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前田さんのサイトはしばしば拜見してゐました。こちらこそどうかよろしくお願ひ致します。
『黒』のメンテナンスにかまけて我が書庫の方は一向に配架が進まないのですが、ご要望がありましたらお申しつけ下さい。
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大恩を受けた方のお孫さまという奇縁でお邪魔致しましたがすっかり此処の書庫がお気に入り、今後とも何卒よろしくお願い致します。
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森様、こんばんは。
またやって参りました。修士論文は矢張り谷崎で書くことになりそうです。大正六年前後の戯曲から、『蓼喰ふ虫』周辺の戯曲まで見ていこうかな、などと考えています。『鶯姫』(大正六年二月号「中央公論」初出)の作品分析を論の中心に持っていきたいな、と。でもこの作品、あんまり研究対象にならないようで、関係論文が少なくって困ってます。
それにしても、小泉氏の『蓼喰ふ虫』にはついてゆけぬが『盲目物語』は面白い、は、ウウンですね。今度探して読んでみます。森様には何時も沢山のことをお教えいただいているのに、なんのおかえしもできぬ無力で未熟なワタクシ。
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「口舌の徒のために」では既にprosperoさんが管理人として適切な誘導(▼)をしてをられますし、私の言(▼)は要らざる輕口だったかも。
ところで國府田さん、修士論文はやはり谷崎潤一郎論ですか。最近小泉三申「暖窓漫談」(『小泉三申全集第四卷 史的小品集』岩波書店、1942.11)を讀んだら、その谷崎評の堂々たる舊弊ぶりが却って愉快でした。『蓼喰ふ蟲』にはついてゆけないが『盲目物語』は非常に面白いさうな。で、同じく最近たまたま中島健藏『物情騷然の巻 回想の文學②昭和九年―十一年』(平凡社、1977.6)を見てゐたら、「小泉策太郎の言」として正にその箇所を日記に引いてゐ、大いに異議ありげな口吻。對照の妙に笑ってしまひました。
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森様、
此方に伺うの、久し振りです。花粉の飛び交う今日この頃、如何お過ごしでしょうか?私は修論準備に毎日四苦八苦しております。此方は、よく拝見させていただいているのですが、どんなお話しをしたらよいのか分からなくて、何時も躊躇してしまってました。何せ卑しい上に、視野も狭いときておりますので。でも、新年度を目前にしまして、改めて「宜しくお願いします」のご挨拶にマカリコシた次第です。此方でもどうか話相手になってやってくださいませ。
それにしても、某掲示板、卑しくもより一層“卑しき徒”であるワタクシ、ただただ、静観することしか出来ません。
では、また参ります。
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'50年代まではまだまだ正字體で新刊される圖書が少なくありませんでした。印刷所としては新字體を一揃へ新鑄するよりは從來の活字を利用した方が經濟だったからです。しかしディラック『量子力學』が舊字だといふのは古い版でせう。理系の書物は新版に就くべきではありませんか。
岩波文庫の復刊は創刊60年を記念して1987年に始まりました。以來、毎年春秋二回のリクエスト復刊が恆例となり、角川文庫のリバイバル復刊や新潮文庫などの類似企劃も生れたのです。その頃買ったので想ひ出すのは假名垣魯文『西洋道中膝栗毛』、曲亭馬琴『胡蝶物語』、辰野隆選『リイルアダン短篇集』、ヘッケル『生命の不可思議』、といった所です。
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どうもありがとうございました。ふたたび夢幻です。
実を言うと始めて手に取った旧字体の書が
岩波のディラックの量子力学で新かなであるものの、
旧字でした。いまはダンテの神曲の煉獄編を読んでおります。
電車の中だったもので黨の字には苦労させられました。
岩波文庫はどうも、絶版が多くて困りますね。復刊というと1994年のですか?
