そも書物、とは何か。――文字通り「書カレタ物」である。お望みとあらば、これに「エクリチュール」とルビを振ってもよろしい。ともあれ〈書物〉を最廣義に解しておく。
ヒトが未だ文字を書くことを知らなかった時代、有史以前の世界にも〈書物〉は存在したといふ*1。さう、こんな話を聞かされた憶えはないだらうか。
一番最初の本は現在の本とは似ても似つかなかつた。それには手も足もついてゐた。床の上にぢつと横はつてはゐなかつた。話すことも出來たし、歌ふことさへ出來た。つまりそれは生きてゐる本であつた。「人間の本」だつたのである。
イリーン『書物の歴史』第一章 「一、生きてゐる本」(八住利雄譯)
ホメロスや稗田阿禮といった上古の語部たち。そのかみには、諳んじることに長けた者たちが、文字で記す代りに口誦で以て歴史を綴った。彼ら一人一人が一巻の書に等しく、文字通り
だが。本當だらうか、人間が書物であったといふのは。それも、まだ書物の無かった時代に書物であるとは――あり得べきことだらうか。考へてみれば、書物を知らぬ人間が書物になることなどできはしまい。既に書物を知った後世の人間がそこに書物の代替物を見出したまでのことだ(「現在の本とは似ても似つかな」いのに!)。
恐らく書契以後の世界に住む我々は、餘りにも文字に慣れ過ぎてをり、無文字社會についてさへ、それを書物の比喩無しに想ひ描いたり語ったりすることができないのだ。「一次的な声の文化のなかにいる人びとが語る物語を、文字に慣れた人びとの用語法で「テクスト」と呼ぶことは、まったく逆転した言い方なのであって、馬を「車輪なし自動車」と言うのとおなじなのである」(ウォルター・J・オング『声の文化と文字の文化』)。そのため口承文化なるものはそれ自體獨立した對象としてといふよりは常に文字文化と對照されその前史として論じられることにならう。口誦性 orality は、常に既に、書字性 literacy に侵されてゐる。
されば全然書物無き時代に就ては語り得ぬものであるから沈默とし、せいぜい、書物が皆無とはいへぬが未だごく稀少なりし古代から語り出すとしよう。
〈書物〉の歴史は、より長いタイム・スパンのもとでは人類の記憶史の一節として語られる*3。既に書字言語が口頭言語に竝行する古代社會にあって、文字文化における書物は口誦文化における記憶と相互に代替可能と見做されてゐた。
例へば、古への語部たちはしばしば優れた暗誦能力を持つ記憶の達人として讚へられてきた。なるほど、ホメロスは記憶の助けとなる文字無しに長篇『イリアス』を語りおほせたらうし、それは書物を丸暗記するにも等しき所業と見做せよう。しかしながら、そのやうな見方は顛倒してゐる。未だ書物無き時代に書物を前提とするものだからだ。むしろミルマン・パリー以降のホメロス研究からは次のやうに結論されるといふ。
先史時代には、暗記することも作詩することも不可能であった。文字が現われる以前には、映画の台本や芝居のせりふのように、一度自分の中に取りこんで後から再現できるようなテクストがなかったのである。テクストが存在するようになってはじめて、暗唱が可能になったのだ。
イリイチ、サンダース共著『ABC 民衆の知性のアルファベット化』「第二章 記憶」
かう問うてもいい。オリジナルとなるテキストが無い世界で、一體何がその朗誦の忠實なる再現であることを保證し得るのか、と。聲は口から出た途端に消えゆくのだから、これに基づく限り、相互の記憶違ひを照合するモノが無いのである。言葉が筆寫され書かれたモノとして固定されるに至ってはじめて、記憶とは貯藏庫にしまふ如くに心に留めることであり、暗誦とは倉庫から貯藏物を引っ張り出す作業であると考へられるに至ったのだ。一字一句たがはぬ逐語的な反覆は、一字一句に分節されて記された底本を前提とする。
記憶なるものの在り方自體、口承と書承とで變容してゐ、内實を異にするだらう。しかるにマクルーハンも喝破したやうに、ひとは前方を直視したつもりで「バックミラーを通して」觀てゐるものだ。「われわれはまったく新しい状況に直面すると、つねに、もっとも近い過去の事物とか特色に執着しがちである」「われわれは未来に向かって、後ろ向きに進んでゆく」*4。――例へば、初期の自動車は「馬無し馬車」と呼ばれた。自動車の自動車たる所以・その眞の新しさを直視できず、バックミラーに映った「馬車」の像を投影してゐたのだ。かうした
