▲『未來のイヴ』を讀む(つづき)
〔承前〕
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しかし、機械とは何か。古典的定義では、それは質量ある物體を組み立てたものだ。例へばフリッツ・ラング監督『メトロポリス』の女ロボット・マリアは、全身甲冑状の銀板で覆はれ、金屬そのものの質感をむき出しにすることにより、機械のイメージを象徴した(ほぼ『スター・ウォーズ』のC3POに似てゐる)。現在『未來のイヴ』の插畫として知られるジャック・ノエルの圖(一九五七)もその線に近い。だがそれは未完成體、骨格である。『メトロポリス』でも、人型機械は肉附け作業後に完全な女性の姿を具へた。ハダリーも亦、アリシアといふ原型を受肉することで甫めて生きた存在となつたのだ。この完成形においては、もはや機械の特性と謂はれるぎこちなさ等はすつかり拂拭される。とすれば、それは古典的な狹義の機械――力學的構成物――ではない。
ではここで機械とは何か。西垣通の定義によれば、機械とは「人間の形式化への希求を具現化したもの」である(『デジタル・ナルシス』)。まさしく『未來のイヴ』はそれだ。理想とは、完全無缺な人間の形式を機械に具現化した代物だつた。西垣通によると、エレクトロニクスの發達した現代では、機械の本質が「力学的な動作」ではなく「定められた動作」にあることが明らかになつた。例へば蒸氣機關の類と、今世紀の情報機械との差だ。つまり「設計図という抽象的世界のなかで記述された動作を形式的に遂行するのが機械だ、ということになっ」た。機械は、質量より形式と重ね合はせられる次第だ。『未來のイヴ』の場合、前世紀末の作品でありながら、リラダンの觀念性ゆゑに、この現代に相應しい形式としての機械になつてゐる。正に未來の、來るべき機械だ。
だが氣を附けよう。機械は純粹な形式とイコールでない。西垣通が注意する通り、「完璧な〈形式〉は地上に存在しない。我々は〈機械〉によってそこへ向かうのだ」。即ち、機械は形式=設計圖と我々人間の身體とを結ぶ中間項だと云ふ。設計圖は目標であり、それを具現化した個々の機械そのものは常に誤差が出る。機械にだつて個性はあるのだ。すると、機械とは兩義的存在である。ちゃうど言語のやうに、抽象的・普遍的な觀念を示しつつ、具體的・個別的な事物を指してゐる。この兩義性をもつ限り、機械主義とは二項對立の一方を却ける主義ではない筈。つまり機械に對する人間性、精神、生命、感情等を切り棄てるのでなく、それらの特異性をどこまで一般的觀念‐形相のうちにすくひ上げられるかが課題なのだ。我々は機械といふ個物(=メカノ?)によつてそれをぎりぎりまで現はさうとする。だから機械において、冷徹な形式化の論理は、逆説的だが、情熱的なロマンティシズムの欲望に結びついてゐる。かういふ兩義性が、所謂機械(但し形式としての)と人間(但し理知的でない)、雙方へのイロニーとなるのだ。『未來のイヴ』を、この兩義的な「欲望する機械」と名づけても可だらう。
結局、嚴密に言つて「機械」とは何か? 質量と形相の絡み合ひ、これをスコラ哲學的に「概念」と呼ぶなら、「機械といふ概念」の本質は何なのか。從來の概念定義は大部分が機械の外形的特性の記述にとどまつてゐたから、その内包たる「機械性」を定義し直す必要がある。そのやうな試みとして、西垣通に加へて、丹生谷貴志「エクス・マキナ」が參考になると思ふ。丹生谷はまづ澁澤龍彦「悪魔の創造」からの引用を掲げてゐた。『思考の紋章学』に收められたこのエッセーは、澁澤の人形愛論考の中でも『未來のイヴ』を最もよく論じたものだつた。と言つても、專一に論じるでもなく斷片的に取上げるのみ、丹生谷の引用したのも別の件りなのだが。
