『未來のイヴ』讀むヽヽ

七篠 五平


舊い手稿をそのまま起こした。内部徴證から、一九九五年末の執筆と思はれる。その後、一九九六年五月に〈創元ライブラリ〉から『未來のイヴ』齋藤磯雄譯が文庫版となって出たには驚いた。九七年十一月には渡邊一夫譯岩波文庫版も復刊された。よって既に時機を逸してゐる。筆者にしては文獻註を附けるのを努めて禁慾しながら、名前論と讀書論とを試みようとしたものの如し。署名は、無名氏の意。(二〇〇四・五)


讀書は、他人にものを考へてもらふことである。本を讀む我々は、他人の考へた後を反復的にたどるにすぎない。 
ショウペンハウエル


南條竹則著『虚空の花』(筑摩書房)が出たのは九五年一月。既にして一年が經たうとしてゐる。折角だ、この機を逸せぬうちに、ちよつと『未來のイヴ』について語つておきたい。暫し文學誌の星座を眺望し、さう、リラダンといふ一遊星のこともたまには思ひ出してやらうではないか――

――と言つて、これで話が通じるのなら世話は無いのだが。恐らく獨り合點もいい所、前口上すら務まるまい。凡そ論たる者、飛躍する前に助走が必要だ。迂回しよう。

まづ南條竹則。彼の名をかねて知る者は、定めし幻想文學愛讀者であれば、その方面の飜譯家として若いに似ず蘊蓄ある所などに目を止めてゐたことであらう。この英文學者が、先年新潮社のファンタジーノベル大賞に應募、優秀賞を獲得し、いよ表舞臺に乘り出すが如く、以後その自著も上梓せられるやうになつたわけである。刊せし所の數册、一々書名は擧げない。勿論さして文名あまねき現状とは言ひ難い。それでも、かうなれば彼もいつぱし文士入りである。固より文事には縁無き輩から成り立つた近代いまの讀者大衆 reading public にとつて、何と言つても〈作家〉――小説家こそが「本を書く人」だと認められる本道なのだから。飜譯、批評、コラム、エッセイ等々、いづれ末流に過ぎぬわけだらう。確かに、誰しも物語・小説の類を讀み出すことから讀書遍歴の第一歩をしるすものだ(但し、それ初歩なるのみ)。

だが文學、それも幻想文學なぞを進んで漁り、人外異端の徒たることに自負を覺える者は、意地惡く眼を光らせる――南條氏もしや徒らに衆俗に墮せるに非ずや、と。私かな偏愛の對象が公然と賣れ出すと反つて快く思はなかつたりするのが、人情である。しかし彼の『虚空の花』と題する新著の刊行豫告を目にする時、その懸念は一轉感歎の聲となつて漏れることにならう。――出版社の廣告する所、即ち南條竹則著『虚空の花』とは、ヴィリエ・ド・リラダン作『未來のイヴ』を論じた批評風小説である由なれば。

おゝリラダン! 而して『未來のイヴ』!!――あの・・十九世紀フランス文學の鬼才、輝ける名品佳什! 中でもかの・・傑作長篇とは!! 

……いささかオーバーアクションか知らん。要は、それほどヴィリエ・ド・リラダンの名が格別な含蓄を有すると云ふ事だ。しかも、餘人は知らね南條竹則・・・・先生が『未來のイヴ・・・・・』を語るからには、必ずおろそかなことはあるまい。期待せざるべけんや、となる。おわかりだらうか。未だ本文を讀まずして・・・・・・・・・・、例へばこれだけの事は讀み取られる。書名・著者名を知る・・時、一つ物語を讀んだも同然である。實際ロラン・バルトが言ふ通り、名前=固有名詞は觸媒であつて、夫々に繁茂する意味の厚みから「小さな物語」をはぐくんでゆく(「プルーストと名前」)。いまその一例を「南條なにがし」といふ名の周りに結晶して見たまで。

南條竹則はもうよい。では、そのリラダンとは如何なる含みをもつた名か、次に語るべきであるが、……ちよつと斷つておく。重ねての迂回、いたづらに本題(『未來のイヴ』を讀む・・こと)から外れるものとする勿れ。バルトは、プラトン『クラテュロス』を參照しつつ「名の力は教へることにある」と云つた。即ち「名前による豫備教育といふものが存在するのであり、しば長く變化に富んだ迂路を經るものの、これにより事物の本質へ到達するのである」(「プルーストと名前」)。その名を説くべき所以である。

しかし、一體何人なんぴとがヴィリエ・ド・リラダンを知ると言ふのか。いづこに問うて教へを乞はう。あなたは、彼を知つてゐますか。はい(或いはいいえ)、名前は知つてゐます。これでは答へになつてゐない。が、問題提起には十分だ。いいえと云ふ返事に對し今日の讀者の教養の缺落ぶりを嘆いたりするより、一體どんな種類の讀者が彼の名を耳にしてゐるかを調査する方がはるかに有意義だらう。人の名が口にされた途端、あゝあの・・、と既知の表情が訪れる。リラダン・・・・の『未來のイヴ・・・・・』と名を擧げただけで、誰もがうなづき合ふ。そんな名前や題名など憶えの無い者までが、缺落した知識を補ひさへすれば折合ひはつくからと、今にも説明の下されるのを俟つてうなづかんとする。この瞬間、お互ひの胸の裡には何か共有物ができあがる氣色だ。それをまづ明るみに出したい。つまり私は、或る暗默の了解に名=ことばを與へたいから語るのである。

しかし、いづこに答へを得よう。勿論、今や彼の名を知るあなたは、名の檢索から知識を得られる(その爲に文學史や事典の索引がある)。……ヴィリエ・ド・リラダン。一八三八〜八九。貴族名門の生れ。窮乏の裡に終世。反俗の精神を貫き、夢想を追求。代表作『殘酷物語』『トリビュラ・ボノメ』『未來のイヴ』『アクセル』。その他あれこれの知識……。だが、それらの述べる所は概ね名の外延(外示デノテーシヨン)であつて、内包(共示コノテーシヨン)は詳らかにされない。果してあなたの知る彼が私の知る彼であるか、なほ判然としないのだ。あなたは、反問するかもしれない。――先程からいかにも自分は彼をよく知つてゐると言はんばかりであるが、實はその人にあなたは格別思ひ入れがあるのであつて、彼はあなただけのもの、獨斷と偏見に滿ちた偶像となつてゐて、我らの共有物とは認知し難いのではないか、と。いや、その通り。にも拘らず、さうではない。説明しよう。

白状するが、私にとつて、『リイルアダン短篇集』で初めて出遭つた十代半ばの日以來、彼は「最愛の作家」であつた。とはつまり、人に「好きな作家は?」と尋ねられたら先づはリラダンの名を擧げる事にしてゐた、といふ程の意味だ。さう、名前をめぐる儀式が存在する。あなたは猪木より馬場の方がお好きですか、ええとT・レックスつて聞いたことはありますか、ああ篠澤教授せんせいを御存知でしたか、等々、樣々に代入可能な名をめぐる質問群があり、夫々にはい・・いいえ・・・の回答がある。この儀式を通じ、人は診斷され各々身元確認アイデンテイテイーを得るだらう。讀書人の間では、愛讀書・愛讀作家の名がその爲人ひととなりの表示記號ともなる。だからこそ、それを問はれたとき一言を以て自己の個性キヤラクターを告示すべく最も適當な名を選ばねばならない。そこでヴィリエ・ド・リラダン――中々面白く讀めたし、ちよつとした名前のやうぢやないか――といふわけだ。かかる過去あるを想へば、私は己が趣味嗜好に偏向して彼を扱ふと見られても仕方無い。だが一方、又これは何と打算的な! 彼への純粹な好惡の情よりも、その名が他人に惹き起す通念の效果の方を重んじるかのやうだ。

私だけではあるまい。彼の名の力は時として烈しい共鳴を喚び覺ます。事實、幾つか例證が擧げられる。辰野ゆたかを引かう(言ふ迄も無く辰野の名は日本における佛文學人氣の祖、且つリラダン紹介の祖を意味する)。その時、若き辰野隆は難物と謂はれた詩人ルネ・ギルの書齋をひとり訪れ、その談に耳を傾けてゐたといふ。言は熱を帶び、話題は盡きない。そして話と話の間に、ふとギルは「君は近代の詩人ではそもそも誰を好むか」と訊ねてきた……。

そこで、僕は「ボオドレエル」と答へた。「では、小説家なら」と彼は重ねて訊ねた。僕が「ヴィリエ・ド・リイラダン」と即座に答へると、彼は如何にも嬉しさうに「君はリイラダンを讀んだのか。外國では殆ど讀まれてゐないと思つた、我等の大ノートル・グランヴィリエを讀んでくれたか……天國の涙と地獄の笑とを兼ね備へた、あの暗澹ソンブルたる天才ジエニーに東洋の讀書子は撼かされたのか、彼の『殘酷談叢』コント・クリユエルを『トリビュラ・ボノメ』を『未來のイイヴ』を讀んで呉れたのか!」と恰も彼自らの傑作を愛讀する遠來の友に感謝するが如くであつた。僕は又彼の喜悦にしんにゆうをかけて「佛蘭西切つての名族であるのみならず、寧ろ王族の後裔ジャン・マリイ・マチヤス・フィリップ・オオギュスト・ド・ヴィリエ・ド・リイラダン、而も乞食にも似た窮乏の生涯を送つた孤高の理想主義者を限りなく愛惜する」と答へた。ギルは口邊に會心の微笑を湛へながら、徐ろに立ち上つて、〔……以下略〕。

――辰野隆『續・忘れ得ぬ人々』より

……右の思ひ出を胸に、歸國した辰野先生は以後教壇でリラダンを講讀、同門に輩出せる數多の俊秀(鈴木信太郎、伊吹武彦、佐藤正彰、渡邊一夫……)にもその名が語り繼がれたわけだ。名の觸媒作用が人を化合すること右の如し。だが、それにしてもこれははげしすぎる。特殊な例外と思はれぬやう、まう一つだけ插話エピソードを追加しよう。リラダン全集の月報から拾つた。一九五三年、某氏が渡佛した時のこと。パリで得た友人がよく文學談に興じる人だつたが、

或る日、「あなた、フランス文学ではだれが好きですか」という。「僕はヴィリエ・ド・リラダンが好きです」というと、「リラダン! 私はフランス人として大変はずかしい。実は私はまだリラダンを読んだことがないのです。日本でリラダンが訳され、読まれているとは驚異だ」と云ってえらくおそれ入ったり、感心したりしていた。

――全集第Ⅱ卷・月報2より

つまり、相手が讀んだことなど無くても、彼の名による效果で結構な反應が見込めるのである。

讀者は、たとひそれがリラダンの讀者でなくても、彼の名を知つてゐる。……ヴィリエ・ド・リラダン。晩年のボードレールの殊遇を受け、ワーグナーと傾蓋、若き日より終生の親友はマラルメ、ユイスマンスやレオン・ブロワに敬愛され、ヴェルレーヌにより『呪はれた詩人』に列せられ(但し増補版からの追加認定)、ローデンバッハやメーテルリンクへの影響……。錚々たる名の交錯する中で、彼の名が幾らでも高められるだらう。いや、彼を取り卷く人間關係など知らなくてもよい。種村季弘の隨筆「長い長い名前」によると、「学生時代よくリラダンのフルネームをジャン・マリ・マチアス・フィリップ・オーギュスト・ド・ヴィリエ・ド・リラダンと得意げにまくし立てていた友人がいた」さうな。落語の壽限無じゆげむ々々々〳〵を誦へるのと大差無いわけだが、名を述べるだけで愛讀書の一節を諳んじて見せた位な效用があらう。いや、苗字だけでもよい。間違はれやすいが、彼の場合、姓はリラダン・名はヴィリエなのではなく、正しくはヴィリエ・ド・リラダン家十八代目のオーギュスト(略稱)なのだ。Villiers de L'Isle-Adam ……何と、これほど使ひ出のある「名」は他に知らない。

だがしかし、彼はそれほど「有名」なのだらうか。一體何人が彼を知るのか。本當に・・・あなたはリラダンを知つてゐますか。

ここに中村眞一郎の證言がある。「〔……〕それからぼくは夢中にならなかったけれど、ぼくの先輩たちが皆夢中になったのがヴィリエ・ド・リラダン。リラダンは日本では流行作家になっちゃったんですよ(笑)。やっぱり翻訳がとても良かったですからね。当時、岩波文庫でも出たりして、短篇も中篇もものすごくよく読まれた」(インタビュー「若き日の夢と文学」)。成程、リラダンは流行の名前であった。しかし迂回しよう。

