って毎回寄稿してゐる――但し研究的といふより趣味隨筆風だが(齋藤夜居「『いもづる』書誌」『続 愛書家の散歩』所收、參看)。
趣味と、研究と、蒐集と……三一致の幸福は、稀な、あり難いことなのだらうか。三田平凡寺・齋藤昌三の趣味論爭に觸れて齋藤
なほ特に、本山桂川が趣味からの脱却を圖った土俗研究との關聯でいへば、この新興科學に對しても内田魯庵は良き理解者であり、人類學・民俗學の專門出版社である岡書院・岡茂雄に知惠を貸してもゐた。岡書院の出版物を紹介した文でかう言ってゐる。
人類學や民俗學は科學の中の文學のやうなもので、歐羅巴では詩や小説と一緒に普通の讀者階級に好迎されるが、日本では矢張り限られた範圍の少數讀者しか得られないので、出版人は通例多少の犧牲を拂はねばならんのだ。一つは學術としての開拓がマダ新しいので、歴史や哲學よりも一層不生産的な無用の道樂學問と見られてゐる。學者には輕視され、不學者には顧みられず、學術として頗る損な立場にある。
内田魯庵「讀書巡禮」『中央公論』一九二六年十二月號
曰く、科學の中の文學。曰く、道樂學問*5。單に少數
もともと『貘の舌』『バクダン』の二册はただ讀んでもそれだけで面白い好著だが――なればこそ桂川も平凡寺も一言したのではないか? あれを見て全然興味をそそられない人はどうかしてゐる!――、如上の趣味論・蒐集論といふことに想ひを致して讀む時、また格別に考へさせられる本でもあるのだ、私にとって。
本山桂川についての研究は小泉みち子「本山桂川――その生涯と書誌」(『市立市川歴史博物館年報』第15號、一九九九年三月二十日)がある。
柳田國男「採訪の新らしい意味」、初出『民間傳承』一九五〇年六月號→民俗学研究所編『民俗学手帖』(古今書院、一九五四年)に序文として收録→『定本 柳田國男集 第二十九卷』筑摩書房・一九六四年五月。以下冒頭より引いておく。
むかしフオクロアを土俗學などと謂はうとした時代には、仲間に必ず何人かの道樂者があつて、よく旅行し又會にもよく出て來て、一ばん熱心に採集の話をして居た。集古會といふ團體などは、永い間さういふ連中が牛耳を執り、私たちのやうに自分は持ち物が少しも無い癖に、ただ見物して興味を感じ、起原を考へたり分布を調べようとしたりする者を、「おえら方」などと呼んで輕蔑した。土俗玩具といふ妙な名を流行させたのも、旅と傳説といふ雜誌に何囘か玩具特輯號を出させたりしたのも彼等の力だつた。大戰を一區切りに、さういふ人たちは跡を隱したけれども、この氣風だけはまだ殘つて居る。[……]
この誤解は根強かったやうだ。續く『土の鈴』第三輯(大正九年十月)卷末「編輯のかたはらに」から引く。
八月の初めから大庭柯公氏は讀賣新聞に「貝杓子」と題する隨筆ものを書かれたが其第二十二回(八月二十日の紙上)に日本に於ける特種雜誌として五指をかゞなへ、北海道刊行の「納豆」に對比すべきものは長崎で發行されてゐる「土の鈴」であらうと云ひ、又「此頃の雜誌界が兔角に流行題目を逐ひ、且つ大册で嚇かす傾向の益々競争的になり行く一方に、こんな我不關焉流の趣味に富んで特色のある研究雜誌の發行されることは、大いに吾黨の氣を強うする所である」と大變な御世辭まで附け加へてあつた。
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しかし其の内容の紹介に聊か見當違ひな點があつた爲め、各地の會員方から私の方に横槍を向けられたのには少なからず面喰らつた。で、私も仕方がないから其尻の若干%丈けをまだ見も知らぬ筆者大庭氏のお手許に持つて行つて見た。處が確かに手應へがあつた。「お手紙によりまして誠に恐縮に感じます。玩具雜誌などゝ早呑込をした處が私の早合點性の過失で誠に申譯御座いません云々」と早速同氏よりの御返事があつた。さうして同時に「土の鈴」會員となられたのである。