〔……〕伝説によると、十三世紀最大のスコラ哲学者として知られるアルベルトゥス・マグヌスは、木と蝋と銅でできた一個の人造人間を造り出すことに成功した。人造人間はアルベルトゥスの召使として、まめまめしく立ち働いていた。或るとき、ドイツのケルンにあった哲学者の邸に、彼の弟子のトマス・アクィナスが訪ねてきた。トマスが門をたたくと、人造人間が出てきて、うやうやしくドアをあけ、何かわけの分らぬことを喋り出した。トマスは恐怖に駆られて、思わず、この人造人間をぶちこわしてしまった〔……〕。
――澁澤龍彦「悪魔の創造」『思考の紋章学』
右を寓話解釋して、澁澤は「人造人間造出の野望に伴う宿命的な不吉の匂い」を指摘する。造物主のみに許された御業を簒奪し、人の子の分際で父なる神の創造の祕密を盜む如き惡魔的所行は、結句「ぶちこわし」に歸する、といふわけだ。澁澤ならずとも誰もが思ひつく位、當り前の解釋だらう。實際『フランケンシュタイン』も「砂男」も『ゴーレム』も『メトロポリス』も『R・U・R』も、みな人造人間が悲劇を招いてしまふ。勿論『未來のイヴ』も。拔かりなく典型に沿つて、ハダリーが災厄のため海の底に沒する結末を迎へる。嗟乎これも神罰なるや! だが、このいかにも廣く行き渡つた觀念枠組に、丹生谷貴志は異論を立てた。トマスの激情が、神を恐れる敬虔ゆゑでなく、機械そのものの現前に脅かされた所爲だとしたら? ……トマス・アクィナスにおいて、とはつまり、西歐の思想體系において、精神/肉體の二元論が基本構圖だ。むろん神に屬する精神が上位に立つ。ここでは、機械とは精神なき肉體=質料であり、精神といふ主人が統御する奴隸=道具としてある限りでのみ許し得るものでしかない。アルベルトゥスは己れの機械人形が「召使」=道具だと知る故に脅えを感じなかつた。しかしトマスがそこに見たのは、「召使」としての機械ではなく、文字通り自動人形、つまり「精神によってではなく全く別の意志、機械自身の意志、言わば自然の自己組織化に於いて動く、信じ難い何ものかだったのである」。言ふなれば、それはもはや道具ではなく「それは「機械」、本質的な意味での「機械」として出現したのである」……(丹生谷貴志「エクス・マキナ」)。
ここで丹生谷の「機械」定義が始まる。……機械の定義は、例へば「人力を用ゐるものは道具で、人力以外の動力源をもつものが機械」といふ素朴な定義から始まつて現在に至る迄、最終的に道具へと還元される形で行はれて來た。それ故「機械」と「道具」とを分別することが先決だ。まづ「道具」とは何か。道具は、その上位・外部に主體としての使用者をもち、その操作主の意志・意圖を實現するための媒介物である。それが自動裝置を有してゐようと、外部の使用者の意圖を前提とする限り他動的だから、「道具」なのだ。では、「機械」とは? 論理的には單純、右の道具論から主‐奴の辯證法を差し引けばよい。使用者・制作者のゐない道具だ。だが一體、決して造り出されたことがない機械が存在した例があらうか。抑も世界は主なる神の創造したものだとするなら、全ては道具化されてゐる。神ですら、この世界に實在した途端に道具論的サイクルに卷き込まれ、主‐奴の辯證法を作動させてしまふ。恐らく「機械」は、常に道具としてしか成立し得なかつた。道具でない機械は未だ存在してゐない。と云つて、機械は道具の進化形態でもない。それは道具性に於て隱蔽されてゐる何ものか、なのだ。もし「機械」が機械性そのものとして現はれ出ようとすると、トマスみたいな「機械打ち壞し」によつて現象界から消滅させられるのが常だ。來るべき機械論は、この主體=精神による道具化=奴隸化から自由にならねばならない。それは「人間性」を取り戻せと叫ぶロマン主義的反撃とは違ひ、人間性に隱れすむ「意識」をこそ除き去り、道具論=奴隸論の動因として、完全なる機械化へ向かふ鬪爭となる。この道具性の倒錯に於てのみ機械は實存するのである。……云々。