誰でも知っている流行の名前を知らないでいる、という態度は、こうした誰もが知的な時代にあっては、単なる流行遅れとか非常識と批難してすむ問題ではないのかもしれない。――かう書き出すのは金井美惠子の、「私はその名前を、知らない」と題する短文である。「だから、人々は、当然のこととして誰でも知っているはずのことを知らない人物に、たまたま直面してしまうと、その人物を嘲笑するのも忘れて、肝を冷やしてしまう。」……

所で現在私は、肝を冷やしてしまふ事態にあちこちで遭遇させられてゐる。「私はその名前を、知らない」と答へる超然自若の態度を前に、既述した、私の小心翼々たる名前への打算なぞは、效き目を失つたかのやうな現状なのだ。

私がもし單に無知を嘲り蘊蓄を誇りたいだけならば、森田曉(幻想文學マニアならこの名を知らう)と同じく次の如き憤懣を述べることであらう。

私は今もってふつうヽヽヽの文学読者の知的関心のひろがりかたがよくわからない。たとえば、三島由紀夫の読者というのは日本に何十万人といるに違いない。ところが、彼らは、三島がくり返し、くり返し引用するコクトーにもヴィリエ・ド・リラダンにも何の関心も示さないらしい。その証拠に文庫本の棚を見てみなさい。一冊のコクトーもリラダンもないではないか。以前はあれだけ収録されていたのに。〔……〕しかも、この国の読者は作品よりも作家そのものに強い関心を持っているというのだ。

更に森田は「幻想文学の読者はそういった意識的〔ママ〕な無関心とは無縁であろうことを確信する」と續けさへする。ご尤も。

だが先の金井美惠子によれば「〔その事なら〕有名な小説のなかに書いているのにもかかわらず、と人々は憤然と思った後で、しかし、誰でもが知っているはずのことを何人の小説家が知っているだろう、と考えなおす。文学というものは、今時、流行遅れのものだし、流行遅れのことをやっている人間たちが――反時代的、などと言えば賞めすぎになる――何も知らないからと言って、驚くにはあたいしない」……云々。ここにヒントがあるやうだ

リラダンは、もはや流行遲れの忘れられた作家であり、故に人は「私はその名前を、知らない」と答へて憚らない、――と? いかにも。しかしそれだけではないのだ。讀者は、少なくとも森田曉の謂ふ幻想文學の讀者は、名前への無關心を恥ぢ、知的探求に乘り出すやもしれない。彼の名が通用されてゐた時代にまで遡つて文獻を漁ることも出來よう。だがなほ、一體何人がその名も高き「我等の偉大なるノートル・グランヴィリエ」(辰野隆)を知ると言ふのか。成程、文獻上しばしば彼の名が言及されてゐる。けれども專攻論文モノグラフに乏しく、斷片的で散見されるに過ぎない。稀に彼の事を論じた書を見ても、同義反復トートロジーが多く、表示作用デノテーシヨンに埋没してしまひ、彼を飾る名辭を入れ代へるばかりの所謂唯名的定義、それで知つてるつもりらしい。だから肝心の、知名度に伴ふ流行の實體が窺ひ知られることはあるまい。名無なありてじつなしとはこのことだ。それらはたゞ彼のを表示せるのみ。さうとも、あなたも御存知だ、あの・・彼ですよ、と。抑も、我らの・・・ヴィリエと言ふけれど、共に修得すべき名の内實が知らされぬとすれば、その・・彼を知る人(ここで人名は文獻の代詞となる)はゐないのだ。結局、誰もが彼の名を知つてゐるが、その「流行の時代」ですら、誰一人彼の事を知りはしないのではないか。

つまりリラダンは、今や・・流行遲れとなつたのではない。常に既に・・・・時代遲れアナクロであつた。中村眞一郎の若き日であれ、更に遡つてフランス本國での存命中であれ、さうなのだ。そして「忘れられた作家」とは何と素敵な冠稱! 彼の名をいや高くすること間違ひなしだ。事實、人々がその名を稱へるやり方を見よ。

ヴィリエ・ド・リイル・アダンはその生前に於いても、死後に於いても、斷じて人氣ある作家ではなかつた。恐らく、現代に於いても、なほ彼は道士の如く、豫言者の如く、世俗の讀者からは敬遠せらるる小説家の一人であらう。

――辰野隆選『リイルアダン短篇選集』「序」

ヴィリエ・ド・リラダンは世俗の人氣を博し得る作家ではない。人氣とか名聲とかいふものに惑はされ易い人々、常識的な、滿ち足りた、散文的な人々にとつて、リラダンは、せいぜい風變りな小作家に過ぎまい。さりながら、時流に惑はされぬ確乎たる審美眼を有する人々、「理想」を抱き「憂愁」に惱む人々、特に、「詩」を解する人々の眼には、リラダンこそ、凡百の作家を一擲するに足る偉大な作家として映じることであらう。この『殘酷物語』の翻譯がリラダンを愛する「幸福なる少數者」Happy fewの數を一人でも多くすることが出來れば、譯者の久しきにわたる勞苦は充分に償はれるであらう。

――齋藤磯雄譯『殘酷物語』新潮文庫版「解説」

研究論文には登場しないが、息長く、浮き沈みなしに読まれつづける作家、私などはそのほうにむしろ親近感を覚える。〔……〕/リラダンは、やはり、研究論文には登場せず、息長く、黙って、愛読者たちに読みつがれてきた作家だろうと思う。

――出口裕弘編『世紀末の箱』「解説――芳醇な黄昏」

……おわかりだらうか。御覧の通り、彼は「知られざる鬼才」として名を知られてゐるのだ。誰もが彼に無關心であればこそ彼の名が知られてゆく。時代後れなればこそ「反時代的」な聲名を保つといふ逆説。世に知られぬと嘆くほど反つてその名は高まる。誰も彼を論じないのは讀者が彼をよく知る證據。曰く、知る人ぞ知る。

かくて、かの「私はその名前を、知らない」といふ態度すら、やはり豫め定められた回答のうちに收まつてしまふ。その名を告げさへすれば、嫌ひ・讀まない・知らない・興味ない……如何なる反應にも肝を冷やしたり脅かされることなく、自個の見地を固められるわけだ。ヴィリエ・ド・リラダンとはさういふ名である。ここまでよく出來た名を、私は他に知らない。

實の所、リラダンはいかにもプチロマン派型のマイナー・ポエットではあるが、本邦の愛讀者たちが強調するほどに忘れ去られた存在とは謂へない。少數者エリートたる特權を自負したい愛好家マニア諸君には憚りながら、寫本で流通してゐるわけでもあるまいし、活版印刷の時代以降、小説は活字となつて廣く讀者大衆の目に晒されるもの。先祖歸りの限定版すら大抵百以上の多きを數へよう。好きな作家とて必ずとなりあり、自分だけのものにはできぬ。してみると、リラダンは有名作家ではないまでも、程よく・・・名を知られることに成功してゐるのである。知られすぎて俗議に塗れる程でもなく、無名すぎて誰にも語り合はれぬ程でもなく。後述するが、作品も亦、高蹈派を稱する割には意外と平俗な解りやすさでも讀ませてしまふ。全く、よく出來たものではないか。

むしろ、出來すぎ・・・・と言はねばならぬのだ。そこに氣附いてこそあなたはリラダンを知つたと言へる。どういふことか(やうやく本題に近づいてきた)。

名著アーサー・シモンズの『象徴主義の文學運動』(言ふ迄も無くこの中の一章が英語圈及び本邦にリラダンを知らしめた)は、かう書いてゐた。「生前から彼の生涯は一つの逸話になっていて、今になってすら、極めて英雄的な架空の人物のひきおこした実際の出来事と、それは引き離すことができない――然り、しば人は名を流す者らをまづ傳説の人物として知ることから始め、棺を蓋ひて後、眞の名に到達する。それは墓碑銘である。しかるに、彼が死して殘した名は餘りによく出來てゐるのだ。名にし負ふ彼の生涯をあなたも想起されたい。……ヴィリエ・ド・リラダン伯爵。屈指の名族の末裔にして(何せギリシア王位繼承權ありと名乘つた位)、その才氣は夙に若年詩友の認めし所なるも(マラルメ曰くまさに天才の登場だつた!)終に世に容れられず、轗軻不遇、落魄慘憺、赤貧に身を處しながら、なほ志は孤高にあり、實利と進歩を奉ずる世紀に在つて聊かも迎合することなく冷徹なる嘲罵もて之に報ひ、飽く迄誇るは魂の高貴、瑰麗なる夢想の徒として逝く……。彼の墓碑銘は、讀者の胸に刻まれた名は、まづこんな所か。更にこれを彩る插話の數々にも事缺かない。……貧窮の中、インク壺の殘滴を水で割り煙草の空箱の裏に『未來のイヴ』の草稿を書き綴つてゐた……精神病院に傭はれ、山師いんちき醫者が客寄せに「この患者は全快とまでゆきませんが大分治りました」などと宣傳する爲の贋狂人にせきちがひを演じたが、あるとき見物の前で自作の神祕劇『アクセル』を朗誦したら却つて重症のキ印と疑はれ、解雇された……等々、それ自體『殘酷物語』の一篇になりさうな話が本一卷を成すくらゐあるのだ。のみならず、リラダンのさうした逸話を紹介しつつボルヘスがかう附言コメントしてゐた。「世の習いとして、作家は、たんに記憶に残る名文句を数多く吐くだけでなく、寸鉄人を刺す警句を次々発することも要求される」。寔にリラダンは決め臺詞を數々生み、名優たるに愧ぢない。……宿も無く乞食ルンペン達と共に寒夜を明かす橋の下、地上パリの燈火を望みつつ、嘯く言葉は「地球といふ一遊星のこともたまには思ひ出してやらう」! それから引用頻度隨一、人口に膾炙したこの一句「生きる? そんなことは下僕共にまかせておけ」!……

かく右に記すだに、何とよく出來てゐることよ。貴族から貧士へ、物質主義對精神主義、冷笑と理想と、等、對照の妙は言ふ迄も無い。まるで何かの物語の登場人物であつて、殆ど實在の人物の事蹟とは信じられない。幾ら一世紀昔だと云つても、ロマン主義流行時ですら既にありさうもないほど餘りに陳腐ありがちな筋立てだ。こんな典型的すぎるお話を、うか眞に受けてはいけない。貧窮といふ逆手を用ゐ、死を性急な榮光に一變させてしまふ、周到な藝術・・。流石にマラルメだけは見拔いてゐたやうだ(但しマラルメらしく曖昧に)。

〔……〕以上のことは全て、得意と失意のないまざった身の上話に過ぎません。たしかに素適な話ではあり、すでにそれだけで書き遺すに足る主題だといえます。結末に墓が立っている一篇の珍しい身の上話。――だがどんな墓かと申しますと、重厚な斑岩と透明な硬玉、流れる雲の下の大理石、さらには新しい金銀、そういう墓石模様で装釘されたヴィリエ・ド・リラダン著作集にほかなりません。〔…中略…〕

ヴィリエこそ、一卷の〈作品〉として自らの生そのものを墓碑銘に向けて完成させた〈作家〉であつた。

いまやっと本来の完全な姿に復し、恒久性を帯び、現代にもかかる人物が居るだけで一事件といえる謎の人物の像がいちめんに刻まれている著作――今後ヴィリエ・ド・リラダンという名が喚起する著作ヽヽとはかくのごときものとなりましょう。

