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この芳名録は、ここYahoo!ジオシティーズが擴張版ジオシティーズ(新ジオシティーズ)に統合されるに伴ひ、十月五日以降は書き込みできなくなります(▼)。新ジオシティーズに用意されたゲストブックは氣に入らないので、OTDといふ所の掲示板を借りました。下記URLが、【書庫】記帳所の移轉先です。
http://bbs13.otd.co.jp/bookish/bbs_plain#top
スレッド式や一覽式などお好みで表示が變へられます。かなり改造できる掲示板ですので、ご註文があればどうぞ。
なほ、【書庫】のその他のページはこれ迄どほりのアドレスでアクセス可能ですので、リンク變更などの必要はありません。統合後はhttp://www.geocities.jp/livresque/といった短いURLでも呼び出せるやうになります。
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こばさん、お久しぶりです。議論になる以前の、話を噛み合はせるところで混迷してゐますから、それを「興味深く拝見」とは、お世辭でなければ、中々お人が惡いやうで(「越後屋、そちも惡ぢゃなう」位の意味です)。
「私なりに敷衍」とおっしゃる通り、すでに花山さんの文脈からは離れて、また別な筋を新展開したものとお見受けします(例へば、「正体がばれる」=世間で有名になる、とし、「作家が意図的戦略的に……匿名偽名を用いる場合」とする如き)。
さて未知を讀むといふことですと、外山滋比古『読書の方法――〈未知〉を読む』(〈講談社現代新書〉1981)が最も通俗的でわかりやすいものでせう。既知を讀む「アルファー読み」と未知を讀む「ベーター読み」とを對比させて後者の知的創造性が重要と説く論法は、同じ著者の『伝達の美学――「受け手」の可能性』(〈三省堂ブックス〉1973.3)ら邊から繰り返し述べられてゐますが、『外山滋比古著作集』全八卷(みすず書房・2002〜2003)には入れてない模樣。アナロジーとは言はぬまでも比喩の傳達機能は論じてゐて(『読者の世界』〈角川選書〉1969.10)、文學作品はアルファー讀みからベーター讀みへの移行に有效とも言ふあたり、共感されるかもしれません。
しかしながら當方は、外山説における如き未知の強調しすぎには異議を插みたい。「讀む」とは、語の勝義において、既知の反復にほかなりません。またそちらも「未知と既知の中間」と指摘する通り、既知の介在しない全くの未知は單に無意味か單に理解不能かであります。未知は、ただ既知と化し得る限りにおいて、既知の圈域を擴張して領略し得る範圍においてのみ、慾望の對象として魅力を有するわけです。根柢は既知にこそあり。だのになぜ未知を知り得るのか――たぶんプラトンなら、未生以前にイデア界にて既知だったのを暫し現世では忘れてゐただけだからとでも答へることでせうが。
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お二人の議論、興味深く拝見しておりました。
花山さんが仰る「既知より未知のほうが魅力的」とはどのような魅力に起因するのか私なりに敷衍させてください。
まず作者が未知であるということについては、森さんが仰っている「隠士ふう」の人物を考えます。つまり、世間一般には知られていないけれども、ごく限られたその分野の人々には知られている作家のことです。例えば古本屋でごく少部数印刷された本を偶然手にして、読んでみたらその本がとても面白い。作者については手がかりが全くなかったとします。この場合、世間では全く注目されていないその本と作者について私だけが接している、という快感が得られます。世間の連中が見向きもしない作者について、私はその本を通じてその作者についての手がかりを得て、なおかつ探求している。その作者について探求できるのは私を含めてその本を手に入れることができるごく少数に限られている。自分だけが作者にコミットできること、それが無名の作者に対する一つの魅力なのではないでしょうか。だから、「正体がばれる」=「素性が知れる」=世間で有名になると魅力が失せるのではないでしょうか。
しかし無名の作家が魅力であることは作者に対する探求特権の独占(とそれに伴う悦楽)だけに起因するわけではありません。「作者に対する知識特権」と言わずに「探求特権」と言ったところがポイントです。つまり森さんが仰る作者についての「未知を既知に化する」とはどのようなことか、そして未知なる作家を既知と化する衝動がどこから生ずるのかという問題になると思います。
ここで翻ってテクストの未知と既知という問題に触れてみたいと思います。例えば、小学生が「今日はとても暑かったです」という日記を書いたとします。「今日はとても暑い」という誰にでもわかる(既知である)テキストに対してこれを探求したいと思う人はいないでしょう。他方、渋谷のハチ公前にスワヒリ語で書かれた本が置かれていたとして、これを翻訳して読もうとする人は(偶然スワヒリ語学者が通りかかるのでもなければ)いないでしょう。テキストは全く未知であればそれで探求に値するわけではないということです。すると、人々に探求したいと思わせるテキストとは未知と既知の中間になければなりません。ここで思い浮かぶのがアナロジーです。アナロジーとは既知なるものを通して未知なるものを理解表現する方法のことです。例えば、古代人にとってはピレミッドの高さは計り知れない。計測する機械がそもそもないからです。そこで、太陽が昇りきった時刻を見計らって、棒と棒の影の長さを測り、次にピラミッドの影の長さを測って、棒とその影の比から、ピレミッドとその影の比を割り出して、ピラミッドの長さを割り出すやり方のことをアナロジーといいます。棒の長さという我々にとって既知なるものを基準としてピラミッドの高さという未知なるものを推し量る手法がアナロジーの元々の起源です。
さて、私は文学とは一種のアナロジーだと考えております。そして、未知なる作家が魅力的なのは、その作家がテクストという(我々にとって)既知なるものを通してのみ、未知なる自分自身を知らしめようとしているからではないでしょうか。文学は読者にとって身近なイメージを提供しつつ、このイメージを基盤として未知なるものを垣間見させようとします。そして作家までも未知である場合、特に作家が意図的戦略的に自分自身の情報を隠して匿名偽名を用いる場合、作家が既知なるイメージによって読者に垣間見させる未知なるものに作家自身までも含ませてしまっている、ここに未知なる作家を探求する魅力(起動因)があるのではないかと思います。
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掛け値無しに判らないと(8日附で)言ったのに、何故そんなに疑ぐり深いのでせう(いや、自分の言葉のわかりやすさをつゆ疑はぬほど自信があるのかな)。
そちらが「違っている」と思ってゐるのはもう承知してゐます。しかしこちらには、それがどう違ってゐるのかが理解できないわけで、そこが訊きたかったのですが……。なぜ既知の領域が擴がったと考へてはならぬのか、その説明も無しに「もとから別物」と斷ずるだけでは、不可解な儘です。「これだけいってわかってもらえないようなら」と言へるほど肝腎な所に言葉を費やしてはないのではありませんか。
他の場合はさておき、この讀者から作者への關係においては、主觀的に「名を知る」とは客觀的に知られた名を知ることに重なるのである――このこと、繰り返し述べました。重なることなく主觀的にのみ既知となることがあり得るとしたら、この場合、どんな例が考へられるのか。いくら頭を捻ってもトンと思ひつきませぬ。多分そちらはいつも主觀的に既知と化さうとしてゐるのでせうから、それを例に出してくれれば「種切れ」といふことはありますまい。
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>「既知の領域が擴がったのであって、何も別物に變じたわけではないでせう」
こういう反応をみていると、「故意に」わからないふりを装っているのではなくて、ほんとうにわかっていないと思わざるをえません。「既知」という同じ言葉を使っていても、「既知よりも未知のほうが魅力的」といった場合と、「未知を既知と化すことを欲する」といった場合とでは、「既知」のあらわす内容がまったく違っているのです。それは同一物の裏表とか発展形といったものではなく、もとから別物なのですよ。
主観的な既知とは、いわば「知名」の「名を知る」という場合に、また客観的な既知とは、同じく「名を知られる」という場合にそれぞれ相当する、といえばわかりやすいでしょうか。
>「それに「既知を未知と化すのを欲する」とも言ってゐました」
