カール・シュミット『政治的ロマン主義』(大久保和郎譯、みすず書房、一九七〇年八月)が面白いのは、そのロマン主義批判がほとんど讀書人批判としても讀めるところだ。
ロマン的なものの持つ本質的な矛盾は特に政治的ロマン主義においては内的不誠実の印象を与えるのであるが、この矛盾は、ロマン主義者がその機会原因論的な構造に内属する有機的な[organischen=器質的な]受動性のなかで、能動的にはならずに生産的であろうとするところにあるのである。
みすず書房版「むすび」201ページ・傍線引用者
書物の世界で受動性と言ったら、讀むことである。讀書は受容であり享受である。では、對象を機因として受動的なまま生産する文筆活動はないのか。既にある
ハーマン・メルヴィルの奇妙な味の短篇“Bartleby, the Scrivener: A Story of Wall-street”――副題は初收時に削られた由――の主人公バートルビーは、法律事務所の代書人に應募してきてはじめ勤勉で筆寫を默々とこなしてゐたが、雇主(語り手でもある)から他の用を頼まれると「できればしない方が好ましいのですが」(=I would prefer not to. 杉浦銀策譯で「その気になれないんですが」、阿部知二譯「ごめんこうむります」とも)といふ言葉を繰り返すばかりで一切しようとせず、そのうち筆耕の仕事さへしなくなり、かうなると職場放棄だがそのくせ事務所に居續けのまま歸宅すらせず、辭職勸告にも立ち退き要請にも「しない方がよいのですが」でじっと何もしない、遂には刑務所へ連行されるが差し入れの食事まで「しない方が」……といふ次第で死んでしまった。つまり、無用者オブローモフや特性のない男ウルリッヒをも凌ぐ徹底した無爲の形象なのである。
そこから、書けない・書かない作家達をバートルビー症候群と總稱し、「
さらに近年ジョルジョ・アガンベン『バートルビー 偶然性について』(高桑和巳譯、月曜社、二〇〇五年七月)は、「筆生であることで、ある文学の星座に場を占めている」バートルビーだが「哲学的な星座」の方が「バートルビーという形象の謎を解く暗号を含んでいる」かもしれないとして、この非主意主義のキャラクターに「存在しないことができる、為さないことができるという
私が書くとき、神が筆を動かし、私の手を動かし、筆を動かす私の意志を動かす。書くことはそもそも神の運動なのである。「人間がペンを動かすとき、人間は決してペンを動かすのではなく、ペンの動きは神がペンのなかに生ぜしめた偶然である。(原文ラテン語[quando homo movet calamum, homo nequaquam illum movet, sed motus calami est accidens a Deo in calamo creatus.])」
みすず書房版「Ⅱ ロマン主義精神の構造」108ページ
自動筆記かお筆先か。機會原因論者がよく例にしたといふこの書く筆の比喩――ほぼ同文がルドルフ・アイスラー『哲學的概念辭典』第二卷(一九一〇年)のOkkasionalismusの項にもマイモニデスより引かれてゐるのでシュミットはそれを見たのかも――は、アガンベンのバートルビー論が引用するイスラム教スンニ派神學者の言葉とみごと符合する(偶合にせよ屡々シュミットに論及してきたアガンベンが想ひ出さなかったのが不思議なくらゐ)。「筆生がペンを動かすとき、ペンを動かしているのは筆生ではない。この動きは神が手のうちに創造する偶発事でしかない」……(アガンベン前掲書22〜23ページ)。ここで、書くとは思考することの、筆生とはアリストテレスに由來する哲學者の、比喩である。アガンベンとしては、書くといふ現勢力(現實態)の裡にむしろ書かないことができるといふ潜勢力(可能態)が併存することを強調するので、非の潜勢力へと過去を回復しようとする。これは歴史論に繋がる方向で、アイザイア・バーリンの消極的自由の議論(『自由論』みすず書房)と讀み合はせても面白からう。
但し斷っておくが、斯くも無氣力無感動無責任無關心なる一書記にさへ權力への抵抗だの勞働拒否だの
なほ、柴田元幸の新譯「書写人バートルビー――ウォール街の物語」がウェブで讀める(放送大学・工藤庸子「世界の名作を読む」第六回テキスト、二〇〇七年四月。→轉載、柴田元幸責任編集『monkey business』vol.1、ヴィレッジブックス、二〇〇八年四月)。これにつきs_chloe『chloe's diary』2007年10月01日「バートルビー翻訳読み比べ」も參照のこと。他に、留守晴夫譯「バートルビー」(正字歴史的假名遣)がウェブに公開中、譯者の創設した出版社より刊行した新譯『バートルビー/ベニト・セレノ』(圭書房、二〇一一年一月)の見本のつもりらしい。