――マラルメ著『ヴィリエ・ド・リラダン』Ⅳ章より

つまり、死後彼に與へられた名は、彼によつて豫め刻まれた銘にほかならない。

まことに彼は、自己自身という台本を確信に満ちて演ずる優れた役者でした!」(マラルメ)。この臺本では、通例まづ彼の由緒ある出自を誌す。十一世紀に起源する舊き家系、祖先の赫々たる名前の數々。……英佛百年戰爭時にパリ奪回に力めた元帥ヴィリエ・ド・リラダン……エルサレムの聖ヨハネ騎士團の長・有名なトルコ軍包圍下のロードス島防禦戰の勳功者となり初代マルタ島勳章騎士・十字軍戰士たりしヴィリエ・ド・リラダン……。かういふ名門の矜りを背負つて生れたからには近代の凡夫ブルジョワたるは望めない。マラルメによれば、わが伯爵はこんな臺詞を洩らしてみせたりもしたと云ふ。「全く以ておれには萬事を厄介にしてしまふ名がついてゐるんだなあ。――それにこの名前はきつと呪はれてゐるにちがひない! 昔おれの先祖の一人が大膽にもジャンヌ・ダルクにちよつかいを出さうとしたことがあるものでね」と。かくて若き貴公子がパリに現れたのは、曰く「一門の輝かしい家名に、現代において眞に高貴な唯一の榮光、偉大な作家ヽヽヽヽヽといふ榮光を加へる――そんな大志を抱いて」だつたさうな。又曰く「自分の名といふ一語を以て全てを征服すべくやつて來た者」(同マラルメ)。おわかりだらうか。ヴィリエ・ド・リラダンといふ〈作家〉は、誰よりも、何よりも、徹頭徹尾、名といふものに關はつた存在なのであつた。これ亦、本稿のを説く所以である。

あなたは、今や既に、齋藤磯雄の次の如き評言の過ちを知つた筈だ(言ふ迄も無く齋藤の名は、リラダンの名譯者にして『リラダン』の著者たりし專門家代表を意味する)。曰く、

もし、名聲とか榮譽とかいふものが、ヴァレリーの言ふやうに、「他人の眼の輝きといふ贋の寶石」にすぎぬとすれば、リラダンほどこの贋寶石を蔑視した者はあるまい。「無關心こそ、わが欲する唯一の讚辭」と歌つたこの精神的貴族主義者は、その望み通り、生前も死後も、一般の人氣とは殆ど無縁である。しかしリラダンは少數具眼者の嘆賞をあつめる點に於ては決して人後に落ちない。〔……以下略〕

――「リラダン管見」『隨筆集ピモダン館』より

さうとも、齋藤磯雄は正しい。作者の意圖どほり讀解して上げてゐるのだから。即ちこれを別名、思ふ壺にはまる、と云ふ。見事に瞞着されて、しかも自分は「少數・・具眼者」氣分、かういふ人々が多數・・聚まつてリラダンの名聲を高めるのに加擔してしまつてゐるわけだ。「少數具眼者の嘆賞」だつて?――さうとも、ワグナーに賞讚され、マラルメに「グランヴィリエ」と呼ばれ……頽廢デカダン文學の聖書・ユイスマンスの『さかしま』の中で特筆され……アナトオル・フランスやグウルモンなど名だたる鑑識家は佛蘭西第一流の名文家と折紙をつけて……やがて大批評家チボーデが「フランス文學中最も偉大な散文詩人の一人」と……ジイド曰く「ヴィリエ萬歳!」……云々。成程、事實だ。但し、さう言ふ姿勢を一名、權威主義と云ふ。「蔑視」するどころか、えらさうな名前を出されるのに弱い。だが――抑もその崇めるものが「贋寶石」に過ぎぬとしたら? さうとも、なぜか愛讀者諸氏には無視される事だが、實は我らがグランヴィリエは彼がさう思ひ込んでゐた程に高貴な血統の子孫ではないらしい。考證によると系圖に疑點あり、好んで廣言された立派なご先祖の名は、何代か前のヴィリエが自分の名前にリラダンの領主達の名を加へた結果らしき由。あんなにも彼がこだはり、いまだに彼はそれ拔きでは語られぬ名が、虚名であつた!――否、失望する勿れ。それでこそ「精神的・・・貴族」の名に見合ふものではないか。さうとも、この際はつきりさせよう、彼ぞ虚名のために死せる者、それだから彼は偉大な作家・・・・・なのだ、と。

皮肉に聞えるだらうか。私は眞面目である。リラダンは單に夢想家ではなく、同時に、嘲弄する皮肉イロニーが本領だとは定評であつた筈。「このような、真面目で辛辣な悪ふざけ……」(ユイスマンス)。煙に卷くミステイフイカシオンと謂つても良い。これに學ばずして、一體彼の何を讀んだ・・・と云ふのか。虚名で結構、否、現實と合はぬ虚名こそ、皮肉アイロニカルな夢想家には相應しい望みだ。「蓋し、この理想主義者は、道化においてしか理想主義者たることはない」(アーサー・シモンズ)。名利を蔑視しつつ却つて名聞にとらはれた彼の愛讀者諸氏よ、一遍マラルメの追悼講演を再讀されたし。マラルメは、亡き親友の「咎めらるべき点」として「なるほど紋章で飾られるほど由緒正しいものには違いない彼の高貴な身分を、自分ひとりだけで思想を産み出すことができるというもうひとつの比類ない支配権から、ついに分離しえなかったこと」を擧げてゐた(『ヴィリエ・ド・リラダン』章)。だから榮えある家名なぞ虚名で結構、「伝来の家宝や祖先の威光など夢幻ゆめまぼろしにすぎなかったとは言え、悲惨な生活に耐え、精神の偉大さを発揮したのは、れっきとした事実だからである」(マルセル・シュネデール『フランス幻想文学史』)――そして文學史が認めるその生活の事實でさへも、自己韜晦ミステイフイカシオンが産み出した虚名として讀む・・べきものなのだ。なぜなら人々の謂ふ所、我らが偉大なる幻視者ネルヴアリアンにとつては夢だけが唯一の現實であり、一切の生の現實は存在しなかつた、筈だから。

彼の生活――私はこの言葉にみあうような事実を何か探そうとは思いません。実際、尋常の意味で、果して彼は生活したことがあったでしょうか」(マラルメ)。名高い彼の窮乏生活、悲運の人生、貫く詩魂、反俗精神。それらを語る言葉は、あつらへたみたいに餘りによく出來すぎてゐる。お定まりの筋をなぞつて、彼の生は隈無く虚構の物語と化され、實地に生きる餘地は些かも殘らない。「生きることか。それは召使共がやつてくれよう」!

名無なありてじつなしとはこのことだ。常に既に、どんな生活の斷片も芝居掛かつた外觀を呈して一物語上のしかるべき指定席を得てしまふ以上、彼の全ては虚名として傳へられ、虚名を不在證明アリバイとして、その裏には如何なる實人生も無い。謂はばミスティフィカシオンの煙幕を張り、いかにも奧に何かありげに見せかけておいて、實體は煙の中へ雲散霧消した氣配だ。人がありもせぬ正體を探るならえたいが知れぬぶん過大視され(所謂端倪すべからざる才)、虚名いよ高し。

〔……〕彼を知っている者には彼はまさに天才であった。実際、一行も彼が書かなかったとしたらそう思われただろう。というのも、熟考に熟考を重ねたものすべてを既にやり遂げたように見える一個の個性の危険な才能を彼は有していたからだ。

――アーサー・シモンズ『象徴主義の文学運動』より

實を捨てても名を取つた彼だ。有名無實は必然であつた。

してみると辰野隆はやはり賢明だつたのかも知れない。見事に實質を伴はぬ、讀者を瞞すが如き語り=騙りミステイフイカシオンの一文があるのだ。隨筆『信天翁の眼玉』は各篇通して無題で代りに初出の年月を掲げるのみだが、「千九百二十年十一月」は珍しく「ヴィリエ・ド・リイラダンに就て」といふ題名が附けてある。更に「序論兼結論」といふ小見出しのもと、述べる本文はひたすら得意の與太咄である。即ちミスティフィカシオンの實例として、人を喰つたやうな話ばかり紹介し、その如何なるものであるか讀者に合點がいつた所で、「僕が、これから論じて見たいと思ふリイラダンも亦偉いミスティフィカトゥウルであつた」と言ふ。そして「以上で僕はリイラダンに關する序論兼結論を述べ終つた。次號から本論として、彼及び彼の作物に對して見ようと思ふ」と結ぶのだ。しかしその「本論」は、未來永劫つひに一行も書かれなかつた。『信天翁の眼玉』はそれが連載最終回だつたのである。有名無實、羊頭狗肉とはこのことだ。――が、もしも意圖したとほりなのだつたら? 辰野の小論はそれ自體讀者を煙に卷くMystificationで、そのリラダンの個性を見拔けること既に長々しき論考を書き遂げた者に劣らない……と、讀めぬでもない。如何。

見れば、文獻上リラダンの名を出すもの、大抵考察も斷片的で稀に至言の句あるとも俗論に埋まり、殆ど内容空疎である。求める所の、己れの讀後感を名状すべき言辭ことばを與へられず、讀む者は失望する。しかしご本尊のヴィリエが虚名の追求者たる以上、それも必然であつた。辰野隆の場合、その文章の巧まざる(?)皮肉イロニーゆゑに、きたるべきリラダン論を豫示して見せたわけだ。書かれざる本論の代りには、のち弟子渡邊一夫による邦譯刊行の折、書評二篇が記された。「リイラダンの『人造人間』」及び「トリビュラ・ボノメを如何に讀むべきか?」である。『未來のイヴ』評たる前者こそ、既に本稿の初めで引用した『續・忘れ得ぬ人々』の一篇、名前をめぐる儀式の幸福な一例であつた。もはや我々は、リラダンの名が出たら、あゝあの・・、と既知の人物を語る如くうなづき合へばよい。否、實際にそれを行はずとも、さういふ名の儀式を讀んで知つて・・・・・・ゐればもうよい、すべて成し遂げたも同然だ。かくして知る人ぞ知る。

南條竹則『虚空の花』が出たのはその爲である(やうやく話が戻つて來た)。この小説形式による『未來のイヴ』の批評は、かつて行はれたリラダンといふ名をめぐる儀式を今日に再現する、その爲の、一册の臺本だと言へよう。又「『未來のイヴ』を如何に讀む・・べきか?」の一つのお手本と云つてもよい。『虚空の花』は岩原と榊といふ二紳士の談論風發で全篇を進めるが、そもこの兩人の知友となりし契機なれそめが名をめぐる出會ひにあつた。大學の頃ある讀書會で偶々『未來のイヴ』が話題に上つた時、居合はせた中、二人だけが「この、文学史の片隅に忘れられた物語」をちゃんと讀んでゐたのだと云ふ。先の辰野隆とルネ・ギルほど劇的でないにせよ、これ亦何と幸福な青春の邂逅であるか。名の功徳、思ひ知るべし。しかしながら、所詮この兩名は小説中の登場人物に過ぎない。今時、リラダンの『未來のイヴ』で現實に論議する人間がゐたらお目に掛かりたい。恐らく岩原と榊とは作者南條の希望する人間像であつて、即ち現實に於る失望の裏返しネガと思はれる。

實際、一體何人なんぴとが『未來のイヴ』を讀む・・と言ふのか。現在、渡邊一夫譯の岩波文庫版は久しく品切である。絶版本として古書肆の棚奧で値を上げてゐる。齋藤磯雄個人譯による『ヴィリエ・ド・リラダン全集』はあるが、本屋で親しく見かけるものでもない。それに全五卷各卷大枚八千圓はするものを誰が不見點みずてんで買ふだらう。圖書館なら無料だ。それでも、作家の固有名詞しか表記せぬ個人全集を、いきなり棚から引き出す一見さんは居るまい。況んや偶々『未來のイヴ』を收める第二卷に見入る者など。つまり、今日『未來のイヴ』を讀む者は、誰しも讀まずして事前に内容を知つてゐる。既に作家名や作品名を何かで豫め讀んででもなければ、全然見當もつかぬ名の全集本を、どんな物好きが手に取らうとするだらうか。だから、何も知らぬ無垢な讀者が偶然目にした本を開いて一讀感嘆、などといふ幸福な出會ひはリラダンに限つて條件上まづあり得ない。初めに名ありき。次いでその名がかきたてる樣々な觀念、期待を込めた先入主。そして最後に――ロラン・バルトによれば、「豪奢な記号表現から取るに足らない記号内容へ向かったときの失望のすべて」。即ちバルトによれば、名前についてひどく失望することを學び、しかるのちこの失望を逆にたどるヽヽヽヽヽことで、〈テクスト〉の觀念へと遡る事ができるのだとか(バルト「ピエール・ロチ『アジヤデ』」)。要は、讀みながらつい眞實を讀み込む深みにはまらぬやう常に名の方へ向かつて浮上する心得と見た。結局ここに於て、讀む・・とは既知との遭遇だ。常に既にどこかで記されたその名を、紙上でなぞり返し、確認するために讀む・・のだ。