これは森さんの定式に「むりやり」あわせたものだと但し書をつけておいたと思いますが。言葉遊びをやってみればそういう結果も出ますよ、というだけのことで、もとより私の本意ではありません。
これだけいってわかってもらえないようなら、こちらとしても種切れです。あとはよろしくご自分で考察してください。
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たしかに魅力的なものについては、「好きだから好きだ」(内田百間流?)としかうまく語れないこともありませうし、そこまで強ひて問はうとは思ひません。しかし一方で、「未知のままで置いとくのがいちばん魅力的だ、というふうには私も考えていません」と逆の發言もあるわけで、未知に魅力を感じるのが大前提といふわけでも無ささうです。あなたにとって兩者が矛盾してないのだとしたら、そちらの中では何か理窟がついてゐるはず。それが知りたくて問うてゐる次第。
既知が「解明の過程の前と後とでは別のものになっている」と言ひますが、それは既知の領域が擴がったのであって、何も別物に變じたわけではないでせう。「同じものを指しているわけではない」と言はれても、どう違ふのか、理解に苦しみます。察するに、「未知を既知と化すことを欲する」といふ場合、當方が目標(結果)である既知状態に目を向けてゐるのに對し、そちらは未知が將に既知に轉ぜんとする過程に目を据ゑたままといふ觀點の差があるのでせうか。だとしても、この差を個人的觀點と社會的・一般的觀點の差とは呼べませんし、また結局後者にとって魅力的なのは既知ではないにせよ未知でもなく今知りつつあるといふこと(現在進行形)なのですし……。それに「既知を未知と化すのを欲する」とも言ってゐました(15日附)から、やはり混亂して整理がつきません。
そもそも作者について知るとは、直接お知り合ひになる縁でもない限り、その名に關して流通してゐる客觀的既成知識を得ることですから、既知の主觀性といふのがどういふ風にあり得るものか想像しにくいんですが。
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そうですね、ちょっと思い違いをしていたようです。私の書きこみにおける「無名を知名と化すことを欲する」は、「未知を既知と化すことを欲する」の意だと解釈しておいてください。
しかし、「知名」が「名を知る」ことだとすると、「無名」とは平仄があわないような気が……
それはともかく、未知のものと既知のものとを並べてみると、未知のもののほうが魅力的だいうのは、私にはほとんどアプリオリで、これを説明せよといわれると、いったいどう説明したものか途方にくれてしまいます。
魅力的なものはそれ自体、解明を誘発するものです。その解明の過程で未知のものが既知のものに移行するわけですが、森さんの語法ではこれを「無名を知名と化す」と表現しているのでしょうか。「違う」という声が聞こえてきそうですが、ともあれ先に進みます。
この過程を「未知を既知と化す」と表現するとしても、それは未知よりも既知のほうが魅力的だからそうするのだ、とはいえません。「既知よりも未知のほうが魅力的」という場合の「既知」と、「未知を既知と化す」という場合の「既知」とでは、同じものを指しているわけではないからです。同じ「既知」という言葉が解明の過程の前と後とでは別のものになっているのですね。
そのふたつを混同すれば、なるほどわけのわからない話になってしまいます。森さんの解釈では、そのふたつを「故意に」混同しているように思われてなりません。これがすなわち、私が最初からいっているように、わかっているのにわからないふりをしているのではないか、という懸念に連なるものなのですが。
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その疑問はもっと早く出るかと思ってゐました。「知名」の語は7日附の書き込みが初出です。ふつうは世間に名を知られる意、有名と同義ですが、その意味ではおっしゃる通り一讀者の能く成し得るところではないからナンセンスです。ここでは漢文式、字義通りに、名を知ること、或いは知った名の意のつもりです(漢和辭典だとその語義も載せる)。正名が名を正すことであり正した名である如し。意味が通らぬやもと案じましたが、「先に述べたと同じく」(7日附)と書き添へておいた所から察せられるかと思ひ、實際そちらも14日附で「「無名を知名と化すことを欲する」ことは、私もいちばん最初の書きこみではっきり認めています」と書いてゐるので、とにかく通じてゐるのだと思ってゐました。それとも「よくわからない」のに書いてゐたのでせうか。
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森さんの7/15の文に
「無名よりも知名の方に魅力を感じる、だからこそ魅力を増すべく無名を知名と化さうと欲するのだ」
とありますが、これがよくわからないので説明してもらえますか。
無名作家よりも知名作家の方に魅力を感じる、だからこそ魅力を増すべく無名作家を知名作家と化そうと欲する、の意味でしょうか。しかし、それだとほとんど意味をなさなくなります。無名作家を知名作家に化すことなど、一個人がいくらがんばってもとうてい実現不可能ですから。
となると、ここで無名、知名とはどういう意味で使われているのでしょうか。概念規定をまず正確にやっておかないと、何が問題になっているのかあいまいなままですので。
その他についてはこの答をいただいてから考えることにします。
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まづ前回訂正を。「見た無名性を作者の側から」とある「見た」は書き損なひゆゑ二字抹消。
さて「認識のレヴェルの違い」といふ理解に至ってそちらは納得の御樣子ですが、私にはそれがこの場合如何に違ふのかがまだ理會できません。先づ、肝腎の「別の理由」が何であったか依然分明でない。擧げてゐる「未知を既知と化すことを欲する」とは、理由ではなく結果の行爲では? しかもその後で「既知よりも未知のほうが魅力的、だから既知を未知と化すのを欲する」と逆を書いてゐます(既知と未知とが逆で、「欲する」が理由でなく結果である點も逆)。兩者がどうして矛盾しないでゐられるのか、一層解せなくなります。
個人的觀點と社會的・一般的觀點とを分けるにしても、それは屡々重なるもの。ことに各讀者が作者について知る(未知を既知と化す)といふ場合は、まづ社會的・一般的に知られてゐる既成知識(知名)を知るのに外ならないのですから。――さういへば私が或るアナキストと知り合った時のこと、その人が○○さん××さんと一般には有名でないがその方面では知られた名を出すたび「知ってる?」と確かめながら喋るので、知ってますと返事してゐたが、どうも話が齟齬する。なぜなら、その人の既知とは運動や集會を通しての顏見知り、對して私の既知はその名で書かれたものを通じて知ってゐるといふ一讀者の知識だったので。この前者の意味で現實の作者を識るのを「個人的」といふなら慥かにレヴェルは違ってきますけど……さうではないでせう?
詰る所、「個人的な觀點」からすると「既知よりも未知のほうが魅力的」といふ、その理路が謎のまま殘るわけです。「未知のままで置いとくのがいちばん魅力的だ、というふうには私も考えていません」と言ってゐたのですから猶更。それを解き明かしてくれればスッキリするでせう。
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もはや認識のレヴェルの違いとしかいえないでしょう。つまり、森さんが社会的、一般的な観点から「無名、知名」ということを考えているのに対して、私はむしろ個人的(わたくし個人という意味ではありませんよ)な観点から「未知、既知」ということを問題にしているわけですから。
>花山さんのやうな讀者が作者について知りたくなるのは別の理由からといふことになります
そう、別の理由から。それは「未知を既知と化すことを欲する」というふうにあらわすことができるでしょう。しかし、未知を既知と化すということは無名を知名と化すということではありません。未知と無名、既知と知名とでは認識のレヴェルが違うからです。
そこで、両者のそれぞれのレヴェルを無視して、むりにでも共通のプランに置いたらどうなるか。そこには当然共通の形式的な論理がはたらくでしょう。つまり、「無名よりも知名のほうが魅力的、だから無名を知名と化すのを欲する」というのが理屈にかなっているならば、「既知よりも未知のほうが魅力的、だから既知を未知と化すのを欲する」というのも理屈にかなっていなければなりません。この「既知、未知」を(むりやり)「知名、無名」というふうに置きかえれば、ここから私の無名礼賛が導きださることになります。
私と森さんとの齟齬はレヴェルの違うものを同じプランの上で比較することに起因するといえるのではないでしょうか。われわれは最初からまったく別のことを考えていたのですよ、たぶん。