よりによって大庭柯公の名が出て來る所が亦嬉しいではないか。『露國及露人研究』著者といふより、むしろ『其日の話』『ペンの踊』の隨筆家にして『著作評論』編輯者としての柯公だ。
淡島寒月の文面は、實際には次のやうなものだったらしい。即ち、齋藤夜居「『いもづる』書誌」(『続 愛書家の散歩』所收)が『いもづる』革新第三號(一九二五年二月發行)を紹介する所から孫引すれば、
巻頭の趣味往来誌友たよりに、
▽拝啓今朝このやうなはがきが寒月氏から来ました。御紙次号の材料にもと、そのまま写してお送り申上候。
一月八日 平凡寺
方や 茅ヶ崎
方や 高輪
そうほうせくまい〳〵「かちこしのその横顏を春風にうたれぬやうにたのむ関取」見物の一人 梵雲庵寒月生
と、あり粋人淡島寒月の仲裁が入った。
しかし右は山口昌男『内田魯庵山脈』288頁所引のものと更に異同があるから、どうも精確な引用でないらしい。
民俗學を道樂學問と呼ぶことには異議が出さうだから、いささか補記しよう。たしかに學祖柳田國男は、自分の學問をいいご趣味でなどと云はれることを嫌がって(本山桂川も同樣)、註2前引のやうに江戸趣味のディレッタント達のあり方を「道樂者」と蔑稱して却ける風を屡々見せた。「今日は學問を道樂にしうる時代ではない」とまで斷ずる(『郷土生活の研究法』所收「我國郷土研究の沿革」)。が、しかし、そんな道心堅固な學究ぶりばかりを強調するのは――あまつさへ山口昌男の如く内田魯庵(ら)と對立させて敵役に仕立てるのは――單純化しすぎである。現に他方で、それと反する發言もしてゐた。以下、一九四四年三月九日に柳田邸を訪れた大西伍一の聞き書きより學問論のくだり。
世間にはよく忙しくて学問の暇がないという人があるが、学問が道楽とならねば奥義には達せられない。私の昔の国学の先生がよく云われたことだが「道楽者を見るがよい、忙しい中からも道楽だけは止めないではないか」と。
大西伍一「柳田國男」『私の聞書き帖』慶友社・一九六八年九月・20ページ
見ての通り、むしろ道樂學問をせよと説いてゐたのだ(聽取りの誤解にしては、舊師――松浦辰男か?――を引合ひに出すなど念が入ってゐる)。尤も、そのすぐあとで柳田は、民俗學研究は世に役立つといふことを談ってもゐて、相變らず「學問救世」の信念(『郷土生活の研究法』所收「新たなる國學」參照)を保持してゐる。この新國學の提唱者にとって、道樂學問であることは經世濟民の學であることと必ずしも兩立不可能ではなかったらしい。少なくとも奧義に達する學徒にあっては、もはや道樂學問は排斥さるべきものでないわけだ。夏目漱石も言ったものだ、「藝術家とか學者とかいふものは、[……]道樂即ち本職なのである」(一九〇一年講演「道樂と職業」)と。目指すは不二一如の境地なるべし。
さらに傍證として、柳田の三女である堀三千の觀察が面白い。
父は生来、ゲームが好きな方であった。また蒐集癖も人一倍持ち合わせていた。しかし研究のための時間をさくことをおそれて、一切をふりきることにしたのだと思う。「貴族院にいたころ、マッチのレッテルあつめに夢中になって、便所の中まで拾いに行ったことがあるよ」などと笑いながら話したことがあった。
堀三千「良き父」『父との散歩』人文書院・一九八〇年五月・53ページ
同じく學者である堀一郎に嫁いだこの娘の目は、あまりに篤學だった父親の裡に、謂はば「殺された趣味人」を見てゐる。青年柳田の胸奧に祕められた「殺された詩人」を掘り返す文學趣味が許されるくらゐなら(岡谷公二『殺された詩人 柳田国男の恋と学問』新潮社・一九九六年四月)、それはもっと廣く趣味論の問題として捉へ直してよい筈だらう。したがって日本民俗學の父による好事癖批判は、自尊と自己嫌惡の