南條竹則『虚空の花』はその爲の本だ。『未來のイヴ』の内容紹介と讀解のみならず、作者リラダンを紹介して「憂い顔の騎士」と題する一章まである。さて首尾よく、岩原と榊とに託されたやうな、あの名・・・をめぐる儀式を復活させることができたかどうか。管見では、これまた名をめぐる儀式たる書評に於て、南條と『虚空の花』の名が擧がつたのは三例に留まる。うち一例はただ名に觸れて一言したに過ぎない。『幻想文學』誌の新刊展望だが、曰く「〔……〕評論を小説形式で繰り広げたもの。大学の紀要論文がみんなこういう調子で書かれていればおもしろいだろうになあ」。かう云ふ凡愚の讀者がゐるから批評は認められず、〈作家〉と云へば小説家だといふことになるのだらう。現に『虚空の花』は小説としては取るに足らない物語しかなく(失望すると言つてよい)、謂はば小説と見せかけておいて實は批評をやつただけだ。この事情に(今更)氣づいたのが鹿島茂の書評だつた(言はれてみれば鹿島の名は、リラダンの名をめぐる儀式に參入するのに似付かはしい存在だ)。そして『虚空の花』を評すれば、それが『未來のイヴ』をめぐる議論になることまた必然である。まう一例の書評もさうだつた。儀式は、小規模ながら再生されたやうだ。

鹿島茂の書き出し部分は、肝所かんどころを的確に名指し得てゐた。

ヴィリエ・ド・リラダンの『未来のイヴ』は退屈な観念小説である。しかし、小説そのものは、退屈な観念小説以外の有り様を持ち得ないという意味において、決して退屈ではない。つまり、観念性をギリギリまで煮詰めて自らにふさわしいフォルムを探したら、これしかなかったというその徹底性が、読む人をして、物語において退屈させながら、観念において興奮させるのである。

――鹿島茂「リメークはお手本を越えたか」

いかにもその通り。リラダン本人は序文で「形而上學的藝術作品アール・メタフイジーク」と稱し、人によつては哲學小説とも呼ぶが、『未來のイヴ』は「觀念小説」といふ名を冠するのが最も當を得てゐると思ふ。觀念小説と云つても、日本近代文學史上の例の泉鏡花「夜行巡査」川上眉山「書記官」だのを想起されては困る。そこで今一例、『虚空の花』の書評を見てみる。評者の佛文學者は(野村正人と言ふが、私はその名前をよく知らない)どうも鹿島茂を讀んでゐたらしく、口を揃へて『未來のイヴ』を「退屈」と斷じてもゐるが、觀念小説とは言はず「観念的な小説」と言ひ直してゐた。

例へばリラダンに就て、アーサー・シモンズが命名した「理想主義のドン・キホーテ」といふ稱號は有名だ。しかし理想主義といふ語は白樺派めいた樂天家おめでたきひとを感じさせ、この「憂ひ顏の騎士」の「智慧の悲しみ」にそぐはない。Idealismイデアリスムといふ語は道徳的な「理想主義」ではなく、いつそ哲學的な「觀念論」と譯すべきだつた。唯心論と言つてもよい。又、意志的錯覺主義イリユージオニスムと云ふ人もある。どういふことか。

よく云はれる如く、リラダンは十九世紀近代社會の實證科學や物質主義に對抗する爲、ヘーゲルの觀念論哲學に學んだ。尤も、確かチボーデはマラルメがヘーゲルを讀破したなんてはつたりミステイフイカシオンだと斷じてゐたから、マラルメにヘーゲルを教示したヴィリエもどれほどちやんと讀んだ・・・か疑はしい。彼の名は常に何か他の彼より高名な名をセットにしてはつたりを利かすのだ。ほかバークリー等の影響も云はれるが、ともあれ、彼はヘーゲルの所謂「精神」が氣に入つたらしい。その説く所によれば、人が知覺してゐるのは所詮主觀の投映であり、すべて外的世界は實在せず幻覺イリユージヨンである。とすれば、精神こそが萬物を産み出すのであり、もし精神に或る事を現實リアルと意識させたなら、それが非現實であらうと既に存在したも同然である。かくて彼は、殆ど現象學的な獨我論にまで考へを煮詰めた。かうした觀念論的な思想がしば作品に表現されてゐるのだ。「クレール・ルノワール」、「ヴェラ」、「つぇ・い・ら綺談」……『未來のイヴ』も亦然り。作中人物が觀念論的な議論を交はす所、哲學のプラトン的對話篇の趣きでもあらうか。

だが誤解するなかれ。『未來のイヴ』が皮肉にも「退屈」な觀念小説と評されるのは、單に右のこちたき觀念論の長廣舌を指して退屈だと譏るのではない。それでは丸でフローベール『ブヴァールとペキュシェ』が記述する百科全書的知識が退屈だと言ふやうなものだ。さうではない。觀念論の談議とは別に、更に退屈でありながら魅力ある觀念のドラマがあり、それが讀む者に觀念の興奮を味ははせてくれる。だから『未來のイヴ』は觀念小説だと言ふのだ。鹿島茂の言ふ通り、その觀念アイデアをぎりぎりまで完璧を期して一箇の物語として具現させた所に、「觀念的な」退屈さも興味もある。さういふ意味において、『未來のイヴ』はリラダンの觀念性を能く代表した作なのだ。よつて讀む・・べきはその・・觀念にあり。

所でヴィリエ・ド・リラダンを代表する作と言ふ時、ふつうまづどんな名が擧がるだらう。『未來のイヴ』か。又『アクセル』か。それに『トリビュラ・ボノメ』を附け加へるか。だが何より、彼が我らのヴィリエとなるのは、まづ『殘酷物語』刊行後のことであつた。この短篇集をまとめてからの晩年わづか六年、主要な著作はこの間に次々書物となつて出揃つたのであり、生涯の流謫をあがなふには短かすぎ迫る窮死を癒すには遲すぎたとはいへ、〈作家〉としての時が訪れようとしてゐた。とはつまり、初期詩集や戲曲は論外、『未來のイヴ』や『アクセル』を指名するさへ大作重視の文學史的因習に囚はれたこと、その名を刻んだ代表作第一は『殘酷物語コント・クリユエル』なのだ。現に「殘酷物語」なる語は、彼の短篇集の固有名詞としてでなく、普通名詞として彼を知らぬ人々にも流用されてゐよう。彼は、本質的に短篇作家なのだ。しかもその一方の極として引き合ひに出される程。篠田一士が短篇小説の凋落を跡付けて曰く、

〔……〕短篇小説は、それこそ、「私小説」的な身辺雑記風の非文学性のなかにおちこむか、あるいは、リラダンの短篇小説のように、不毛な審美性を、いたずらに肩肱張った孤高のなかに曝すことになる〔……〕。

――集英社版『世界の文学 9 ボルヘス』「解説」

短篇小説とはそも何。そんな根本問題から縷説してゐる餘裕は無いから、宜しく石川淳『文學大概』「短篇小説の構成」を一讀されたい。で、その短篇コント作家がリラダンの本質だとは、どういふ事になるのか。例へば出口裕弘はかう評してゐた。

リラダンは、話つくりの名手である。〔…中略…〕

『残酷物語』に収められた短篇小説から、リラダンの孤高、神秘主義、夢幻への傾斜、苛烈な風刺などを抽出するのは自由だが、それよりも前に、どの小説も、孤独な詩情や現世拒否の観念で流したりせず、一つ一つ、「譚」としてきちっと構築されていることに感嘆すべきであろう。

――澁澤龍彦文学館 8』「解説――芳醇な黄昏

よく出來た短篇コントは、しば不毛な人工美を徹底し、出來すぎた話になる。各篇ごと、多彩な概念コンセプトに相應しい形態フオルムをまとはせ、そのフォルムたるや、觀念の枠組が透けてみえる程まで磨きぬかれるから、いつそ單純明快みえみえ、平俗な解りやすさで讀めてしまふ。されば讀者も、孤高・神祕・夢幻・諷刺など主題モチーフを自在に抽出できて容易に批評家氣分、そこで知的快感も味はへる次第。リラダンの屬する系譜としてポオ・ホフマン・ネルヴァル・ボードレールの名を連ねるのが常だが、かうして見ると「構成の原理フイロソフイー・オブ・コンポジシヨン」の詩人の影響いかにも大である。けれどもポオはその中で「第一に考ふべきは長さ」と告げなかつたか? それ故に本來短篇作家たる者が、『未來のイヴ』といふ長篇の作者たらんとすれば、――どういふ事になるか。

短篇作家リラダンに就ては、渡邊一夫がかう書いてゐた(言ふ迄も無く有名な佛文学者の渡邊は、『ヴィリエ・ド・リラダン覺書』も著はし、齋藤磯雄と共にリラダンを語る雙璧だつた)。

リラダンが湧き上がる想像力を制御し得なかったと称する人々は、〔……〕リラダンを讃美するつもりでも、彼を全く誤解していると言わねばならない。むしろ、冷静な計画と自己客観化とが行われていたと見なければならないと思う。また彼の文体には流れるような自然さがなく、どちらかと言えば金属的な硬さが目立つと評せられるのも、そのためではあるまいか? 

――渡邊一夫「ヴィリエ・ド・リラダンの短篇について」

それとて短篇コントなら美點のうちだ。が、その調子で一塊ひとかたまり觀念アイデアを長篇に仕立てようとすれば、成程「退屈」ならざるを得まい。短篇を書く場合、肝心なのはアイデアと出來ばえである。書くに先立つて、豫て頭の中で設計濟の構築物があり、あとは首尾よく紙の上に寫してこれに形相を與へんと、しかるべき字句を探すばかり、もはや出來たも同然だ。かくして彫心鏤骨、珠玉の名品が拵へ上がる。短篇作法に於ては、常に初めから結末は見えてをり、ただ未だ實現されてゐないだけのこと、結局既に自分には判つてしまつたものをわざ反復するのだから、不毛だ、退屈だ、と言はれるのだ。缺點は、長篇になると明白に曝される。先師ポオが「いわゆる長篇詩は、実際は短詩の連作、いわば短い詩的効果の連続にすぎない」(「構成の原理」)と斷じた如く、リラダンは長編小説を短篇コントの連なりとしてしか書き得なかつた。『未來のイヴ』も正に然り。まづ目次を讀む・・と、全六卷、各卷五〜十九章にて構成される。章と云つても他の本なら節と數へる長さだが。更にこの各章は一々章名と共に題辭エピグラフさへ掲げ、丸つきり彼の短篇の樣式に則つてゐる。察するにまづ一塊の短篇(の概念)が機能を單位として分解され、文中でしかるべき效果を受持つ語句の部分が各一章とされ、その與へるべき效果を讀者にぎりぎりまで完全に傳へるため各語句は一章の長さまで書き込まれた、といふ氣色だ。丸で自分で自分の分析批評をやつてゐるにちかく、微に入り細を穿つて述べてあるが(バルト『S/Z』みたいに?)、結局は、長篇全體は一箇の短篇を平べつたく打ち伸した代物なのだ。結構つくりは見事だが、間延びしてしまふ。

たとえばリラダンは人造人間ハダリーの瞳やら肌やら髪やらの組成を、あるいは幾つかのパターンに還元しうる人間の言葉、身のこなし、精神のあり方を、物語の経済をまったく無視した執拗さで具体的に描いている。いささか辟易とするこうした描写のありようが、『未來のイヴ』を果てしなく退屈でありながら不可思議な魅力を持つ作品に仕立てあげているのだ。

――野村正人「原著への渇きを喚起する批評的作品」

右の言は概ね正しい。但し訂正しよう。魅力は「描写のありよう」にではなく、その裏に見える觀念・・にある。微細に亙る敍述は、腦裡に抱かれた觀念上の效果を具現する爲なのだ。未だ形を成さぬ觀念を實在せしめんが爲、その反映となるぎりぎりまで完全な名辭ことばを與へようとした結果なのだ。謂はば夢想の暗がりを分析的知性の光で明るみに出し、姿をペンでなぞらせたもの。但し、效果は持續に限度ある以上適度な短さを要すとはポオも説く所、『未來のイヴ』程の長さとなれば效果が散亂し、物語全體でもつ印象の統一が犧牲になる。が、そんな結果はまあいいのだ。そこに讀む・・べきは觀念である。本文テキストは觀念を表明する口實プレテキストにすぎない。物語の退屈さに失望するのでなく、裏で支へる觀念へと遡ること。ひとたび觀念を捉へ得たなら、あとは演繹によりしかるべき必然の結果が見え、もはや〈作品テクスト〉は讀む・・者の想念中で出來上がつたも同然である。表現された思想内容のみならず、表現してゐる思考形式フオルム・方法が、「知的刺戟」といふやつを感じさせる仕組みだ。それは觀念的だと言ふのならば、正にその通り。リラダンは『未來のイヴ』に於て長篇作者たることに失敗してをり、反つてそれ故に『未來のイヴ』は、皮肉にもこの短篇作家の觀念性を能く代表した傑作・・となつた。