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やっとまともな話になってきて、張り合ひが出てきました。
まづ「正体がばれる」といふ言ひ方は普通、覆面作家とか惡しき私生活が祕められてゐた(清貧を高唱する作家が實は成金趣味、等)とかでもない限りしないだらうと不審に思ったまで。因みに「その本」とは、昭和初期なら圓本でせうから『世界文學全集36 近代短篇小説集』(山田珠樹ほか譯、新潮社・1929)かと推定します。成程、駄目な解説ですね(吉江喬松が編者の『世界文藝大辭典』(全七卷、中央公論社・1935〜1937)でヴィリエ・ド・リラダンの項はどうだったか心配になってきた)。が、これは單にこの解説者が駄目だっただけで、まさか故意に正體を隱したmystificationではありますまい。また、文學事典など、これ以外のマシな解説類が特に得難いわけでもありませんし。しかし、それよりも問題は次です。
無名よりも知名の方に魅力を感じる、だからこそ魅力を増すべく無名を知名と化さうと欲するのだと思ふのですが、さういふ脈絡はそちらには無いとのこと。すると花山さんのやうな讀者が作者について知りたくなるのは別の理由からといふことになりますが、それが何だか私にはわかりません。よって貴文の「論理的なつながり」も掴めぬ次第。お互ひ、ここが一番通じてない所になるのでは。要解説です。
殘りについては、既に7月8日附で、見た無名性を作者の側から考慮したこと無し、だがさう取られかねぬ書き方だったとは認める旨、記されてゐます。これは了解。されば當方も讀者の側からの無名性を論ずべきですが、それはこの場に求めない由ですから述べません。
なほ「名を程良く知らしめるあり方」「知る人ぞ知る」云々は既に「『未來のイヴ』を讀む」で書いてあったのを讀まれた筈ですが、あれがわからなかったといふことですね? となると(6日附で懸念した通り)どうも最初っから誤解されてゐたやうで。あの長文でも理解して貰へなかったことを一から敷衍するのはここでは無理です。「『未來のイヴ』を讀む」に即して疑問點を擧げてくれるなら解答するやう努めませうが、それはまた別の話になるかと。
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わかりました。じゃあ、森さんの7/7付の書きこみに戻って、疑問の点にお答えしましょう。ただし、前にも書いたように、森さんのここでの文は非常にわかりにくい。ですから、問題点を私流にひとまず解釈してからの回答になります。解釈の段階で間違っているなら、ご指摘・ご説明ください。
>「まづ、隱れてもないものを云々」
これはヴィリエに関して最小限の情報は解説かなにかに書いてあるだろうから、まるきり正体不明というわけではないだろう、ということでしょうか。
その本の解説にはこう書いてあります。
「浪漫文芸と象徴文芸との共通点は、解放の要求にある。但し一つは主情的で他は全的である。併し平凡習俗の生活を厭ふ点も共通でありながら、一つは遁避的であり他は闘争的である。リイルアダンは浪漫的であると見るよりはより多く象徴文芸的である。素晴らしい夢から醒めて、実際は橋の下に眠る生活、ふぬけの旧慣的正規の生活をするより惨ましいと凡俗は見ようが、自己の自由な生活を送ることを求める。しかも彼は自分の芸術をもつて、欧羅巴全都市の破壊の兵器たらしめようとさへする。若しルスィフェルが浪漫派詩人等の共通性になつてゐるならば、彼こそは最も熾烈な歯をむき出してゐる堕天使である。恐らく天才といふ辞は、この人にこそ用ひらるべきであらう」(吉江喬松)
当時の私もこれを読んだのでしょうけど、そのときの印象をさっぱり思い出せません。たぶん、何が書いてあるのかよく理解できなかったのでしょう。いま読んでも、これは解説文としては最悪で、ヴィリエについてある程度知っている人にとってはなくもがなだし、何も知らない人にとっては教えられるところがほとんどないものです。少なくとも私はこれを読んだからといってヴィリエに対してなんらかの知識を得たわけでもなく、また進んで彼について知りたいという気になったわけでもありません。
>「書いた作者が「どんな人間だったか知りたくなる」のなら、當方が先に述べたのと同じく結局無名を知名と化すことを欲するわけで、「どこのだれとも知れぬ」無名性そのものに魅力を感じてゐるとは言へません」
貴方が先に述べたのは、「無名を知名と化す」ことではなくて、「無名よりも知名のほうが魅力的」ということですね。この二つ、私にはずいぶん違うものに思われるのですが、森さんにとってはほとんど同義なのでしょうか。そこの論理的なつながりがわからないのです。
「無名を知名と化すことを欲する」ことは、私もいちばん最初の書きこみではっきり認めています。小林秀雄の話をしたときにもそのことはいいましたね。未知の作者について知りたいとも思わず、未知のままで置いとくのがいちばん魅力的だ、というふうには私も考えていません。そのことも再三いっているような気がするのですが。
>「それなのに、「正体がばれる」と魅力的でないと言って「完全な無名性」を理想化する風なので、いよいよ前後の照應がわからなくなりました」
「それなのに」は前文を受けているわけですね。つまり「無名よりも知名のほうが魅力的」なのに、云々、というわけですね。そう解すれば森さんの疑問もわからないでもないのですが、何度もいうように、私は「無名を知名と化すことを欲する」イコール「無名よりも知名のほうが魅力的」とは思っていないのでね。……
>「さういふ非選擇的無名性は問題にせず、かといってテスト氏流の意志的な純粹未發表状態も考慮しないとなれば」
これは完全に森さんの側の問題意識にかかわることですね。私は無名性に関して選択的と非選択的とを峻別しているわけではありません。そんなこと、一言も書いていませんよ。こういうあたりが、森さんの読み方が我田引水的だいうのです。もともと私は匿名は必然、無名は偶然というふうに漠然と考えているにすぎないので、その無名性に対してさらに選択的、非選択的などと煩瑣な区別を設けることなどはまったく思慮の外でした。そういう、こちらがまったく考えていないことを藪から棒に前提としてあげられるというのは、ちょっと筋が違うとしかいえません。
>「そちらが求める所も、作家なら作家としての名を程良く知らしめるあり方になりませんか」
前提がそもそも的外れなので、この結論も的外れなのはいうまでもありませんが、そのことは別にしても、この文の文意がよくわかりません。「作家なら作家としての名を程良く知らしめるあり方」? 何度読んでも意味がわかりません。わかりやすくパラフレーズしてください。
>「「知る人ぞ知る」といふ隱士めいたあり方も所詮名を知らしめる一つの戰略です」
これまたよくわからない一文。よろしくパラフレーズのほどを。
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少しは言葉足らずが改まるかと(淡く)期待したのですが、依怙地になってゐるんですかねえ……。
はて、「すでにあちこちに書いてあります」とは? 一向に答へが無いので問ひを重ねざるを得ないのですけど。獨りで答へたつもりになっても無效です。お互ひ解りあった仲ではないのですから、明言しなければ通じませんよ。眞逆、答へると都合が惡くなるのでもう書いたことにしよう、とでも?
前言を飜すとは、何度も書きました。辭書を引けと言ひながら辭書を引用すると咎める、とかです。これも自覺が無かったとは。なほ當方も、おっしゃる「粗笨な書き方」「ナメきっている」とか、こちらの氣がつかない「最低限の倫理性」とか、何を指すやらわかりません。相變らず事例も説明も拔きにきめつけるばかりなので。
そちらに匿名論を續ける氣は無くても、當方の論に混亂ありとした行きがかりだけでも解消しておく責任があります。それこそ最低限の倫理といふものかと。拙論の不備について具體的指摘が無ければ、無根據な漫罵として片づけられても仕方無いわけですが、宜しいかな? 本當に「諦めている」なら非難がましきことを記さぬがよいでせう。
コメント:
なるほど、そういう粗笨な書き方をするわけですか。それじゃ、こちらに通じないのも無理はありません。どうも貴方は言葉というものをナメきっているようですね。
「ついでに」以下の疑問点に対する「弁明」は、すでにあちこちに書いてあります。ほんとうに知りたいのであれば、ログをもう一度読みなおしてください。貴方が同じようなことを何度も質問するのはそちらの勝手ですが、こちらは貴方ほど暇じゃないんで、同じことをそう何度も書くわけにはいかないのです。
>「考へを改めたのなら別ですが、それとて一言も斷わらずに前言を飜すやうではお話になりません」
これもわからんなあ。「一言も斷わらずに前言を飜す」って何のことですか?
