『『変態心理』と中村古峡――大正文化への新視角』(2001年1月刊)よりコラム全七篇中森洋介執筆分四篇を再録す。各篇末尾の署名MYは初出時のまま、執筆者の頭文字に據る。
發表時は横書き・新字新かな、轉載を機に表記は正字正假名遣に復し、總題を附す。
高橋新吉著『ダダ』が書評欄に載ったのは『變態心理』1924年9月號。同號の編輯後記が面白い。「一二ケ月前のこと。杉田〔直樹〕博士の紹介を持つた高橋新吉といふ人の來訪を受けた。さうして、君が發狂中の體驗を書いた原稿の閲讀を求められた」「之を生きた人間的證券として本社で發表しても差支へないと考へた。然し何分にも著者が性急で、「原稿を他人の家に置くのが不安でたまらない」とて、一兩日するともう直ぐ原稿を受取りに来て、充分に玩味してゐる間がなかつた。それで暫く忘れてゐると、もう此頃他の書肆から書物になつて出た」……。さう、日本初のダダイズム小説は『變態心理』から發表されてゐたかもしれなかったのだ。
逃がした魚は大きかった。ともあれ『變態心理』はダダイスト新吉のやうな文學讀者をも引き寄せる雜誌であったらしい。ただ、上述の新刊紹介欄では、文學的價値を評するよりも「精神病者の行動の記録としては興味深いよい資料である」と結んでゐるのだが。
なほ、その後高橋は「乞食夫婦」といふ一文を寄稿してゐる(1926年1月號)。全集未收録である。(MY)
1920年7〜8月號分載の「バルチモアの牢獄より」には「石田昇手記」とある。石田は長崎醫專教授として米國留學中に分裂病を發病、見學先の病院で同僚の醫師ウォルフを射殺し、刑務所に收監中であった。
石田は呉秀三門下の俊英で、その著『新撰精神病學』は本邦初のクレペリン體系に基づく教科書として版を重ねてゐた。文筆に長じ、
留學中の後任を齋藤茂吉に託して1917年末渡米、1年後に事件は起きた。被害妄想からくる犯行で精神異常であったのに、無期懲役刑となった。石田の手記からも窺へるが、當時の人種偏見がわざはひしたのかもしれない。1925年、病状惡化のためやうやく日本へ送還、松澤病院に入院したまま15年後に歿した。
晩年の石田に主治醫として接した秋元波留夫は、愛讀した『新撰精神病學』の著者が今や患者となった姿に胸を打たれ、のち評傳「悲運の精神医学者」(『迷彩の道標』所收、NOVA出版・1985)を書いた。(MY)
文壇諸家へのアンケート「私の變態心理」(11卷1〜3號)中、一番威勢のいい回答。「俺は、生れながらにして、變態心理者だ。だから、そんな事で、滅びては堪らないと思ふから、熱心に變態心理學を研究してゐるんだ」「で、讀者よ。本物の變態心理者を見たければ、見せてやるから北蒲田へやつて來い」。筆者は井東憲。この時まさに處女長篇『地獄の出來事』を出版、一躍新進の無産派作家として迎へられる前夜であった。
井東は本姓伊藤、號 白刀。初め大杉榮に親炙したアナキスト、のち評論『有島武郎の藝術と生涯』や梅原北明と連携した『變態人情史』『變態作家史』で知られる。一九二七年、詩人・
『變態心理』には計37篇も執筆、ほとんど本誌記者の感があった。誌面には他にも吉田金重・光成信男や中村還一など、後年のプロレタリア文學者が登場する。これも『變態心理』の多彩な一面であらう。
近年、地元靜岡で市原正惠らが井東憲研究會を發足してその顯彰に努め、著作目録も編まれてゐる。(MY)
「貴誌第一卷拝讀仕候。
明治末年に自宅天井裏を趣味山平凡寺と號してより、門前に集ふコレクトマニア達のサークル「
ちなみに、マンガ家・夏目房之介は孫に當る。同じく祖父でも漱石より平凡寺に親近感を持つと語ってゐたこの孫は、『夏目房之介の學問』で中村古峽を題材にしたことがある。思へば奇縁ではないか。(MY)