普請中(Under Reconstruction!)=*
読書空間の近代
方法としての柳田国男佐藤 健二=著 4-6判上製 328頁 本体価格:2427円(税 121円) 1987年11月刊 ISBN4-335-55035-9 C1036 解説 柳田国男、M.エンデ、書物の思想史を縦横に論じる
柳田国男の〈知〉は、どのように日本近代と対峙したかを、方法論としての特質を論じることによって明らかにする。
従来の「評伝」型の思想批判を離れ、M.フーコーの問題設定をもって柳田の〈近代〉を解読した歴史社会学者の知の冒険。
「読書空間」とは、書物を読むことで世界を知り、認識を深め、自己を変革していく、書物を中心とした読書と作者からできあがっている「知」の運動のシステム、=「近代の『知』の形態=構造」であると理解し、その典型的な体現者を柳田国男とする。ここでは、柳田の学問成果や思想というより、その「知」的活動の全体を支配し特徴づけていた「読書」の「方法」もしくは方法へと結晶化する以前の世界観の仕方としての「読書」がとりあげられる。さらに、こうした「読書」の拡張として柳田民俗学が形成されたし、書物の彼方に書物を書かない人びと、つまり「常民」を見いだし、この常民いいかえれば”もう一つの書物”の世界を読解するために、「旅」や「民俗調査法」という方法が生み出され、彼らを「読書空間」にいざなったというのである。柳田にとっての「常民」とは、自己の内省への契機をはらんだ未知の”書物”であるとともに、主体性をもった新しい読者でもあった。だからこそ、柳田は民俗学を郷土を研究する学であると説いたいう指摘は同時に現在の民俗学への厳しい批判ともなっている。
近代社会と読書とは密接な関係にある。「社会/個人」という図式自体がテクストなるものの存在を踏まえている。本書は柳田国男のテクストに対する姿勢を方法論的な準拠点としつつ、「近代読書空間」の在り方を問題にする。そこでは、柳田の方法意識を媒介に、テクストなるものの存在様態とそれを構成する諸契機が主題化される。さらに、近代の読書空間が身体感覚の重層的な変容を随伴しつつ歴史的・社会的に生み出されたものであることや、その発揮する拘束力がいかに広範にして強力なものであるかがいくつかの事例に即して語られる。
近代と柳田国男。両者の内実、評価をめぐる議論もさることながら、この両者の関係をどのように位置づけるかということは、今なお今日的な課題であるといえるだろう。歴史社会学において、近代国民国家の相対化が一つの大きなテーマ領域となりつつある昨今の学問状況にあって、柳田国男の一国民俗学・常民という構想は「日本人」をつくりだし、「下からの」ナショナリズムをつくりだしたという批判がなされる。
しかし、著者は柳田が民族という名で示そうとしたことをひとまずカッコに入れ、むしろ、柳田の学問構想の中に「問いの運動」としての方法を見いだし、これに注目する。
「方法としての柳田国男」というタイトル設定が意図することは、本書の目的は「柳田国男」を研究することではなく、「柳田国男」で"あるもの"をとらえるということである。その「あるもの」とは日本の近代であり、われわれの現在である。
では、日本の近代とは何かということになるが、著者はこの問いに対して「読書空間の近代」という問題設定を行う。著者はまず「近代」を認識の生産様式ととらえ、近代において人々の認識を生産するメディアの一つとして書物をとりあげ、それが人々の認識をどのように形成していったのかを考察する。その上で、書物と人々の認識の結節点にあるのが読書であり、読書という行為が「主体」を形成していったと指摘する。
そしてこの読書という行為によって自らをつくりあげていった者こそ柳田国男に他ならないとする。柳田の学問的方法にとって、書物というメディアがつくりあげた知の形式と読書という経験はまちがいなく本質的なものであり、柳田の「知る」という方法はあくまでも読書が核であった。このことは、柳田の著作の中にあらわれる「書物」批判:文書資料に依存することを批判し、文書以外のところに人びとの生活を記す資料を求めたということと決して矛盾しない。なぜなら、柳田の学問とは書物の拡大であり、書物を読むように世界を読むという、柳田の「知る」ことのへの姿勢こそが柳田の学問の核であったからである。
著者は、読書という近代の知の様式への注目と、柳田国男の方法論の核として読書を位置づけることによって、柳田が読書という近代の知の体系の中にありながら、知る主体/疑う主体、さらに採集者としての自己を形成していくという方法によって近代を意識化し、膨大な資料における遍歴の中で自らを発見するということと続けたと説く。いいかえれば、近代を、近代の知の様式の洗練と熟達によって意識化するということが「方法としての柳田国男」なのである。日本近代の学問が、その書物の知の拡大をもって構想した主体とは、「読者の批判力」によって像をむすぶ一つの力の場であり、日本近代の知の「認識運動」として「方法としての柳田国男」の可能性を継承したいということが、本書における著者の主張である。