>「何を議論するにしても最低限の論理性を保つことは大前提、でなくては話の筋が通らない」
ごもっとも。しかし、最低限の論理性とともに、最低限の倫理性もまた必要なことに貴方は気がつかないようですね。倫理性というのは、内面的・反省的な首尾一貫性のことです。それがぐらついているようでは、いくら形式的に論理性を取り繕ったって話の筋が通らないことに変りはありません。
>「生憎あなたと違ひ、恥を掻くことなどまだありません」
なるほど、恥知らずは恥をかくことがない、というわけですね。これだけ醜態をさらしておいて、自覚していないところがすばらしい。
>「問ひも出さずにレスしないと責める花山さん」
べつに責めてませんよ。諦めているだけです。
>「相手に取って不足あり、といふところです」
つまりその程度の人間にしか相手にしてもらえないということです。
それと、無名性、匿名性の話のつづきですが、それはもう私の出る幕ではないので、某掲示板のほうででもやってくれ、といいましたよね。貴方が責任と主導権とをもって、存分に論を展開すればいいのです。私も楽しみにしていますし(皮肉ではなく、って前にも書いたな)。
コメント:
引用文は三點を例に擧げ、うち辭書云々の點のみ切口上の件に屬し、殘り二點はこれを片づけないと本筋に戻れないものです(ゆゑに「本筋である」でなく「本筋に關は」ると書いた)。またこれらの例は總べて、さらに「論理的な一貫性の無さ」を指摘するためのもの。考へを改めたのなら別ですが、それとて一言も斷わらずに前言を飜すやうではお話になりません。何を議論するにしても最低限の論理性を保つことは大前提、でなくては話の筋が通らない。
從って、いづれの話にせよそちらがちゃんと話を續けるつもりならば、それまでの支離滅裂を認めて態度を改めるかこちらの氣づかぬ理路が一貫してゐたことを明示するかが、求められます。以上、その時は気づけなかったとしても、今はもう理解できたはず。遁げずにお答へ下さい。
生憎あなたと違ひ、恥を掻くことなどまだありません。まともな指摘がサッパリ無いので。相手に取って不足あり、といふところです。ご精進あれ。――尤も、問ひも出さずにレスしないと責める花山さんのことですから、ご自分の「頭のなか」でだけはやっつけたつもりになってゐるのかも(阿Q式勝利法?)。
コメント:
無名性、匿名性の問題が「本筋」なんですか。
しかし、貴方の文は次のようなものですよ。
「ついでに、辭書を引けと言っておきながら辭書を引用すると非難し、他人を批判しておきながら説明を求められると逃げ、「ちょっとかんべんして」といふから切り上げてあげたらそれをこちらの「旗色がわるくな」ったからのやうに言ふ、さうした一聯の論理的な一貫性の無さについても、辯明してみて下さい。……」
これだけ読んで、無名性、匿名性の問題に再帰することが「本筋」だと気づけといっても無理ですよ。「切口上」の件とごっちゃになっているではないですか。
自分のいっていることがちゃんとわかっていますか。この上どれだけ恥をかいたら気が済むのです?
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實際、7月4日附のご記帳は、突慳貪で、無愛想で、突き放した言ひ方であり、「小学生でもわかる」と言ひ放つのですから「アホか、お前は」と告げるも同然だったわけです。
都合の惡いことに應答しないのはそちらです。しかも花山さんの文は殆ど斷定する一方で特に疑問形で問うてくることはしてゐなかった(會話のキャッチボールが不得手な人と見える)。それで一體當方に何を答へさせたいのやら、もし答へるべき重要な問題があるといふなら箇條書きにでもして示せばよいでせう(當然、こちらから出してある疑問にも答へてくれるんでせうな)。
無名性・匿名性についての論議が本筋だったのも憶えてゐませんか。それを説いた拙文に「混乱」ありときめつけたのですから、どこに問題あるのかを指摘してくれなければこちらも返事のしやうがない。だのにそちらが無責任にも「かんべんして」「いい加減うんざり」と説明を抛棄したので話を切り上げざるを得なくなったのに、それをこちらの「旗色がわるくな」ったからだと的外れな勘繰りをしたのはどういふわけです? このこと、再三訊ねてゐるのに答へようとしませんね。マア自分の前言と矛盾したことを述べる人ですから、都合の惡いことはみな忘れてしまふのでせう。これからは精々よく讀み返してから書き込むやうに。
「わけのわからない「本筋」をつくってそっちのほうに逃げようという魂胆」とはまたも下種の勘繰り(頑迷な心理主義の徒なのか)。9日附の文で切口上云々の遣り取りを再説した時、既にこれは本筋でないと述べてあります。また10日附の文で「ついでに」と書いたのに引っかかったやうですが、本末顛倒を自覺できてなかったわけですな。これは私が惡うござんした、皮肉は相手の程度を考へて使ふべきでした。わざわざ「本筋と關はる」と言ひ添へ、その本筋とは何かまで説いてやらなくては通じぬとはねえ……。
コメント:
ほんとうにつっけんどんで、無愛想で、突き放した言い方とは、森さんの質問に対して「アホか、お前は」とレスするようなのがそれです。これをしも「切口上である」というわけですね、森理論からすれば。
まあ、これ以上いくらやっても埒があかない(だって都合のわるいことにはいっさいレスしませんからね、貴方は)ので、「切口上」についてはこれくらいにしておきましょう。しかし、このログを読んでいる人(がいるとして)には、森さんの醜態ははっきり伝わっていると思いますよ。
それと、私の弁明って、もしやして前々回くらいの森さんの書きこみの下のほうにあった「ついでに」以下の要望のことですか。「ついでに」というから私はまたなにか余談のようなものかと思っていましたが、いつのまにこれが「本筋に関わる」ものになったのでしょう。
けっきょく、森さんとしては早いところ「切口上」の話題から解放されたいものだから、わけのわからない「本筋」をつくってそっちのほうに逃げようという魂胆なのですね。いうところのイタチの最後っ屁。
で、その「本筋」とやらですが、いったいなにをもって「本筋」とするのかよくわからないので、それをまず聞かせてもらえますか。
コメント:
論理で勝てないからって相手の心理を捏造しても駄目です。「感じられたのは、それとは別の何かあるものだった」等と他者の内心を推定できる論據は何で、別のあるものとは何か、それを具體的に示さねばまるで説得力がありません。何より、「突き放したような口のきき方」といふ定義が「無理のなさそうな」ものだとはそちらとて認める以上、進んでそれが無理であることまで證明できなければ當方の論理を却けられません。
先は「旗色が悪い」で今度は「弱腰」と、憫れんで遠慮した言葉遣ひにすると圖に乘るやうですね(之ヲ近ヅクレバ則チ不孫ナリ)。語調ばかりあげつらって肝腎の論の筋は一向に搖がされないので、反論として物足らない。もともと切口上云々は脇道の餘談、そちらの語法をなぞったまでだからそれを誤用とするなら自滅してくれて好都合。それでも確認のため「そちらは、どういふ意味のつもりで使ったのでせう」と(皮肉を籠めて)尋ねたにも中々答へず、やっと答へたら問ひ詰める意味だときたもんだ。それで「辞書を引いてご覧あそばせ」とはよく言へたものです。頭の中の主觀的な意味(意圖)だけにたよって他の用例などの裏づけを出さないのでは論を成さないことも解りませんか。
當方に混亂があるのは「文というよりも」「頭のほう」だとか。しかしここには文しか掲示されないのですから、文言に即してそれを指摘できなければ議論にならぬ漫罵に過ぎません。
で、前に擧げた疑問への辯明などはまたまた後回しですか。いつも言を左右にして即答を避けるのは、論破されるのを恐れてでせうか。
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余裕を失った人間にはジョークもジョークと感じられない、ということです。でもまあ、おもしろくなかったのならごめんなさい。私のほうは、予想どおりのとんちんかんな反応をいただけたのでけっこう笑えましたけど。
7/4の私の書きこみが「突き放したような口のきき方」に感じられた、ですって? いやいや、そうではないでしょう。そのときに森さんが感じられたのは、それとは別の何かあるものだったのです。その別の何かを森さんは「切口上」という言葉であらわしたのですが、あとで辞書を引いてみると、それとぴったり符合する定義が辞書の記述に見出せない。で、あせった貴方は仕方なく自分の本心とはちょっと違うけれども、とりあえず前後の関係からみていちばん無理のなさそうな「突き放したような口のきき方」という定義を採用して、これを自分の感じたことに無理やり(!)してしまったのでした。
そんなふうに、自分の本心を偽ってまで「切口上」という言葉にこだわらなければならなかったのはどうしてか。簡単なことです。森さんはご自分が「切口上」などというごくありふれた言葉を意味も知らずに(あるいは間違えて)使ったことが内心は恥ずかしくてたまらないのでしょう。なにしろ掲示板の書きこみにも旧字旧かなを使用し、関心分野に「言葉」と書くほどの方ですから、私のごときどこの馬の骨だかわからない人間に指摘されたからって、おいそれと自分の無知を認める気になれないのは当然です。
で、その後ろめたさをつくろうために、必要以上に強気をよそおって、人の書くものにいろいろといちゃもんをつけ、論評をし、さては反論にもならぬ反論をわめきたてているわけですが、みずからの誤りに気づいた直後の、7/7付の森さんの文章には、切ないまでの心の動揺がすでにはっきりとあらわれています。