『未來のイヴ』に讀む・・べきは觀念である。讀む者がたどるその・・觀念とやら、ではどんな觀念なのか。

登場人物がまづさうだ。生きた觀念、つまり人間的典型の化身なのである。主人公はエディソンと名づけられた。あの・・名高き發明王、「蓄音機の父フオノグラフス・パパ」等の異名をもつトマス・アルヴァ・エディソン氏である。されどこれ、實録小説に非ず。初め序文で作者が斷つてゐるやうに、當時このアメリカ人は一般大衆の想像裡に生前から一個の傳説中の人物となつてゐた。である以上、彼はもはや人類文學の一員だ。即ち曰く「本書の主人公は、何よりも先づ、《メンロ・パークの魔法使》その他の渾名で呼ばれる人物であつて、――我々と時代を同じうする工學技師エディソン氏ではない」と。同樣にリラダンは『殘酷物語』中「ポートランド公爵」の自註でも斷り書きを附けてゐた。「物語の骨子と細目のおほよそとはもとより史實に據れども、人物のひととなりに至つてはいささか作者の修正に出づること言ふをもちゐず。作者は事のあるべかりし次第・・・・・・・・・・を敍したればなり」(石川淳譯)。現實に先立つてまづ名があり、その名の表はす觀念が、現實以上に純粹なあるべき姿を與へられる。『未來のイヴ』の「エディソン」は「天才科學者」の理念型イデアルテユープスなので、當然、現實の存在とは隔たりがある。リラダンの夢想する人間像なのだ。

〔……〕一八八九年、パリの万国博を訪れたさい、エジソンはヴィリエのこの小説のことを知った。一気に読みおえた彼は、こう語ったという。「この男は私より偉大だ。私にできることは発明にすぎない。この男は創造する」。〔……〕

――J・G・ハネカー「ヴィリエ・ド・リラダン」

これまた出來すぎた插話エピソードであるから、我々としては、發明王の讚辭を皮肉イロニーと見たい。創造と云ふは、畢竟空想の産物に過ぎないの意だと。むしろ次の如き逸話こそ、現實と隔たりある事情を能く示してゐて愉快な位だ。第一、ずつと現實味がある。

ヴィリエ・ド・リラダンが傑作「未來のエヴ」の中に、エディソンの「假想物語」と呼ぶことの出來るものを書いた。エディソンはその記述を愚の骨頂であると思ひ、そして三頁も讀むことが出來なかつた。

――アルベール・チボオデ『ベルグソンの哲學』より

我々は既に目次も序文も讀んだ・・・。だから三頁よりは讀み進められるだらう。そこで頁を繰ると、本文に入る前の扉に「夢見る人々に/嘲笑ふ人々に」と獻辭してある。言ひ換へれば、夢想とイロニー、抒情リリスム諷刺サテイールの共存。リラダンが相對立するものを兼ね備へた異才として知られる所以だ。ただの夢見がちの詩人だつたら、甘つたるくて讀む・・に堪へない。ユゴーらロマン派による天才と巨匠の季節が過ぎ去りつつある十九世紀後半以降、既に時代遲れな「藝術家」たらんとする者、常にそれと自覺して自らを演じねばなるまい。承知の上での空とぼけ、これはイロニーの原義だつた。ヴィリエはボードレールからイロニーの衣鉢を繼ぎ、マラルメは純粹詩のそれを繼いだとは文學史的常識なる由。この特色あるが故に、群小詩人マイナー・ポエツツと違つてうまく名を殘せた。「冷静な計画と自己客観化」(渡邊一夫)。反語イロニーで以て時代に叛逆する諷刺を突きつけ、ゆゑに反時代的な聲名を保つた。又、イロニーの精神が、先述の觀念的な批評性を備はらせた。つまり右の獻辭「夢見る人」「嘲笑ふ人」はリラダン自身に冠せられる異名であつて、讀者にあの・・グランヴィリエを讀む・・のだといふことを想起させる標識なのだ。我々は、文學史上に於る「ヴィリエ・ド・リラダン」といふ名をもつ觀念――その内包は最早あなたも了解濟の筈――の具現を讀む・・わけだ。

次に頁を捲ると、いよいよ本文が始まる。しかし一體何人なんぴとが『未來のイヴ』(といふ名の小説作品テキスト)を讀む・・のだらう。今時『未來のイヴ』(といふ名をもつ書物)を繙く程の人は、必ずや讀まぬうちから何か既に知る所ある筈。さうでなくて誰がこんな古典的名作を讀まうとするものか。即ち古典とは、或る定義によれば「誰もが知つてゐるが、誰も讀まない本」(マーク・トウェイン)だ。さうとも、人は讀まずして有名な書物を知つてゐる。文學史、文藝批評の效用であらう。人はそこで樣々な名を憶え、夫々の名が體する觀念を修得してゆく。よく何々主義とか云ふ文學流派などもそれだ。だが『未來のイヴ』は、ここでも觀念的なのだ。それは地上に實在した派閥に屬さない。と言つて、何も古今獨歩の孤絶作には非ず。飽くまで人々の頭の中で概念上想定される或る種の觀念の系譜――觀念史ヒストリー・オブ・アイデアズ――の一つに屬してゐるのだ。蓋し、人類の精神が讀んだり書いたり考へたりして來たあれやこれは、何か或る觀念イデアの自己展開した跡と假定・・した時、急に脈絡がついて見えてくる事がある。その色々と假設される單位ユニツト觀念の一つが、『未來のイヴ』といふ名をもつ形を取つて、自己展開の一端を現はした如く見られる次第。で、その・・觀念とは、どんな名で表はされてゐたか。

大きく括るなら、まづ人形愛の系譜と云ふ。この語は澁澤龍彦の命名に係る。それこそ神話のピュグマリオンの昔から、人形ヒトガタに託された人間の精神の活動があれこれと見つかる。それらを目して澁澤は人形愛ピグマリオニズムと名づけた。その觀念をたどつた跡が『人形愛序説』と題名する書物だ。今や「人形愛」「人形綺譚」等の題で特輯する雜誌すら出てゐる。既にこの觀念は名指しうる物となつて人々の意識に存在したと覺しい。愛だけではあるまいから人形幻想と言つてもよい。『未來のイヴ』はその觀念の系圖上、缺かせない名前の一つに入れられてゐる。しかし勿論、かつて地上に人形愛派や人形主義者同盟を名乘る人々が實在した事は無い。ただ、色々な時代に色々な人が人形に關して精神を働かせたり働かせなかつたりし、たまたまその結果として人形を扱つた作品が文學などにも殘つた。それを讀む・・者が、假に例へば、或る一觀念をお題目テーマにした文學運動のやうなもの・・・・・・を想像して、その現はれの一つとして讀む・・としたらどうか。又は、一人の・・・作家(その名は人類精神)が同じ主題を樣々な變奏曲ヴアリエイシヨンにして夫々別の名前で發表すると考へてもよい。すると、その觀念を體現した(と想はれる)作品がそれからそれへと見つけられる。無論これは觀念上の操作に過ぎない。否、これ程判然はつきりと觀念されもしまい。だが、かうした讀む者がひとり抱く漠然たる一想念に、澁澤龍彦は例へば「人形愛」といふ名稱を與へ、その意味する内包を名状し、外延に該當する作品名を列擧し、明確な形で觀念を具現させ、今や、この觀念は讀者の間に共有物の如く存在するに至つた。それと同樣、『未來のイヴ』とは人形幻想に屬する觀念を具現させるものなのだ。謂はば『未來のイヴ』といふを以てイデア界から或る觀念イデアを喚びだして形を與へようとする企てだ。

『未來のイヴ』を讀む・・者は、豫め知つた或る觀念の現はれをそこに讀む・・。それ以外の讀み・・は條件上あり得ない。その觀念は、まづ大きくは人形幻想の項目より派生する。人形ヒトガタにも色々あるが、「未來のイヴ」は、その名に相應しく、科學の時代が産んだ機械式の自動人形として、しかるべき形を拔け目なく具へるだらう。……ここで、作者が幻想文學史上ポオ、ホフマンに連なる名前であることから、ポオ「メルツェルの將棋差し」ホフマン「砂男」といつた題名がすぐ想起されよう。又『未來のイヴ』は科學小説の先驅としてSF史に名を留めてもゐる。中でも、シェリー夫人の名を筆頭に掲げる所謂フランケンシュタイン・テーマ、人造人間ものの系列だ。チャペック『R・U・R』からアシモフらに至るロボット史に於ても、アンドロイドといふ語の初出例として名が擧がる。されば先頃出た『サイバネティックSFの誕生』とかいふ評論では迂闊にも言及が無かつたが、そのやうな題目で書かれるべき・・本には當然記さるべき資格をもつ名だ。SFなぞ文學にあらずと云ふ人には、少々ひねつて、かの現代文學の旗手トマス・ピンチョン提唱する所の「ラッダイト文學」といふ名稱で如何。否、文學ジャンルにばかり執はれる勿れ、技術テクノロジー史上のヴォーカンソンに代表される工匠達の作品、思想史上ではラ・メトリ『人間機械論』からノイマンのオートマトン理論まで含む流れ、映畫なら『ゴーレム』『メトロポリス』に『フェリーニのカサノヴァ』等があり、脱領域的に、聯想は盡きまい。これらの聯想=觀念聯合は、ミッシェル・カルージュの「獨身者の機械マシーン・セリバトウール」といふ觀念アイデアによつて名簿臺帳が作られ、その核となる一聯の心像群イメジヤリー主題批評風テマテイツクに抽出されるに至つてゐる。『未來のイヴ』がその觀念の代表的作品きはめつけとして『独身者の機械』に名簿登録リスト・アツプされてゐること、御存知の通り。それにカルージュの造語からかのドゥルーズ=ガタリの「機械」概念も發想された由、するとリラダンの長篇こそが所謂「文學‐機械」の裝置である、のかも知れない……。他、まあ何とでもお名づけあれ。それらしき名札レツテルは幾らでも當て嵌まらう。

おわかりだらうか。ここでもリラダンは見事にその名を流通させることに成功してゐるのだ。『未來のイヴ』の功績は、早晩誰かに書かるべきその・・觀念に名を與へたことにある。あとはもう内容は問はない、名に沿ふ適當な物語を作ればよいだけ。但しそれが人の記憶に殘る爲には長篇でなければならない。一定の頁の厚みを具へた量により、中味を讀まぬ人々にさへ印象を留められるからだ。ひとたび書かれて、觀念が書物といふ形で物證的事實・・となつてしまへば、最早人々は内容に立入る迄もなく、ただ名を以てそれらを手輕に言に上すことができる。逆に言へば、さうした條件に見合ふやうに作品を書いたのがリラダンの功績なのだ。謂はば現象界を隈なく網羅する名前の大いなる連鎖にあつて、名と名との結び目にいかにも相應しいしかるべき形相をまとふことで、占められるべき空間スペースにすべり込むのだ。その際、確かな實質など無い方が幾通りもの虚名がつけられるといふもの。決して單獨で超然と輝く星にあらず、常に四方から交錯する名前の群れと共に讀まれる・・・・・・ことで光を増し、星座配置の中にあつてこそ他との差異を發揮できるのだ。

そのやうなリラダンの『未來のイヴ』を讀む・・爲に、ここで『殘酷物語』の一篇「榮光製造機」を引いておくのが適例だと思ふ。理由は、この短篇コントが「天空廣告」等と共にリラダンの科學への反語イロニーを示した作として、古典SFに數へられてゐること。のみならずその中には「エディソンの工場から生れ出た二十體ばかりの機械人間」といふ、來るべき『未來のイヴ』を豫告する一句があること。つまり「榮光製造機マシーン・ア・グロワール」は「獨身者‐機械マシーン・セリバトウール」の姉妹品であるからだ。しかし今この短篇が紹介する珍奇な發明品に就て述べる必要は無い。ただその中で、作者が詩人に「榮光」の定義をさせてゐる件りを參照すれば足りる。……問ふ、榮光とは何ぞや。詩人答へて曰く「或る名前の、人々の記憶のなかでの輝きのことです」。そして、その例としてスクリーブとミルトンの名を出す。前者はその當時は誰もが知つてゐた賣れつ兒の流行作家、後者は言ふ迄も無い不朽の名著『失樂園』の作者だ。詩人は言ふ、假に聽衆の前で〈スクリーブ〉といふ名を口にしたとせよ。忽ち感嘆詞の連發が起るだらう。では續いて〈ミルトン〉だつたら? あなたは次のことを期待すべきだ……