新生が手に入らなかったので図書館で借りて読みました。
ダンテには変な性癖があるに違いないと思いました。
少なくとも、18歳で死んだ恋人でもない女性を思いつづけているのは異常です。
それはそうと、旧漢字はある程度対応関係なのでおぼわるのですが、
やはり、まず、古文の助動詞を覚えなくてはと。
期末試験が未返却ですがひどい様なので。
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>長船さん
スタイルシートについては到底ここで説明し切れません。とりあへず「凡例」中にもリンクしてある概説『Academic HTML 4.0』(▼)でもご一讀されては如何でせう。
>夢幻さん
はじめまして。假名遣習得の爲には福田恆存『私の國語教室』第三章や『假名遣ちかみち』(國語問題協議會)(▼)等があり、昨年は府川充男・小池和夫『旧字旧かな入門』(柏書房)(▼)も出ました。私の場合、高校生の頃に岩波文庫の復刊が始まったのを(字書を引きつつ)幾つか讀むうちに習得しました。
しかし文學や碁將棋はさておき、物理學では一體どんな文獻の爲に正字歴史的假名遣を要するのですか。
>でんかさん
はじめまして。ご示教のInternet Archive Wayback Machine(▼)は存じてをりました。しかるに更新を怠たりたる儘それに觸れずじまひであった次第、ご配慮煩はしたのは恐縮でした。しかし「影印」されてない頁も依然多々あり、殘念なことです。
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書物史ネットの影印がありました。
http://web.archive.org/web/*/http://www.booksjapan.ab.psiweb.com/syomotu-net.html
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デジタル時代の組版術ですが
こちらに影印が残っているようです。
http://web.archive.org/web/*/http://www2.itjit.ne.jp/~hirata/index.html
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筑波大学附属駒場高校のものです。
古代日本における左右を調べておりここに行き当たりました。戦前の(といってよいのでしょうか)正しい(といってもJISの制限からでられず者や突に点がありませんが)文体を守っておられるに感心いたしました。
学校で漢詩を作るという授業があるので
旧漢字の記憶を心がけております。
実際に、物理学や文学そして碁将棋の一部
を読もうと思うとどうしても旧かな旧漢字が必要になります。森さんはどのように戦前の綴り方といったものを学習なされたのですか?
受験後には手をつけたい事のひとつでしたので。
悪文失礼いたしました。
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▽スタイルシートというのは、ハードでなくソフトなんですか?たぶんソフトのような気がするのですが、FreeでDLできる場所があれば教えてください。タブン市販されていないと思うので、ただ、わたしの使っているクラリスのHP作成ソフトは便利ですが、再見!!
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さう云はれましても、たぶんscatologyには山岸さんの方が通じてをられると思ふんですけど。
想ひつく所では――糞尿博士こと中村浩(1910〜80)の本は讀まれましたか。糞尿の食用リサイクルや人工雲古の製造など、雲古學者の世界的權威だったと聞きます。
調べたら『食欲と性欲』(室町書房、1954)、『糞尿博士世界を行く』(白鳳社、1962)、『糞尿博士・世界漫遊記』(現代教養文庫、1972)、『ふんにょう博士一代記』(論創社、1983)等が面白さうです。
これらは或いは既にご存知だったかもしれませんが、その場合、讀後感をお漏らしいただけると幸ひです。私も古本で探してみます。
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ご無沙汰でございます。
本格的に糞尿譚収集を開始しようと思っています。
金塚貞文の『人口身体論』で引用される大森荘蔵の言葉、
「人間は糞の鋳型にすぎない」
これ、本当にイメージ喚起的な言葉だと思いません?(汗)
何か大便小便系の書誌的情報ございましたら教えて下さいな。
コメント:
えりこさん、はじめまして。
あいにく古書渉獵は專ら活版印刷以降の邦文文獻――それだけでも奧が深すぎる位ですから――を對象とし、和本・漢籍(近世以前の)や洋書に就ては禁慾してゐます。
否、自制する迄もない、正直そこまで手を擴げられる程の
ところで、空襲は兎も角、「焚書」を經驗した都市なんてごく稀では? ナチスの焚書ぐらゐしか想ひ浮かびませんが。
コメント:
森さん、こんにちは。
古都ボストン在住のえりこです。洋物の古書にご興味はありますか?