>「この轉義まで含めれば當方の用法は間違ひとは言へませんが、誤解を招くのなら「けんもほろろ」でも「取りつく島がない」でも適當に言ひ換へさせて下さい」
そのとき貴方はこんな弱腰の発言をしていたのですよ。
>「そちらは、どういふ意味のつもりで使ったのでせう。そんなに「改まった口調」でしたか?」
これが、自分の用法が正しいと思っている人間のいうせりふでしょうか。
さらに、前段でこのような苦しまぎれの弁明につとめた結果として、後段にいたって調子をくずし、ほとんど日本語の体をなしていない、しどろもどろの文章をかろうじてまとめあげたのでした。
で、私がやんわりと「混乱をきたしておられるようですね」というと、またしてもいつもの過剰反応で、「どこがどう混乱しているか具体的に指摘せよ」ときました。端的に指摘するなら、混乱をきたしているのは文というよりも、それを生みだした貴方の頭のほうなのです。
……しかし、いちばん問題なのは、そんなことを百も承知のうえで(おそらくは!)、なお恥の上塗りを重ねている森さんご自身のあり方なのですが。
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おや、今度はジョークの語義の獨自用法かな。ジョークにもなってないものをジョークと言っても通用しません。失言を誤魔化さうとしてあれは冗談だと言ふ人も信用されません。
「つっけんどんでもなければ無愛想でもなく」といふのも惡い冗談ですか? 再讀して御覽なさい。7月4日附のご記帳における反問の語法を「突き放したような口のきき方」と思へなければ、どうかしてゐます。
ご自分でも認めた通り「書き方がわるい」文章なのでしたから、それが不可解に感じられて質問されようと驚くには當りますまい。第一、わからないと言はれる位、氣色ばむことではないものを。しかも丁寧に聞いたら訊問口調だと難じられるやうでは、もし粗っぽい尋ね方にしてゐたら罵倒とでも取られかねぬところでした(花山さんは被害妄想氣味とか?)。假に當方の質問が「改まった固苦しい物の言い方」だったとしても、そこから「問ひ詰める」といふ意味は依然として出てこない。詰問する氣ならもっと遠慮會釋無しに嚴しく責め質します。大體、先に「そんなに「改まった口調」でしたか?」と訊いたのには答へずにゐて、今になってその意味だったと取り繕はうとしても、苦しい苦しい。無理がありますよ。
中途半端といふのは承知してゐるやうなので、前に記した疑問への辯明もどうぞ。その方が本筋に關はりますし。
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前回のは軽いジョークのつもりで書いてみたのですが、案の定というべきか、この石部金吉先生にはまったく通じなかったみたいですね。ジョークに対してジョークで返すどころか、前に書いたことをひたすら繰り返すだけ。これでリラダンのアイロニーがどうのこうのといっているのだから笑えます。リラダン読みのリラダン知らずとは貴方のことですよ。
さて、本論に入りますけど、「質問に対して質問で返すような言い方」自体はべつにつっけんどんでもなければ無愛想でもなく、突き放したような口のきき方でもありません。いわんやそこには「切口上」という言葉であらわされるいかなる要素もないのです。もしそれが「ある」というのであれば、森洋介という一個人の頭のなかで両者がなんとなく結びついているというだけのことでしょう。この漠とした結びつきというのは観念連合でよくあることで、いわゆる妄想のたぐいであります。
森さんが「それこそが切口上といふものでせう」と書かれたのは、その前に私がこの言葉を使ったのをおぼえていて、「花山は自分(森)のことを切口上だなんていうが、そういうお前の言い方「こそが」切口上ではないか」といいたいわけなのですが、そういうためには、私が使った「切口上」と森さんの解する「切口上」とが同じ意味合いをもつのでなければなりません。それでなければつじつまが合いませんからね。
はたして森さんは必死になって私の用法が自分のと同じであることを確認したがっておられますが、残念ながら私は森さんとは違って相手のことをつっけんどんだとか、無愛想だとか、突き放しているとはちっとも思っていないのです。それは私の当該文章を虚心に読めばすぐにわかることでしょう。
念のためもう一度引用します。
「だんだんと訊問じみてきましたね。……まあ、あんまり切口上になられても困るので、どうかお手柔らかにお願いします」
つまり私は森さんの応答にまず驚いたわけです。ふつうの掲示板のゲスト(お客さんですね)に対するホストの応答とはずいぶん違っていて、のっけから「わからない」と決めつけた上で、なにやらねちねちと質問を繰り出してくるのですからね。あの応答全体にみなぎっている森さんの語調、それこそが本義(原義にあらず)における「切口上」というものでしょう。手元の岩波国語辞典には、「切口上」の説明として、「改まった調子の口上。改まった固苦しい物の言い方」とあります。上の引用で省略した部分には、「森さんはふだんはいつもこんな調子なのでしょうか」と私は書いていますけど、「こんな調子」というのがすなわち「改まった固苦しい物の言い方」のことなのです。
で、私が自分の用法における「切口上」を説明するにあたって「問い詰める」という言葉を入れたのは、あくまでコノテーションをはっきりさせる意図に出たもので、この場合は主に森さんの訊問口調を問題にしていますから、「問い詰める」という言葉を補ったほうがわかりやすいだろうと思ったからでした。ところが、そんな私の老婆心を知ってか知らずか、「切口上」には「問い詰める」なんていう意味はない、と大騒ぎしはじめたので、私はここでもまた驚いたわけです。
よもやこんなばかなことを本気でいっているとは思えない。当然そこには何かわけがあるのだろう、と私は考えるのです。で、その私の推測ですが、それはいまここで書くわけにはいきません。断定するにはちょっと材料不足なのでね。そんなわけで、この書きこみに対して森さんがどう出てくるか見極めてから、その推測を書くかどうかきめよう、と思っています。
中途半端ですが、本日はこれにて。
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ナルホド、そんな讀み方をされてゐたとは。道理で頓珍漢なことばかり言ってくるわけです。しかし、私が「切口上」と言ったのは、質問に質問で返すやうなその「突慳貪」な態度、その「無愛想で突き放したような口のきき方」のことであったのは、後の文で説明してある通り(だから「質問で返すこと」ではなく「質問で返すやうなこと」と書いてゐる)。初めに誤解があってもそれで訂される筈。なぜ勘違ひした讀み方に固執したままなのでせう。
一方、「問ひ詰める」なんて語義は「切口上」から導き出せません。元來「切口上」には「問ふ」意味はありませんから。一體「本義」とやらにどんな意味を想定してゐるのだか。これも獨り合點してないで言葉にしてくれなければ他者を理解させられませんよ。
ついでに、辭書を引けと言っておきながら辭書を引用すると非難し、他人を批判しておきながら説明を求められると逃げ、「ちょっとかんべんして」といふから切り上げてあげたらそれをこちらの「旗色がわるくな」ったからのやうに言ふ、さうした一聯の論理的な一貫性の無さについても、辯明してみて下さい。無論、まともに話を續ける氣があれば、のことですが。
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あらら、終ったと思ったらまた蒸し返しですか。まあ、いいや……
あのね、森さんの場合、拡大解釈なんてもんじゃなくて、明らかに誤用なんですよ。「すべからく」を「すべて」の意味で使うのと同じくらい、まちがった用法なのです。
「ほんたうに、あれで意味が通じると思ふのですか?――と質問で返すやうなこと、それこそが切口上といふものでせう」(森さん)
「それこそが切口上といふもの」、ふむふむ。で、「それ」とは何でしょうか。文脈上、「(質問に対して)質問で返すやうなこと」としか考えられません。となると、「切口上とは質問に対して質問で返すような言い方のことである」と森さんが考えていると解する以外、ここでは受け取りようがないわけです(形式的には、ね)。
この用法は、「切口上」の本義、転義、拡大解釈のいずれに照らしても、無理のある用法です。本来「様態」をあらわす言葉が、ここでは「行為」をあらわしてしまっているのですから。……
これに対してもまたとんちんかんな反論がくると思いますが、それはまたそのときのことサ。
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分の惡いそちらを追ひ詰めすぎないやう遠慮したんですが、おわかり頂けなかったやうで。そちらが説明責任を抛棄しなければ、こちらも切り上げはしません。
實際、筋の通らぬことばかり。「切口上」の語義云々は本筋ではありませんが、まづこれに即して見てみませうか。そもそも「辞書を引いてご覧あそばせ」と言ふからさうしたら、當方が引いて知らせた語義に對して擴大解釋は許容せずとケチをつけ、果ては辭書を引用することすら權威をふりかざすものだと非難しだす撞着ぶり。「權威」を參照させたのはそちらであり、「辭書の誤りを見つけるのは大好き」な當方としては辭書を盲信する趣味はありません。しかもひとには引かせておいて自分では引いてもみないから、己れの意圖した意味を辭書には見出せないことに氣づかず、それを指摘されても何ら辭書外の根據を出すでもない。「切口上」に就ては「無愛想で突き放したような口のきき方」といふ語義を採用しておけば先のそちらの文もそれを反復した當方の文も支障無く解釋できるものを、わざわざ「問い詰める」なんて全く「本義」から程遠い意味を持ち出し、自分にはそんな「擴大解釋」を許す態度がこれまた撞着。假に轉義にせよこの方が無理がありすぎです。