以上、機械といふ概念が展開する論理を逐つて來た。迂回はもうよい。あとは『未來のイヴ』に即して展開するだけだ。
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『未來のイヴ』は人間‐機械をめぐつて展開された觀念小説である。この機械は、エディソンの説くヘーゲル式精神現象學、主‐奴の辯證法の産物である限りにて、未だなほ道具性にとどまつてゐる。まづさう見るのが順當な讀みだらう。
ところが結末が問題だ。機械美女ハダリーの完成でエワルド卿が絶望を救はれたのも束の間、英國へ歸る汽船が原因不明の火災から沈沒、同船してゐたアリシア孃もハダリーも、水底に葬られてしまふ。エディソンは、辛くも生存者となつたエワルドから屆いた電報を讀む……「ハダリーのことのみ唯無念なり。ただこの幻の喪に服さむ――さらば!」……。成程、見事な幕切だ。しかし何故に機械に死が訪れたのか。澁澤龍彦なら惡魔的創造の宿命と言ふだらう。A・W・レットや齋藤磯雄等の研究者も同樣の見解だ。被造物に過ぎぬ人間が造物主たらんとした報ひと見るのは、一理ある讀みではある。が、道具論的世界に於る主‐奴の辯證法とは、元來奴隸が主人に成り代はる運動なのだから、ヘーゲルの名の下にむしろ正當化され得る筈。ここはやはり、丹生谷貴志の深讀みを『未來のイヴ』にも適用しよう。丹生谷の機械論によると、機械は、道具性を突き拔けた機械そのものとして現前する度、トマス・アクィナスにやられた如く打ち壞されて來た。だとしたら、ここで滅ぼされた女性機械も、丹生谷の云ふ、トマスが見た「精神なき身體」ではなかつたか。つまり外部に如何なる操作主も有さない文字通りの自動人形。エディソンやエワルドの主觀が與へた精神ではなくて機械それ自體の意志を具へた何ものか――それがハダリーに於て現はれ來つたのではあるまいか。
どうやら『未來のイヴ』は、丹生谷式定義に照らしてさへ、道具性にはとどまらぬ「機械」として、認定し得るのだ。ヴィリエ・ド・リラダン家の家訓“Va Oultre”は「前進また前進」とも譯される。何事も極端なまで徹底する性分ゆゑ、機械といふ觀念の論理を紙上に展開する以上、その「機械性」を發揮させずには濟まなかつたのだらう。しかしながら、機械たらんとすることが自律的意志を持つことになるとは、逆説にしても度が過ぎてゐまいか。だが、さうなのだ。ハダリーは、徹底した機械でありながら(であるが故に)自ら意識を具へるに至つたのだ。しかもそれは最早、エディソンが説いた如き精神現象學的な見かけ上の意識なのではない。エディソンが豫め入力した設定の再現でもなく、エワルドの主觀が投映された幻想でもない。ハダリー自體が意識を生じたのだ。謂はば「機械の中の幽靈」の發現。どういふことか。――これを讀み出したのが、南條竹則『虚空の花』であつた(やつと本題に迫れさうだ)。
南條竹則『虚空の花』は、『未來のイヴ』を讀み進めた上で、「この作品の筋書の上で一番肝腎な“ある問題”」に注意を喚起する。「それがわからなくては、この小説を読んだことにはならない」し、「丁寧に読めば誰だって気がつくはずの問題なんだが」、なぜか從來の『未來のイヴ』論では不思議にも觸れられて來なかつた劇的核心。それは、完成したハダリーがエワルドと對面して語る場面より讀み取られる。語る者は、即ち、エディソンが造らうと意圖した言語機械ではなく、ハダリーの機體のうちに宿つた一個の自立した魂なのだつた。エワルドにあなたは誰かと問はれた彼女は、語つて出自を明かす。それによると彼女は、氣高き青年を絶望より救ふべくつかはされた天来の使者とも言ふべき存在で、青年の望む輝かしい肉體を身に纏ふことを諾ひ、青年に訴へるに最も相應しかるべき姿を取つて可感世界に影を映してゐるのだといふ。