こちらではかなり古い本を見かけます。焚書も空襲も経験していないだけあってさすが。
個人輸入受け賜ります。
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文化記号論的にいえば、タブーとは「世界を意味づける座標系のいわば原点」(山内昶『タブーの謎を解く』ちくま新書)だとか。さすれば、タブーの無きは……?
「馬を洗はば馬のたましひ冴ゆるまで人恋はば人あやむるこころ(塚本邦雄)」、読書に於いてもかくあるべし。
ツボにはまった書物だと、読書行為は「書物を喰らう」というよりも「書物に喰らわれる」心地がしますね。中島敦『文字禍』が思われます。
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私は中華料理を好みます。四足なら椅子と机以外、兩脚なら親以外は何でも食材にするといふあの精神を常々見習ひたく思ってをります。ですから食物禁忌を排しますし、讀書にもタブーは無いと信じます。ついでに申せば、反吐出しさうな位に貪り喰らった經驗のある健啖家でなくては到底グルメを語る資格無しといふのも我が信念です。種村季弘「一品大盛りの味」(『食物漫遊記』所收)參照。
> 幕内さん
それは『言語生活』舊號を無償で贈與下さるといふことですか。有り難き幸せ。貰へる物なら遠慮は致しません。でも置き場所があるかしらん……。どれくらゐの量なのでせう。昭和三十年代の完揃ひですか。そもそもその出所は。――詳細をメールででもご通知いただけませんか。
コメント:
へえ、おもしろい。
「正字正假名遣ひ」の諸類型、骨相学的に割り出してみるなんてどうでしょう?
「書物」を「食物」として読むならば、食物タブーを書物に読み換えてみる、なんてできませんかねえ。
ちなみに、「反芻」こと南方熊楠、とくれば、私は「両手に串だんご持って物書く荒俣宏(←出処:夏目房之介『新編学問 虎の巻』だったか?)」を想い浮かべました。
以上、感想まででした。
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森さん;
「一、教育環境によって 」というのが学校教育を指しているのだ
とするとびっくらです。
六,七は心理的に理解できるように思います。
ところで『言語生活』の昭和三〇年代のバックナムバァなんて
ご入り用じゃありませんか?
コメント:
「立ち入りすぎ」なんてとんでもない。固より、別に仔細らしいワケなどないのです。ただ私事を語ってもくだらないので、幾つか類型を擧げて一般化して論じられるやうに試みませう。
一、教育環境によって
正字歴史的假名遣ひで教育を受けたため。必ずしも戰前世代に限らないのは、武藤康史「舊字舊かな十三年――私の言語生活史」(『言語生活』435號、1988)の例に見る如し。
二、言語環境をなぞって
古典文學研究者、短歌俳句を嗜む者、古書渉獵の徒など、專ら讀む對象が舊字舊假名なので自づと會得してその表記法に感染してしまふ。
三、審美的見地から
文學青年に多し。その最右翼は、日夏耿之介だの塚本邦雄(『國語精粹記』)だのに熱を上げるお耽美なタイプで、新字新かなを醜惡視する。齋藤磯雄譯リラダンとかね。
四、權威主義的パーソナリティの所爲で
畫數の多い漢字の方が立派さうに見えるので(暴走族の宛字と大差無い)。人名漢字の異體字表記(はしご高とか)に拘泥するタイプに多し。三の派生として。
五、保守主義者として
國語の「傳統」を保守する結果、當然、表記も舊式に。政治的右派と重なり易い。(三と五を兼ねると三島由紀夫ですな)
六、正書法を求めて
森鴎外然り。「正しい日本語」にこだはる人に多い。言語の變化と多樣性を統一性のうちに押さへ込みたがるタイプ。
七、諧謔味を好んで
何となく舊假名遣ひをユーモラスに感じるので。『のらくろ』覆刻版の愛讀者とか原律子みたいなタイプ。
八、……他に?