どうも花山さんの文は言葉が意味してしまふあり方に無頓着なのでしたが、その一因は、己れの個人言語に過ぎないものを一般に通用する意味だと思ひ做す癖にあり、また、自分が一度書いた言葉に責任を持たないので前言との矛盾を自覺できないのではないかと察せられます。
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気に入らない? はて、なんのことでしょう。……私が貴方に辞書を引くようにいったのは、貴方が「切口上」という言葉を意味もわからずオウム返しにしていたからです。意味を知っている私がどうして辞書を引く必要がありますか。冗談も休み休みいうがよろしい。
言葉というものは文脈しだいでいくらでも多様な意義をもちます。それでも本義をまるきり離れてしまうということはありません。辞書にはそのいちばん根本になるところだけしか説明されておらず、個々の場合は自分で考えて使うしかないのです。
その証拠に、外国語を日本語に訳すとき、辞書にある訳語をそのまま使ってごらんなさい。どんなちんぷんかんぷんな日本語になることか。
「「切口上」の語義を「問ひ詰める」(か、その類語)にした國語辭書は見つからないやうです」ですって? 「やうです」じゃなくて、そんな辞書は絶対に見つかりっこありませんよ。個々の特殊な場合まで説明していたのでは、ページ数がいくらあっても足りないじゃありませんか。
もっとも、こんな当り前のことを書いていると、どうもこっちがばかにされているんじゃないかという気がして仕方ありません。もしやして、すっとぼけておられるのではないか、という懸念は当初からあったのですが……
でもって、自分のほうが旗色がわるくなると「切り上げた方がよい」なんていいだす始末。でもまあ、たしかに潮時でしょうね。……その「讀者側から見た無名性」については、もうひとつの掲示板ででも論を展開してくださいな。私も楽しみにしています(皮肉ではなく)。
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そちらが辭書を引けと言はれたので引いてみたのですけど、氣に入りませんか。因みに、「切口上」の語義を「問ひ詰める」(か、その類語)にした國語辭書は見つからないやうです。
一般に、他人の論を誤用とか混亂とか難じた場合、批判した以上、相手から求められればそれを説明する責任がありませう。私は、わからないと言ふ時も、どこがわからないかをなるべく言葉にしようと努めたつもりです。それが自分に引きつけすぎでしたら無論改むべきであります。
讀者側から見た無名性についても別に考へを述べようと思ってゐたのですが、切り上げた方がよい樣子ですね。當方は最初から「話を續ける氣があれば」と言ひ「できれば」と云って無理に強ひてはゐませんが、それでも負擔に過ぎたのなら御寛恕の程を。
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「切口上になられても困る」というのは、「あんまりマジで問い詰められてもこまる」というほどの意味です。そういうふうに解釈するのがふつうだと思いますが。
語の拡大解釈をするにも辞書という権威(?)をふりかざさないとおっかなびっくり手も足も出ないというわけですね。こんな知れきったことのために、こちらがなんでわざわざ辞書を引いて語釈を探した上で貴方に報告しなければならないんです? ご自分はあくまで正しいと思われるならば、今後もそういうふうに使っていけばいいだけのことでしょう。
「無名性」に関しては、私は一度も(もちろん最初の書きこみにおいても)作者の側から考えたことはありません。それをそのように読まれなかったのは、私の書き方がわるい(これは認めます。森さん流にいえば、「言葉は意味する――時に話者の意圖しない意味をも」)ということもありますが、森さんのほうの問題意識のなかに、「無名性」をもっぱら作者の側の方法的な戦略として考える志向があったことも否めないのではありませんか。一般に他人の書いたものをあまりに我田引水的に読むのはいい趣味だとはいえませんよ。
「混乱の箇所を具体的に指摘せよ」ですが、ちょっとかんべんしてもらえませんか。もういい加減うんざりです。どうしてこうも人にああせよこうせよとしつこくせがむのか。……
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辭書の誤りを見つけるのは大好きです。が、この例に就て『広辞苑』の最後の語義を誤用と斷ずるには根據が弱いやうです。そもそも「切口上」の語はそちらから使ったのを反復しただけですが、當方の用法を過誤とされるとなると、そちらは一體どの意味で使ってゐたのでせう。まさか「一語ずつ区切ってはっきりという言い方」ではなし、特段「堅苦しく改まった言い方」をした憶えもないので(以上『大辞泉』參照▼)。何か信用する辭書がおありだったら、そこから語釋を提示して下さればいいのです。
知識が惡循環することもあるのは知ってゐますので、ご説明に及びません。しかし7月3日附で記帳された文章の言葉がその惡循環を問題にしてゐたやうには(依然)讀めないのです。「完全に無名のままでいる」「完全に無名性を押し通す」といふ書き方でしたから、作者の側を主體とした匿名化を述べてをり、いま小林を例に出したやうな讀者の側から作品に求める無名性とは筋が違ふものでせう。
當方の文にも混亂ありとのこと、できれば具體的にご指摘願ひます。さうすれば何が理解の妨げなのかわかってくるでせうから。
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下の書きこみ中、「おれのなかでその魅力をいやましこそすれ」は「おれのなかでその魅力はいやましこそすれ」のまちがいです。
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まあ、「広辞苑」だからって無条件に信用しないことですね。広辞苑に出ているからといって、誤用は誤用ですよ。そんなふうに語義をひろげていったら、けっきょくどんな用法でも許されるようになってしまいます。
と、えらそうなことをいいながら、私自身も誤用や誤記はしょっちゅうやらかしていますから、けっして人の揚足をとる資格なんかないのですが、この場合、当方に対する批判がましい文脈のなかでのことだったので、あえて一言いわせていただいた次第です。
それはそれとして、「なほ残る疑問」のほうですけど、ちょっと論の運びに混乱をきたしておいでではありませんか。なんだかごたごたしていて、内容がよく理解できませんが。
自分の書いた文章を敷衍してもトートロジーになるだけのような気がするので、ここはひとつ小林秀雄に仮託して、フィクションふうに述べてみたいと思います。
小林は「地獄の季節」に衝撃をうけて以来、ランボーに関する文献をあさり、翻訳もし、評論も書き、数年間をランボーという事件の渦中にすごしますが、そうするうちに、最初に読んだ「地獄の季節」の感銘がどんどん稀薄になっていって、やがて雲散霧消──とまではいかなくても、たんなる感銘の漠とした記憶として、ダイナミズムを失ったかたちでしか残存していないのを感じます。
ランボーに関する雑多な知識が、当初の感銘を薄めてしまったとしか考えられません。知識は安定を志向するものですが、安定とはある意味で停滞にほかならないからです。
そこで小林はひとりごちます、「もしランボーがまったく無名で、資料もなにも残されておらず、ただ「地獄の季節」という作品が現前するのみだったとしたらどうだろう。おれはこの作品だけをもとにして、ありうべきランボー像を頭のなかに構築するほかはない。それは架空のものではあるが、それだけに激しい希求の対象であり、求めても与えられぬ理想(イデア的なるもの)として、おれのなかでその魅力をいやましこそすれ、けっして色あせることなどなかったのではあるまいか」と。……
私も知識が想像に糧をあたえ、また想像が知識を鼓舞するという良循環(?)の存在を認めるのにやぶさかではありませんが、逆に上述の小林の(架空の)嘆きのように、知識が想像を枯渇させ、想像が知識を拒絶するような悪循環もまた存在するのではないかと思っています。
これだけ説明してもまだわかっていただけませんかね。
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どの意味で使ったかを述べずに辭書だけ參照させても、また問題を曖昧にしますよ。「切口上」とは「一語一句のくぎりをはっきりさせていう言葉つき」が原義で、大抵は「改まった堅苦しい口調」のことですが、さらに轉じて「無愛想で突き放したような口のきき方」を意味します(『広辞苑 第四版』より)。そこから「突慳貪」の意味合ひも帶びるわけで、この轉義まで含めれば當方の用法は間違ひとは言へませんが、誤解を招くのなら「けんもほろろ」でも「取りつく島がない」でも適當に言ひ換へさせて下さい。要は「小学生でもわかる」云々の反問の仕方を指したのはおわかりかと。そちらは、どういふ意味のつもりで使ったのでせう。そんなに「改まった口調」でしたか?