第一に、二百名中百九十八名の者は、嘗てこの作家のものをざつと讀んだことも、いや、ページをめくつたことさへもないだらうといふこと。第二に、殘る二名がどんなふうにそれを讀んだつもりになつてゐるのか、これを知り得るのは、ただ「大宇宙の建設者」のみだ、といふことです。〔……〕

だが、にも關はらず、聽衆はその名を耳にした瞬間、ミルトンとスクリーブの比較なんて月とすつぽんだと思ふだらう。實證的見地からすればスクリーブの作より遙かに興味無いのに、だ。

ミルトンがどんなに貧しかつたにしろ、スクリーブがどんなに金を儲けたにしろ、また、ミルトンがどんなに長い間無名であつたにしろ、スクリーブが既にどんなに世間的に有名であるにしろ、です。つまり、たとへ知られてゐない詩でも、ミルトンの詩が殘す印象ヽヽは、作者の名そのものを通じて、この場合聽衆にとつては、あたかもミルトンを讀んだも同然ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽといふ感をあたへるでせう。實際、いはゆる「文學」は、かの「純粹空間」なるもの以上の存在ではないのですから、人々が或る大詩人から想ひ起すものは、作品それ自體よりもむしろ、作品によつて、また作品を通して、その詩人がわれわれに殘した崇高さといふ「印象ヽヽ」なのです。〔……〕一つの作品について、かうした現象が明確に檢證されたとき、その檢證の結果を「榮光ヽヽ」といふのです! 

――ヴィリエ・ド・リラダン「政府無保證 榮光製造機」

この詩人の定義に對し、かかる虚妄な觀念が榮光(精神的目標)だつたらいつそ機械(物質的手段)で以てその成立條件を再生してしまふに如かずとばかり、榮光製造機が考案されるのだつた。

右の如きアイロニカルな「文學」觀に立脚して、リラダンは紙とインクから成る數々の榮光製造機を作り出し、その産物として見事に虚名を獲得したわけだ。これはこれで徹底した思想ではある。引用文中「いはゆる文學は、かの純粹空間なるもの以上に存在しない」と述べる所など、殆どブランショの「文學空間」なる觀念を先取りしてはゐまいか。何も突飛な附會こじつけをして名を出すに非ず。モーリス・ブランショの『文学空間』や『きたるべき書物』がマラルメの〈書物〉ル・リーブル論を軸にしてゐるのは周知の事だ。そしてリラダンの短篇「榮光製造機」は「ステファヌ・マラルメ氏に」と獻辭されてゐる。實はマラルメが親友の追悼講演たる『ヴィリエ・ド・リラダン』章で引用したのが、正に「榮光製造機」の右の件りなのだ。更にヴィリエ、マラルメ、ブランショを結ぶヘーゲルといふ名前。してみると、リラダンの創作がマラルメ謂ふ所の〈作品〉ル・ウーヴルであり、就中『未來のイヴ』は「來るべき〈書物〉」であると稱しても、強ち無理でなく、それらしく聞こえよう。

一説によれば、一八六四年の出会からすでに、ヴィリエ・ド・リラダンの天才と、『イシス』に強い印象を受けたマラルメは、彼こそl'Œuvre〈作品〉乃至著作ヽヽと譯す〕を書き上げるべき適任者であると信じたという。ところがヴィリエ・ド・リラダンは、七巻から成る哲学小説を最初の巻『イシス』で中絶したまま、一向に続きを書こうとしない。やがて普仏戦争からコミューンへと続く混乱期にヴィリエ・ド・リラダンは悲惨な状態に陥入り、その後発表される作品は、現実の醜悪を風刺するものが主であった。ヴィリエ・ド・リラダンに賭けた希望を次第に失っていったマラルメは、自分がl'Œuvreを書くのだという自覚を抱くようになったと伝えられている。

この説が本当なら、『未来のイヴ』はマラルメに対する一つの答かもしれない。

――田中義廣「ヴィリエ・ド・リラダン――夢想の王国」

事實マラルメの『ヴィリエ・ド・リラダン』は、亡友の在りし日を偲びつつ「彼自身が、まぎれもなく、つねに開かれるのを待ち構へてゐるあの大判書物フオリオそのものだつたのです」等と述べてもゐた。リラダンを語ることが即ちマラルメ自身の〈書物〉論・〈作品〉觀を語ることになるわけだ。

詰る所「作品とは、作品に対する期待である」(ブランショ「来るべき書物」)。この期待のなかにのみ、文學の純粹空間があり、本文テキストそのものではなく作品を通した所に人が讀む〈作品〉テクスト觀念も存在するといふわけ。『未來のイヴ』も亦、期待される作品像にひと時與へられた名だつた。畢竟、きたるべくしてらざるイヴといふ觀念イデア――即ち理想女性イデアル・イヴを豫告する書物だらう。とはつまり、本論無き永遠の序説(兼結論)にすぎないのだが。但し名のみ高いこの古典がそれでも讀む・・に堪へるとしたら、その理想の女性は人工に基づく自動機械として現はれねばならぬといふ逆説的アイロニカル命題テーゼに、論ずべき主題テーマも見出せるからだ。それは亦、理想の〈書物〉――理想=觀念イデアとしての書物・觀念アイデアを餘す所なく完璧に體現した作品――は、人工的に作つた一種の機械として書かれねばならぬといふ事でもある。ひとたび作品テキストからこの觀念へ還元し得たなら、そこから演繹して、來るべき本論・期待される〈作品〉が讀む・・者の觀念上あたまのなかで完成される仕組みだ。だから『未來のイヴ』を讀む・・とは、この機械といふ觀念が展開する論理を先讀みし、たどることにならう(やうやく本題を展開できさうだ)。

さて機械文學『未來のイヴ』は如何に讀まれる・・・・のであるか。その題名において人々の語る所、あなたも聞いた事あらう、以下の如し。

物語の舞臺はメンロ・パークなるエディソン邸、そこに訪れたはエワルド卿、貴族の名に恥ぢぬ高潔英明な青年といふ設定。ところが彼が戀したアリシアといふ女性は、美そのものヴイーナスの化身の如き理想の肉體を授かつてをりながら、それとは全く無縁の、「俗物ブルジヨワの女神」の權化とも言ふべき精神を宿してゐた。エワルドは慧眼ゆゑにその事を見逃しもならず、されど委細承知の上でなほ彼女に惹かれ、遂に絶望的憂苦に陷つてゐたのだつた。そこで全能の科學者エディソンはエワルドを救ふべく、その望む理想を具現する女性を機械人間で作つてやらうと持ちかける。アリシアにかたどつた肉體を複製し、聲も身振りも何もかも彼女の外的屬性をそつくり生寫しにして完全に具へさせ、代りに内面の精神のみを除き去るならどうか、と。彼女はあらゆる内容を受け容れる一つの空虚な形式に還元されて、中には青年の夢想と願望だけが注入されるわけだ。所詮は人形だと? 否、ここでエディソンは、この科學の奇蹟を成立させる理論的前提として、例のヘーゲル哲學應用の觀念論的イリュージョニズムを説くのだ。畢竟、人が戀愛對象と呼ぶものは、愛する主體(=主觀)の「精神が對象化〔=客體化〕された幻」ではないか。……あなたが現實のアリシアに對する幻滅にも拘らずなほも生かさうとするのはこの幻影イリユージヨンであり、「あの女のうちに複寫されたあなたの魂でしかない」……と。即ち澁澤龍彦によれば、「ちょうどアダムの胸から抜き取った肋骨によって、イヴがこの世に誕生し得たように」だ(「悪魔の創造」『思考の紋章学』)。『未來のイヴ・・』の作者の名前L'Isle-Adamリラダンにアダムが含まれる事を思へば、成程、言ひ得て妙だ。

結局、エディソン氏説く唯我論的精神現象學によれば、意識の外の現實存在そのもの・・・・と觸れ合ふことは不可能なのだから、愛するのが現實の女でもその模像たる人形でも、大差無いことになる。もし印象が實物と完璧に一致するやうにしてしまへば、たとひ人工的な假象であらうと、もはや精神にとつて現實と同然なのだ。これぞ最新の機械論ではVirtual Realityヴアーチヤル・リアリテイ(直譯:事實上の現實性)と稱する原理だ。『未來のイヴ』が人形幻想の發展上しかるべき典型と認定されるわけも、ここにある。「未來のイヴ」こと人造人間アンドロイドハダリー(ペルシャ語で理想の意)を、例へばホフマン「砂男」のオリンピアと較べて見よ。エディソンの電氣式自動人形エレクトロ・オートマトンは、ぜんまい仕掛のオリンピアの如き「ぎこちなさ、生硬さ、無表情など、機械のもつ特性は何一つ残存しない」(亀谷乃里「自動人形の系譜」)。最早機械は現實ほんものの人間と同等、人間以上に完全でさへあるのだ。第一ナタナエルがオリンピアに戀したのは、人形と知らず欺かれた錯亂に過ぎなかつた。エワルド卿の場合、自己の戀情をも明晰に分析する知性があり、且つハダリーに就てもエディソンの解剖のもと豫め説明を受けてをり、それと自覺せずに錯覺に陷ることなどない。蓋し「欺かれし理想家、醒めたる夢想家は、生れながらのレアリストよりも、遙かに深く現實を識る」とか(齋藤磯雄『リラダン』)。むしろ完膚なきまで錯覺の仕方が究明された上で、わざわざ意志的に幻想イリユージヨンを構成しようとするのだ。これぞ人工性の極致、來るべき機械主義メカニスムにあらずや。

從來幻想といふいかにも曖昧な名で呼ばれ、各人の勝手な思ひ込みに任されてゐた觀念は、今や機械によつて確固と觸知し得る形を成し、人々の共有物の如き普遍對象オブジエとなることを得た。疑ふなかれ、エディソン氏が一々制作法を明かしてくれる。實際こちらが根負けする位の執拗さで、機械=人間ホモ・エクス・マキナの成立可能性が説かれるだらう。例へば美女アリシアの身振り、歩き方、表情、姿勢、等々。一切は記録に取られ、ハダリーの動作をつかさどる圓管シリンダーに刻み込まれる。アリシア孃の聲音、抑揚、口調などは蓄音機フオノグラフの金屬板の上に刻み込まれ、ハダリーの體内裝置で讀み取られる。かくて一女性の全ては再現される、と。この邊、ミッシェル・カルージュ『独身者の機械』では、「刻み込み=記録インスクリプシヨンテーマ」といふ名目で總括してゐた。『未來のイヴ』は記録‐機械でもあるわけだ。となると、ここから、全存在のあらゆる現象を書き得るものにせんとする欲望、森羅萬象を漏れなく或る種の記號化された文字(お望みならエクリチュールと名づけよう)に收めんとする意志を、讀み取る・・・・ことができる。さやう、「この世界において全ては、一册の書物へと到るために存在する」(マラルメ)。やはり『未來のイヴ』はマラルメの所謂〈書物〉に屬すやうだ。それにマラルメみたいな曖昧居士と違つて解讀するにも好都合だ。リラダンの散文物語は意外とわかりやすい讀物で、よく出來た「譚」としていつそ通俗な位の觀念枠組に則つて作製されてをり、特にこの長篇は、能辯なエディソン氏に託して、微細に亙つて完膚なきまで徹底的に説き明かしてくれるのだから。――たとひ物語を退屈にしようとも、だ。