私がこの表記法になったのは高校生の頃。ううん、どの類型に最も近かったかな……。
コメント:
何か召喚された気がしますので、駄文を。
南方熊楠の反吐については、食い過ぎや異物混入に対する自己防衛作用以上の「何か」を感ぜざるを得ませんね。反吐というものは、直前まで自分であって自分でなくなるという、浄と不浄のモチーフでもあります。南方には自覚的な反吐体験よりかなり先に、獰猛な読書体験があるわけですが、食事に例えて“吸収−排泄”の妙は、彼の知識の獲得活動そのものでしょう。食欲=知識欲(=性欲)。大森荘蔵が「人間は糞の鋳型に過ぎない」と言ったとか・・・?。我が南方なら「人間は反吐の鋳型」と言ったかも。
青空球児・好児なら、ゲロゲーロ♪、って感じで失礼ヲバ。
コメント:
森さん;
「ヤプー」は宛字が豊富なのでしたっけ?あまり記憶に残って
ないんですが、きっと性的なことにばかり気を取られてしまって
いたんでしょう。
それにしても森さんの言葉にたいする入魂ぶりには
改めて驚倒します。宛字の自家用字書を作成されているとは・・・
自分は言葉を愛していると思っていたのですが、自分が
言葉をどのように愛しているのか分からなくなっています。
今の困惑を契機に、私も徹底的な者になりたく。
ところで森さんが正字正假名を採用されたのはどのような
経緯によるものですか?立ち入りすぎでなければお聞かせ下さい。
コメント:
> 幕内さん
正字ばかりでなく「宛字の面白さ」もといふことであれば、私は現代言語セミナーの『遊字典』(角川文庫、1986.8)を愛用してゐます。本を讀んでゐて目に止まった宛字があるとこの餘白に書き込んで、簡易自家用字書作成に勵んでゐます。だもので、宛字の多い本を讀む時は大變でした(『家畜人ヤプー』とか)。
メアリ・カラザース『記憶術と書物――中世ヨーロッパの情報文化』(別宮貞徳監譯、工作舎、1997.10)をめくってゐたら、第五章「記憶と読書の倫理」に「消化瞑想活動としての読書」といふ節がありました。「食事中に朗読をする修道院の習慣は、食物を食べるように書物を食べるという隠喩を文字通りに解釈した明確な例である」とか。また「反芻」もしばしば讀書の隱喩になったさうで、唐突ながら南方熊楠を想起しました。
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森さん;
正字正假名に関心をもったといいきるのには少し気が引けますが、
例えば岩波の漱石や鴎外の全集を読むとき仮名遣いや正字・宛字
の面白さに惹かれてついついノートに拾い出したり、梶井や中原中也、
宮沢賢治など敬愛する作家の作品を鑑賞するときには正字、少なくとも
正假名でなければ頁を開きたくないとも思うのです。
今回気づかされたことですが、自分の正假名の読み方には間違いが
ありました。(例 「れあ」を「りゃあ」でなく「れあ」とママで
読んでいました。)つまり、面白いと思ってはいてもその正字正假名
の論理的の価値については無関心であり、学習もしてこなかった訳で
あります。
正字正仮名については勉強して読み書きできるようになれたらいい
な、と今思っています。それは森さんのように駆使される若人がいる
ことに強く刺激されての思いでもあります。
正字を体得すれば漢字交じりのハングル、台湾繁体字国語、
香港広東語などにも捨て目が利くのではないかとも期待してい
ます。大げさかもしれませんが、東アジア文化の基盤としての正字を、
知らずにいて良いのか?という自問が自分に形成されたのかも知れま
せん。
コメント:
> 幕内さん
抑もどういったことでこの方面に興味を持たれたのでせう。何かご專門と關はってですか。ご關心の一端を開陳いただけると幸ひです。
假名遣ひは一見難しいやうですが、いったん原理を呑み込めば習得でき、その氣さへあれば正しく書けるやうになります。先にご覽の通り網路上にも各種ガイダンスがあるとはいへいづれ一長一短、私見では「正字正假名の世界」への案内書としては福田恆存『私の國語教室』(中公文庫品切、福田恆存全集ほか所收)が最もお薦めです。
あと、そちらの環境が判れば、正字正假名表記のためのツールも推獎できるのですが。