謂はば「永遠に女性なるもの」(『ファウスト』)のイデアが、理想といふ完全なる肉體を媒質にして現象界に顯現することを得た氣配。このエディソン製の空虚な器は、餘りにも完璧な形體を具へ切つて、後はもはや魂だけしか缺けてゐなかつた爲に、缺を補ふべくそこにしかるべき生命を呼び込んでしまつた。かくして本來この世に存在し得ぬ筈のイデア界の住人が地上に生を享けた。さうして、ひとたび青年の心裡にその存在を刻印してしまへば、理想としての高貴さを保つため物質界に泥まぬうちに身を消滅させ、再び純粹觀念として存在すべきことになる。……これが、『未來のイヴ』に見る機械性そのものとしての自發意志の正體だ。
かうなるともう一種の奇蹟だ。物語から現實味は飛び去り、科學は神祕主義に席を讓る。だから同じく被造物が自主性を持つやうになる筋でも、科學小説に於るチャペック以來のロボットの叛逆テーマとはわけが違ふ。最早エディソン氏説くヘーゲルもどきの唯我的な觀念論の出る幕ではない。絶對の現前をまへに、奇蹟を起こす存在への信仰が問はれるだらう。そもそもリラダンは、バルベー・ドールヴィリ、ユイスマンス、レオン・ブロワ等と共に、過激カトリック派といふ名で括られる程。この十字軍士の裔(但し自稱)は、師ボードレールと同じく熱烈な信仰の徒だつた、といふのが齋藤磯雄の強調する點だ。齋藤の論に從ふと、リラダン愛用のヘーゲル思想は、敵とする近代俗衆の唯物論的な風潮に反撃する爲に觀念論的哲學を用ゐたにすぎない。同じく科學も、彼にとつては科學萬能主義を斬るために敵の武器でお返ししただけのこと。神祕主義すら、神に近づく爲の踏臺でしかない。全て信仰といふ第一目的を得るべき手段なるのみ、それ達成すれば捨て去るに如かず、決して本心より支持せるものに非ず、と云ふのだ。さういふことなら、我ら不信心なる現代讀者には口を插む餘地など無くなつてしまふ。蓋し、他人の信仰は口出し無用の域だらう。曰く「世の中には言明されるを欲しない思想がある」(ポオ)とやら。
けれども思つても見よ。齋藤磯雄も注意した通り、リラダンを讀む者は、しばしば根本にある信仰の精神を見逃し、ヘーゲル哲學、時代批判の反語、神祕主義等の題目に執はれた讀みをしがちなのだ。レミ・ド・グールモンに至つては、ヴィリエに神への信仰さへも揶揄する語を見出した上、彼は信仰者となることで「知的陶酔のあらゆる形を」味はつたのだと云ふ位(『仮面の書』)。それに、ハダリーといふ無機物に天上の魂が宿る段は信仰から發想したのだらうが、南條竹則も書いてゐたやうに、これまた讀む者にはなぜか看過されがちの所だ。のみならずこの件りは、『未來のイヴ』に於てサブ・ストーリーを成す神祕主義的な女性ソワナの物語と深く關はるのだが、ソワナの話も亦、讀者が『未來のイヴ』を讀む際には無視されるのが常だつた。南條『虚空の花』にてすら、危ふく要約から拔け落ちる所だつたのだ。どういふことか。恐らく、これらの箇所は讀むに堪へなかつたのだ。他の明快に徹した部分に較べ、理解を阻むが如き象徴主義的記述が、讀者を退けたのだ。そこでは最早リラダンはわれらが讀むあのリラダンではないのだ。從つてこれらに就ては、「言明されるを欲しない思想」と認めよう。たとひ「それがわからなくては、この小説を讀んだことにはならない」といふ一番の見所だとしても、ここに讀み取るべきことはない。
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以上をもつて、どうやら『未來のイヴ』に讀むべきことは讀み出しておけたと思ふ。あなたは、私が『未來のイヴ』で一番肝心な本題に就て讀解せずに濟ませたことに不滿かも知れない。第一『未來のイヴ』を讀むと言ひながら、作品そのものはそつちのけで他の名前ばかり讀み上げてゐるぢやないか、それでは讀んだことにはならない、と。――しかし、讀むとは何か。