機械文學としての〈書物〉。かかる觀念に際して、G・R・ホッケの名を出さぬわけにゆくまい。名著『文学におけるマニエリスム』にて、マラルメが超‐書物を産出する爲、言語や諸觀念の機械的な「組み合わせ術アルス・コンビナトリア」を用ゐて作業した事を指摘してゐた。まづ世界の諸事象は一定數の基本要素の自動的な組み合はせより成ると見、故に、記號で表はされた概念の形式的・機械的操作を以て萬物を演繹可能とし、全ての可能性を包含するのが結合術アルス・コンビナトリアだ。この原理はコンピューター・人工知能の範型でもある。『未來のイヴ』の場合、流石のエディソンも電腦を發明するには至らなかつたが、それでも機械の力で知性を生んだ。ハダリーは結合術アルス・コンビナトリア式言語機械だ。夙にリラダンは『殘酷物語』中「見知らぬ女」(鈴木信太郎譯だと「未知の女」)で戀愛現象を分析濟、これを異常に發展させたのが『未來のイヴ』だつた(渡邊一夫「理想の女性」參照)。エディソンはどんなに甘美な囁きをも惡魔的な分析の對象とし、結局人々が交はす言葉は幾通りかの型式パターンの組み合はせに還元される事、いかに個性的で當意即妙に聞こえようと豫め知れ切つた臺詞の繰返しにすぎぬこと、を説く。日の下に新しきもの無し。人間は常に、既にどこかで言はれたことを再生するのみ。故に必要な名語録をハダリーのレパートリーに收めておき、適宜それらを組み合はせれば、如何なる「個性的」呼びかけにも十分應待できる。最早ハダリーは生ける人間と寸分違はぬ印象を與へ、知性ある精神を相手にしたといふ完全な幻想を抱かせるだらう。この時、機械は事實上・・・精神こころを具へるのだ。チューリング・テストを想起していただきたい。アラン・チューリング(言ふ迄もなく現代コンピューターの父の名だ)の考へた、機械が思考するか否かを判定する實驗テストだ。判定者が機械と人間とを相手にタイプライターを介して同じ質問をし、應答の結果からどちらが人間か判別できなければ、その機械は思考してゐる――といふもの。これに合格することがAI研究の目標である。つまり機械が人間の言葉を理解すれば(否、理解したやうに見えれば・・・・・・・)テストは合格だ。正にハダリーは合格してゐる。リラダン=エディソンの考へ方は、既にチューリングの先取りですらあるのだ。寔に獨身者の機械の名に見合ふ作品ではないか。

以上で『未來のイヴ』の機械性は大概おわかりだらう。從來文學といふ名のもとで追求されてきたもの、眞實、美、思想、内面、個性、感性センス、獨創性、一回的固有性、實存……等々の名をもつ理念は、一切合財、機械によつて置き換へられるのだ。全ては隈なく分析され、形式化されてしまふ。それで外觀みせかけの印象さへ完璧に再現すれば、見る者によつて内實は後から具はる。恐らくリラダンはボードレール經由のダンディズム思想に則り、内容だの實體だのより形式・外觀を先行させたのだらう。冷然たる情熱、計算づくの擧措、ただ假面あるのみ。既に魂は關係それ自身になり、肉體は物そのものとなり、もはや個としての生きられた體驗など犬にくれてやる程も殘らない。かくて「人間」固有の存在は奪ひ取られ、機械で以て際限なく反覆できるのだ。「生きるだと? それは機械・・・共がやつてくれるさ」! ここまで徹底的ラデイカルに極めれば、端的に明快な位だ。これは機械と人間、雙方への反語イロニーである。

しかし、機械とは何か。古典的定義では、それは質量ある物體を組み立てたものだ。例へばフリッツ・ラング監督『メトロポリス』の女ロボット・マリアは、全身甲冑状の銀板メタルで覆はれ、金屬そのものの質感をむき出しにすることにより、機械のイメージを象徴した(ほぼ『スター・ウォーズ』のC3POに似てゐる)。現在『未來のイヴ』の插畫として知られるジャック・ノエルの圖(一九五七)もその線に近い。だがそれは未完成體、骨格である。『メトロポリス』でも、人型機械は肉附け作業後に完全な女性の姿を具へた。ハダリーも亦、アリシアといふ原型を受肉することで甫めて生きた存在となつたのだ。この完成形においては、もはや機械の特性と謂はれるぎこちなさ等はすつかり拂拭される。とすれば、それは古典的な狹義の機械――力學的構成物――ではない。

ではここで機械とは何か。西垣通の定義によれば、機械とは「人間の形式化への希求を具現化したもの」である(『デジタル・ナルシス』)。まさしく『未來のイヴ』はそれだ。理想ハダリーとは、完全無缺な人間の形式を機械に具現化した代物しろものだつた。西垣通によると、エレクトロニクスの發達した現代では、機械の本質が「力学的な動作」ではなく「定められた動作」にあることが明らかになつた。例へば蒸氣機關の類と、今世紀の情報機械との差だ。つまり「設計図という抽象的世界のなかで記述された動作を形式的に遂行するのが機械だ、ということになっ」た。機械は、質量ヒユレーより形式エイドスと重ね合はせられる次第だ。『未來のイヴ』の場合、前世紀末の作品でありながら、リラダンの觀念性ゆゑに、この現代に相應しい形式としての機械になつてゐる。正に未來の、來るべき機械だ。

だが氣を附けよう。機械は純粹な形式とイコールでない。西垣通が注意する通り、「完璧な〈形式〉は地上に存在しない。我々は〈機械〉によってそこへ向かうのだ」。即ち、機械は形式=設計圖と我々人間の身體とを結ぶ中間項だと云ふ。設計圖は目標であり、それを具現化した個々の機械そのものは常に誤差ずれが出る。機械にだつて個性はあるのだ。すると、機械とは兩義的存在である。ちゃうど言語のやうに、抽象的・普遍的な觀念イデアを示しつつ、具體的・個別的な事物を指してゐる。この兩義性をもつ限り、機械主義メカニズムとは二項對立の一方を却ける主義イズムではない筈。つまり機械に對する人間性、精神、生命、感情等を切り棄てるのでなく、それらの特異性シンギユラリテイをどこまで一般的觀念イデア形相エイドスのうちにすくひ上げられるかが課題なのだ。我々は機械といふ個物オブジエ(=メカノ?)によつてそれをぎりぎりまで現はさうとする。だから機械において、冷徹な形式化の論理は、逆説的だが、情熱的なロマンティシズムの欲望に結びついてゐる。かういふ兩義性が、所謂機械(但し形式としての)と人間(但し理知的でない)、雙方へのイロニーとなるのだ。『未來のイヴ』を、この兩義的な「欲望する機械」と名づけても可だらう。

結局、嚴密に言つて「機械」とは何か? 質量と形相の絡み合ひ、これをスコラ哲學的に「概念」と呼ぶなら、「機械といふ概念」の本質は何なのか。從來の概念定義は大部分が機械の外形的特性の記述にとどまつてゐたから、その内包たる「機械性」を定義し直す必要がある。そのやうな試みとして、西垣通に加へて、丹生谷にぶや貴志「エクス・マキナ」が參考になると思ふ。丹生谷はまづ澁澤龍彦「悪魔の創造」からの引用を掲げてゐた。『思考の紋章学』に收められたこのエッセーは、澁澤の人形愛論考の中でも『未來のイヴ』を最もよく論じたものだつた。と言つても、專一に論じるでもなく斷片的に取上げるのみ、丹生谷の引用したのも別の件りなのだが。

〔……〕伝説によると、十三世紀最大のスコラ哲学者として知られるアルベルトゥス・マグヌスは、木と蝋と銅でできた一個の人造人間を造り出すことに成功した。人造人間はアルベルトゥスの召使として、まめまめしく立ち働いていた。或るとき、ドイツのケルンにあった哲学者の邸に、彼の弟子のトマス・アクィナスが訪ねてきた。トマスが門をたたくと、人造人間が出てきて、うやうやしくドアをあけ、何かわけの分らぬことを喋り出した。トマスは恐怖に駆られて、思わず、この人造人間をぶちこわしてしまった〔……〕。

――澁澤龍彦「悪魔の創造」『思考の紋章学』

右を寓話解釋して、澁澤は「人造人間造出の野望に伴う宿命的な不吉の匂い」を指摘する。造物主のみに許された御業みわざを簒奪し、人の子の分際で父なる神の創造の祕密を盜む如き惡魔的所行は、結句「ぶちこわし」に歸する、といふわけだ。澁澤ならずとも誰もが思ひつく位、當り前の解釋だらう。實際『フランケンシュタイン』も「砂男」も『ゴーレム』も『メトロポリス』も『R・U・R』も、みな人造人間が悲劇を招いてしまふ。勿論『未來のイヴ』も。拔かりなく典型に沿つて、ハダリーが災厄のため海の底に沒する結末を迎へる。嗟乎ああこれも神罰なるや! だが、このいかにも廣く行き渡つた觀念枠組に、丹生谷貴志は異論を立てた。トマスの激情が、神を恐れる敬虔ゆゑでなく、機械そのものの現前に脅かされた所爲だとしたら? ……トマス・アクィナスにおいて、とはつまり、西歐の思想體系において、精神/肉體の二元論が基本構圖だ。むろん神に屬する精神が上位に立つ。ここでは、機械とは精神なき肉體=質料マテリアルであり、精神といふ主人が統御する奴隸=道具としてある限りでのみ許し得るものでしかない。アルベルトゥスは己れの機械人形が「召使」=道具だと知る故に脅えを感じなかつた。しかしトマスがそこに見たのは、「召使」としての機械ではなく、文字通り自動人形オートマトン、つまり「精神ヽヽによってではなく全く別の意志ヽヽ、機械自身の意志ヽヽ、言わば自然の自己組織化ヽヽヽヽヽに於いて動く、信じ難いヽヽヽヽ何ものかだったのである」。言ふなれば、それはもはや道具ではなく「それヽヽは「機械」、本質的な意味でのヽヽヽヽヽヽヽヽ「機械」として出現したのである」……(丹生谷貴志「エクス・マキナ」)。

ここで丹生谷の「機械」定義が始まる。……機械の定義は、例へば「人力を用ゐるものは道具で、人力以外の動力源をもつものが機械」といふ素朴な定義から始まつて現在に至る迄、最終的に道具へと還元される形で行はれて來た。それ故「機械」と「道具」とを分別することが先決だ。まづ「道具」とは何か。道具は、その上位・外部に體としての使用者をもち、その操作主の意志・意圖を實現するための媒介物である。それが自動裝置を有してゐようと、外部の使用者の意圖を前提とする限り他動的だから、「道具」なのだ。では、「機械」とは? 論理的には單純、右の道具論から主‐奴の辯證法を差し引けばよい。使用者・制作者のゐないヽヽヽ道具だ。だが一體、決して造り出されたことがない機械が存在した例があらうか。抑も世界は主なる神の創造したものだとするなら、全ては道具化されてゐる。神ですら、この世界に實在した途端に道具論的サイクルに卷き込まれ、主‐奴の辯證法を作動させてしまふ。恐らく「機械」は、常に道具としてしか成立し得なかつた。道具でない機械は未だ存在してゐない。と云つて、機械は道具の進化形態でもない。それは道具性に於てヽヽ隱蔽されてゐる何ものか、なのだ。もし「機械」が機械性そのものとして現はれ出ようとすると、トマスみたいな「機械打ち壞しラツダイト」によつて現象界から消滅させられるのが常だ。來るべき機械論は、この主體=精神による道具化=奴隸化から自由にならねばならない。それは「人間性」を取り戻せと叫ぶロマン主義的反撃とは違ひ、人間性に隱れすむ「意識」をこそ除き去り、道具論=奴隸論の動因として、完全なる機械化へ向かふ鬪爭となる。この道具性の倒錯に於てのみ機械は實存するのである。……云々。

以上、機械といふ概念が展開する論理を逐つて來た。迂回はもうよい。あとは『未來のイヴ』に即して展開するだけだ。

『未來のイヴ』は人間‐機械をめぐつて展開された觀念小説である。この機械は、エディソンの説くヘーゲル式精神現象學、主‐奴の辯證法の産物である限りにて、未だなほ道具性にとどまつてゐる。まづさう見るのが順當な讀み・・だらう。

ところが結末が問題だ。機械美女ハダリーの完成でエワルド卿が絶望を救はれたのも束の間、英國へ歸る汽船が原因不明の火災から沈沒、同船してゐたアリシア孃もハダリーも、水底に葬られてしまふ。エディソンは、辛くも生存者となつたエワルドから屆いた電報を讀む……「ハダリーのことのみ唯無念なり。ただこの幻の喪に服さむ――さらば!」……。成程、見事な幕切だ。しかし何故に機械に死が訪れたのか。澁澤龍彦なら惡魔的創造の宿命と言ふだらう。A・W・レットや齋藤磯雄等の研究者も同樣の見解だ。被造物に過ぎぬ人間が造物主たらんとした報ひと見るのは、一理ある讀み・・ではある。が、道具論的世界に於る主‐奴の辯證法とは、元來奴隸が主人に成り代はる運動なのだから、ヘーゲルの名の下にむしろ正當化され得る筈。ここはやはり、丹生谷貴志の深讀み・・・を『未來のイヴ』にも適用しよう。丹生谷の機械論によると、機械は、道具性を突き拔けた機械そのものとして現前する度、トマス・アクィナスにやられた如く打ち壞されて來た。だとしたら、ここで滅ぼされた女性機械も、丹生谷の云ふ、トマスが見た「精神なき身體」ではなかつたか。つまり外部に如何なる操作主も有さない文字通りの自動・・人形。エディソンやエワルドの主觀が與へた精神ではなくて機械それ自體の意志を具へた何ものか――それがハダリーに於て現はれ來つたのではあるまいか。

