ヴァルター・ベンヤミン曰く――
……大部分が引用から成る作品を書くこと、想像しうる限りの気違ひじみた
……
彼が終始一貫、自らの私的情熱を傾注したものは書籍収集だった。彼の内部では、著作家と収集家が見事といえるほど混然一体となっていて、こうした情熱が、どちらかといえば
ゲルショム・ショーレム「ヴァルター・ベンヤミン」好村富士彦訳
好村富士彦監訳[編]『ベンヤミンの肖像』西田書店/1984.5
[……]じつは、私自身も、『パサージュ論』は、ベンヤミンの特異な「愛蔵書のオークション・カタログ」だと確信しつつも、その直感を支えるべき根拠が見つからなかったのである。ところが、この論を書くために、久しぶりに『都市の肖像』に収録されている「蔵書の荷解きをする」という小文を読み返してみたところ、直感がやはり間違っていないことを知った。それどころか、この小文は、『パサージュ論』の前書きか後書きに据えてもいいほどに、『パサージュ論』成立の経緯を語っているのである。
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とりあえずは、その冒頭である。
私は蔵書の荷解きをしています。その通り、蔵書はまだ書棚にならんではおらず、秩序というかすかな倦怠感がそのまわりに漂ってもいません。また私は、親切な聽衆のみなさんの御臨席のもとに蔵書の閲兵式を行うためにその列の前を歩くこともできないのです。でもこんなことは御心配に及びません。お願いですからどうか私と一緒に、蓋を開けた木箱の雑然と置かれている部屋のなかへ、おがくずがいっぱい舞っている空気のなかへ、紙くずの散らかっている床へ、今まさに二年間の闇から白日のもとへ引出され、うず高く積まれた本の下へ、歩をお運び下さい。蔵書が真の蒐集家の心のなかに呼びさます気分、決して哀愁を帯びたものではなく、むしろ大いにはりつめた気分を、最初から私と分ち合っていただくために。と申しますのは、あなた方に向って話しておりますのはそのような蒐集家ですし、全体として見るならばもっぱら自分のことばかりお話しするからです。(藤川芳朗訳、晶文社)
一九三一年に書かれたこのエッセイは、もちろん三年後に着手される『パサージュ論』とはなんの関係もない。だが「二年間」を「六十年間」と変えれば、どの言葉も、どの文句も、すべて、アナロジーと考える必要さえないほどに、われわれを『パサージュ論』に誘うための見事なイントロとなっている。[……]
鹿島 茂『『パサージュ論』熟読玩味』 2「コレクトする子供」(青土社/1996.5)
私はいま蔵書の荷解きをするところです。そうなのです。私の蔵書は、つまり、まだ書棚に並んではいません。それらの書物は、秩序というものに付き物のあのかすかな倦怠には、まだ包まれていないのです。それにまた、私は、今日のこの話をお聴きくださっている心優しい方々の御臨席のもと、蔵書の閲兵式よろしく、書棚の列に沿って歩くこともできないわけです。ですから、こうしたことについて、皆さんはなんら懸念されるに及びません。私が皆さんにお願いしなければならないのは、蓋を開けた木箱が雑然と置かれているところへ私といっしょに歩を運んで戴きたいということ、木屑混じりの埃が充満した空気のなかへ、紙屑の散らかった床のうえへ、二年間の闇からたったいま再び昼の光のもとに引き出されて積み上げられた書物の山のふもとへと、歩を運んでいただきたいということなのです。そうすれば皆さんにも、それらの書物が真正なる蒐集家のうちに呼び醒ます気分というものを、それは哀調を帯びたものではまったくなくて、むしろ期待に張り詰めたものなのですが、その気分のいくらかなりとも、最初のところから分かちあっていただけようかと思うからです。と申しますのも、そもそもあなた方に向かって話しているのが、ほかならぬそのような蒐集家なのでありまして、話の全体からしましても、これから皆さんには蒐集家自身のことばかりお聞き願うからです。……
浅井健二郎譯「蔵書の荷解きをする 蒐集の話」
浅井健二郎編譯『ベンヤミン・コレクション2 エッセイの思想』(ちくま学芸文庫/1996.4)
私は藏書の荷解きをしてゐます。いかにも、書架にはまだ藏書は列んでゐないし、秩序といふ仄かな倦怠感があたりに漂ってもゐない。それで私は、親愛なる聽衆諸賢のご臨席のもと藏書の閲兵式よろしくその列の前を歩いて見せることもできないのです。けれども、こんなことはご心配には及びません。どうか私と一緒に、蓋の開いた木箱が雜然と置かれてゐる部屋の中へ、おが屑がいっぱい舞ってゐる空氣の中へ、紙屑の散らかってゐる床の上へ、今まさに二年間の闇から白日のもとに引き出され、うづ高く積まれた本の下へ、歩をお運び下さい。……
【書庫】 > 註 > ベンヤミン「藏書の荷解きをする」