> むらいさん
カネッティの小説『眩暈』にも、書物を喰ふ人間の形象(イメージ)が出てきましたっけ。よくある、辭書の暗記した頁を食べてゆく話もこの系譜でせう。『薔薇の名前』など「書物の書物」は、ウロボロスみたいな自食症候群(ジャック・ブーヴレス)とも言へるわけです。食物と書物との隱喩關係、展望すると面白いかもしれません。
なほ、ただいまパソコンの故障もあって、更新が滯ってをりますことをお詫びします。
コメント:
森さん;
御指弾の通り、自分の仮名遣いは間違いだらけであろう
と思います。書くときに悩みながら、結局適当に選んでいますので。
全く気づかない間違いも多いのかも知れません。
全く、お恥ずかしい限りです。
私は正字正假名仕樣に拘る必要はないのですが、非常に強く関心を
もちました。正字正假名の世界から色々見えてくるものがあるんじゃ
ないかと思うのです。
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あれあれさ。妙な書き込み(?)をしでかしてしまいました。ちょいとマシンの調子がよろしくなくって。失礼をば。
こちらの「書庫」、興味ぶかく覗き見しております。
なかでも、おはなしのつづきが望まれるのは「書物といふトポス」(http://
〜biblio/librotopos.htm)。読みたい…(←催促?)。どのような書物へと編まれていくのやら、楽しみです。
ところで。コンテクストからズレる発言となるかもしれませんが、「書物=人間」から『薔薇の名前』に登場する盲目の文書館長を連想してしまいます。毒を塗った書物を笑い喰らう最期…。書物を食べるから書物でできてる、なんてね。
コメント:
> 幕内さん
ワープロソフトは名の知れた一太郎やWordでも正假名對應(正字の方はフォントが無いとJIS收録文字のみ)にできますが?
しかし今まで拜見した所、失禮乍ら、ご文章には假名遣ひの基本的誤りが尠くありません。別段小生の如く正書法に拘泥する氣はなく、ただ舊假名風の雰圍氣(原律子のマンガみたいな?)を釀し出したいといふだけでしたら、現状の儘で、特に正假名辭書を導入するにも及ぶまいと存じます。
> むらいさん
おや、どうしました? 書き込みできない不具合でも?
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森さん;
正字正假名仕樣にする方法のことですが、わかッたのは
インストールするのが大変さうだといふことです。小生は
業務に支障を来すのを恐るるので、無闇に冒険してpcを
取り返しのつかない状態にするわけにはいかず、さういう
者が在る、といふ認識の成立をもって立ち止まッて居ります。
聞いたことのなひやうなワープロの名前などをみて、
昔泰国にて読めなひ泰文字の氾濫に恐慌を来したときのソレに
ソックリな竦みを覚へました。
しかし貴HPを問題なく閲覧出来るといふことは、小生の端末にも
正字正假名フォント?が格納されているのでせうね。しかし
ワープロで旧字は浮かんでこなひのです。
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カスタム・ナイフは魅力的なものです。鈍い私と雖も惹きつけられます。だから、譬喩には同感致しますが、しかし當方の場合、文章修業が足りない所為か、たとひ文語體を使っても一向に美麗ならずまた切れ味快ならず、ですからねえ。「錆びたナイフ」ってとこですか。小生元來漢文を好みますが、その訓詁考證の學風に私淑するを專らとし、漢詩はサッパリ解せず、まして美文を草する柄ではありませぬ。
ところで、初めお尋ねのパソコンを正字正假名仕樣にする方法のこと。リンク先からお判りになりましたか。
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我が朋友に西洋小刀制作を愉しむもの有り、然れども性善良にして
人を傷つくるを目的とせず、ただ其の美を鑑賞するのみ。
是れ、現代に於ける文語に似るか。
その切味快とし、眼に美麗なるも
実用的の存在に非ず。