ここでお定まり通り、プラトンの『パイドロス』から引いておく*5。文字の發明者たる技術神トート(ギリシア神話ではヘルメス)への反論。
[……]話が文字のことに及んだ時、テウトは言った。これによりエジプト人の智慧は高まり、物覺えもよくならう、それは記憶と叡智の祕訣なのだから、と。しかしタムゥスは答へた。「[……]汝の發明は、學ぶ者の心に忘れっぽさを植ゑつけることにならう。なぜなら、もはや記憶力を使ふことが疎かにされるから。すなはち、彼らは書かれた物に頼って、物事を自分以外のものに刻みつけられたしるしによって外から思ひ出すやうになり、我と我が力によって内から思ひ出すことをしなくなるためである。汝が發見したのは、記憶の祕訣といふよりは想起の祕訣なのだ。汝がこれを學ぶ者らに與へるのは、叡智の見せかけであって眞の叡智ではない。[……]」
プラトン『パイドロス』274E-275A
いまギリシア哲學に於る
プラトンはまた、魂の中には「ムゥサィの母なる
……
……
トポス、トピカ、トピック……▼
……
ルロワ=グーランの「神話文字」への注目、デリダのアルシ・エクリチュールの議論を念頭に置いてもよい。
この
例として、アンドレ・ルロワ=グーラン『身ぶりと言葉』第九章「ひろがる記憶」(荒木亨譯、新潮社、1973.7)。
マクルーハン『メディアはマッサージである』(南博譯)74-5頁參照。いつもながら警句風に示唆するだけで説明がないマクルーハンだが、この「バックミラー」の解説としては、ポール・レヴィンソン『デジタル・マクルーハン 情報の千年紀へ』(服部桂譯、NTT出版、2000.3)第14章「輝きながら、ガラスを通して [バックミラー]」がある。
あるいは、後ろ向きに前進する歴史のイメージといふことでは、ベンヤミンの「歴史の天使」を擧げた方が通りが良いかもしれぬ。
[……]この天使はじっと見詰めている何かから、いままさに遠ざかろうとしているかに見える。その眼は大きく見開かれ、口はあき、そして翼は拡げられている。歴史の天使はこのような姿をしているに違いない。彼は顔を過去の方に向けている。[……]ところが楽園から嵐が吹きつけていて、それが彼の翼にはらまれ、あまりの激しさに天使はもはや翼を閉じることができない。この嵐が彼を、背を向けている未来の方へ引き留めがたく押し流してゆき、その間にも彼の眼前では、瓦礫の山が積み上がって天にも届かんばかりである。私たちが進歩と呼んでいるもの、それがこの嵐なのだ。
「歴史の概念について」IX 淺井健二郎譯
さらに附け加へれば、ヴァレリーも「作家は處女作に向かって前進する。エビが後退りしながら前進してゆくやうに」と言はなかったらうか(出典未詳)。「後ろ向きの前進」といふトポスを手繰ってみたいところだ。†
書物史近邊で『パイドロス』のこのくだりは屡々引き合ひに出される。例へば……
……等々々。
さんざん文字の禍毒を難じておきながら、書かれた言葉ではない言葉を稱揚する段になるとこれを書字に喩へてしまふといふこの自家撞着。正にここから、ジャック・デリダ「プラトンのパルマケイアー(藥學)」はソクラテス=プラトンの音聲中心主義を切り崩しに掛かる。†
『テアイテトス』での封蝋と印章の譬喩は、『ピレボス』の「われわれの魂はなにか〔パピュロスの白〕紙に似てゐる」(38E)といふ箇所と共に、中世哲學に於るtabula rasa(拭はれたる石板)説の原型とされる(岩波書店版『プラトン全集』の註に據る)。このタブラ・ラサの系譜上で、のちにジョン・ロックが「あらゆる文字を缺いた白紙 white paper, void of all characters」と言ふことにならう(『人間知性論』一六八九年)。†
またそもそも印章は文字の發明に先立ち、捺印は最古の複製技術にして原理的に印刷術の生みの親である。以下參照。†