元來こちらは知識追求型ゆゑ、單にわからないから率直にお訊ききしたまで(それでも、ただわかんないと言ひっ放しにはせず、例へばかういふ意味かと解釋案も添へておきました)。何が引っ懸かったのか存じませんが、初めから直ぐお答へ下されば無駄に問ひを重ねずとも濟んだことでした。なほ殘る疑問を記しておきませう。
まづ、隱れてもないものを普通は正體とは呼びますまい。ヴィリエ・ド・リラダンのやうな作家を收める短篇集なら簡短でも解説か略歴くらゐ附いてゐませうし。それに、書いた作者が「どんな人間だったか知りたくなる」のなら、當方が先に述べたのと同じく結局無名を知名と化すことを欲するわけで、「どこのだれとも知れぬ」無名性そのものに魅力を感じてゐるとは言へません。それなのに、「正体がばれる」と魅力的でないと言って「完全な無名性」を理想化する風なので、いよいよ前後の照應がわからなくなりました。だいたい「まったく資料が見つからない」作者など珍しくもなく、古い投稿雜誌でも漁れば二束三文の無名作家どもが續々出てきます。さういふ非選擇的無名性は問題にせず、かといってテスト氏流の意志的な純粹未發表状態も考慮しないとなれば、畢竟そちらが求める所も、作家なら作家としての名を程良く知らしめるあり方になりませんか(誰もが知る有名作家になるだけでなく、「知る人ぞ知る」といふ隱士めいたあり方も所詮名を知らしめる一つの戰略です)。
とまあこのやうに、どうにもご記帳下さった趣意が掴めぬ次第。願はくは蒙を啓きたまへ。
コメント:
「素姓が知れる」ということですよ。たとえば、小林秀雄がランボーのラの字も知らず、たまたま本屋で見かけた「地獄の季節」という本を、その題名にだけ惹かれて読んだとしますね。で、心底震撼させられるわけです。そうすると、当然のようにランボーがどんな人間だったか知りたくなるでしょう。ランボーは無名の人間ではないので、研究書も伝記も手に入れることができます。そんなふうにしてランボーについて知りえた情報がつまり「正体」です。
「完全な無名性」とは、そのような素姓調べをやろうとしても、まったく資料が見つからないような場合です。その作者の別のものを読みたいと思っても手に入らない。そもそも本名なのか匿名なのかもわからない。……
まあそんなところですが、こんな些事にどこまでもこだわるからには、なにかそれなりの理由がおありなのでしょうね。その理由をお聞かせ願えますか。
……それにしても、切口上の意味すらご存じないとは。辞書を引いてご覧あそばせ。
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ほんたうに、あれで意味が通じると思ふのですか?――と質問で返すやうなこと、それこそが切口上といふものでせう。でも、掛け値無し、何度讀み直しても判然としないので、ヴィリエの「正体がばれる」とは何のことだか、完全な無名性とはピンチョン流を指すのかテスト氏流なのかそれ以外か、宜しくお答へあれ。
合意に達する必要などありません。違ひは違ひとして、しかし考へ方が違ふといふだけでは漠然としてゐますから、その考へ方のどこがどのやうにどうして違ふのかを理解できるやうにしてくれれば十分です。獨りで蒙昧を好むなら御自由ですが、讀むこちらにまで蒙昧状態を強ひっぱなしはチトひどい。少なくとも「『未來のイヴ』を讀む」を讀んで啓發されたとおっしゃる以上、當方は、そちらにまるで理解できない書き方はしてないわけです(それとも誤解されてゐた?)。
蓮實重彦『表層批評宣言』(ちくま文庫)には、小林秀雄の體驗をメロドラマと呼ぶ理由が書いてあります。
ついでに豆事件(▼)の插話を想ひ出しました。メキシコのお土産、飛び跳ねる豆がシュルレアリストたちの前にもたらされた。みんな大喜び。中に蟲が入ってゐるに違ひない、早速割ってみよう、とロジェ・カイヨワ。この神祕をこのままに陶醉してゐようではないか、とブルトン。これで二人は道を別ったのでした。ここは斷然、嬉々として解剖するカイヨワに與したい。仕組みを理解すれば、跳ね豆への感心もひときは深まるはず。
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だんだんと訊問じみてきましたね。森さんはふだんはいつもこんな調子なのでしょうか。まあ、あんまり切口上になられても困るので、どうかお手柔らかにお願いします。
念のためにもとの私の書きこみをもう一度読んでみましたが、たしかに論理的な文章とはいいがたくて、意地のわるい読み方をすれば、なにが書いてあるのかわからないというのもうなずけます。といっても、それはあくまで「意地のわるい読み方」をした場合のことで、ふつうにすんなり読めばそのまま意味は通じると思うのですが……残念ながら貴方にはそうではなかったようですね。
「たぶん考へ方・感じ方の違ひなのでせう」とありますが、私もそうだと思います。「何が違ふのか」もなにも、すでにご自分で答を出しておられるではありませんか。
こと趣味判断に関するかぎり、理詰めでいくら説明したって満足な合意に達することはないでしょう。ことに、デジャヴュの貴方とジャメヴュの私とのあいだでそれをやっても、不毛な議論に終始することは目にみえています。
匿名性、無名性に関して、貴方がべつの掲示板に書かれた文章も見ていますが、正直いって私にはそのプロブレマチックがよく飲みこめませんでした。ああいった文脈で匿名性、無名性を考えておられるのだとしたら、私とは話がかみあわないことは明白ですね。
ふと思い出したことをひとつ。小林秀雄のランボー神話のことです。
小林秀雄は「見知らぬ男(ランボー)にいきなりぶちのめされた」と書いているのですが、そんなばかな話はあるまい、これはフィクションだろうと、だれだったか(蓮実重彦でしたか)が書いているのを見たことがあります。
しかし、私はこれをあながちフィクションだとは考えないのです。ここは文字どおり受け取っておいていいのではないかと思うのです。
こう書けば、ただちに「それはどういう根拠にもとづくのか」と質問されることでしょう。それに対しては、「自分もそれに近い体験をしたからだ」と答えるしかありません。そして、およそ体験などというものが一般化に耐えないものであることはいうをまたないでしょう。
もしかしたらフィクションかもしれないものすらフィクションとは受け取らない感性、それは知識を愛される森さんからすれば救いがたい蒙昧にうつるかもしれません。しかし、私はこの蒙昧の状態のほうが、啓蒙の状態よりも実りゆたかな場合もあるのではないかと思っています。デルフォイの碑文をもじっていえば、「汝自身を知るべからず」ですね。私にとっては「未開状態の目」も「野生の思考」も、それ以外には考えられません。
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質問に質問で返されると、話の接ぎ穗がなくなります。初めの質問に差し戻しますので、「正体がばれる」「完全に無名のままでいる」が指す具體的な意味を説明して下さい(話を續ける氣があれば、で結構です)。
一番わからないのは、「どこのだれとも知れぬ人間」にナゼ魅力を感じるのか、です。「なにやらとんでもないもの」に惹かれるなら書いた筆者は誰でもよく、イヤ、むしろ知った人物が筆者である方が、あの彼がと意外だったり、いかにも彼ならではと納得したりして、一層魅力的なはず(普通は)。
たぶん考へ方・感じ方の違ひなのでせうから、小學生も幼稚園も關係ありません。ここはひとつ、何が違ふのかを知りたいものです。
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わかりませんか??