小生、もとより貴君の同意を求めず、ただ
心に浮かび来し比喩を開陳する。
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豈にそれ明治時代に限らん乎、範を漢文訓讀體に取り候は文字渡來致候より續く文語の傳統かと存居候。山城むつみ「訓読について」(『批評空間』第I期11號、1993.10)を想到被致度存候。加へて山本夏彦『完本 文語文』(文藝春秋、2000.5)は如何、文庫入りする迄は購入致間敷存候ひて小生未だ讀み不申候得共、參考に讀後感を伺度存候。
……てな感じで、このサイトにもいづれ『古今和歌集』に倣って眞名序(漢文)・假名序でも設けませうか。尤も、紀貫之みたいに自序して陳ぶる程の抱負がありゃしませんね。かと云って、煽動・獨白・通告ってのも今の所やる氣になれませんし。
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日本語の時代変遷を鑑みるに、何時の文章を文語の
手本とするかに問題の一つがなかりしや。明治期の文語は
漢文読下風を範とせしものか。御教示を乞ふ。
愚考するに、文語の現代的の用法として煽動などあるか。
さらに、返答を期待せぬ言説、例へば独白・通告などにも良からん。
正仮名使用の網上の広がりに、衝撃を覚えり。
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> 幕内さん
文語は專ら手筆による私用文書にて用ゐれり。但しウェブ上にても文語に相應しき内容ならば文語にて記さむこともあるべし。文語を以て記すべき文、如何なるものありや。御示唆を得て作成せむか。
正字正假名に就きては「凡例 > 表記」(▼)の下線せる「正字正假名遣ひ」の文字をクリックされよ、關聯リンク集に至るべし。なほ不明とあらば更に詳説せむ。
> 山岸さん
「書目一覽」(▼)は「當【書庫】にて參照せる文獻を一覽にする」とある通り。本でいへば卷末の參考文獻目録に當り、よって參照してゐない文獻は擧げてゐません。備考欄のアンカーから參照箇所にゆけます。但し二三、參照を明示せざる文獻あり、それらはいづれ作成する頁で取り上げる豫定。「書物・言語・言葉をめぐる書物」が中心なのは特段意圖する所に非ず、編者の嗜好を自然と反映した迄であります。フィクションの類は近頃ご無沙汰なのですが、當【書庫】の文書で參照(言及)すればむろん書目に加へます。
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書目一覧の掲載基準のようなものはあるのでしょうか?
「書物・言語・言葉をめぐる書物」一覧かと想像しておりますが、
小説や戯曲・戯作などは対象にしていくのでしょうか?
例えば
高田宏『言葉の海へ』
曽野綾子『海嶺』
筒井康隆『残像に口紅を』
ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』
シェイクスピア『テンペスト』
レイモン・ジャン『読書する女』
などなどなどなど。
コメント:
旧仮名遣ひのHPに接し、頼もしく思ひました。
実に全く、愉快ぢゃないですか!
出来れば旧かなフォントの使い方をお教へ願ひたいものです。
ところで貴兄は文語は使はれないのでせうか。
コメント:
>山岸さん
稽古見學、ね。本當は樂屋を見せるのは素人藝もいいところなんですが、まあ實際すべてにおいてアマチュアなんですから仕方ありません。
といふか、稽古ばかりで永遠に本番の幕が揚がらない可能性もあります。林達夫が『思想のドラマトゥルギー』冒頭で自稱してゐましたっけ――「一生舞台稽古で精力と時間とを使い果たした男」。それでも宜しければ、稽古に註文つけて下さると幸ひです。
コメント:
いやはや、管理人さんのご好意にて、相撲で言うところの
稽古見学の恩恵に預かりました。古書を開く時のツウンと
した芳香まで感じられそうなコンテンツ作成を目指してく
ださい。と、プレッシャーかけたりして。m(_ _)m 。
このページが、気骨あるアルシーヴとなるよう、
陰ながら応援致します。