ヨムとは、本居宣長によれば「本さだまりてある辭を口にまねびて言ひつらぬる」こと、更に柳田國男によれば「中身」よりも「外形」において「誤りの無いことを確かめるに」目的があつた(兵藤裕己『語り物序説』)。活字化された近代に於る讀書では、「本さだまりてある辭」が同時に複數出現してゐる。ひとたび書物の出版されるや、たとひ自分一人以外誰も讀む者がゐない書物であれ、原理的には、常に既に複數の讀者たちと聲を合はせて讀まれるのだ。その時書物は、喩へるなら、法廷で異口同音の證言者に認められた事實を述べてゐるに等しい。つまり、或る書物にただ獨り向かつてそこに今迄に言はれなかつた事が述べてあるのを見出せるやうな時でも、讀まれた瞬間、それは常に誰かと同じ辭句の唱和であり、既にどこかで豫め定めてある臺本をなぞるものでしかない。讀むとは、既知の再確認なのだ。又、著作を己れの偶然的な個人性に近づけようとするそこらの讀者の行ふ讀書は、印刷革命以後の時代の書物を讀むことではなく、二人だけが見る直筆の戀文を讀む如き態度だ。讀むと言ふ以上、むしろ讀者は「バベルの圖書館」の一員たらねばならない。
〔……〕ボルヘスの考え方にならって、文学の総体はすでに潜勢として書かれてしまっているのであり、現実の一冊一冊の書物とは、すでに存在している文学の総体のごく一部分が、著者という小さな窓口を通過して、多少の変形と夾雑物とをともないながら、書きうつされていったものなのだ、と考えるべきなのだ。そして、書物を讀むということは、そうやって書きうつされた個々の書物のなかにある小さな粒のようなきらめきを、すこしずつ積分していって、ついにははじめに存在していた総体に到る、という巨大な歴史過程の別名なのではないだろうか。
――清水徹『書物としての都市 都市としての書物』より
マラルメの來るべき〈書物〉はここに讀まれる。『未來のイヴ』も亦、そのやうな〈書物〉の斷章として讀むべき一品だつた。
だから私は、『未來のイヴ』を讀んだ。その名を含んだ樣々な書かれたものを積分して、その名の下に總體として讀まれるべき書物の觀念に想ひ到り、一寸そこから斷章を書き寫してみたにすぎない。ただ既に讀まれて來たものをたどつて私も讀んだだけ(否、もはや「私」といふ「人間」はゐないのである)。謂はば機械的に名を綴り合せた迄。さうでなくて一體何人が『未來のイヴ』を讀むと言ふのか。今やほぼ豫定の形式は完うした。ここまで讀まれたあなたは、既に『未來のイヴ』を讀んだも同然だ。そこから先はもう自動的に導き出される筈。あとは各自が本題を追求するがよい。
例へば吉田健一「山運び」(『怪奇な話』)。この短篇を共に讀むことで、本稿を結んでみよう。主人公の魔法使ひがアクセルと命名される點でも、リラダンとは縁のある話だ。魔法使ひは、殆ど同じ印象を與へる瓜二つの僧院を持つ島を英佛それぞれに發見し、密かにこれを入れ換へることを思ひ立つ。むろん大魔術になる。魔力向上の練習を積み、綿密な計畫を立て、島の人々に氣づかれぬやう元に戻す所まで考へ、遂に、出來ると信じるに至つた。「従ってアクセルは既にそのことをすませたのだったとも言える」。「既に島が入れ換って再び入れ換ったことを知ると後はただそれをすることだけが残っていた」。「アクセルが選んだ或る晩それがその通りに行われた」。「アクセルは一つのことをなし遂げたのだという感じもしなくてそれがなし遂げられたのが既に大分前のことであるのももう解っていた」。……蓋し、「それは既に誰かが何かの目的があってすることでなくて或る時になって或る場所で起ることだった」のだ。この主體性なき自發性! 機械?! 因みに魔法使ひがそれを出來たのも、小惡魔の召使が主人の代りに魔力増進の藥採りをしてくれたからである。だから、この話から導く結論は左記の如し。
讀むことか、それは召使に任せておくがいい――!