どうやら『未來のイヴ』は、丹生谷式定義に照らしてさへ、道具性にはとどまらぬ「機械」として、認定し得るのだ。ヴィリエ・ド・リラダン家の家訓“Va Oultreこえてそのかなたにゆけ”は「前進また前進」とも譯される。何事も極端なまで徹底する性分ゆゑ、機械といふ觀念の論理を紙上に展開する以上、その「機械性」を發揮させずには濟まなかつたのだらう。しかしながら、機械たらんとすることが自律的意志を持つことになるとは、逆説にしても度が過ぎてゐまいか。だが、さうなのだ。ハダリーは、徹底した機械でありながら(であるが故に)自ら意識を具へるに至つたのだ。しかもそれは最早、エディソンが説いた如き精神現象學的な見かけ上の意識なのではない。エディソンが豫め入力した設定プログラムの再現でもなく、エワルドの主觀が投映された幻想イリユージヨンでもない。ハダリー自體が意識を生じたのだ。謂はば「機械の中の幽靈」の發現。どういふことか。――これを讀み出した・・・・・のが、南條竹則『虚空の花』であつた(やつと本題に迫れさうだ)。

南條竹則『虚空の花』は、『未來のイヴ』を讀み・・進めた上で、「この作品の筋書の上で一番肝腎な“ある問題”」に注意を喚起する。「それがわからなくては、この小説を読んだ・・・ことにはならない」し、「丁寧に読めば・・・誰だって気がつくはずの問題なんだが」、なぜか從來の『未來のイヴ』論では不思議にも觸れられて來なかつた劇的核心。それは、完成したハダリーがエワルドと對面して語る場面より讀みヽヽ取られる。語る者は、即ち、エディソンが造らうと意圖した言語機械ではなく、ハダリーの機體ボデイのうちに宿つた一個の自立した魂なのだつた。エワルドにあなたは誰かと問はれた彼女は、語つて出自を明かす。それによると彼女は、氣高き青年を絶望より救ふべくつかはされた天来の使者とも言ふべき存在で、青年の望む輝かしい肉體を身に纏ふことを諾ひ、青年に訴へるに最も相應しかるべき姿を取つて可感世界に影を映してゐるのだといふ。謂はば「永遠に女性なるもの」(『ファウスト』)のイデアが、理想ハダリーといふ完全なる肉體を媒質なかだちにして現象界に顯現することを得た氣配。このエディソン製の空虚な器は、餘りにも完璧な形體を具へ切つて、後はもはや魂だけしか・・・・缺けてゐなかつた爲に、缺を補ふべくそこにしかるべき生命を呼び込んでしまつた。かくして本來この世に存在し得ぬ筈のイデア界の住人が地上に生を享けた。さうして、ひとたび青年の心裡にその存在を刻印してしまへば、理想イデアとしての高貴さを保つため物質界になづまぬうちに身を消滅させ、再び純粹觀念として存在すべきことになる。……これが、『未來のイヴ』に見る機械性そのものとしての自發意志の正體だ。

かうなるともう一種の奇蹟だ。物語から現實味リアリティは飛び去り、科學は神祕主義オカルテイズムに席を讓る。だから同じく被造物が自主性を持つやうになる筋でも、科學小説に於るチャペック以來のロボットの叛逆テーマとはわけが違ふ。最早エディソン氏説くヘーゲルもどきの唯我的な觀念論の出る幕ではない。絶對の現前をまへに、奇蹟を起こす存在への信仰が問はれるだらう。そもそもリラダンは、バルベー・ドールヴィリ、ユイスマンス、レオン・ブロワ等と共に、過激カトリック派ユルトラ・モンタンといふ名で括られる程。この十字軍士の裔(但し自稱)は、師ボードレールと同じく熱烈な信仰の徒だつた、といふのが齋藤磯雄の強調する點だ。齋藤の論に從ふと、リラダン愛用のヘーゲル思想は、敵とする近代俗衆ブルジヨワの唯物論的な風潮に反撃する爲に觀念論的哲學を用ゐたにすぎない。同じく科學も、彼にとつては科學萬能主義を斬るために敵の武器でお返ししただけのこと。神祕主義すら、神に近づく爲の踏臺でしかない。全て信仰といふ第一目的を得るべき手段なるのみ、それ達成すれば捨て去るに如かず、決して本心より支持せるものに非ず、と云ふのだ。さういふことなら、我ら不信心なる現代讀者には口を插む餘地など無くなつてしまふ。蓋し、他人の信仰は口出し無用の域だらう。曰く「世の中には言明されるを欲しない思想がある」(ポオ)とやら。

けれども思つても見よ。齋藤磯雄も注意した通り、リラダンを讀む・・者は、しばしば根本にある信仰の精神を見逃し、ヘーゲル哲學、時代批判の反語イロニー、神祕主義等の題目に執はれた讀み・・をしがちなのだ。レミ・ド・グールモンに至つては、ヴィリエに神への信仰さへも揶揄する語を見出した上、彼は信仰者となることで「知的陶酔のあらゆる形を」味はつたのだと云ふ位(『仮面の書』)。それに、ハダリーといふ無機物に天上の魂が宿る段は信仰から發想したのだらうが、南條竹則も書いてゐたやうに、これまた讀む・・者にはなぜか看過されがちの所だ。のみならずこの件りは、『未來のイヴ』に於てサブ・ストーリーを成す神祕主義的な女性ソワナの物語と深く關はるのだが、ソワナの話も亦、讀者が『未來のイヴ』を讀む・・際には無視されるのが常だつた。南條『虚空の花』にてすら、危ふく要約から拔け落ちる所だつたのだ。どういふことか。恐らく、これらの箇所は讀む・・に堪へなかつたのだ。他の明快に徹した部分に較べ、理解を阻むが如き象徴主義的記述が、讀者・・を退けたのだ。そこでは最早リラダンはわれらが讀むあの・・リラダンではないのだ。從つてこれらに就ては、「言明されるを欲しない思想」と認めよう。たとひ「それがわからなくては、この小説を讀んだ・・・ことにはならない」といふ一番の見所みどころだとしても、ここに讀み取るべきことはない。

以上をもつて、どうやら『未來のイヴ』に讀む・・べきことは讀み・・出しておけたと思ふ。あなたは、私が『未來のイヴ』で一番肝心な本題に就て讀解・・せずに濟ませたことに不滿かも知れない。第一『未來のイヴ』を讀む・・と言ひながら、作品テキストそのものはそつちのけで他の名前ばかり讀み・・上げてゐるぢやないか、それでは讀んだ・・・ことにはならない、と。――しかし、讀む・・とは何か。

ヨムとは、本居宣長によれば「モトさだまりてあるコトバを口にまねびて言ひつらぬる」こと、更に柳田國男によれば「中身」よりも「外形」において「誤りの無いことを確かめるに」目的があつた(兵藤裕己『語り物序説』)。活字化された近代に於る讀書では、「本さだまりてある辭」が同時に複數出現してゐる。ひとたび書物の出版されるや、たとひ自分一人以外誰も讀む者がゐない書物であれ、原理的には、常に既に複數の讀者たちと聲を合はせて讀まれる・・・・のだ。その時書物は、喩へるなら、法廷で異口同音の證言者に認められた事實を述べてゐるに等しい。つまり、或る書物にただ獨り向かつてそこに今迄に言はれなかつた事が述べてあるのを見出せるやうな時でも、讀まれた・・・・瞬間、それは常に誰かと同じ辭句ことばの唱和であり、既にどこかで豫め定めてある臺本をなぞるものでしかない。讀む・・とは、既知の再確認なのだ。又、著作を己れの偶然的な個人性に近づけようとするそこらの讀者の行ふ讀書は、印刷革命以後の時代の書物を讀む・・ことではなく、二人だけが見る直筆の戀文を讀む如き態度だ。讀む・・と言ふ以上、むしろ者は「バベルの圖書館」の一員たらねばならない。

〔……〕ボルヘスの考え方にならって、文学の総体はすでに・・・潜勢として書かれてしまっているのであり、現実の一冊一冊の書物とは、すでに存在している文学の総体のごく一部分が、著者という小さな窓口を通過して、多少の変形と夾雑物とをともないながら、書きうつされていったものなのだ、と考えるべきなのだ。そして、書物を讀む・・ということは、そうやって書きうつされた個々の書物のなかにある小さな粒のようなきらめきを、すこしずつ積分していって、ついにははじめに存在していた総体に到る、という巨大な歴史過程の別名なのではないだろうか。

――清水徹『書物としての都市 都市としての書物』より

マラルメの來るべき〈書物〉はここに讀まれる・・・・。『未來のイヴ』も亦、そのやうな〈書物〉の斷章として讀む・・べき一品だつた。

だから私は、『未來のイヴ・・・・』を讀んだ・・・その名・・・を含んだ樣々な書かれたものを積分して、その名・・・もとに總體として讀ま・・れるべき・・書物の觀念に想ひ到り、一寸そこから斷章を書き寫してみたにすぎない。ただ既に讀まれて・・・・・・來たものをたどつて私も讀んだ・・・だけ(否、もはや「私」といふ「人間」はゐないのである)。謂はば機械的に名を綴り合せた迄。さうでなくて一體何人が『未來のイヴ・・・・』を讀む・・と言ふのか。今やほぼ豫定の形式はまつたうした。ここまで讀まれた・・・・あなたは、既に『未來のイヴ』を讀んだも同然だ。そこから先はもう自動的に導き出される筈。あとは各自が本題を追求するがよい。

例へば吉田健一「山運び」(『怪奇な話』)。この短篇を共に讀む・・ことで、本稿を結んでみよう。主人公の魔法使ひがアクセルと命名される點でも、リラダンとは縁のある話だ。魔法使ひは、殆ど同じ印象を與へる瓜二つの僧院を持つ島を英佛それぞれに發見し、密かにこれを入れ換へることを思ひ立つ。むろん大魔術になる。魔力向上の練習を積み、綿密な計畫を立て、島の人々に氣づかれぬやう元に戻す所まで考へ、遂に、出來ると信じるに至つた。「従ってアクセルは既に・・そのことをすませたのだったとも言える」。「既に島が入れ換って再び入れ換ったことを知る・・と後はただそれをすることだけが残っていた」。「アクセルが選んだ或る晩それがその通りに行われた」。「アクセルは一つのことをなし遂げたのだという感じもしなくてそれがなし遂げられたのが既に・・大分前のことであるのももう解っていた」。……蓋し、「それは既に誰かが何かの目的があってすることでなくて或る時になって或る場所で起ることだった」のだ。この主體性なき自發性! 機械?! 因みに魔法使ひがそれを出來たのも、小惡魔の召使が人の代りに魔力増進の藥採りをしてくれたからである。だから、この話から導く結論は左記の如し。

讀むことか、それは召使に任せておくがいい――

もし、本稿を成すにあたり私は『未來のイヴ』の本文を開き讀むことなく書いたと言つたら、あなたは、信じてくれるだらうか。

(了)


『未來のイヴ』と共に讀まれた・・・・文獻目録
――あなたが共に讀む・・爲に――(順不同)

□名前について

□ヴィリエ・ド・リラダンについて(含『未來のイヴ』)

□人形について

□機械について

□書物、讀書について

□etc.

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【書庫】書評集 > 『未來のイヴ』を讀むヽヽ

▲刊記▼

發行日 
2004年5月 開板/2004年7月8日 改版
發行所 
http://livresque.g1.xrea.com/Review/villiers01.htm
ジオシティーズ カレッジライフ(舊バークレイ)ライブラリー通り 1959番地
 URL=[http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/1959/Review/villiers01.htm]
編輯發行人 
森 洋介© MORI Yousuke, 2004. [livresque@yahoo.co.jp]
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