……小学生でもわかると思うんだがなあ。
もっとも、幼稚すぎて、小学生程度の頭の人にしか通じない、というのなら納得できますが。
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すみません、おっしゃることがよくわかりません。「正体がばれるまで」って、ヴィリエ・ド・リラダンは匿名でも正體を隱してゐたわけでもないから、讀者が作者について知らないことを指して正體不明と言ふのでせうか。だとしても、何より知識を好む小生としては、筆者についても知る程に愉しみが増すわけでして、知識の缺如を魅力的とは感じられません。
また、完全な無名性といふのも別にむづかしいことはなくて、現に無名の人はそこらぢゅう世間にありふれてゐます。何も發表しないただの人であれば無名でゐられませう。さうではなく文筆家でと言ふことなら、想定されてゐるのは、ブランショやピンチョンのやうな素顏の知れない作家のあり方でせうか。それとも、『カイエ』しか書かなかったヴァレリー、つまりテスト氏が知己すら得ず株屋の儘であるやうな純粹状態が理想ですか。
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無名性あるいは匿名性の問題と結びつくのかもしれませんが、どこのだれとも知れぬ人間がなにやらとんでもないものを書いている、というのがいちばん魅力的ですね。これは私だけでなく、多くの人が感じていることだと思います。ヴィリエの場合だって同様で、ほんとうに魅力的だったのは、正体がばれるまでの短いあいだのことでした。
しかし、完全に無名のままでいるというのもむつかしい。たいていの場合、尻尾をつかまれ、正体をあばかれてしまいますからね。謎の覆面レスラーが覆面をはがれて、ただの人であることが露呈してしまう瞬間くらい興ざめなものはありません。それでも、われわれの詮索癖はどうしてもそういった無粋なことをやってしまいがちです。これは神秘をあばきたいという人間の習性にもとづくものですから、まあ仕方ないのかもしれませんが。
ですから、完全に無名性を押し通すというのは、ほとんど完全犯罪にも似た高等テクニックなのでしょう。そして、それをなしおおせた彼あるいは彼女ほど幸せな人間がいるでしょうか。まこと、よく隠れるものがよく生きる、ですね。
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無用の長文「『未來のイヴ』を讀む」(▼)を讀む人がゐるとは。なにぶん十年近く前の文章で、今ならああは書くまいと思はれますが、七篠といふ筆者は皮肉屋で必要以上に好んで反語を弄する嫌ひがありますから、あまり眞に受けないで意地惡く讀んでやって下さい。最近、映畫『イノセンス』(押井守監督)のエピグラムか何かに『未來のイヴ』から引用されてゐたさうで、それでまたリラダン愛讀者が多少増えるにしても、リラダンのアイロニーで以てリラダンの作品をもアイロニカルに讀む皮肉な讀者は不思議に見かけません。
岩波文庫版『リイルアダン短篇集』は、弘文堂版『リイルアダン短篇選集』(1940)が戰後文庫入りしたものですが、リラダンの短篇集數册からアンソロジー・ピースになるやうなものばかりよりすぐってきた粒揃ひですから、出來の良さもまあ當然なのでした。譯文の方は、ものによっては齋藤磯雄譯より適切だと思ひましたが、中には意味の判じかねる文もあったやうです。
私の場合、高校生の頃、試しに收録作品中最も短い「ヴィルジニーとポール」を立ち讀みして、シニシズムが氣に入ってあれを買ってみたのでした。次いで「ヴェラ」を讀んでその形式主義思想(形式が内容を作る!)に昂奮しましたが、一番好きなのは同工異曲ながら「つぇ・い・ら綺談」です。ここはフランス經由の支那趣味(シノワズリ)から言って、齋藤磯雄譯の「ツェ・イ・ラ」ではなく平假名書きであってもらひたいところ。イヤ、齋藤磯雄ばかり惡く言ふつもりはなくて、彼もあんつる(安藤鶴夫)の親友だけあってそんな堅物ではなくそれなりに畸人ではあるんですけど。
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こちらでは初めまして。
未来のイヴを読む、いいものを読ませていただきました。私もヴィリエを読みすすめながら、どうもいかめしい外観とは裏腹に中身がない(薄い?)ような気がして、しかしだからといってつまらないといいきってしまうこともできず、なんとなく不得要領なところがありましたが、ご論稿を一読して、ははあそうだったかと啓発されるところが多かったです。
岩波文庫の選集は訳もいいのですね。赤帯の(裏?)ベストテンに入るのではないでしょうか。斎藤磯雄の訳というのは読んだことがありません。東京創元社の全集は見かけたことがありますが、たしかにあんなもの、だれが買うんでしょうね。ましてや読む人がいるとは思えません。……まあ、本というものは買って書棚におけば、一ページも読まなくても中身がわかるといいますが。
私事を申せば、はじめてヴィリエの短篇を読んだのは昭和初期に出た新潮社の「近代短篇集」とかいう本で、巻頭に「ヴェラ」と「思い違うな」とが入っていました。これにはかなり衝撃を受けました。おおげさにいえば、この二作でヴィリエの名前は永遠に私の脳裏にきざまれたというわけです。
その後は、冒頭にも書きましたとおり、私の評価はどんどん下がっていって、もう最近ではつまらんやつ、ということで片がつきそうな気配でしたが、ご論稿を読んでまた新たに関心がわいてきました。むつかしくて途中で放り出してしまった「未来のイヴ」をもういっぺん手に取ってみようという気になっています。
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お斷り下さるに及びません、リンクは御隨意にどうぞ。こちらも無斷でSTUDIA HUMANITATISをリンク集に加へてをりますし。なほサイト名は「【書庫】」が主タイトルで、「書物のトポス」その他は全て附け足りの副題のつもりです。相變らず怠けて一向に中身が伴ひませんが。
中身が無いと言へば、束見本みたいに空白だらけの別卷が附いた〈公共哲学〉なんてシリーズが出ました(東京大学出版会・2002〜2003)が、事程左樣に近年、公共性の議論は盛んです。しかし大方は(東島誠氏の江湖論のやうな例外もあるものの)、西洋のアゴラ・モデルによる日本的公私觀念の批判といふ陳腐な枠組みから脱し切れずにゐるやうに見受けます。だから座談會にもなかなか公共性を認知して貰へないかもしれません――少なくともハバーマス流に公共圈を合理的討議の場と考へたがる向きには。現に、座談會に批判的なものに、『世界』一九九二年十月號所載「文化の政治性」といふアメリカのジャパノロジスト中心の座談會がある由。司會の酒井直樹氏が、ZADANKAIといふ對應するジャンルが存在しない對話討論形式について米國でも一部で關心が高まって來てゐると切り出すものの、フレデリック・ジェイムソン、テツオ・ナジタ、マサオ・ミヨシ、ハリー・ハルトゥニアンら諸氏は、眞劍な論爭を許容しない形式ではないか、合意のない場所に見かけのコンセンサスをつくりだす方法だ、などとつれない反應なのだとか(津野海太郎「座談会は笑う」『読書欲・編集欲』晶文社・2001、參照)。
「文化の政治性」を言ふ人って、お堅い眞面目な論客ばかり。でも歐米にだって、『月曜閑談』はじめ『文學生活』のアナトール・フランス等々、コーズリーの傳統があるでせうに。
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Studia humanitatisの管理人です。いつも当方の掲示板では、さまざまな話題提供をありがとうございます。リンク集に若干手を入れた際に、こちらのサイトにリンクを張らせていただきましたので(「推薦サイト」の項)、ご了承とご確認をお願いしたく、参りました。
http://members.at.infoseek.co.jp/studia_humanitatis/archiveframe.html
「一九三〇年代匿名批評の接線」を、興味をもって拝読しました。「匿名批評」をめぐって議論される「常識」というのは、言説の公共性を指すもののようで、ヨーロッパ修辞学のセンスス・コムニスなどとも通底する考え方のように思います。ただし、日本の1930年代の議論では、それが「演説」と対比されて、「座談」という形を取っているのが面白いですね。ヨーロッパ修辞学はもっぱら「演説」を中心に展開されているように思いますし、座談という形式自体が日本ほどには重視されていない傾向もあるようです。座談形式として真っ先に思い浮かぶのは、例のえっカーマンのゲーテとの対話や、ボズウェルのサミュエル・ジョンソン伝ですが、これらはどうも、生徒が教師にお伺いを立てているような趣で、談論風発というのとはいささか違っているようです。プラトン以来のいわゆる「対話篇」にしても同様で、どうしてもある種の教育的色彩が表に出てしまうようなところが気になります。そう考えると、「座談」というかたちでの日本の公共性は、それはそれで独自のものと考えられるのかなどと、いささか興味をもった次第です。