もし、本稿を成すに方り私は『未來のイヴ』の本文を開き讀むことなく書いたと言つたら、あなたは、信じてくれるだらうか。
(了)
□名前について
- ロラン・バルト『新=批評的エッセー』みすず書房、一九七七
- 蓮實重彦「人の名前について」『反=日本語論』ちくま文庫
- 出口顯『名前のアルケオロジー』紀伊國屋書店、一九九五
- 金井美恵子「「私はその名前を、知らない」」『スタジオ・ボイス別冊'85 勉強堂』(株)流行通信
- 種村季弘「長い長い名前」『迷信博覧会』ちくま文庫
- 市村弘正『「名づけ」の精神史』みすず書房、一九八七
□ヴィリエ・ド・リラダンについて(含『未來のイヴ』)
- 『特輯ヴィリエ・ド・リラダン』、森開社『森』別冊、一九八二
- ステファヌ・マラルメ『ヴィリエ・ド・リラダン』岩田駿一訳、森開社、一九七七/『マラルメ全集Ⅱ』管野昭正訳、筑摩書房。
- 『リラダン=マラルメ往復書翰集』白鳥友彦訳、森開社、一九七五
- 『齋藤磯雄著作集 第Ⅰ卷』東京創元社、一九九一
- 『渡辺一夫著作集 7』筑摩書房、一九七一
- アーサー・シモンズ『象徴主義の文学運動』樋口覚訳、国文社、一九七八/前川祐一訳、冨山房百科文庫、一九九三
- ボルヘス編『バベルの図書館29 ヴィリエ・ド・リラダン 最後の宴の客』釜山健訳、国書刊行会、一九九二
- レミ・ド・グールモン『仮面の書』及川茂訳、フランス世紀末文学叢書15、国書刊行会、一九八四
- J・G・ハネカー『エゴイストたち』奢灞都館、一九七八
- アンドレ・ジイド『プレテクスト』 金星堂版全集12、高橋廣江譯、一九三四 /新潮社版全集13、河上徹太郎譯、一九五一
- 『澁澤龍彦文学館 8 世紀末の箱』「解説」筑摩書房、一九九二
- マルセル・シュネデール『フランス幻想文学史』クラテール叢書、国書刊行会、一九八七
- ジャン・ピエロ『デカダンスの想像力』白水社、一九八七
- 田中義廣「ヴィリエ・ド・リラダン――夢想の王国」、伯爵・神山宏編著『ヨオロッパの世紀末』JCA出版、一九八三
- 『ヴァレリー全集 7』「ヴィリエ・ド・リラダン」筑摩書房
- 南條竹則『虚空の花』筑摩書房、一九九五
- 鹿島茂「南條竹則『虚空の花』」『波』一九九五年四月號、新潮社
- 野村正人「南條竹則『虚空の花』」『図書新聞』九五年五月六日
- アルベール・ティボーデ『マラルメ論』沖積舎、一九九一
アルベール・チボオデ『ベルグソンの哲學』高橋廣江譯、三田文學出版部、一九四三
□人形について
□機械について
- 『夜想』17「特集 未来のイヴ」ペヨトル工房、一九八五
- 西垣通『デジタル・ナルシス――情報科学パイオニアたちの欲望』岩波書店、一九九一
- 西垣通ほか『現代哲学の冒険11 技術と遊び』岩波書店、一九九〇
- G・R・ホッケ『文学におけるマニエリスム――言語錬金術ならびに秘教的組み合わせ術 Ⅰ』種村季弘訳、現代思潮社、一九七一
- 丹生谷貴志「エクス・マキナ」『砂漠の小舟』筑摩書房、一九八七
- 杉田敦『メカノ――美学の機械、科学の機械』青弓社、一九九一
- ミッシェル・カルージュ『独身者の機械――未来のイヴ、さえも』高山宏・森永徹訳、ありな書房、一九九一
- トマス・ピンチョン「ラッダイトをやってもいいのか?」宮本陽一郎訳、『夜想』25「特集 ユートピア」一九八九年四月
□書物、讀書について
- モーリス・ブランショ『マラルメ論』粟津則雄・清水徹訳、筑摩叢書、一九七七
- 清水徹『書物の夢 夢の書物』筑摩書房、一九八四
- 清水徹『書物としての都市 都市としての書物』集英社、一九八二
- 兵藤裕己『語り物序説』「物語・語り物と本文――語りと読み」有精堂、一九八五
- 森田暁「翻訳紹介と読者――大正時代へ」『世界幻想文学大系33 十九世紀フランス幻想短篇集』「月報39」、国書刊行会
□etc.
- 『幻想文学』13「特集 フランス幻想文学必携」、一九八五年十二月
- 『幻想文学』44「特集 中国幻想文学必携」、一九九五年六月
- 辰野隆選『リイルアダン短篇集 上下』岩波文庫、一九五二
- リラダン『殘酷物語』齋藤磯雄譯、新潮文庫、一九五四
- 『集英社版世界の文学9 ボルヘス』篠田一士「解説」一九七八
- 石川淳『文學大概』中公文庫
- 吉田健一「山運び」『怪奇な話』中公文庫
- 蓮實重彦『物語批判序説』中公文庫